葛飾八幡宮から成田街道(=千葉街道=国道14号)に戻りひたすら東へ、と書く所ですが、実際は京成八幡駅から二つ目の京成中山駅まで電車で移動するというズルをしました。
資料を見ても、この間は、見るべきものがなさそうだったからです。
京成中山駅を降りると、そこは法華経寺の参道。
日本全国、門前町は数知れずありますが、その大半は閑古鳥が鳴いているのが現状。
そうした現状からすれば、ここの参道は別世界、シャッターを下ろしている店はありません。
さすが日蓮宗の名刹法華経寺の門前町です。
◇日蓮宗正中山法華経寺(市川市中山2)
踏切を渡ると見えるのが総門、通称、黒門です。
扁額の文字は「如来滅後 閻浮提内 本化菩薩 初転法輪 法華道場」。
道場は、修行の場を意味しますが、そういえば、ここ法華経寺の百日荒行はその過酷さで有名です。
次なる山門は、赤門。
朱色が剥げ落ちて、黒門みたいです。
赤門前には、金色の六字名号題目塔。
金色は、宗旨とどのように合致するのだろうか。
か。
門前右端には、祖師立像。
「立正安国を説くお祖師さま」とあります。
赤門を過ぎると両側に子院が並んでいます。
「本妙寺」をどこかで見たことがあると思って調べたら、法華経寺は13世紀の末、法華寺と本妙寺の二つの寺が合体して出来たもので、現在の法華経寺の境内は、もともと本妙寺だった所なのだそうです。
それなのに何故本妙寺は、まるで末寺みたいにそのままあるのか、「庇を貸して母屋をとられた」感がぬぐえません。
広い境内には、国宝、重文クラスの建造物が点在し、文化財の宝庫ですが、このブログは石造物をテーマとするので、建築物はスルー。
しかし、指定文化財の石造物は皆無で、途端に撮影対象を探すのに苦労します。
もともと日蓮宗寺院には石仏は少ないのですが、それはここ法華経寺も例外ではありません。
石仏だけでなく、顕彰碑、句碑なども、あまり見かけません。
ということで、期待せず、境内を回ることにしましょう。
売店を右に見ながら境内に入ると青銅の燈籠が目に入ります。
台石に「江戸惣講中」とある。
法華経寺の沢山の講のうち江戸市民の講の総ての寄進ということでしょうか。
五重塔の前に石仏墓標群。
何の変哲もないありふれた石仏で、なんでここにあるのか不思議です。
祖師堂の前には、「あの」浄行菩薩が。
「あの」というのは、「あ、ここにも、また」という気持ちの現れです。
浄行菩薩にかける水は、傍らの井戸でくみ上げたのでしょう。
「星乃井」というのだそうで、何か曰くがありそうですが、ネット検索では分かりません。
祖師堂の右手の茂みの中に、中山大仏と呼ばれる釈迦如来坐像がおわします。
享保4年(1719)の鋳造で、身の丈1丈6尺(約4.8m)、台座2間半(約4.5m)の大きさです。
大仏の左の立像は、「日常聖人」像。
日常聖人は、富木常忍(ときつねのぶ)という武士でした。
鎌倉へ向かう船の中で日蓮と出会った彼は、日蓮の説法とその人柄に惹かれて壇越となります。
松葉ケ谷法難(*)で辛くも逃げ延びた日蓮は、下総中山の富木常忍の館に身を寄せます。
(*松葉ケ谷法難とは、日蓮四大法難と呼ばれるものの一つ。日蓮が、文応元年(1260)7月16日)に鎌倉幕府の五代執権北条時頼へ『立正安国論』を提出し、その内容が当時起こっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を始めとする念仏教や禅教などの邪教に起因するものとし、幕府へ宗教政策の転換(正法を法華経とする)を促す内容であったため、その約1ヶ月後の8月27日に浄土教信者である念仏者たちによって草庵を夜間襲撃・焼き討ちされた事件を言う。)
日蓮の死後、出家した常忍は、自宅に法華堂を建てますが、これが法華経寺の始まりと言われています。
日常聖人像の裏手に、本院と大客殿、左に荒行堂があります。
ここから祖師堂の裏に回り、宝殿門、清正公堂、宇賀神堂、四足門、法華堂、妙見堂、刹堂と見て回りますが、なんと石造物はありません。
宝殿聞の裏に講中が建てた題目塔2基と句碑が1基、それに刹堂に燈籠が1基あるのみ、いかにも日蓮宗寺院らしい光景でした。
妙見堂の横には池が広がって、その池を左に見ながら本行院への道を進むと、右手に無縁墓標がずらりと並べられています。
近寄って見ると「寛永」の文字が。
寛永期の墓標は、東京でも散見できますが、これほど数多い墓地は少ないでしょう。
寛永以前のものもあるか探しましたが、見当たりません。
あってもおかしくないのに、なぜないのか、謎です。
五重塔の前から一般道へ出て、奥の院へ。
道路の右の子院の内、法宣院は、不受不施派の祖・鍋冠り日親(*)が若い頃、修行し、得度した寺です。
鍋冠り日親とは「法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれる」(Wikipediaより)
恥を晒せば、私が、不受布施派や鍋冠り日親を知ったのは、前回の「谷中寺町」で日蓮宗寺院を回ったときでした。
彼の反骨精神のすばらしさに魅力されて、一気にフアンとなったものです。
奥の院へは、緩やかな上り道。
道標が立っています。
二つの道標を過ぎるとすぐそこが奥の院。
鬱蒼とした木立に囲まれて、昼なお暗い印象です。
入口に「宗祖最初転法輪旧蹟」の石塔。
初転法輪とは、お釈迦さまの最初の説法のこと、この場合は、日蓮が最初の説法をした場所ということになります。
信者にとっては聖地以外のなにものでもありません。。
その奥にもう1基。
開所日常上人御廟所
南無日蓮大菩薩百座説法最初之地
六浦日貨上人安置
境内に入ってゆくと、左に日常上人像。
日常上人は、法華経寺の開基者。
俗名は、富木常忍(ときつねのぶ)という武士でした。
この奥の院は、富木常忍の館のあったところで、法難で辛くも逃げ延びた日蓮が身を隠した場所でした。
日蓮はこの地で説法を100回も行い、大勢の信者を獲得したと云われます。
富木常忍は、日蓮の死後、出家、法華経寺をこの地に建てます。
本堂の前には、小型の水子地蔵がズラリ。
聖地にはそぐわない光景のように、私には思えますが・・・
また、境内奥には、滝が落ちる池があって、崖上に弁才天がおわします。
池の前の説明板には、弁財天がここにある理由を
「弁才天は古来より宇賀徳正神と表裏の関係で祭祀されることを思うと当寺の弁財天も表裏の関係と思われる」
と述べていますが、何のことやら、さっぱり分からない文章です。
珍しく本堂に上がって見たら、日親上人が祀られている。
不受不施派を徹底的に弾圧した幕府が、不受不施派の元祖日親を祀ることにクレームをつけなかったのだろうか。
それとも明治以降に祀られたのか、ちょっと気になります。
次回更新日は、12月01日です。
≪参考図書とwebサイト≫
〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年
〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年
〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年
▽「成田街道道中記」
http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html
▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html
▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」
http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html