北一輝顕彰碑の左隣は、勢至堂。
堂前まで行けるが、直前で鉄柵で遮られて、近づけない。
説明板には、「目黒区有形文化財」とある。
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北一輝顕彰碑の左隣は、勢至堂。
堂前まで行けるが、直前で鉄柵で遮られて、近づけない。
説明板には、「目黒区有形文化財」とある。
8 日蓮宗・本覚寺(松が谷2-8-15)
山門を入ってすぐ右手が祖師堂。
祖師と云っても日蓮ではなく、六人の弟子の一人日朗を祀るもの。
30日を限って願いをかければ願いが叶うということから、日限(ひぎり)祖師、あるいは日限満願祖師と呼ばれている。
この祖師堂の前には、都内では珍しいお百度参りの石柱群がある。
実は、この百度石には忘れられない思い出がある。
4年前の11月、寺に入ろうとして、「南無妙法蓮華経」を唱えながら、足早に百度石と祖師堂を行き来している女性に出会った。
お百度参りは、時代小説の中だけのものと思い込んでいたので、驚いた。
足早に歩いて祖師堂の前で合掌し祈る、しばし、彼女の動きを見ていた覚えがある。
本堂に向かって左に蟇大明神の蟇堂がある。
堂の中と周りには、大小の蟇蛙があふれんばかり。
関東大震災で埋もれていた蟇塚を掘り起こした。
その蟇塚にお参りし、願をかけたら叶った男が感涙して堂を建てたというお話。
カエルの大小は、ご利益によって大きさが異なるのだろうか。
百度参りにしろ、蟇大明神にしろ、民間信仰が今も息づいているのは、さすが浅草界隈、と妙に納得してしまう。
9 真宗大谷派・真龍寺(松が谷2-11-3)
真龍寺は、第一次鳩山内閣の文部大臣、安藤正純の生家。
新聞記者から政治家へ。
松葉町初代町会長として矢先稲荷神社の昇格などにも働いた。
≪つづく≫
6 日蓮宗・妙音寺(松が谷1-14-6)
都内には珍しい蚕の神「金色養蚕大明神」が祀られている。
写真、鳥居の奥に黒御影の金色養蚕大明神。
薄い浮彫で、肉眼でも、神像ははっきりしない。
鳥居に向かって左手に、石塔もある。
「金色養蚕大明神」の金色は、蚕神としての金色姫のこと。
常陸の国(茨城県)の三つの神社、蚕影(こかげ)神社、蚕養(こがい)神社、蚕霊神社の蚕神でもある。
伝説では、インド王姫として生まれた金色姫は、継母にいじめられ、それを不憫に思った王が姫を船に乗せて海に流した。船は常陸の国に流れ着き、漁師の権太夫夫婦に助けられる。しかし、金色姫はまもなく亡くなり、その霊魂または死骸が蚕となり、養蚕が始まったというもの。
江戸から明治になっても、都内には養蚕農家が沢山あったことが、金色養蚕大明神があることで分かります。
7 浄土宗・聖徳寺(松が谷2-3-3)
境内に玉川上水を開削した玉川庄右衛門、清右衛門兄弟の墓がある。
徳川将軍家の正史『徳川実紀』承応二年(一六五三)正月十三日の項に「麹町。芝口の市人等。八王子玉川の水を府内にひかんことをはかりて。うたへ出しをゆるされ。費用とて金七千五百両給付」とあり、翌年六月二十日の項には「この日去年命ぜられし玉川上水成功せしにより。其の事奉はりし市人へ褒金三百両下さる」と記されている。
上水掘削に成功し、褒金300両を下された市人の名は書かれてないが、玉川兄弟だったことは間違いない。
都下羽村市の玉川兄弟像
兄弟の死後220年も経って、明治政府から従五位を追贈されていることからも明らかです。
二人の戒名には「従五位」が麗々しく織り込まれています。
「隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士」
「摂取院殿贈従五位光誉照山大居士」
玉川兄弟の墓の反対側にちょっと洋風な浮彫石像がある。
仏名は何か、寺に問い合わせてみた。
「寄贈されたもので、観音様だと聞いている」との返事だった。
3曹洞宗・祝言寺(松が谷1-6-17)
寺の名前としては珍しい「祝言」は、開基したところが祝言村だったから。
明暦の大火後、この新寺町へと移ってきた。
中国風山門をくぐると本堂への参道両脇のハスが目に入る。。
枯山水の波の上にハスの花が今にも咲きそうです。
境内の一角に鍋を被った石造物がある。
風化して、表面が崩れて石仏なのか石碑なのかも不明だが、資料には「鍋かぶり地蔵」とある。
眼病に御利益ありとされるらしいが、その由来は、はっきりしない。
『武蔵野の地蔵尊(都内編)』の著者三吉朋十氏は、「これ以上の破壊を防止しようと誰かが古なべをかぶせたのが、そのままになっているのではないか」と推測する。
4 真宗大谷派・皆応寺(松が谷1-6-17)
5 真宗大谷派・光桂寺(松が谷1-5-12)
両寺とも浄土真宗寺院。
境内には、見るべき石造物はない。
(続く)
東上野と西浅草の間の寺町は、明暦の大火後、曲輪内からの疎開によるものであることは、前回述べた。
江戸時代初期、江戸とは、ほぼ曲輪内を指していた。
全国諸侯の屋敷と寺院は、狭い廓内に密集し、その再編成には武家屋敷の整理と寺院の疎開が不可欠だった。
台東区は疎開先の受け入れ地として、最適候補地だった。
寛永寺と浅草寺に挟まれ、廓にも隣接した空地は、寺院の格好の疎開地だった。
疎開前の寺院の所在地は、馬喰町、谷ノ蔵、須田町、八丁堀、湯島など。
第一次転出持院数は、33を数えた。
上野、浅草間の寺町、2回目の今回は松が谷編。
浅草通りの北、かっぱ橋道具街の西の一画です。
1曹洞宗・東国寺(松が谷1-2-3)
よほど注意していないと、見逃してしまう。
「東国寺」の石柱があるだけで、目に入るビルはマンションばかりだから、通り過ぎるのも無理はない。
マンションとマンションの狭い通路(参道?)を行くと駐車場、その奥に墓域が広がっている。
墓地に入って見たかったが、「立ち入り禁止」の警告があり、退散。
2浄土宗・広大寺(松が谷1-4-3)
東国寺から西へ浅草通りを進むと、右に広大寺の山門が見える。
緑豊かな境内が暑さを忘れさせてくれる。
庫裏の呼び鈴を押す。
現れた住職に「宇野浩二の墓をお参りしたいのですが・・・」と声をかけたら、「案内しましょう」としきみと線香を持って墓地へ。
しきみを供え、線香を点して立ち去りながら住職は「花代や線香代は結構です」。
何十もの有名人の墓を訪ねて寺を回ったが、こんな経験は初めて。
親切な住職がいるものだと驚いてしまう。
小説を読んだことはないのに宇野浩二の名前を知っているのは、松川事件の裁判が私の小学生時代から大学生時代にかけて進行し、被疑者の無罪論を展開し、支援運動の中核をなした人物として、しばしば新聞紙上でその名を散見したからに他ならない。
昭和36年(1961)、仙台高裁の差し戻し裁判での全員無罪判決を知って間もなく、喀血して死去。
法名・文徳院全誉貫道浩章居士。
冤罪事件の報道に接するたびに、なぜか私は、松川事件と作家知識人の支援運動を思い出してしまうのです。
17 真宗東本願寺派・徳本寺(西浅草1-8-11)
でも、裏口のようなので、グルっと回って、正面へ。
墓域には、江戸城内で田沼意次の子意知(おきとも)を切り付け、切腹を命じられた「世直し大明神」こと旗本の佐野善左衛門政言(まさこと)と江戸中期の画家宋紫石の墓があるというが、寺にことわってまで入る気がせず、断念。
18 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺(西浅草1-5-5)
恥を晒せば、我が家の宗派が浄土真宗と知ったのは、両親の葬儀の時でした。
墓もなく、それまで仏事らしい仏事をしたことがなかったせいでもあります。
宗教に無関心だったからかもしれません。
更に言えば、浄土真宗ではあるものの、西なのか、東なのか、我が家はどちらに所属しているのか、今でも知りません。
今回、西浅草の寺町を書くにあたって、何点かの資料を参考にしましたが、本によって「浅草本願寺」、「東京本願寺」、「本山東本願寺」と名称が異なるのに面喰いました。
子院も東本願寺派もあれば、大谷派もある。
何が何だか分からないので、ネット検索。
私にとって一番わかりよかったのが、Yahoo知恵袋のベストアンサー。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1253254262
明暦の大火で神田明神下から移転するにあたって、幕府から移転先として示されたのは築地と浅草だったそうで、もし築地を選んでいれば、東西本願寺が軒を並べて、内部抗争の愚が形として見られたのに、とこれはつまらない「たら、れば」でした。
これで西浅草1の寺まわりは終わり。
願龍寺を出て、浅草通りを西へ。
右手に「浅草本願寺」の巨大石塔。
まっすぐに伸びる参道の向こうに東京本願寺の威容が横たわっています。
参道両脇には2階建て木造家屋が並び、昭和の匂いを漂わせています。
東本願寺に向かって左に善照寺。
16 真宗東本願寺派・善照寺(西浅草1-4-15)
狭い参道の奥に本堂。
本堂の右脇に墓地への道。
墓地入口の手前を右に曲がると都指定の旧跡、清水浜臣の墓があります。
私は清水浜臣を知らない。
ネットで調べたら恰好なサイトがあった。
「やまとうた」http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
清水浜臣の経歴と作品紹介を転載しておきます。
清水浜臣 安永5-文政7(1776-1824)号 泊洦舎(ささなみのや)
江戸飯田町の町医者の家に生まれ、家業を継ぐ。通称、元長(玄長とも)。若くして村田春海に入門し、和歌と古学を学んだ。千蔭・春海亡き後江戸派を代表する歌人となる。門弟には前田夏蔭・岡本保孝(況斎)・岸本由豆流などがいる。土佐の鹿持雅澄とは書簡によって親しく交流した。諸侯から招かれることも多く、松平定信の寵遇も得た。上野不忍池の西に住み、自邸を泊洦舎(ささなみのや)と称した。文政七年(1824)八月十七日、没。四十九歳。
参道を挟んで、善照寺の反対側にも寺があります。(続く)
15 真宗大谷派・長敬寺(西浅草1-2-7)
一見、料亭かと思った。
すっきりとした粋な佇まいに寺を思わせるものはない。
いろんな寺を見てきたが、長敬寺は、ビル寺を除いて、「寺らしくない寺」NO1。
長敬寺から浅草通りへ向かうと願龍寺がある。
16 真宗大谷派・願龍寺(西浅草1-2-16)
墓地入口の左に「山田宗徧居士 茶徳碑」があります。
宗徧(1627-1708)は江戸初期の茶人。
千利休の孫宗旦の門に入り千家を譲りを受け、不審庵、今日庵を継ぎます。
70歳の時、江戸に進出、本所に構えた四方庵が、江戸千家流茶の湯の礎となります。(と、説明版(台東区教委)にある)
さらに墓地奥に「柳河春三の墓」がある。
ネットで調べてはみたが、境内にある解説板が一番詳しいので、全文、転載しておきます。
「柳河春三は、天保3年(1832)名古屋生まれ。神童の誉れ高く天才ぶりを発揮、さまざまな逸話を残している。25歳で江戸に出た彼は、医を業とし、蘭学はもとより英、仏、和、漢など11ケ語に精通し、著訳書も医学、薬学、理学をはじめ、書画・詩歌・戯作に至るまで多方面にわたり、40余の別名を巧みに使った。
幕末維新における希世の知識人で、非凡の才能を駆使して外国文明の導入と普及に努め、多大の業績を挙げた。安政4年(1857)日本初の体系的西洋初等数学書「用算用法」を著す。
また、慶応3年(1867)これも日本初の雑誌「西洋雑誌」を刊行、国語教科書の先駆「うひまなび」を編集、翌年「中外新聞」を創刊し、日本最初の新聞発行人として知られている。明治3年(1870)2月20日、37歳で没、当眼龍寺に葬られる。 名古屋在住 中村祐猿識す」(続く)
14 真宗大谷派・等光寺(西浅草1-6-1)
西光寺の隣の等光寺には、石川啄木の碑がある。
兄が等光寺の住職だった土岐善麿の善意の計らいで、啄木の母、啄木、長女と次女の葬儀は等光寺で営まれました。
碑歌は「浅草の夜のにぎはいに
まぎれ入り
まぎれ出て来し 淋しき心」
(『一握の砂』 第一章「我を愛する歌」より)
妻子を置いて、函館から単身上京した啄木は膨大な借金を抱えていた。
朝日新聞の校正係として月給25円の安定収入を得ても、すぐ家族を呼び寄せることはありませんでした。
母と妻との不和がうっとうしい。
作品がなかなか世に認められないいらだちもあった。
前借した金を持って出かけたのは、浅草の人ごみでした。
「人のいないところへ行きたいという希望が、このごろ、時々予の心をそそのかす。人に見られる気遣いのない所に、自分の身体を自分の思うままに休めてみたい。予はこの考えを忘れんがために、時々人の沢山いる所へ行く。しかし、そこにも満足は得られない。」
満足を求めて啄木が向かった先は、浅草12階下の私娼窟でした。
「時としては、すぐ鼻の先に強い髪の香を嗅ぐ時もあり、暖かい手を握っている時もある。しかしその時は予の心が財布の中の勘定をしている時だ。否、いかにして誰から金を借りようかと考えている時だ! 暖かい手を握り、強い髪の香を嗅ぐと、ただ手を握るばかりでなく、柔らかな、暖かな、真っ白な身体を抱きたくなる。それを遂げずに帰って来る時の寂しい心持ち! ただに性欲の満足を得られなかったばかりの寂しさではない。自分の欲するものはすべて得ることができぬという深い、恐ろしい失望だ。」(明治42年4月10日のローマ字日記)
「浅草の夜のにぎはいに
まぎれ入り
まぎれ出て来し 淋しき心」
貧窮のまま、函館から家族を呼び寄せます。
だが、生後間もない長男の死という悲運に見舞われる。
やがて、啄木をはじめ、妻、母が相次いで結核を罹病。
母の葬儀を等光寺で営んだ1か月後、啄木本人もこの世を去ります。
明治45年4月13日、27歳の若さでした。
彼の葬儀も、ここ、等光寺で行わました。
岩手県渋民村の生家は寺でしたが、売り払ってしまっていたため、故郷での葬儀は挙げられなかったのです。
この碑は、啄木生誕70周年に友人金田一京助らの手によって建設された、と碑の傍らの解説板にはある。(続く)
11 真宗大谷派・宗恩寺(西浅草1-6-7)
狭い境内に自然石の石碑。
達筆で「念仏成仏」。
書いたのは、当山24世住職、織田得能。
彼は、この寺の蔵に閉じこもって『仏教大辞典』 を執筆した、と門前の、台東区教育委員会制作の説明板には書いてあります。
12 真宗大谷派・通覚寺(西浅草1-6-6)
通覚寺から浅草通りへ向かい、最初の角を左折すると左に西光寺。
13 真宗大谷派・西光寺(西浅草1-6-2)
池波正太郎の墓を参りたいとお寺に断わって、ビルの通路を通って、墓地へ。
台石に「池波」とあるだけで、探すのにやや手間取った。
池波正太郎の小説は『鬼平犯科帳』などを『オール読物』などの小説雑誌で読んではいたものの、単行本が本棚に並ぶことはない、その程度の読者です。
小説よりは、むしろ、エッセーを好んで読んでいたような気がします。
蕎麦、てんぷら、どぜう、エッセーに触発されて行っては見たものの、長い行列とせわしない接客に幻滅を感じた店もありました。(続く)
6 真宗東本願寺派・緑専寺(西浅草1-8-5)
寺院らしきところがまったくない。
7 真宗東本願寺派・真福寺(西浅草1-6-13)
8 真宗東本願寺派・善龍寺(西浅草1-9-2)
9 真宗大谷派・来応寺(西浅草1-6-12)
10 真宗大谷派・園照寺(西浅草1-9-3)
東京の寺町シリーズはこれで5回目だが、こんなに何も書くことがないのは、初めて。
境内にあるのは車だけ、石造物は皆無。
墓地は、あるのかないのか、それすら分からない。
ビル寺院は近寄りがたく、まるで要塞のようなのです。
そのまま進むと本山東本願寺へ着きますが、入らずに左折。
宗恩寺、通覚寺と二つの寺がならんでいます。(続く)
清光寺のブロックの角を左に曲がると、本山東本願寺の参道。
道の突当りが東本願寺。
道の両脇に子院が並びます。
これからいくつかは、寺号と写真のみ。
2真宗大谷派・敬覚寺(西浅草1-8-2)
3 真宗大谷派・運行寺(西浅草1-7-12)
4 真宗大谷派・光円寺(西浅草1-7-11)
5 真宗大谷派・専勝寺(西浅草1-8-4)
本堂脇に珍しく墓地がある。
他の寺にもあるのだが、見えないだけ。
≪続く≫
次回更新は、2月11日です。
このブログを時々読んでくれる数少ない友人の読後感想は、いつもきまっています。
「長くて読み通すのが大変だったよ」。
これでも、4,5年前に比べれば、短くなっているのですが。
以前は約2万4000字くらいが1回分でしたが、今はその3分の1、8000字位、長くても1万字以内に抑えるようにしています。
それでも長く感ずるのは、スマホや携帯で読むから。
パソコンよりスマで読む人の方が多いというデータもある。
それでなくて少ない読者を更に減らしたくはないので、今回からは、1回2000字位にします。
今回は、シリーズ「東京の寺町」9回目。
台東区西浅草、松が谷界隈の寺町。
写真を見ると分かりますが、実は4年前の夏取材したもの。
ブログに纏めはしたが、なぜかUPしなかったものを引きずり出しての利用です。
1回分2万4000字を10回に分けての掲載です。
地図の中央を横切る浅草通りの上が西浅草、松が谷区域。
東上野、元浅草を加えての寺町は、寺院の数とその密集度は都内屈指と云えるでしょう。
この界隈が新寺町と呼ばれるのは、明暦の大火(1657)の後、湯島や神田の寺院が移転してきたからでした。
浅草通りの南側には仏具店が軒を並べ、寺町として独特の雰囲気を醸し出しています。
寺の数も多く、1回ではとても消化しきれません。
何回かに分けることになる1回目は、西浅草1から西浅草3の寺を巡ります。
地図で右に縦に伸びるのが、国際通り、左が、かっぱ橋道具街通り、下を横切る浅草通りに囲まれて、西浅草はあります。
西浅草寺町の特徴は、寺院の大半が、本山東本願寺の塔頭、子院であること。
浄土真宗寺院には、石碑、石仏は期待できません。
有名人の墓めぐりがメインになりそうですが、ちょっと心配なのは、寺院のビル化とともに墓地が本堂の背後の目につかない場所に配置されて、探墓しにくくなっていること。
上の地図をちょっと上にずらしてください。
地下鉄田原町駅を出て、国際通りを北へ。
二つ目のブロック奥に清光寺があります。
1浄土宗・清光寺(西浅草1-8-19)
清光寺は浄土宗ですから、東本願寺の塔頭ではありません。
本堂前に、長谷川一夫の顕彰碑。
ファンが建てたものだというが、墓は谷中霊園にある。
なぜ、顕彰碑が清光寺にあるのか。
寺の説明では、檀家だったからというのだが、理解しにくい。
その隣の円柱型石塔は、歌舞伎文字勘定流の岡崎勘六の墓。
正面に「先祖代々」、右に「諦岸了覚信士」。
後ろがすぐ塀なので、カメラが入る余地がなく、撮影できないのですが、「有がたや心の雲の晴れわたり只一筋に向ふ極楽 南無阿弥陀仏」と刻されていると資料にはあります。
台石の「堺町 岡崎屋 勘六」に芝居文字の感じがあります。
ビジュアル化の徹底で文字の伝達機能が損なわれ、読めない芝居文字ですが、読めないものを読むのが好事家だそうで、何をかいわんや。
と、ここでもう2500字。
次回更新は、2月8日の予定。
71 天台宗護国山尊重院天王寺(谷中7-14-8)
谷中寺町めぐりの最後が天王寺となった。
上野が寛永寺の影響下にあるとするならば、谷中は天王寺(旧感應寺)の影響下にあると云えよう。
谷中寺町を紹介するならば、冒頭取り上げるべき、それほどの歴史と寺格を有する古刹であり、巨刹です。
たまたま谷中1丁目からスタートしたので、7丁目にある天王寺が最後となったが、谷中寺町の締めくくりとしても十分有意義な存在でもあります。
山門をくぐると、掃除の行き届いたきれいな「広い」境内が目の前に広がる。
広いと言っても谷中寺町の寺にしては、のつもりだが、江戸時代の天王寺を知る人ならば、その無頓着な発言にあきれるのではなかろうか。
なにしろ、谷中霊園の大半は天王寺の境内で、その寺域は谷中寺町にも深く及び、最盛期には子院26坊を数えるほどでした。
境内左側の石仏群の中に一際高く、大きく坐していらっしゃるのは、お釈迦さん。
造立年は元禄3年(1690)、造立者は、感應寺第十五世住持日遼と刻されている。
しかし、日遼上人は、この翌年、島流しとなり、感應寺は、幕府から改宗、改名を命じられます。
なぜ、改宗を迫られたのか、なぜ、寺域は数百分の一に縮小されたのか。
「波乱万丈」は普通「人生」とか「生涯」の形容に使われるが、天王寺の「波乱万丈」な「寺歴」を紐解くことで、その答えを見つけてゆきたい。
感應寺の創立は、鎌倉時代の文永11年(1274)、開基者は、関長燿という武士でした。
流罪を赦免されて、佐渡から鎌倉に帰る日蓮が一夜の宿を求めたのが長燿の家。
折しも彼の妻は難産で苦しんでいた。
日蓮がしゃもじに書いた曼荼羅を与えると、うそのように楽々と子が生まれた。
感激した長燿は、小庵をもうけ、しゃもじを祀った、これが日蓮宗感應寺の起源です。
かつて「長燿山尊重院感應寺」と号した山号の「長燿」は開基者の名前だったことになる。
寺を大きくし、隆盛した中興の祖は、日長上人。
元和から寛永にかけての事です。
鷹狩りに来た家光は、日長に心酔し、3万坪の土地を寺域として与えます。
谷中のシンボル・五重塔を建てたのも日長上人でした。
こうした感應寺の豪勢に陰りが見えだしたのが、元禄4年。
幕府により、日蓮宗から他宗への改宗を命じられ、日遼上人は、伊豆八丈島へ遠流となる。
原因は、幕府の禁令に背く不受不施派と目されたこと。
不受不施とは、日蓮の教えの一つで、不受は「法華経を信じない者から施しを受けない」こと、不施は「信者は法華以外の僧に供養をしない」ことを意味する。
この法華経に対する純粋な姿勢は、しかし、現実社会でいろいろと齟齬をきたすことになる。
とりわけ、権力者である為政者が他宗信者の場合、問題が起きやすい。。
「領主の供養が受けられないと云うのか、土地も米も水も俺のものなんだから、いやなら改宗するか、廃寺せよ」
この圧力は、秀吉、家康と次第に強くなり、寛文9年(1669)には、ついに寺受け制度から不受不施派を締め出し、徹底的な弾圧を加えることになる。
法華宗側も、為政者からの供養は受けようとする現実派の「受不施派」とあくまで理念的に行動しようとする「不受不施派」に分裂して、理念派は「隠れ法華」としての活動を余儀なくされます。
「不受不施」について書けば、切りがないので、この辺で終わりに。
そうした動きの中で、感應寺の事件は起きた。
寺は、天台宗に改宗して、寛永寺末寺となる。
寺宝の祖師の曼荼羅しゃもじは、谷中の日蓮宗瑞輪寺に移された。
(このブログ谷中寺町NO37「安産飯匙の祖師」 http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=ffc31cdca40d3aa572dc8f0f0a1cf149&p=1&disp=30
をご覧ください。)
改宗は命じたものの、将軍綱吉は感應寺領38万石は減じなかったので、境内の風景は変わることはなかった。
しかし、日蓮宗から天台宗への改宗は、当然、檀家数の激減を招き、寺の台所は目に見えて悪化する。
窮余の一策として寺が編み出したのが、富くじの実施。
幕府に許可を求めたら、すんなりとOKが出たというから、面白い。
「江戸の三富」といえば、湯島天神、目黒不動尊、谷中感應寺を指すが、最盛期の化政時代には、31か所で富突きくじが行われていたという。
中でも谷中感應寺が一番人気で、札の発売日には、一攫千金を夢見る人たちで、谷中は賑わった。
(*改宗はしたが、寺号「感應寺」の改名には時間がかかり、現在の「天王寺」となったのは、140年後の天保4年。化政時代は、感應寺のままだった。)
感應寺での抽選は、般若心経を坊主が誦するなか、キリで箱の中の木札を突き刺して当たり札を決める。
1等は300両、2等20両の他前後賞など各賞があったが、当選者はその1-2割を冥加金として、寺に納めた。
富くじが終われば、谷中のいろは茶屋に繰り出して、当選者は祝杯を、大多数はやけ酒を呑んだ。
「いろは茶屋 中腹まぎれ上がるとこ」
「しっかりと握って通るいろは茶屋」。
いろは茶屋は、感應寺の門前町にあった。
初めは、文字通りの茶屋だったが、次第に私娼窟として賑わうようになる。
実はこの茶屋町も、感應寺財政立て直しの一環として、寺が申請し、幕府が許可したものだった。
富くじといろは茶屋の隆盛は、寺の懐を豊かにした。
いろは茶屋の客筋を揶揄する川柳がある。
「武士はいや町人すかぬいろは茶屋」
「円いのを専らに呼ぶいろは茶屋」。
感應寺の坊主を指してのことではなく、谷中、下谷、浅草、本郷の僧侶を指してのことだが、坊主がメインの客筋だったことが判る。
こうなると宗教とは何ぞや、信仰とは何ぞや!と、???疑問符だらけの世界に舞い込んでしまうが、寛政8年(1796)には、悪所帰りを一網打尽にされた僧70人が日本橋で晒し者になるという事件があった。
それほど仏教界は、堕落しきっていたということになります。
上野戦争では、天王寺は彰義隊の陣営となり、官軍の砲撃の的となった。
戦火で大半が焼失、残ったのは本坊と五重塔のみ。
しかし、官軍による大打撃は、維新後に炸裂する。
まず幕府からのお墨付きの境内地1万6000坪が明治政府に取り上げられ、更に共同墓地用に寺域を削られて、さしもの大寺も昔の面影を失くしてしまうこととなる。
以上が、「波乱万丈」の天王寺の寺暦。
短く書いたつもりだが、「波乱万丈」なだけに、どうしても長くなってしまう。
この谷中寺町シリーズでは、異例の長さだが、天王寺を理解するには不可欠な事柄ばかりで、短くしようがない。
では、本来の石造物紹介へ。
山門から境内に入ると左に地蔵銅像。
台石に「学童守護」とあって、制服の小学生群像が刻されている。
昭和10年(1935)、小学校の校庭で不慮の事故で亡くした二人の息子を悼む供養塔。
作務衣姿の男が手押しポンプで水をくみ上げている。
谷中寺町で見たポンプは、これで何台目だろうか。
ポンプの密集度では、谷中がダントツの都内NO1といえそうだ。
本堂に向かって左の木蔭に石造物が多い。
すらりと伸びやかな石仏がおわして、標石には「若柳観音」とある。
石仏図典で調べても「若柳観音」はない。
日本舞踊の若柳流と関係があるのだろうか。
銅像の釈迦牟尼仏は、先述したように、日蓮宗寺院だった頃の最期の造仏。
釈迦牟尼仏の前にあるのは、賽銭箱か。
不受不施派の日遼上人造立ならば、信者でない人が布施する可能性のある賽銭箱は置かないはずなのに、どうしたことだろうか。
後世、天台宗に改宗してから付け加えたのだろうか。
これは、宝塔だろうか、宝篋印塔だろうか。
判らないといえば、その隣の石造物も見たことがない。
お分かりの方、教えてください。
これは、六地蔵石幢。
石幢の右後方に見えるのが、庚申塔群。
なんと8基もある。
谷中寺町全体で3基とか4基しかなかったのに、これはどうしたことか。
中央の一際高いのには、寛文三年(1663)とある。
都内で最も古いものの一つといえよう。
六地蔵石幢の近くの暗がりに青面金剛が潜んでいる。
素朴な像容で古そうだが、目を皿にして探しても年代は不明。
本堂前に石標がある。
近寄って見たら「沙羅双樹」とあり、木の説明だった。
お釈迦さまの前に沙羅双樹。
去年行ったスリランカの仏教寺院を懐かしく思い出した。
そこでは、沙羅双樹ではなく、菩提樹が聖樹だったが。
塀沿いに奥へ。
聖観音と如意輪観音がポツンと忘れられたようにおわす。
いずれも墓標で、如意輪観音には、寛永廿年の文字が読み取れる。
寛永年間の石仏は、都内では、そう多くない。
さすがに都内きっての古刹だと感心する。
付け加えれば、墓地にも寛永期の五輪塔がある。
塀越しに日暮里駅のホームが見下ろせる。
新幹線が天王寺境内の下を走り、日暮里駅の先から地上に出ると聞いたことがある。
新幹線が通る度に振動でもあれば、実感するだろうが、勿論そんなことはないから、絵空事のように現実感がない。
ぐるっと本堂と庫裏を一周して、モダンなステンレススチールの「新山門」を出る。
この辺りいつでも観光客が絶えない。
外人の姿も多い。
おそらく谷中寺町で、一番集客力のある寺ではなかろうか。
左に小堂があって、地蔵と青面金剛がおわす。
千羽鶴が吊り下がり、千社札が所狭しと貼られて、朱色の頭巾を被ったお地蔵さんは涎かけをして、草鞋を持っている。
ここだけは、江戸か明治、そんな時代錯誤を覚える一画です。
寺の塀沿いに日暮里駅方向へ。
消火栓の傍に戦時中の防火用水がある。
寛永の如意輪観音も珍しいが、この防火用水や現役の手押しポンプも貴重だと私には思われる。
より便利な新製品がどんどん登場する現代、捨てられないでこうしてあることが、奇跡的だからです。
防火用水の向かいの民家には、なぜか、タヌキが睨みをきかせている。
「谷中寺町」は、今回で終了。
次回からは、「成田街道の石造物」です。
更新は、11月11日の予定。
≪参考図書≫
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
◇石田良介『谷根千百景』平成11年
◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年
◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年
◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年
◇会田範治『谷中叢話』昭和36年
◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』
◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年
◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html
谷中寺町も、最後の7丁目に。
谷中7丁目の大半は、谷中墓地。
寺は、功徳林寺、了俒寺、安立院、天王寺の4か寺を数えるのみ。
68 浄土宗功徳林寺(谷中7-6-9)
モダンな本堂の脇に山門から参道が真っ直ぐ伸びている。
その先に赤い鳥居があって、そこが笠森稲荷。
全てが「新しく」、「直線的」で、夾雑物はない。
石造物もない。
正確に言うと本堂付近にはなくて、稲荷神社前に、狐が2匹いるのみ。
浄土宗寺院の功徳林寺について書くべきことは皆無で、話題はもっぱら笠森稲荷になるのだが、これが紆余曲折、複雑怪奇な話で、気軽に手を付けられない。(*もう一つの笠森稲荷については、谷中寺町6、NO20大円寺をご覧ください)
順を追って話を整理しよう。
(1)谷中が寺町になる前から地元にあった感應寺(現・天王寺)は、谷中墓地の大半を含む広い寺域を有していた。
(2)その感應寺門前に、八代吉宗公に従って江戸に来た倉地甚四郎なる武士が、紀州から笠森稲荷を勧請した。その笠森稲荷と別当の福泉院の所在地が、現在の功徳林寺の寺地。
(3)明治初年の廃仏稀釈で福泉院は廃寺。笠森稲荷は、寛永寺の子院養寿院に移った。
(4)明治時代半ば、空地だった福泉院跡地に現在の功徳林寺が創建され、メモリアル遺構として笠森稲荷が再建された。いわば、これは、ダミーの笠森稲荷ということになります。
笠森稲荷をこれだけ詳述して、江戸きっての美女「笠森お仙」に触れないわけにはいかないだろう。
お仙は、笠森稲荷地内にあった水茶屋の女。
水茶屋には、文字通りの、冷や水一杯を出す休憩所と売春宿の両義があるが、お仙は、前者の茶屋娘。
明和(1764-1772)の初めころ、茶屋に出たお仙は13歳だった。
スッピンの百姓娘は、しかしながら、あっというまに江戸市中にその美貌を知られることになり、一目見たさに弥次馬が店に押し寄せた。
「天性の麗質、地上の上品、琢(みが)かずして潔、容(かたちづくら)ずして美」と表現したのは、大田南畝。
その美しさは、鈴木春信の筆によって余すところなく描かれている。
笠森お仙は、昭和のスター山口百恵に似ていると私は思う。
共通点は、出処進退の潔さ。
お仙は19歳になった明和7年(1770)、突然、店から姿を消した。
腕っこきのかわら版屋が探し回ったが、行き先は燿と知れなかった。
が、実際には、言い寄る男たちを袖にして、さっさと結婚していた。
お相手は、笠森稲荷を紀州から勧請した倉地家の跡取り息子だったというから、まるで小説の筋書きみたい。
若い時にスターとなると、その引け時が難しい。
更に難しいのは、引退後、その動静が世に知られないこと。
お仙と百恵はその点、完璧な身の処しようだったといっていい。
お仙の墓は、中野・上高田の正見寺にある。
このブログの、「東京の寺町シリーズ(3)、NO48中野区上高田」で正見寺のお仙の墓についても触れているが、遺族の意向で非公開だと書いている。
世の中と遮断するという姿勢が、死後の世界まで徹底されていることに、清々しい感動を禁じ得ない。
功徳林寺の前を右へ、長安寺前をもう一度右折して民家が途切れた所にあるのが、
69 天台宗随龍山了俒(ごん)寺(谷中7-17-2)
山門前の石塔に大きく「天台宗」とあるが、寛永元年(1624)創建時は、日蓮宗だった。
創立した日安尼の五輪塔墓塔が本堂右前の墓域にある。
本寺の感應寺(現・天王寺)とともに日蓮宗の不受布施派に属していたが、元禄11年(1698)の不受布施禁令により、時の住職妙用比丘尼は島流しとなり、同時に天台宗への改宗を余儀なくされた。
歴代住職の没年一覧の妙用比丘尼の行には、「法難により配流」と刻まれている。(出所は、森まゆみ『谷中スケッチブック』だが、探しても見当たらなかった)
了俒寺を出て、谷中墓地へと入って行く。
交番にぶつかったら左折、ここが墓地の中央通り。
右に五重塔跡を見てゆくと「安立院」の標識があり、小路の先に山門が見える。
70 曹洞宗長燿山安立院(谷中7-10-4)
隣の天王寺(旧感應寺)の子院だったというのだが、日蓮宗でもなく、天台宗でもなく、曹洞宗なのは、なぜなのだろうか。
本堂に向かって左手に石仏群。
まず、六地蔵。
仏名が、それぞれ明示してある。
境内左隅の石仏、右端は聖観音立像。
ただし、これは石像ではなく、銅像。
昭和56年(1981)、浅草の住人が、秩父、坂東、西国、百観音霊場巡拝達成記念に造立したもの。
きりっと佇立する宝篋印塔。
その左隣の地蔵立像の台石には「戦死病没 震水火災横死 有縁無縁法界萬霊」の文字が読み取れる。
その地蔵供養塔の左には、小型の地蔵が10体並んでいる。
うち3体には番号があって、例えば下の地蔵だと、右側に「八萬四千躰之内」、左に「第五千八百五十八番」と刻してある。
これは、谷中墓地を挟んで南側の「浄名院」の八萬四千体地蔵の一つ。
浄名院の八万四千体地蔵については、このブログNO8「八萬四千体地蔵」をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=feb66aaf533d9d82f5cd67bfede1bbe4&p=8&disp=30
木の茂みに隠れて見えにくいが、2基の石造物がある。
細長い石塔には「印度佛蹟巡拝墳土供養」とある。
珍しい。はじめて見た。
もう1基は、上部に「南無/将軍/地蔵/尊」と右から2字ずつ縦に刻んである。
その下に線彫の将軍地蔵がおわすのだが、線が薄くてはっきりとは見えない。
希少品なのに、線彫りの宿命、見にくくて、残念。
次回が、「谷中寺町シリーズ」の最終回。更新は、11月6日です。
≪参考図書≫
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
◇石田良介『谷根千百景』平成11年
◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年
◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年
◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年
◇会田範治『谷中叢話』昭和36年
◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』
◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年
◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年