石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(6)

2018-02-26 08:54:00 | 寺町

15 真宗大谷派・長敬寺(西浅草1-2-7)

一見、料亭かと思った。

すっきりとした粋な佇まいに寺を思わせるものはない。

いろんな寺を見てきたが、長敬寺は、ビル寺を除いて、「寺らしくない寺」NO1。

長敬寺から浅草通りへ向かうと願龍寺がある。

16 真宗大谷派・願龍寺(西浅草1-2-16)

墓地入口の左に「山田宗徧居士 茶徳碑」があります。

宗徧(1627-1708)は江戸初期の茶人。

千利休の孫宗旦の門に入り千家を譲りを受け、不審庵、今日庵を継ぎます。

70歳の時、江戸に進出、本所に構えた四方庵が、江戸千家流茶の湯の礎となります。(と、説明版(台東区教委)にある)

さらに墓地奥に「柳河春三の墓」がある。

 

ネットで調べてはみたが、境内にある解説板が一番詳しいので、全文、転載しておきます。

柳河春三は、天保3年(1832)名古屋生まれ。神童の誉れ高く天才ぶりを発揮、さまざまな逸話を残している。25歳で江戸に出た彼は、医を業とし、蘭学はもとより英、仏、和、漢など11ケ語に精通し、著訳書も医学、薬学、理学をはじめ、書画・詩歌・戯作に至るまで多方面にわたり、40余の別名を巧みに使った。
幕末維新における希世の知識人で、非凡の才能を駆使して外国文明の導入と普及に努め、多大の業績を挙げた。安政4年(1857)日本初の体系的西洋初等数学書「用算用法」を著す。
また、慶応3年(1867)これも日本初の雑誌「西洋雑誌」を刊行、国語教科書の先駆「うひまなび」を編集、翌年「中外新聞」を創刊し、日本最初の新聞発行人として知られている。明治3年(1870)2月20日、37歳で没、当眼龍寺に葬られる。 名古屋在住 中村祐猿識す」(続く)


133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(5)

2018-02-21 09:22:41 | 寺町

14 真宗大谷派・等光寺(西浅草1-6-1)

西光寺の隣の等光寺には、石川啄木の碑がある。

兄が等光寺の住職だった土岐善麿の善意の計らいで、啄木の母、啄木、長女と次女の葬儀は等光寺で営まれました

碑歌は「浅草の夜のにぎはいに
    まぎれ入り
    まぎれ出て来し 淋しき心」 

(『一握の砂』 第一章「我を愛する歌」より) 

妻子を置いて、函館から単身上京した啄木は膨大な借金を抱えていた。

朝日新聞の校正係として月給25円の安定収入を得ても、すぐ家族を呼び寄せることはありませんでした。

母と妻との不和がうっとうしい。

作品がなかなか世に認められないいらだちもあった。

前借した金を持って出かけたのは、浅草の人ごみでした。

人のいないところへ行きたいという希望が、このごろ、時々予の心をそそのかす。人に見られる気遣いのない所に、自分の身体を自分の思うままに休めてみたい。予はこの考えを忘れんがために、時々人の沢山いる所へ行く。しかし、そこにも満足は得られない。」

満足を求めて啄木が向かった先は、浅草12階下の私娼窟でした。

時としては、すぐ鼻の先に強い髪の香を嗅ぐ時もあり、暖かい手を握っている時もある。しかしその時は予の心が財布の中の勘定をしている時だ。否、いかにして誰から金を借りようかと考えている時だ! 暖かい手を握り、強い髪の香を嗅ぐと、ただ手を握るばかりでなく、柔らかな、暖かな、真っ白な身体を抱きたくなる。それを遂げずに帰って来る時の寂しい心持ち! ただに性欲の満足を得られなかったばかりの寂しさではない。自分の欲するものはすべて得ることができぬという深い、恐ろしい失望だ。」(明治42年4月10日のローマ字日記)

「浅草の夜のにぎはいに
   まぎれ入り
    まぎれ出て来し 淋しき心」

貧窮のまま、函館から家族を呼び寄せます。

だが、生後間もない長男の死という悲運に見舞われる。

やがて、啄木をはじめ、妻、母が相次いで結核を罹病。

母の葬儀を等光寺で営んだ1か月後、啄木本人もこの世を去ります。

明治45年4月13日、27歳の若さでした。

彼の葬儀も、ここ、等光寺で行わました。

岩手県渋民村の生家は寺でしたが、売り払ってしまっていたため、故郷での葬儀は挙げられなかったのです。

この碑は、啄木生誕70周年に友人金田一京助らの手によって建設された、と碑の傍らの解説板にはある。(続く)

 


133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(4)

2018-02-16 08:47:06 | 寺町

11 真宗大谷派・宗恩寺(西浅草1-6-7)

狭い境内に自然石の石碑。

達筆で「念仏成仏」。

書いたのは、当山24世住職、織田得能。

彼は、この寺の蔵に閉じこもって『仏教大辞典』 を執筆した、と門前の、台東区教育委員会制作の説明板には書いてあります。

12 真宗大谷派・通覚寺(西浅草1-6-6)

通覚寺から浅草通りへ向かい、最初の角を左折すると左に西光寺。

 

13 真宗大谷派・西光寺(西浅草1-6-2)

 

 

池波正太郎の墓を参りたいとお寺に断わって、ビルの通路を通って、墓地へ。

 

 

台石に「池波」とあるだけで、探すのにやや手間取った。

 

 

池波正太郎の小説は『鬼平犯科帳』などを『オール読物』などの小説雑誌で読んではいたものの、単行本が本棚に並ぶことはない、その程度の読者です。

 

小説よりは、むしろ、エッセーを好んで読んでいたような気がします。

 

蕎麦、てんぷら、どぜう、エッセーに触発されて行っては見たものの、長い行列とせわしない接客に幻滅を感じた店もありました。(続く)

 


133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(3)

2018-02-11 08:36:16 | 寺町

6 真宗東本願寺派・緑専寺(西浅草1-8-5)

 

寺院らしきところがまったくない。

7 真宗東本願寺派・真福寺(西浅草1-6-13)

 

8 真宗東本願寺派・善龍寺(西浅草1-9-2)

 

9 真宗大谷派・来応寺(西浅草1-6-12)

 

10 真宗大谷派・園照寺(西浅草1-9-3)

 

 東京の寺町シリーズはこれで5回目だが、こんなに何も書くことがないのは、初めて。

境内にあるのは車だけ、石造物は皆無。

墓地は、あるのかないのか、それすら分からない。

ビル寺院は近寄りがたく、まるで要塞のようなのです。

そのまま進むと本山東本願寺へ着きますが、入らずに左折。

宗恩寺、通覚寺と二つの寺がならんでいます。(続く)

 


133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(2)

2018-02-08 07:35:55 | 寺町

清光寺のブロックの角を左に曲がると、本山東本願寺の参道。

道の突当りが東本願寺。

道の両脇に子院が並びます。

これからいくつかは、寺号と写真のみ。

2真宗大谷派・敬覚寺(西浅草1-8-2)

 

3 真宗大谷派・運行寺(西浅草1-7-12)

 

 4 真宗大谷派・光円寺(西浅草1-7-11)

 

 

 5 真宗大谷派・専勝寺(西浅草1-8-4)

 

本堂脇に珍しく墓地がある。

他の寺にもあるのだが、見えないだけ。

≪続く≫

次回更新は、2月11日です。

 


133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(1)

2018-02-05 09:03:55 | 寺町

このブログを時々読んでくれる数少ない友人の読後感想は、いつもきまっています。

「長くて読み通すのが大変だったよ」。

これでも、4,5年前に比べれば、短くなっているのですが。

以前は約2万4000字くらいが1回分でしたが、今はその3分の1、8000字位、長くても1万字以内に抑えるようにしています。

それでも長く感ずるのは、スマホや携帯で読むから。

パソコンよりスマで読む人の方が多いというデータもある。

それでなくて少ない読者を更に減らしたくはないので、今回からは、1回2000字位にします。

今回は、シリーズ「東京の寺町」9回目。

台東区西浅草、松が谷界隈の寺町。

写真を見ると分かりますが、実は4年前の夏取材したもの。

ブログに纏めはしたが、なぜかUPしなかったものを引きずり出しての利用です。

1回分2万4000字を10回に分けての掲載です。

 

 

地図の中央を横切る浅草通りの上が西浅草、松が谷区域。

東上野、元浅草を加えての寺町は、寺院の数とその密集度は都内屈指と云えるでしょう。

この界隈が新寺町と呼ばれるのは、明暦の大火(1657)の後、湯島や神田の寺院が移転してきたからでした。

浅草通りの南側には仏具店が軒を並べ、寺町として独特の雰囲気を醸し出しています。

寺の数も多く、1回ではとても消化しきれません。

何回かに分けることになる1回目は、西浅草1から西浅草3の寺を巡ります。

 地図で右に縦に伸びるのが、国際通り、左が、かっぱ橋道具街通り、下を横切る浅草通りに囲まれて、西浅草はあります。

西浅草寺町の特徴は、寺院の大半が、本山東本願寺の塔頭、子院であること。

浄土真宗寺院には、石碑、石仏は期待できません。

有名人の墓めぐりがメインになりそうですが、ちょっと心配なのは、寺院のビル化とともに墓地が本堂の背後の目につかない場所に配置されて、探墓しにくくなっていること。

上の地図をちょっと上にずらしてください。

地下鉄田原町駅を出て、国際通りを北へ。

二つ目のブロック奥に清光寺があります。

1浄土宗・清光寺(西浅草1-8-19)

清光寺は浄土宗ですから、東本願寺の塔頭ではありません。

本堂前に、長谷川一夫の顕彰碑。

ファンが建てたものだというが、墓は谷中霊園にある。

なぜ、顕彰碑が清光寺にあるのか。

寺の説明では、檀家だったからというのだが、理解しにくい。

その隣の円柱型石塔は、歌舞伎文字勘定流の岡崎勘六の墓。

正面に「先祖代々」、右に「諦岸了覚信士」。

後ろがすぐ塀なので、カメラが入る余地がなく、撮影できないのですが、「有がたや心の雲の晴れわたり只一筋に向ふ極楽 南無阿弥陀仏」と刻されていると資料にはあります。

台石の「堺町 岡崎屋 勘六」に芝居文字の感じがあります。

ビジュアル化の徹底で文字の伝達機能が損なわれ、読めない芝居文字ですが、読めないものを読むのが好事家だそうで、何をかいわんや。

と、ここでもう2500字。

次回更新は、2月8日の予定。