石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

124伊勢路の石仏-4(石山観音公園)

2016-07-19 05:36:10 | 石仏

自らの老化は承知しているが、石仏巡りをしていて、山道のコースを全部回り切れなかったりすると、老化の進行を改めて確認することになります。

万人向けにコースは設定されているはずです。

なのに音をあげるというのは、かなりの「弱者」ということになる。

今回の「石山観音公園」も、半分以上、回れなかった。

「石仏巡り」のリポートとしては、不十分であることを承知の上、お付き合いください。

宿場町関宿の南20キロに「石山観音公園」はある。

駐車場で車を降りると、鬱蒼とした樹々の茂みの暗がりの中に説明板がある。

「山全体がひとつの石よりなっていて、その所々に40体あまりの石仏が彫りつけられている」と説明されている。

説明を読んでもピンと来ないのは、「一つの石」から成っているというくだり。

石の上にこんな森や林があるというの?。

俄かには信じられない思いのまま、石段を上り始める。

10段も上らないうちに、眼前に2基の磨崖仏が現れる。

右の磨崖仏の、台石部分には「第壱番」と右書きされている。

何の一番かというと、西国三十三所観音霊場札所の一番。

この石仏は、那智山寺の本尊、如意輪観音の模刻ということになります。

「石山観音公園」の「観音」は、西国観音霊場の観音を意味し、したがって、今回の目的は、石山全体に点在する33体の模刻石仏を巡ることとなります。

石山観音の制作年代については、文書記録がなく、彫技から推測するところでは、室町から江戸初期と目されているようです。

第一番如意輪観音坐像の左隣には、地蔵立像。

地蔵だから、三十三所札所観音でないことは明白。

像高3.42m、錫杖の形から鎌倉時代のものと推察されると説明板は記す。

つまり、三十三所観音が彫られるずーっと前からここにあった磨崖仏ということになります。

龕を深くして、像を立体的に彫ってあるのが、特徴的です。

この地蔵と同様な磨崖仏が他に2点、阿弥陀如来と聖観音とがあるが、それについては、順番が来たら触れることにします。

整備された道を歩いて行く。

小さな石仏墓標がいくつか、道端に傾いてある。

第二番は、紀伊三井寺の十一面観音。

周囲が陽の光で明るく、像が見にくい。

カメラを近づけたが、どうだろうか、少しは見やすいだろうか。

第三番・粉河寺・千手観音は、光背型石塔。

新しいので、近寄って見ると、台石に「昭和十一年」が読める。

現場にいた時は、気付かなかったが、今写真を見るとバックの龕に千手観音の腕らしいものが見える。

本体が崩れ落ちて、代替仏を置いたのだろうか、現場での観察の至らなさに反省しきり。

同じことは、第四番・施福寺・千手観音にも言える。

東京に帰ってから気が付いても後の祭り。

ほんとに悔しくてなさけない。

なぜか、不動明王がおわす。

観音を見続けた眼には、やけに猛々しく映るような気がする。

 台石の文字は、右書きに2行。

天下泰平
 五穀成就

第五番・藤井寺・千手観音は、3番、4番と同じスタイルだが、

第六番・壺阪寺・千手観音と

第七番・岡寺・如意輪観音は、岩を彫りこんだ真正磨崖仏。

やはり、この方が味わいが深い。

顔が崩れて不明でも、全体が汚れていても、長い時を経たものに、無性に魅せられる。

日本人だなあとつくづく思う。

 

第八番・長谷寺・十一面観音。

第九番・興福寺・不空羂索観音。

第十番・御室戸寺・千手観音。

この辺りまでは、問題なく回れたが、次の11番あたりから怪しくなってくる。

駐車場の説明板に「山全体が一つの石から成り立っていて」という表現があった。

「そんなバカな」とあの時は思っていたが、疑ったことを深く反省するのです。

突如現れた岩山に息を飲むばかり。

それでも第十一番・上醍醐寺・准胝観音はどうにか撮れたけれど、

第十二番・岩間寺・千手観音に近づくのには、決死的覚悟を要した。

やっと近づいても、全景を撮るにはカメラを被写体から離さなければならず、不安定な足場のポジショニングに一苦労。

ここで現場の案内地図を見てほしい。

12番をやっと撮り終え、13番から17番まで撮影することはできたが(写真掲載せず)、問題は、24番から28番の石仏群。

そこに行くには、「馬の背」という岩山の尾根を越さなければならない。

私は、ここで断念して下山、別ルートに回ったので、当然、馬の背の写真はない。

下の写真は、誰かさんのブログから無断借用したものです。

ちゃんとコースを回れなかったから言うわけではないが、このコースは万人向け、誰でもOKのコースではないように思う。

階段を彫るなり、鎖をつけるなり、安全対策をもっとしないと、いずれけが人が出そうな気がする。

馬の背越ぇを断念、出発点まで戻って、コースを逆に上ってゆく。

逆コースだから、最初に出会うのは、第三十三番・谷汲山・十一面観音ということになる。

このまま進めば、もしかすると馬の背の向こう側まで回れたのかも知れないが、一度、途切れた撮影意欲は回復することなく、33番の近くの阿弥陀如来像を見て引き返した。

台座を含め5mの磨崖仏を撮るには、立ち位置が石像に近すぎて、仰ぎ気味のショットにならざるを得ない。

上品下生来迎の阿弥陀如来で、清凉寺式衣文から、鎌倉時代の作とみられている。

何か中途半端で、もやもやした気分を抱きながら、駐車場へと歩を進めた。

駐車場脇に句碑。

「日の巌山
   あきつの翅も
     ひびくべし 草堂」

草堂とは、俳人山口草堂のことか。

 *次回更新は、7月26日です。


124伊勢路の石仏-3(金剛證寺続き)

2016-07-13 06:01:02 | 石仏

本堂から右へ、真っ直ぐ進む。

参道は、光り輝く緑に覆われている。

右手の作業所で男が二人材木を削っている。

気にも留めず、通り過ぎたが、彼らが何の作業をしているのか、このあと気付くことになる。

参道を跨いで、白い石門が立ち、その上に朱色の建物。

扁額には「極楽門」とある。

そして、楼門の右脚には「塔婆供養所奥の院」の看板も。

傍らの説明板には、こうある。

この門をくぐった者は、仏さまの慈悲の誓願によって、すべて皆極楽浄土へ往生せしむるという悲願によって建てられたものである」。

主語と述語が交錯する悪文だが、意味は分かる。

本堂前の仏足石では「千年の罪も消滅し」、福丑に触って「福徳智慧増進し、健康になる」現世利益に与ったばかり。

今度は、門をくぐれば「極楽浄土への往生間違いなし」と来世の安寧までも保証される有難さ。

「南無阿弥陀仏」を唱える必要もなく、ただこの門をくぐればいいというのだから、笑いが止まらない。

安請け合いしすぎではないかと心配するのは、根性が曲がっているからだろうか。

また、余計なことで足踏みをした。

本筋に戻そう。

金剛證寺が両部神道に基づく神仏習合の聖地、伊勢神宮の奥の院的存在であることは、先述した。

そして、この極楽門から先は、また別な奥の院となるのです。

この奥の院を支配しているのは、山中他界観と仏教の混合思想。

古来日本では、死者の霊は山中にとどまるとの山中他界が信じられていた。

伊勢地方の人たちにとって山中とは、朝熊岳を意味し、岳参りは先祖参りだった。

この山中他界観に、塔婆を建てて供養することで先祖の霊は成仏するという仏教思想が結びつく。

その具現化が、極楽門から奥の院まで続く卒塔婆の群立光景。

寺に訊いたところでは、その数、およそ2万本。(金剛證寺では「霊」と数えることもあるらしい。つまり、2万霊)

葬儀のあと、寺に申し込めば、戒名と施主名を書いた塔婆を建立してくれる。

ただし、奥の院も格差社会であることは否めず、ピンは50万円(幅580㎝、高さ7.8m)からキリの1万円(幅9㎝、高さ1.8m)まで。

これは、7回忌まで保存(つまり6年間保存)の塔婆料金で、保存期間が3か月未満ならば、5000円から1000円まで、1か月でいいやと思えば、500円で済む。

500円でも50万円でも、先祖の霊を供養することにおいてその効力に差はないのか、あの世に行って見ないことには判らない。

だから、必然、塔婆林は、この世に生きる施主さんの自己PRの場となって、美空ひばりや石原裕次郎、ご当地鳥羽一郎、山川豊の施主名がある塔婆は、最高ランクだった(である)といった都市伝説(田舎伝説?)が流れることになる。

「赤福の塔婆も大きいよ」とすれ違いの地元の人が教えてくれたので、探したが、見つけられなかった。

供養するのは、先祖霊だけではない。

「安全航海/大漁満足/為捕獲魚類一切精霊」とあるのは、漁師が施主の塔婆だろう。

当然、犬猫の卒塔婆もある。

参道わきの作業場で、木材にカンナをかけていたのは、この塔婆作りだったことになる。

 

奥の院に向かって左手の崖地は、墓域になっている。

この五輪塔群は九鬼家の墓地。

九鬼家は、関ヶ原の戦いで親子が東西に分かれ相戦い、敗れた父が伊勢湾の答志島で自害をした。

地元では有名な人物らしいが、私は興味ないので、素通り。

代わりに、興味深い墓があったので、紹介する。

極楽門をくぐってすぐ左、塔婆の壁の手前の墓域にある石碑に目が吸い寄せられる。

「アア
 戦死ヤアワレ
 兵隊ノ死ヌルヤ アワレ
 コラヘキレナイ サビシサヤ
 君ノタメ
 大君ノタメ
 死ンデシマフヤ
 ソノ心ヤ   竹内浩三」

一見、反戦詩のように思える。

右隣には「竹内浩三墓」があり、左側面に字が彫られている。

「  遺稿中ヨリ 昭和十四・一一・二一作
 私の好きな三ツ星さん
 私はいつでも元気です
 いつでも私を見て下さい
 私は諸君に見られても
 はづかしくない生活を
 力一杯やりますよ」

帰宅して、「竹内浩三」をネット検索。

大正10年生まれ、地元伊勢の詩人だった。

昭和20年4月、フィリピンで戦死した(戦死公報)ことになっている。

23歳だった。

いつでも紙があれば、詩を書き留めていたらしい。

徴兵されても。この詩作は続いていたという。

思想的な反戦詩というより、生活詩を書いたら、死ぬのはいやだという心の叫びが文字になった、そんなことのようだ。

石碑は「骨のうたう」という詩の一部。

全文を載せておく。

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

他にも心打つ詩が沢山あるが、その紹介は、このブログの趣旨を外れるのでしません。

関心ある人は、ブログ「五月のようにー天性の詩人竹内浩三」http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/index.html

をご覧ください。

駐車場へ向かう道の途中に石仏群。

中に1基、興味ある石塔があった。

「奉納 大乗妙典六十六部
 内宮外宮朝熊岳千日参」。

享保9年(1724)、志州坂崎村の沙門自性という人が造立したものだが、注目は、千日参りの内容。

沙門自性なる出家者が、伊勢神宮の内宮、外宮を参詣し、朝熊岳を上って金剛證寺にお参りすることを千日続けたということ。

千日参りは全国各地にあるが、特定の神社か寺院を参詣するもので、神社と寺院混在のコースはめずらしいと言えるのではないか。

その1基おいた左にも「千日参」の石塔がある。

 

最後に、「おちんこ地蔵」。

旧参道を上り切った、山門前の石仏群の中にある。

文字通りオチンチンをもろ出ししたお地蔵さんだが、右に「大乗妙典」、左に「二千部供養」とある。

いかなる謂れがあるものか、寺に訊いたが、分からないとのことだった。

看板には、「子宝授け」の地蔵とあるが、像容と効能がストレート過ぎて、ひねりがなさすぎる。

オチンチンだけに限って言えば、前の地蔵の方が明らかに巨根。

願うなら、粗チンより、巨根の方が「効く」ように思うけれど、こんなことを云うから「不謹慎だ」と叱られることになる。

*次回の更新は、7月19日です。

 

 

 

 

 

 

 

 


124伊勢路の石仏-1(伊勢神宮)

2016-07-01 05:25:59 | 石仏

2016年6月上旬、伊勢神宮に参拝してきた。

伊勢志摩サミットで何度かテレビで見たことが、引き金だった。

天皇家の神社が、大和ではなく、何故、伊勢にあるのか、かねてからの疑問の答えが、現地に身を置くことで、少しでも得られたら、という期待があった。

これは、その行き帰りで散見した石仏報告です。

伊勢神宮へは、高校の修学旅行以来、60年ぶりの参詣。

何一つ記憶にないのは、興味がなかったからだろう。

今回は、外宮から内宮へ回ったが、修学旅行では、内宮だけだったような気がする。

で、肝心の石造物はというと、内宮、外宮両方の境内に、ほぼ皆無なのです。

燈籠はすべて木製、神社境内に多い顕彰碑、句碑の類もない。

唯一それらしいのは、外宮御神楽殿前の手水鉢。

広義では、石段や石垣も石造物に入る、とすれば他にもいくつかあることはある。

石造物がないのは、20年ごとの式年遷宮と関係があるのではないか。

新しく作り替えるには、石造物は寿命が長すぎて、不適切ということになる。

 

参詣を終えて、門前の「おはらい町」へ。

中でも賑わう「おかげ横丁」で、名物「伊勢うどん」を食す。

柔らかくて太いうどんに黒い溜り醤油のかけ汁、具はネギだけという面妖なもの。

これをぐちゃぐちゃかき混ぜる。

これが意外に美味かった。

名物に美味いものもあるのです。

 

内宮駐車場を出るとすぐ「猿田彦神社」の幟が目に入る。

立派な庚申塔でもあるのかなと立ち寄って見たが、石造物は何もない。

辛うじて狛犬があるだけ。

千木(社殿の屋根の両端に交差し突き出ている部分)で、その社殿が、内宮系か外宮系か分かる、と聞いたばかりなので、つい、屋根を見上げてしまう。

この社殿の千木(ちぎ)は、先端が水平、かつ、穴が二つ半なので、内宮系。

 

鳥羽のホテルへ行くには、少し時間が早い。

ガイドブックに松尾観音寺があるので、そこに向かう。

松尾観音寺は、和銅4年(712)、行基創設の単立寺院。

日本最古の厄除け寺院として有名だという。

境内入口右側に石造物群。

中にしゃくれた顔のお地蔵さん。

まるで永六輔氏みたいだ。

台石に「日本廻国供養」とある。

2基ある「千日参 供養」は、厄除け祈願でこの寺に千日参詣したということだろう。

御利益はあったのだろうか。

宝篋印塔の造立年は不明だが、すっきりと優美。

庚申堂があるので、のぞいて見る。

前掛けで像容は不明だが、ありふれた庚申塔のようだ。

本堂に入る。

本尊十一面観音お前立の前の床板に、龍の顔が浮き出ている。

もともと龍神伝説のある寺なので、10年前、この模様が出現したときは、大騒ぎになったという。

 

今夜の宿は、鳥羽市の南、相差(おうさつ)港を見下ろす高台のホテル。

眼下の海では、海女さん100人が現役で潜っているのだという。

翌朝、8時の朝食まで町を散策。

「女の願いを叶える」石神さんで、手水鉢に盃状穴を発見。(*盃状穴については、このブログNO44,45,55,56,58を参照ください)

盃状穴も珍しいが、特筆すべきは、説明板があること。

盃状穴についての説明板を私は初めて見た。

全文を書き写しておく。

この手水鉢は文政四年(1821)の銘があり、周りに大小合わせて約30の盃状穴が穿たれている。


病気の治癒や子宝に恵まれ子孫繁栄や不滅のシンボルとして信仰されてきた盃状穴は、神社寺院の境内の置石や手水鉢の縁、燈籠の台石などに彫り付けられている小さな窪みで、直径も深さも数センチ、小さな盃状の形状から盃状穴と呼ばれ、古墳の石棺蓋石からも発見されている。
盃状穴信仰は江戸時代に広く流布して、全国に遺される盃状穴の信仰は、明治維新後も残り、昭和初期まで造られていたと言われます」。

(次回更新日は、7月7日です。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-6

2016-06-26 05:44:37 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、すべて、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

最終回の今回は、奥の院から食堂まで211基の石仏が対象。

地図で朱線の区間。

奥の院まで来て、気付いたことがある。

首のない石仏は奥の院の手前で終わり、奥の院の上は首がある。

判りにくいので、アップにしておく。

「崖を上るのは面倒だから」と、上の石仏は斬らないでおいた。

廃仏稀釈という思想的行為にしては、中途半端で、いい加減の感じがする。

奥の院に切断した首がある。

他に、首はあと一つくらい、残りの多数はどうしたのだろうか。

奥の院の中央奥に坐すのは、弘法大師さま。

石仏なのに玉眼が入れてある。

前にあるのは、履物だろう。

ご多忙な大師さまがいつでもお出かけになられるように、という配慮だろうか。

曹洞宗の金昌寺に、真言密教の弘法大師がおわす理由について、『金昌寺の石仏』は、曹洞宗になる前は真言密教系修験が関わっていたからではないかと推察している。

下の石仏には「紀刕様奥女中タキ」とある。

他にも「紀刕様奥女中」を刻す石仏は、12基もある。

又、「越前様奥女中」の銘文を有す石仏は、14基。

都市伝説では、これらの石仏は「闇に葬った胎児(中絶)の菩提を供養するもの」として有名です。

しかし、『金昌寺の石仏』は、この伝説を真向から否定している。

「奥女中造立の石仏に、幼児の戒名である『〇〇童子』、『▢▢童女』の銘は1基もない。銘文は『御祈祷』や『先祖菩提』、『二世安楽』などで、中絶した胎児を供養するものではない」というのが、理由。

説得力ある分析で、納得。

奥女中が十数人も不義の子を孕み、中絶の上、その供養塔を「〇〇様奥女中」として名前まで入れて造立するなんてことが、実際ありえないことは、すぐ分かりそうなものなのに、こうした伝説が流布するのは、スキャンダラスな話題に人々が飢えていたからではないか。

いや、飢えているからではないか。

かくいう私も7年前、「秩父札所を歩く」のブログで、この都市伝説をもっともらしく紹介している。

http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/08/blog-post_02.html

反省して取り消します。

金昌寺の石仏には、身分や性別、職業、年齢による差別がないことは、何度も触れて来た。

注文を受けた石工も自由にのびのびとノミを振るっていたかに見える。

しかし、「紀刕様奥女中」や「越前様奥女中」には、石工の無意識の、へりくだった様が読み取れる。

石工への注文書には「紀刕家奥女中」、「越前家奥女中」となっていたはずである。

それを石工は、自分の判断で、「家」を「様」に変えて刻した。

そうした方が問題は起きないだろうと石工は判断したことになる。

「御茶水前田家」とか「阿部豊後守家中」、「薩摩家屋敷家中」とかの銘があるのだから。

御三家だから「紀刕様」はありうるが、では「越前様」はどうなるのか。

私の頭も混乱しているようなので、この問題は、これで終了。

 

奥の院を過ぎても首のない石仏は続く。

首があるように見えるのは、みんな後で、くっつけたもの。

この斜面一面全部首がない中、一番上の、大きい十一面観音は無傷。

寺の本尊が十一面観音だからか、石仏の優品には十一面観音が多い。

他の石仏の首は斬ったのに、なぜ、十一面観音は斬らなかったのか。

優品だったから斬るに忍びない?

いやいや、大きくて、斬るのに手間がかかるからやめたのでしょう。

 

突然ですが、ここで、クイズを一つ。

下の写真の石仏は何?

錫杖を持っているから地蔵のようではあるが、坊主頭ではない。

クイズなら正解があるが、この場合は、ない。

あるとしたら「分からない」が正解か。

『金昌寺の石仏』で「尊像名不詳」の石仏は、みなこの類。

 

儀軌にない、独創的な石仏が結構ある。

普通、施主の要望通りに石工は、石仏を造る。

「適当にみつくろって」とは、云わないだろう。

仮にそう発注されても、地蔵とか観音とか、無難な線で折り合いをつけるに違いない。

銘はあるから、施主の要望はあったわけで、だとすると「地蔵のようで地蔵ではなく、観音のようで観音ではなく」というような、指示があったことになる。

 

こうした面妖で不思議な石仏を探して、ネーミングする、そうした楽しみ方が金昌寺にはあることになる。

 

上の写真は「越前様奥女中」と刻された尊名不詳石仏。

前面には「先祖菩提」とある。

金昌寺の石仏の大半は、追善供養塔だから、「為両親菩提」とか「為一切精霊菩提」、「「為先祖代々一切精霊」など「菩提」の入った銘が圧倒的に多い。

少数派としては、下のように「為二世安楽也」とか、

「病気平癒祈念」などもある。

その種類270。

重複している銘があるわけだから、1172基の内、270基も異なった銘文があるというのは、意外な感じがする。

「日本人は横並び文化」、他人と同じようにすれば安心という心理は、どこへ行ったのか。

少数派の実例をいくつか紹介しておこう。
「子年男祈祷」
「三界万霊六親眷属七世父母」
「所願成就」
「武運長久」
「家内子孫繁昌也」
「天下泰平・国家安全」

≪参考図書≫

◇日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』平成19年8月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-5

2016-06-21 04:46:54 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、すべて、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

観音堂に戻る。

本尊の十一面観音は知らなくても、回廊右手に坐す慈母観音を知らない者はいないだろう。

それほど慈母観音は有名で、対照的に本尊は無名なのです。

秘仏にするには、それなりの理由があったはずだが、本尊が何かを誰も知らなくなってしまっては、秘仏にする意味がない。

それは金昌寺に限らず、秩父札所すべてにいえることで、まるで総開帳を盛り上げるためにあえて秘仏にしてる、そんな本末転倒を思わせる始末です。

金昌寺の慈母観音を有名にしたのは、乳飲み子がむしゃぶりつく乳房の豊満さ。

母は、飲みやすいように右手でしっかりと乳房を持ち上げ、その児は、両乳首を親指と人差し指でつまんで飲もうとする、そのリアルな造形が、「慈母」を感じさせて長年愛しまれてきた。

中性的であるはずの仏像の中で、観世音菩薩は女性的に造形されることが多い。

その観音様の中でも、この慈母観音は、 ひときわ女性的と言うか、女性そのものであることが特徴です。

 

今回は、観音堂の右側から六角堂を経て、奥の院へ至る道の両側の石仏が対象。

まずは、六角堂へ向かう緩やかな石段の坂道を上がる。

ほどなく右手に高い石積みの土砂崩れ防止壁が現れる。

見上げると石仏があるようだが、上がるすべがなく、写真撮影を諦める。

六角堂の内部を格子戸から覗く。

 

役行者像の横に、ミニチュア十六大善神がいらっしゃる。

十六善神なんて初耳。

帰宅して調べて知識を増やすのも、石仏巡りの愉しみの一つ。

下の写真では、左上隅が六角堂の屋根。

六角堂から集落を見下ろした光景です。

明暗のコントラストが激しくて、集落の屋根はトンでしまっている。

真中の古木は桜。

桜咲く頃は、さぞ、絶景だろう。

その桜の樹の根本に如意輪観音が埋まって、顔だけ出している。

次第に土に埋もれて、というよりは、少しずつ成長して土から生えてきたそんな感じ。

六角堂裏から奥の院までの道端石仏群は、異様で、薄気味悪い。

なんと、全部、首から上がない。

これだけ揃って首がないということになると、同時期に故意に切断した可能性が高い。

考えられるのは、明治初期の廃仏稀釈令。

埼玉県は、比較的被害が少ない県だったが、それでも幾分かの影響があった。

秩父観音霊場札所では、秩父神社境内にあった札所15番蔵福寺が神仏分離で廃寺となり、現在の場所に移転して、少林寺となったほかいくつかの実害が出た。

第四番金昌寺も本堂は売り払われ、無住となった。

石仏を切断した文字記録は残っていないが、廃仏稀釈令の影響と考えて間違いないと思われる。

「地蔵の首を斬るとギャンブルに勝つ」という俗信を実行に移した博徒も想定されるが、斬り口の鮮やかさは、素人の手際ではないことを証明している。

石工経験者が誰かに頼まれて、やったのではないか。

本当は全部の首を斬りたかったが、数の余りの多さに悲鳴をあげ、止めてしまったものと思われる。

所によっては、斬った上、地面に埋めたケースも報告されている。

斬りはしたが、首のないまま立てておいたのだから、むしろ「よし」としなければならないだろう。

大半は、首の代わりに石を載せてある。

これではいくらなんでもひどすぎるからと、首を持ってきて、くっつけた人がいる。

たが、成功したとはいえそうもない。

首と体に一体感がなく、不自然さが全面的ににじみ出ていて、これでは石のかけらを載せたほうがいいようだ。

切り落とした首をもとに戻してみたが、別の仏体だったようで、バランスが悪く、不安定な石仏もある。

石仏を切断して埋めることはなく、首のないままそこに置いたのはよかったと書いたが、確かな根拠はない。

ちょっと不安なのは、もともと金昌寺の石仏は、3800体あったと伝えられていること。

出典は『新編武蔵風土紀稿』らしいが、3800体という数は、廃仏毀釈前のもの。

では2600体はどうしたのか。

自然流失にしては多すぎる。

「埋めた」という考えもありうるが、ならば、一部が掘り返されていてもおかしくない。

もともとの3800体が、でたらめだったならばさておき、そうでないなら、神隠しにあったような「謎」の2600体ということになります。

 

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-4

2016-06-16 05:34:09 | 石仏

 

「金昌寺の石仏」4回目は、『金昌寺の石仏』ではC群に分類されている区域の石仏が対象。

C群区域は、山門から参道を上った突当り一帯の崖地。

観音堂の左隣の覆屋に巨大地蔵が在す。

像高は1m6㎝とそれほどでもないが、5段の台石が192㎝と高く、總高は3mを超える。

寛政3年、日本橋横山町の豪商丹波屋五郎兵衛が先祖供養のために造立した。

現在でも横山町には衣料品問屋の「丹波屋」がある。

通常「亀の子地蔵」と呼ばれるのは、亀趺の上に坐すから。

亀趺については、このブログでもテーマにしたことがあるので、ご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/477d9598b421d89f70f4e4d46b33024e

台石に「南無阿弥陀仏」、その右に「観世音菩薩」、左に「大勢至菩薩」と刻してある。

お地蔵さんの台石に、なぜ、弥陀三尊なのか、どなたか教えてください。

「亀の子地蔵」の左側は、崖地。

崖の上から下まで石仏が点在している。

まず目に入るのが、丸彫りの金剛界大日如来。

台石に「東都赤坂田町男女講中」とあるのを見て、そういえば、と記憶をたどりながら山門方向へ戻る。

階段を上がった左側にある阿弥陀如来の造立者が「東都赤坂田町男女講中」だった。

(*「金昌寺の石仏-1」の最後で取り上げている)

実は、C群には、もう1基、「東都赤坂田町男女講中」と刻する薬師如来がある。

最初の阿弥陀如来には「東都赤坂田町男女講中」の文字だけだが、二番目の大日如来の台座には「東都赤坂田町男女講中」の他に、杉崎九十九ら10人の名前が刻されている。

更に、三番目の薬師如来には、杉崎九十九ら10人の名前に、新たに10人を加えて20人の名前がある。

みんな男の名前ばかり。

石仏製作費の負担者名ではないかと思うが、「男女講中」としながら、金を出すのは男ばかりというのは、いささか解せない。

江戸時代なら当然のことなのだろうか。

もう一つ解せないのは、「先祖代々菩提 為一切諸精霊」を目的に「赤坂田町男女講中」なる同一団体が、阿弥陀、大日、薬師と仏像を変えて3回も造立していること。

信仰深い人たちと括ってしまえばそれまでだが、その真意奈辺にありや。

便宜上、一番目、二番目、三番目としたが、造立年順ではない。

3基とも造立年は刻されていないから、分からないのです。

金昌寺の石仏で制作年があるのは全体の1.5%。

年月を刻するのが普通なのに、なぜ、金昌寺では省略するのか、さっぱり理由が分からない。

 

右から、大日如来、十一面観音、馬頭観音。

「写真の撮り方がおかしい、中央の十一面観音の首がないぞ」という声が聞こえてきそうだ。

でも、元々、首はないのです。

ついでに、馬頭観音のアップも。

何しろ1172基でたった2基しかない馬頭観音だから、貴重品です。

銘はないが、三面憤怒なので、愛馬の供養塔ではなさそう。

草に覆われて石仏の全身を見ることはできない。

大きな石仏はこれまでも丁寧に取り上げてきたが、普通サイズは余程の特色がないと撮影しなかった。

ポジショニングも関係がある。

比較的大きく見栄えがするものは、最前列に並んでいて、撮影しやすいが、普通サイズは斜面の上まで点在していて、近づけないのです。

佐渡の島民から寄進された石仏があると『金昌寺の石仏』に載っているので、是非、見たいものだと願っていた。

上の写真の、薬師如来の後方にあるということで、意を決して斜面を上ろうとするが、運動神経に欠けるデブの老体は、一歩上がると二歩ずり落ちる始末。

草刈りをしていた作業員に笑いながら「危ないからやめといた方がいいですよ」と忠告された。

斜面がきつい事もあるが、マムシがそろそろ出始める季節なので、危ないのだそうだ。

すぐ探すのを止めたので、写真は当然ない。

像高41㎝の小柄なお地蔵さんに「佐渡国加茂郡▢▢瓦村/願主 ▢左衛門/為二世安楽」と銘があると資料にはある。

佐渡から秩父札所巡りに来て、第四番金昌寺の「石造千躰地蔵尊建立」運動に賛同して、1基を寄進したものと思われる。

佐渡から秩父へ、そこから日光を経て江戸を見物し、東海道を一路上って、西国を回り、京、大坂、奈良を見て、善光寺参りをして島に帰る、これが佐渡者の巡拝モデルコースだった。

 

下の写真の地蔵は、台石4段こみの高さ180㎝。

地蔵の膝で4人の子供が戯れている。

江戸本郷新町の三河屋長兵衛が寛政7年(1795)に造立したもの。

石仏に造立年が刻されているのは、わずか22基。

資料不足ながら『金昌寺の石仏』調査メンバーは、石仏建立は、四世・鉄要祖牛和尚から始まり、七世・舜明知貫和尚の代でほぼ完了したと推定している。

埼玉県教育委員会発行の『秩父巡礼堂』では、六世が寛政元年(1789)に寺門興隆と天災・飢饉の犠牲者供養を目的に「石造千躰地蔵尊建立」を発願、寛政8年(1796)に目標を達成し、「千躰仏海岸供養会」を行ったと書いてある。

上の不動明王は、なにか特別なわけがあるわけではない。

あるとすれば、その場所。

急斜面とマムシの恐怖に打ち勝って、こんな所を登って撮ったことに価値がある。

「自分を褒めてあげたい」。

が、不動明王を1枚とることに必死で、脇侍のセイタカ、コンガラ童子を撮りそこなったのは、なさけない。

この如意輪観音には、セメントで補修した跡がある。

刻銘がちょっと変わっている。

「昭和三十五年十一月吉日/荒船修す」。

この界隈で「荒船」といえば、「荒船清十郎」を指すことは、常識。

観音堂横の墓域の一等地に、本人の胸像つき墓地があるくらいだ。

私たち70歳代世代は、荒船清十郎と云えば、「深谷駅に急行を停めた」あの剛腕政治家だと思い起こすが、50代以下だとどうだろうか。

「地元利益優先の何がわるいのか」と公言してはばからない政治家は、今や絶滅危惧種どころか、絶滅してしまった。

クリーンではないが、その憎めない愛嬌で人を惹きつけたのは、あの角さんに似ている所がある。

ただし、金昌寺周辺には荒船姓がやたら多いそうだから、この修復をしたのが、荒船清十郎であるかどうかは、不確定。

荒船清十郎だったら面白いのに、と思えばいい。

*このブログのデータ、分析は、すべて、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

 

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-3

2016-06-12 05:05:05 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

A群を終えて、次はB群。

B群は、観音堂の周りの石仏群。

B-1群は、桜の木から谷川まで27基。

B-2群は、観音堂前73基。

B-3群は観音堂左脇と後ろ87基。

ではB群からめぼしい石仏を紹介しよう。

左膝を立て、右手で体を支えながら、右方向を見やる、ちょっと小洒落た石仏は、遊戯観音(ゆげ観音)。

冴えない石仏群にあって、異彩を放ち、参拝者のカメラの放列に晒されていた。

馬頭観音が全体で2基ある。

小型石仏ながら三面憤怒、六臂の本格派。

銘文に「両親祈祷」と読める。

愛馬の供養なら判るが、両親の供養に馬頭観音を選択するというのは、いかなる理由によるものなのか、知りたいもの。

如意輪観音といえば、座像が普通。

立像は、まずほとんど見かけない。

その珍しい如意輪観音立像が、4基もあるから面白い。

総数は、29基だから、立像の割合が極めて高い特殊な境内ということになります。

群の中で一際目立つのは、千手観音。

像高が60㎝と平均なのに、高く見えるのは、2段の40㎝の台石効果。

彫りもシャープな佳作。

「下総國香取郡土江内村」からの寄進のようだ。

千葉県下総からは、他に8村、茨城県下総からも2村、造立、寄進されている。

地蔵や観音ではない石仏が5体並んでいる。

珍しいのでパチリ。

左から、如意輪観音、釈迦如来、薬師如来、大日如来、勢至菩薩。

如意輪観音の銘文は、

「江戸赤坂傳馬町二丁目
 家内祈祷
 先祖代々
 松屋善四良内いの」。

「松屋善四良内」にせず、「いの」と本人名を加えてあるのが、これまで見てきたものと異なる。

それでも「松屋いの」とはしにくい何かがあるようだ。。

これは、見返り地蔵。

見返り地蔵はその像容から名付けられた。冥土へゆく亡者を慈悲の眼で見送る姿であると云い、民衆の願いが込められている。
見返り地蔵の像容は、顔を左に向ける点は無一致しているが、持ち物は錫杖、錫杖と桃、と様々。儀軌によって定められたものではなく、民衆の願いそのものの表現である」(『続日本石仏図典』より)

頭にとんがりがあるなあと近寄って見たら、勝軍地蔵だった。

 

1172基のうち、たった1基。

上州新田町の住人からの寄進だが、なぜ、勝軍地蔵なのかは、見当もつかない。

身に甲冑をまとった独特の地蔵。足利尊氏が帰依したことから武将たちの尊崇を集めた。京都愛宕の愛宕明神の本地として、愛宕勝軍地蔵の名で知られている。特に徳川幕府が、愛宕明神を江戸に勧請して以来、武士には勝軍の神として、庶民には防火の神として信仰されるようになった」。(『日本石仏図典』より)

日本人は外来文化を日本の風土に合わせて変容させてしまうと云われるが、勝軍地蔵はその典型だろう。

戦に勝つことを叶える仏なんて、冗談としか思えない。

 

次は、観音堂の左から後ろ側に並ぶB-3群へ。

参拝者は、必ず、観音堂までは足を運ぶ。

山門からの参道両側に途切れることなく続く石仏の数に圧倒され、シャッターを切り続けるので、ここまでくるといささか食傷気味。

お堂の裏まで回って石仏を見る「変人」は一人もいない。

下は勢至菩薩立像。

勢至菩薩は25基と以外に多い。

「浅草並木町 名酒屋」と職業が刻してある。

いい酒を揃えてあるという名酒屋で、まさか「銘酒屋」ではあるまい。

造立主の名前はなくとも、商売を表わす店名を刻す石仏は多い。

油屋、花屋、升屋、手品屋、染物屋、鍔屋、桶屋、槍屋、下駄屋、古道具屋、舟問屋、小間物屋、石屋、大工etc

十一面観音は、座像が5基、立像が9基の14基。

智挙印を結ぶ金剛界大日如来は、16基。

座像が15基、立像、わずか1基。

下の写真は、左から、薬師如来、地蔵菩薩、勢至菩薩。

立像が3基並んでいるのが、珍しい。

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-2

2016-06-06 05:21:03 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

山門から短い階段を上ると、すぐ右へ入るべく小さな板橋がかかっている。

5mほど先の突当りに、高い覆屋、右にも細長の覆屋があり、石仏が並んでいる。

突き当たりの堂の屋根が高いのは、中の十一面観音が高いから。

像高190㎝の十一面観音が、2mを超える5段の台石の上にお立ちになっていらっしゃる。

文字通り見上げるばかりの高さ。

石仏としては、極めてまれな大きさです。

大きいだけでなく、容もいい。

石工銘がないから不明だが、それなりの名のある匠の作品と思われる。

台は、一段目が「蓮台」、二段目が「瑞雲」、三段目が「唐獅子牡丹」、五段目に「邪鬼」を配す凝った意匠。

邪鬼を踏まえる十一面観音は初めて見るような気がする。

足下左右に童子もいる。

この十一面観音に向かって右側の縦長の覆屋には、6体の大ぶりな石仏が並んで在す。

覆屋に向かって右から紹介しよう。

まず、舟形光背立像観世音菩薩。

舟形光背であることと立像であることが、他の5体と異なる。

なぜか銘がない。

その隣は、普賢菩薩座像。

「享和元年酉年
  当山七世 知貫代
 秩父三山村
  願主 近藤文右衛門」

近藤文右衛門の兄弟か、親戚か、隣の石仏の願主は、同じ三山村の近藤與四良なる男。

像容は聖観音だが、台座には「薬師如来」とあり、『金昌寺の石仏』では、勢至菩薩となっている。

何がどうしてこうなるのか、その訳を推測すらできない。

「寛政十二甲五月  奉造立
 當山七世 知貫代 勢至菩薩
 秩父三山邑    秩父三山村
 願主 近藤與四良 願主 近藤與四良」

次のお地蔵さんは、巡拝塔を兼ねている。

「    西国
 奉納  秩父
     坂東   佐野屋市兵衛」

市兵衛さんの細君も負けてない。

隣に子安地蔵を寄進している。

「當村願主 市兵衛
 
天下泰平
 念佛女講中
 日月清明
 當寺六世登獄代」

男女の差別ない石仏の並べようだが、市兵衛さんの女房は自分の名前の代わりに「市兵衛内」と刻している。

微妙に、かつ、歴然と男女格差はあるのです。

一番左の地蔵の台座には、「天下泰平、国家安全」祈願が彫られている。

1172基の石仏で、国家安全を銘しているのは、このお地蔵さんだけ。

寄進者名も「尾張屋六兵衛母」。

「市兵衛内」と同じ、その家の主人に対してのポジション、妻か母か兄妹かを明示して、名前は書かないのが流儀のようだ。

これで6体を紹介した。

銘文がそれぞれ長いのは、像と台石が大きいから。

普通は、50-60㎝の像の下部と側面に短い2,3行が刻されているだけ。

情報量は、格段に少なくなってきます。

これら6体の石仏の反対側には、一風変わった羅漢がおわす。

4匹の邪鬼が担ぐ酒樽の上に、右手に一升瓶、左手に大杯を頭上にかざした片膝立ちの羅漢さん。

銘文がないので、造立目的は不明だが、地元では「禁酒地蔵」と呼ばれているのだとか。

「酒は百薬の長」と飲酒を勧めているように私には、見えるが。

「酔えば天下は俺のもの」。

鬱になるよりトラになるほうがいい。

寅年生まれなのに、酒に弱くて、トラになれなかった身としては、羨ましい限り。

 

元の参道に戻って緩やかな坂道を上る。

前方の観音堂まで途切れることなく続く参道右の石仏群は、『金昌寺の石仏』での調査区域分類でA-4群に相当する。

写真を拡大すると連綿と続く石仏群が判るのだが、小さくて判りづらく、歯がゆい。

一番手前に陽を受けて浮き立つ石碑は、金昌寺で最古の石造物。

石橋供養塔で、元文三年(1738)と刻されている。

「天祝代」の「天祝」は、金昌寺三世朝山天祝大和尚のこと。

上の写真の右手、桜の木までがA-4群。

金昌寺の石仏は圧倒的に地蔵が多く、観音は2番目。

観音が3体並ぶのは珍しい。

下の写真の仏像名は何だろう。

右手の所作があまり見かけない。

こうした像容不明の石仏が多いのも金昌寺の特徴。

「赤坂田町一丁目」と読める。

ちなみに赤坂とつく町名のある石仏は、以下の通り。

赤坂田町中通り、赤坂新町一丁目、赤坂傳馬町一丁目、赤坂黒鍬谷、赤坂田町二丁目、赤坂町一丁目、赤坂新町三丁目、赤坂表傳馬町二丁目、赤坂鈴振稲荷前、赤坂田町四丁目、赤坂表伝町一丁目、赤坂新店、赤坂一ツ木町、赤坂弁天下、赤坂立町一丁目、赤坂定▢秋町、赤坂薬研坂、赤坂今井谷、赤坂鈴橋▢前、赤坂堀河家鋪、赤坂中□町、赤坂毛利屋敷、赤坂左□町、赤坂下▢▢四丁目 。

当然、重複した石仏もあるわけで、赤坂だけで、30基は下らないと思われる。

この調子で、芝、日本橋、神田、四谷とあるのだから、江戸からの寄進がいかに多いか分かろうと云うもの。

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-1

2016-06-01 05:13:47 | 石仏

「日本一」の称号は、宣伝効果抜群、観光地ならどこでも欲しがるし、使いたがる。

秩父観音霊場第四番金昌寺には、およそ1200体弱もの石仏が所狭しと並んでいる。

一つの寺にこれだけの数の石仏があるのは、日本一ではないかと、私は思うのだが、WEBや観光ガイド誌を見ても「日本一」の文字は見当たらない。

他に日本一石仏が多い寺があるのか、単に関係者が宣伝に無関心だからなのか、どうでもいいことではあるが、ちょっとばかり気になる。(*東近江市の石塔寺を忘れていた。一目三万塔の石塔寺が日本一か)

とにかく、石仏がべらぼうに多いことは確かです。

その大半は、追善供養塔で、寛政期(1789-1801)に造立されている。

造立者の多くは武家だが、武士だけでなく、奥女中の名もあるのが目を引きます。

男女を問わずの、この傾向は、商家でも同様で、ただし、〇〇母とか▢▢娘とか、その家の主の名前が優先するのは、男社会の反映でしょう。

造立者の住まいは、江戸が圧倒的多数で、関東一円から越後、信州の地名も散見されます。

私の故郷は佐渡ですが、佐渡國の造立者もあることを知り、驚きました。

造立希望者は、金昌寺近くの石工に制作を依頼し、寺は、石工が持ち込んだ石仏を片端から並べていったものと思われます。

「片端から」と言うのは、武士の隣に商人が、女と男が入り混じり、身分差別は一切見られないからです。

死後の世界にまで身分制度を持ち込まない、寺の方針があったのでしょうか。

 

石仏だから刻文は残る。

残りはするが、読めるかというと、これが難しい。

私に読み解く能力がないのが最大の問題だが、コケに覆われていたり、汚れていたり、彫りが浅かったりして、物理的に読めないものも少なくない。

拓本を採ればいいのだが、私はそこまで趣味が高じていないので、必然的に先学の努力に頼ることになる。

世に奇特な人はいるもので、なんと金昌寺の石仏悉皆調査を行った人たちがいるのです。

それは、「日本石仏協会埼玉支部」のグループ。

その成果を、平成19年、『金昌寺の石仏』としてまとめ、公表しました。

調査主体が、「日本石仏協会」のメンバーだと知れば、調査自体は当然のように受け取られがちですが、1172基もの石仏の悉皆調査となれば、その労力は計り知れないものがあります。

まして調査費用は、自己負担というのですから、もう「奇特な」と形容するしかない。

前置きが長くなった。

労作『金昌寺の石仏』を片手に、西武特急に乗って秩父へ。

『金昌寺の石仏』を参考に、主だった石仏を紹介するのが、今回の眼目です。

データ、分析は、専ら『金昌寺の石仏』にお任せ、私は感想のみを付け加えるといういつもの安直スタイル、ご了承ください。

高谷山金昌寺は、秩父観音三十四ケ所の第四番札所。

西武秩父駅からバスで18分の道のりです。

私が金昌寺を訪れるのは、これが3度め。

8年前、秩父札所巡りをした際、2度、参拝しました。

その模様は、このブログのブックマークの「秩父札所を歩く」で御覧になれます。

http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/07/blog-post_3444.html

 

寺は、鎌倉時代後期開基と推測される。

江戸後期までは大変繁盛していたが、明治の廃仏稀釈で廃寺となり、本堂は民家に払い下げられました。

現在は、観音堂が本堂の役割をはたしているようです。

 

大草鞋が吊り下がっている山門の周囲は、コンクリートの打ち直し工事中。

山門をくぐろうとして、気が付いた。

『金昌寺の石仏』に記載されている山門周りの石仏が一体もないのです。

工事をするので、一旦保管場所に移転したのだろうと思い、山門横の売店の人に訊いいてみた。

「山門周りの石仏はどこにあるのですか」。

「そんな石仏は、もともとここには一体もない」というのが、売店の人の答え。

「だってここに配置図がありますよ」と資料を見せるが、「50年もここにいるが、石仏があったことはない」と云うのです。

おかしいなあとブツブツいいながら、石段横の石仏を撮影し始めていたら、駆け寄ってきて「お客さん、分かりましたよ」。

山門の上にも石仏が53体あって、この配置図は、三段に積み重ねたその配置図だという。

振り返って、山門の上を見る。

なるほど、石仏群が見える。

上って写真を撮りたいが、登段禁止だといわれ、断念。

 

いよいよ石仏紹介ですが、『金昌寺の石仏』では、5グループ、21区画に分けて調査をしているので、それに従います。

まずは、山門をくぐると眼前に伸びる石段両側区域。

山門をくぐると手水鉢。

石仏ではないが、金昌寺で2番目に古い、寛延4年(1751)のもの。

その後ろの石仏が、1172基の石仏の先頭ということになる。

舟形光背座像の観世音菩薩(塔高は、台座こみ74㎝)。

金昌寺の石仏の86%は丸彫り塔だから、全体の代表ともいうべき先頭に、少数派の舟形光背塔を何故置いたのか、頭をかしげる。

その右横には谷川がちょろちょろ流れ落ちている。

その溝を挟んで右にも2列の石仏群がある。

像高は、概ね、50-60㎝、地蔵菩薩が圧倒的に多い。

『金昌寺の石仏』によれば、地蔵の数は、約400基。

ダントツのNO1だが、凄いのはその数ではなく、同じ像容が少ない事。

恐らく関わった石工は少なかっただろうから、似通った像容があっても不思議ではない。

きちんと検証したわけではないので、断言はしないが、地蔵が多い割には、似た地蔵は少ないように思う。

ここでは、宇賀神が目立つ存在。

一見、ヘビというよりもウンコに見える。

でもこんなに長いウンコはないから、やっぱりヘビか。

追善供養と如何なる関係があるのか、なぜ、ここに?と思ってしまう。

 

石段の左側へ。

金昌寺の石造物の98%は、像塔。

文字塔はわずかしかない。

これはたった1基の文字供養塔。

「紀 卯歳 御男子 御祈祷
   寛政五年十二月二十九日 尊霊御菩提
   寛政六寅年正月廿日   尊霊御菩提
 州 先祖代々一切精霊菩提 願主吉村」

         (『金昌寺の石仏』より転載。以下、刻文はみな同じ)

1172基の大半は、寛政年間造立とみられている。

その典型例といえそうだ。

 右手が欠けているが、阿弥陀如来塔。

阿弥陀如来は、19基あるが、座像は4基しかない。

座像と立像では、印相が違っていて、座像は弥陀定印(上品上生印)、立像は、来迎院(下品下生印)と分かれている。

台座の刻文には「赤坂田町 男女講中」とある。

同じ講中の大日如来と薬師如来があるので、後刻、再び、触れることに。

 

 


99 愛知県岡崎市の石仏(2)

2015-03-16 05:44:28 | 石仏

迷っている。

何を迷っているかと云うと、成田山別院の境内にある石仏の写真を1基ずつ全部載せるかどうかということ。

問題の石仏は、不動明王八大童子と三十六童子。

珍品だから1基ずつ紹介したいのだが、全部だと不動明王を入れて、45基にもなり、写真の容量が莫大で、他の寺の石仏紹介に影響しかねない。

全掲載は断念することに。

成田山別院の三十六童子は、顔は前を向いているが、それぞれテンデバラバラ、統制を欠いたまま佇んでいる。

三十六童子と八大童子の区別すらない。

   

三十六童子の虚空蔵    八大童子の慧喜菩薩

そもそもこれら石仏群が貴重な不動明王の侍者であることの説明もない。

 そういうせせこましくないところがいい、と云えばそれまでだが。

貞樹寺の前を通り、成田山別院の裏道へ出る。

道の向こうは、曹洞宗仏日山永泉寺(岡崎市能見町)。

参道入口の右手に地蔵堂。

その背後にびっしりと無縁墓標が並んでいる。

無縁さんに心優しい土地柄のようだ。

本堂に向かって参道を進む。

両側に十六羅漢さん。

私が好きな羅漢さんは、下の写真。

眉がいい。

白いコケが、ホントの眉毛のようだ。

鼻がいい。

デンと座っている。

口がいい。

歯が見える。

歯のある石仏は初めて見た。

羅漢さんに混じって龍がいる。

釈迦入滅の際、「十六羅漢、五百人の弟子、五十二類まで悲しんで・・・」と書かれているが、五十二類とは動物を指し、龍は動物のカテゴリーに入っていた。

つまりこの龍は釈迦入滅を悲しみ、その威徳を偲ぶ龍ということになる。(『岡崎の石仏』より)

 

永泉寺から一挙に西へ向かって、曹洞宗見松山観音寺(岡崎市城北町)へ。

セールスポイントは「報徳園」なる庭園。

庭園は、また、西国三十三観音お砂踏み霊場となっている。

お砂踏みというのは、西国三十三所の実際の砂を敷き詰めてあるので、ここを一巡すれば、三十三所全部を巡礼したと同じ功徳を得られるというのが売り文句。

お砂踏み霊場巡りのスタート地点に佳作石仏が2体。

左、十一面観音、右、地蔵菩薩立像。

石工の町岡崎でも屈指の石像です。

 

 

 

草花が枯れてもっとも景色に精彩を欠く季節だったので、寺のHPから初夏の写真を拝借、載せておく。

庭園の最上段、本堂の脇に十六羅漢さん。

最上段におわすのは、釈迦如来だが、この報徳園には庭園全体を見渡す巨大な釈尊像が座している。

逆光で像容がはっきりしないのは残念だが、大きな石仏であることは分かる。

 

弘正寺には、万を超える水子地蔵があると事前に情報を得ていても、実際にその場に立つとその膨大な数に圧倒されてしまう。

       曹洞宗愛宕山弘正寺(岡崎市伊賀町)

想像は、その人の過去の経験や常識をベースになされるから、非常識なものに接すると驚いて立ちすくんでしまう。

弘正寺の万体地蔵は、まさにその典型例。

中有に迷う水子の霊を供養するという目的は、秩父の地蔵寺も同じでこちらも山肌を水子地蔵とカラフルな風車がうずめつくしている。

   紫雲山(水子)地蔵寺(埼玉県小鹿野市)

その数は約1万5000基で、ほぼ同じ。

しかし、地蔵寺が人里離れた山中にあるのに対し、弘正寺は市内のど真ん中にあるのだから、そのインパクトは計り知れない。

水子地蔵が埋め尽くす、崖地境内の全景を撮るのは不可能。

どうとっても部分撮影になってしまう。

縦横に小道が走り、四国八十八ケ所の本尊模刻が新旧二体ずつ要所要所に置かれている。

水子地蔵ばかりで、真言宗の匂いがしない中での、唯一の例外。

最上段に立つ巨大弘法大師像にたどり着いて、ミニ四国霊場めぐりをしていたのだと再確認することに。

その足元には、各種弘法大師像もあるが、私には初見のものばかり。

中に1基、弘法大師の上に不動明王の二尊仏。

墓地には酒樽の墓がある。

岡崎の任侠・鈴木円蔵の墓。

明治21年、彼の死を悼み、その酒豪ぶりを偲んで、人々が建てた。

縄と竹の質感、そしてその締め方のリアルティに、素材が石であることを忘れさせる技巧がある。

石工の町ならではの作品か。

下まで降りて本堂へ。

「えっ、こんな所に!」と思わずつぶやいた。

寛永寺燈籠が2基ある。

解説版によると、右の燈籠は四代家綱の死に際し、豊後国日出城主から奉献されたもの。

城主・木下右衛門は、秀吉の妻ねねの方の甥っ子なのだそうだ。

下から改めて万体地蔵を見る。

40年かけて、約1万5000体となった。

一体ずつ名前が書いてある。

ここでクイズ。

水子地蔵は、1体いくら?。

答えは、台石に納骨すれば、10万円。

水子地蔵だけなら5万円。

高いか安いかは、あなたの信仰心にもよるが、高い?安い?それとも妥当金額?

 

 蓮馨寺の門前に小祠。

  浄土宗法羅陀山蓮馨寺(岡崎市伊賀町)

中に丸々と太った子供を抱くお地蔵さま。

庭に入る。

石塔以外何もない。

石塔は、滋賀県の石塔寺の阿育(あしょか)塔を模したもの。

銘文に「仏舎利奉納目次 浄土三部経江洲阿育王塔・・・現在江洲蒲生郡石塔寺今模倣之建立 願主 原田浜之助 大正十六年三月」とある。

大正十六年は、間違いではない。

昭和2年の異名。(『岡崎の石仏』から)

 

蓮馨寺を出て左へ進むと、そこは伊賀八幡宮一の鳥居。

本殿ははるかかなたにあって、見えない。

伊賀八幡宮は、徳川家の始祖松平家の氏神。

文明2年(1470)松平家4代親忠によって、伊賀の国から当所に移設された。

ちなみに家康は、松平家9代に当たる。

持参資料の「岡崎の石仏」(『日本の石仏48』の「石仏の旅18」)は、ガイドをここ伊賀八幡宮からスタートさせている。

伊賀八幡宮の重文石橋をまず紹介することで、岡崎市がいかに徳川家と関係が深く、同時に石材・石工の町であるかを、読者に一瞬にして理解させてしまおうという意図がそこにはある。

 万物枯れはて、あまりにも精彩がない。蓮華が花咲いている写真を神社HPより借用し、後に載せてある。

「石仏の旅ー岡崎の石仏」の案内役・松村雄介氏の伊賀八幡宮紹介は力がこもっている。

岡崎での石仏など信仰にかかわる石造物の探訪は、まずここ八幡宮で、国指定の重要文化財である石造の神橋を望見することから始めよう。石橋だけでなく、神域の豪壮でしかも精巧な建造物の大部分は寛永13年(1636)に完成し、いまいずれも国の重要文化財である。建造を命じたのが、時の権力者家光。工事を奉行したのが岡崎城主本多忠利であることを考えれば、石橋にも近世前期における石材加工と石造物構築の最高の技術が駆使されているのは当然であるが、この神橋が造形の細部に至るまで、忠実に木造橋を模していて、素材である石材の加工上の限界にまで迫っているのは、注目に値する。造形上のお手本を木造建築物などに求め、石独自の造形を追及しようとしなかったのは、古代以来のわが国石彫の伝統であったが、この伝統をもっとも高い水準まで高めたのが、近世の石彫技術であった」。

 

伊賀八幡宮の駐車場で、次の目的地「大樹寺」をナビに入力する。

「だいじゅじ」と入れるがヒットしない。

ナビに頼らず寺に到着。

寺の歴史をがなるスピーカーで「だいじゅうじ」が呼称であることを知る。

伊賀八幡宮が徳川家の祖、松平家の氏神ならば、ここ大樹寺は、菩提寺になる。

山門の前には、その名もズバリ「大樹寺小学校」がある。

その校歌の一番の歌詞は

 丘の学校たのしいな
 西を流れる矢作川
 南の門のまん中に
 岡崎城も絵のようだ
 みんなの学校 大樹寺」

大樹寺は、岡崎城の鬼門に建てられた。

江戸城と寛永寺の位置関係に酷似している。

寛永寺から不忍の池越しに江戸城が見えるように、大樹寺の本堂、山門、総門と岡崎城の天守閣は一直線上にある。

「南の門のまん中に 岡崎城も絵」の様に見えたはずです。

大寺である。

ご朱印寺としても岡崎ではダントツのNO1。

朱印高616石、2位の真福寺354石を大きく引き離していた。

徳川家の庇護厚かったが故に、明治初期の廃仏毀釈の影響ははかりしれないものがあった。

塔頭の売却で苦境をしのいだと云われている。

門前の大樹寺小学校も塔頭跡地に建てられています。

大寺ではあるが、石造物には見るべきものは少ない(ように見える)。

松平歴代の廟くらいか。

墓地を歩くと、それでも彫りこみ五輪塔や板卒塔婆五輪塔を見かける。

 自然石に五輪塔を彫り、中に「南無阿弥陀仏」を刻んである。

扁平角柱石を五輪型に刻んだ墓標。昭和54年の新しいもの。

 

現代風石仏があるので、よく見たら、台石に「奉納寄進 長岡和敬」とあった。

サッカーボールの墓もあれば、現代石彫家による羅漢?群もある。

現代羅漢群は、多宝塔の前にあるから、新旧の対比が、期せずして、面白い。

 

 急に格式がなくなってしまうが、下の写真を見てほしい。

  『岡崎の石仏』より

この立派な石棒が大樹寺の近くの「善揚院」なる寺にあるということで、探し回るが、寺が見当たらない。

開発が進んで、のっぺりと無個性な町では、金精様も居心地が悪かろう。

「子供の教育に悪いから撤去するように」と云われて姿を消したわけではあるまいが、早晩、そうしたクレームをバカ女たちが喚き散らすことは目に見えている。

 万松院にもある、というので、行って見た。

写真では、光背付男根と見える。

  『岡崎の石仏』より

光背つきとは珍しい。

是非、見てみたいものだが、境内に石仏は皆無、きれいさっぱり何もない。

山門脇の林の中に小堂があって、「諸祖神」なる文字も読める。

多分この中にあるのだろうが、カギがかかっていて、扉があかない。

桟枠が狭く、レンズも入らないから、撮影はお手上げ。

寺に断わって見せてもらおうとしたが、無住のようで、応答がない。

2か所続けてのカラ振りで意気消沈、疲れがどっと出る。

 

でも、次の恵日堂の石造物を見て、疲れが飛んだ。

素晴らしい石仏群なのです。

恵日堂は、現在、改築中。

右の白壁の先、もやもやっと低木がある所に石造物がある。

壁に沿って、まず右側に六地蔵。

工事中なのでごちゃごちゃと汚い。

地蔵は、柔らかいがキリッとして、手練れの作と見える。

左に並ぶのは、七観音。

恵日堂は、天台宗滝山寺の末寺なので、聖、千手、十一面、馬頭、如意輪に不空羂索観音を加えて六観音とし、更にそこに楊柳観音を加えて七観音としている。

     揚柳観音

ちなみに真言宗だと、不空羂索観音ではなく、准胝観音。

六観音と七地蔵に挟まれて、立っているのが延命地蔵。

享保十一年(1726)、権大僧都良春を願主として造立された。

写真を見て、一目でお分かりの方もあろうが、お地蔵さんの前の石仏群は、十王。

閻魔王をはじめとする十王に奪衣婆、人頭杖、浄玻璃の鏡など一式がコンパクトにまとまっている。

 

  閻魔王             奪衣婆

この場所には、十王堂があったそうだから、元々は屋内におわしたものらしい。

人頭杖は、檀茶幢(だんだどう)ともいい、亡者の罪の軽重を判定する道具。

男頭から火を吐けば重く、女顔からの火は軽い罪に処せられたという。

浄玻璃の鏡は、亡者の生前の罪を映し出す鏡。

時代は変わっても、人間の想像力はあまり変わらないなあ。

それにしても、今の子供たちは、十王を怖がるのだろうか。

折角の優品なのに、写真がひどすぎる。

とても人様にお見せするような写真ではない。

もう少しちゃんと記録できるカメラにしなくては。

 

真福寺は、岡崎市北部の山中にある。

仁王門の前の駐車場の一画にある覆屋に石仏群。

黒の細長い冠の三面菩薩は、馬頭観音。

配色、像容ともに初めて見る。

真福寺は、白鳳時代(594年)創建の古寺。

    天台宗 霊鷲山 降劒院 真福寺(岡崎市真福寺町薬師山)

法隆寺、四天王寺、善光寺などとともに聖徳太子建立の寺と伝えられている。

境内の一隅に小さな五輪塔群。

塔高30-40㎝の一石五輪塔で室町時代の作品。

基礎は地中に埋まっている。

 

本来は、仁王門から長い急な石段を上って来る。

私は、車で上まで上がり、石段を見下ろす形になった。

だから石段の脇におわす羅漢さまを目にしたのは、ほんの2,3体。

全部を写真に収めるには下まで下りて、また上って来なければならない。

考えるまでもなく、断念。

三河誌に「門より登ること四五町沿途九曲なり。その間に十六羅漢を置く」とある。

宝篋印塔は、岡崎市最高の5.5m。

本堂へ向かう極楽橋の上からみた亀。

なぜ亀なのか、寺に訊いたが、格別な意味はないのだそうだ。

古刹だから、市の文化財に指定されているものもいくつかある。

しかし、石造物は皆無。

         法華塔

ま、そんなものかなと思いながらも、なんとなく釈然としない。

時計を見ると2時。

6時間半、車で回ったことになる。

予定の半分も回れていないが、今回はこれにて終了。

帰途、岡崎城へ寄る。

石工の町・岡崎は、この岡崎城の築城に始まるものとされている。

天正18年(1590)、家康の関東移封と同時に岡崎城主となった田中吉政は、城郭、城下の整備に乗り出した。

強固な石垣構築に河内、和泉は勿論、近江の穴太(あのう)衆までも呼び寄せ、城下に住まわせた。(これが裏町の石工町)

石工たちは、香川県庵治、茨城県真壁と並ぶ岡崎の石をふんだんに使って石垣を築き、そのまま岡崎に定着、燈籠や墓石などの石造物を生産するようになる。

江戸城石垣構築のため集められた石工たちがそのまま江戸に定着して、石仏墓標を生産したのと、まったく同じ図式です。

東海道岡崎宿を往き来する旅人たちが、気に入った石造物を、運搬を気にせず、容易に購入できたことも岡崎が石都として名を馳せた要因です。

当寺、石造物の運搬は、陸路ではなく、舟運がメインでした。

              矢作川

矢作川が町中を流れる岡崎は、太平洋回りの舟運に直結していて、どんな遠方の地からの注文にも応じられたのです。

 

これで岡崎石仏巡りは終了。

目的の半分も回れなかった。

石工団地で石工の話も聞きたかった。

先祖の作品の前で、何人か記念写真を撮りたいと思っていたが、叶わなかった。

もうひとつ、帰京してから知って根地団太踏んだことがある。

「抱き地蔵」を知らずに回って、写真を撮らなかったことが悔やまれる。

「抱き地蔵」は、別名「重軽(おもかる)地蔵」ともいい、両ひざをついて抱きかかえられれば、願いが叶うと云われるもの。

「岡崎市史」には、市内46か所の「抱き地蔵」が列挙されている。

「抱き地蔵」は全国的な習俗で、珍しくはないが、特に岡崎では多いということで、岡崎の石仏巡りをして「抱き地蔵」を逃したのは、大失態ということになる。

 

 

 

 

 

 


98 愛知県岡崎市の石仏(1)

2015-03-01 07:04:56 | 石仏

 岡崎というとどんなイメージをお持ちだろうか。

「徳川家康の故郷」、大方の反応はこれにつきそうだ。

「日本有数の石材産業の町」とイメージした人は少ないのではないか。

        弘正寺の万体地蔵の敷地から市内を望む

両者を合わせると、岡崎は「歴史的遺物にかかわる石造物が溢れる町」ということになる。

行ってみたい、とかねてより思っていた。

で、今度、行ってきました。

今回は、その報告です。

 2月の下旬、三寒四温の温に合わせて岡崎へ。

東岡崎駅をレンタサイクルで出発したのが、午前10時半過ぎ。

最初の目的地、「大泉寺」へ着いたのが11時ころ。

     大泉寺は左石段の上、右は白山神社

曹洞宗東林山大泉寺は、家康の母於大が安産祈願をした薬師如来を本尊として、天文12年(1543)、創建されました。

本堂脇の墓地丘陵を上った奥に於大の墓があります。

東京の伝通院にある巨大な彼女の墓と比べると、とても同一人物の墓とは思えない質素さ。

見上げるような高さにまでぎっしりと並んだ無縁仏。

何気なく撮った前面の一基が、貴重品だった。

都築輝元『岡崎の石仏』によれば、これは勢至菩薩座像。

二十三夜塔ではなくて、墓標、しかも合掌形ではないので判りにくいが、背面に「大勢至菩薩平等利益」と刻されているらしい。

「阿弥陀仏の脇侍以外に独尊として造立されるのはきわめてまれ」と都築氏はいう。

また、背後の丸石も墓碑で、「円は有限と無限を表現するもの。中央の線刻は室町時代盛んだった香道の識。香道は聞香といわれて一定の作法で香を焚き、その匂いを鑑賞することによって、茶道や禅のように人間の精神や人生観を培うという。迷路に香が流れるごとく、冥府で迷わない意図から刻まれたものか、石大工岡崎投石亭の銘がある」(『岡崎の石仏』より)

本堂向かって左の笠付六角柱は、宝篋印塔。

笠、燈身、基礎、基壇すべてが六角形。

らしくないが、塔身に大きく宝篋印塔と彫られているから間違いない。

覆屋の中の石造物は表面の文字が消え薄れて判読不能だが、下部の三猿の形だけは見分けられる。  

今回、1000枚ほど撮った写真の中で唯一の庚申塔。

路傍でも庚申塔を見かけなかった。

裏山へ伸びる道の両側には、西国三十三観音霊場の本尊摸刻が点在する。

参道入口の崩れた土壁は、台石の焦げ方からすると太平洋戦争の傷跡だろうか。

被害を蒙った寺と無傷だった寺があった。

大泉寺は、不幸にも全焼した。

 

変な写真だが、これは極楽寺の参道石段。

岡崎市では、どこの寺社の階段もコンクリートではなくて、石段なのです。

石段を上がると正面に本堂がポツンとある。

      曹洞宗大雲山極楽寺(岡崎市中町)

広い空間を持て余し気味に見えるが、戦災で全焼し、平成になって本堂だけ再建したもの。

墓地のスロープを上る。

もちろん石段です。

岩に腰かける人あり。

和製「考える人」か。

持参資料には、思惟型地蔵読誦塔とある。

「読誦」とは、経典を読み上げること。

読み上げた経典の部数や回数などを記録したのが読誦塔です。

地蔵が腰かける岩座に「妙典千部・読誦功成・功徳無辺願 雲晴秋後普 宝永四年丁亥歳九月 佳山北丘口」と刻されています。

墓地の右側は無縁仏コーナー。

膨大な数量に圧倒されます。

 

さすが家康関連の寺と思わせる大寺が岡崎にはいくつもあるが、ここ随念寺もその一つ。

下は、参道入口から山門を望んだ一枚。

石段両側の白土壁の壮麗さに目を奪われます。

土壁が厚いのは、防御のため。

寺は、城を兼ねていました。

随念寺は、家康によって1562年、建てられました。

祖父・清康とその妹久子の菩提を弔うためでした。

山門をくぐると左に六地蔵。

六地蔵の左に六観音もおわすのが、大寺ならではのことか。

墓地入口には、一石五輪塔があります。

『岡崎の石仏』によれば、この五輪塔は、岡崎で制作されたものではなく、大分県臼杵で造られたものたとか。

地輪から空輪にかけて三角錐をとるのが特色だと書いてある。

石段を上る。

石段は、石材の町ならではの産物です。

原材料の石材と加工する石工に事欠かない町だからこその石段なのです。。

墓地の下に岡崎の市街が広がっています。

三重塔は2011年建立の新築ホヤホヤ。

その背後の木立の中には西国三十三霊場の写しがあるが、そのなかの1基がユニーク。

千手観音が亀に乗っている。

観音の手が線彫りで千手に見えないことと亀の造形がへたくその上、写真の撮り方も最悪で、「亀に乗る千手観音」とはとても思えない。

 

随念寺で見逃せないのが、墓地最奥におわす二十五菩薩石仏。

 正面に阿弥陀三尊、その左右両側に二十三菩薩が並んでいる

極めて珍しい石仏で、さすが石工の町岡崎と云いたくなる石仏群です。

来迎二十五菩薩は、阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩の脇侍と共に二十三観音を伴い、臨終にある念仏往生の信者を極楽浄土に迎えるさまを表わしたもの。

 観音菩薩 阿弥陀如来  大勢至菩薩

随念寺の山号「現仏山」は、この来迎二十五菩薩を意味していると云われています。

山号にちなんで、家康が制作させたのが墓地最奥の二十五菩薩石仏群。

こんな由緒ある、しかも全国的にも珍しい石造物が、岡崎市の指定有形文化財でないのか、理解に苦しむ。

木造彫刻しか目が行かない頭の固い学識者ばかりのようだ。

下手な写真で恐縮だが、資料として二十五菩薩全部を載せておく。

  阿弥陀如来

 

  1 観音菩薩      2 大勢至菩薩

  

  3 薬王菩薩       4 薬上菩薩     5 普賢菩薩

  

6 法自在菩薩    7 獅子吼菩薩     8 陀羅尼菩薩 

     

  9 虚空蔵菩薩     10 徳蔵菩薩      11 宝蔵菩薩

  

  12 金蔵菩薩     13 金剛像菩薩      14 山海慧菩薩 

   

 45 光明王菩薩                   46 華厳王菩薩           47 衆宝王菩薩

  

 48 月光王菩薩   49 日照王菩薩    50 三昧王菩薩

  

 51 定自在王菩薩    52 大自在王菩薩   53 白象王菩薩

 

 54 大威徳王菩薩    55 無辺身菩薩

岡崎が石材産業の町として発展してきた要因に原材料の石材が手近にあったことが挙げられます。

随念寺では、安永7年(1778)から天明8年(1788)までの10年間、方丈、庫裏、長屋を造営した。

残されている建設資料によれば、大工、木挽、左官などにまじり、多数の石工も働いていて、その石は「大小共に山より下へ出し候故容易也」と記されている。

山というのは、境内の山だというから、石材費ゼロということになる。

ちなみに随念寺のすぐ下の町名は「花崗(みかげ)」町。

 

 

次いで、曹洞宗白雲山宝福寺へ。

参道の石段を上がると正面に本堂、本堂左に丘陵墓地という配置パターンは変わらない。

曹洞宗という宗派に関係があるのだろうか。

ここも無縁仏のボリュームが凄い。

墓を廃棄物にはしない決意の結果だろう。

真新しい如意輪観音の下に「骨塔」の二文字。

今回、あちこちで「骨塔」を見かけた。

中に遺骨を納めるのだろうが、墓の下に埋めるのと何が違うのか。

石材店で訊いてみた。

「共同埋葬墓」で大勢の遺骨が骨壺なしで、混じっているのだそうだ。

「所変われば、品変わる」。

旅することは、だから楽しい。

 

宝福寺を出る。

道路の向こうの辻角に常夜燈が2基ある。

1基はかなり大きくて古い。

その傍らには「石屋町通り」の標識。

石屋の看板やそれらしき店も見える。

多分この巨大常夜燈もこの石屋町の石工が造ったものと思われる。

誰がいつ造ったもので、寸法はどれほどなのか、『岡崎の石仏』を探すが載っていない。

これほど大きな灯篭なら、どんな市町村の「石造物のまとめ」でも記載されているのが普通なのに、載っていないのは何故か。

 推測するに、掲載の価値なしと判断したからだろう。

つまり、それほど岡崎の石仏のレベルは高いということになる。

これは私の推測だが、この常夜灯は秋葉信仰の遺物ではないか。

常夜燈は、東海道や脇街道の角・辻に建てられ、往還を行き来する人たちの目印であり、同時に町内安全祈願の火防神の祠でもあった。

岡崎では寛政期(1789-1801)に秋葉信仰ブームがあった。

当時建立された常夜燈は、今でも50基は下らないと云われている。

秋葉信仰のシンボル常夜燈を中心に秋葉講が組まれ、代表者が遠州秋葉山に代参して札を貰い請けた。

残念ながら、そうした人々の熱気を、常夜燈から偲ぶことはできないが・・・

岡崎の石工とその石造物の歴史について、以下は、市のHPからの転載。

岡崎石工品の始まりは室町時代後期に遡り、その後、安土桃山時代には、当時の岡崎城主が、城下町の整備のため河内、和泉の石工を招き、石垣や堀を造らせた際、この優れた技術を持った石工たちがそのまま住み移り、その技術技法に磨きをかけ春日型灯籠、六角雪見型等岡崎石工品の原型を作ったとされています。石材加工に適する優れた花崗石が近くで採取できたこともあり、19世紀の初めに29軒だった石屋は、市の中心部にあたる位置に「石屋町」を形成するなどして、19世紀の終わりには約50軒に増え、戦前、最盛期には350軒を数える程の隆盛をきわめました。」

 

誓願寺の参道入口で足が止まった。

土壁がむき出しで、その異様さに息を飲む。

随念寺の美しい白壁を見てきたばかりなので、その廃れようが、ひとしお強く感じられる。

この壁も白壁だったに違いない。

美しかったものがそうでなくなった時、無残さが倍増する。

土壁を復元したい気持ちは、寺の関係者が一番強いはずだ。

思いが達成されないのには、経済的事情があるからだろう。

これだけ寺が立て込んでいては、檀家の数も限定的で、寺の経営は苦しいに違いない。

そんな益体もないことを思いながら、境内へ。

市の観光協会のHPで誓願寺は「永禄9年(1566)、家康が自らの官位勅許のなかだちをした泰翁のために建立した寺です」と紹介されている。

NETで検索しても、大半はこの文章を引用していて、ほとんど同じ。

官位がほしい家康が願いがかなって喜んだ、のは分かる。

仲介者の泰翁にその労をねぎらいたい、というのも分かる。

だけど、その贈り物が寺だというのは、分かりにくい。

泰翁なる人物を調べたら、ちょっとばかり分かったような気になった。

泰翁は、岡崎城下大林寺の僧侶で、この時、京都の誓願寺の住職だった。

泰翁の、そして家康の故郷、岡崎に京都・誓願寺の末寺を建てる、これは立派なプレゼントではないか。

 

これまでもそうだったように本堂左の丘陵墓地を上る。

中腹に達者な彫りの石仏が数体。

もしかしたら同一石工か。

 

千手観音(寺伝では十一面観音とあるという)

如意輪観音

刻銘の国分八郎右衛門は岡崎傳馬の塩商人。

降三世明王?

(この像ほど儀軌にない像容も珍しい。火焔の光背や三面で足下に自在天と烏摩を踏む形態は降三世明王であるが、大憤怒相や躍動姿や羯摩印を取らない姿態は降三世明王とはきめがたい。後考を待ち残しておきたい貴重な像である)。『岡崎の石仏』より

施主の要望通りに仕上げたら、こんな地蔵になった。

仏というよりも人間そのもの。

施主の顔だろうか。

ここにも「骨塔」があるが、私の焦点は徳利に合っている。

誓願寺の境内は諏訪神社と地続きになっている。

廃仏毀釈が徹底して実行されなかったようだ。

大泉寺でも極楽寺でも同じだが、右に神社、左に別当寺というスタイルは江戸時代のまま。

諏訪神社の燈籠は、天正16年(1588)造立のもの。

市内最古の燈籠として市の指定文化財に登録されている。

石造物の指定文化財は、ゼロでないことは分かったが、少なすぎることに変わりはない。

時計を見たら、3時。

4時にはレンタサイクルを返却しなければならないので、今日はこれで終わり。

 

翌日は、レンタカーにする。

8時半、源空寺着。

 浄土宗吉水山法然院源空寺(岡崎市碑歌詞能見町)

山門右手に6体の石仏あり。

六観音かと思ったが、如意輪観音や馬頭観音、千手観音が見当たらない。

どうやら六体みな聖観音で、合掌するもの、蓮華を持つもの、宝珠をもつものと6種類の像容があるようだ。

  

『岡崎の石仏』では、「六体念仏塔」としている。

傍らの寺の由緒書きには「当山は専修念仏三河念仏根元の道場霊地」とある。

 

松應寺の所在を探し回った。

あった。

寂れた店と店の間のアーケードの上に「松應寺」の文字。

寿司屋の幟の文字の方がでかいので、「松應寺」がめだたない。

アーケードはどうやら参道のようだが、朝の9時だというのに、人っ気がなく、真っ暗。

なにやら不気味なのです。

暗い参道を抜けるとそこがもう寺域。

境内がガランとしているのは、空襲で全焼し、再建が進まないから。

浄土宗能見山瑞雲院松應寺(岡崎市松本町)

松應寺は、永禄3年(1560)、家康によって建てられた。

その11年前、今川方の人質として熱田から駿府に赴く途中、家康はこの地に立ち寄り、非業の死を遂げてここに埋葬されている父広忠の墓を参り、記念に小松一本を植えた。

永禄3年、岡崎城主として故郷に戻って来た家康は、この地に寺を建立する。

小松が大樹になり、自らも城主となったことを喜念して寺名を「松應寺」と号したと云われている。

本堂の後ろに広忠の廟は寂然とあるが、肝心の松は、平成3年、枯れてしまった。

廟を囲む白壁の漆喰は剥げ落ちて、むき出しの土壁が寂然たる空気を弥増しにしている。

廟の左に大量の無縁石仏が群立している。

六地蔵もあれば、六観音もおわす。

余りシャープではない彫りの西国三十三所観音も列をなしている。

その中に牛に乗る馬頭観音がある。

西国三十三札所の十七番に相当する石仏だが、十七番六波羅密寺の本尊は十一面観音で馬頭観音ではない。

牛に乗る仏としては、虚空蔵菩薩が牛を神使とすることはあるが、虚空蔵菩薩は三十三所観音の主尊にはない。

『岡崎の石仏』の著者都築氏は、移動の際置き間違えたのではないかと推測するが、では牛に乗る馬頭観音の正式な座所はどこなのか、難しい問題でこれまた答えに窮してしまうのです。

帰路、寺を出て、アーケードをまっすぐ帰らず、横の小路に入り込んでみる。

朝の光の中、白けた感じの雰囲気だが、どこかなまめかしく妖しい。

跡で調べたら花街の跡らしい。

元々は、松應寺の境内だったが、明治維新後、徳川家の庇護を失った寺は境内地を売却して台所を維持してきた。

寺社の前の色町は全国どこにでもある。

ここもその一つだが、すっかり寂れて、空き家率45%。

ゴーストタウンと化したバラック門前街の活性化運動に市が乗り出したという記事があった。

成田山別院、永泉寺、観音寺、弘正寺、蓮馨寺、伊賀八幡宮、万松寺、恵日堂、大樹次、真福寺は次回紹介予定。

 

≪参考≫

◆都築照元『岡崎の石仏』昭和56年

◆岡崎市史(近世)1985

◆松村雄介「岡崎の石仏」(『日本の石仏48号』1988年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


96 写真フアイルから(東京都23区内の石造物)

2015-02-01 06:43:52 | 石仏

『日本の石仏』のバックナンバーをめくっていたら、「大強精進勇猛佛」なる文字が目に入って来た。

どこかで見たことのあるような気がするが、思い出せない。

『日本の石仏NO114』を開いて、西岡宣夫氏の「大強精進勇猛佛碑」を読んでみる。

碑は静岡県伊豆の国市の真珠院という寺にある、と書いてある。

伊豆の国市へは、3年前、家族旅行で行った。

観光を兼ねて2,3の寺にも寄ったので、その時、真珠院も訪れたかもしれない。

写真フアイルを検索してみる。

真珠院のフアイルがあり、「大強精進勇猛佛」なる碑の写真もちゃんと保存されていた。 

ところで、「大強精進勇猛佛」とは何か。

西岡氏の記事を参考に、私なりの理解では、この言葉は、江戸時代初期の宗教実践家鈴木正三(しょうさん)の思想のエッセンス。

「プロの宗教家だけが修行して仏道に到るのではない」。

続けて、彼はこう云う。

「いかなる職業でも精進してその道を究めれば、それが仏道。勇猛果敢、強直に信じる道を行け」。

鈴木正三が偉いのは、この信条を自ら実践してきたことにあります。

彼は、徳川家康の家来として、関ヶ原の戦い、2度にわたる大坂の陣で武功をあげ、旗本に引き立てられた。

戦国の世の習いとして、人の死に数多く接し、身近に感じてきた正三は、若いころから仏典に親しみ、諸寺に参詣しながら、仏教に傾倒してゆきます。

そして、42歳、出家を決意する。

武家の出家などとんでもない時代、それは切腹覚悟の「お伺い」でした。

しかし、大方の予想に反して、主君秀忠は彼の願いを聞き入れて、出家を許可します。

生来の、鈴木正三の剛直な性格を、秀忠が理解していたからでしょうか。

古希を迎えて、彼は「大強精進勇猛佛」なる仏名があることを初めて知ります。

これこそ自分の思想と信条を体現するものだと感得し、以後、この仏名の普及に努めます。

真珠院の「大強精進勇猛佛」碑は、彼の普及努力の名残の一碑、そして恐らく日本でここにしかない貴重な一碑なのでした。

 

前置きが長くなった。

何をいいたいかというと、撮ってきては放り込みぱなしの写真フアイルのチェックの重要性。

歳のせいか、忘れっぽくなった。

面白いものを撮った筈なのに、それを忘れてしまっては意味がない。

ということで、早速、チェックしてみました。

対象フアイルは2010年の石仏巡り都内23区分。

石仏巡りを初めて2年目、目標は23区の寺全部を回ることだった。

石像仏にばかり目が行き、文字碑は素通りしている、初心者ならではのフアイルです。

 

 

まずは、単純に珍しい石仏から。

◆二十五菩薩来迎石仏群 真珠院(文京区小石川3-7-4)

偶然だが、またも真珠院。

緑豊かな境内の崖地に二十五菩薩来迎石仏群があります。

阿弥陀如来が二十五菩薩を従え、音楽を奏でながら来迎し、念仏者を極楽浄土へ導くという浄土思想を形にしたもの。

      阿弥陀如来

菩薩は、鼓、琵琶、笛、笙などの楽器と花を持って音楽を奏しています。

二十五菩薩といえば、琵琶湖西岸坂本の西教寺の群像が有名ですが、今、境内にあるのはレプリカ。

ならば大津まで足を延ばさず、都心の真珠院で十分でしょう。

◆迦楼羅(かるら)立像 本誓寺(江東区清澄3-2)

「かるら」と云われてピンと来なくても「ガルーダ航空」と聞けば分かるでしょうか。

「かるら」はGARUDAの音訳で、インド神話の霊鳥。

龍を餌とし、両翼を広げると336里というインド人好みの巨大鳥です。

石仏からは、巨大な鳥だとは分かりませんが、横笛を吹くのは唇ではなく、嘴であるようにも見えます。

光背は火焔でしょうか。

朝鮮の高麗時代の石仏ということですが、いつ、どうして渡来してきたのか、来歴は不明とのこと。

いずれにせよ、都内に限れば、類品もなく、これだけという珍品です。

◆象供養塔 護国寺(文京区大塚5-40)

動物ばかりではなく、鳥、魚、虫、植物まで様々な生物の供養塔があるので、象の供養塔があっても驚きはしませんが、都内でたまたま見かけたので、報告しておきます。

場所は護国寺。

大ぶりの石に2頭の象が浮彫りされ、その上に「象供養」の文字。

卒塔婆には「施主 東京象牙美術工芸協同組合」と書いてあります。

もう、文句なく納得。

そのすぐ傍に、須弥壇形式の台座を三猿が支える庚申塔があるのですが、あまりにも有名で、改めて触れる必要はないでしょう。

 ◆元和の石仏

奈良、京都、近江、鎌倉の石仏に比べて東京の石仏が異なるのは、制作年代。

かたや中世の石仏だらけなのに対して、東京は近世ものばかり。

ほぼ100%江戸時代の制作石仏といって間違いありません。

江戸時代と云っても寛文以前は極端に少ない。

元和に至っては、私のフアイルには2基しかありません。

 

 光取寺(品川区上大崎1-5-10)元和7年   性翁寺(足立区扇2-19-3)元和2年(1616)

都内の中世石仏は皆無かというとそんなことはない。

あるにはあるが、私のフアイルには1か所だけ。

増上寺の4菩薩だけです。

  普賢菩薩    地蔵菩薩    虚空蔵菩薩   文殊菩薩 いずれも正嘉2年(1258)作

だから新宿の誓閑寺墓地で建保2年(1214)の墓を見つけて、私が興奮したとしても、無理からぬことでした。

墓面は中央に「水鏡景清大居士」の戒名。

右に「日向勾當」、左に「建保二甲戌年八月十五日」と刻されています。

寛永7年(1630)開基の寺に、なぜ、400年も前の墓があるのか。

寺に問い合わせても「そんな墓があるのですか」と心もとない。

真相解明は諦めていたが、今回、改めてネットで検索したら、明治に刊行された『東京名所図会』に以下のような記述があることが分かった。

 「墓碑にておかしきは、悪七兵衛景清の墓といふもの是なり。墓面に日向勾當と肩書し。水鑑景清居士。建保二甲戌年八月十五日九十八卒とありて。側邊に享和二癸亥年七月吉辰。右紀成功修補と刻したる。日向勾當などとは全く謡曲より出でしものなり」。(『東京図会』より)

謡曲や能について全くの無知なので、憶測するのもおこがましいが、謡曲「景清」からみで享和2年に造られたいたずら墓標で、実際の墓ではどうやらなさそう、ということで、がっかり一段落です。

◆中世の宝篋印塔 普賢寺(葛飾区東堀切3-9-3)

こうしたあやふやな代物ではなく、ちゃんとした中世の墓が、都内にもあります。

葛飾区東堀切の普賢寺墓地にある3基の宝篋印塔は、豪族葛西氏の墓。

鎌倉時代後期の様式で、都内最古。

東京都有形文化財に指定されています。

普賢寺には、葛飾区指定の文化財もあって、それは燈籠庚申塔。

刻文は薄れて判読できないが、資料によれば「寛文6丙午年 石燈篭庚申成就二世楽処 十二月今日」と刻されています。

次の庚申年まで14年もある寛文6年に、燈籠を主尊とする庚申塔を造立する、一体いかなる事情があったのか、知りたいものです。

都内23区にある変わり種庚申塔と云えば、この他に狛犬庚申塔とか閻魔庚申塔があります。

 

 

     狛犬庚申塔 鎧神社(新宿区北新宿3-16-18

  閻魔庚申塔 地福寺(北区中十条2-1-20)

狛犬も閻魔も三猿はなく、「庚申」の文字がなければ庚申塔とはわかりません。

閻魔と云えば、青松寺(港区)墓地前の一画に、所在無げに坐している閻魔が私は好きです。

 閻魔 青松寺(港区愛宕2-4-7)

相棒の奪衣婆の姿は見えません。

お役御免となって誰からも注視されることなく、そのお姿は徘徊し続ける独り暮らしの介護老人のようです。

閻魔は都内にも20-30体かおわしますが、亡者の裁きに使う人頭杖、別名檀拏幢(だんだどう)は練馬の教学院にしかありません。

◆人頭杖 教学院(練馬区大泉町6-24-25)

浄玻瑠鏡、それに業(ごう)の秤と相まっての三点セットで、罪業測定器となるのですが、残念ながら人頭杖のみ。

 人頭杖 経学院(練馬区大泉町6-24)

二つの頭は男と女、閻魔が亡者を審判するとき、重罪であれば憤怒の男相(だんそう)の口が火を噴き、善行が勝れば柔和な女相(にょそう)から芳香が漂うとされています。

 ◆地蔵百度石 霊雲寺(文京区湯島2-21-6)

百度石はだいたい素っ気ない石造物と相場は決まっていますが、霊雲寺(文京区)には地蔵が上に坐す百度石があります。

百度石といえば、その数の多さでは西浅草の本覚寺が屈指でしょう。

祖師堂の前に5,6基もの百度石が立っています。

偶然にもお百度参りをしている人に出会いました。

祖師堂で合掌して願いを唱える。

百度石まで戻って、石に触れ、また祖師堂に向かう。

話を聞きたかったが、ひたすらな、その姿に躊躇。

現代にもお百度参りは生きている!と感激のひと時でした。

 ◆異形の青面金剛

庚申塔の変わり種については、主尊が燈籠、狛犬、閻魔などの庚申塔を先に紹介した。

異形の庚申塔も付け加えておく。

江東区の常光寺の青面金剛には驚いた。

  常光寺(江東区亀戸4-48-3)の青面金剛

南太平洋のポリネシアにこんな感じの人がいるようだが、江戸の石工がポリネシア人を知っているはずはないから、想像の産物だろう。

儀軌の青面金剛を承知の上の造作だとしたら面白い。

庚申塔ではないが、経学院(練馬)にもよく似た石仏がある。

まさか同一石工ではないだろう。

世の中は、広いようで狭いなあ。

 ◆無縁塔に並ぶ兄妹の石仏 如来寺(品川区西大井5-22-25)

2010年の頃は、寺へ行けば、墓地へも寄った。

無縁塔の石仏撮影が目的だった。

下の写真は、如来寺(品川区)の無縁仏コーナーで撮影したもの。

正面に石仏が4基。

左の2基はすこし小さい。

右には「幻夢童子」、左の石仏には「幻誘童女」とある。

没年は「幻夢童子」が享保8年(1723)、「幻誘童女」は享保14年。

兄と妹に何があったのだろうか。

同じ墓域にあったが縁者がいなくなって、この無縁墓地に移されてきた。

無縁墓地でも寄り添って立つ二つの石仏墓標に、作業をした寺の関係者の「優しさ」が読み取れる。

それにしても、「幻」という言葉の意味は、当時も今と同じだったのだろうか。

子供の戒名に「夢まぼろし」と付けた親の心情を思うと、切ない。

 

生前の故人を髣髴とさせる墓がある。

 

         荒川区K寺

碁盤の上に酒樽。

酒を飲みながら毎日、碁を打っていたんだ。

墓の形は、本人の遺言か、女房の亭主愛か、後者だと私は思いたい。

     品川区K寺

サイコロと壺。

まさか女房の差し金ではあるまい。

サイコロが崩れかけているのは、ギャンブラーが削ったから。

まだ見たことはないが、競馬競輪、パチンコ狂いの墓もあるに違いない。

御存じだったら教えてください。

 

下の写真、酒樽に大盃がのっている。

大盃に刻された戒名は「好酒院杓盃猩々居士」。

向島の長命寺にあるので墓に見えるが、実は、江戸の風流人の遊び心の産物。

戒名を付けたのは、大田蜀山人。

隣に「好色院道楽寶梅居士」もある。

形は言わずもがな。

「寺の境内に何たる不謹慎。子供の教育に良くない」などと喚くヒステリー女がいなくて、江戸時代はいい時代だったなあ。

 

ちょっと横道にそれた。

それたまま、今回は終わりとなる。

やや真面目さを欠く流れとなった。

その流れに乗って、最後の一枚。

          江戸川区T寺前の民家

「葷酒山門を入るを許す」。

寺の前だから、ジョークが辛辣だ。

「不許葷酒入山門」の石碑を門前に立てて、内で般若湯を呑んでいる坊主の姿が浮かんでくる。

十辺舎一九も太田魯山人も、称賛を惜しまないだろう。。

 

フアイルにはまたまだ無数の写真がある。

その中から一枚。

    赤坂S院の墓地から

明と暗、過去と現在。

何か意味ありげで、悪くない。

 

今回のブログが有意義だったとすれば、それは2010年の写真フアイルに一応目を通したこと。

東京都23区に限定したものだったが、すっかり忘れていた大事な写真が何枚もあった。

年度と地域を変えて、又いずれフアイルチェックをしようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


78 東武東上線沿線の倶利伽羅l龍王

2014-05-01 05:34:18 | 石仏

カ行とラ行を組み合わせたオノマトペは、軽快感がある。

カラコロ、キラキラ、コロコロ・・・

クリカラも耳で聞く分には軽いが、文字を見ると中々の重量感だ。

「倶利伽羅」。

それに、龍王がついて、「倶利伽羅龍王」。

その威圧感は並大抵ではない。

倶利伽羅龍王というと、私は、目白不動の金乗院(豊島区高田)境内にある倶利伽羅龍王を、思い浮かべます。

人の肩くらいの高さか、剣に巻き付いた龍の姿が、実に堂々としている。

龍の顔が人間くさい。

足元の三猿の表情が、いたずらっぽいのもいい。

三猿ということは、この倶利伽羅龍王は、庚申塔の主尊だということになります。

それもまた極めて珍しいことで、石仏愛好家が撮影に夢中になるのも無理からぬことです。

野仏ブームの火付け役、若杉慧氏の『石仏のこころ』に、この倶利伽羅庚申塔のページがあります。

すこし長くなりますが、引用しておきます。

如来が本来のすかだで現れ給うを自性輪身(じしょうりんしん)、菩薩のすがたをとって救いくださるを正法輪身(しょうぼうりんしん)、またどうしても仏法に従わないのみか反抗したり悪口をいったりする極悪の輩を教化するため憤怒の相をとって臨まれるのを教令輪身(きょうりょうりんしん)と呼ばれている。輪には高大なる容貌という意味がある。
何々明王と名のつくものはすべてどの如来かの教令輪身なのであるが、その中でも不動明王は大日如来の教令輪身として、密教ではこれを本尊としているお寺も少なくない。民間においてもひろく尊信され、お不動さんの名で呼ばれ、そのお堂もあちこちに建てられている。
不動明王の持つ利剣だけを独立した尊体とし、これに黒龍が絡まってまさに剣を呑まんとする状(ありさま)を示したものを倶利伽羅不動または倶利伽羅龍王と呼ぶ。クリカラは梵語で黒龍の意味だそうだ」。

「極悪の輩に憤怒相」は「北風と太陽」の北風に相当する。

仏教本来の教義か、インド民俗信仰からのものか、いずれにせよ、分かりいいが、効果のほどは疑問符がつく。

 

話し変わって、私の住まいは、東京・板橋。

20代の通学、通勤の足は、東武東上線でした。

都営地下鉄三田線の開通で、東上線を利用する回数は減ったものの、地元の電車のイメージは強い。

だから「東上線」の文字を見ると、つい目が留まってしまう。

先日、目にしたのが「埼玉県を走る東武東上線に沿って倶利伽羅龍王を訪ねる」。

『日本の石仏』という季刊誌の目次を目で追っている時のことです。

著者は、さいたま市の長島誠さん。

富士見市から東松山市まで、東上線沿いに8基の倶利伽羅龍王の紹介記事。

記事を片手に、早速、行って来ました。

以下は、その探訪記。

参考記事があるのに「探訪」とは大げさだが、長島氏の紹介記事は、住所がなくて、町名どまり。

行き着くのに何度も人に訊いて一苦労したので、これは「探訪」記なのです。

①栗谷津公園(富士見市針ヶ谷1-4)

結構な広さの公園なのに、地図には記載されていない。

農地が残っている住宅地の中に、公園はある。

谷津とは、アイヌ語で低湿地帯のこと。

公園はすり鉢状の窪地で中央に池。

池の水は、西側の崖下から湧き出ています。

湧き出る水は、水底がくっきりと見えるほど透明ですがすがしい。

湧出源の脇に覆い屋があり、中に倶利伽羅龍王がおわします。

飛び石伝いに覆い屋へ。

注連縄がはられ、倶利伽羅龍王の足元には供花が見えます。

今でも信仰が続いている証でしょう。

石柱の上半分に剣を呑みこむ龍王、下に「倶利伽羅不動明王」の文字。

地域の世話人6人によって、嘉永元年(1848)、造立されました。

倶利伽羅龍王の横に、由来を記す石碑が立っている。

この泉は、近隣農家の飲み水として欠かすことのできない水源であり、また、下流の水田数町歩にわたる田作り用水として利用されておりました。
不動明王の石塔は、利剣に龍が四つの掌を絡ませて巻き付き、剣先を呑まんとするその背後には火焔が燃え上がった状態が倶利伽羅不動明王の象徴である。
これは昔、不動明王が外道と論争した時、智火剣に変身し、あるいは更に倶利伽羅大龍に変身し、敵を威圧して屈服せしめた。また、竜王に祈れば、雨を降らせ病気を治す、このような教理を祈願し、日願主、各組世話人の六人により嘉永元戌申六月、この石塔が建立された。(以下略)」

 

 ②跡見女子大下の中野バス停脇(新座市中野1-5-8)

東上線朝霞台駅でJR武蔵野線に乗り換える。

午前9時過ぎ。

車内は若い女性でいっぱい。

隣の新座駅で降りたら、彼女たちもぞろぞろ降りる。

跡見女子大の学生たちで、ここ新座駅前から出ている大学バスに乗るためです。。

私の目的地は、跡見女子大のすぐ下。

バスに乗れれば便利なのだが、そうはいかない。

と、書くとバスに乗りたいみたいだが、こんな女くさいバスは、こっちが願い下げにしたい。

川越街道を、川越方向に歩き出す。

丁度、2時限の始まる前あたりで、満員の大学バスが次々と追い抜いてゆく。

20分ほど歩いただろうか、中野バス停が見えてきた。

バス停の左脇の狭い道を下りると川にぶつかる。

橋を渡って左へ50mほど。

湧水が出ているが、地面から突き出たパイプから水が出るばかりで、情緒に欠けること夥しい。

パイプの上に目を転じると、去年の秋の落ち葉の茶色の中に石仏が数体見える。

左から、不動明王、衿羯羅童子、倶利伽羅龍王。

衿羯羅童子の相棒、制叱迦童子は不動明王の左、離れた場所にあり、フレームに入っていない。

龍王は小ぶりながら味がある。

顔全面が髭に覆われている。

バックの木の葉模様は、火焔だろうか。

宝暦10年(1760)造立と刻されています。

 

③仙波河岸史跡公園(川越市仙波町4-21-2)

写真は、新河岸川。

この川の左に仙波河岸史跡公園がある。

新河岸川から荒川経由江戸への舟運は、川越地方からのメインの物流手段でした。

        地図は、「川越の観光と地域情報WEBカワゴエール」より借用                

川越がある武蔵野台地は、坂道が多く、荷馬車による運搬には難儀が伴ったといわれています。

その解決のためには、新河岸川のできるだけ上流に物流拠点としての河岸が必要でした。

同時に船が通行できる運河の開削も不可欠でした。

運河と河岸の両方が完成したのが、明治10年(1880)、それからほぼ半世紀、昭和2年(1927)まで流通の集積地として、仙波河岸は機能してきました。

        写真は、「カワゴエール」より借用

仙波河岸は、川越の町からもっとも近い河岸でした。

その仙波河岸史跡公園へ。

どうやら道を間違ったようで、行き止まりに。

右手にウッドデッキの通路があるので、進んでゆく。

左手に池のように湿地帯が広がっていて、どうやらこのウッドデッキは自然観察のための通路らしい。

通路が終わるとそこが、仙波の滝。

現状からは想像できませんが、水量豊かな滝が流れ落ち、その滝口に仙波河岸がありました。

倶利伽羅龍王は、河岸の最奥の崖下におわします。(白い立て看板の横奥)

火焔の形に切り込まれた石塔に、やや細見の龍が剣に巻きついています。

剣の下に「志多町鈴木権左◇◇」、左下に「六軒町 志き町◇中、十二人」と彫られている。

近寄って見る龍の顔には、疲れがにじんでいるように私には見える。

龍にもストレスがあるようだ。

 

④薬師堂(川越市豊田本570)

「車で行かれる方は、川越水上公園を目指して行かれると良い」とガイドにはある。

問題は、水上公園から薬師堂への道順なのだが、それは書いてない。

ものすごく不親切なのだ。

お寺の人ならご存知かもしれないと淡い期待を抱いて、通りがかりの善長寺を訪ねる。

これが正解だった。

 住職夫人の書いてくれた地図通りに行くと薬師堂にぶつかった。

お堂以外の建物はなく、ポツンとわびしげな佇まい。

肝心の倶利伽羅龍王は、石灯籠の傍におわす。

これまでの3か所全てが水辺だったが、ここには水気はない。

倶利伽羅龍王は「水神」だから、水気のない場所での造立は考えにくい。

昔は、川か池が、近くにあったのだろう。

アップにしてみると龍の耳や指は、極めて人間くさい。

顔も、どこかで見た、誰かの顔のようでもある。

倶利伽羅龍王の背後から見た景色。

建立された宝永年間、見渡す限りの水田だったはずの景色には、ビルが建って、視界が遮られている。

 

⑤白髭神社(川越市吉田96-7)

道路から白髭神社を拝む。

反対を向くと「吉田白髭緑地」と書いた標識がある。

その傍らの階段を降りると湧水が出ていて、その湧水の守護神のように倶利伽羅龍王がおわす。

太くどっしりとした胴体が像に安定感を与えている。

造立は宝暦9年(1759)、一つ前の薬師堂の石像より1年前に造られたことになります。

龍が見る風景は、すばらしい。

湧水が流れ下る水路はきちんと整備され、春の草花が色鮮やかに咲き乱れている。

その先には肥沃な水田が広がって、まるで平和で豊かな春を絵に描いたような風景なのだ。

 

⑥青蓮寺(東松山市正代852)

 寺の駐車場に車を止めながら、既視感をぬぐいきれない。

参道を歩いてても、一度来たことがあるような気がしてしようがない。

青蓮寺の墓地は、山門前にある。

倶利伽羅龍王は、墓地の南はずれ、石段を下りたところに祠があり、その中に佇んでいる。

横には、湧水が出ていて、それを貯める小さなため池がある。

シチュエーションは、白髭神社に似ているが、景色はこっちの方が一段落ちるようだ。

龍王の像容は、どれも似通っているように思える。

石塔を切り込んで火焔を表現するのは、仙波河岸史跡公園のものと同じ。

狭い地域だから、石工と時代が違っても、ついつい真似てしまうのかもしれない。

撮影を終えて、寺を離れたらうどん屋の看板が目に入った。

そういえば、この店でうどんを食べた。

客がいなくてガランとしていたな、と思い出した。

やはり青蓮寺には来たことがあったのです。

帰宅してフアイルをチェックしたら、倶利伽羅龍王もちゃんと撮ってあった。

その倶利伽羅龍王を見ても記憶が甦らないというのは、最悪ではないか。

個人的資質なのか老化なのか、いずれにせよ、なさけなくって涙がでる。

 

⑦東松山スイミングスクール(東松山市上野本1955-1)隣の不動沼

 ここの倶利伽羅龍王の撮影には行かなかった。

長島氏の記事の写真を見て、一度、訪れたことがあると思い出したからです。

同じ東松山市でも青蓮寺のは忘れて、不動沼のは記憶している。

不思議なことだが、思い当たる原因は一つ。

不動沼の倶利伽羅龍王は、迫力ある造形で脳裏に焼き付いていたからです。

道路に面してスイミングスクールがある。

スイミングスクールの左は不動沼。

スクールと沼の間を進んでゆくと右手に祠がある。

祠の中に丸彫りの倶利伽羅龍王。

丸彫り龍王は珍しい。

私は初めて見た。

これまでの6体の龍王とは、顔容が異なるのが最大特徴か。

所々に色が残っていて、元は全身が彩色されていたことが判る。

身体に張り付く朱色は火焔だろう。

右肩に押さえつけているのは、宝珠か。

おどろおどろしい像容は一度見たら忘れられない。

不動沼は、水田灌漑のためのため池。

旱魃を恐れる農民たちによって水神として、倶利伽羅龍王が祀られたようだ。

東松山市教育委員会の解説版があるので、転載しておく。

倶利伽羅不動尊
 躍動する胴体をもつ黒龍が利剣にからみ、剣先から飲み込もうとしています。その左かたには鋭い爪を持った龍の手が、宝珠をわしづかみにしています。これが倶利伽羅不動尊であります。
倶利伽羅とは、インドの伝承で頭に半月を戴く、黒褐色の龍王であるといわれます。
倶利伽羅不動尊は、滝口や清水の湧出する水辺などに祀られることから、水神として造像されるものが多く、他に不動信仰に基づいたものがある。」

この解説版は「倶利伽羅不動尊」。

「倶利伽羅龍王」と「倶利伽羅不動尊」は異なるものと思われるが、その差異をよく理解できる説明が見つけられなかった。

だから、同じものとして、扱うことにします。

 

⑧蟹山不動尊集会所(滑川町羽尾191)

 羽尾を流れる市野川には、橋が6つもある。

ガイドには、羽下橋袂とあるが、持参の地図に橋の名前は載っていない。

地元の人でも、普段、渡る橋の名前は知らない人が多い。

何人かに訊いてやっとたどり着く。

蟹山不動尊集会所の場所は、市野川に面したお寺か、お堂の跡地のようだった。

集会所の横と背後には、多数の石造物が立っている。

倶利伽羅龍王はその中の一つで、目立つ存在ではない。

長い髭は、今回回った8体で初めての像容。

品のあるイケ面で、指はスパナ状であることが特徴か。

「明治九丙子八月吉日」と刻されている。

集会所裏の小高い盛土の上に「御嶽蔵王大権現」の石碑。

スロープには、御嶽蔵王大権現の脇神である三笠山刀利天宮やその創始者普寛行者や覚明行者の文字塔が乱雑に立っている。

 

     三笠山刀利天宮         普覚大行者

かつてこの地域には、熱心な御嶽講があったことを偲ばせるのだが、表通りからはそうした石造物があることは一切分からない。

まるで恥ずかしいものを隠すかのような感じがそこにはある。

 

倶利伽羅龍王は、水神だから川や池、沼、湧水、滝などの傍に祀られる。

今回回った東上線沿線は、特にそうした水のある風景が多い地域ではないが、倶利伽羅龍王だけでなく、弁財天、宇賀神、水天宮など水に関係が深い神仏が数多く祀られています。

私の写真フアイルには、「富士見市の弁財天」として10基の弁財天があります。

いずれも水に面していて、今回も付録として載せるつもりでしたが、記事の容量を超えるため止めました。

 

≪参考図書≫

○長島誠「埼玉県を走る東武東上線に沿って倶利伽羅龍王を訪ねる」『日本の石仏』NO1422012年夏号

 

 

 

 

 

 

 

 


77 4月8日は花まつり!石仏で知る釈迦の生涯

2014-04-16 05:48:28 | 石仏

まず、クイズを2題。

基本的な問題で、易しいはずです。

①お釈迦さまが最も好んで唱えたお経は、何か。

②お釈迦さまが最も拝んだ仏像は、何か。

     釈迦如来坐像(「聖衆来迎寺」大津市

同年輩の友人何人かに同じ質問をしてみた。

答えは、そろって、「分からない」。

改めて云うまでもなく、①お釈迦さまが唱えたお経はなく、②拝んだ仏像はない、が正解です。

お経は、お釈迦さまが説いた言葉を弟子たちが書いたものであり、初期仏像はお釈迦さまのお姿でした。

いずれもお釈迦さまが入滅後のことです。

存命中のお釈迦さまが、存在しないお経を唱え、存在しない仏像に手を合わせることはありうるはずがありません。

云われてみれば、至極当たり前のことなのに、友人たちは、なぜ、答えられなかったのか。

大乗仏教の日本では、あまりにも多くの仏像が存在していて、しかもお釈迦さまは必ずしも最上位にランクされていません。

その他大勢の one of themであることも珍しくないのです。

仏像といえば、お釈迦さましかない、小乗仏教の国とは大変な違いです。

友人たちが答えに迷うのも無理からぬことでした。

そうした日本の仏教界にあっても、お釈迦さまが主役のお祭りが宗派を問わず行われる日かあります。

4月8日の花祭り、お釈迦さまの誕生を祝う誕生会です。

天下天上を指す釈迦像を花で飾った花御堂におさめて、甘茶をかける風習が昔から行われてきました。

 

4月8日(火)、家の近くのお寺へ行ってみました。

毎朝、ラジオ体操に行く途中の「文殊院」(板橋区仲宿)は、山門に「花まつり」の朱文字。

本堂前の花御堂には、甘茶の中に誕生釈迦仏がお立ちになっています。

特筆すべきは、寺のおもてなし。

「ご自由にお持ちください」と花苗が置いてある。

ありがたく、1鉢、頂いて帰りました。

 

つづいて、「南蔵院」(板橋区蓮沼町)へ。

満開のしだれ桜に紅白幕。

花祭りのムード横溢の境内です。

花御堂の脇に立て看板。

ネエネエ、なんで甘茶をお釈迦さまにそそぐの?
 お釈迦さまのお誕生をお祝いして、天の龍王神が甘い雨を降らせたからよ。
 過去、現在、未来のいのちのために、3度、お釈迦さまの頭から甘茶をそそいでお  祝いください」。

今から約2500年前、北インドのカビラ城主の妃麻耶夫人は、白象がお腹に入る夢を見て、懐妊します。

しばらく後、ルンビニー園で無憂樹の枝に彼女が手を伸ばしたとき、右手の脇からお釈迦さまが生まれました。

お釈迦さまは、生まれるとすぐ、7歩あゆみ、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と云いました。

天地が感動し、甘露が降り、蓮弁が舞い、音楽が響いたと伝えられています。

お釈迦様の誕生の7日後、母の麻耶夫人は亡くなります。

花御堂はルンビニー園を、右手をあげたお姿は「天上天下唯我独尊」と云いながら歩く誕生したばかりのお釈迦さまを表しています。

 

「長徳寺」(板橋区中原町)は、森閑として人気(ひとけ)がない。

満開の桜の濃いピンクが、花御堂の甘茶に映っている。

「甘茶ご希望の方は受付まで」とあるので、インタホーンを押す。

甘茶のティーバッグがこの寺のもてなしでした。

 

花祭りでの釈迦仏は、いつもは保管されて人目にふれませんが、一年中境内におわす誕生釈迦立像もあります。

 

  普門院(所沢市)          徳満寺(利根町)

誕生のお姿があれば、入滅時のお姿もあります。

  東光院(印西市

    正覚院(八千代市)

最後の息を引き取ったのは、クシナガラの沙羅双樹の下、釈迦80歳の2月8日のことでした。

       福性寺(北区)

   徳満寺(利根町)

徳満寺の寝釈迦の参道の向こう側には、釈迦誕生仏が立っています。

釈迦の生と死を対照的に見せているわけです。

 

こうした涅槃像だけからは分からないのですが、お釈迦さまの周りには別れを悲しむ多くの弟子たちと動物がいることが、レリーフには描かれています。

      多門院(世田谷区)

上のレリーフは「天竺渡来石彫涅槃図」。

インド政府の協力で、奈良の壺坂寺に建立された大仏伝図(高さ3m、延長50m)のミニチュア。

写真の撮り方が下手で、判然としませんが、レリーフの上段は涅槃図。

下段の右は、四門出游、左は苦行の図が二つ並んでいます。

四門出遊は、出家の為、城を脱出するコ゛ータマ・シッタルーダ(釈迦)。

王子として何不自由なく暮していたシッタルーダは、19歳で結婚、一子をもうけます。

しかし、王子の心の中の無常感は増大するばかり。

城の外へ出たことがなかったシッタルーダは、ある日、西の門から出て、老衰した老人に出会って、老いを知り、南門では病人と出会って、病苦を知り、東門では葬列に出会って、死を知ることになります。

人間の老病死を初めて目にして、シッタルーダは動揺しますが、北の門で出会った修行者の姿に感動して、自ら苦行することを決意します。

そしてついに、従者一人をつれて愛馬に乗り、城を脱出したのでした。

 

シッタルーダは乞食となり、隣の国マガタ国で断食を主とした苦行を始めます。

四門出遊の丸彫り石像にはまだ出会っていませんが、苦行像はあります。

 

 善勝寺(前橋市)         玉林寺(あきるの市)

石彫にしやすい像容だからでしょうか。

肉体を痛めつける苦行は6年続きましたが、心の満足は得られず、苦行を止めてブッダガヤに移り、菩提樹の下で禅定(心静かに人間本来の姿を瞑想すること)に入ります。

苦行を止めたシッタルーダを堕落したとみなして、苦行を共にしてきた5人の修行者は彼のもとを立ち去ります。

 西光院(川口市)

瞑想するシッタルーダを悪魔が誘惑、悟りの成就を妨害します。

弓矢と刀の悪漢や誘惑する美女こそ、彼の心の中の、欲望、嫉妬、葛藤でした。

降魔成道像の特徴は、右手を地面に下げる降魔印。

 

瞑想すること6年後の12月8日、明けの明星輝くとき、シッタルーダはついに悟りを得て、仏陀となります。

この時、シッタルーダ35歳。

仏典では、これ以前を菩薩、以降を如来として区別しています。

釈尊が得た悟りの内容は難しくて、俗人に理解できるとは思えず、彼は悟りを人に説くつもりはありませんでした。

しかし、「是非に」と天界の代表・梵天の要請を受けて、釈尊は初めて説法を行います。

最初の聞き手は、苦行を止めたシッタルーダから立ち去った5人。

5人は、釈尊の、最初の弟子となります。

レリーフの右下に5人の姿が描かれています。

最初の説法をするお姿は、初転法輪像と云います。

「法輪」とは、説法のこと。

「初転」とは、最初の意。

 初転法輪像の印相は、説法印です。

 悟りを得てから45年、80歳で入滅するまで、釈尊はインド各地で教えを説きました。

その時の印相は、施無畏印、与願印。

「畏れなくていいですよ、願をかなえてあげますよ」という釈尊の気持ちを表した印相だといわれています。

この施無畏印、与願印の釈迦像が石仏としては、最も多いものと思われます。

 徳満寺(利根町)

 滝の入不動(武蔵村山市)

一か所でお釈迦さまの生涯を、石仏で見るなら、川口市戸塚の西光寺がお勧め。

彼の生涯の重要場面を表す6体の石像が境内に並んでいます。

まず生涯を簡単に記す釈尊伝。

その横に立っているのは、修行者として城を脱出したばかりのシッタルーダでしょうか。

西光寺の年若い住職に訊いたのですが、「分からない」とのことでした。

 

     誕生釈迦仏

      出家苦行像

     降魔成道像

     初転法輪像

  最初の説法を聞く5人の随行修行者たち

 初転法輪像の向こうに涅槃像(逆光で黒く、像容は分からない。すみません)

           涅槃像

≪参考図書≫

○日本石仏協会『石仏探訪必携ハンドブック』2004

○犬飼康裕「石仏で見る釈迦の生涯」『日本の石仏』NO136 2010年冬号

◇「お釈迦様・釈迦牟尼仏について」http://www.ueda.ne.jp/~houzenji/sub46.html

 

 

 

 

 

 

 


76 図録!普門寺(本庄市)の四十九院本尊石仏

2014-04-01 07:17:56 | 石仏

無知ゆえに宝の山にいて、それとは知らず過ごすことがある。

足利市の行道山の石仏群の只中で私が体験したのは、まさにそのことでした。

行道山は、寝釈迦が横たわる山として有名です。

足利市街を一望できる絶景地に、お釈迦さまは横たわっています。

絶景地ということは、険しい山地の上ということ。

重量のある石仏がおわす場所としては、あまりにも予想外で、それだけに寝釈迦さまは、来訪者にインパクトを与えます。

私は、若杉慧氏の『石仏の運命』でその存在を知りました。

<阿波野青畝氏の句に「一の字に遠目に涅槃したまへる」といふのがあり、山本健吉氏は註して、「寝釈迦像であるからもちろん目を閉ぢているが、心なしか薄目をあけて、遠い海岸を望んでいるやうでもある」と。
ここは足利市郊外行道山山頂。松風を子守唄に赤ちゃんがねんねしている。両足先をチョンと揃えたところも可憐である。「為華獄蓮芳童女」の銘はすこしいかめしすぎるようだ。享保四年。像と臺とを一石に掘り出したものだが、それがこんにちのマットレスの寝臺のやうに見える。ここから北関東平野一望。
「涅槃」とは煩悩の炎を吹き消すの意だが、そんなもので胸を燃やさぬうちに早世した童女に思はれる>。若杉慧『石仏の運命』より

現地へ行って分かったことは、寝釈迦の周りには、数十基もの石仏が散在していること。

そのどれもが、私には初めて見るものばかり。、

よく見ると仏名を刻んだ石仏もありますが、その仏名は見聞きしたことがなく、なじみがありません。

だから、適当に10体ほど撮って、お終いにしたのですが、これが大失敗でした。

これらの石仏群が、四十九院本尊石仏だと知ったのは、大分、後になってのことです。

その時も「四十九院」についてまったく知識がなく、興味がないので、聞き流していました。

「大失敗だった」と悟ったのは、つい、最近のこと。

この四十九院本尊石仏は、全国でも珍しい石仏で、ここ行道山と埼玉県本庄市の普門寺というお寺にあるだけということが分かったのです。

日本で2か所にしかない宝物のような石仏!

予め知っていれば、もっと丹念に撮影したものを、と悔やまれます。

心臓疾患を抱える私が、行道山へ再度登る可能性があるとは思えないからです。

 

多分、みなさんもご存じないでしょうから、ここで四十九院早わかり講座。

四十九院とは、兜率天(とそつてん)の内院にある四十九の宮殿のこと。

兜率天は、弥勒菩薩の住む弥勒浄土のことです。

御存じのように、弥勒菩薩は釈迦入滅の56億7000万年後、兜率天から地上に降りて釈迦に代わって衆生を救済するとされている未来仏。

末法思想が横行した平安時代後期、弥勒信仰が広がります。

弥勒信仰の普及とともに、死者が弥勒浄土に生まれ変わるように人々が願うようになるのは、自然の成り行きでした。

では、具体的にどうしたか。

①死者を埋葬した場所に4本の柱を立て、柱と柱の間を板塔婆が柵状に並ぶ正方形の区画を作る。

②並べる板塔婆の数は、兜率天の内院の四十九院にちなんで49本。

③それを入口のある正面に6本、左右側面に14本ずつ、背面に15本、計49本並べる。

④板塔婆には四十九院それぞれの院名と種子を書き、一番から順に決められた通りに並べる。

要するに兜率天のミニチュアを作って、死後の安寧を祈願したわけです。

この手法は日本中に広がりました。

中でも高野山奥の院の大名家の墓は、巨大な石柱塔婆の四十九院廟として有名です。

正応2年(1653)の裏書のある『高野山絵図』には、「これより奥の院、左右に四十九院石塔数多く」とあることから、ブームになっていたことが分かる。

現在でも20基が残っています。

 庶民レベルでは、埋葬地上に49本の板塔婆で囲む「ラントウ」やその板塔婆に屋根をのせる「シズクヤ」が広くとり行われてきました。

これらは木製四十九院。

石造物としては、石堂墓石の外壁に49本の卒塔婆を陽刻・線刻した四十九院塔が北関東一円で見られます。

 天龍寺(本庄市旧児玉町)

 

 49本の塔婆が刻まれている

こうした葬送施設としてではない四十九院建造物もある。

私の故郷・佐渡には、建物の周りを49本の卒塔婆で囲む四十九院垣堂があります。

    管明寺(佐渡市新穂)

塔婆の並べ方は、正面6本、左右14本、背面15本としきたり通り。

塔婆に囲まれてお地蔵さんが座しておわします。

 

 

兜率天には、中央の弥勒菩薩を取り囲むように48の宮殿(内院)がありますが、それぞれの院にはしかるべき仏、菩薩がいらっしゃいます。

中には、阿弥陀如来や大日如来もいらっしゃるのですが、弥勒浄土になぜ阿弥陀様がいるのか、摩訶不思議な仏教ワールドというしかありません。

行道山の寝釈迦は、この四十九院本尊の一つでした。

 

院名は、「説法利他院」。

そこにお釈迦様が横たわっているのです。

周囲の石仏も、全部、四十九院本尊ですが、残念なのは、49基揃っていないこと。

不揃いの原因は、石質のもろさによる崩壊と崖からの落下。

刻銘によれば、造立は享保2-4年(1717-1719)、地元足利に四十九院講があったのではないかと中上敬一氏は推測しています。

行道山四十九院本尊石仏は、49体揃っていない。

では、もう一か所の普門寺の石仏はどうなのか。

普門寺のある本庄市旧美里町へ行ってきました。

本堂左わきに整然と一列に49体の石仏が並んでいます。

寝釈迦の台石に「元文四巳未天四月三日」と造立年が刻されていますが、49基全部一緒の造立年なのか、ばらばらなのかは分かりません。

造立から280年近く経たというのに、保存状態が良く、像容と刻文ははっきりとしています。

総ての石仏には、院名、本尊名、戒名、年号、造立者名が刻まれていて、その半数以上に「覚龍」の文字。

この四十九院石仏造立を指導した僧侶の名前でしょうか。

では本邦初公開、普門寺四十九院本尊石仏全図録(*1,2体の写真はあるが、49体全部は初めてではないでしょうか)。

と、おおげさな書き様ですが、これほど有益性に乏しい図録も珍しい。

このブログの読者の誰一人として、「待ち望んでいた」人はいないはずです。

だから、以下、早送りしてご覧ください。

 

石仏群に向かって左から順番にならべてあります。

『釈浄土二蔵義』の四十九院の順序と石仏の順序は無関係なので、要注意。

 

 

左から1番目

第18番 

 三説真実院 覚龍
 善見尊者
     松寿弘春信士

左から2番目

 第21番

 灌頂道場院   覚龍
 金剛菩薩
      開敷蓮盛大姉

 

左から3番目

 第22番

 説法利他院 関口喜左衛門父
 釈迦説法
     深修道観居士

 

左から4番目

 第19番

展明十悪院 覚龍
世親菩薩
   道生信士
   妙香信士 持田左之丞

 

左から5番目

 第6番

 彼但三昧院 □□□□
 転法輪菩薩
    久室恵繁大師

 

左から6番目

 第25番

 法華三昧院 中嶋利兵衛
 多宝仏
  智光院 観連覚翁居士

 

左から7番目

 第9番

鎮国方等院 繁室道昌信士
仏頂尊勝仏 持田松之丞
         □□妙蓮信女

 

左から8番目

 第23番

 常行説法院 関口利左衛門母 
 文殊大士
     明宥智□大師

 

左から9番目

 第24番

 金剛修法院 覚龍 光山智立信士
 大日如来
     □峯□□信女

 

左から10番目

 第17番

 恒修菩薩院 覚龍 
 善財童子
     観心童女

 

左から11番目

 第12番

 多聞天王院 覚龍 映月妙喜信女
 毘沙門天王 法□宥□信女
    妙春信女 □空□信女

 

左から12番目

 第11番

 少欲知足院 亮然淡月信女
 戒波羅蜜菩薩
      芳妙寿信女

 

左から13番目

 

 

 第16番

 常念不動院 
 阿閦如来 覚龍

 

左から14番目

 第13番

 地蔵十輪院 亀蓮
 地蔵菩薩
      貞蓮

 

左から15番目

 

 第14番 

 常念普賢院 覚龍
 普賢菩薩

 

左から16番目

 第15番

精進修行院 覚龍
精進波羅蜜

 

 左から17番目

 第1番

 恒説華厳院 
 毘盧遮那仏

 

左から18番目

 第7番

修習慈悲院 
多羅尊菩薩

 

 

左から19番目

 第5番

念仏三昧院
    大密寺法山閣大和尚 
大勢至菩薩
     小川五丞エ門

 

 左から20番目

 第2番

 守護国土院 
 無量力菩薩

 

 左から21番目

 第4番

般若不断院 
般若力菩薩

 

左から22番目

 第3番

 覆護衆生院 本西法師 
 仏眼本尊 道春信士
     持田八之丞 覚龍

 

左から23番目

 第8番

 常念七仏院 
 毘婆戸仏 京御堂
     菩提院大僧正頼通

 

 

 左から24番目

 第41番

     常越 秀円
     妙参 妙春
 唯学伝法院 
 藷経論蔵
     法印覚性 覚龍

 

左から25番目

 

  第10番

       法印秀誉 覚龍(縦書き)
 常念常楽院 釈迦涅槃(右から左へ横書き) 
       法印重誉(縦書き)

 

 

左から26番目

 第29番

 弥勒説法院 法印玄智 
 弥勒大士 法印久誉 覚龍

 

左から27番目

 第27番

 求聞持蔵院 中嶋利兵衛
 阿難尊者
     真□明覚大姉

 

左から28番目

 第28番

 四大天王院 □□□信女
 梵天王 智密良照信女
         覚龍


 

 

 左から29番目

 第33番 

 平等忍辱院 諏□賓宣法尼
 忍辱波羅蜜菩薩 芳袖蓮貞尼
             覚龍

 

左から30番目

 第36番

 理正天王院 覚龍
 焔魔大王

 

左から31番目

 第31番

 金剛吉祥院 持田松左丞問母 
              覚龍
 吉祥菩薩
     栄雪妙寿信女

 

 左から32番目

 第37番

      松誉貞林法尼
           覚龍
 檀度利益院 
 檀波羅蜜菩薩
       唯法密来信女

 

 

左から33番

 第30番

     持田□□□□父
 施薬悲田院
 薬王菩薩
    空誉清信士
        覚龍 

 

左から34番目

 第38番

 因明修学院 
 竜樹菩薩

 

左から35番目

 第39番

観虚空蔵院 小林権□□父
          覚龍 
虚空蔵菩薩
    雪山安清信士

左から36番目

 第40番

 招提救護員 小林□□□母
 魔訶カ迦葉 順誉妙光信女

 

 

左から37番目

 第42番目

常念惣持院 覚龍
不動明王

 

左から38番目

 第43番

 理観薬師院 覚龍
 
薬師如来
     
小林弥平次
      たて

 

左から39番目

 第45番

 供養三宝院 秋月道詠□□村 
 金剛手菩薩
     薬散道保
        晴雲妙光
           覚龍

 

 

 左から40番目

 第44番

 伴行衆生院 覚龍
 金剛力士 辨良是観法□

 

 左から41番目

 第46番

 労他修福院 □福妙蓮法女
 賓頭盧尊者
  妙蓮信女 覚龍

 

 左から42番目

 第47番

 不二浄名院 妙光
 浄名居士
   妙雲 浄住 覚龍

 

左から43番目

 第48番

 常行如意院 
 禅波羅蜜菩薩 □貴□雷王等菩薩
        至法界平等一如

 

左から44番目

 第49番

 常行律儀院 小栗□□□□
 釈迦牟尼如来
     元文四巳未四月三日
          法印覚龍

 

 左から45番目

 第35番

 安養浄土院 道雪 覚龍
       了春法尼 
 阿弥陀如来
    恵天 栄心法尼

 

 左から46番目

 第32番

 念観文殊院 覚龍
 文殊師利菩薩
        覚雲

 

 

 左から47番目

 第26番

恒念観音院 中□□□□ 
聖観世音菩薩
   真光院観月直雨
          大姉

 

 

左から48番目

 第34番

 造像図書院 
 修補仏像 
  心運栄寿信女 覚龍

 

 

 左から49番目(最後列)

 第20番

如来密蔵院 高橋八之丞 
大日如来
    春誉妙繁信女

 

≪参考図書≫

中上敬一「四十九院の石仏」『日本の石仏NO57』1991年春号

○中上敬一「石祠型四十九院塔の源流」『日本の石仏NO128』2008年冬号

○金子智一「高崎市周辺における近世石堂・四十九院塔について」『高崎市史研究NO19』2004年

◇長澤利明「葬送施設としての四十九院」『民俗の散歩道12』より   
    http://www11.ocn.ne.jp/~oinari/sub7-12.html