石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

45 凹み穴のある石造物(東京・板橋区その2)

2012-12-15 07:28:15 | 民間信仰

前回は、「盃状穴」を知った経緯と板橋区の「凹み石(盃状穴)」を調べようと思った動機を述べ、板橋区の「板橋」、「常盤台」、「高島平」の3エリアの調査結果を報告しました。

今回は「志村エリア」と「赤塚エリア」。

板橋区でも石仏の多い地区です。

前回後、更に調査を続行、神社23→23(12)、寺院21→31(11)、堂16→17(5)、路傍の石仏(庚申塔、馬頭観音、地蔵など)25→48(4)、道標2→3と調査地点が増えました。

( )内は、凹み石のあるもの。

場所によっては、複数基の凹み穴のある石造物があるので、総基数は62基となった。

前回より、15基増えたことになります。

C 志村エリア

 http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27634_2.pdf

(板橋区産業経済部くらしと観光課作成の地図を借用)

1 稲荷神社(宮元町55)

 

 稲荷神社(宮元町55)           右は寛政6年(1794)造立

本殿向かって左に2基の青面金剛庚申塔。

右の小さな方の台石に凹みがある。

たまたま神主がいたので、穴の謂れを訊きたいと思い呼び止めた。

凹み穴を見てポツリ。

「こんな穴があるなんて知らなかった」。

初めて見る人に謂れを訊いても無駄なので、質問はなし。

2 南蔵院(蓮沼町48)

参道右手の石造物のなかに、弘法大師碑。

 

その台石に凹みがある。

本堂前のお地蔵さんにも見られます。

 

度重なる荒川の洪水から逃れる形で、蓮沼村が台地下からこの地に移転してきたのが、享保13年(1728)。

南蔵院も村と共に移って来た。

この地蔵立像の造立は、宝永年間だから、台地下から移って来たことになります。

凹み穴は、この地に来てから穿たれたのか、それとも移転前だったのか、気になります。

3 長徳寺(大原町40)

2基に凹みが見られる。

1基は、参道左の石仏群の最奥にある六十六部供養塔。

 

本堂側から撮影。手前が六十六部供養塔。

 六十六部供養塔台石の後ろ部分の凹み

『板橋の史跡を訪れる』によれば、もともと清水町にあって、中山道に面していたという。

もう1基は、山門の右横の石仏群にある青面金剛庚申塔。

 

 馬頭八臂青面金剛庚申塔(宝永7年・1710)

青面金剛なのに、馬頭であるのが珍しい。

この台石にも凹みがあります。 

4 常楽院(前野町4-20)

山門の両脇に石仏が多数並んでいる。

向かって右の石仏群のなかでもひと際高い笠掛け地蔵の台石に凹みがある。

 

 

延命鶴亀地蔵(安永5年・1776)

左は墓標石仏群。

     山門左に並ぶ墓標石仏群

数は多いが、凹みのある石仏はない。

墓標を傷つけない、そうした暗黙のルールがあったのだろうか。

5 熊野神社(前野町5-36)

 手水石と力石に凹みがある。

手水石はすごい。

        嘉永3年(1850)

まるで模様かと思うほど杯みたいな穴が掘られている。

27個もある。

力石の凹みも歴然としている。

しかし、こちらの力石は、どうだろうか。

中央やや右上部に1個、左上部に3個の穴があるようだが、写りが悪くてはっきりしない。

そもそも人為的な穴なのか、疑問があります。

6 西台不動堂(西台1-29)

円福寺前の坂道を下りると左に「西薹不動尊」の標石。

 

細い道を行くと急な石段があって、その上に不動堂がひっそりとある。

 西台不動堂(本尊の不動明王は、12年に一度開帳の秘仏)

堂前の手水石が凹み穴だらけ。

 

5の熊野神社の手水石といい勝負といえようか。

誰が穿ったのか、その信仰心というか情熱に感心し、呆れてしまうのです。

8 天祖神社(西台2-6)

参道脇、本殿に向かって左の燈籠に凹みが見える。

 

穴があるのは基礎の部分だが、アップにするとかえって分かりにくいようだ。

この神社には、力石があちこちに置かれている。

その内の1個に凹みがある。

これは何というものか。

 

本殿横に放置されたように横たわる細長いベンチ状の石。

凹みが点々とあるのが分かる。

9 京徳観音堂(西台3-5)

京徳は、旧小字名。

堂の創建は延享元年(1744)なのに、何故か、南北朝時代(延文6年・1361)の宝筐印塔が2基ある。

 

      京徳観音堂               南北時代の宝筐印塔

観音堂へ登る石段横に回国供養塔と地蔵立像。

 

                                        文化15年(1818)

地蔵には「西台村教徳念仏講中」と銘がある。

その地蔵の台石に穴が掘られている。

変わっているのは、石段にも凹み穴があること。

「お地蔵さんには掘る余地がないから、石段に掘っちゃえ」。

粗忽者は、いつの世にもいるものらしい。

 10 稲荷神社(若木1-13)

 

本殿横の手水石。

  安政4年(1857)

上縁前面に凹み穴がある。

お役御免のようだが、現役なのだろうか。

問題は、力石。

小さな穴が開いてはいるが、自然のものか、人為的な穴か、判断がつかない。

11 路傍の庚申塔(志村2-7)

旧中山道から相模国大山へ向かう大山道の、ここが分岐点。

道標と庚申塔が並んでいるが、道標は、店の看板が邪魔して見にくい。

無粋で無神経と批判されても仕方がないだろう。

庚申塔の台石に凹みがある。

 

 万延元年(1860)

庚申塔の左面には「これより富士山大山道」と刻まれていて、道標を兼ねていたことが分かる。

12 龍福寺(小豆沢4-16)

北区との区境に近い小豆沢の龍福寺へ。

 龍福寺は、通称「板碑の寺」。

山門入って左に3基の板碑がある。

中央の大きな板碑は、梵字の弥陀三尊板碑。

建長7年(1255)造立は、区内で2番目に古い。

板橋区有形文化財に指定されている。

目的の凹み穴は、山門脇に立つ地蔵立像にある。

 

  正徳6年(1716)

近くの深坂という場所から移転して来た、と資料にはある。

 石仏は、どっしりと存在しています。

だから、その場所に昔からあるように思ってしまうのですが、そうでない方が多いようです。

特に整然と並んでいる場合は、要注意。

開発とともに居場所がなくなり、寺に持ち込まれて並べられている石仏が少なくありません。

D 赤塚エリア

 http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27636_4.pdf

(板橋区産業経済部くらしと観光課作成の地図を借用)

1 路傍の庚申塔(徳丸5-14)

石川公園の茂みの中にある。

見つけられず諦めて帰ろうとして車に乗ったら、目の前にあった。

 

  嘉永5年(1852)

台石にも凹みはあるが、圧巻は頂部。

杯と云うよりは、お椀のような穴がボコボコ開いていて、壮観。

「左 ねりま いたばし道」とあり、道標を兼ねていたのが、ここに移されたもの。

2 路傍の庚申塔(徳丸6-6)

三面馬頭観音と並んで立っている。

だが、凹みがあるのは、庚申塔だけ。

 

  享保8年(1723)

なぜ、馬頭観音にはないのか、その辺が面白い。

2基とも、もとは北野神社参道の上り口にあったが、昭和3年に区画整理のため現在地に移転してきたという。

3 路傍の庚申塔(徳丸6-53)

民家の庭先にコンクリート壁て囲われてあるが、周囲の風景に溶け込んでいない。

 

                                        文久2年(1862)

凹みは、向かって右側面にある。

台座に「右 ねりま江戸道」と刻されていて、道標にもなっていたことが分かる。

4 大門観音堂(大門2)

まるで私が撮影に行くのを予知していたかのようだった。

手水石が、初冬の午後の射光に浮き上がっている。

 

  スポットライトがあたって、廃棄物同然の石造物も、この瞬間、光り輝いていた。

5 諏訪神社(大門11-1)

国の重文に指定されている「田遊び」の神社。

力石が3個転がっている。

その内の1個に穴がある。

6 徳丸北野神社(徳丸6-34)

鳥居の台石に凹みがある。

 

   宝暦5年(1755)

手水石にも疵のような跡があるが、凹み穴としていいものだろうか。

徳丸北野神社には、手水石が2盤あるが、これは文久3年(1863)の新しい方。

このところ、記述がそっけないのは、1記事内に全部を収めたいから。

写真と文章を意識的に簡素化しています。

7 氷川神社(赤塚4-22)

赤塚氷川神社には、手水石が三盤ある。

 明治31年(1898)、凹みがない手水石

現役は明治31年造立のものだが、他の2盤は『いたばしの文化財シリーズ「狛犬・鳥居・灯篭・手水鉢」』に載っていないので、造立年は不明。

明治時代よりは古いと思われる。

 

その2盤に、いずれも凹みが確認できる。

8 松月院(赤塚8-4)

板橋区の中で格式の高い寺の一つ。

凹みのある石造物は、2基ある。

一つは中雀門左奥の覆屋におわすお地蔵さん。

4体の内、手前から3番目の地蔵は、塩地蔵。

供えてある塩を舐めると歯痛が治ると言われているようだが、塩は見当たらないから、廃業したのだろう。

肝心の凹みは、最奥のお地蔵さんにある。

 

 元禄7年(1694)

これら4体の石仏は、もともとここにあったものではないと思われるが、どこにあったかは分からない。

もう一体の、凹みのある石仏は、参道左手にひと際高く立つお地蔵さん。

 

  享保9年(1724)

台石2段にわたって凹み穴が見られます。

 ここで疑問が一つ。

格式高い寺の石仏を疵つけて、寺は叱責しなかったのだろうか。

石を穿つのですから、寺の目を盗んでというわけにはいかない。

となると、穴を掘る行為を寺は黙認していたことになる。

寺が認めるのですから、それは単なる遊びではなく、寺も認める「有意義な行為」だったに違いありません。

では、その「有意義な行為」とは何だったのか。

「石造物の台石の上で、石でたたいたり、こすったりしたよもぎをご飯に入れて食べると、病気にならない、身体の悪いところが治るという風習」(『蕨の石造物』堀江清隆「凹みのある石造物」)

「盃状穴の習俗は古代からの呪術の一つで、北欧スカンジナビアに発生し、極東シベリア、韓国を経て仏教習合して我が国に伝来したという説もある。病気回復、子孫繁栄、五穀豊穣を願った庶民の意図といえましょうか」(『岩槻史林』中村守「岩槻の盃状穴」)

「子どもたちが野の草花を摘んでは縁石の上に置き、道端の石を拾ってその草花をコツコツとたたきながらままごと遊びに興じたその跡(しきふるさと史話)より」
「神仏を信仰する講中などの多くの人が、巡礼とか巡拝した時、信仰の確認のために石でコツコツ叩き、やがて穴になったものと思われる」(『郷土志木』井上国夫「話題の石造物の盃状穴について」)

いずれも、古くからの言い伝えや古老の話で、確たる証拠はない。

結論的には、凹み穴の目的は不明なのです。

私の調べた板橋区では、凹み穴のある石造物の造立時期は、全部、江戸時代でした。

岩槻の調査報告では、大正11年(1929)の石造物に盃状穴が見られるそうですから、凹みを穿つ行為は、近世から近代にかけて行われてきたことになります。

問題なのは、凹み石に関する文献資料が一切ないこと。

庶民の、様々な、些細な営為まで記録に残っていることを考えると、これは信じられないことです。

この文献資料不在ということにも、凹み石の面白さがあると云えるでしょう。

文献がない、と云っても、それは、凹み石についての記述を意識的に探す人がいなかったからかも知れません。

私は、古文書は読めないので、明治時代の小説などを注意して読んで見るつもりでいます。

9 松月院大堂(赤塚6-40)

 そろそろ容量が一杯になったので、凹み穴だけを載せる。

 

    手水石 延宝7年(1679)                 力石

10 三畝院(赤塚5-5)

施錠されていて境内には入れない。

門扉越しに眺めるところでは、石仏群奥の3体に凹みがあるように見える。

私のバ○○○ンカメラの3倍ズームではこれが一杯。

凹み穴に見えるがどうだろうか。

2回にわたっての「凹み穴のある石造物(板橋編1.2)はこれで終わり。

神社12(26)、寺11(23)、堂5(9)、路傍の庚申塔4(4)、計62基となった。

凹み石かどうか疑いのあるもの4個(全部力石)は除いてある。

なお、5高島平エリアは、容量の関係で前篇に載せておきます。

これで、凹み石が板橋区にあることは確認できた。

多分、横並びで埼玉県に接する練馬区や北区、足立区にもあるだろうことは推察される。

では、千葉県ではどうなのか。

千葉県に接する葛飾、江戸川に凹み石はあるのか。

さらに、都内の南限は、どこなのか。

文京区や新宿区、港区まで足を延ばして見るつもりでいる。

来春、その結果をUPする予定です。

 

参考図書

○岩槻市林NO37(2010.6)

       NO38(2011.6)

       NO39(2012.6)

○郷土志木39号(2010.1)

○蕨市立歴史民俗資料館紀要(2011.3)

○いたばしの石造文化財その1「庚申塔」(平成7年)

○いたばしの石造文化財その4「石仏」(平成7年)

○いたばしの金石文(昭和60年)

○いたばしの文化財その3「狛犬、鳥居、燈籠、手水鉢」(昭和54年)

○板橋の史跡を尋ねる(平成14年)