石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138東京都北区の石造物-3a-赤羽北1-3丁目

2019-09-29 07:45:15 | 石造物巡り

▽堂山(赤羽北1-5)

環八を赤羽に向かってJRの高架手前を右折、くねくねと細い道を進むと突然開けた空間に出て、こんもりとした小山が現れる。

それが堂山、標高16mの弧丘です。

その昔、山頂に阿弥陀堂があったので阿弥陀堂山、略して堂山になった。

更に時間をさかのぼると海中の小島だったらしい。

入口両側にお地蔵さん。

左の地蔵菩薩には「石段供養」、「寛保二年(1742)の銘がある。

中に入り、その石段を上ると

平に整地された広場が広がっている。

そしてその右後方は墓地。

墓地に立つと眼下が一望できる。

建物がぎっしり立て込んで、イメージしにくいが、ここから見える区域は、かつて荒川の洪水に、毎年、脅かされていた。

その洪水対策として建てられたのが、穀倉(ごくら)。

堂山のすぐ近くにも穀倉はあった。

▽穀倉稲荷(赤羽北1-6-1)

稲荷神社の境内にあったので、神社は穀倉稲荷と呼ばれるようになった。

今は穀倉倉庫はない。

境内で目立つのは、4基の石造物。

右から弘法大師供養塔。

阿弥陀三尊種子庚申供養塔。

阿弥陀三尊種子千日念仏供養塔。寛文八年(1668)の銘があり、袋、本宿、赤羽、稲付、神谷、蓮沼、根葉、志村、中野、落合、下青木、各村の名主の名前が刻されている。

庚申待供養青面金剛立像。

 江戸期の石造物が4基保存されているのは、今や珍しくなった。

▽袋村の水神宮(赤羽北2-21-19)

 環八を赤羽方向に進んで、左に浮間中央病院、その右端に水神社はある。

地図上の、病院の後ろの川は、荒川ではなく、新河岸川。

水神社は、もともと舟を使って生活をしていた船持ちたちから篤い信仰を寄せられていた。

しかし、この辺りは、秩父地方に大雨が降ると必ず洪水が起きる土地柄だったため、船持ちの水難除け、水運安全祈願よりも、いつしか水害防止に祈願の力点が移ることになります。

 今でも、毎年、6月15日には水神祭りがおこなわれているという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


138 東京都北区の石造物-2b-赤羽台4赤羽八幡神社の続き

2019-09-22 09:44:53 | 石造物巡り

前回は、赤羽八幡神社の長い石段までだった。

石段を上る前に周囲の石造物をチェック。

常夜灯を過ぎると右にあるのが、道標。

「八幡宮 是ヨリ左へ一丁」とある。

どこかから運び込まれたものらしい。

目的地に立つ道標ほど、無意味な存在はない。

道標の次は、「日露戦役記念碑」。

 

同じタイトルの碑がもう1基ある。

いずれも地元からの出征兵士の戦死者追悼碑。

石段下段右には「各種樹木境内奉納紀念碑」と「石坂碑」が並んでいる。

     各種境内樹木奉納起念碑

        石坂碑

「石坂碑」は、文字通りこの石坂が明治41年完成したことを記念するもの。

それ以前は土の坂だったから、雨が降ると滑って大変だっただろう。

石段を上る。

左側には、氏子の氏名を刻んだ石板がズラッとはめ込まれている。

昭和60年、境内下を新幹線が通るという稀有な工事が完成した。

それをきっかけに、本殿を始め境内を一新する大工事が行われたが、これはその当時の神社役員の氏名。

「神域整備完成記念」の石板にその経緯が書かれている。

神社境内の下を新幹線を通したい、この前代未聞の申し入れに氏子一同は、当然、強く反発した。

しかし、国策には抗えず、承諾することになる。

本殿正面、境内南端に立つと新幹線や埼京線、京浜東北線、宇都宮線、高崎線などの電車が、ひっきりなしに通過してゆく様を見ることができる。

 

神社の下から電車が出てくるという意外性とそれを俯瞰できるポジショニングが魅力で、撮り鉄や鉄道オタクは勿論、子ども連れの家族などでいつも賑わっている。

正月には、赤羽、北赤羽、浮間船渡、3駅の駅長が赤羽八幡神社を参拝するというのも、むべなるかな。

赤羽八幡神社は、赤羽、下袋、稲付、岩淵4ケ村の総鎮守。

延暦3年(784)、征夷代将軍坂の上田村麻呂がはるかに八幡三神を勧請し、武運長久を祈願した、という伝説がある。

赤羽八幡神社の特徴の一つは、絵馬の数の多さ。

本殿左の絵馬の奉納所では、願掛けの絵馬を掛けるのに一苦労するほど、絵馬で溢れている。

他人の絵馬の上に掛けてはいけないというルールは、ここではないのと同じ。

ルールを守っていたら、自分絵馬はかけられないからです。

近づいて見る。

同じ絵馬が多い。

数字の8を横にしたような、無限大を意味する∞ばかり。

調べて分かったのだが、赤羽八幡宮は風水による運勢判断を行っていて、2004年から20年間は、「下元八運気」という最大運気の最中なんだそうだ。

だから、お守りにも、御朱印にも、絵馬にも、8を横にした∞が溢れているのだが、どうやら事はそれほど単純ではないらしい。

絵馬の多くには「十五祭当選」の文字が多い。

81歳としては「十五祭」など知らないので調べてみたら、アイドルグループ「関ジャニ∞」の15周年記念コンサートが今年の夏行われる予定で、そのコンサート名が「十五祭」。

つまり、神社の風水運気の8を意味する∞と、関ジャニ∞が「偶然にも」一致して、赤羽八幡神社は、関ジャニフアンの聖地となっているのだった。

事はそれほど単純ではないのは、風水の「下元八運気」の八はあくまで漢数字の八であって、8ではなく、またそれを横にした∞でもないはずで、そこには、普通は神社に参拝することはない若い女性を意識した商売っけが漂うのです。

私が行ったのは、ゴーデンウイークの真っ最中。

ということを考慮しても社務所には、御朱印と絵馬、開運グッズを求める女の子の長蛇の列があって、その意外な光景にびっくり、写真を撮るのを忘れてしまった。

本殿と絵馬奉納所の間の鳥居をくぐると境内社がいくつかある。

突き当りは、北野神社。

なぜか金精様がおわす。

比較的に説明板が多い神社だが、金精様についての説明はなし。

今の若い女性たちは、金精様を知らない。

説明板があれば、若い女性の人気スポットになること必至。

北野神社の左に並ぶのは庚申塔3基。

猿田彦もおわすのは、ここが神社だからだろう。

その隣には、大国主の尊と因幡の白兎がいらっしゃる。

ここでは、2神は縁結びの神として紹介されている。

「強引だな」と思わなくもない。

 

再び本殿前まで戻り、今度は、右の神楽殿と本殿の間を進む。

思いがけず広い空間が広がっている。

ずらっと並んでいるのは、神輿庫。

その左端の鳥居と神社は、北区ならではの社。

鳥居には「赤羽招魂社」と刻されている。

かつて赤羽一帯は、広大な陸軍用地だった。

この招魂社も工兵第一大隊兵舎内にあったもの。

「明治三十一年四月鎮座」の文字が見える。

招魂社の前左には、くろぐろとした大きな忠魂碑が立っている。

それでなくても暗いのに、逆光の文字はまったく読めない。

 

 

 

 

 


138東京都北区の石造物-2a-赤羽台1-4丁目

2019-09-15 07:27:16 | 石造物巡り

北区の石造物1回目は、赤羽西を3回に分けて紹介した。

赤羽西1丁目は、JR赤羽駅からスタートしている。

同じように赤羽駅西口から1丁目が始まる町としては、赤羽台1-4丁目がある。

◇赤羽台1-4丁目

赤羽台という名称は、赤羽の高台を意味し、旧陸軍での通称として使われていた。

赤羽台1-2丁目にあった陸軍被服工廠は、そのまま占領米軍に接収され、返還後は東京最大の団地、赤羽台団地として再生した。

昭和37年(1962年)のことです。

 ▽猿田彦神社(赤羽台1-4-50)

その赤羽台団地の東端、49号棟北東の公園内に猿田彦神社があり、3基の青面金剛庚申塔があると資料にはある。

早速行って見た。

 

だが、49号棟が見当たらない。

あるべき一帯は塀に囲まれていて、道路は金網で遮られている。

金網の向こうから出てこようとしている工事人に訊いてみた。

「49号棟は解体されてない。小さな祠があったけれど、それがどうなったのか、今は何もない」とのこと。

行き先不明の猿田彦神社は、もともとうつり坂上にあったという。

うつり坂へ行って見た。

神社は見当たらない。

うつり坂は板橋への坂の一つで、大正8年、陸軍被服本廠の移転とともに一般人の通行はできなくなった。

昭和37年(1962)赤羽台団地誕生とともに元に復したものです。

▽庚申塔(赤羽台3-1-8)

坂下に小さな祠があり、板庇型庚申塔が祀られている。

延宝8年(1680)造立だから、かなり古い庚申塔になる。

 ▽陸軍境界石(赤羽台3-4)

 移り坂の一本北側の坂、その左側は宝憧院墓地だが、その西角には軍用地境界席石が埋まっている。

「陸軍」の文字がかすかに読み取れる。

墓地は民有地、カメラ側は陸軍用地ということになる。

被服本廠の広さは9万坪。

そこで働く何万という人たちか赤羽の活気を支えてきたのだった。

この坂を100m上ると信号があり、左折すると赤羽台トンネルに入る。

団地の真下を通るトンネルで、半地下掘割方式を提示した行政側に、全面地下を主張する住民側とが対立し、決着を見るまで数年を要した。

トンネル上の公園広場にあるモニュメントには、トンネル工事の経緯が刻されている。

▽真宗大谷派・赤羽山法善寺(赤羽台3-24-2)

石造物は灯籠が1基あるのみ。

墓地もない。

代わりにというわけではないが、ペッド霊苑があって、

黒御影の「万物供養碑 やすらかに」の石碑には、多くの花が供えられている。

実は、我が家の秋田犬「ふう」ちゃんもここに眠っている。

 

何度もこの辺りを歩いていたのに、こんな所に神社があったなんて!

80歳を過ぎて、驚くことは少なくなったが、これには驚いた。

驚いたというよりは、自らの観察力、注意力のなさを恥じる思いが強い。

 

▽赤羽八幡神社(赤羽台4-1-6)

 

見逃した原因は、神社があるとはとても思えない高みに、赤羽八幡神社はあるからです。

道路の右側に無機質なコンクリートの坂道が上へと伸びている。

坂道右側に「八幡神社」の看板があり、坂上に鳥居が見えるので、これが参道だと分かるのだが、社殿らしきものは見えないから、一歩を踏み出すのに躊躇してしまう。

躊躇させる要因の一つは、この坂道が参道というにはあまりにも無機質で、素っ気ないからでもあるようだ。

実はこの無機質参道は、参拝者用車道で、徒歩での参拝者の多くは、奥まった場所にある石段を上る。

坂道参道から目を右に転ずると電車の高架下に殺風景な道があって、左に「入口」とある。

高架下は暗く、その向こうに鳥居らしきものが見えるので、「こっちかな」と歩き始めるのだが、まるで工事現場への入口のようだ。

なぜ、参道の上に電車が走っているのか、その理由は後ほど分かることになるが、初めての参拝者は誰も本殿に向かうのに、迷うに違いない。

鳥居をくぐるとやがて石段が見えてくる。

結構な急坂で、デブで膝痛の爺にはきつそう。

 

 

 

 

 


138 東京都北区の石造物-1-c-赤羽西1、2丁目

2019-09-08 07:52:06 | 石造物巡り

東京都北区の石造物巡り、北区の町毎に回ってゆくのだが、初回の、赤羽西については、6丁目から1丁目に逆に進んでゆくことは、既に述べた。

で、今回は赤羽西2丁目。

▽庚申塔(赤羽西2-19-25)

真正寺坂の上り口、交番と恭愛クリニックの間の坂上に向かって左にある。

明和六年(1770)造立だから約350年前の年代物。

野ざらしだったから、摩滅して刻字は読めない。

右側面には「これよりいたばしミチ」と彫られていると資料にはある。

真新しい供花が、今なお、信仰するものがいることを物語っている。

 

▽真言宗智山派・普門院蓮華寺(赤羽西2-14-20)

奥行きのある参道が緩やかな坂道で、その上に中国風の石楼門がそびえている。

異国情緒たっぷりで、思わず「えっ?何、あれは」と呟いてしまった。

山門を入ると左に六地蔵。

色違いの頭巾とスカーフに寺の配慮がにじみ出ている。

境内の大半は墓地だが、植木が目隠しになって、墓地の印象は薄い。

参道の向こうにそびえる塔も日本ではめったに見かけない仏塔。

インドのブッダガヤの大菩薩塔を模した納骨堂。

塔の四隅には、宝篋印塔を配し、

東西南北の四面には、石仏がおわす。

塔全体が金網で覆われている。

植栽で気づきにくいが、注意してみると石仏があちこちにおわす。

         板碑

         不動明王

         馬頭観音

幸福の七か条なる一風変わった掲示板がある。

第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的とすることを行ってはならない。
第二条 しないではいられないことを続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまでも自分の楽しさを追求すべし。
第四条 好きの力を信じろ。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じろ。

    みずきしげる

とりわけ5と6が凄い。

常識的ではないが、掲示するのだから、住職も賛同するのだろう。

意表をついて、面白い。

 

山門を出ると左に朱色の鳥居がある。

鳥居には「陀羅尼」とあり、

また、柱には「道灌山稲荷講/講元・講員一同」と記されている。

陀羅尼天は、インドの女鬼神。

真言密教では、陀羅尼天と日本古来の稲荷神を同一神とした。

だから、陀羅尼天と稲荷講が同居することに何ら不思議はない。

当然、陀羅尼天の別当は、普門院ということになり、神仏混合の名残は今もこうして生き残ることになる。3913

▽曹洞宗・自得山静勝寺(赤羽西1-21-17) 

 

 これまでの鳳生寺、法真寺、香取神社、普門院と同じように武蔵野台地の東端に位置して、岩槻街道を見下ろす高台にある。

岩槻街道からの参道突き当りには、50余段の石段。

心臓を病み、足の関節炎を患う身には、上ることが一仕事。

やっと登り切ったところが道灌山。

静勝寺の境内は、太田道灌が築いた山城、稲付城の跡地なのです。

靜勝寺の「靜勝」は、太田道灌の戒名「香月院殿春苑静勝大居士」から取ったもの。

        本堂

もともと道灌は、「兵は静かなるを以て勝つ」という兵書の一文を好んだと言われている。

参道石段を上り、山門をくぐると正面に見えるのが道灌堂。

その右の弁天堂については、後述する。

家康入府前から寺にしては、石仏が極めて少ない。

目ぼしいものは、参道石段脇のお地蔵さん位。

稲付村の人たちの浄財で寛政3年(1791)に造立された。

 

「三界万霊」とあるから、生きとし生きる万霊の菩提を願うものか。

▽亀ケ池弁天堂(赤羽西1-29-16)

 

バスの窓から外を見ていて、一瞬、真っ赤な塊が通り過ぎる。

そこが亀ケ池弁天堂。

赤い塊は、弁天堂の幟だった。

崖地とビルに挟まれた場所に池というには小さな池があって、中に祠が設えられている。

今はかわいらしい池だが、昔は稲付城の天然の濠だったのだそうだ。

ご神体の弁財天はこの池から掘り出されたものだが、なぜかここにはなく、別当寺の静勝寺にある。

     静勝寺保存の弁財天

ここの弁天様は、静勝寺のコピーだというから、「本末転倒」の四文字熟語が頭に浮かぶ。

庚申塔(赤羽西1-36-1)

 

 

大坂といい、狸といい、政右衛門坂とも云う坂の途中の幼稚園の一画に祠が二つ。

祠と祠の間に、「庚申」と「雷神」の石碑が壁にはめ込まれている。

祠の一つにおわすのは、不動明王。

3基並んでいる石塔は、左から「六根(清浄)」、「清瀧不動尊」、「祭主石井隆三」。

石井隆三なる人物像は不明。

 

 

 

 


138東京都北区の石造物1b赤羽西3丁目

2019-09-01 08:39:59 | 石造物巡り

北区の石造物巡りの初めは、赤羽西から。

普通は、赤羽西1丁目から赤羽西6丁目へと進むのだが、初回に限り、6丁目から逆に1丁目へと進むことになった。

前回は赤羽西6丁目だった。

次は5丁目だが、見るべき石造物はない。

4丁目も同じで、したがって今回は、赤羽西3丁目から。

▽曹洞宗・岩淵山鳳生寺(赤羽西3-21-18)

武蔵野台地の東のはずれに落ち込むような急坂があって、それが鳳生寺坂。

坂下に鳳生寺の山門がある。

山門横に石碑があって、「太田道灌開基」とある

境内に入ると切り立った崖地に囲まれて、なんとなく薄暗い。

密生した樹木は、とても都内とは思えない雰囲気を醸し出している。

樹木はどれもきちんと手入れされているのが素晴らしい。

広い境内にポツンポツンと石仏がおわす。

台地上墓地へ上る石段脇のお地蔵さんは、赤子を抱えている。

台石には「奉讀誦法華経一千部供養塔」と刻されている。

墓地入口の両側に立つのは、庚申塔。

こうした形式は、珍しい。

左の尊像はお地蔵さんで、庚申塔には見えないが、足元の三猿で、そうと判る。

二世安楽を願って、正徳元年造立された。

右側は、ただ文字があるだけで、これも庚申塔には見えないが、下に三猿がおわす。

寛文十一年の造立だから、都内でも最も古い庚申塔と一つ。

境内右側、墓地への階段下に座す大ぶりの地蔵菩薩は、意外に新しくて昭和9年造立だった。

 2301

▽日蓮宗・稲付山法真寺(赤羽西2-23-3)

山門前右におわすのは、妙法地蔵。

日蓮宗寺院の地蔵だから、「妙法」地蔵なのか。

石段を上がって境内に一歩踏み入れると手入れの行き届いた植栽が目に飛び込んでくる。

見事な枯山水とともに境内はさながら日本庭園。

石造物は数少ない。

取り分けて大きな2基は、「本堂客殿新築記念塔」(右)と「本堂新築記念塔」(左)。

句碑がある。

一字も読めないお手上げ状態だが、説明板があるので、転写しておく。

「  素翁

 有明(ありあけ)や
  今(は)者奈(な)連(れ)ゆく
     萩の聲(こえ)    」

小さな祠の傍らに石碑があって「開運三蛇弁財天」とある。

祠を除いてみても蛇は見当たらない。

インドの弁財天は日本の稲荷神と結びついて宇賀神となった。

宇賀神は人頭蛇身だから、3匹の蛇の上に頭があるということだろうか。

ご神体はなく、ネットでも「三蛇弁財天」では、ヒットしないので、何のことやら、皆目分からない。

墓地の塀の向こうに次の目的地香取神社の鳥居が見えるが、山門に戻って、ぐるっと寺を回ってゆかなければならない。

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▽稲付香取神社(赤羽西2-22-7)

旧稲付村の鎮守で、ご神体は二尺六寸の石。(『新編武蔵風土記稿』)

本殿は、上野東照宮の内陣だったものと云われている。

鳥居を前に東を向くと参道の先が見えない。

ここが武蔵野台地の東端であることが分かる。

狛犬は嘉永3年造立。

石碑が2基。

左は刻字が薄くて読めないが、右は日露戦役記念碑。

参道左手に転がっている7つの丸い石は、みんな力石。

江戸時代後期から明治にかけて、村の力自慢が石を差し上げて、力くらべをした。

 7つの力石で最も重いのは、五十五貫(206キロ)。

小川留五郎は稲付村の村相撲で大関を務めていたという。

参道左の石塔は「戦災復興記念碑」。

「復興」記念碑はありそうでない。

他に「富士登山記念碑」

 

「関西中国九州巡覧記念碑」。

いずれも大正時代の造立で、裏面に同行者の名前が記されている。

なぜか真っ二つに割れた石碑の右側だけが立っている。

碑文を知りたくて神主を訪ねたが、応対した女性は「知りません」とそっけない。

神楽殿の後方からは、十条方面が一望できる。