石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

117 東京都板橋区の馬頭観音(4)ー高島平、赤塚、徳丸エリアー

2015-12-29 06:50:50 | 馬頭観音

こんなことがあろうとは、信じられない思い。

板橋、志村、常盤台エリアと馬頭観音巡りをしてきて、最後に高島平から赤塚、徳丸エリアに移ろうと資料をチェック。

なんと馬頭観音がないのです。

 庚申塔や地蔵、観音さまは他地域と同じほどあるのに、なぜか、馬頭観音だけ見当たらない。

蓮根と赤塚に1基ずつ、わずか2基しかありません。

他地域に比べ面積は広く、純農村地帯で、農馬の数も多かったはずなのに、不思議なことです。

◇蓮根馬頭観音堂(蓮根2-28)

堂々たるお堂。

馬頭観音をお祀りするお堂としては、都内最大、これを凌ぐお堂はないでしょう。

扉は施錠されていて、ガラス戸の桟ごしにしか拝めないが、像高137㎝の雄大な尊像は見て取れる。

ところどころ剥がれ、くずれてはいるが、原型は十分保っています。

造立元禄十一年(1698)は、板橋区最古の馬頭観音。

扉に馬頭観音の真言が掛かっている。

「おん あみりと どはん ばうん はった そわか」。

お堂の横の「馬頭観音縁起」からその一部を抜粋しておく。

当観音は通称『田の観音』といい、本尊は牛馬を保護するという馬頭観世音菩薩である。開基は、元禄十一年(1698)二月、貞閑大法師により現在地にまつられた。通称は、当時、この一帯が田園であったことによる。農作業の往復時、あるいは荷駄の運搬途次、牛馬を連れて参拝する往時の人々の姿が偲ばれる。
当時は、雨露を凌ぐお堂等などはなかったが、利生あらたかなる観世音菩薩として信真の人々が十八日の縁日には村々より牛馬の手綱を握りしめる人々が列をなし緒方より集い、観音堂は更に隆祥する」。

ここは、昔、中山道の一路西の農道でしたが、江戸稼ぎの馬の往来は多かったものと思われます。

宿場の馬を描いた絵図としては、広重の『江戸名所百景ー四ツ谷新宿内藤』が有名。

新宿内藤を往き来する馬の数4000頭と云われ、宿場は馬糞だらけでした。

当然、板橋宿も同じ。

今は、赤塚にある東京大仏の乗蓮寺は、江戸時代、板橋宿にありました。

その乗蓮寺前を描いた江戸名所図会では、江戸に向かう馬と江戸市中から帰る馬が描かれています。

江戸に向かう馬の背には練馬大根が、江戸からの帰り馬の背には肥樽があります。

    右が江戸市中に向かう馬、左が帰る馬

当時、糞尿は大切な肥料でした。

農業生産物だけではなく、物資輸送の大半は馬に頼っていた時代、馬は農家の財産であり、それだけに大切にされ、死後は、馬頭観音として供養されてきました。

戸田の渡し舟に馬。対岸にも渡しを待つ2頭が見える。

それだけに馬が多かったに違いない赤塚、徳丸地帯に馬頭観音がないことが解せません。

◇松月院(赤塚8-4)

松月院の参道左は幼稚園だが、その幼稚園の壁をぶち抜いて馬頭観音がおわす。

本来いらっしゃった場所を変えないよう、建物を変形にして対処したものと思われる。

蓮根の観音堂は大きくて立派だが、ここは別な意味で、見事な小堂です。

像容は三面の憤怒相。

台石に「赤塚中」とある。

赤塚村の、馬の供養塔だろうか。

 

これで、赤塚、徳丸、高島平エリアは終わり。

最後に、「志村エリア」に入れるのを忘れた1基を付け加えておきます。

◇路傍(西台2-4)

この馬頭観音を見たときは、驚いた。

200年の時空を超えて、まるで昨日完成したばかりであるかのような新しさなのです。

彩色の朱色も鮮明で、お勧めの一躯。

わざわざ訪ねてゆく価値があります。

多分、造立とともにお堂に安置されて、風雨に打たれることがなかったのでしょう。

講中の面倒見の良さがあったこともプラスでした。

「馬頭観世音世話人会」という講は、近隣9軒がメンバー。

なんと今でも毎年、11月17日に講を行っているのです。

近くの円福寺の住職がお経をあげ、持ち寄った酒肴を飲食して散会する短時間のイベントですが、庚申講ならともかく馬頭観音念仏講が現在も行われていることに驚きを感ぜざるを得ません。

馬頭観音は、道標も兼ねています。

「寛政二庚戌季二月
  正面 門前谷念仏講中
 台 南祢りま道
  右側面 東戸田渡し道 武州豊嶋郡西台村
 左側面 西 吹あげ道 北方 はやせ道」

 

≪参考図書≫

〇『いたばしの石造文化財その四 石仏』平成7年

〇いたばしまち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』平成14年

〇いたばしまち博友の会『続平成の遊暦雑記』平成24年

〇板橋区郷土資料館『特別展 板橋と馬』(図録)平成26年

 

 


117 東京都板橋区の馬頭観音(3)ー常盤台エリアー

2015-12-26 07:11:36 | 馬頭観音

◇路傍(上板橋2-53)

三叉路の道のど真ん中にでんと観音堂が立っている。

車の往来に邪魔になるからと、よくぞ撤去されなかったものだと感心する。

道路の左側は、練馬区。

ここは板橋の西のはずれ。

旧川越街道の下練馬宿から北に入った三叉路で、お堂の中の馬頭観音2基は、いずれも道標を兼ねています。

馬頭観音碑の前に2頭の馬型がある。

身体は農耕馬だが、駆けているようだ。

奥の石碑の右側は、文化十二年(1815)造立で、右側面に「戸田渡しみち」と刻されています。

左は、陰刻の「馬頭観音」文字塔。

右側面に「右いたばし道」、左側面に「左戸田道」とあると資料には載っています。

 

◇路傍(常盤台3-14)

立派な小堂。

馬頭観音は、長年、野ざらしされていたらしい。

像容が崩れている。

元々は常盤台3-1の前野道の角にあったという。

 

 ◇個人敷地内(南常盤台1-26-5河原家)

工事用トラックのミラーの下に見えるのが馬頭観音。

家の改築に合わせて、石仏も造像し直したらしく、真新しい。

持参した『板橋の史跡を訪ねる』(平成14年版)では、「像陽は完全に風化し、右側に『天保八酉八月十七日』左に『河原善右衛門』の文字がかろうじて読める」とある。

同じ資料によれば、加賀藩の死んだ馬の供養に建てられたもので、かつては環七通りに面していたという。

◇個人敷地内(南常盤台2-36 大村家

新しいと云えば、大村家脇の馬頭観音の祠も新しい。

とは云ってもこれは4年前の写真。

祠は新しくても、中の馬頭観音は昔のまま。

明治24年造立の文字碑です。

◇路傍(東山町37)

こちらは、珍しく軍馬の供養塔。

昭和18年(1943)、国策に従い手放した愛馬の霊供養のため、飼主の新井金太郎氏が建てたものです。

◇長命寺(東山町48)

飼い馬の像容は概ね温和な表情と決まっているが、そうでなければ、儀軌とおりの憤怒相であることが普通です。

この像は、寺の境内にあるので、多分、個人の馬の墓ではないでしょう。

にもかかわらず、とびきり柔和な像容。

頭上に「馬」の文字がなければ、馬頭観音とは思えません。

好事家の議論の対象となる一躯です。

◇安養院(東新町2-30)

 安養院は、板橋区きっての名刹。

紅葉が美しいので、これは、おまけカット。

台地の墓地入口に村中から持ち込まれた石造物が群を成している。

持参資料には、馬頭観音は8基あることになっているが、3基しか見当たらない。

納得がいかないまま、3基を紹介します。

造立、安永五年(1776)。

正面に「天下泰平 国土安全」とある。

天下国家のことを託されては、馬頭観音も大変だなあ。

文化元年(1804)造立。

願主に3人の名前がある。

馬と3人の関係が気になる。

自然石に3面の馬頭尊。

嘉永六年(1853)、小野沢権右衛門によって建てられた。

頭でっかちでバランスは悪いが、見ごたえある馬頭観音です。

◇上板橋宿場馬つなぎ場跡(大山町57)

馬頭観音に直接は関係ないが、宿場の馬つなぎ場跡があるので、紹介する。

今は、近隣界隈の人たちから篤い信仰を寄せられている「お福地蔵」は、江戸時代、上板橋宿の馬つなぎ場でした。

◇路傍(大谷口1-16

2基の石塔が打ち捨てられたようにひっそりと肩を寄せ合っている。

ブルーのごみネットの右端下にあるのが、それ。

左が馬頭観音だが、右は何か。

「右あらいやくし道」と彫られているので、道標を兼ねているのは分かるが、板橋教委『石仏』にも載っていないので、不明。

それにしても扱いのずさんさが目立つ。

でも、廃棄されないで存続していることを喜ばなければならないのかもしれない。

◇個人屋敷内(向原1 M家)

M家の屋敷内にあるので、撮影許可をいただこうとインタホーンを押すが、応答がない。

玄関の脇に馬頭観音がおわすので、パチリ。

無許可なので躊躇しながら掲載します。

ごめんなさい。

M家の飼い馬の供養塔ということです。

 

 

 


117東京都板橋区の馬頭観音(2)ー志村エリアー

2015-12-23 07:57:40 | 馬頭観音

◆個人敷地内(宮本町55 古屋野方)

稲荷通りの化粧品店の自宅玄関の脇におわす。

昭和20年4月13日の板橋空襲で破損、辛うじて「馬頭観世音」の「馬」と「世」が読み取れる。

 

 ◆路傍(清水町40)

個人所有。

ブロック塀をわざわざ凹ませて石碑を安置してある。

昭和16年(1941)造立というから、家に馬がいたことを知っている家人がいて、懇ろに供養しているのだろうか。

◆長徳寺(大原町40)

天保11年(1840)の造立。

一面八臂は珍しい。

台石に「金百五十疋 高橋甚兵衛 金百疋 繁田太良八」とある。

石工への支払い金だろうか。

百疋は、1両の4分の1.

今の価格にするのは無意味らしいが、あえてするなら250疋で6万円強か。

長徳寺には、もう1基馬頭観音がおわして、こちらは文字塔。

板橋区には、文字馬頭観音は29基あるが、22基は明治以降のもの。

7基が江戸時代造立のものだが、これは中でも2番目に古い。

像塔全盛時代に文字だけにするのは、勇気を要したのではないだろうか。

◆常楽院(前野町4-20)

光線の都合で判りにくいが、馬頭観音本来の憤怒の形相。

愛馬の供養のための像塔は、穏やかな顔が多いのに憤怒なのは個人の馬の供養塔ではないのだろうか。

常楽院の門前には、何十基もの無縁仏がならんでいます。

ただ1基の馬頭観音が境内におわすのには、それなりの事由がありそうだが、はて?

享保11年というと板橋区で2番目に古い造立となります。

◆延命寺(中台3-22)

二石六地蔵と六地蔵立像に挟まれて、文字馬頭観音が立っている。

どこか別の場所にあったものが、何らかの理由でここに持ち込まれたのだろう。

いつも思うのだが、人間の墓と馬の墓を同列に扱うことに違和感はないのだろうか。

馬頭観音は、聖観音や如意輪観音と同格なのだからと言われれば、そのようにも思うし。

◆路傍(前野町6-44)

前野中央通りを東へ。

前野小学校角を左折してすぐの分岐路に、馬頭観音はある。

真新しい。

それもその筈、平成15年に新しくしたばかり。

左側面に「明治二十九年七月 水村家農馬の墓」とある。

古い石塔が背後にあるが、文字は判読不能。

「農馬の墓」は新しく書き足したもののように思われます。

◆二股の地蔵尊(中台1-48)

志村から中台の台上を通り、下練馬宿へ行く大山道にある。

地蔵が入っている覆屋の左に庚申塔と並んで馬頭観音がおわす。

その昔は、家は一軒もなく、畑の中にポツンとお地蔵さんと馬頭さんが立っていたのに違いない。

馬頭観音は、「左江戸道」と道標を兼ねている。

隣の庚申塔には「ふじ大山練馬道」「南いたばし前野道」と彫られている。

◆京徳観音堂(西台3-53)

本堂に向かって左に石仏群がある。

板橋区には珍しい武家の墓や14世紀、南北朝時代の宝篋印塔などがせせこましく立っている。

いずれも区の文化財です。

野ざらしのそうした文化財の傍らに赤い屋根の小屋に収まっているのが、馬頭観音。

大正10年、西台村の小原傳左衛門と荒井三喜蔵の二人が愛馬の共同供養塔を建てる時、捨て去られたような古い石造物などは眼中になかったのでしょう。

京徳観音堂の名物石段を下りて右へ50mほど。

覆屋に立派な庚申塔と並んで小ぶりだが、彫りのいい馬頭観音がおわします。

文化15年、荻野万吉により建立されたもの。

路傍(志村2-3)

国道17号線から交番左へ進む道が旧中山道。

急な下り坂にさしかかる所に「清水坂」の標識。

その10m先に馬頭観音がおわす。

造立は、大正15年(1926)。

市川さんという家の飼い馬の供養塔です。

 

 

 

 


117 東京都板橋区の馬頭観音(1)ー板橋エリアー

2015-12-20 08:14:20 | 馬頭観音

今回(2015年12月後半)は、板橋区の馬頭観音を巡ります。

区内の馬頭観音の数は、約60基。

個人所有で、屋敷内にあるものもあって、全部はもちろん回れませんが・・・

板橋区が無料配布している「いたばしまちあるきマップ」に従って「板橋エリア」、「常盤台エリア」、「志村エリア」、「「赤塚・高島平エリア」の地区ごとに分けて紹介してゆきます。

参考資料は『板橋と馬』。

去年、板橋区立郷土資料館が行った特別展「板橋と馬」のカタログですが、資料写真なども借用します。

それと、板橋区教委『板橋の石造文化財その四 石仏』も。

では、まず、「板橋エリア」から。

◆東光寺(板橋4-13)

どこの寺でも、寺の境内にある馬頭観音の大半は、区画整理や開発によって行き場を失ったもの、と考えてよさそうです。

 『石仏』によれば、これは板橋駅踏切横にあったものだとか。

造立年は不明ですが、文字馬頭観音の大半は明治以降ですから、多分これも同じではないでしょうか。

東光寺にはもう1基あって、こちらは昭和2年造立。

どこにあったものかは判りません。

昭和2年は、まだまだ輸送力のかなりの部分を馬が担っている時代でした。

 

◆路傍(板橋2-58)

享保19年造立の板橋で4番目に古い馬頭観音。

その頃は、ここは往来の激しい通りでした。

「板橋間道」(別名高田道)と旧川越街道とが交差する四辻だったからです。

下は、5年前の写真。

祠の場所だけ、フエンスの外側になっている。

フエンスが出来る前は、馬頭観音をないがしろにする工事関係者糾弾の立て看板があったように記憶する。

そうした地元の人たちの「過激な」行動がなければ、この馬頭観音は廃棄処分されていたかも知れない。

馬頭観音を廃棄しながら、日本の近代都市は拡大してきたのです。 

と、ここまで書いて所用で池袋へ出かけた。

健康のため歩いて。

区役所を過ぎて、ふと四辻の馬頭観音を思い出していつもの場所に寄って見た。

ところが、見当たらないのです。

あきらめて池袋に向かったのですが、どうしても納得がいかない。

再び戻って、今度は探す範囲を広げました。

すると、ありました。

かってあった場所から100mほど東、道路と道路の間、フエンスで囲まれた安全な場所に移されていました。

供花が新しいから商店街の人たちがお参りを欠かさないのでしょう。

◆遍照寺(仲宿40)

板橋と馬と云えば、宿場の継立馬を外すわけにはいかないでしょう。

遍照寺は、その継立馬のつなぎ場でした。

境内に立つ板橋区教委の説明板の一部を紹介します。

境内は、宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬がつながれていた。境内に祀られる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである」

遍照寺は、現在、本堂の新築準備中で、石仏群の場所も移動している。

馬頭観音は4基もある。

馬つなぎ場だったから4基も、と思わせるが、宿場に関係するのは1基だけ、3基は明治のもの。

寛政十年ものの正面には、「天下泰平 国土安全」に「宿内安全」があるのが、いかにも宿場らしい。

台石には「当宿 平尾 馬持中」とある。

板橋宿は、上宿、仲宿、平尾宿に分かれていた。

平尾の地名は、今、「平尾交番」に残るだけ。

石造物としては、日曜寺の石柱とこの馬頭観音に「平尾」があるだけで、貴重品なのです。

文字碑3基のうち、大正2年造立のものは「鹿毛馬 瀬川 外斃馬」と刻されています。

馬頭観音の文字もありません。

瀬川という馬の墓標でしょうか。

馬頭観音と書いてはあるものの、飼い馬の墓であるケースは非常に多いのですが、馬の名前だけの墓標は極めて珍しいと云えます。

なお、説明板の駅馬模型というのは、下の写真。

        板橋区立郷土資料館『板橋と馬』より

遍照寺に保存されていましたが、今では、区立郷土資料館に移されています。

ここで『板橋と馬』から「街道における馬」の一部を転載しておきます。

慶長7年(1602)に中山道で伝馬制が定められ、板橋宿の常備人馬は寛永15年(1638)に50人50疋となりました。伝馬制に伴い、周辺地域も助郷として、人馬の供給の手助けをしております。助郷とは、交通量が多く人馬の支給が困難になった場合に、近隣の村々に出役させることです。そして、街道を行き交う馬には、運ぶ荷物の重さなどで本馬・乗掛・軽尻と呼び名が異なりました。本馬は、人は載せず荷物だけを運び、重さは40貫(1貫=約3キロ)まで、乗掛は、人を一人載せて荷物は20貫、軽尻は、人一人に手荷物5貫目まででした。このように積載重量が規定されていたため、馬が運送している荷物が過重でないかを取り締まる役が設置されます。それが貫目改所です。中山道内では、板橋宿と洗馬宿の2か所に設置され、通行する馬に載せた荷物の重さを検問しました

◆智清寺(大和町37)

本堂に向かって左の石仏群の中にある。

右側面に「祠堂 金三円 建主 鈴木岩次郎」とあるから、どこかで祠に入っていたらしい。

金三円というから、明治以降の造立と見て、差し支えなさそう。

路傍(仲町32 金子方)

金子家の生垣の一部に覆屋をおき、中に馬頭観音を安置している。

砂岩だからか、崩れ方が激しいが、顔が三面あることだけは分かるので、辛うじて馬頭観音だと推測できます。

 


116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-4-

2015-12-12 05:21:05 | 石仏めぐり

通常なら12月10日に(4)を、13日に(5)をUP、12月16日に、新しいテーマの(1)に入るのですが、事情により12月19日まで、このままストップ。20日から新テーマに切り替えます。

◇西台不動尊(板橋区西台1-27)

住宅地の中の小路を入ってゆくと、行き止まりの崖地に不動堂がある。

石標がなければ、決してたどり着けない、それほど意想外の場所なのです。

お堂に上がる石段の左の崖地に石仏が点在している。

欠けたり壊れたりして像容が判らない。

ただ「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」と「制多迦童子」は台座に書いてあるから判る。

両者は不動明王の脇侍であり、八大童子の一つ。

境内に「三十六童子」の石塔がある。

崖地の石仏は36体もないから、多分、八大童子だと思うのだが、自信はない。

お堂の扉が開いている。

普段、堂内の本尊を拝むことはしないのだが、開いているので上がることに。

持参資料には「本尊は1mあまりの木彫立像。12年に一度の御開帳のため普段は拝観できない」と書いてある。

目の前の仏像はいかにも秘仏の本尊のように見えるが、お前立なのだろうか。

お堂を出て、靴を履こうとして目に入ったのが、水かけ不動。

正確に言うと、水かけ不動が立つ石桶の縁の椀状穴。

携行した『続平成の遊暦雑記』の「中台・西台の史跡を訪ねる」にも、この穴についての記述がある。

この窪みは、神社お寺の石段によく見られるもので、昔の子供たちが小石で窪みを作り、その中にヨモギや木の実を入れて浸したり、花を叩いて色を出したりして遊んだ跡だそうです。今は寂しげな場所ですが、昔は子供たちの賑やかな遊び場だったのでしょう」

板橋区内の椀状穴については、NO44,NO45http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/0ce43de9227393b5421eb0d968bf2e02

をご覧いただきたい。

穴はあちらこちらでよく見かけるが、穴に言及した記事はほとんどない。

これだけの文章でも、貴重なのです。

◇御霊地蔵尊(板橋区中台3-24)

御霊地蔵も意外な場所にある。

写真の石段を下り、電信柱の右の瓦屋根の向こう側の奥まった一角に地蔵堂はある。

「御霊」と云うからには、怨みを残して非業の死を遂げた者ということになるが、それは誰なのか。

お堂に掲げられた由来書では、天狗党の残党と推測している。

   妙法尊王攘夷二十八志士之墓

由来書の一部を転載しておく。(原文のまま句読点なし)

江戸末期さしも天険を誇った徳川三百年の封建政策も尊王孤忠の志士等大義名分のもとに大政奉還討幕の義は当時の諸藩の志士の多く京都に集まり同志の公卿と往来し国事を義して水戸藩士の武田耕雲斉正生藤田小四郎等筑波山の拠って正義党を挙げ一味天狗党と称し坂本重松二十五歳を頭に最年少十八歳の一行二十八名にて京都に赴き同志と会見討幕挙兵を約し帰省の途中幕府の詮議捜索厳しく東海道の交通叶わず甲州街道より中山道に至り当地まで忍び到着の砌り幕府の捜索一層厳密となり一行は一歩も動けず此の山中に至り七日七夜協議の結果幕府に召し捕らわれ獄門にさらされるを嫌い二十八名はこの山中にて各々我が身の墓穴を掘り互いに刺し合い刺し違えて安政三年師走八日最後をとげたり(以下略)」

事の発端は、昭和24年、食糧増産のためこの地で開墾していたら、白骨が大量に出てきたこと。

しかるべき識者に問い合わせたら勤王の志士天狗党の遺骨だろうと云われた。

昭和26年には、死者の霊を鎮めるために御霊地蔵を建立、その冥福を祈った。

しかし、その後の調査では、この地で果てたのは、上野戦争で敗れた彰義隊の残党ではないかという説が有効になりつつあるという。

◇延命寺(板橋区中台3-22)

 本堂に向かって左の崖下にある池に石造不動三尊。

小さいながらも脇侍もちゃんと彫ってある。

墓地への入口に石仏群。

開発で行き場を失った石仏たちの安住の地。

二石六地蔵は、元々ここにおわしたものか。

庚申塔は6基あるが、一番古い天和3年(1683)のものだけは、板橋区有形登録文化財。

       右端が、区の登録文化財庚申塔

道標を兼ねた庚申塔が2基、文字馬頭観音が1基ある。

 上は、宝暦3年(1753)の道標庚申塔。
 右側面に「此方 ねっぱミち」、左側面に「此方 富士道」と彫られている。

上は、天保14年(1843)の道標馬頭観音。

(右)西練馬ふじ大山道
(正面)天保十四卯年三月吉日 羽藤観世音
(左)岩淵川口道
(裏)南板橋道

宝篋印塔は、村の万人講中と庚申講中が建てたもの。(*万人講とは「牛を亡くした時、近隣の世話役が中心となって、講帳を回して広く喜捨を募るもので、寄進一万人を目標とするから万人講という。信仰行為であると同時に、経済的な相互扶助の機能を持つもので、集められた浄財を法要や石塔造立の費用に充てるとともに、次に牛を買い入れる資金とした。」『続日本石仏図典』より)

その隣の小祠は、近くの石神井山の石神井大権現が祀られている。

百日咳、はしかなどに霊験あらたかと伝えられる(という)。

 

◇二股の地蔵尊(板橋区中台1-48)

前を行く女性がふと立ち止まった、と思ったら頭を垂れて合掌しだした。

そこが目的のお地蔵さんだった。

今でも信仰する人がいるようだ。

供花も新しい。

子安地蔵だそうだが、子供の姿はない。

頭に被っているのは、笠のようだが、厚くて重そう、まるで罰ゲームみたいだ。

天明4年の造立、ということは、天明の大飢饉の最中建てたことになる。

前年の浅間山大噴火の余波も続いていて、自然の猛威に人々は打ちのめされていた。

「なんとかして下さい、お地蔵さん」。

他力本願しか、残された道はなかった。

覆屋の隣に馬頭観音と、庚申塔。

いずれも道標を兼ねている。

道標の方向と地名が違うのは、別々の場所にあったものをここに集めたから。

何が悲しいと云って、本来の場所から移転させられた道標ほど悲しいものはない。

存在意義は皆無、むしろ間違った道案内をするのだから、マイナス評価とならざるをえない。


116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-3-

2015-12-08 04:32:48 | 石仏めぐり

円福寺の塀沿いに徳丸方向へ。

最初の道を右へ下ると法蔵庵に着く。

谷越えに円福寺が見える。

◇法蔵庵(板橋区西台3-35)

無住の寺のようだが、資料によると昔から円福寺持ちだという。

門前に六地蔵(造立享保6年ー14年)と青面金剛庚申塔。

正徳6年(1716)造立の青面金剛は彫りが深く、日月、二鶏、三猿がくっきり。

足下の鬼の尻の割れ目が生々しい。

右側に「武州豊嶋郡西台郷田端村講中」とある。

法蔵庵から緩やかな坂道を下ってゆくと右に急な石段があり、その上に京徳観音堂がある。

◇京徳観音堂(板橋区西台3-53-26)

「京徳」とは優美だが、この辺りの小字名だったとか。

観音堂に掛かる鰐口には「教徳寺」と刻されている。

廃寺となった教徳寺に代わって、現在は、円福寺がお堂を管理している。

「教徳」は、参道の急な石段わきの地蔵の刻銘「西台村教徳念仏講中」にもある。

人間くさい地蔵の顔だが、首がとれて、別な顔をのっけたものか。

この地蔵尊より10m先の覆屋に2基の庚申塔と馬頭観音1基がある。

小さい庚申塔は風化が激しく、読み取れるのは、「願主福太郎」だけ。

青面金剛陽刻の方は、宝永四年(1707)造立、台石の銘「西台京徳村庚申講中」からこの辺りは、京徳村だったことが判る。

文化十五年(1818)造立の馬頭観音には「施主荻野万吉」の文字。

この界隈は、坂道だらけ。

万吉さんちの馬は、難儀の一生を送ったに違いない。

 

38段の石段を上る。

本堂に向かって左側に、右から小堂、覆屋、無縁墓群が並んでいる。

 

小堂の中の石仏は、薬師如来。

その昔、「目の薬師」として人気があり、「め」の絵馬が堂を覆うように掛けられていたらしいのだが、今は一枚もない。

西台4の「耳だれ庚申塔」に祈願達成の柄杓が奉納されているのとは、対照的だ。

 堂横の覆屋に立つのは、馬頭観音。

馬頭観音は、屋根があって辛うじて雨露をしのげているが、その隣の、人間様の無縁墓は野ざらし。

この放置されたかのような石造物群に、板橋区の登録文化財が4基もある。

まず奥列にせせこましく並ぶ2基の宝篋印塔がそれ。

造立、延文6年(1361)は、板橋区で2番目に古い宝篋印塔となる。

南北朝時代、この地を支配していた豪族の遺品ではないかと推測されているらしい。

向こう側の、宝珠が欠けているものには「逆修 性阿弥陀佛」の銘が、手前のものには「逆修道用」の刻文がある。

両方とも延文六年七月十三日と記されている。

残りの登録文化財は、武士の墓2基。

2列目の右端に「源姓井上氏帯刀正昭墓」。

 

前列左端に「井上右京正員之墓」。

二人は父子で、父正昭の父、井上正就は、家光に将軍を譲り、西の丸から幕政を仕切っていた秀忠を補佐する老中の一人。

 江戸城殿中での刃傷事件としては、浅野内匠頭が吉良上野介を切り付けた「忠臣蔵」が有名だが、その70年前にも同様な殿中刀傷事件があって、老中正就は切りつけられた被害者。

寛永5年(1628)のことだった。

当時、テレビのワイドショーがあれば、一週間ぶっとおしでトップニュースとして放送され、視聴率を稼いだに違いない。

それほどのスキャンダルだった。

『徳川大猷院殿御実記巻十二』での事件の記述は「十日目付豊島刑部少輔信満西城において遺恨あるよしいひて不慮に宿老井上主計頭正就を刺殺す。小十人番士青木久左衛門義精駆来て刑部少輔をいだきとめしが、其の身も深手負て営中にて死す。(略)豊島が正就を怨みけるは、婚約異変の事よりといへり」。

「婚約異変の事」というのは、老中井上正就の息子の縁談話のもつれを指す。

殿中で切り付けた豊島明重は、正就の息子と大坂町奉行の娘との縁談の仲人を務めることになっていた。

しかし、進んでいたこの縁組を正就が一方的に破棄したことで、事件は起きた。

破棄したのは、大奥の実力者春日の局から、出羽山形二十万石城主鳥居忠政の娘と縁組するようにとの「上意」があったからだったが、仲人役の豊島は「小身の大坂町奉行より、大身の山形城主に目がくらんだ」と怨みを抱き刀傷に及んだというもの。

家光の時代、武勲や戦功での取り立てはなくなり、家格がものをいうようになっていた。

中級旗本の大坂町奉行より、譜代大名の鳥居山形城主との縁組を正就が優先するのは、お家のことを考えれば当然のことだった。

そして、豊島明重にとっても、老中井上家との縁組の仲人を務めることは、家格をあげるチャンスでもあった。

時代が色濃く反映した事件ということになる。

殿中刀傷事件の主人公井上老中の息子と孫の墓が、なぜ、京徳観音堂にあるかは不明だという。

≪続く≫

 


116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-2-

2015-12-04 07:01:19 | 石仏めぐり

町内だから、日曜寺と智清寺は別として、板橋区内で私が足しげく通った寺と云えば、文殊院(仲宿)、東光寺(板橋4)、延命寺(志村2)、安養院(東新2)、乗蓮寺(赤塚5)、松月院(赤塚8)などか。

石仏撮影では、南蔵院(蓮沼町)、長徳寺(大原町)、常楽院(前野町)は外せないが、とりわけ円福寺(西台3)には魅力的な如意輪観音像が数多くおわします。

このブログ「No100石仏のある風景」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/6962990491edd8313e0f1ede19035789

でも書きましたが、私の石仏入門の手引き書は佐久間阿佐緒『東京の石仏』でした。

佐久間氏の石仏の評価ポイントは、彫像としての美しさ、可愛さにあります。

佐久間氏に感化されて、当初、「如意輪観音ミス板橋」探しに熱中したものです。

私が選んだ「如意輪観音ミス板橋」は、円福寺の無縁仏群にいらっしゃいます。

美人というよりは、おきゃんで小生意気な江戸っ娘という風情。

どんな女性だったのか、私の推測を「NO39My石仏ミス板橋」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/d5c117a3e324a4662fc41af6a5d11be6

で展開しています。

生前の彼女を知っていた石工が彫ったものではないか、との私の推測に、そんなことは決してありえないと私の石仏の先生・小松光衛さんが言下に否定されたことが記憶に残っています。

そして、円福寺には、「烏八臼(うはっきゅう)」でも何度か訪れました。

滅多に見ることのない烏八臼墓標が、ここ円福寺には東京都内で最も多くあると云われています。

烏八臼は「ウハッキュウ」と読み、戒名の上に彫られて、罪滅成仏の功徳を与える文字記号ですが、その意味合いははっきりせず、未だに10を超える字義解説があるくらいです。

「NO12謎の烏八臼」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/f2cc6b4f647adf4f93183e423cb0ab6d

をご覧ください。

美人の如意輪観音や烏八臼を探しに何度も円福寺へ行きながらも、そこに板橋区の指定、登録文化財があることに全く気付きませんでした。

昭和58年板橋区指定有形文化財の雲版と昭和60年に板橋区で登録された月待画像板碑。

円福寺へ行って、探すも見当たらない。

清掃中の作業員に訊く。

本堂にあって見られないが、レプリカなら板橋区立郷土資料館にあるとのこと。

早速、赤塚の郷土資料館へ。

板碑と雲版が隣り合って展示されています。

上部の肩左右からの切れ込みがあって、雲の形に似ているから「雲版」と呼ばれるらしい。

説明文を書き写しておく。

明徳二年銘雲版
  明徳二年(1391)青銅製 高さ37.7㎝ 幅35.5㎝ 撞座径(つきざけい)7㎝

 雲版は寺で食事や法要の開始を知らせるために木槌で敲く道具。円福寺の雲版は上部に懸け穴があり、下部中央に連座の撞き座がある。元々は武蔵野国高麗郡所在の寺にあったものと思われる。いつ頃円福寺に伝来したかは不明。この雲版には同寺開基の太田道灌が茶室で使用したとの伝承がある」

もともとは中国の楽器で、役所で人々を呼び集めるために使われたものらしい。日本には、鎌倉時代、禅宗とともに伝えられ、主に禅寺で使われてきたが、浄土宗や日蓮宗、あるいは茶室などでも使われてきたのだそうです。

月待画像板碑は、阿弥陀如来像が浮彫されたもの。

梵字板碑ばかりの中で、仏像線彫画像の板碑は極めて珍しい(とされる)。

線彫りの像はどうにか見えるが、下部の文字は読み取れない。

本来は縦書きなので、横書きは不自然だが、碑文は下記の通り。

                    光明遍照十万世界
 (日)                道秀宮犬女切▢弥
             足机     文明十七年乙巳
 (阿弥陀尊図像)    具      奉月待供養結集
             三前     霜月二十二日
 (月)                道乗弥五郎五郎三郎
                    念仏衆生摂取不捨

 

上部には、右に太陽、左に二十三夜の月が刻まれ、中央に蓮座に乗る阿弥陀如来が線彫されている。来迎の弥陀で、印は上品下生。像の下に燭台と香炉と花瓶を載せた三具足がある。

光明遍照の偈は、「観無量寿経」からのもの。

道秀、宮犬女、切口弥、道乗、弥五郎、五郎三郎の六人は、月待ちの講員。

この碑が造立された文明17年といえば、円福寺の開基者、太田道灌が存命していた。

なお、宮犬女は、女性の名前。

月待というのは、旧暦二十三夜などの晩、講員が月の出るまで念仏をあげ、詩歌を作り、飲食を使、月がのぼると心願の達成を祈る催しで、文明の当時には、太田道灌や連歌師宗祇などもこの会を催した。(『続 平成の遊暦雑記』から)

円福寺には、もう一つ、区指定の文化財がある。

境内に高くそびえる樹齢400年の高野槇。

円福寺が、川越からこの地に移転してきたとき、高野山から移植してきたと云われる霊木。

その霊木の下のケージには、孔雀が2羽いる。

お釈迦さまが蛇に襲われたとき、蛇を食べて助けたのが孔雀だったという仏話に従って飼っているとのこと。

≪続く≫

 


116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-1-

2015-12-01 05:14:39 | 石仏めぐり

恐らく誰一人として、今回のテーマに興味を持たないだろう、と思います。

なにしろ、板橋区の特定地域の寺社と石仏めぐり。

これといって価値のある石造物があるわけでもなく、ただひたすら普通でありふれたものばかりなのです。

それなのに何故?

答えは単純、窮余の一策だからです。

これといったテーマが思い浮かばない。

締め切りは迫る。

さあ、困った。

手近ででっち上げるとしたら、近所の石仏巡りしかない。

で、「板橋区の西台、中台の寺社と石仏めぐり」というわけ。

「御用とお急ぎでない方」だけ、お付き合いください。

西台、中台の「台」は、台地のことです。

台地だから、そこよりも低い低地があるわけで、その間には必ず坂がある。

坂道だらけの石仏巡りか、嫌だなと思いながら、東武東上線上板橋駅から東に向って出発。

「上板橋」は、我が青春時代のホームグランド。

大学の寮が、カミイタ(上板)にあった。

寮とは名ばかり、陸軍の軍馬の馬房を改造したバラックで、馬房の間仕切りはそのまま、床板を張って畳を敷いた8畳に4人が入居。

押入れがないから布団は敷きっぱなし。

入寮してひと月ほどしたら、集団赤痢が発生した。

同室の2人が都立豊島病院に隔離入院したが、私ともう一人は罹らなかった。

消毒液の刺激臭で、夜、寝られなかった記憶がある。

今から60年前の事です。

寮の跡地は、現在「平和公園」というとぼけた名前の公園になっています。

平和公園の北側に走るのが富士見通り。

その富士見通りを西に行くと岐路にぶつかり、そこに庚申塔があります。

新田前庚申塔(板橋区若木1-7)

新田と云うから、かつては一面の田んぼだったのでしょう。

そんな光景を想像できないほど周囲の景観が激変する中、ひとり庚申塔だけが往時を偲ばせています。

建てたのは、中臺村新田講中拾人。

ちょっと珍しいのは、道標を兼ねていること。

右は西台、左は下練馬方面。

下練馬宿からは「大山道」と呼ばれ、参詣者が往き来するので「道者街道」と呼ばれていました。

岐路を右へ。

環八陸橋を渡り、突き当たりを右折して進むと二股にまた庚申塔がある。

耳だれ庚申塔(板橋区西台4-9)

立派な笠つき青面金剛像だったらしいのだが、今はその面影もない。

資料によれば、側面に「嘉永七甲寅年正月 願主 内田弥市右衛門」とあるという。

庚申塔の背後に柄杓が奉納されている。

この庚申さまの効用は中耳炎だそうで、祈って治ると柄杓に穴をあけて奉納するのだとか。

柄杓があるのだから、中耳炎が治った人がいることになる。

≪続く≫