石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

73 それは佐渡から始まった(3)-木食弾誓とその後継者たち(但唱編)-

2014-02-16 10:01:42 | 木食弾誓と後継者たち

如来寺の五智如来と聞いて、あなたは、すぐ、イメージできますか。

マイナーなテーマの石仏を取り上げるこのブログにアプローチしたあなたなら、「ああ、あの大きな・・・」とすぐ思い出すでしょうが、仏像など興味がない大多数の人たちは、ご存知ないでしょう。

東京都品川区西大井にある如来寺には、都内最大級の木像五智如来が在します。 

 

向かって右から薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来。

堂内の奥行きが狭く、5体をワンショットに収めることは、とても、できません。

私のカメラでは、手前の薬師如来が抜けています。

堂内が暗くて、像容がはっきり捕えられないのも、残念なことです。

この五智如来を造ったのは、如来寺を開山した但唱上人。

彼は、この五智如来を、長野県飯田市と駒ケ根市の間の松川町の山中で彫刻しました。

寛永期中ごろ、380年ほど前のことです。

但唱上人は偉大な作仏(さぶつ)聖ですが、その偉大さは、この巨大五智如来を彫ったからではありません。

江戸まで運んだことにあります。

巨大な仏像を造ることはできても、それを信州から江戸まで運ぶことは、誰にもできることではありません。

しかも但唱上人自らは、喜捨を受ける身で一銭たりとも持っていないのです。

天竜川を筏で下り、沿岸沿いに船で江戸まで運ぶ。

想像するだに膨大な人力と財力を要するこの大事業を、幕府や藩の力添えがない一介の木食念仏僧

がなぜ成し遂げることができたのか。

結論からいえば、信仰の力、信者の協力があったからでした。

要所要所を信者であるプロの職人集団がボランティアとして運搬輸送に携わり、バトンタッチしながら江戸まで運んだに違いありません。

但唱上人は、卓越した作仏聖であり、そして同時に、在野の偉大な実践的宗教家だったのです。

 

「イメージが崩れるな」。

坐像を見て、そう思った。

「如来寺の歴史と寺宝展」(品川歴史資料館、2013年10月-12月)の入口でのこと。

展覧会の主人公、如来寺開山の但唱上人座像が来館者を出迎えている。

但唱上人像があることが、まず、意外だった。

更に意表をつかれたのは、そのでっぷりとした体躯。

合掌する手も分厚く指も太い。

但唱上人は、普通、木食但唱と称せられる。

木食とは、木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を 受けた僧を意味します。

ならば、痩身の木食聖をイメージして当然でしょう。

この但唱像の作者は、但唱の弟子・林貞ですから、本人と酷似していることは、まず、間違いない。

痩身であるはずの木食但唱が肥満体型なのは、なぜか。

但唱の足跡を追うことで、その謎が明らかになってゆきます。

「それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たちー」の3回目は、弾誓の弟子・二世但唱編です。

(*1回目のNO41と2回目のNO64をお読みください。)

 

始祖・弾誓はじめ但唱らその後継者たちは、日本宗教史正史には登場しません。

だから、彼らを記録する文書はごくわずか。

関係寺院に残された伝記のたぐいと地域史の断片だけです。

『但唱伝記』によれば、但唱は、天正7年(1579)、摂津国多田郷有馬郡高杉(現兵庫県三田市高杉)の生まれ。

13歳で父と死別、母と暮らしていたが、18歳の時、弾誓と師弟となることを誓ったという。

時に弾誓46歳。

親子ほどの年齢差がありました。

修行中の弾誓を訪ねて佐渡・檀特山に分け入ったのは、但唱、21歳。

それから7年間、弾誓に従って厳しい木食戒の修行に明け暮れます。

不思議なことに、7年もいながら但唱の記録は佐渡には残っていません。

私の手元にある参考図書は、宮嶋潤子『謎の石仏ー作物聖の足跡』、五来重『木食遊行聖の宗教活動と系譜』、田中圭一『地蔵の島、木食の島』ですが、但唱がいつ佐渡を離れたか、その時期についても一致していません。

そればかりでなく、佐渡を離れてからの活動年月日にもズレがあります。

多分、根拠とする原資料の記述が異なっているからでしょう。

私にはどれが正しく、どれが間違っているか判断する基準も能力もないので、混乱を避けるため、時系列で足跡を辿るのをやめ、場所とそこで起きた出来事を中心に書いてゆくことにします。

 

 ◎須坂市奇妙山平の岩窟

佐渡を離れた但唱は、その後、各地を遊行して回ります。

一か所に一番長く滞在した場所は、須坂市奇妙山平でした。

奇妙山平は、須坂市と上田市の市境、東は群馬県嬬恋村に接する地点の四阿(あずま)山の麓にあります。

 この地に籠る前に但唱は、師弾誓を箱根に尋ね、そこで弾誓流仏頭相伝を受け、「念来称帰命山」の法名を授かっています。

帰命山=奇妙山。

但唱の修行地だったので奇妙山と呼ばれるようになった、そう私には思えます。

 

念願の奇妙山平を私が訪れたのは、2013年の9月のことでした。

標高は1400m位ですが、車でならなんなく上ることができます。

緩やかな山道は両側が樹木でおおわれて視界がききません。

たまに見通しがきくと、深い谷間の向こうに切り立った崖が見えます。

崖は岩山で、樹木も生えないほどの岩地です。

見方を変えれば、石仏の石材には事欠かない山ということになります。

入山禁止のバーの手前に駐車、、バーをくぐって奇妙山平へ。

上り坂を20分ほど進むと「奇妙山石仏」の標識。

人が来ないのでしょう、道らしき道の草木は踏みしだかれてはいません。

クマザサをかき分けて進む。

やがて平らな場所に出るとそこに巨大な岩が横たわっていました。

「大岩」です。

岩を抉って、中に石仏が安置されている。

但唱が彫った阿弥陀如来ではないでしょうか。

「大岩」を通り過ぎて、さらに100mほど進むとポッカリと浮かんだような岩が出現します。

「浮島」です。

「浮島」の上には6,7体の石造物がおわします。

全部、作仏聖但唱の手になる作品です。

接写をしたい。

が、岩の高さは約3メートル。

よじ登ることはできても、しかし、下りるのはやばそうだ。

自分の体の老化は認識しているので、あっさりと断念。

下からズームで撮ったお地蔵さんは、風化が進行しているように見える。

お地蔵さんの目線の先には、観光名所米子大瀑布の滝が白く光っています。

伝説によれば、但唱と閑唱は毎朝滝壺まで下り、滝行の禊をしてから作仏に取り掛かったといわれています。

「大岩」まで戻る。

但唱が弟子の閑唱と暮らしていた岩窟は、高さ1.5m。

奥行はせいぜい2mほど、作りかけの石仏や石材がごろごろしていて、居住環境は劣悪そのもの。

雨露が凌げればよい、そう思っていたに違いなく、住み心地を良くしようとした形跡はまったくない。

今でこそ、林道が近くを走っているが、但唱がいた頃は、人通りが全くない山奥。

念仏を唱えながら作仏をする乞食のような行者の噂は、どうして広まったのだろうか。

いつの間にか、「国郡貴賤道俗男女夜に日を継て群衆し」共に念仏を唱えるようになったという。

信じられない話だが、本当のことらしい。

流行るものあらば、嫉むものあるは世の習い。

麓の37か寺の僧徒が揃って上ってきて、但唱の行う弾誓流念仏を邪道と非難した。

帰命山弘め給ふ処の念仏の意趣詰問し、其の有様甚だもって理不尽の至りなり」。

論戦を受けて立った但唱が、彼らを論破したことはいうまでもない。

檀家制度に安住し、信仰から遠ざかっていた既成寺院と弾誓流派との軋轢は、弾誓の弟子たちが行く先々で生じて、彼らを疲弊させてゆきます。

この奇妙山平の岩窟で但唱が彫った小さな石仏は、里人たちに「奇妙山さん」と呼ばれ、それぞれの家で大切に扱われたという。

但唱は、また、この岩窟で、木像千体仏の制作にも力を注ぎました。

 

◎万竜寺(須坂市亀山)

 その但唱作千体仏があるというので、奇妙山平から須坂市街に向かう途中の万竜寺へ。

万竜寺は、但唱開山の寺。

木食僧といえども真冬に奇妙山平の岩窟で暮らすことはできない。

冬期間は、里に下りて庵で過ごしていたはずです。

その庵が寺になって、万竜寺が開山したということになります。

山号は「帰命山」、但唱の法名そのまま。

万竜寺の山門付近の石仏は、但唱作とみなしていいでしょう。

境内には、但唱の負い仏なる石仏がおわします。

いつもこの石仏を背負って歩いていたのでしょうか。

万竜寺の但唱と村人には、深いかかわりがあったことを示す逸話がある。

ある旱魃の年、亀倉村は水不足に悩んだ。村人の困窮を聞いた但唱は雨乞い地蔵を造り、本堂に巨大な南無阿弥陀仏の掛け軸をかけた。集まった村人に雨乞い念仏を教え、雨乞い地蔵を米子川の河原に安置して、自らは流水に入ってみそぎを行った。女たちは、万竜寺本堂で百万遍の念珠を回しながら雨乞いの念仏を唱えた」

面白いのは、雨乞い念仏を唱えても験力がない場合は、雨乞い地蔵は川に投げ込まれる風習があるということ。

    雨乞い地蔵の儀式(上越市三和)

これは、新潟県上越市三和の雨乞い地蔵とまったく同じで、(NO69新潟県立歴史博物館企画展「石仏の力」に見る佐渡の石仏)もししかしたら三和地区の雨乞いも但唱が教えたのかもしれない。

石仏とはいえ、仏像を川に投げ込むという手荒な行為は忌避されるのが普通です。

それをあえてやるのが但唱流、拝んでいては生じない仏と人間との密接な関係が生まれることを重視したのでした。

 

肝心の千体仏は、本堂の中に安置されています。

本尊の傍らの、朱色の縦長ケースにびっしりと並べられています。

その数1056体。

千体より多い理由を須坂市教育委員会は次のように説明しています。

「千体仏は、信者が家に持ち帰り、願いをかけた。特に子供のない女性や子供を亡くした母親が小さい仏を抱いて寝て、子授かりや安産を願い、また亡き子の菩提を弔ったという。人々は願いが成就するともう一体作り寄進した。現在はそのほとんどが寄進されたもので、但唱作はわずか17体となっている」。

但唱作の17体だけが、ガラスケースに収められ、他と区別されている。

なぜか、千体仏を撮った全カットがピンボケだった。

但唱の怒りを買ったようだ。

私の所業が悪かったからか。

だが、悪しき所業は枚挙にいとまなく、特定できないのがなさけない。

この万竜寺の千体仏が、但唱の2万体造立の皮切りでした。

帰命山平と万竜寺をベースに、越後米山の安楽寺にも千体仏を造り、信州野辺、井上村、松代、森山、矢代、こんやい村、田口村、平村、むれい村、六ッ川村と次々と寺を建て、本尊を彫刻して納めるという超人的活動を展開します。

その後、帰命山平を出て、居を富士山山麓に移し、伊豆の三島に一寺を建て、千体仏を納め、須走村には堂を建て、千体仏を安置する。川口大宮の信誉上人の寺に千体仏を寄進して再び信州に戻り、上穂に山居して飯田の光明寺に千体仏を安置する。次に休む間もなく、房州に現れ、清澄寺に千体仏、上総のお滝観音に千体仏、越後と信州松本、佐渡でも千体仏を寄進、千体仏だけで1万3000体、千体とまとまらない、バラバラな木彫仏を加えるとついにその数2万体に達したのです。

(五来重『木食遊行聖の宗教活動と系譜』より)

 その2万体を供養して造立したのが、冒頭述べた如来寺の五智如来ということになります。

佐渡でも千体仏を寄進とありますが、現在確認されているのは、3か所。

そのうちの一か所、旧佐和田町の常念寺の千体仏は、本堂内陣の壁にきれいに並んでいます。

 

但唱の師・弾誓が佐渡にわたって最初に修行したのが常念寺でした。

だから、但唱が千体仏を常念寺に持ち込んだとしても不思議ではありません。

しかし、住職の話では、千体仏は金で装飾されたものも多く、明治時代に相川金山の関係者の寄進によるものではないか、とのこと。

『謎の石仏』の著者、宮嶋潤子さんは「信州と佐渡の千体仏は但唱の流れをくむ同じグループの作品」とみています。

但唱の作仏聖としての技術と千体仏にかける篤い信仰心は、弟子たちにも連綿と受け継がれてゆきました。

弾誓から数えて6世の法阿(通称木食山居上人)が、弾誓派の聖地、信州虫蔵山の高山寺に千体仏を寄進したのは、但唱の時代から約半世紀後のことでした。

          高山寺(長野県小川村)

面白いのは、金で装飾されたものもあること。

木を荒削りした但唱の時代の、素朴な木彫仏から大きく変化していることが分かります。

ということは、佐渡の常念寺の千体仏も明治よりずっと時代をさかのぼった作品とみてもいいことになります。

 

千体仏を十数か所に造仏寄進し、念願の2万体造仏を成し遂げた但唱は、所願達成供養のために巨大五智如来を造ることを決意します。

奇妙山平を離れて、造寺、造仏をしながら信州、甲州、遠州、伊豆、房州、越後、佐渡と回った但唱は、五智如来制作のため、駒ヶ岳の東側、伊那谷を一望する原始林に入ります。

「山吹村小横沢に入給うに国仲の人民貴賤群衆をなして助成す。殊に領主座光寺殿帰慶斎、仏法帰依の志浅からず。依りて帰命山来給ふ事を悦び、供養尊敬し領内の材木を惜しまず・・・」

木食念仏僧であり、作仏聖の但唱は、行く先々で「貴賤群衆を成す」状態を作り出しました。

カリスマ的宗教者だったことは間違いないでしょう。

加えて、人々を魅了したのは、作仏聖としての但唱だったのではないか、そう思います。

民衆救済を請願して刻む、粗削りで素朴な仏像は、人々が手で触り、仏を実感して、生きる支えとなるものでした。

しかも、その仏はわずかな喜捨で入手できたのです。

寺の本堂の奥深くに坐す本尊が近寄りがたく、遠い存在であればあるほど、この小さな木像仏はありがたい存在でした。

この時代、檀家制度が実施され、人々はどこかの寺の檀家として組み込まれ始めました。

寺を介して、支配、管理されているはずの者たちが、どこの馬の骨とも知れぬ、住所不定の遊行僧を崇め、参集する、これは支配者側にとって、由々しい問題であったはずです。

こうした時代の変化を敏感に感じながら、但唱は伊那の山中で弟子と共に巨大五智如来の制作に励んだのでした。

 

ところで、この巨大五智如来 については、二つの素朴な疑問があります。

一つは、江戸までの運搬は、何故、可能だったのか。

運ぶことができると踏んだから、作ろうとしたわけです。

但唱は、天竜川沿いに、また駿河湾から伊豆半島の港みなとに弾誓流念仏信者が大勢いることを知っていました。

それぞれの場でのプロの職人である信者たちが協力してくれれば、運ぶことができると考えたに違いありません。

その判断は正しく、巨大五智如来は江戸まで運ばれました。

背景にあるのは庶民パワーです。

もう一つの疑問は、五智如来の安置場所。

安置場所があるから造り、運んだわけです。

しかし、但唱が五智如来制作に取り掛かったとき、如来寺は影も形もありませんでした。

伊那で五智如来を造りながら、彼は、江戸で新しい寺を造る必要に迫られていました。

巨大な五智如来を安置するにふさわしい広大な土地が、まず、不可欠でした。

そのうえ、江戸市中に新しく寺を造立することを禁ずるお触れが、但唱の前に立ちふさがっていました。

これは庶民パワーではいかんともし難い事案です。

では、彼は、どうしたか。

どのような策を弄したかは不明ですが、権力の中枢に取り入ったのです。

権力中枢とは、天海大僧正。

 天海大僧正座像(如来寺所蔵)

家康、秀忠、家光三代にわたる幕府の宗教顧問として有名でした。

 天海が但唱に与えた「融通念仏弘通朱印状」(如来寺所蔵)

如来寺に遺る一枚の朱印状「融通念仏弘通朱印状」は、天海が但唱に与えた書状ですが、これには如来寺を東叡山末寺と認めることと、天台宗の融通念仏道場とすることが書いてあります。

両者の歩み寄りは、双方を利する要素を孕んでいました。

幕府にすれば、在野のカリスマ宗教家である但唱を野放しにするのは、秩序を乱すものとして認めがたい。

かといって、弾圧すれば、大衆的蜂起が起こりかねない。

彼らの宗教活動を認める形で体制内に取り込み、管理しようと天海は考えた。

一方、但唱は広大な境内地の寺を江戸に新造するための土地と資金がほしい。

その寺を、弾誓流派の拠点と但唱はしたかったのです。

檀家制度が導入され、寺の本末関係が確立する時代の流れのなか、弾誓流派だけは、どの宗派にも属さず、岩窟に籠って修行に明け暮れしていました。

このままでは、尻すぼみに消滅してしまう、こう但唱は考えたはずです。

寛永寺の末裔になり、天台宗の一員として融通念仏道場となる、その代償として如来寺は誕生した、のでした。

東叡山に至って天海大僧正にまみへ、弾誓仏より伝授する所の念仏の大事を密に語り給へば、大僧正嘆いて曰く、汝の伝えるところの念仏の心地、天台宗に立てる処の融通念仏の秘法なりと称嘆したまう。依りて天台宗に帰服して寺号、山号を望みて東叡山の末寺と成給う」。(『但唱伝記』)

土地も資金も天海が提供したのではないか、そういう推測も十分可能です。

因みに、如来寺が発行するパンフレットの「帰命山仏性院如来寺歴代」には、「開基・慈眼大師天海、第一世・木食第一世仏性院満領但唱」とあります。

ここで、冒頭の但唱座像に戻ります。

木食修行僧に肥満は似合わない、だから違和感がある、と私は感じた。

だが、この如来寺建設に邁進する但唱には、宗教家というよりも清濁併せのむ政治家のイメージがぴったりします。

政治家但唱が肥満体型であることに違和感はない。

制作者の林貞は師の変身ぶりを見事に表現したといえます。

 

高輪にお目見えした帰命山如来寺は、「大仏の寺」として、たちまち江戸の名所となります。

                 江戸名所図会(如来寺)

「江戸名所図会」の如来寺は、芝下高輪にあったが、明治41年、現在地の西大井に移転してきました。

  帰命山如来寺(品川区西大井)

緩い坂道の参道を上ると正面に「五智如来 帰命山」の石碑。

石碑の後方の瑞応殿に五智如来がおわします。

宝永年間、火災に遭ったが、薬師如来だけは災禍を免れ、作仏師・但唱の技法を今に伝えています。

       焼失を免れた薬師如来

堂内の左端に但唱座像。

五智如来が大きいので、小さく見えるが、「如来寺秘宝展」に出品されていたものと同じです。

 

五仏殿に向かって左が墓地への入口。

通常ならば六地蔵がおわす場所に3体のお地蔵さんが立っていらっしゃる。

左と真ん中の2体は、但唱作。

背面に「作者但唱」と彫ってあるから、間違いない。

「石仏散歩」と銘打ちながら、石仏不在の記事で忸怩たるものがあったが、ほっと肩をなでおろす。

造立年は、左が寛永15年(1638)、中央が寛永14年。

如来寺が完成して1年後の造立ということになります。

念願の大事業を政治家的手腕で成し遂げ、充実感に満たされながら、政治家から作仏聖の顔に戻って、彫りこんだ逸品。

        寛永15年造立

丸い顔、肉付きのいい頬、分厚い唇は、奇妙平の浮島に立つお地蔵さんにそっくり。

    寛永14年造立

但唱作と知って見るからか、プロの石工の作品にはない精神性の高さがあるように見えます。

「五智如来を石仏として作ってほしい」、但唱に、そう依頼してきた人物が出ます。

日本橋の材木問屋、樋口平太夫は豪商でありながら、100観音霊場を回るなど信仰心の篤い人でした。

樋口平太夫は、商売柄、天竜川から江戸までの舟運について熟知していました。

もしかしたら、彼は五智如来輸送のアドバイザーであり、スポンサーだったのかもしれません。

平太夫の申し入れを但唱は引き受けます。

制作場所は、真鶴。

海岸近くに帰命山如来寺と芝高輪の寺と同じ名前の寺を建て、その境内で弟子たちとともに石仏五智如来の制作に励みました。

真鶴を選んだのは、良質な石材の産地だったからであり、完成した石仏を運び出すのに便利な港がすぐ近くにあるからでした。

『謎の石仏』の著者、宮嶋潤子さんは、真鶴は弾誓信者が多く、箱根の阿弥陀寺、伊勢原の浄発願寺の膨大な石造物の石材や石工は真鶴からのものであったとし、但唱はこの地で石仏彫刻の技術を覚えたのではないかと推測します。

真鶴の帰命山如来寺は、今はありません。

明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。

しかし、寺の背後の崖下の洞窟に但唱らが彫った石仏群が並んでいます。

*ここでお断り。この如来寺跡の写真フアイルが消去されていることが今、判明。ショック。改めて撮影に行く時間がないので、仕方なく「鎌倉を歩くー真鶴の岩浦周辺 瀧門寺と如来寺跡」http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/manazuru-shiseki.html

から写真を借用することに。無断借用です。すみません。)

まず、洞窟入口前に石造物の列。

寺は崖に接して建てられていて、洞窟は本堂最奥に位置していたと思われます。

洞窟に入る。

照明がないので、入口付近の明るさと奥の暗さのコントラスとが激しく、一瞬何も見えない。

目が慣れると、入口付近には、閻魔や奪衣婆などの十王がおわすのが分かる。

洞窟内は二部屋に分かれていて、手前が地獄、奥が極楽をイメージしているようだ。

地獄の裁きの道具である人頭杖や業の秤も但唱作と宮嶋さんはいう。

奥の極楽部屋の最奥には、大日如来と聖観音が並んでいらっしゃる。

石仏の横の立札に「聖観音菩薩」と表示されているが、宮嶋さんが意見を聞いた西村公朝(東京芸大教授)氏は、通常の聖観音とは違い、神像的なので、単に菩薩型座像とするのが妥当と答えたという。

真鶴の如来寺跡の石仏群についての記述が長くなった。

本題は、この地で但唱らが制作した石造五智如来です。

但唱とともに鑿を振るったのは、信州伊那の山中で木像五智如来を造仏した弟子、感悦、林貞、教念たちでした。

完成した石造五智如来は、寛永18年(1642)、海路、京都まで運ばれた。

設置場所は、京都鳴滝音土山上の蓮華寺。

五智如来安置の理想郷として施主樋口平太夫が選んだ場所でした。

現在、石造五智如来は、京都市右京区御室の蓮華寺に在します。

生垣に浮かぶように蓮台が並び、その上に大振りの仏さまがゆったりと坐していらっしゃいます。

表情は穏やかで柔らか、石でできていることを忘れてしまいそうです。

左から、、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、宝生如来、薬師如来。

  

      釈迦如来             阿弥陀如来                  

      大日如来

  

     宝生如来               薬師如来    

背中には、作但唱とあります。

江戸の如来寺の五智如来と同じ並びです。

五智如来の後ろには、11体もの石仏が並んでいます。 

これらも、また、真鶴から運ばれてきました。

僧形のうちの2体が面白い。

一体は、但唱上人。

           但唱上人像

もう一体は、施主の樋口平太夫。

       樋口平太夫像

施主と、作者が並ぶのは前代未聞。

但唱上人が、木像の但唱像と酷似しているのは、作者が弟子の林貞だからでしょう。

双方とも微笑みを湛える笑顔がなんとも素晴らしい。

微笑みでその人物のスケールの大きさが分かるというのは、すごい。

モデルのスケールも大きいが、それを刻した作仏聖の技量も称賛に価する、双方相まっての、これは優品です。

 

石造五智如来の制作、輸送という大事業を終え、但唱は高輪の如来寺に戻る。

疲れた体を横たえて、彼は、再び起き上がることはなかった。

寛永18年6月15日、61歳でした。

 

彼の墓は、如来寺墓地にある。

訪れた2月のはじめ、咲き始めた白梅の中、無縫塔はすっきりと屹立していました。

法名「仏性院満嶺但唱上人」。

合掌。

 ー未完ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


72 千葉県の馬乗り馬頭観音

2014-02-01 07:30:32 | 馬頭観音

木更津市大寺椿橋近くの馬乗り馬頭観音

この馬頭観音はおかしい。

そう感じたあなたは、まっとうです。

「おかしい」には両義あって、一つは「面白い」。

もう一つは、「変だ」。

「変だ」から「面白い」のだが、何が変なのか。

馬頭観音が馬に乗っているからです。

だから、俗称、馬乗り馬頭観音。

仏教本来の儀軌にはない名前と像容で、「変わっ」ている。

この石仏がおわす地域が限定的なので、初めてお目にかかる人が多く、そのユニークな造形に驚き、やがてみんなの顔がほころぶのです。

確認されている馬乗り馬頭観音は、現在262基。

そのうち242基は千葉県に偏在しています。(町田茂『房総の馬頭観音』より)

馬乗り馬頭観音は千葉県固有の石仏と言っていいでしょう。

「変」で「面白い」ものは、是非、見てみたい。

かねてからの念願を果たすことにしました。

全部はとても無理なので、目標は1割の26基。

それを、1月23日-24日、2日間の予定で回ります。

持参した参考資料は、服部重蔵『東総の石仏』と町田茂「馬乗り馬頭観音菩薩」それに栗田直次郎『馬のり馬頭観音』。

いずれも特徴的な石仏を10点くらいずつあげているので、それらを観て回ることに。

馬乗り馬頭観音は、昭和55年(1980)、服部重蔵氏が『日本の石仏』に「東総の馬乗馬頭観音」を発表したことで世に知られました。

下図は、記事の中の分布図。

 

  

千葉県東部の東総地帯に偏在していることが分かります。

当時は、馬乗り馬頭観音は、東総固有の石仏と考えられていました。

その後、千葉県西側の上総地方でも馬乗り馬頭観音が相次いで見つかって、今では下図のような分布状況です。

「上総地方の馬乗り馬頭観音」より借用

東に続いて西にもあったのだから、県中央にもあるのだろうか。

その可能性は皆無。

千葉県中央部は、七里法華といって、地蔵や聖観音、庚申塔などの石仏がまったくない地帯。

当然、馬乗り馬頭観音もありません。

東と西では○と●の違いがありますが、○は1面2臂の慈悲相、●は3面多臂の憤怒相。

東西で像容がまるで異なっています。

服部氏が東総の馬乗り馬頭観音を見出したので、その紹介は東総から上総へ進むのが普通ですが、私はその逆、西から東へと向かいました。

今回も長い前置きになりました。

では、「変」で「ユニーク」な馬乗り馬頭観音の紹介です。

1、市原市不入斗

持参した資料のどれも馬乗り馬頭観音所在地の住所が載っていない。

集落名や字だったりする。

「不入斗」だから「ふ○○」をナビで探すが見当たらない。

「いりやまず」と読むのだという。

分からないわけだ。

最初からつまずいて、イヤーな感じ。

朝の遮光が木の葉に遮られて、像が見にくい。

三面六臂の慈悲相。

上総は憤怒相と分類したばかりなのに、これはまずい。

慈悲相の中でも、ことさら女性的なやさしいお顔。

優しい顔に似合わない太い足で、マッチ棒のような足の馬にまたがっています。

動物愛護協会からクレームが来そうな像容です。

馬頭観音の真言碑が横にある。

珍しい。

隣の石仏は馬頭観音で、これは、その真言だと説明があればもっとよかった。

 

市原市には、県内最古と2番目の馬乗り馬頭観音があると資料にはある。

最古は市原市国吉、2番目が菊間と表示されているが、地図を見てすぐあきらめた。

国吉も菊間も広いのです。

今は真冬だから、農地に人がいない。

やっと見つけても、石仏を知っている人はごくわずか。

その人の家の近くにあっても知らない人が多い。

一日中探し回れば見つかるかもしれないが、2日間で26基の石仏を探し回るのだから、1基にそれほど時間をかけられない。

寺社や公共の建物ならナビで検索できるので、袖ヶ浦市神納2区のコミュニティセンターへ急ぐ。

旧町営住宅の中だと書いてある。

目的地に着いた。

コミュニティセンターもある。

しかし、馬乗り馬頭観音は見当たらない。

70-80歳台の住民に訊いても知らないという。

たまたま通りかかった区長も首を横に振る。

この人なら知ってるかもしれないと郷土史家や元教師の学識者の家をわざわざ案内してくれるが、あいにく全員留守。

写真があるのに誰も知らない。

まるで狐につままれた感じ。

「分かったら連絡しますよ」という親切な区長に、私の住所を手渡して、袖ヶ浦市を後にした。

翌日、千葉県から帰宅したら、区長からの速達が届いていた。

中に写真が数葉。

探していた石仏は「神納2区」ではなく、「神納1区」のコミュニティセンターにあったそうで、写真を撮って送ってくれたもの。

親切さに頭が下がる。

ありがとうございます。

2 袖ヶ浦市神納1区コミュニテイセンター

区長から送られてきた写真は、三面六臂の跨坐像。

馬の体は横向きで左前足の膝下が折れ込んで、駆けている様子が巧みに表現されています。

馬乗り馬頭観音は儀軌にはないから、石工の想像と創造力によるところが大きい。

でも凡庸な石工は誰かのマネをしがちで、これほど躍動感のあるオリジナル作品は稀有だといえるでしょう。

 

3 袖ヶ浦市大鳥居 勝蔵院前

 

今は、寺の入口にぽつんとおわすが、元々は桑畑脇の馬捨て場にあったものという。

馬の血取場や爪切り場など馬が集まる場所に、馬頭観音はよく建てられていた。

像容は、写真では分かりにくいが、三面八臂。

細身の割には大きな膝当てをしているので、馬とのバランスがやや悪い。

 

袖ヶ浦市から木更津市へ。 

住所のある資料はないものかと、木更津市役所の教育委員会文化財担当者を訪ねる。

市指定の文化財以外は分からない、市立図書館の郷土史コーナーへ行って見ればとの答え。

 郷土史コーナーで見つけました。

町田茂『房総の馬乗り馬頭観音』には、住所はないものの、地図がついているのです。

必要箇所をコピーし終わったら午後1時。

撮影可能な午後3時半までには、2時間半しかない。

県内最大の馬乗り馬頭観音へと急ぐ。

大寺という地区を目指して走っていたら「馬頭観音」の看板に気付いた。

ちょっと寄り道のつもりで小櫃川の土手を走って行くと大きな石塔がある。

なんとそれが目的の、県内最大の馬乗り馬頭観音だったのです。

4 木更津市大寺椿橋付近

台石込の高さ173㎝。

堂々たる石仏、石塔です。

(像容は、冒頭の1を参照。よりアップになっています)

寛政8年(1797)造立だから300年以上経っているが、保存状態はいい。

良質な石材を使用しているからです。

千葉県産の石材は砂岩が多く、彫りやすいが、崩れやすい。

東総の馬乗り馬頭観音がおしなべて、崩壊が進んでいるのは、千葉の石を使用しているからです。

東総と上総の石材の違いは、舟運の違いにあります。

上総の方が、東総に比べて、江戸からの舟運が便利なことはいうまでもありません。

写真の様に、この石仏は小櫃川に面しています。

東京湾を横切って上総へ運ばれた石は、川舟でここまで運ばれてきた。

江戸城城郭の巨大な石を伊豆から舟で運んだことに比べれば、これほどの石材を運ぶのは容易なことだったに違いありません。

台石の裏に、「石工新平」と彫ってあります。

町田茂氏によれば、新平は木更津の石工だとか。

この川岸に雨露をしのぐ小屋を建て、ここで彫り上げたのでしょうか。

施主の若者中からは、上総一の大きなやつを、と頼まれ、石工のテンションは一段と上がった筈です。

5 木更津市上望田 長徳寺

  

 大きすぎる馬頭冠ばかり目につくが、注目すべきは馬。

右前脚をひょいとあげて、首を下げている。

草を食む仕草のようだ。

儀軌(お手本)のない石仏の面白さが、ここにはある。

石工の想像力は満点だが、創造力は及第点に満たない。

冠の大きさが全体のバランスを損なっている、と私には見える。

造立、天保13年(1842)、天保の改革のさなか、房総では佐倉で大火があった。

6 木更津市請西 祥雲寺 

特徴のある馬乗り馬頭観音だから取り上げたわけではない。。

所在地が寺なので、探しやすかったから寄っただけ。

上総地方の典型的馬乗り馬頭観音。

上総にしては、石材が房総石で劣化が激しい。

馬の頭の両脇のタニシ状のものは、膝と足を覆う行縢(むかばき)。

私は初めて知ったのだが、中世の騎馬の必需品で足先まですっぽりカバーするものらしい。

 

7 木更津市矢那 暁星国際中・高校付近の路傍

安山岩に彫られた堂々たる馬乗り馬頭観音。

馬の背中に観音が結跏趺坐しています。

非現実的なこのスタイルは県内でもごくわずか。

非現実的というのは、この格好では不安定で馬から落ちること必至だから。

仏の坐し方に結跏趺坐があるから採用したまでのことでしょう。

馬乗り馬頭観音を世に知らしめた服部氏は、この趺坐型が馬乗り馬頭観音の元祖ではないかとみていました。

しかし、この服部説は疑問があると町田氏は反論します。

この点については、後ほど東総地方の趺坐型馬乗り馬頭観音の所で触れることにします。

この像はダム建設に伴い現在地に移されたもので、もともとは巡礼道にありました。

だから道標を兼ねていて、右側面は「東 此方ちは寺道」と刻されています。

ちなみに左側面には「南 高蔵六丁」とあり、坂東三十番札所高倉観音まで650mの地点にあったことが分かります。

8 君津市西原西川橋から北に向かった東側田んぼの縁

 

またもや愚痴からです。

 冬の夕陽の斜めからの光が強くて、景色は白く飛んでいるが、石塔の先が西川橋。

橋の際と書いてあるので何度も橋を往復して探してみた。

橋の両側の民家にも行って住民に尋ねてもみた。

6人目くらいか、「もしかしたらあれかな」と口ごもりながら教えてくれたのがこの場所。

橋の方からは暗く沈んで見えない。

それにしても、ここが「橋のそば」とは不正確、不親切な記述ではないか。

馬の前足も後ろ足も宙に浮いている。

尻尾は垂れずに後ろに靡いている。

まさに天駆ける馬。

馬が振り返るかのように首を曲げている構図がいい。

観音も遥か地上を見下ろしているような・・・

三面八臂の上総型馬乗り馬頭観音の優品。

文化元年(1804)造立。

冬の陽はつるべ落とし。

急いで次のポイントに向かうが、うろうろと探し回っているうちに暗くなって断念。

13基の目標が、達成できたのは8基だけ。

 

明けて1月24日。

快晴。

早朝、木更津市のホテルを出発、千葉市経由で千葉東金道路を東へと走る。

終点の横芝光で降りて国道を西へと向かう。

もうちょっとで七里法華、石仏不在地帯に入る。

この日最初の目的地点は、増福寺。

寺院だからすぐ見つかるだろうと思っていたが、どっこい、そうは問屋が卸さない。

ナビにも地図にも名前がないのだ。

営業を開始したばかりのJAに飛び込んで訊いてみたら、分かった。

集落の中を右左折し、寺に着く。

9 横芝光町木戸台 増福寺

時間が止まったかのようなムードの中に寺はあった。

無住のようで人の気配はない。

山門をくぐった右手に馬乗り馬頭観音はある。

隣に覆屋がある。

覗いてみたら馬頭観音の文字碑が立っていた。

文字碑を風雨から防ぎ、像塔を雨ざらしにする理由とは何なのだろう。

改めて像容を確かめる。

1面2臂の怒髪憤怒跨坐型。

1面2臂が、昨日までの3面多臂の上総タイプと決定的に違う点だ。

宝冠をかぶらず、髪が逆巻いているのが東総スタイル。

まるでバナナのようだ。

同じ千葉県で、同じ馬乗り馬頭観音という名称でもこんなに違う、そこが面白い。

観音の体を囲むテープ状のものは、天衣。

小品だが佳品です。

 再び国道126号線に出て東へ。

隣は匝瑳市。

たまたま学生時代の友人がいるので、「そうさ市」と読めるけれど、なんの縁もなければ、とても読めそうにない。

実は、3年前の1月、この友人の案内で匝瑳市内の馬乗り馬頭観音を見て回ったことがあるのです。

見たのは、7か所9基。

印象に残る2か所を掲載しておきます。

10 匝瑳市八日市場ホ2573 西光寺

西光寺には、馬乗り馬頭観音は3基ある。

参道入口の「不開葷酒入山門」の結界石に、倒れないように馬乗り馬頭観音が立てかけられています。

門前の道は、かつて米倉と松山の往還道だったから、街道筋に建てられたその場所がたまたま参道入口だったのではないか。

そう町田茂氏は推測します。

もう2基は墓地入口に放置された石仏群に交じって横たわっています。

中の1基は、典型的な東総スタイル。

馬口印を結ぶ両腕に天衣を巻き付け、観音と馬のバランスがとれた逸品。

バナナ髪も健在です。

側面は土に埋まって読めないが、八日市場市史によれば「寛政八辰六月立」と刻まれているそうです。

今回は短時間で多くの馬乗り馬頭観音を見て回るため、対象は、保管の行き届いた優品が多い。

しかし、とんでもない山の中や、藪をこいで行かなければならない場所の馬乗り馬頭観音は、倒れたまま、放置されているはずです。

人が通らなくなったそうした場所の石仏が放置されるのは無理からぬことでしょう。

しかし、寺院の境内に放置石仏を見るのは、いささか哀しい。

これは3年前のことであって、今はきちんと保存されているのかもしれません。

友人に確認してもらうつもりです。

なお、余計な付け足しをすれば、前回の「六地蔵考」で俗人顔の六地蔵として紹介したのは、ここ西光寺の六地蔵でした。

 西光寺の六地蔵のうちの1体

 

 11 匝瑳市八日市場イ2333 東栄寺

本堂右横の石仏群の中に馬乗り馬頭観音が1基ある。

笠つきの馬乗り馬頭観音とは珍しい。

砂岩だからか、風化が激しい。

この石仏が印象に残っているのは、側面に「大正七年四月七日 丸福馬車一同」と刻してあるからです。

丸福馬車が乗合馬車だったか、荷物運搬馬車会社だったかは不明ですが、像の馬の胸元に鈴がかけられていることを見ると乗合馬車だった可能性が高いと思われます。

八日市場村に乗合馬車が開通したのは、明治21年。

八日市場-東金間を午前と午後一日2往復、運賃は八日市場より横芝まで10銭、成東まで23銭、東金まで28銭でした。(東海新報、明治21年6月13日)

現在の国道126号線ができるのは明治22年。

乗合馬車はその前年に開通したのですが、「馬車、人力の往復繁きより道路非常に破損して大いに運輸の不便をきたせし」(東海新報、明治23年8月7日)状態だったらしい。

銚子生まれの国木田独歩が帰省する時、千葉から東金まで歩き、東金で一泊、翌朝、馬車で八日市場に向かい、そこから銚子まで再び歩いた。

到着したのは午後5時だった、という記録がある。(千葉県史明治編)

 

12 旭市旧干潟町入野131 

 平成の大合併でなじみの名前の市町村が消えた。

資料には昔の町村名で載っている。

合併後の新市名を知らないと、ナビで検索もできずにあわてることになる。

旧干潟町に入った。

現在は旭市。

旧町名には、歴史的ないわれが込められていた。

それは、目的の馬乗り馬頭観音の背景を目の当たりにすることで感じ取れます。

広大な水田をバックにやや大振りの馬乗り馬頭観音がおわします。

背景の広大な農地は、いわゆる「干潟八万石」。

旭市、匝瑳市、東庄町に広がる5100ヘクタールもの農地は、寛文10年(1670)、干拓により海から農地に姿を変えたもの。

今でも掘ると貝が出てくるそうです。

だから干潟町だったのに、とこれは、よそ者の感傷ですが。

像は、馬の脚が太く、どっしりと安定しています。

昔はここが馬の爪切り場だったから、近隣の馬はみんなここに集まってきた。

台石に、入野村、新町村、琴田村、鎌藪村とある。

近隣4村共同の建立石碑というわけ。

干拓するにも、干拓後の水田維持にも膨大な「馬力」が投入されたことは、想像に難くない。

供養塔建立の立地として最高の場所だったのではなかろうか。

 

12 旭市旧海上町見広大坂

坂道は、馬にとって難所だった。

いったん止まった馬は、なかなか次の一歩を踏み出そうとはしない。

馬も人も往生した。

馬頭観音は、だから、坂道に立っていることが多い。

この大坂も急坂だ。

その途中、水が滴っている崖を掘って、馬乗り馬頭観音が安置されています。

1面2臂の憤怒相。

よく見ると目が3つある。

顔は、かなり怖そうだ。

馬まで怖そうなのは、ご愛嬌か。

馬というより狐みたいだが、これは東総の特徴なのです。

馬頭観音の隣に不動明王。

その隣に県の文化財に指定されている双体道祖神がおわすのだが、顔が削りとられ無残な有様。

写真を載せるのもためらわれるので、カット。

 

13 旭市旧海上町大間手 共同墓地

 墓地の入口、右は六地蔵、左は月待塔などの諸仏がならんでいる。

左の石仏群の右端に馬乗り馬頭観音がおわす。

と、ここで普通は、像容の特徴を述べるのだが、ここではバックが気になってそれどころではない。

土がこんもりと盛り上がって、供花がさしてある。

墓石は見当たらない。

どうやら盛り土は墓のようだが、初めて見たので確信が持てない。

後日、旭市海上支所に電話して聞いてみた。

墓石がない家は、火葬後、骨壺を盛り土に埋めるのだという。

この土の山のそれぞれが、各家の墓なのだそうだ。

 

14 旭市旧海上町松ケ谷王子井戸坂上

 

 写真では、車の右手の暗い道が王子井戸坂。

その上り口に3体の馬乗り馬頭観音がおわす。

ガードレールに囲われている。

難所を乗り切って、馬も人も一休み。

馬の首からは、汗が滴っている。

「よくがんばったな」と馬子が馬の首を撫でて愛しんだりしていたのではないか。

3体の紹介は、右の方から。

14

1面六臂は、東総では珍しい。

馬の体が楕円で不細工。

天明2年(1782)建立。

15

三体の真ん中。

乗馬姿勢がいい。

宝冠に馬頭が見える。

馬がなんとなく埴輪風だ。

10月吉日とはあるが、造立年はない。

16

左端。

東総には珍しい三面八臂だが、もっと珍しいのは三面がすべて正面を向いていること。

昭和3年建立だから、石工の感覚が新しくなっていたからか。

少なくとも昭和3年には、この坂を馬が荷車を曳いて行き来していたことになる。

 上が3体まとめての写真。

後ろにガードレール、前に鎖と不粋なこと甚だしい。

それよりもっとがっかりしたのは、後ろの雑木の茂み。

下の写真は栗田直次郎氏の『石造馬乗り馬頭観音』に載っているもの。

 

 本は1992年の刊行だから、22年前は干潟八万石が背景に広がって見えていたことになる。

石仏を建立し設置した人たちも、この景色があるからこの場所を選んだのではないか。

後ろの雑木を切り払ってほしい。

市役所の文化財担当者の奮起を促したい。

 

時計を見ると12時。

あと3時間しかない。

本来は、旧飯岡町から銚子市を回りたいのだが、とてもそんな余裕はないので、そのまま東庄町に向かう。

 

 17 東庄町笹川イ967 妙幢院

 寺に着いて境内を見回すが見つからない。

通りかかった住職のご家族の女性に訊いて分かった。

本堂の真ん前に保存されていた。

馬頭観音が本堂の真ん前にあるとは思いもしなかったので、見つからないわけだ。

珍しい趺坐型。

おだやかに馬口印をきっている。

蓮華座に坐しているのだが、馬が小さくて押しつぶされそう。

一見水牛に坐しているように見える。

安永9年(1780)と古いのに状態はいい。

 

18 香取市旧山田町川上永信43 川上区民センター

 区民センター前庭の端に、十九夜塔や聖観音などと並んで馬乗り馬頭観音がおわす。

馬の顔が大きく、安定感がある。

しかし、鈍重で馬というよりも牛のようだ。

観音の顔は風化してノッペラボー。

天衣が両足から靡いています。

19 同所

なぜか、個人の墓所に人間の墓標と並んでいる。

馬は農家にとって動く財産で、家族同様の愛情を注がれた馬は多いが、墓所も一緒というのは珍しい。

資料ではもう1基あることになっているが、見当たらない。

栗田氏と町田氏の資料にも食い違いがあり、現場は更に両資料とも異なる。

平成14年のセンター改築工事の時に、いろいろと動かしたものと思われる。

20 香取市鳩山リョウケ502 鳩山構造改善センター

 生活改善センターだとか地区集会所、コミュニティセンターなどは、寺社跡が多い。

ここには円満寺という寺があった。

石仏が寄せ集まっている一区画があり、その中に馬乗り馬頭観音がおわす。

彩色されていたようで、朱色が少し残っている。

バランスもよく、彫りもいいのに、馬の目が三角なのが惜しい。

それにしても、こうした奥まった場所の馬乗り馬頭観音を、初めて探し出した服部重蔵さんはすごい。

敬服して、ただただ、頭が下がる。

21 香取市旧山田町新里米の下

集落の入口の道路脇に馬頭観音文字碑などとともに、丁寧に安置されている。

NO17妙幢寺の像容と同じ、馬上趺坐型です。

造立年も安永9年(1780)のこちらが10月、向こうが11月。

全体的なフオルムと雰囲気が酷似しているので、同一石工ではないかと思われる。

馬乗り馬頭観音を初めて世に広めた服部重蔵氏は、総ての馬乗り馬頭観音のモデルは香取市旧山田町の観音寺の木像本尊だと述べている。

この本尊は秘仏で、秘仏にそっくりな石造趺坐馬頭観音が境内にあるというので、行って見たかったが、到着が16時すぎになりそうなので、断念せざるを得なかった。

観音寺境内の馬上趺坐馬頭観音(栗田直次郎『石造馬のり馬頭観音』より

なお、この服部説に町田茂氏は、観音寺モデルより造立年がもっと古いものがあるからと否定的です。

 

目標とした26基は達成できなかったが、千葉県の馬のり馬頭観音の大体の傾向はつかめたように思う。

東総と上総では、像容がまるで異なっていた。

方や、1面2臂、慈愛相。

方や、3面多碑憤怒相。

七里法華のため、その差が画然と分かるのが面白い。

どっちかがどっちかへ影響を与えたと考えるのには、無理があるようだ。

それぞれが自然発生的に生じ、広がったのではなかろうか。

馬頭観音が馬に騎乗しているからびっくりするが、考えてみれば、普賢菩薩は象に、文殊菩薩は獅子の背に趺坐している。

馬頭観音が馬に乗るのは、民間信仰としては、ごく自然な発想で驚くに値しないのかもしれない。

 

地域的特色のある石仏めぐりは、楽しい。

次はどこの何を見て回ろうか。

思案するのも、また、楽しいのです。

 

≪参考図書≫

○栗田直次郎『石造馬のり馬頭観音』1992

○町田茂『房総の馬のり馬頭観音』平成16年

○服部重蔵『東総の石仏』1988

○立原啓三、町田茂「上総地方の馬乗り馬頭観音」『日本の石仏』NO76 1995