岡崎というとどんなイメージをお持ちだろうか。
「徳川家康の故郷」、大方の反応はこれにつきそうだ。
「日本有数の石材産業の町」とイメージした人は少ないのではないか。
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弘正寺の万体地蔵の敷地から市内を望む
両者を合わせると、岡崎は「歴史的遺物にかかわる石造物が溢れる町」ということになる。
行ってみたい、とかねてより思っていた。
で、今度、行ってきました。
今回は、その報告です。
2月の下旬、三寒四温の温に合わせて岡崎へ。
東岡崎駅をレンタサイクルで出発したのが、午前10時半過ぎ。
最初の目的地、「大泉寺」へ着いたのが11時ころ。
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大泉寺は左石段の上、右は白山神社
曹洞宗東林山大泉寺は、家康の母於大が安産祈願をした薬師如来を本尊として、天文12年(1543)、創建されました。
本堂脇の墓地丘陵を上った奥に於大の墓があります。
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東京の伝通院にある巨大な彼女の墓と比べると、とても同一人物の墓とは思えない質素さ。
見上げるような高さにまでぎっしりと並んだ無縁仏。
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何気なく撮った前面の一基が、貴重品だった。
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都築輝元『岡崎の石仏』によれば、これは勢至菩薩座像。
二十三夜塔ではなくて、墓標、しかも合掌形ではないので判りにくいが、背面に「大勢至菩薩平等利益」と刻されているらしい。
「阿弥陀仏の脇侍以外に独尊として造立されるのはきわめてまれ」と都築氏はいう。
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また、背後の丸石も墓碑で、「円は有限と無限を表現するもの。中央の線刻は室町時代盛んだった香道の識。香道は聞香といわれて一定の作法で香を焚き、その匂いを鑑賞することによって、茶道や禅のように人間の精神や人生観を培うという。迷路に香が流れるごとく、冥府で迷わない意図から刻まれたものか、石大工岡崎投石亭の銘がある」(『岡崎の石仏』より)
本堂向かって左の笠付六角柱は、宝篋印塔。
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笠、燈身、基礎、基壇すべてが六角形。
らしくないが、塔身に大きく宝篋印塔と彫られているから間違いない。
覆屋の中の石造物は表面の文字が消え薄れて判読不能だが、下部の三猿の形だけは見分けられる。
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今回、1000枚ほど撮った写真の中で唯一の庚申塔。
路傍でも庚申塔を見かけなかった。
裏山へ伸びる道の両側には、西国三十三観音霊場の本尊摸刻が点在する。
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参道入口の崩れた土壁は、台石の焦げ方からすると太平洋戦争の傷跡だろうか。
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被害を蒙った寺と無傷だった寺があった。
大泉寺は、不幸にも全焼した。
変な写真だが、これは極楽寺の参道石段。
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岡崎市では、どこの寺社の階段もコンクリートではなくて、石段なのです。
石段を上がると正面に本堂がポツンとある。
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曹洞宗大雲山極楽寺(岡崎市中町)
広い空間を持て余し気味に見えるが、戦災で全焼し、平成になって本堂だけ再建したもの。
墓地のスロープを上る。
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もちろん石段です。
岩に腰かける人あり。
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和製「考える人」か。
持参資料には、思惟型地蔵読誦塔とある。
「読誦」とは、経典を読み上げること。
読み上げた経典の部数や回数などを記録したのが読誦塔です。
地蔵が腰かける岩座に「妙典千部・読誦功成・功徳無辺願 雲晴秋後普 宝永四年丁亥歳九月 佳山北丘口」と刻されています。
墓地の右側は無縁仏コーナー。
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膨大な数量に圧倒されます。
さすが家康関連の寺と思わせる大寺が岡崎にはいくつもあるが、ここ随念寺もその一つ。
下は、参道入口から山門を望んだ一枚。
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石段両側の白土壁の壮麗さに目を奪われます。
土壁が厚いのは、防御のため。
寺は、城を兼ねていました。
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随念寺は、家康によって1562年、建てられました。
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祖父・清康とその妹久子の菩提を弔うためでした。
山門をくぐると左に六地蔵。
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六地蔵の左に六観音もおわすのが、大寺ならではのことか。
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墓地入口には、一石五輪塔があります。
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『岡崎の石仏』によれば、この五輪塔は、岡崎で制作されたものではなく、大分県臼杵で造られたものたとか。
地輪から空輪にかけて三角錐をとるのが特色だと書いてある。
石段を上る。
石段は、石材の町ならではの産物です。
原材料の石材と加工する石工に事欠かない町だからこその石段なのです。。
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墓地の下に岡崎の市街が広がっています。
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三重塔は2011年建立の新築ホヤホヤ。
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その背後の木立の中には西国三十三霊場の写しがあるが、そのなかの1基がユニーク。
千手観音が亀に乗っている。
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観音の手が線彫りで千手に見えないことと亀の造形がへたくその上、写真の撮り方も最悪で、「亀に乗る千手観音」とはとても思えない。
随念寺で見逃せないのが、墓地最奥におわす二十五菩薩石仏。
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正面に阿弥陀三尊、その左右両側に二十三菩薩が並んでいる
極めて珍しい石仏で、さすが石工の町岡崎と云いたくなる石仏群です。
来迎二十五菩薩は、阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩の脇侍と共に二十三観音を伴い、臨終にある念仏往生の信者を極楽浄土に迎えるさまを表わしたもの。
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観音菩薩 阿弥陀如来 大勢至菩薩
随念寺の山号「現仏山」は、この来迎二十五菩薩を意味していると云われています。
山号にちなんで、家康が制作させたのが墓地最奥の二十五菩薩石仏群。
こんな由緒ある、しかも全国的にも珍しい石造物が、岡崎市の指定有形文化財でないのか、理解に苦しむ。
木造彫刻しか目が行かない頭の固い学識者ばかりのようだ。
下手な写真で恐縮だが、資料として二十五菩薩全部を載せておく。
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阿弥陀如来
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1 観音菩薩 2 大勢至菩薩
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3 薬王菩薩 4 薬上菩薩 5 普賢菩薩
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6 法自在菩薩 7 獅子吼菩薩 8 陀羅尼菩薩
9 虚空蔵菩薩 10 徳蔵菩薩 11 宝蔵菩薩
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12 金蔵菩薩 13 金剛像菩薩 14 山海慧菩薩
45 光明王菩薩 46 華厳王菩薩 47 衆宝王菩薩
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48 月光王菩薩 49 日照王菩薩 50 三昧王菩薩
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51 定自在王菩薩 52 大自在王菩薩 53 白象王菩薩
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54 大威徳王菩薩 55 無辺身菩薩
岡崎が石材産業の町として発展してきた要因に原材料の石材が手近にあったことが挙げられます。
随念寺では、安永7年(1778)から天明8年(1788)までの10年間、方丈、庫裏、長屋を造営した。
残されている建設資料によれば、大工、木挽、左官などにまじり、多数の石工も働いていて、その石は「大小共に山より下へ出し候故容易也」と記されている。
山というのは、境内の山だというから、石材費ゼロということになる。
ちなみに随念寺のすぐ下の町名は「花崗(みかげ)」町。
次いで、曹洞宗白雲山宝福寺へ。
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参道の石段を上がると正面に本堂、本堂左に丘陵墓地という配置パターンは変わらない。
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曹洞宗という宗派に関係があるのだろうか。
ここも無縁仏のボリュームが凄い。
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墓を廃棄物にはしない決意の結果だろう。
真新しい如意輪観音の下に「骨塔」の二文字。
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今回、あちこちで「骨塔」を見かけた。
中に遺骨を納めるのだろうが、墓の下に埋めるのと何が違うのか。
石材店で訊いてみた。
「共同埋葬墓」で大勢の遺骨が骨壺なしで、混じっているのだそうだ。
「所変われば、品変わる」。
旅することは、だから楽しい。
宝福寺を出る。
道路の向こうの辻角に常夜燈が2基ある。
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1基はかなり大きくて古い。
その傍らには「石屋町通り」の標識。
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石屋の看板やそれらしき店も見える。
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多分この巨大常夜燈もこの石屋町の石工が造ったものと思われる。
誰がいつ造ったもので、寸法はどれほどなのか、『岡崎の石仏』を探すが載っていない。
これほど大きな灯篭なら、どんな市町村の「石造物のまとめ」でも記載されているのが普通なのに、載っていないのは何故か。
推測するに、掲載の価値なしと判断したからだろう。
つまり、それほど岡崎の石仏のレベルは高いということになる。
これは私の推測だが、この常夜灯は秋葉信仰の遺物ではないか。
常夜燈は、東海道や脇街道の角・辻に建てられ、往還を行き来する人たちの目印であり、同時に町内安全祈願の火防神の祠でもあった。
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岡崎では寛政期(1789-1801)に秋葉信仰ブームがあった。
当時建立された常夜燈は、今でも50基は下らないと云われている。
秋葉信仰のシンボル常夜燈を中心に秋葉講が組まれ、代表者が遠州秋葉山に代参して札を貰い請けた。
残念ながら、そうした人々の熱気を、常夜燈から偲ぶことはできないが・・・
岡崎の石工とその石造物の歴史について、以下は、市のHPからの転載。
「岡崎石工品の始まりは室町時代後期に遡り、その後、安土桃山時代には、当時の岡崎城主が、城下町の整備のため河内、和泉の石工を招き、石垣や堀を造らせた際、この優れた技術を持った石工たちがそのまま住み移り、その技術技法に磨きをかけ春日型灯籠、六角雪見型等岡崎石工品の原型を作ったとされています。石材加工に適する優れた花崗石が近くで採取できたこともあり、19世紀の初めに29軒だった石屋は、市の中心部にあたる位置に「石屋町」を形成するなどして、19世紀の終わりには約50軒に増え、戦前、最盛期には350軒を数える程の隆盛をきわめました。」
誓願寺の参道入口で足が止まった。
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土壁がむき出しで、その異様さに息を飲む。
随念寺の美しい白壁を見てきたばかりなので、その廃れようが、ひとしお強く感じられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/78/9bf70a0aea77c22ed472c4d57f45f172.jpg)
この壁も白壁だったに違いない。
美しかったものがそうでなくなった時、無残さが倍増する。
土壁を復元したい気持ちは、寺の関係者が一番強いはずだ。
思いが達成されないのには、経済的事情があるからだろう。
これだけ寺が立て込んでいては、檀家の数も限定的で、寺の経営は苦しいに違いない。
そんな益体もないことを思いながら、境内へ。
市の観光協会のHPで誓願寺は「永禄9年(1566)、家康が自らの官位勅許のなかだちをした泰翁のために建立した寺です」と紹介されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/53/0fdd224e41e38fe31641baa5d469c2e8.jpg)
NETで検索しても、大半はこの文章を引用していて、ほとんど同じ。
官位がほしい家康が願いがかなって喜んだ、のは分かる。
仲介者の泰翁にその労をねぎらいたい、というのも分かる。
だけど、その贈り物が寺だというのは、分かりにくい。
泰翁なる人物を調べたら、ちょっとばかり分かったような気になった。
泰翁は、岡崎城下大林寺の僧侶で、この時、京都の誓願寺の住職だった。
泰翁の、そして家康の故郷、岡崎に京都・誓願寺の末寺を建てる、これは立派なプレゼントではないか。
これまでもそうだったように本堂左の丘陵墓地を上る。
中腹に達者な彫りの石仏が数体。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/d4/18862727d13f3bda82ee9f0df114a7a9.jpg)
もしかしたら同一石工か。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/c9/044746187b2cc7708871b5a207644d20.jpg)
千手観音(寺伝では十一面観音とあるという)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/88/dc92dfc47b4e67b1bd9420ab61d26b79.jpg)
如意輪観音
刻銘の国分八郎右衛門は岡崎傳馬の塩商人。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/ec/984324af4f333ea82e727afb7e01630b.jpg)
降三世明王?
(この像ほど儀軌にない像容も珍しい。火焔の光背や三面で足下に自在天と烏摩を踏む形態は降三世明王であるが、大憤怒相や躍動姿や羯摩印を取らない姿態は降三世明王とはきめがたい。後考を待ち残しておきたい貴重な像である)。『岡崎の石仏』より
施主の要望通りに仕上げたら、こんな地蔵になった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/2a/1a6507f18150b05c81d81d5363590005.jpg)
仏というよりも人間そのもの。
施主の顔だろうか。
ここにも「骨塔」があるが、私の焦点は徳利に合っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/4d/bba984904a910d18a2895d9e5826d3ab.jpg)
誓願寺の境内は諏訪神社と地続きになっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/f4/9b4d9bd250d8925af2fab73a3b49071a.jpg)
廃仏毀釈が徹底して実行されなかったようだ。
大泉寺でも極楽寺でも同じだが、右に神社、左に別当寺というスタイルは江戸時代のまま。
諏訪神社の燈籠は、天正16年(1588)造立のもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/23/d1fbd926810bc636bb7e2c508c8d0e4e.jpg)
市内最古の燈籠として市の指定文化財に登録されている。
石造物の指定文化財は、ゼロでないことは分かったが、少なすぎることに変わりはない。
時計を見たら、3時。
4時にはレンタサイクルを返却しなければならないので、今日はこれで終わり。
翌日は、レンタカーにする。
8時半、源空寺着。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/38/c518fc34e9b754981ae6720a26b77ce4.jpg)
浄土宗吉水山法然院源空寺(岡崎市碑歌詞能見町)
山門右手に6体の石仏あり。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/c7/1a535ff2082fea9220b7629e054568c1.jpg)
六観音かと思ったが、如意輪観音や馬頭観音、千手観音が見当たらない。
どうやら六体みな聖観音で、合掌するもの、蓮華を持つもの、宝珠をもつものと6種類の像容があるようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/38/18791174dac8667d29569e7e49aa33e1.jpg)
『岡崎の石仏』では、「六体念仏塔」としている。
傍らの寺の由緒書きには「当山は専修念仏三河念仏根元の道場霊地」とある。
松應寺の所在を探し回った。
あった。
寂れた店と店の間のアーケードの上に「松應寺」の文字。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/2f/53c334781110ef67e162b8e000cea71f.jpg)
寿司屋の幟の文字の方がでかいので、「松應寺」がめだたない。
アーケードはどうやら参道のようだが、朝の9時だというのに、人っ気がなく、真っ暗。
なにやら不気味なのです。
暗い参道を抜けるとそこがもう寺域。
境内がガランとしているのは、空襲で全焼し、再建が進まないから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/37/d25228246122d3d097c1c6655b803890.jpg)
浄土宗能見山瑞雲院松應寺(岡崎市松本町)
松應寺は、永禄3年(1560)、家康によって建てられた。
その11年前、今川方の人質として熱田から駿府に赴く途中、家康はこの地に立ち寄り、非業の死を遂げてここに埋葬されている父広忠の墓を参り、記念に小松一本を植えた。
永禄3年、岡崎城主として故郷に戻って来た家康は、この地に寺を建立する。
小松が大樹になり、自らも城主となったことを喜念して寺名を「松應寺」と号したと云われている。
本堂の後ろに広忠の廟は寂然とあるが、肝心の松は、平成3年、枯れてしまった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/11/f0394763e527c0e8789ea36e65aa87e0.jpg)
廟を囲む白壁の漆喰は剥げ落ちて、むき出しの土壁が寂然たる空気を弥増しにしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/ee/79c44628e61f398725da7e139cfd19f3.jpg)
廟の左に大量の無縁石仏が群立している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/40/9709e6881815005544493315a6ebcc04.jpg)
六地蔵もあれば、六観音もおわす。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/d7/0f6c8301b6ea1c1806f9f1e4adfc1c9b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/85/b0dda1d15a1bf281fef6bbb17d69149a.jpg)
余りシャープではない彫りの西国三十三所観音も列をなしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/ca/46bad98637823011dc1c7386a82a7f3a.jpg)
その中に牛に乗る馬頭観音がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/91/9c9881938342473a9dd4ae0e11695750.jpg)
西国三十三札所の十七番に相当する石仏だが、十七番六波羅密寺の本尊は十一面観音で馬頭観音ではない。
牛に乗る仏としては、虚空蔵菩薩が牛を神使とすることはあるが、虚空蔵菩薩は三十三所観音の主尊にはない。
『岡崎の石仏』の著者都築氏は、移動の際置き間違えたのではないかと推測するが、では牛に乗る馬頭観音の正式な座所はどこなのか、難しい問題でこれまた答えに窮してしまうのです。
帰路、寺を出て、アーケードをまっすぐ帰らず、横の小路に入り込んでみる。
朝の光の中、白けた感じの雰囲気だが、どこかなまめかしく妖しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/c3/0dd4e539adc44b5708aa673e6fc4f399.jpg)
跡で調べたら花街の跡らしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/d8/2752bfeddfcdaf142d2cadecb2bc870a.jpg)
元々は、松應寺の境内だったが、明治維新後、徳川家の庇護を失った寺は境内地を売却して台所を維持してきた。
寺社の前の色町は全国どこにでもある。
ここもその一つだが、すっかり寂れて、空き家率45%。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/44/94eabea11563d65680d5b70e9c4edb81.jpg)
ゴーストタウンと化したバラック門前街の活性化運動に市が乗り出したという記事があった。
成田山別院、永泉寺、観音寺、弘正寺、蓮馨寺、伊賀八幡宮、万松寺、恵日堂、大樹次、真福寺は次回紹介予定。
≪参考≫
◆都築照元『岡崎の石仏』昭和56年
◆岡崎市史(近世)1985
◆松村雄介「岡崎の石仏」(『日本の石仏48号』1988年