石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

97 想い出の馬頭観音(写真フアイルから)

2015-02-16 07:04:05 | 馬頭観音

足が痛む。

外は寒い。

出かけたいが、その元気がなく、今回も写真フアイルから。

石仏で好きなのは、馬頭観音。

人間の墓標より、想像をかき立てられる事が多い。

飼主の愛情が如実に分かる墓が少なくない。

 

 

   愛馬を線彫りした馬頭観音碑(那須町)

自分の子よりも愛馬の死が悲しかったのではないか、そう思わせる墓もある。

記憶に残る馬頭観音をフアイルから取り出してみた。

 

我が家から最も至近距離にあるのは、遍照寺(板橋区仲宿40-7)の馬頭観音。

 

   遍照寺は本堂新築工事がスタートして、境内がスッキリ

参道脇に石仏が数基、庚申塔と馬頭観音です。

 

ここに馬頭観音があるのは、江戸時代、遍照寺が宿場の馬つなぎ場だったからです。

板橋宿では、人足50人と馬50頭が、常時、確保されていました。

注目すべきは左から2番目の黒っぽい石碑。

「鹿毛馬 瀬川」と刻されています。

 

大正年間の造立で、歴史的価値はありませんが、馬の名前が彫られた墓は珍しい。

競走馬として登録されるサラブレッド新馬は、毎年、数千頭になります。

その頂点に立つのが、ダービー馬。

その栄誉は計り知れないものがありますが、ダービー優勝馬でも墓があるのは、ごくわずか。

殆どは馬肉として消費されてしまいます。

こうしたことを考えれば「鹿毛馬 瀬川」の希少価値が分かろうというもの。

左に小さく「外斃馬」とあるから、仕事中どこかほかの場所で行き倒れたのかも知れません。

どんな馬だったのか、興味が湧きます。

 

長徳寺(板橋区大原町40-7)には、馬頭観音庚申塔があります。

宝永3年(1706)造立の一面八手の青面金剛。

刻文は「奉造立馬頭明王庚申講中」。

馬頭観音ではなく、明王であるのが面白い。

世話人として板橋権右衛門他23人の名前が彫られています。

この頃にはもう板橋家が権勢をふるっていたのですね。

 

 

長命寺(板橋区東山町48-5)石仏は、頭に「馬」の文字があるから馬頭観音とされていますが、像容からそれとは思えません。

好事家があれこれ論評するのですが、馬頭観音であるような、ないような・・・。

 

同じ長命寺でもこちらは練馬区の長命寺(練馬区高野台3-10-3)。

「東高野山」という山号でも分かるように、関東有数の霊場で、石仏の宝庫でもあります。

馬頭観音立像も逸品。

 再び板橋区へ戻ろう。

区内には現在、53基の馬頭観音がある。

寺社に25基、路傍に28基。

寺社にあるのもその大半は路傍にあったものです。

排ガスを浴び、ほこりまみれで誰からも見向きもされない路傍の馬頭観音があるなかで、大事に保護されている石仏もあります。

板橋区蓮根2-28の馬頭観音堂は、コンクリート造りの立派なお堂。

本尊の顔正面、化仏と両目、鼻がつぶれているのは、東京大震災で頭から倒れたため。

この馬頭観音が開基した元禄11年(1698)当時、この辺りは一面の田んぼか水草生い茂る沼地でした。

堂はなく、雨ざらしの石仏は、道路標識であり、馬方と馬の格好の休憩場所だったはずです。

 

きちんと保存してあるということでは、西台2-4の馬頭観音は特筆もの。

寛政2年(1790)造立だから225年経っているのに、まるで昨日できたばかりのような感じ。

朱色に線が彩色されていることが、分かります。

台石正面に「南祢りま道」、右「戸田わたし道」、左「西 吹きあげ道 北方 はやせ道」と彫られ、道標でもあるから、野ざらし状態の期間があった筈なのに、そうしたことを微塵も感じさせない綺麗さ。

11月17日に、毎年、集落の11軒が集まり、祭を行うというので行って見た。

メーンイベントの坊主の読経の後は、お堂の周りで酒を立ち飲みして雑談するだけ。

それぞれの農家から馬がいなくなって、70年。

東京23区で今でも馬頭観音祭が行われていることは、驚きだった。

もう1点、この馬頭観音には特徴がある。

三面だということ。

板橋区内53基の馬頭観音で三面は、たった2基。

ここの他は、松月院の三面馬頭観音だけです。

馬頭観音は、松月院が経営する幼稚園の壁に組み込まれたお堂の中に坐しています。

 幼稚園の建物中央の凹んだ所が馬頭観音堂。

恐らく元々参道に面したこの場所にお堂があり、お堂の位置を変えずに、取り込んだ形で、幼稚園が建設されたのでしょう。

大寺ならではの配慮が感じ取れます。

 

川越街道の東側は板橋区と思いがちですが、東武練馬駅と川越街道に挟まれた一帯は練馬区。

旧川越街道が走る北町1に珍しい馬頭観音堂があります。

なんと三叉路の道路のど真ん中に観音堂。

馬頭観世音の朱色の幟が、車が通るたびにはためいています。

堂の中を覗くと、馬頭観音の前に馬の模型が2体。

馬型のある馬頭観音堂は他に知らない。

ちなみに「練馬」という地名は、馬を「訓」する場所だったからとする説があるとか。

 

東上線に乗って埼玉県へ。

富士見市渡戸2-5の観音堂にある馬頭観音が素晴らしい。

元禄3年の造立。

像容も異彩を放つが、建立時期も極めて初期、掘り出し物でます。

伝統的しきたりと横並び思想の只中にあって、どうしてこのような自由な発想ができるのだろうか。

ほのぼのと心温かくなる作品。

施主の馬に対する愛情がにじみ出ています。

私の、思い出に残る馬頭観音、ダントツのNO1です。

正統派優品としては、香林寺と誠徳寺の馬頭観音が該当します。

いずれも三面八手の像容です。

 

 香林寺(東松山市宮鼻144)  聖徳寺(越谷市北川崎18)

変わり種は、杉戸町宝性院の道標馬頭観音と観音堂の石祠馬頭観音。

   宝性院(埼玉県杉戸町杉戸1-5-6)

宝性院は日光街道に面しています。

今は境内にありますが、昔は門前に立って、旅人の案内役を果たしていました。

石祠庚申塔があるのだから、馬頭観音石祠があってもおかしくない。

   観音堂(埼玉県杉戸町126

それにしても珍品です。

川越市の本応寺墓地には、馬頭観音石仏ばかりがひな壇状に並んだ一角があります。

        本応寺(川越市石原町玉42)

中に1基、彩色の朱色が残った石仏がある。

元は、みんなこんな色をしていたのでしょうか。

境内ならともかく墓地に馬頭観音が、しかも集団であるのは珍しい。

最初からここにあったのではなく、廃棄される運命の石仏を市内各所から集めたものでしょう。

もともとは、下の写真の様に路傍に在していたはずです。

           鴻巣市宮地の路傍

 それが道路の拡張、農地の宅地化など都市t化の進行とともに居場所が失われてゆきます。

路傍の馬頭観音、そして行き場を失った石仏の集積場としての墓地は、当然、群馬県にもあります。

   路傍の馬頭観音(群馬県甘楽町)

 大興寺(前橋市)の墓地。この一角は全部無縁馬頭観音碑。

群馬県の馬頭観音といえば、桐生市黒保根にある十二山神社の一対の石碑を思い出す。

両方とも下に馬を描き、その上に文字が刻んである。

     左「汝是畜生発菩提心」         右「鬼畜人天皆是大日」                  

 車で走行中、路傍に石仏群があるのに出会います。

           群馬県川場村の路傍の石仏群

そうした石仏群に出会ったら、小さいのが馬頭観音だと思って間違いありません。

大きい石仏は費用がかかる。

だから小型の石仏にしたのですが、それでも施主のお百姓さんは頑張っているのです。

よく見ると文字碑はほとんどない。

文字碑の方が安上がりで済むのに、そうしなかったのは、馬に対する愛情が深かったむからでしょう。

沼田市の三光院境内の馬頭観音のような巨大丸彫り石仏は、施主は個人ではなく、講や馬持中など集団であるのが、普通です。

 講中で造ったこうした大型馬頭観音は、時代的には初期(江戸時代半ば)のものが多く、建立目的も持ち馬の無病息災を祈願するものでした。

江戸時代後半から明治、大正にかけての個人造立馬頭観音碑が、馬の墓標であったのと、意味が違います。

 

続いて長野県。

大きな自然石に「庚申」や「大黒」、「二十三夜」などと彫りこんだ石塔群が集落の辻ごとにおわします。

しかし、「馬頭観音」や「馬頭尊」の巨大文字石碑はありません。

庚申塔が巨大な文字碑であるのに対し、馬頭観音は小さい像塔ばかりです。

 

下は、松本から東へ、扉温泉までの入山辺に双体道祖神探しに行った時、通りかかった峠の石仏群。

ずらっと並んだ馬頭観音に混じって牛頭観音があります。

 

ガイド本には、耳の上に角があるから牛だと書いてあるのですが・・・

もう1基、「牛頭」の文字のある石碑を松本市の西の郊外で見つけました。

    浄雲寺(松本市取出934)

白いコケに覆われて判読しにくいのですが、右に「牛頭大日如来」、左に「念仏供養塔」と書かれています。

大日如来は、牛の守護神ですから、これは馬ではなく、牛の供養塔でしょう。

周りは馬頭観音ばかり、なんとなく肩身が狭く居心地が悪そうです。

 

次は、辰野町から諏訪市へ抜ける国道で出会った馬乗り馬頭観音。

馬乗り馬頭観音については、このブログでも後で取り上げますが、千葉県に固有な像容。

長野県にあるのは極めて珍しいので、載せておきます。

しかし、像容にどこか違和感がある。

持ち物が違うような気がしてならない。

馬に乗る像容としては、勝軍地蔵がある。

右手に錫杖、左手に宝珠と『日本石仏図典』にはあるが、これは逆。

お分かりの方教えてください。

 

 馬頭観音が並ぶ景色として私が最も好きなのは、塩原市洗馬(せま)の馬頭さんの列。

水田の地崩れ防止の石垣の上、人の視線の高さで馬頭観音が並んでいます。

この道は、それぞれの馬が、生前、荷駄を載せ、馬車を引いて行き交った道。

村のあちこちばらばらにあった石仏をここに集め、馬の気持ちになって配置した、集落の人たちの暖かい気持ちがたまりません。

この形式は洗馬だけのものと思っていたが、去年、駒ケ根市でも同じような展示配列を見かけた。

もしかしたら、どこにでもあるありふれた保存・展示形式なのかもしれない。

 

長野県で馬といえば、木曽馬。

木曽福島から開田高原へ。

かつて一大馬産地であった痕跡は各所にあるが、その典型は馬頭観音群。

どこの集落にも石仏の塊を見ることができます。

木曽馬は、どの農家でも飼っていたが、その馬は彼らの所有馬ではなかった。

馬の所有者は木曽福島の商人たちで「馬地主」と呼ばれ、飼主は「馬小作」と呼ばれた。

仔馬の売却代金は折半。

馬は農家の一大財産で、大切に育てられ、死ねば馬頭観音碑となって、懇ろに供養されました。

開田高原から北の日和田高原は、現在の行政区域は岐阜県高山市だが、木曽馬の商圏や文化圏は木曽福島に属していた。

集落で建立した馬頭観音像は、大型の優品が多い。

下村の祭場には、一対の立像石仏がある。

台石に「大慈」と刻された石仏は観世音菩薩だが、「大悲」は馬頭観音。

 

      観世音菩薩             馬頭観音

憤怒相ではなく慈悲相。

おとなしい木曽馬に憤怒相は似合わないからか。

 

馬産地ではどこにも「血取場」があった。

文字通り馬の血を取り出すことで、馬が健康体になるといわれ、春先の恒例行事でした。

村の馬全部が集まる場所で、死ねば馬頭観音碑となって石仏群に加わった。

驚きは背後の山にも膨大な馬頭観音石仏がおわすこと。

開田高原から日和田高原にかけては、庚申塔や如意輪観音、道祖神などはほぼ皆無。

圧倒的に馬頭観音オンリーの世界なのです。

圧巻は裏山中腹の馬頭観音三尊像。

中央に馬頭観音、左は高王白衣観音、右は釈迦如来。

安政6年(1859)、馬頭観音が建立され、60年後に白衣観音と釈迦如来が両脇に添えられたが、こうした三尊形式は儀軌にはないそうで、その意味する所は不明です。

日和田集落は、限界集落。

人がいなくなり、家がなくなっても、石の墓は残る。

そうした墓に見なれない一石三尊の石仏があった。

中央の神像の両脇に地蔵と馬頭観音という見たことがない組み合わせ。

五穀豊穣を神に祈り、地蔵に家族の、馬頭観音に馬の、二世安楽を託す馬農家が離農しなければならない背景に何があったのだろうか。

日和田に電燈が点いたのは、戦後8年の昭和28年だった。

明るくなった夜に馬農家が歓声を上げていたこの頃、危機が静かに迫っていた。

牛の数が、馬よりも多くなりつつあった。

モータライゼーションと牛肉の消費拡大が、牛馬の飼育数逆転をもたらす要因だった。

その記念碑ともいうべき石碑が立っている。

馬頭観音と牛頭天王を併記した石碑の造立年は、昭和59年(1984)。

かくして木曽馬の産地から馬がいなくなり、馬頭観音ばかりが残った。

中でも馬頭の頭上に小馬頭を戴いた馬頭観音は、木曽地方独特の像容として愛されています。

頭上に二つの首があれば、その農家では、その年、3頭の馬が死ぬという悲劇があったことを物語っています。

 

その容がほのぼのとしていればいるほど、その裏に潜む深刻な事態を見逃してしまいそうです。

 

人の思考や行動は、場所が変わっても似たり寄ったり。

多頭馬頭観音は、那須地方にも見られます。

長野県から一気に栃木県へ移りますが、その前にちょっと寄り道。

山梨県北杜市の海岸寺。

ここには、高遠の名工・守屋貞治の馬頭観音があります。

同じ北杜市の旧須玉町には、一石二馬頭尊があります。

 

ちょっと見、双体道祖神のようですが、頭上の化仏で馬頭観音と分かります。

山梨県だけにある珍しい形式です。

次に東京都。

板橋区から埼玉県に移動してしまったので、他の23区と多摩地区から。

まずは、佳品2作。

 

    慈願寺(中野区)            大円寺(杉並区)

馬を彫ったものも何基かあるが、そのうち2基を載せておく。

  猿江神社(江東区)(撮影してきたが、条件が悪くてきちんと撮れない。これは、栗田直次

  『石造馬のり馬頭観音』より借用)

  深大寺 (調布市)

 東京から一気に栃木県へ。

那須の手前、矢板市あたりから路傍に馬頭観音群が目につくようになる。

矢板市郷土博物館には、市内各所から集められた石仏群があり、その中に「寒念仏供養塔」と刻まれた馬頭観音がある。

寒念仏は、僧侶の専修念仏として始まった。

寒の入りから30日間、山野で行う厳しい修行で、後に一般庶民にも広がった。

文字碑が多く、このような刻像は少ない。

とりわけ馬頭尊寒念仏搭は、希少です。

 

下は、午年の年賀状に使用した写真。

   箒根神社前(那須塩原市)の馬頭観音群

かつて自分たちが行き来した道に面して馬頭観音が立っている。

運搬の主役を車に譲り渡して久しい。

その車の往来をじっと見続ける「馬」たち。

車が通り過ぎた後、静寂が一瞬深まる、そんな気配のする光景です。

 

長野県から栃木県に一足飛びで来たのは、多頭馬頭観音が那須にもあるからでした。

詳しいことは、NO54「那須の多頭馬頭観音」を見てもらうことにして、ここでは1頭から13頭までを順番に並べます。

 

 

 

  双頭馬頭観音。                        右は、双体馬頭尊。

   

    3頭                        4頭                  5頭

 

             7頭                                 7馬

 

      8頭 

栗田直次郎『石造馬のり馬頭観音』には、長久寺の9頭馬頭観音が最多頭馬頭観音として載っているが、探しても見当たらない。

代わりに10頭と12頭馬頭観音を見つけた。

   

    10頭                              12頭

場所は、すべて那須市。

那須の馬は荷役ではなく、軍馬用として飼われていた。

それにしても一度に10頭とか12頭が死んだら、その打撃は計り知れない。

倒産に追い込まれるケースもあったに違いない。

 どんなに経済的に苦しくても、彼らは馬の墓を建て、供養した。

人として立派だ、と素直に思う。

 

最後に、千葉県。

千葉県の馬頭観音といえば、もちろん馬のり馬頭観音でしょう。

馬頭観音が、なぜか、馬にまたがっている、その特異な像容に魅せられてフアンも多いようです。

全国262基の馬のり馬頭観音のうち242基は千葉県にあるそうで、千葉県固有の石仏といっていいでしょう。

面白いのは、千葉県でも東西で像容が違うこと。

銚子市などの東総の馬のり馬頭観音は、一面二臂の慈悲相。

       路傍(銚子市)

木更津市などの県西部の上総地方では、三面多碑の憤怒相なのです。

  路傍(木更津市)

では、中央部はこの両者が混在しているのか、というとNO。

中央は七里法華といって、地蔵や観音、庚申塔などの石仏が皆無の真空地帯。

もちろん馬のり馬頭観音もありません。

詳しくは、NO72「千葉県の馬乗り馬頭観音」をご覧ください。

他に、馬頭観音に関係する分類としては、文字碑のいろいろもあります。

「馬力神」、「生馬大神」、「馬大神」、「牛馬頭観音」、「勝善社」、「白馬大士」、「畜馬大神」、「生駒大神」、「駒形霊王」など多種多様。

「軍馬慰霊塔」と併せて、詳しくは、当ブログNO54「那須の多頭馬頭観音」を御覧下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


96 写真フアイルから(東京都23区内の石造物)

2015-02-01 06:43:52 | 石仏

『日本の石仏』のバックナンバーをめくっていたら、「大強精進勇猛佛」なる文字が目に入って来た。

どこかで見たことのあるような気がするが、思い出せない。

『日本の石仏NO114』を開いて、西岡宣夫氏の「大強精進勇猛佛碑」を読んでみる。

碑は静岡県伊豆の国市の真珠院という寺にある、と書いてある。

伊豆の国市へは、3年前、家族旅行で行った。

観光を兼ねて2,3の寺にも寄ったので、その時、真珠院も訪れたかもしれない。

写真フアイルを検索してみる。

真珠院のフアイルがあり、「大強精進勇猛佛」なる碑の写真もちゃんと保存されていた。 

ところで、「大強精進勇猛佛」とは何か。

西岡氏の記事を参考に、私なりの理解では、この言葉は、江戸時代初期の宗教実践家鈴木正三(しょうさん)の思想のエッセンス。

「プロの宗教家だけが修行して仏道に到るのではない」。

続けて、彼はこう云う。

「いかなる職業でも精進してその道を究めれば、それが仏道。勇猛果敢、強直に信じる道を行け」。

鈴木正三が偉いのは、この信条を自ら実践してきたことにあります。

彼は、徳川家康の家来として、関ヶ原の戦い、2度にわたる大坂の陣で武功をあげ、旗本に引き立てられた。

戦国の世の習いとして、人の死に数多く接し、身近に感じてきた正三は、若いころから仏典に親しみ、諸寺に参詣しながら、仏教に傾倒してゆきます。

そして、42歳、出家を決意する。

武家の出家などとんでもない時代、それは切腹覚悟の「お伺い」でした。

しかし、大方の予想に反して、主君秀忠は彼の願いを聞き入れて、出家を許可します。

生来の、鈴木正三の剛直な性格を、秀忠が理解していたからでしょうか。

古希を迎えて、彼は「大強精進勇猛佛」なる仏名があることを初めて知ります。

これこそ自分の思想と信条を体現するものだと感得し、以後、この仏名の普及に努めます。

真珠院の「大強精進勇猛佛」碑は、彼の普及努力の名残の一碑、そして恐らく日本でここにしかない貴重な一碑なのでした。

 

前置きが長くなった。

何をいいたいかというと、撮ってきては放り込みぱなしの写真フアイルのチェックの重要性。

歳のせいか、忘れっぽくなった。

面白いものを撮った筈なのに、それを忘れてしまっては意味がない。

ということで、早速、チェックしてみました。

対象フアイルは2010年の石仏巡り都内23区分。

石仏巡りを初めて2年目、目標は23区の寺全部を回ることだった。

石像仏にばかり目が行き、文字碑は素通りしている、初心者ならではのフアイルです。

 

 

まずは、単純に珍しい石仏から。

◆二十五菩薩来迎石仏群 真珠院(文京区小石川3-7-4)

偶然だが、またも真珠院。

緑豊かな境内の崖地に二十五菩薩来迎石仏群があります。

阿弥陀如来が二十五菩薩を従え、音楽を奏でながら来迎し、念仏者を極楽浄土へ導くという浄土思想を形にしたもの。

      阿弥陀如来

菩薩は、鼓、琵琶、笛、笙などの楽器と花を持って音楽を奏しています。

二十五菩薩といえば、琵琶湖西岸坂本の西教寺の群像が有名ですが、今、境内にあるのはレプリカ。

ならば大津まで足を延ばさず、都心の真珠院で十分でしょう。

◆迦楼羅(かるら)立像 本誓寺(江東区清澄3-2)

「かるら」と云われてピンと来なくても「ガルーダ航空」と聞けば分かるでしょうか。

「かるら」はGARUDAの音訳で、インド神話の霊鳥。

龍を餌とし、両翼を広げると336里というインド人好みの巨大鳥です。

石仏からは、巨大な鳥だとは分かりませんが、横笛を吹くのは唇ではなく、嘴であるようにも見えます。

光背は火焔でしょうか。

朝鮮の高麗時代の石仏ということですが、いつ、どうして渡来してきたのか、来歴は不明とのこと。

いずれにせよ、都内に限れば、類品もなく、これだけという珍品です。

◆象供養塔 護国寺(文京区大塚5-40)

動物ばかりではなく、鳥、魚、虫、植物まで様々な生物の供養塔があるので、象の供養塔があっても驚きはしませんが、都内でたまたま見かけたので、報告しておきます。

場所は護国寺。

大ぶりの石に2頭の象が浮彫りされ、その上に「象供養」の文字。

卒塔婆には「施主 東京象牙美術工芸協同組合」と書いてあります。

もう、文句なく納得。

そのすぐ傍に、須弥壇形式の台座を三猿が支える庚申塔があるのですが、あまりにも有名で、改めて触れる必要はないでしょう。

 ◆元和の石仏

奈良、京都、近江、鎌倉の石仏に比べて東京の石仏が異なるのは、制作年代。

かたや中世の石仏だらけなのに対して、東京は近世ものばかり。

ほぼ100%江戸時代の制作石仏といって間違いありません。

江戸時代と云っても寛文以前は極端に少ない。

元和に至っては、私のフアイルには2基しかありません。

 

 光取寺(品川区上大崎1-5-10)元和7年   性翁寺(足立区扇2-19-3)元和2年(1616)

都内の中世石仏は皆無かというとそんなことはない。

あるにはあるが、私のフアイルには1か所だけ。

増上寺の4菩薩だけです。

  普賢菩薩    地蔵菩薩    虚空蔵菩薩   文殊菩薩 いずれも正嘉2年(1258)作

だから新宿の誓閑寺墓地で建保2年(1214)の墓を見つけて、私が興奮したとしても、無理からぬことでした。

墓面は中央に「水鏡景清大居士」の戒名。

右に「日向勾當」、左に「建保二甲戌年八月十五日」と刻されています。

寛永7年(1630)開基の寺に、なぜ、400年も前の墓があるのか。

寺に問い合わせても「そんな墓があるのですか」と心もとない。

真相解明は諦めていたが、今回、改めてネットで検索したら、明治に刊行された『東京名所図会』に以下のような記述があることが分かった。

 「墓碑にておかしきは、悪七兵衛景清の墓といふもの是なり。墓面に日向勾當と肩書し。水鑑景清居士。建保二甲戌年八月十五日九十八卒とありて。側邊に享和二癸亥年七月吉辰。右紀成功修補と刻したる。日向勾當などとは全く謡曲より出でしものなり」。(『東京図会』より)

謡曲や能について全くの無知なので、憶測するのもおこがましいが、謡曲「景清」からみで享和2年に造られたいたずら墓標で、実際の墓ではどうやらなさそう、ということで、がっかり一段落です。

◆中世の宝篋印塔 普賢寺(葛飾区東堀切3-9-3)

こうしたあやふやな代物ではなく、ちゃんとした中世の墓が、都内にもあります。

葛飾区東堀切の普賢寺墓地にある3基の宝篋印塔は、豪族葛西氏の墓。

鎌倉時代後期の様式で、都内最古。

東京都有形文化財に指定されています。

普賢寺には、葛飾区指定の文化財もあって、それは燈籠庚申塔。

刻文は薄れて判読できないが、資料によれば「寛文6丙午年 石燈篭庚申成就二世楽処 十二月今日」と刻されています。

次の庚申年まで14年もある寛文6年に、燈籠を主尊とする庚申塔を造立する、一体いかなる事情があったのか、知りたいものです。

都内23区にある変わり種庚申塔と云えば、この他に狛犬庚申塔とか閻魔庚申塔があります。

 

 

     狛犬庚申塔 鎧神社(新宿区北新宿3-16-18

  閻魔庚申塔 地福寺(北区中十条2-1-20)

狛犬も閻魔も三猿はなく、「庚申」の文字がなければ庚申塔とはわかりません。

閻魔と云えば、青松寺(港区)墓地前の一画に、所在無げに坐している閻魔が私は好きです。

 閻魔 青松寺(港区愛宕2-4-7)

相棒の奪衣婆の姿は見えません。

お役御免となって誰からも注視されることなく、そのお姿は徘徊し続ける独り暮らしの介護老人のようです。

閻魔は都内にも20-30体かおわしますが、亡者の裁きに使う人頭杖、別名檀拏幢(だんだどう)は練馬の教学院にしかありません。

◆人頭杖 教学院(練馬区大泉町6-24-25)

浄玻瑠鏡、それに業(ごう)の秤と相まっての三点セットで、罪業測定器となるのですが、残念ながら人頭杖のみ。

 人頭杖 経学院(練馬区大泉町6-24)

二つの頭は男と女、閻魔が亡者を審判するとき、重罪であれば憤怒の男相(だんそう)の口が火を噴き、善行が勝れば柔和な女相(にょそう)から芳香が漂うとされています。

 ◆地蔵百度石 霊雲寺(文京区湯島2-21-6)

百度石はだいたい素っ気ない石造物と相場は決まっていますが、霊雲寺(文京区)には地蔵が上に坐す百度石があります。

百度石といえば、その数の多さでは西浅草の本覚寺が屈指でしょう。

祖師堂の前に5,6基もの百度石が立っています。

偶然にもお百度参りをしている人に出会いました。

祖師堂で合掌して願いを唱える。

百度石まで戻って、石に触れ、また祖師堂に向かう。

話を聞きたかったが、ひたすらな、その姿に躊躇。

現代にもお百度参りは生きている!と感激のひと時でした。

 ◆異形の青面金剛

庚申塔の変わり種については、主尊が燈籠、狛犬、閻魔などの庚申塔を先に紹介した。

異形の庚申塔も付け加えておく。

江東区の常光寺の青面金剛には驚いた。

  常光寺(江東区亀戸4-48-3)の青面金剛

南太平洋のポリネシアにこんな感じの人がいるようだが、江戸の石工がポリネシア人を知っているはずはないから、想像の産物だろう。

儀軌の青面金剛を承知の上の造作だとしたら面白い。

庚申塔ではないが、経学院(練馬)にもよく似た石仏がある。

まさか同一石工ではないだろう。

世の中は、広いようで狭いなあ。

 ◆無縁塔に並ぶ兄妹の石仏 如来寺(品川区西大井5-22-25)

2010年の頃は、寺へ行けば、墓地へも寄った。

無縁塔の石仏撮影が目的だった。

下の写真は、如来寺(品川区)の無縁仏コーナーで撮影したもの。

正面に石仏が4基。

左の2基はすこし小さい。

右には「幻夢童子」、左の石仏には「幻誘童女」とある。

没年は「幻夢童子」が享保8年(1723)、「幻誘童女」は享保14年。

兄と妹に何があったのだろうか。

同じ墓域にあったが縁者がいなくなって、この無縁墓地に移されてきた。

無縁墓地でも寄り添って立つ二つの石仏墓標に、作業をした寺の関係者の「優しさ」が読み取れる。

それにしても、「幻」という言葉の意味は、当時も今と同じだったのだろうか。

子供の戒名に「夢まぼろし」と付けた親の心情を思うと、切ない。

 

生前の故人を髣髴とさせる墓がある。

 

         荒川区K寺

碁盤の上に酒樽。

酒を飲みながら毎日、碁を打っていたんだ。

墓の形は、本人の遺言か、女房の亭主愛か、後者だと私は思いたい。

     品川区K寺

サイコロと壺。

まさか女房の差し金ではあるまい。

サイコロが崩れかけているのは、ギャンブラーが削ったから。

まだ見たことはないが、競馬競輪、パチンコ狂いの墓もあるに違いない。

御存じだったら教えてください。

 

下の写真、酒樽に大盃がのっている。

大盃に刻された戒名は「好酒院杓盃猩々居士」。

向島の長命寺にあるので墓に見えるが、実は、江戸の風流人の遊び心の産物。

戒名を付けたのは、大田蜀山人。

隣に「好色院道楽寶梅居士」もある。

形は言わずもがな。

「寺の境内に何たる不謹慎。子供の教育に良くない」などと喚くヒステリー女がいなくて、江戸時代はいい時代だったなあ。

 

ちょっと横道にそれた。

それたまま、今回は終わりとなる。

やや真面目さを欠く流れとなった。

その流れに乗って、最後の一枚。

          江戸川区T寺前の民家

「葷酒山門を入るを許す」。

寺の前だから、ジョークが辛辣だ。

「不許葷酒入山門」の石碑を門前に立てて、内で般若湯を呑んでいる坊主の姿が浮かんでくる。

十辺舎一九も太田魯山人も、称賛を惜しまないだろう。。

 

フアイルにはまたまだ無数の写真がある。

その中から一枚。

    赤坂S院の墓地から

明と暗、過去と現在。

何か意味ありげで、悪くない。

 

今回のブログが有意義だったとすれば、それは2010年の写真フアイルに一応目を通したこと。

東京都23区に限定したものだったが、すっかり忘れていた大事な写真が何枚もあった。

年度と地域を変えて、又いずれフアイルチェックをしようと思う。