石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

128 五百羅漢(写真ファイルから)その4

2017-06-05 08:43:52 | 羅漢

◇羅漢寺(兵庫県加西市)

現代は情報化社会だから、否応なくあふれんばかりの情報に接することになる。

「石仏」はマイナーな分野だが、それでも日々新しい情報が飛び込んでくる。

自分のことながら、その情報の選択基準がはっきりしないのは、なさけない。

ひとつだけはっきりしていることは、どんなに魅力的でも、遠隔地の石仏は、無意識に排除していること。

時間はあるけれど、金がないからです。

日帰りできる範囲外は、遠隔地となるから、ほとんどの場所は「行ってみたいけれど、諦める」ことになる。

それでも「行ってみたい」欲望を抑えきれず、禁を犯して遠出、行ってよかったと思う場所が、2か所ある。

修羅那の石仏と北条の五百羅漢。

両方に共通するのは「幻想的」なイメージ。

今回は「北条の五百羅漢」を取り上げる。

写真を見ていたから、変わった石仏であることは、重々承知していた。

にもかかわらず、現地でその石仏群を目の当たりにして、言葉を失った。

私には、とても羅漢には見えない。

寺号が「羅漢寺」で、これは五百羅漢だと寺が説明しているので、そうかと思うけれど、その説明や先入観なしに、これを羅漢群だとみる人は少ないのではないか。

それがいかに超常的で幻想的な石造物であるか、それを伝えるには、あまりにも筆力不足なので、二人の文章をその著書から引用させてもらうことにする。

 仏は、奇怪な姿のまま右に、左に傾き、よろけながら立っている。方形の石に頭だけを丸く彫って手や躰はそのままで、線彫りにした一見幼稚な仏たちである。しかし、陰影を持った切れ長な目に象徴された恐ろしいほど深い悲しみを湛えた表情は、石仏全体に共通しており、それが何かを意図した作者の技法のような気がした。

これをモノマニックというのかどうか。凍り付いたような冷たい表情が、その目の造作にあるのは確かなようだ。見たところ、石仏によくある笑ったものはない。むしろ優しい顔は彫るまいと決めた作者の執念がノミあとに表現されているように思った。

五百体ほどある仏の一体一体を見ながら、ぼくは、なぜこれほどまでに儀軌にはずれた仏を刻んだのか、作者の心境を思った。ぼくは、仏と仏の間を行ったり来たりしながら、時にはそこに彫られた毛筋ほどの線も見逃すまいと長い間、向かい合った。しかし、切れ長の瞳に湛えられた憂愁のかげは、深い謎を秘めたまま、黙然として何も語ろうとはしない。

石仏を見ながら、この彫法は、うまい下手の問題ではなく、少なくとも、仏教とか美とかそういうものを念頭におかないで、まず死者への深い思いやりの心が動いたものだろうと思った。そこには哀しく、美しい心が、ただひたすらに石に向かう純粋さだけがあったように思う。そんな目で見る仏の顔は、永い風雪に傷みながらも、その内面には、造立に悲願をかけた人々の熱い血が動いているように思うのである。(宮川重信『風雪そして石仏』の「異質な面貌北条石仏」より抜粋

 

恨むかのように、嘆くかのように、いかにもうそぶいて天を睨む仏がある。せっせと絵でも描いているような仏もあった。縮こまるものもあれば、のびのびと背を伸ばして遠くに視線を投げて歌を歌うようなもの、沈黙に徹した仏、胸を抱き、自らの首をしめて苦しむ仏、目をむき歯をかみしめて無念の形相の仏、やはりここに並ぶ仏は一つ一つに個性があった。よく見ると一人ひとりが自我をむき出しにしている。

ここには永遠の臨終と生誕の歓びがある。あっちを向き、こっちを向き、ぴたりと寄り添い、離れ離れとなり、ばらばらでありながら妙に一つの秩序がある。手も足もない一本棒のだるまさん、ちっぽけな手指が石の粗い衣からのぞいているのを見ると理屈抜きのおしゃべりがあり、哲学者風に考えると思念の蝶が舞い踊っているようである。

ここを支配しているのは、太古からの静寂、ここにみなぎっているのは妥協を一切好まない人と人の剛直な姿があるだけである。

羅漢場一帯に漂っているのは成長をやめた稚拙と痴呆、一歩も引かない英知のひらめき、何もかも狂っている精神病院の病棟の中の瞳々々の行列である。平凡といえば平凡、怪異といえばどれも怪異、その顔が入リ混じり、前になり後ろになり、斜めになって潮騒のように迫ってくる。

こうした石の仏をいつ、だれが、何のために刻んだのか。まるっきりナゾである。ナゾがナゾを呼び、ナゾが幻想を生んで、北条の羅漢の魅力となっている。何もかもはっきりして、わかりきったところには、幻想は育たない。(森山隆平『羅漢の世界』より)

北条の五百羅漢は、どこか円空仏と相通ずるところがある。

日本は横並び文化だといわれる。

前例にしたがい、仲間と同じようにして生きる。

普遍的で突出しないことに重きをおく社会で、どうしてこのような超個性的作品が生まれるのか、それが不思議でならない。

◇東光寺(大分県宇佐市)

そもそも宇佐市へ行ったのは、宇佐神宮へ参拝するためだった。

宇佐神宮へ行く途中に、ちょっと寄り道をしたのが東光寺だった。

東光寺の五百羅漢と宇佐神宮を同じ日に見て、日本の文化は幅広いな、とつくづく思う。

具現的なるものと抽象的なるものが、同じ宗教という枠内で存立し続けている。

一方で心打たれた者が、他方でもその美に心酔する、そんなことが自分の中で自然に生じたことを改めて気づいて、驚いてしまう。

 

五百羅漢は、本堂裏手のゆるやかな斜面に全員が東面して座している。

夏休み前に校長の話を聞く生徒たちのように、規律を守りながらも、そこには開放感があふれている。

寄居の少林寺の羅漢たちのような広々とした空間とはいわないが、せめて清水市興津の清見寺くらいの広さに配置すれば、より個性的に輝いて見えるのに、と思う。

川越・喜多院ほどの自由奔放さはないにしても、呵々大笑するものあれば、涙ぐむものあり、怒るものあれば、悲しむ者あり、千差万別の喜怒哀楽の表情に、親しき誰かを見つけられること必至。

もちろん、「胸開きらごら像」もちゃんとある。

東光寺は、曹洞宗寺院。

曹洞宗の僧侶たちの中には、一介の乞食僧として、修行をしながら生涯を終えた僧がいた。

彼らの漂泊の本義は、救世済民にあった。

東光寺十五世道琳和尚が、五百羅漢造立を発願したのも、救世済民が願意だった。

他の五百羅漢が、菩提供養で造立されたのに比べ、衆生の安楽を願う道琳の願意は明らかに異なっていた。

それだけに、道琳の勧進は、朝早くから夜更けまで、身を粉にして行われた。

時代は幕末、激変する世の中にあって、道琳の周りだけは変わることがなかった。

嘉永元年(1848)に始められた五百羅漢造立の勧進は、四半世紀後の明治4年(1871)、538体の羅漢完成まで続けられた。

この道琳和尚の倦むことない勧進があればこそ、五百羅漢は完成したのだが、もう一人重要な人物がいたことも忘れてはならない。

それは、石工覚兵衛。

538体の羅漢をたった一人で彫ったと伝えられている。

それを支えたのは、覚兵衛の信仰心だった。

五百羅漢造立という大仕事を成し遂げた彼は、出家して僧侶となり、そのまま東光寺に住まい、遷化したと伝えられている。

 なお、本堂に向かって右には、十六羅漢がござる。

五百羅漢完成の前年に作られたという。

もちろん、石工は覚兵衛。

 

 

 


128 五百羅漢(写真ファイルから)その3

2017-05-24 09:05:09 | 羅漢

仙石原の長安寺は、紅葉の名所だが、裏山の五百羅漢も見どころの一つ。

◇長安寺(箱根・仙石原)

 寺の裏山の斜面一面に羅漢が点在している。

現代作家によるモダン羅漢もあって、像容の幅は広い。

五百羅漢シリーズの3回目にして、改めて、羅漢とは何か、を書くのには、いささか躊躇いがあるが・・・

「羅漢」は、「阿羅漢」の「阿」を省略した呼び名。

「阿羅漢」は、梵語の「アルハット」の写音で、「応具」=「供養を受けるに値するもの」の意。

小乗仏教(以下上座部仏教)では「最高の悟りを得た修行者」として、尊崇される存在。

最初の阿羅漢は、悟りを得て、仏陀となった釈尊の初転法輪(最初の説法)を受けた5人の修行者を指す。

初転法輪から入滅まで、釈尊は、40年にわたり、行く先々で説法をし、多くの弟子を育てます。

中でも有能な直弟子が十大弟子。

釈尊入滅後、経典と戒律を制定する第一結集が開かれるが、十大弟子は、その中核となって活動したメンバー。

この時、結集に参加した弟子の数は、500人。

五百羅漢は、ここから始まったといわれます。

いわば十大弟子は、釈尊教室の優等生、五百羅漢は一般卒業生ということになります。

羅漢は、難行苦行の末、煩悩を克服して、悟りの境地に至ります。

頬はこけ、痩せさらばえ、感情表現を忘れたような老爺を誰しもがイメージするに違いありません。

しかし、喜多院でも少林寺でも、そして、この長安寺でも、羅漢さんは実に表情豊か。

苦しい修行に顔をしかめている羅漢さんはいません。

それは、なぜか。

以下は、梅原猛氏の考察。

阿羅漢は、上座部仏教での理想的修行者。

しかし、大乗仏教からは、二点において批判されてきた。

上座部の羅漢たちは、あまりにも欲望を否定し、現世に否定的ではないか。

そして、彼らはあまりにも個人主義的ではないか、という批判。

自己の欲望を否定して悟りの境地を開いても、それによって世界は変わらないし、民衆の救いとは無縁ではないか、というのです。

大乗仏教では、菩薩が阿羅漢の役割を受け持つが、二重の意味で阿羅漢とは異なると梅原氏はいう。

現世否定的な阿羅漢に対し、菩薩は肯定的で、自己救済的な阿羅漢に対して、菩薩は他人救済の色彩が濃い。

かくして大乗仏教において羅漢崇拝は、退潮したかに見えた。

しかし、中国の禅宗で、老荘思想とあいまって、羅漢思想は復活することになる。

ポイントは、個性の自由。

上座部仏教の羅漢批判は、否定に執する姿勢であった。

それに対して、肯定、否定、有無に執着しないのが、大乗仏教の羅漢ということになる。

執着しない心の自由は、老荘の世俗を離れた自由の境地と結びついて、喜多院の、そして少林寺の自由奔放な羅漢さんの姿態と表情を生み出した。

上座部の羅漢さんにはない遊び心が、彼らには見てとれる。

欲望の圧力から解放されて、彼らは自由の境地に遊んでいる。(梅原武『羅漢』より要約引用)

なお、ここにもあの「胸開きらごら像」がある。

つい嬉しくなって、載せておく。

◇寺居山の五百羅漢(中津川市)

中津川市の西、中央線美乃坂本駅近くの寺居山は、山というより岩。

巨岩の上に羅漢さんが立っていらっしゃる。

その数、129体。

五百体を目指す途中だったものか、寛政年間に始まった造仏の動きは、享和年間に終わりをつげ、その後、新たに寄進された羅漢はないという。

なぜこの地に五百羅漢なのか、現地に立ってもその理由が釈然とはしない。

彫技は荒く、羅漢というには面白みに欠ける石仏群だが、岩山頂上の羅漢越しの景色は捨てがたいものがある。

◇願成就院(伊豆の国市)

「願えば、その願いが成就する寺」とは、剛毅な寺号だ。

「そうは言っても」と、どこか怯む心があるのが普通だろう。

こんな大それた寺号は、ここだけだろうと思っていたら、中尊寺の子院にも「願成就院」があるのだそうだ。

世の中は、広い。

古寺である。

本堂の仏像5躰は、運慶作で、国宝に指定されている。

古寺である。

開基は、文治5年(1189)。

鎌倉幕府初代執権北条時政が、北条家の菩提寺として建立した。

       北条時政の墓

だから、1989年には、800年祭が執り行われた。

変わっているのは、その記念事業。

「あなたの羅漢さんを造りませんか」と石彫五百羅漢造立運動を始めたのです。

今、寺の裏山には、様々な羅漢さんが立ち並んでいる。

羅漢というよりは、石造肖像。

それぞれが寄進者の近親者ばかりという生臭さ。

1体分の石材を10万円で購入、寺の境内にある作業場で備え付けの道具を使って、寄進者自らが粗削りをし、仕上げは専門家の手にゆだねるというシステム。

修行を積んだ羅漢というよりは、日本の庶民群像だが、五百羅漢には故人の近親者に酷似した顔が必ずあるというのだから、故人のレリーフを彫って、羅漢とするのもあながち間違ってはいないような気もする。

親しみやすい羅漢場であることは確かです。

 

以下の3か所の五百羅漢は、このブログでも取り上げたことがあるので、見ていただきたい。

◇長慶寺(富山市)

37 佐渡の石工の五百羅漢(富山・長慶寺)

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=13583a3b36e5620afcce79f7584a4ff1&p=8&disp=30

◇清見寺(静岡市)

 122日本石仏協会主催石仏見学会-3-(静岡市清水区興津町)

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=c90f7362b4e0e28a15a2386f34cd2f99&p=2&disp=30

 ◇竹成の五百羅漢(三重県菰野町)

124伊勢路の石仏-5(竹成の五百羅漢)

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=cdbde1691f2ceb0b08adc20a40298928&p=2&disp=30


128 五百羅漢(写真ファイルから)その2

2017-05-13 09:00:52 | 羅漢

◇日本寺(千葉県鋸南町)

 「日本寺とは、大仰な」と思うが、そう自称してもおかしくない古刹で、約1300年前、行基により開基された関東最古の勅願寺。

      日本寺本尊薬師如来

かつて、良弁、円仁、空海もこの地で修業したという道場でもある。

ロープウエイで一気に山頂へ。

見上げるばかりの摩崖仏が出迎えてくれる。

観光地でもあるから、地獄のぞきもあって、女性客の甲高い声が岩にこだましている。

標高329メートルの鋸山の南斜面が、寺の境内だから、東京湾が一望できる。

境内は、いくつかのエリアに分かれているが、頂上下は「羅漢エリア」。

五百羅漢どころか、1500躰もの羅漢さんがおわすといわれている。

喜多院や少林寺の羅漢が、高僧というよりは俗人風で、奔放な姿態であったのに比べて、ここ日本寺の羅漢さんは、真面目そのもの、ジョークも通じない堅物爺ばかり。

面白みにかけることはなはだしい。

造仏を請け負ったのは、木更津の名工大野甚五郎。

 

あの「左甚五郎」とは、別人だが、材料が木と石の違いはあれど、双方とも「甚五郎」とは愉快。

弟子27人とこの山に籠り、安永8年(1779)から寛政10年(1798)まで、20年をかけて、刻んだという。

石材は伊豆から船で運び、仕上がりごとに、天然の奇岩、洞窟に並べていった。

羅漢エリアには、弘法大師の護摩窟だ、聖徳太子の維摩窟だと名称の違うコーナーがあり、無数の羅漢がおわすが、コーナーによる像容の差異はないように思える。

首のない石仏群。

廃仏毀釈の傷跡のようだが、まったく無事なところも多く、なぜ、ここだけがこんなに被害が多いのか、その理由は不明です。

ムンクの「叫び」を彷彿とさせる貌。

 

右の,切り離された体躯がなければ、仏の顔だとは思えない。

何を叫んでいるのだろうか。

◇大円寺(東京都目黒区)

 東京23区にも五百羅漢はある。

目黒駅横の行人坂にある大円寺。

天保年間(1830-1844)刊行の『江戸名所図会』には、

寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す。此寺今は滅びたり

とある。

滅んだ原因は、火事。

しかも、江戸三大火事の一つ「行人坂大火」の火元だった。

時は「明和9年」、「めいわく」だとして、年号が安永に改号されたほどの大火だった。

火元の責任を重く見て、幕府は寺の再建を中々認めない。

やっとお許しが出たのは、78年後の嘉永元年(1848)だった。

しかし、『江戸名所図会』の「行人坂夕日丘」には、大円寺の五百羅漢が描かれている。

本文でも五百羅漢に触れている。

五百羅漢石像

明和九年三月二十八日、二十九日両日の大火に焼死せし者の迷〇を弔う志ある人此れを建立すといへり

中央に座すのは、釈迦如来だろう。

行人坂大火の犠牲者の霊を弔うため五百羅漢の造立が始まったのは、大火から10年後。

完成したのが、50年後の文政年間と思われるから、天保年間刊行の『江戸名所図会』に載っているのは、ごく自然のことといえる。

大円寺の境内に入る。

本堂左手に、半肉彫りの石仏がひな壇状にズラリと並んでいる。

壮観だが、あいにく、日差しと日陰のコントラストが激しくて、像容がはっきりしない。

柵がしてあって、中に入れない。

石仏はそんなに大きくはないから、肉眼では、一つ一つの識別は、まず、無理。

望遠レンズでもあればいいのだけれど、あんなクソ重いものは持ち歩かないので、ワンショットのアップどころか2-3体のグループショットですら撮れない。

前面に釈迦如来。

その周囲に十大弟子と十六羅漢がござる。

釈尊の長男で十大弟子、かつ十六羅漢の「らごら」の胸開き像もある。

五百羅漢全部に羅漢名と施主名が彫られているというので、一番近い羅漢名を読んでみる。

辛うじて「摩訶南尊者」と読めるが、施主名はわからない。

十六羅漢には名前はあるが、五百羅漢には個々の名前はないのかと思っていたので、ちゃんと名前があることが分かったのは、収穫。

で、その名前一覧は、どこで見ることが出来るのだろうか。

おまけを一つ。

境内にある庚申塔の三猿の性別が分かる。

 

都内に、しかも目黒区に、五百羅漢が、もう一か所、別にある。

寺の名前は、その名もスバリ「五百羅漢寺」。

像高80-90cmの羅漢群が、釈尊の説法に耳を傾けている構図の本堂は素晴らしい。

本堂に入れなかった羅漢たちは、羅漢堂に並んでいる。

寺の開基者・松雲元慶が、300年前の元禄期、独力で完成させたといわれている。

国の重文でもあり、取り上げる価値は十分にあるのだが、いかんせん、寄木の木彫像。

石像をターゲットとする本ブログの趣旨には合わないので、これ以上、触れない。

 

 

≪参考図書≫ 

◇森山隆平『羅漢の世界』柏書房 1984年

◇松山徹『石仏の旅』大陸書房 昭和54年

◇山本敏雄『写真集 羅漢』木耳者 昭和55年

◇庚申懇話会『全国、石仏を歩く』雄山閣 1990年

◇森山隆平『石仏巡礼』大陸書房 昭和54年

 

 


128 五百羅漢(写真ファイルから)その1

2017-05-01 08:55:55 | 羅漢

前回は、遠野の五百羅漢でした。

自然石に線刻された羅漢は、しかし、像が不鮮明で、もやもやとどこかすっきりしない。

五百羅漢の中には、故人となった親類縁者の誰かにそっくりな仏がいる、という言い伝えがある。

それを楽しみに来たのに、裏切られたような気がして、すっきりしないのかもしれない。

もやもやを晴らすには、はっきりした像容の羅漢さんを見るに限る。

と、いうことで、今回から数回にわけて、羅漢シリーズを送ります。

改めての取材はせず、すべて写真ファイルから取り出したもの。

私が東京在住なので、関東一円がメインです。

まずは、五百羅漢、次いで十六羅漢を。

◇喜多院(川越市)

関東で五百羅漢といえば、「あ、川越・喜多院の、」と誰もが思うに違いない。

それほど有名で、みんなのイメージを裏切らない五百羅漢です。

みんなのイメージは、素朴で庶民的、喜怒哀楽の表情豊かな老爺群だろうか。

だから、個人となった近親、縁者、知人の顔も、その中にあることになる。

イメージは、誰かの話で作られてゆく。

それが、いつ、だれの話だったかは、特定できないまま。

ここで不思議なのは、私たちの羅漢イメージには、厳しい修行で悟りを得た釈尊の高弟という定義が欠けていること。

五百体もの石仏を彫るのは容易なことではない。

単なる好々爺群を日時と費用をかけて造立しはしないだろう。

厳しい修行の上、「誰からも尊崇され、供養を受けてもよい」とお許しの出た高僧群=羅漢群だから、建立されたに違いない。

それなのに、その目的は、なぜ、庶民に伝わらなかったのか。

日本の仏教が大乗仏教であることと無関係ではなさそうで、私には、興味深いテーマです。

 

喜多院の羅漢場は、土産店の横にあって、店の脇から入る。

壁に囲まれた空間にびっしりと羅漢さんが並んで、せせこましい感じで、息をつくまもなく、観るのにすぐ疲れてしまう。

過密都市東京圏の住人たちには、この肩を寄せ合う隣との距離が、自らの住環境に似て、自然なのだろうか。

中央にひときわ高く釈迦三尊がおわす。

結跏趺坐して禅定印を結ぶ釈迦如来を真ん中に、右に白象に乗る普賢菩薩、左に獅子に座る文殊菩薩。

その前には、十大弟子と十六羅漢が13体ずついらっしゃる。

        阿難尊者

彼らは、釈尊入滅の時にお傍にいてお見送りをし、釈尊の死後、経典と戒律の制定に努めた。

         舎利弗尊者

彼らを釈尊学校の優等生とするならば、五百羅漢は、一般卒業生ということになる。

 

喜多院五百羅漢の特異性は、3点。

1、発願者が僧侶ではなく、一介の百姓だったこと。

 のち出家して僧籍を得たとはいえ、志誠は、川越在の農民だった。

2、その一介の百姓の発願に、天台の名刹喜多院が応え、造立地を提供したこと。しかも、志誠は48体
 完成した時点で病に倒れ、死亡。喜多院塔頭寺院の3人の僧が、志誠の遺志を継いで、事業を継続し
 たこと。

3、完成は、文政8年(1825)、45年の長い歳月を要したこと。 

 

自由奔放な羅漢さんの姿態も、喜多院羅漢の魅力。

とりわけ二人組の仕草が素晴らしい。

耳打ちをする、酒を注ぐ(酒は厳禁だから油という説もある)、マッサージをする・・・

儀軌にあるものなのか、石工の創作なのか、日本人好みに作られていることは確かです。

かといって、約束事は守られていることは、羅睺羅(らごら)を見れば分かる。

胸を搔っ捌いて、胸の内にある釈迦像を見せる、羅睺羅の定型像があるからです。

羅睺羅(らごら)は、釈尊の実子だといわれます。

周囲から特別視され、本人の慢心も加わって修行は難航した。

しかし、人一倍の努力で、蜜行の第一人者となった。

十大弟子でありながら、十六羅漢でもあるのは、羅睺羅(らごら)一人。

定番の胸開け像の意は「人の心には仏心がある。心をあけよ。汝の心を迷いから解放せよ。そうすれば、そこに真の仏がある」(梅原猛『羅漢』より)のだという。

五百羅漢に故人の誰かの顔を見るのも一興ではあるが、羅睺羅(らごら)を探してみるのもいい。

 何か目標があったほうが、接しやすい。

十大弟子でもあり、十六羅漢でもある羅睺羅(らごら)は、釈尊の近くにいるので、見つけやすいという利点もある。

お勧めです。

 

 ◇少林寺(埼玉県寄居町)

「少林寺(寄居町)」のファイルを開く。

09.10.04とあるから、7年前のもの。

写真を見ても記憶が戻ってこない。

写真そのものも、色が褪せてシャープさに欠けるようだ。

安物カメラだったせいか。

 

少林寺の五百羅漢が、喜多院のそれに比べて優れているのは、立地だろう。

寺の背後の低い山にジグザグに伸びる道の山側に、適当な間隔で座しながら、石仏群頂上まで並んでいる。

喜多院のようにせせこましくなく、ゆったりとしていて、いい。

夏は雑草が生い茂って、羅漢は見にくいから、来るのなら冬がいい。

常緑樹は竹くらいで、見通しは良くなるが、雰囲気が殺伐的なのが惜しい

武蔵野の冬山は、どこも同じだけれど。

少林寺は曹洞宗寺院で、開基は永正8年(1511)。

開山の和尚が果たせなかった五百羅漢造立の念願を、24世和尚が6年の歳月をかけ、天保3年(1832)に完成した。

         頂上広場に座す釈迦三尊

どこにでもある面白くもおかしくもない造立事由だが、資料を読んでいたら新説(珍説?)を披歴する本があったので、紹介する。

180年前ということは、天保年間、少林寺に海南禅海という坊主がいた。宗旨を守って独り身だったが、魔が差してか、檀家の女とねんごろになってしまった。その事実が、女の亭主の知ることとなり、さあ、大変。「このクソ坊主、たたき殺してやる」と騒動となった。和尚は罪を認め「殺されてもいいが、坊主として何かやり遂げてから死にたい。3年間で五百羅漢を作るから、それまで待ってくれないか」。
亭主の許しを得て、和尚は資金集めの托鉢に出かけた。やっと30両集まったので、麻布の石工を訪ねて五百羅漢制作を依頼するが、「30両なんてとても、とても。150両なければ、ダメ」と拒絶される。
窮地に陥った和尚は、その夜、吉原に乗り込んで、有り金の30両そっくり投げ出して、女郎を店ごと借り切った。
大広間の真ん中に素っ裸になった和尚は、ことのいきさつを女郎たちに話し、「みんな日頃の罪滅ぼしに頭のかんざしを俺にくれないか。どうせ男たちからだまし取ったものだろう」と訴えた。
大迫力の和尚の一世一代の芝居に感激した女たちはかんざしを抜いて、和尚に投げ出した。このかんざしに500両の値がついて、少林寺の五百羅漢は造立の運びとなった。間男された旦那に和尚が打ち首されたかどうかは、不明である。(松山厳『石佛の旅』より)

こうした設立事由を知って、五百羅漢を見ると、仏とは思えない、世俗にまみれた羅漢さんの姿態が、当然のように思えてきます。

    聞かざる             言わざる

         見ざる 

五百有余の羅漢群のすべては、江戸石工の手になり、船で荒川を上って、玉淀の河原に下ろされた。

檀徒の農民たちが男女を問わず、寺までの、羅漢の運搬を志願した。

羅漢像がみな小づくりなのは、人ひとりが背負って運べることを念頭に制作されているからです。

頂上広場から別の道を下りると、景色は一変、荒神碑が重なるように立ち並んでいる。

「荒神」とは、いろりや竈の火の神。

荒神碑の大半は文字碑で、「荒神」、「三宝荒神」、「千一躰」、「千荒神」などと刻されている。

道の角々には、荒神像がおわす。

いずれも三面六手の憤怒相だが、珍しい像塔が7基も一か所にあるのは貴重である。(『日本石仏図典』)

◇大法寺(長野県小県群青木村)

大法寺へは、修羅那の石仏を見た帰りに寄った。

国宝の三重塔があることは知っていたが、五百羅漢は現地で初めて知って驚いた。

参道の片側にずらりと並んでいる。

彫技はうまいとは言えないが、素朴でいい味がある。

   抱えている壺の文字は「夢」

         マッサージ

 

≪参考図書≫ 

◇森山隆平『羅漢の世界』柏書房 1984年

◇松山徹『石仏の旅』大陸書房 昭和54年

◇山本敏雄『写真集 羅漢』木耳者 昭和55年

◇庚申懇話会『全国、石仏を歩く』雄山閣 1990年

◇森山隆平『石仏巡礼』大陸書房 昭和54年

 


127 遠野の五百羅漢

2017-04-19 09:31:17 | 羅漢

住居移転のため、更新を中断していましたが、一段落したので再開します。ただし、これまで5日おきに更新していたものを今後は不定期更新とします。今回は、去年の秋、脱稿したものです。

 

パソコンの前に座ったまま、長い時間、書き出せずにいる。

2016年10月下旬、遠野市の五百羅漢へ行った。

写真も撮った。

材料はあるが、書けない。

今は、11月の中旬で、書けないまま、半月が過ぎた。

原因は、はっきりしていて、肝心の五百羅漢が分かりづらいのです。

 自然石の線彫りだから、丸彫りの五百羅漢を見慣れた目には、輪郭がはっきりしない。

その上、石を覆う緑色のコケが線刻像をさらに見にくくしている。

誰かが、顔の部分だけ、コケをむしりとったらしく、顔だけはなんとなく分かるが、それはまるで子供の落書きのようで、釈尊の弟子という威厳に欠けるようだ。

見てもわからないものを紹介しても無駄だろうと思う一方、、せっかく遠野まで行って、ボツにするのはもったいない、とも思うのです。

ケチだから、「もったいない」思いが強くて、結局、「遠野の五百羅漢」を紹介することに。

念を押しますが、羅漢さんの像容は、ほとんど分かりませんよ。

 

新花巻で新幹線から釜石線に乗り換え、遠野駅へ。

駅前でレンタカーに乗る。

ナビに従って走ると10分も行かないうちに「五百羅漢」の標識がある。

そこは、愛宕神社の入口でもあって、大ぶりの石塔が並んでいる。

落ち葉を踏みつつ、山道を登ってゆくと、広い道に出て、その右手に五百羅漢の入口がある。

入口説明版には

五百羅漢
 いまよりも平均気温が3度も低かった江戸時代、高冷地の遠野はしばしば凶作に見舞われ、宝暦5・6年(1755・6)、天明2年(1782)などの大飢饉には多くの犠牲者を出しました。
心を痛めた大慈寺の義山和尚は、その供養のため明和2年から数年をかけてこの五百羅漢を彫りあげました。」

多分、遠野市教委による説明だろうが、五百羅漢の意味よりは、制作のモチベーションに力点があることに注目されたい。

キーワードは、「飢饉」ということになる。

 杉林の暗い山道を抜けると落葉樹が点在する沢筋に出る。

コケに覆われた大小の岩がごろごろ居座って、岩と岩との間の低みは、雨が降れば、川となって水が流れ落ちるのだが、今は、水は見られない。

それでも、かすかに水音がするのは、伏流水の音だろうか。

一番最初に出会ったのが、下の写真の岩。

実はこの写真は、帰り道に撮ったもの。

初めて見たときは、羅漢が彫られていることに気づかなかった。

今、羅漢が彫られているとわかって、改めて見ても、像の輪郭をとらえられない。

ことほどさように、分かり難いのだが、よくよく、目を凝らしてみると、沢筋の岩それぞれに人面が彫られているようだ。

誰が数えたのか知らないが、その数388体だとか。

作風は稚拙そのもの。

石彫には素人の義山和尚がノミを振るったのだから、巧拙を問うても仕方ない。

説明版にあるように、宝暦の餓死者の霊を悼み、読経しながら6年の歳月をかけて500体を彫りあげた和尚の思いが尊いのです。

その6年の間にも不作、凶作は相次いで、ノミを振るう和尚自身も飲まず食わずだったに違いない。

なにしろ近世南部藩では、江戸期270年間に減作年が124回、2年に一度の割合で記録されている。

凶作は6年に一度、飢饉は13年に一度。

人生50年の時代、人々は、生涯に4度もの飢饉に襲われたことになります。

       『凶荒図鑑』より

とりわけ、元禄8年(1695)、宝暦5年(1755)、天明3年(1783)、天保4年(1833)は、南部藩四大飢饉として、多くの餓死者を出した。

元禄8年(1695) 餓死者 4万人。
  15年(1702) 飢人 救済 5万4111人。
        餓死者 2万6000人。
宝暦5年(1755) 餓死者5万4227人。
天明3年(1783) 餓死者 4万8150人。
        疫死 2万3848人。
        他領逃散 3330人。
天保4年(1833) 餓死者多し。

宝暦5年の遠野領の人口は、1万9427人。

それが飢饉によって、1万4799人に減少した。」

 実に24%、4人に1人が餓死してしまったのです。

他領逃散は、文字通り家田畑を捨てて、食料を求め、乞食となって他藩に逃げ込むこと。

一関藩では、藩倉を開放し、飢餓人救済に当たったので、餓死者は出なかったが、「他郷より来たる流民鵠形鳥面の老若男女蟻の如く群れ来たるは目も当てられぬ事どもなり」(一関藩医師の『民間備荒録』より)

幼児は捨てられ、父母を探し迷う姿は、まるで地獄である。路上での追いはぎ・強盗の様は修羅道と言える。かわいそうにと幼児の手に食物を握らせると、その親が奪い取って自分で食べてしまう。全く親子兄弟の情もなく、畜生道という有り様だ。」

餓死、逃散による人口減は、翌年の労働力不足をもたらし、その上、肝心の種もみも食べつくして、作付けできない農地が続出、天候は回復しても不作が続くことになった。

ここの五百羅漢は、宝暦大飢饉の餓死者供養のため彫られたが、花巻市の浄土宗松庵寺には、餓死供養塔、念仏塔のコーナーがあって、10基もの石塔が並んでいる。

3基ほど紹介しよう。

下は、「飢餓疫病死供養」と刻され、文化2年の造立。

右に「宝暦六子年 五十回忌」、左に「天明三卯年 廿三回忌」とある。

次は、文化12年造立の「餓死供養塔」。

また、次は「飢餓供養」塔、天保4発巳年造立です。

 南方植物の稲は、生長期に20度超の温度を必要とする。

ところが、遠野では、この時期、いわゆる「山背」による濃霧と冷気に覆われることがしばしばだった。

    濃霧の釜石

凶作や飢饉は、こうした避けがたい自然条件によって発生するものではあったが、それに輪をかけたのが、藩の悪政。

もともと稲作の北限地だった遠野での米の生産性は低かった。

それに冷害が拍車をかけるから、収穫量は益々少なくなる。

にもかかわらず、年貢は、地域の生産性を無視して画一的に徴収された。

「百姓は、その財の余らぬ様に、不足なきように治めること道なり」という方針も、百姓から資本の留保を奪い、体力を削いでいった。

「農は国の本なり」は虚言だった。

南部藩は、百姓一揆の数、全国NO1というのもうなずける。

遠野市にも一揆リーダーで犠牲者の供養塔はあるが、個人の屋敷内にあって、取材できなかったので、代わりに花巻市の松山寺にある「儀揆」の写真を載せておく。

一揆の犠牲者は、二人。

墓標の一つが無法塔であることから判るように、一人は、当松山寺の住職。

一人は、地元湯本の百姓嘉右衛門。

説明版に曰く。

天明より寛政にわたり、連年の凶作打ち続き、藩の財政益々窮乏を告げ、御用金、寸志金、分限金等あらゆる名称のもとに金員の徴集あり、一方、藩役人驕奢に長じて身分不相応なふるまい多く、村民大いに憤慨し不平を訴ふるの声止まざりき。(以下、略)」

その不当性を森岡藩主に直訴した嘉右衛門は、斬首。

加担した住職は、放逐となった。

寛政12年(1800)のことだった。

寄り道をした。

元へ戻って、遠野の五百羅漢だが、五百羅漢は言うまでもなく、釈尊の高弟500人を指す。

五百羅漢は、釈尊入滅を見守り、死後の経典と戒律の編集会議にも参画した。

羅漢は、悟りをひらいた最上の仏教修行者としての尊称です。

一方、餓死者は供養に値する羅漢だとする考え方が仏教思想にはあるとかで、義山玄峯和尚が羅漢を500体刻したのも、そうした思想によるものだと思われる。

そうした思いで、もう一度、線刻羅漢を見れば、自然の猛威と悪政のために図らずも命を落とした無名の人々の、これは墓銘碑でもあります。

五百羅漢を見終わり、ホテルへ向かう途中、「でんでら野」へ寄った。

「でんでら野」は、いわば「姥捨て山」遠野版。

 縄文時代の竪穴式住居に似た円錐形の藁小屋が、ススキに囲まれてポツンと建っている。

傍らの説明版には

六十歳になった老人を捨てた野で、老人たちは日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな食料を得て野の小屋に帰り、寄り添うように暮らしながら生命の果てるのを静かに待ったと伝えられています。かっての山村の悲しい習いをうかがわせます。」

 当然、『遠野物語』にも紹介されている。

渕村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず連台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。その為に今も山口土淵辺いては朝に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。」(『遠野物語111葉』

 「でんでら野」は「蓮台野」のなまりであることが分かる。

「蓮台野」は、京都の風葬地。

墓場のでんでら野へ帰るから「ハカアガリ」とは、なんと悲しい言葉だろうか。

小屋に入ってみる。

真ん中のいろりを囲むようにベンチが張り巡らされている。

一人ではなく何人かが寝泊りしていたものだろうか。

歴史上のことだとばかり思いこんでいたので、こうして姥捨ての風習を形として見るとショックだが、飢饉による餓死者の供養塔ともいうべき五百羅漢を見てきたばかりで、間引きという子殺し、でんでら野という姥捨ては、不作、凶作、飢饉相次ぐ遠野では、生産年齢の者たちが生きてゆくのに不可欠な手段だったのではないか、と素直に肯定してしまいそうな自分がいて、怖い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


124伊勢路の石仏-2(金剛證寺)

2016-07-07 06:07:18 | 羅漢

午前9時。

伊勢志摩スカイラインを金剛證寺へ向けて走る。

対向車は皆無。

頂上の展望台の下方に寺はあった。

寺は、臨済宗勝峰山兜率院金剛證寺と号し、6世紀半ばの創建。

空海が中興したとも伝えられ、当初は真言宗寺院だった。

伊勢神宮の北東に位置し、伊勢神宮の鬼門を守る寺として名を馳せ、お伊勢参りの後当寺へ向かうのが定番コースとなった。

「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」と、伊勢音頭にあるほど。

「朝熊」は「あさま」と呼び、金剛證寺のある朝熊山を指す。

仁王門をくぐって境内へ。

「左さんけい道」なる道標が立っている。

その背後の池には、ハスの花が咲いている。

池の名は「連珠池」。

弘法大師が掘ったとの伝説があるそうな。

連珠池に掛かる太鼓橋は、結界を意味し、橋の向こうのお堂には、雨宝童子がおわす。

説明板には、こうある。

雨宝堂
 池の向こう岸(彼岸)にたつ御堂は、神仏習合思想の神像雨宝童子尊を祀る。この神像は、大日如来の化身である天照大神が日向の国(宮崎県)に降り立った十六歳の御姿を、弘法大師が感得して刻まれたと言い伝えられ、国の重文である」。

「大日如来の化身である天照大神」は、両部神道思想を反映したもの。

両部神道は、密教の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想。密教では、宇宙は大日如来の顕現であるとする。それは大日如来を中心にした金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の儀軌として表現されている。この金剛界と胎蔵界の両部の曼荼羅に描かれた仏菩薩を本地とし、日本の神々を垂迹として解釈した。
両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日如来であるとする。内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした」。(Wikipediaより)

伊勢神宮に関係する寺どころか、天照大神の本地はここの大日如来だとふんぞり返った感じがするが、今や禅寺となって、大日如来のお姿を見ることはない。

地蔵堂の前に一石六地蔵があるので、近寄って見る。

単なる一石六地蔵ではなく、「重軽地蔵」だった。

説明板の説明は、こうだ。

厄除け六地蔵尊(重軽地蔵尊)
 まず、お地蔵さまを持ちあげて静かに置きます。次に左へ三回まわしながら、ご真言を三回、オンカカビサンマエイソワカを唱えます。祈念のあと再度お地蔵さまを持ちあげてください。最初より軽く感じましたら、お願い事をお聞きとどけてくださいましたことになります」。

腰痛治癒を願って持ちあげた同行者は、危うく腰痛を再発するところだった。

地蔵堂の右隣に、木製の彫刻物がある。

蓮の花と葉で造った「蓮華庚申」との説明されている。

下部の三猿は分かるが、その上部は何度見てもさっぱり不可解。

そもそも、蓮の花と葉で庚申を造る必要性が分からないのだから、無理もない。

連珠池に面して、三重塔と五重塔が立っている。

銅製の三重塔には大日如来が安置せられ、元禄四年(1691)武州江戸神明前幸田元精の発願により一部の神宮関係の人達によって建設され開眼供養の時には、神官達も法会に参加したといわれています。(ブログ「神旅 仏旅 むすび旅」よりhttp://ameblo.jp/taishi6764/entry-11934156225.html

なぜか、仏足石もある。

立派な覆屋の中にあって、説明板には「日本最古、奈良薬師寺の仏足石の模刻」とある。

仏足石の奥に立つ石碑は、薬師寺の仏足跡歌碑(国宝)の模刻。

仏賛歌の歌3首が、万葉仮名で刻されている。

勿論私に読み取る能力はないので、Wikipediaから引用しておきます。

 歌1番の原文

 美阿止都久留 伊志乃比鼻伎波 阿米尓伊多利 都知佐閇由須礼 知々波々賀多米尓 毛呂比止 乃多米尓

1番の読み方

御跡(みあと)作(つく)る 石(いし)の響(ひび)きは 天(あめ)に到(いた)り 地(つち)さへ揺(ゆ)すれ 父母(ちちはは)がために 諸人(もろひと)の為(ため)に

1番の大意

父母のために、また衆生のために仏足跡を刻むその石の響きは天地を震い、諸天諸仏も感応あれと祈ろう

2番の原文

弥蘇知阿麻利 布多都乃加多知 夜蘇久佐等 曾太礼留比止乃 布美志阿止々己呂 麻礼尓母阿留可毛

2番の読み方

三十(みそち)余(あま)り 二(ふた)つの相(かたち) 八十(やそ)種(くさ)と 具足(そだ)れる人(ひと)の 踏(ふ)みし跡処(あとどころ) 希(まれ)にも有(あ)るかも

2番の大意

三十二相八十種好が具わった人(釈迦)の踏んだ跡は、たいへん珍しく、ありがたいものである。

17番の原文

於保美阿止乎 美尓久留比止 伊尓志加多 知与乃都美佐閇 保呂止曾伊布 乃曾久止叙伎久

17番の読み方

大(おほ)御跡(みあと)を 見(み)に来(く)る人(ひと)の 去(い)にし方(かた) 千歳(ちよ)の罪(つみ)さへ 滅(ほろ)ぶとぞ言(い)ふ 除(のぞ)くとぞ聞(き)く

17番の大意

一たび仏足跡を拝めば、過去千歳の罪も消滅するのである。(Wikipedia「仏足跡歌碑」より」)

仏像が彫られる前、釈迦を偲ぶものとして仏足石は敬われた。

紀元前の仏教遺跡が点在するスリランカで、仏足跡をよく見かけたのを思い出す。

それにしても「一たび仏足石を拝めば、過去千歳の罪も消滅する」とは、凄い。

オーバーな表現は万葉の時代からあったんだと、今も昔も人間は変わらないなあと、つくづく思うのです。

このオーバーな表現には、石段を上がった本堂前でも出会います。

頭上に大黒様を戴いた「福丑」の説明は「一度この福丑に触れれば、心清く意志堅固となり、福徳智慧増進し、身体健康の御利益が授けられます」。

わずか数十m、仏足石を拝み、福丑に触れれば、千年の罪を逃れ、福徳智慧が増し、健康になるというのだから、言うことなし。

念仏修行もせず、寺への寄進をしなくてもOKなのだから、これほどの易行はない。

怠惰だが信じやすい人には、是非、お勧めです。

ちなみに「福丑」の対面には「智慧寅」がいて、こちらは「慈愛と威徳」をお授け下さいます。

今、本堂の写真を何気なく見ていたら、天水桶に葵の御紋らしきものがあるのに気付いた。

アップにしてみる。

確かに葵の御紋。

Wikipediaによれば、「元禄14年(1701)、綱吉の母桂昌院により、本堂は修復された」とあるから、その関係かもしれない。

瓦や暖簾、各所に御紋はあるそうだが、知らなかったので、写真を撮らなかった。

偶然写っていた天水桶の一枚だけです。

*次回の更新は、7月13日です。

 

 

 

 

 


37 佐渡の石工の五百羅漢(富山・長慶寺)

2012-08-16 05:52:15 | 羅漢

NO14-16「佐渡相川の石造物」やNO33「よし子地蔵」でも書いたことですが、私の田舎は佐渡島です。

加齢とともに望郷の念は募るばかりで、「佐渡」という文字や言葉に過剰反応する自分に驚いてしまうほどです。

ですから、今年の夏、富山市の長慶寺を訪ねたのは、私としては至極当然なことでした。

長慶寺の五百羅漢は佐渡の石工の手になるもの、と聞いていたからです。

長慶寺は富山市の西部、富山駅から神通川を渡ると眼前に聳える呉羽山の北のはずれにあります。

現在は曹洞宗ですが、もともとは真言宗で、良弁開基と伝えられています。

参道を行くと右の崖下に墓地、墓地の向こうに広がる市街の先には立山連峰が望めます。

本堂はこの墓地と市街を見下ろす形でどっしりと構え、その左の石段の先の急斜面に五百羅漢はおわすのですが、境内からその姿を見ることはできません。

                                                              長慶寺本堂

石段を上る。

石段の両側に羅漢さまが整然と並んで姿を現します。

一体につき一塔の灯籠がついているのが、長慶寺五百羅漢の特徴。

完成してから150年、羅漢さまも灯篭も崩れかけたものが目立ちます。

完成してから150年と書きましたが、正確に言うと安政5年(1858)からですから、154年。

五百羅漢造立計画が始まったのが、寛政10年(1798)ですから、60年の大事業でした。

だから最も古い羅漢さまは214年の歳月、風雪に耐え、ここに座していたことになります。

その最古の羅漢さまが、最下段、最前列の左端から一番、二番と並んでいます。

           十六羅漢

しかし、これは五百羅漢ではありません。

十六羅漢なのです。

     十六羅漢第2番                    第3番

五百羅漢と十六羅漢の違いは、釈迦の弟子でより高位にあるのが、十六羅漢と言えるでしょう。

問題はこの十六羅漢の施主。

16体のうち14体までが、黒牧屋善次郎という富山の北前船商人の寄進によるものでした。

五百羅漢造立計画は、寛政10年(1798)、長慶寺三世雲外悦峰大和尚の「五百阿羅漢造立募縁之序」なる勧請文によりスタートしました。

 五百阿羅漢造立募縁之序

勧請文を広く配布し、信者に石仏の寄進を訴えたのです。

一体につき1両の高額寄進でした。

それにいち早く呼応したのが、黒牧屋善次郎です。

彼は長慶寺裏山の自分の持山にまず十六羅漢を安置します。

仲間の米穀商志浦屋新四朗、井沢屋八兵衛も一体ずつ受持ちました。

黒牧屋善次郎は、長慶寺五百羅漢のメイン施主であり、渉外、広報、営業担当でもありました。

長慶寺五百羅漢で特筆すべきは、全石仏の「施主名簿」が゛残っていること。

その施主名簿によれば、その大半は、越中国内の信者で、職業別では、商人をトップに、農民、薬売り、武士、僧侶、船頭、医師となっています。

国外は1割未満ですが、北は松前、東は江戸、西は伯耆、南は薩摩と全国的な広がりを見せています。

これは黒牧屋善次郎が北前船商人であったことと無縁ではないでしょう。

再び、最前列の十六羅漢に話を戻します。

 

 十六羅漢第一番賓度羅跋羅随闍尊者

第一の石仏本体の刻文は

「西瞿蛇尼洲中(せいくだにしう)
 賓度羅跋羅随闍尊者(びんどらばらだしゃ)
 佐羽茂郡松尾村 佛師義啓作」

そして、その台石には

「施主、家山」と彫ってあります。

ちなみに「家山」というのは、黒牧屋善次郎の戒名『家山傳盛居士』の法号です。

 家山こと黒牧屋善次郎の絵

長慶寺の五百羅漢は佐渡の石工が彫ったもの、という話はこの本体の刻文に因るものです。

実は、松尾村という村は、佐渡にはありません。

石工の村としては、小泊と椿尾があるので、多分、椿尾村の間違いでしょう。

問題は、佛師義啓。

五百羅漢の製作を依頼されるのですから、佐渡でも有名な腕の立つ石工であるはずです。

しかし、佐渡では、義啓の石工名は一切記録されていません。

佐渡の石工名の調査としては「佐渡島の石工在銘資料ー江戸時代ー」計良勝範(『日本の石仏』104号2002年)があります。

島内の石仏、石造物に在銘する石工名を皆悉調査した計良氏の労作ですが、ここにも義啓の名前は見られません。

計良氏は「義啓」を「美啓」と読みとっていますが、「美啓」でも見当たらないのは同様です。

電話で計良氏に問い合わせましたが、長慶寺五百羅漢を彫った佐渡の石工は誰か解らないというのが結論でした。

では、佐渡の石工製作はなかったのでしょうか。

そう断定するのも早計でしょう。

『佐渡志』には「小泊椿尾両村の石工は、石仏をつくることに巧みにして北陸七州と羽州の海浜村里までも彼像至らざる所なし」とあるように、石仏は佐渡の輸出産品の一つでした。

佐渡・赤泊郷土資料館(小木港から積み出した物として石仏が展示されている)

北前船を有する米穀商の黒牧屋善次郎が北海道に米を運び、その帰りに佐渡の小木港に寄って、石仏を乗せて富山へ帰ったことは十分ありうることだからです。

金北山神社に奉納された北前船の絵馬(佐渡・赤泊郷土資料館)

千石船の他にも地方(じかた)船と呼ばれる小型船が、氷見、伏木、岩瀬、魚津などの港から佐渡へと頻繁に往来していました。

越佐海峡を往来した最後の和船(佐渡・小木海運資料館)

富山と佐渡の距離感は、現代人より江戸時代の人たちのほうが圧倒的に短かったに違いありません。

正に一衣帯水だったのです。

重機やトラックがない時代、重い石仏を長距離輸送をするのなら船で、というのは常識でした。

重い石仏を「わざわざ」佐渡から取り寄せるのではなく、「手軽に」佐渡から運ぶ感覚だったはずです。

千石船で岩瀬港に着いた石仏は小舟で神通川を遡り、しかるべき地点で下ろされて、馬車、牛車で呉羽山まで運ばれました。

 

「長慶寺五百羅漢は佐渡産」を補足する資料がもう一点あります。

珍しいことに五百羅漢の原画ともいうべき図帳が残されているのですが、その画家は佐渡の尼僧だというのです。

  五百羅漢図帳から

しかも、尼さんはもともとは小木湊の遊郭の遊女で、五百羅漢の像は、彼女の昔馴染みの客の似顔絵をもとに彫られたと伝えられています。

小木湊の遊郭の客と云えば、北前船の船乗りたちでしょう。

   佐渡・小木港                         小木遊郭跡地

「板こ一枚下は地獄」の、命をかけた厳しい顔もあれば、緊張の毎日から解放されてほっと安堵の安らぎの顔もあるように思えます。

遊女と五百羅漢と云えば、西鶴の『好色一代女』の主人公は、天性の美貌と優美な肉体を武器に、幾多の、売春を目的とする職業を遍歴し、老境に至ります。

性の情欲が遠のいて生への執着を残す彼女は大雲寺をを訪れ、羅漢さまを眺めながら、過去の男性遍歴を思い出して反省し、解脱するという筋書きです。

かたや男性遍歴を思い出して反省し、かたや思い出して羅漢像を描く、似て非なる両者のありようです。

 

最後に富山県ならではの話。

明治維新時の廃仏毀釈は仏教界に大きな損失を与えましたが、中でも富山県は鹿児島県と並んで、行きすぎた廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた場所として知られています。

長慶寺の本尊は「桜谷大仏」と呼ばれる大仏でしたが、廃仏毀釈で打ち壊され、現在その頭部だけが残されています。

   本尊・桜谷大仏の頭( HP「珍寺大道場」より借用)

五百羅漢も無事ではありませんでした。

呉羽山の登山道の両脇に置かれていた五百羅漢は悉く倒され、そのまま放置されていました。

倒れた石仏に落ち葉が降りかかり、落ち葉は腐葉土になって、やがて羅漢は土に埋もれてしまいます。

これを憂えた長慶寺二十世清水泰慧禅師が羅漢修復運動を起こします。

廃仏毀釈から60年後の昭和2年のことでした。

埋もれ、壊されていた羅漢は全部、発掘、修理され、造成された現在地に移転、安置されました。

急斜面に設定された段は七段、中央の石段から両側に羅漢さんは整然と並んでいます。

最下段、最前列には左から十六羅漢、十大弟子と並んでいますが、五百羅漢は、これとは逆に、最上段の右端から一番、二番と左へ進み、左端で一段下がって、そのまま右へ番号数字が大きくなって行きます。

 

 

世の中には奇特な人もいるもので、「長慶寺五百羅漢尊者施主名簿」を手に150年後の子孫たちを訪ねる旅に出た人がいます。

奇特な人の名は、館森英夫さん。

その報告書(平成2年刊)によれば、姓名が判明している施主423人のうち63%の267人の子孫が確認されたのでした。

富山県の地方銀行の頭取、商工会会長、地方政治家、学者など各界の重鎮も少なくありません。

館森さんの調査網は全国的で、当然、佐渡へも足を延ばしています。

どうやら石工の村椿尾へも行ったらしいのですが、佛師義啓についての記述はありません。

施主名簿には、佐渡から二人の名前がありますが、当然、二人についても調べています。

「柳屋傳五右衛門 羅漢番号320 佐州小木港。寛文年中より町年寄、船問屋。天保九年巡見使石尾織部の本陣賄い掛。同年国中総代善兵衛の農民一揆により打ち壊される。」

「山城屋勘十郎内 羅漢番号420 佐渡国新穂町。元禄二年大宮二宮拝殿建立の棟札に『新穂村名主 山城勘ケ由左衛門』と記す。」

 『佐渡志』によれば、佐渡の石仏は「北陸七州(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡)と羽州の海浜村里まで」行き渡っていたことになります。

多分、北海道にも運ばれているはずです。

現地調査をしてみたい、という思いは強いのですが、もはや70代半ば、果たしてどうなることやら。

石仏に興味を持ち始めたのがわずか3年前、せめて60代前半だったらと悔やまれてなりません。

と、愚痴って、今回は、ジ エンド。