石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126 成田街道の石造物-4-(千葉県市川市の2、法華経寺)

2016-11-26 07:22:08 | 街道

葛飾八幡宮から成田街道(=千葉街道=国道14号)に戻りひたすら東へ、と書く所ですが、実際は京成八幡駅から二つ目の京成中山駅まで電車で移動するというズルをしました。

資料を見ても、この間は、見るべきものがなさそうだったからです。

京成中山駅を降りると、そこは法華経寺の参道。

日本全国、門前町は数知れずありますが、その大半は閑古鳥が鳴いているのが現状。

そうした現状からすれば、ここの参道は別世界、シャッターを下ろしている店はありません。

さすが日蓮宗の名刹法華経寺の門前町です。

◇日蓮宗正中山法華経寺(市川市中山2)

踏切を渡ると見えるのが総門、通称、黒門です。

扁額の文字は「如来滅後 閻浮提内 本化菩薩 初転法輪 法華道場」。

道場は、修行の場を意味しますが、そういえば、ここ法華経寺の百日荒行はその過酷さで有名です。

次なる山門は、赤門。

朱色が剥げ落ちて、黒門みたいです。

赤門前には、金色の六字名号題目塔。

金色は、宗旨とどのように合致するのだろうか。

か。

門前右端には、祖師立像。

「立正安国を説くお祖師さま」とあります。

赤門を過ぎると両側に子院が並んでいます。

「本妙寺」をどこかで見たことがあると思って調べたら、法華経寺は13世紀の末、法華寺と本妙寺の二つの寺が合体して出来たもので、現在の法華経寺の境内は、もともと本妙寺だった所なのだそうです。

それなのに何故本妙寺は、まるで末寺みたいにそのままあるのか、「庇を貸して母屋をとられた」感がぬぐえません。

広い境内には、国宝、重文クラスの建造物が点在し、文化財の宝庫ですが、このブログは石造物をテーマとするので、建築物はスルー。

しかし、指定文化財の石造物は皆無で、途端に撮影対象を探すのに苦労します。

もともと日蓮宗寺院には石仏は少ないのですが、それはここ法華経寺も例外ではありません。

石仏だけでなく、顕彰碑、句碑なども、あまり見かけません。

ということで、期待せず、境内を回ることにしましょう。

売店を右に見ながら境内に入ると青銅の燈籠が目に入ります。

 

台石に「江戸惣講中」とある。

法華経寺の沢山の講のうち江戸市民の講の総ての寄進ということでしょうか。

五重塔の前に石仏墓標群。

何の変哲もないありふれた石仏で、なんでここにあるのか不思議です。

祖師堂の前には、「あの」浄行菩薩が。

「あの」というのは、「あ、ここにも、また」という気持ちの現れです。

浄行菩薩にかける水は、傍らの井戸でくみ上げたのでしょう。

「星乃井」というのだそうで、何か曰くがありそうですが、ネット検索では分かりません。

 

祖師堂の右手の茂みの中に、中山大仏と呼ばれる釈迦如来坐像がおわします。

享保4年(1719)の鋳造で、身の丈1丈6尺(約4.8m)、台座2間半(約4.5m)の大きさです。

 大仏の左の立像は、「日常聖人」像。

日常聖人は、富木常忍(ときつねのぶ)という武士でした。

鎌倉へ向かう船の中で日蓮と出会った彼は、日蓮の説法とその人柄に惹かれて壇越となります。

松葉ケ谷法難(*)で辛くも逃げ延びた日蓮は、下総中山の富木常忍の館に身を寄せます。

(*松葉ケ谷法難とは、日蓮四大法難と呼ばれるものの一つ。日蓮が、文応元年(1260)7月16日)に鎌倉幕府の五代執権北条時頼へ『立正安国論』を提出し、その内容が当時起こっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を始めとする念仏教や禅教などの邪教に起因するものとし、幕府へ宗教政策の転換(正法を法華経とする)を促す内容であったため、その約1ヶ月後の8月27日に浄土教信者である念仏者たちによって草庵を夜間襲撃・焼き討ちされた事件を言う。)

日蓮の死後、出家した常忍は、自宅に法華堂を建てますが、これが法華経寺の始まりと言われています。

日常聖人像の裏手に、本院と大客殿、左に荒行堂があります。

ここから祖師堂の裏に回り、宝殿門、清正公堂、宇賀神堂、四足門、法華堂、妙見堂、刹堂と見て回りますが、なんと石造物はありません。

宝殿聞の裏に講中が建てた題目塔2基と句碑が1基、それに刹堂に燈籠が1基あるのみ、いかにも日蓮宗寺院らしい光景でした。

妙見堂の横には池が広がって、その池を左に見ながら本行院への道を進むと、右手に無縁墓標がずらりと並べられています。

近寄って見ると「寛永」の文字が。

   

寛永期の墓標は、東京でも散見できますが、これほど数多い墓地は少ないでしょう。

寛永以前のものもあるか探しましたが、見当たりません。

あってもおかしくないのに、なぜないのか、謎です。

 

五重塔の前から一般道へ出て、奥の院へ。

道路の右の子院の内、法宣院は、不受不施派の祖・鍋冠り日親(*)が若い頃、修行し、得度した寺です。

鍋冠り日親とは「法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれる」(Wikipediaより)

恥を晒せば、私が、不受布施派や鍋冠り日親を知ったのは、前回の「谷中寺町」で日蓮宗寺院を回ったときでした。

彼の反骨精神のすばらしさに魅力されて、一気にフアンとなったものです。

奥の院へは、緩やかな上り道。

道標が立っています。

二つの道標を過ぎるとすぐそこが奥の院。

鬱蒼とした木立に囲まれて、昼なお暗い印象です。

入口に「宗祖最初転法輪旧蹟」の石塔。

初転法輪とは、お釈迦さまの最初の説法のこと、この場合は、日蓮が最初の説法をした場所ということになります。

信者にとっては聖地以外のなにものでもありません。。

その奥にもう1基。


     開所日常上人御廟所
南無日蓮大菩薩百座説法最初之地
     六浦日貨上人安置

境内に入ってゆくと、左に日常上人像。

日常上人は、法華経寺の開基者。

俗名は、富木常忍(ときつねのぶ)という武士でした。

この奥の院は、富木常忍の館のあったところで、法難で辛くも逃げ延びた日蓮が身を隠した場所でした。

日蓮はこの地で説法を100回も行い、大勢の信者を獲得したと云われます。

富木常忍は、日蓮の死後、出家、法華経寺をこの地に建てます。

 

本堂の前には、小型の水子地蔵がズラリ。

聖地にはそぐわない光景のように、私には思えますが・・・

また、境内奥には、滝が落ちる池があって、崖上に弁才天がおわします。

池の前の説明板には、弁財天がここにある理由を

「弁才天は古来より宇賀徳正神と表裏の関係で祭祀されることを思うと当寺の弁財天も表裏の関係と思われる」

と述べていますが、何のことやら、さっぱり分からない文章です。

珍しく本堂に上がって見たら、日親上人が祀られている。

不受不施派を徹底的に弾圧した幕府が、不受不施派の元祖日親を祀ることにクレームをつけなかったのだろうか。

それとも明治以降に祀られたのか、ちょっと気になります。

 

次回更新日は、12月01日です。

 

≪参考図書とwebサイト≫

 

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 

 ▽「成田街道道中記」

 

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物-3-(千葉県市川市の1)

2016-11-21 09:26:41 | 街道

宝泉寺を出るとすぐ先が国道14号。 

左に江戸川を渡る市川橋が見えてきます。

江戸川の中央が東京都と千葉県の県境。

橋を渡って堤防を左折すると100mほど先に市川関所跡がある。

この辺りは、奈良、平安時代からの渡し場で、江戸時代は「小岩・市川関所」と対岸の二村が一対で、一つの関所とされていた。

旅人を調べる関所は小岩側にあり、市川側には2,3艘の舟と20人程度の船頭や人夫が詰めていたという。

       『江戸名所図会・市川の渡し』

関所は明治2年(1869)に廃止されたが、渡し舟は、江戸川橋が架けられる明治38年(1905)まで続けられた。

下は、市川関所跡から見た対岸の小岩側の風景。

再び国道14号の千葉街道に戻り東へ。

この辺りの国府台は古代、下総国府や国分寺があった歴史ある地域だが、国道14号には見るべきものは皆無、ひたすら黙々と歩くだけ。

右にJR市川駅がある辺りの左側に消防署があり、そのちょっと先にポツンと道標が1基立っている。

正面は「青面金剛」の下に三猿を配置する庚申塔。

側面の文字は、資料によれば、右は「東 八わた十六丁 中山一里」とあり、左は「西 市川八丁 江戸領国三り十丁」とあるのだそうだ。

       右側面

つまり、道標を兼ねた庚申塔なのだが、実用的な存在価値は、今やゼロ。

無用の長物で邪魔なだけの存在なのに、よくぞ残ったとちょっぴり感動する。

無信心な現代人も、廃棄すると何か祟りがあるかもと思うのだろうか。

胡禄神社は、市川市に何社かあるローカル神社。

狭い境内に石造物はないので、立ち去ろうとしたら、境内の隅っこに石柱があるのが見えた。

近寄って見ると三猿庚申塔。

石塔の頭頂部は、ボコボコと穴だらけ。

私のライフテーマは「盃状穴」ですが、こうして思いがけなく見つけると「やったあ」と嬉しくなる。

(*盃状穴については、このブログNO44,45,55,56,58,60をご覧ください)

京成菅野駅へ通じる道の角にも道標が2本、ひっそりと肩を寄せ合っています。

国道に面した大きい石塔の正面は、上部に地蔵座像が浮彫され、その下に「黨村講中」、その左右に「寛政十一己未年(右)」、「七月吉日(左)」と辛うじて読めます。

もう一基は、正面に「東京開運女人▢」、左に「左 宮久保山道」と刻されているようだが、自信はない。

この道を菅野駅に向かうと諏訪神社にぶつかる。

本社の諏訪大社の御柱大祭は有名だが、平成18年の大祭に本社と同じようにここでも御柱奏上の神儀を行い、2本の御柱を奉建したということで、一番御柱と二番御柱の2本が本殿脇に立っている。

諏訪神社があるのは、市川市平田2丁目で、京成線の線路の向こうは菅野3丁目。

市川の菅野には、戦後間もない昭和21年(1946)、永井荷風が住んでいた。

昭和21年8月の『断腸亭日乗』には、諏訪神社も登場する。

この頃、隣室のラジオの騒音で筆が進まず悩んでいた。

・・・夕飯後机に向ふに家内のラヂオ再び起る、鉛筆手帳を携へ諏訪神社の林下に至り石に腰かけて数行を草する中夜色忽迫り来り蚊も亦集り来る、…」

菅野駅の次が京成八幡駅。

駅の北側にあるのが、葛飾八幡宮。

平安時代の寛平年間(889-899)宇田天皇の勅願によって、京都の石清水八幡宮を勧請して建立されたもので、葛飾地方の総鎮守。

由緒ある神社なので、市指定の文化財はいろいろあるが、このブログの主旨である石造物をメインに見て行きたい。

まず、鳥居の前の燈籠。

寄進者の近在の村々の氏子名がびっしりと彫られている。

神門を潜って、左へ。

神社には珍しい鐘楼は、神仏分離以前の別当寺法漸寺の遺構。

その下には、力石がならんでいます。

170キロの石を抱えて、本殿一周の速さを村対抗レースとして競いました。

人並優れた力は、神から与えられた恩恵とされ、勝った村には神の恩寵としての豊作が約束されると信じられたのです。

力石の傍には「頼朝公駒とめの石」がある。

戦勝と武運長久を祈願しに来た頼朝が馬を繋いだ石だとか、ま、伝説の典型例でしょう。

本殿右奥の境内社八坂神社の両側には、青面金剛と道祖神庚申塔が配置されている。

5,6年前までは、鬱蒼とした茂みの下にあって、厳かなな雰囲気だったが、樹々を全部切り払ったので、陰影に乏しい佇まいです。

八坂神社の右には、水神社と道祖神庚申塔。

道祖神庚申塔は、文政6年(1823)の造立。

左の2基のうち右側は、六臂の青面金剛だが、道祖神と刻されている。

造立年は、享保15年(1730)。

その左は、文字道祖神庚申塔で、「文政七年甲申四月吉日」とある。

「甲申」は「庚申」の間違いかと思ったが、これで正しい。

庚申塔だから、いずれも近在の村の四辻か村境にあったものをここに移転してきたものだろう。

道祖神庚申塔は、そう滅多にお目にかかれない珍品です。

厳かさに欠けるといえば、道祖神庚申塔の隣の富士塚も同じ。

背後の民家が雰囲気を毀しているようだ。

木を植えるなりして遮蔽物があった方がいい。

境内を出て、左にも石碑群がある。

「川上翁遺徳碑」は、この地方の名産、八幡梨の創始者で「梨祖(りそ)」として崇められた川上善六の顕彰碑。

八幡音頭と市川小唄の紀念碑もある。

はあー、昔想えば 下総一の
 花の都の 守り神
 テモ 市川よいとこ よいとこナ
 今も栄える 八幡様の
 千本銀杏は 縁結び 縁結び (八幡音頭一番)」

社務所前には、「大衆の心を歌う 岡晴夫君」なる石碑がある。

書は、藤山一郎。

日本歌手協会会長の肩書がついている。

 

 

次回更新日は、11月26日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 


 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー2ー(東京都江戸川区)

2016-11-16 06:49:44 | 街道

さくらみちを東へ進む。

ぶち当たったところが、江戸川の土手。

住所は、江戸川区北小岩7丁目。

右手はちょっとした親水公園になっていて、お堂の中に3基の石造物がある。

 左から西国坂東秩父百霊場巡拝塔、地蔵、馬頭観音。

掃除が行き届いていて、生花が供えられている。

近くに人家はないが、お参りを欠かさない人がいるようだ。

向かって右のお地蔵さんは、道標でもあって、側面に「これより千住道」、「新宿迄壱里」と刻されている(らしい)。

「地蔵尊縁日四日十四日二十四日」の立札がある。

縁日が行われなくなって、どれほどの年月が経つのだろうか。

堤防上の道を歩いて行くと見えてくるのが、江戸川不動尊。

〇真言宗吉祥山江戸川不動尊唐泉寺(江戸川区北小岩7)

本堂前に堂々たる不動明王。

「ぼけ封じ」と「癌封じ」に霊験あらたかとは、寺のパンフの謳い文句。

寺号の「唐泉」(とうせん)寺は、「当選」に通じ、選挙の神様(仏?)として最近は売り出しているのだとか。

語呂合わせもここまでくると「芸」。

堤防下の道を進むとすぐ旧街道になる。

天祖神社の先の寺は、真光院。

〇真言宗豊山派稲荷山真光院遍照寺(江戸川区北小岩4)

山門右に覆屋があって、中に聖観音の二尊仏がおわす。

覆屋と山門の間には、六臂青面金剛と文字馬頭観音碑がある。

馬頭観音には、「明治四十一年五月吉日」と「吉永」の文字が刻されている。

寺の門前に馬頭観音があるのも稀有なら、馬の持ち主の名前があるのも稀有。

墓地に入って、謎の一端が解けたように思えた。

吉永家の墓がいくつかある。

有力檀徒の馬の墓標なのかもしれない。

江戸川から離れることなく、街道は走っている。

右手にちょっとした広さの遊園地があり、一画に新しいお堂が建っている。

◇真言宗豊山派・光ケ嶽観音堂(江戸川区北小岩4-27)

「光ケ嶽(てるがたけ)観音堂」と説明板にはある。

本尊はわずか6cmの観音像で、室町時代末期の武将の守り本尊として甲冑に納められていたものという。

遊園地の一画は、小規模な墓地となっていて、石造物が乱雑に並んでいる。

彩色された不動明王が鋭い眼光を放っていた。

間もなく、京成江戸川駅。

下は、駅ホームから江戸川を撮ったもの。

線路右下に渡し場があったとされている。

だから駅前の通りに、道標があり、御番所跡がある。

道標は、2基、駅前喫茶店の前にひっそりと立っている。

左は、「伊予田の観音堂道標」と呼ばれるもので、「是よりあさくさくわん世於道」と刻まれている(らしい)。

伊予田村(現在の北小岩)に安永4年(1776)に造立された。

右は、正面に「左り 江戸本所ミち 右 せんじゅ岩附志おんじ道」、左側面に「右いち川みち 安政四年乙未年八月吉日」とあるのだそうだが、まったく読めずにお手上げ。

 

中華料理「昇龍」を左折した先に関所があり、渡し場があった。

「昇龍」は、角屋旅館という旅館で、ほかに2,3軒の旅館と小料理屋などで、ここ御番所町は賑わっていたそうです。

「昇龍」を左折、江戸川に向かう。

見上げるような堤防の上に案内板の屋根が見えます。

案内板の位置は、江戸時代と変わらないのだとか。

案内板の左、鉄橋の下あたりが渡し場だったと言われています。

勉強の為、案内板を書き写しておく。

 小岩市川の渡し跡
 小岩市川関所跡
 江戸時代のはじめ、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井の渡しで中川をわたり、小岩で現在の江戸川  をわたって房総へ向かう道がひらかれました。「元佐倉道」とよばれ、明治八年(1875)に千葉街道と改称されています。江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には「元佐倉通り逆井道、江戸領国橋へ道法(みちのり)三里」と記されています。
江戸から佐倉へむかう道筋には、千住から新宿に至って水戸街道から分かれ、小岩に至るさくら街道があり、江戸時代には、こちらが街道として利用されていました。

江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の項に「対岸は下総國葛飾郡市川村なれば、小岩市川の御番所という」とあります。これは幕府の設けた関所の一つで、常時四人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治二年に廃止されました。 江戸川区

下は、案内板から川下の風景。

国道6号に架かるのは、市川橋です。

川から街道に戻ると目の前に

〇北野神社(江戸川区北小岩3)

これといった石造物はないので、本殿前の力石をパチリ。

本殿裏の境内社は何を祀ってあるのかと思ったら「水神社」でした。

「なるほど」と独り言。

 〇真言宗豊山派愛宕山宝林寺(江戸川区北小岩3)

宝林寺には、渡し場にあった常燈明がある。

天保10年(1839)に、北千住の講中により建てられたが、、昭和9年(1934)、河川改修の為ここに移転された。

石仏が多い寺で、そのほとんどは、門前を走る道の反対側におわします。

中でも区の文化財に指定されている地蔵庚申塔が逸品。

寛文期の石仏らしく、のびやかで端正な像容です。

この他、三面馬頭観音、

六臂青面金剛、

そして六地蔵も見逃せません。

 次回更新日は、11月21日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 


126 成田街道の石造物1(東京都葛飾区)

2016-11-11 07:10:08 | 街道

「新宿」と書いて「にいじゅく」と呼ぶ地域が、都内にあるのを知っている人は少数派ではないか。

最寄駅は、常磐線亀有駅。

駅から徒歩7分、水戸街道の中川橋を渡ると新宿に入る。

   中川の右側が、葛飾区新宿。

上は『名所江戸百景』の「にい宿のわたし」。

亀有川から中川を俯瞰した絵図で、遠くに筑波山が見える。

「新宿」の文字から察せられるように、「しんじゅく」は甲州街道の、「にいじゅく」は水戸街道の宿場でした。

水戸街道から分岐する成田街道の始発点が、新宿(にいじゅく)だということになります。

水戸街道を直角に右折すると、やや狭い道が、眠たげに南へ延びています。

信号から右折するのが、成田街道。中川橋を渡って50mくらい東。

それが成田街道。

往時の面影などどこにもない、ありふれたつまらない道です。

最初の寄り道は、

◇浄土宗覚林山宝樹院西念寺(葛飾区新宿2)

本堂に向かって左に、真新しい聖観音立像がおわします。

区の登録文化財として指定されているのが、「解(とき)念仏供養碑」。

この供養碑は、舟形光背に仏像を高肉彫りしたもので、刻銘によって解念仏供養の造立と判明できます。解(とき)は、斎から来たもので、斎の意味から、昼の食事の前に行う念仏講の供養塔であるといえます」(葛飾区教育委員会)

解念仏供養碑は2基あって、八臂の観音さまは、享保7年(1722)の造立。

お地蔵さんの刻銘はないが、同時代造立のものと思われています。

この2体の解念仏供養碑は珍しいが、更なる珍品が、その隣の「生簀守の墓」。

将軍の鷹狩りに際し、食事に供したのは、生け簀の魚だったらしい。

その生け簀の池守を務めたのが、矢作藤左衛門とその子孫。

これは初代矢作騰左衛門の墓だが、崩壊して観音像であることも分かりません。

本人が生前建てた自らの墓である逆修塔だと言われています。

ここまで崩壊する前に現代技術で崩壊の進行をストップさせるべきか、いや、自然に任せてこのまま土に還らせた方がいいと考えるのか、議論の分かれる所です。

珍しいといえば、鯖大師も珍しい。

伝承の中の弘法大師は、親切な接待を受けた村々では、さまざまな奇跡を現わして村人の好意に報いるのであるが、不親切であった人々には、決して寛容ではなかった。(中略)
鯖大師は、大師から鯖一匹を求められた魚売りが断ったところ、所持の魚がすべて腐ってしまったという伝承に基づく造像であり、多くはないが、各地に造立されている」(『日本石仏図典』より)

西念寺を出ると道は緩やかに左カーブ。

そのまま進むと現在の水戸街道、国道6号にぶつかります。

バスが停車しているのが、成田街道、横断するのが国道6号、成田街道は国道の向こうの一方通行へと続く。

その手前に石柱があって「金阿弥橋」とプレートされている。

橋だとすると石柱を結ぶ鉄菅は欄干ということになり、目をあげると今や暗渠となった川らしき緩やかな曲線が目に入ります。

暗渠となった用水路は、国道6号を横切って南下し、それに沿って成田街道が走っていました。

持参資料によれば、信号「中川大橋東」の下に道標があるはずなので、探すが見当たらない。

    信号の下の空き地に道標があった。

所有者の蕎麦屋が廃業し、道標は葛飾区立郷土博物館に保存されているのだとか。

せめてレプリカを建てて置いてくれれば、と思うのですが。

特に見るものもないまま、10分ほど歩くと交番があって、その先を左に入ったところに地蔵堂がある。

左端の石柱は、道標。

上部の浮彫は仏ではなく、猿。

石柱三面に猿を配する庚申塔を兼ねた道標です。

文字は解読不能なので資料によれば、正面は「これより右ハ下川原村 さくら海道」、右側面には「これより左 下の割への道」と刻されているらしい。

「下の割」とは、現在の江戸川区ということだから、成田街道の道標としては当然の刻文ということになります。

隣にあるのは「下河原北向地蔵」。

別の場所から移転した来たもので、確かに北向きではあるけれど・・・

隣のお地蔵さんは、庚申塔で、「正徳二壬辰十月十五日」と読める。

しばらく歩くとJRの貨物線踏切がある。

その手前右に青龍神社の標識。

長い参道を行くと左に蓮池が広がる素晴らしい景観の神社。

景観はいいが、見るべき石造物は皆無で、寄り道した甲斐はない。

◇曹洞宗海島山崇福寺(葛飾区高砂7)

崇福寺は、前橋藩主酒井雅楽守家の菩提寺。

本堂左前に「春ちゃん地蔵」なる小型墓標がある。

傍らの説明板によれば、浅草の元崇福寺の寺域から偶然に掘りだされたもので、300年前の墓だとか。

寺の過去帳には記載されていないが、「萌春童子」とあるので、「春ちゃん地蔵」と呼んでいるとのこと。

ただひたすら歩いて、うんざりする頃「柴又5丁目」の交差点に着く。

柴又街道との交差点。

ここに道標があって、「さくらみち」と読めます。

 

裏に回ると「旧佐倉街道」となっています。

 

佐倉街道と成田街道は同じ道。

「佐倉」にちなんで「さくらみち」と称し、名前負けしないように道の両側に桜を植えて、超長い桜並木を出現させた。

役所仕事にしては、粋な事業と私は高評価します。

折角なので、ネット検索で桜の季節の「さくらみち」を探して、載せておきます。

 次回更新日は、11月16日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

▽「成田街道道中記」

http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-20(谷中7丁目のロ)

2016-11-06 05:29:09 | 寺町

71 天台宗護国山尊重院天王寺(谷中7-14-8)

谷中寺町めぐりの最後が天王寺となった。

上野が寛永寺の影響下にあるとするならば、谷中は天王寺(旧感應寺)の影響下にあると云えよう。

谷中寺町を紹介するならば、冒頭取り上げるべき、それほどの歴史と寺格を有する古刹であり、巨刹です。

たまたま谷中1丁目からスタートしたので、7丁目にある天王寺が最後となったが、谷中寺町の締めくくりとしても十分有意義な存在でもあります。

山門をくぐると、掃除の行き届いたきれいな「広い」境内が目の前に広がる。

広いと言っても谷中寺町の寺にしては、のつもりだが、江戸時代の天王寺を知る人ならば、その無頓着な発言にあきれるのではなかろうか。

なにしろ、谷中霊園の大半は天王寺の境内で、その寺域は谷中寺町にも深く及び、最盛期には子院26坊を数えるほどでした。

 

境内左側の石仏群の中に一際高く、大きく坐していらっしゃるのは、お釈迦さん。

造立年は元禄3年(1690)、造立者は、感應寺第十五世住持日遼と刻されている。

しかし、日遼上人は、この翌年、島流しとなり、感應寺は、幕府から改宗、改名を命じられます。

なぜ、改宗を迫られたのか、なぜ、寺域は数百分の一に縮小されたのか。

「波乱万丈」は普通「人生」とか「生涯」の形容に使われるが、天王寺の「波乱万丈」な「寺歴」を紐解くことで、その答えを見つけてゆきたい。

感應寺の創立は、鎌倉時代の文永11年(1274)、開基者は、関長燿という武士でした。

流罪を赦免されて、佐渡から鎌倉に帰る日蓮が一夜の宿を求めたのが長燿の家。

折しも彼の妻は難産で苦しんでいた。

日蓮がしゃもじに書いた曼荼羅を与えると、うそのように楽々と子が生まれた。

感激した長燿は、小庵をもうけ、しゃもじを祀った、これが日蓮宗感應寺の起源です。

かつて「長燿山尊重院感應寺」と号した山号の「長燿」は開基者の名前だったことになる。

寺を大きくし、隆盛した中興の祖は、日長上人。

元和から寛永にかけての事です。

鷹狩りに来た家光は、日長に心酔し、3万坪の土地を寺域として与えます。

谷中のシンボル・五重塔を建てたのも日長上人でした。

こうした感應寺の豪勢に陰りが見えだしたのが、元禄4年。

幕府により、日蓮宗から他宗への改宗を命じられ、日遼上人は、伊豆八丈島へ遠流となる。

原因は、幕府の禁令に背く不受不施派と目されたこと。

不受不施とは、日蓮の教えの一つで、不受は「法華経を信じない者から施しを受けない」こと、不施は「信者は法華以外の僧に供養をしない」ことを意味する。

この法華経に対する純粋な姿勢は、しかし、現実社会でいろいろと齟齬をきたすことになる。

とりわけ、権力者である為政者が他宗信者の場合、問題が起きやすい。。

「領主の供養が受けられないと云うのか、土地も米も水も俺のものなんだから、いやなら改宗するか、廃寺せよ」

この圧力は、秀吉、家康と次第に強くなり、寛文9年(1669)には、ついに寺受け制度から不受不施派を締め出し、徹底的な弾圧を加えることになる。

法華宗側も、為政者からの供養は受けようとする現実派の「受不施派」とあくまで理念的に行動しようとする「不受不施派」に分裂して、理念派は「隠れ法華」としての活動を余儀なくされます。

「不受不施」について書けば、切りがないので、この辺で終わりに。

そうした動きの中で、感應寺の事件は起きた。

寺は、天台宗に改宗して、寛永寺末寺となる。

寺宝の祖師の曼荼羅しゃもじは、谷中の日蓮宗瑞輪寺に移された。

(このブログ谷中寺町NO37「安産飯匙の祖師」  http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=ffc31cdca40d3aa572dc8f0f0a1cf149&p=1&disp=30

をご覧ください。)

改宗は命じたものの、将軍綱吉は感應寺領38万石は減じなかったので、境内の風景は変わることはなかった。

しかし、日蓮宗から天台宗への改宗は、当然、檀家数の激減を招き、寺の台所は目に見えて悪化する。

窮余の一策として寺が編み出したのが、富くじの実施。

幕府に許可を求めたら、すんなりとOKが出たというから、面白い。

「江戸の三富」といえば、湯島天神、目黒不動尊、谷中感應寺を指すが、最盛期の化政時代には、31か所で富突きくじが行われていたという。

中でも谷中感應寺が一番人気で、札の発売日には、一攫千金を夢見る人たちで、谷中は賑わった。

(*改宗はしたが、寺号「感應寺」の改名には時間がかかり、現在の「天王寺」となったのは、140年後の天保4年。化政時代は、感應寺のままだった。)

感應寺での抽選は、般若心経を坊主が誦するなか、キリで箱の中の木札を突き刺して当たり札を決める。

1等は300両、2等20両の他前後賞など各賞があったが、当選者はその1-2割を冥加金として、寺に納めた。

富くじが終われば、谷中のいろは茶屋に繰り出して、当選者は祝杯を、大多数はやけ酒を呑んだ。

「いろは茶屋 中腹まぎれ上がるとこ」
「しっかりと握って通るいろは茶屋」。

いろは茶屋は、感應寺の門前町にあった。

初めは、文字通りの茶屋だったが、次第に私娼窟として賑わうようになる。

実はこの茶屋町も、感應寺財政立て直しの一環として、寺が申請し、幕府が許可したものだった。

富くじといろは茶屋の隆盛は、寺の懐を豊かにした。

いろは茶屋の客筋を揶揄する川柳がある。

「武士はいや町人すかぬいろは茶屋」
「円いのを専らに呼ぶいろは茶屋」。

感應寺の坊主を指してのことではなく、谷中、下谷、浅草、本郷の僧侶を指してのことだが、坊主がメインの客筋だったことが判る。

こうなると宗教とは何ぞや、信仰とは何ぞや!と、???疑問符だらけの世界に舞い込んでしまうが、寛政8年(1796)には、悪所帰りを一網打尽にされた僧70人が日本橋で晒し者になるという事件があった。

それほど仏教界は、堕落しきっていたということになります。

 

上野戦争では、天王寺は彰義隊の陣営となり、官軍の砲撃の的となった。

戦火で大半が焼失、残ったのは本坊と五重塔のみ。

しかし、官軍による大打撃は、維新後に炸裂する。

まず幕府からのお墨付きの境内地1万6000坪が明治政府に取り上げられ、更に共同墓地用に寺域を削られて、さしもの大寺も昔の面影を失くしてしまうこととなる。

以上が、「波乱万丈」の天王寺の寺暦。

短く書いたつもりだが、「波乱万丈」なだけに、どうしても長くなってしまう。

この谷中寺町シリーズでは、異例の長さだが、天王寺を理解するには不可欠な事柄ばかりで、短くしようがない。

 

では、本来の石造物紹介へ。

山門から境内に入ると左に地蔵銅像。

台石に「学童守護」とあって、制服の小学生群像が刻されている。

昭和10年(1935)、小学校の校庭で不慮の事故で亡くした二人の息子を悼む供養塔。

作務衣姿の男が手押しポンプで水をくみ上げている。

谷中寺町で見たポンプは、これで何台目だろうか。

ポンプの密集度では、谷中がダントツの都内NO1といえそうだ。

本堂に向かって左の木蔭に石造物が多い。

すらりと伸びやかな石仏がおわして、標石には「若柳観音」とある。

石仏図典で調べても「若柳観音」はない。

日本舞踊の若柳流と関係があるのだろうか。

銅像の釈迦牟尼仏は、先述したように、日蓮宗寺院だった頃の最期の造仏。

釈迦牟尼仏の前にあるのは、賽銭箱か。

不受不施派の日遼上人造立ならば、信者でない人が布施する可能性のある賽銭箱は置かないはずなのに、どうしたことだろうか。

後世、天台宗に改宗してから付け加えたのだろうか。

これは、宝塔だろうか、宝篋印塔だろうか。

判らないといえば、その隣の石造物も見たことがない。

お分かりの方、教えてください。

これは、六地蔵石幢。

石幢の右後方に見えるのが、庚申塔群。

なんと8基もある。

谷中寺町全体で3基とか4基しかなかったのに、これはどうしたことか。

中央の一際高いのには、寛文三年(1663)とある。

都内で最も古いものの一つといえよう。

六地蔵石幢の近くの暗がりに青面金剛が潜んでいる。

素朴な像容で古そうだが、目を皿にして探しても年代は不明。

本堂前に石標がある。

 近寄って見たら「沙羅双樹」とあり、木の説明だった。

お釈迦さまの前に沙羅双樹。

去年行ったスリランカの仏教寺院を懐かしく思い出した。

そこでは、沙羅双樹ではなく、菩提樹が聖樹だったが。

塀沿いに奥へ。

聖観音と如意輪観音がポツンと忘れられたようにおわす。

いずれも墓標で、如意輪観音には、寛永廿年の文字が読み取れる。

寛永年間の石仏は、都内では、そう多くない。

さすがに都内きっての古刹だと感心する。

付け加えれば、墓地にも寛永期の五輪塔がある。

 

塀越しに日暮里駅のホームが見下ろせる。

新幹線が天王寺境内の下を走り、日暮里駅の先から地上に出ると聞いたことがある。

新幹線が通る度に振動でもあれば、実感するだろうが、勿論そんなことはないから、絵空事のように現実感がない。

ぐるっと本堂と庫裏を一周して、モダンなステンレススチールの「新山門」を出る。

この辺りいつでも観光客が絶えない。

外人の姿も多い。

おそらく谷中寺町で、一番集客力のある寺ではなかろうか。

左に小堂があって、地蔵と青面金剛がおわす。

千羽鶴が吊り下がり、千社札が所狭しと貼られて、朱色の頭巾を被ったお地蔵さんは涎かけをして、草鞋を持っている。

ここだけは、江戸か明治、そんな時代錯誤を覚える一画です。

寺の塀沿いに日暮里駅方向へ。

消火栓の傍に戦時中の防火用水がある。

寛永の如意輪観音も珍しいが、この防火用水や現役の手押しポンプも貴重だと私には思われる。

より便利な新製品がどんどん登場する現代、捨てられないでこうしてあることが、奇跡的だからです。

防火用水の向かいの民家には、なぜか、タヌキが睨みをきかせている。

 「谷中寺町」は、今回で終了。

次回からは、「成田街道の石造物」です。

更新は、11月11日の予定。

 

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-19(谷中7丁目のイ)

2016-11-01 06:54:05 | 寺町

谷中寺町も、最後の7丁目に。

谷中7丁目の大半は、谷中墓地。

 寺は、功徳林寺、了俒寺、安立院、天王寺の4か寺を数えるのみ。

 

68 浄土宗功徳林寺(谷中7-6-9)

モダンな本堂の脇に山門から参道が真っ直ぐ伸びている。

その先に赤い鳥居があって、そこが笠森稲荷。

全てが「新しく」、「直線的」で、夾雑物はない。

石造物もない。

正確に言うと本堂付近にはなくて、稲荷神社前に、狐が2匹いるのみ。

浄土宗寺院の功徳林寺について書くべきことは皆無で、話題はもっぱら笠森稲荷になるのだが、これが紆余曲折、複雑怪奇な話で、気軽に手を付けられない。(*もう一つの笠森稲荷については、谷中寺町6、NO20大円寺をご覧ください)

順を追って話を整理しよう。

 (1)谷中が寺町になる前から地元にあった感應寺(現・天王寺)は、谷中墓地の大半を含む広い寺域を有していた。

(2)その感應寺門前に、八代吉宗公に従って江戸に来た倉地甚四郎なる武士が、紀州から笠森稲荷を勧請した。その笠森稲荷と別当の福泉院の所在地が、現在の功徳林寺の寺地。

(3)明治初年の廃仏稀釈で福泉院は廃寺。笠森稲荷は、寛永寺の子院養寿院に移った。

(4)明治時代半ば、空地だった福泉院跡地に現在の功徳林寺が創建され、メモリアル遺構として笠森稲荷が再建された。いわば、これは、ダミーの笠森稲荷ということになります。

笠森稲荷をこれだけ詳述して、江戸きっての美女「笠森お仙」に触れないわけにはいかないだろう。

お仙は、笠森稲荷地内にあった水茶屋の女。

水茶屋には、文字通りの、冷や水一杯を出す休憩所と売春宿の両義があるが、お仙は、前者の茶屋娘。

明和(1764-1772)の初めころ、茶屋に出たお仙は13歳だった。

スッピンの百姓娘は、しかしながら、あっというまに江戸市中にその美貌を知られることになり、一目見たさに弥次馬が店に押し寄せた。

「天性の麗質、地上の上品、琢(みが)かずして潔、容(かたちづくら)ずして美」と表現したのは、大田南畝。

その美しさは、鈴木春信の筆によって余すところなく描かれている。

笠森お仙は、昭和のスター山口百恵に似ていると私は思う。

共通点は、出処進退の潔さ。

お仙は19歳になった明和7年(1770)、突然、店から姿を消した。

腕っこきのかわら版屋が探し回ったが、行き先は燿と知れなかった。

が、実際には、言い寄る男たちを袖にして、さっさと結婚していた。

お相手は、笠森稲荷を紀州から勧請した倉地家の跡取り息子だったというから、まるで小説の筋書きみたい。

若い時にスターとなると、その引け時が難しい。

更に難しいのは、引退後、その動静が世に知られないこと。

お仙と百恵はその点、完璧な身の処しようだったといっていい。

お仙の墓は、中野・上高田の正見寺にある。

このブログの、「東京の寺町シリーズ(3)、NO48中野区上高田」で正見寺のお仙の墓についても触れているが、遺族の意向で非公開だと書いている。

世の中と遮断するという姿勢が、死後の世界まで徹底されていることに、清々しい感動を禁じ得ない。

功徳林寺の前を右へ、長安寺前をもう一度右折して民家が途切れた所にあるのが、

69 天台宗随龍山了俒(ごん)寺(谷中7-17-2)

 山門前の石塔に大きく「天台宗」とあるが、寛永元年(1624)創建時は、日蓮宗だった。

創立した日安尼の五輪塔墓塔が本堂右前の墓域にある。

本寺の感應寺(現・天王寺)とともに日蓮宗の不受布施派に属していたが、元禄11年(1698)の不受布施禁令により、時の住職妙用比丘尼は島流しとなり、同時に天台宗への改宗を余儀なくされた。

歴代住職の没年一覧の妙用比丘尼の行には、「法難により配流」と刻まれている。(出所は、森まゆみ『谷中スケッチブック』だが、探しても見当たらなかった)

 

 了俒寺を出て、谷中墓地へと入って行く。

交番にぶつかったら左折、ここが墓地の中央通り。

右に五重塔跡を見てゆくと「安立院」の標識があり、小路の先に山門が見える。

 70 曹洞宗長燿山安立院(谷中7-10-4)

隣の天王寺(旧感應寺)の子院だったというのだが、日蓮宗でもなく、天台宗でもなく、曹洞宗なのは、なぜなのだろうか。

本堂に向かって左手に石仏群。

まず、六地蔵。

仏名が、それぞれ明示してある。

境内左隅の石仏、右端は聖観音立像。

ただし、これは石像ではなく、銅像。

昭和56年(1981)、浅草の住人が、秩父、坂東、西国、百観音霊場巡拝達成記念に造立したもの。

きりっと佇立する宝篋印塔。

その左隣の地蔵立像の台石には「戦死病没 震水火災横死 有縁無縁法界萬霊」の文字が読み取れる。

その地蔵供養塔の左には、小型の地蔵が10体並んでいる。

うち3体には番号があって、例えば下の地蔵だと、右側に「八萬四千躰之内」、左に「第五千八百五十八番」と刻してある。

これは、谷中墓地を挟んで南側の「浄名院」の八萬四千体地蔵の一つ。

浄名院の八万四千体地蔵については、このブログNO8「八萬四千体地蔵」をご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=feb66aaf533d9d82f5cd67bfede1bbe4&p=8&disp=30

木の茂みに隠れて見えにくいが、2基の石造物がある。

細長い石塔には「印度佛蹟巡拝墳土供養」とある。

珍しい。はじめて見た。

もう1基は、上部に「南無/将軍/地蔵/尊」と右から2字ずつ縦に刻んである。

その下に線彫の将軍地蔵がおわすのだが、線が薄くてはっきりとは見えない。

希少品なのに、線彫りの宿命、見にくくて、残念。

 

次回が、「谷中寺町シリーズ」の最終回。更新は、11月6日です。

 

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html