石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

105 あの地蔵尊は今(三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』豊島区編)

2015-06-16 05:44:28 | 地蔵菩薩

「三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今」から「あの地蔵尊は今」へ。

タイトルを変えたが、内容は変わらない。

名著『武蔵野の地蔵尊・都内編 昭和47年』の地蔵を訪ねて、その現状を報告しようという内容。

このシリーズの1回目(NO90・http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=d62f6d4b2172ad9afd6adc3d0c6a6a8f&p=1&disp=30)で、その趣旨を私は次のように書いている。

「石仏だから自然消滅はしないだろうが、40年の年月のなかで、環境が変わり、場所が移動したり、一部が破損したりしているものもあるだろう、そんな近況を付け加えるのも、有意義なことのように思える。思いもしない由来と名前の、いろんな地蔵に会えるのも楽しみだ。」

文京、新宿、板橋、北、荒川区と回って、今回は豊島区。

◇一如地蔵/雑司ヶ谷墓地内法務省墓地(豊島区南池袋4)

雑司ヶ谷霊園事務所の後方に法務省専用の墓地があり、一如地蔵はそこにおわすが、フエンスがあって後姿しか拝めない。

一如地蔵は、市ヶ谷刑務所で死刑に処せられた290名の菩提を弔うため、市ヶ谷刑務所の廃止後、ここに建立された地蔵です。

その事由を書いた石柱が地蔵の傍らにあるが、これも見えるのは背面だけで、肝心の事由は読めない。

従って、『武蔵野の地蔵尊・都内編』から書き写しておく。

一如地蔵尊建立記
 自明寺38年5月至昭和12年5月、32年間於東京市牛込市谷富久町60番地所在市ヶ谷刑務所受刑死者290名之多哀矣哉乃胥謀奉地蔵尊一躯立詣干此地名一如地蔵尊法界総是四恩六道誰非仏子伏願乗彼悲願運此☐魂

 市ヶ谷刑務所の跡地は、自衛隊市ヶ谷駐屯地となっています。

◇地蔵六面搭/雑司ヶ谷墓地(豊島区南池袋4)

雑司ヶ谷墓地管理事務所の入口近くに巨大な石碑が立っている。

「深川共葬墓地合葬之墓」と刻されている。

旧深川区の共同墓地が移転することになり、遺骨をひとまとめにして火葬し、ここ雑司ヶ谷に改葬した。

石碑の隣の半球状の塚が、その合葬塚。

大正11年1月に築かれた旨の刻字がある。

三吉老が注目するのは、その合葬塚の横におわす地蔵六面幢。

天蓋は四角形、蓮台なく短躯の立姿六尊を浮彫りする。そのうち一体は鼓と撥をもち、一体は鐃をもつ異形の塔である。造立年代不明」。

地蔵六面体の横に小さな地蔵墓標が3基、これも深川から移転してきたものだろうか。

うち一体には「寛保元年四月九日」とある。

江戸時代の墓地を旧深川区が引き継いでいたようだ。

 ◇お茶あがれ地蔵/路傍(豊島区上池袋3-18)

東武東上線北池袋駅の東方100mの路傍に名ばかりの辻堂が立っている、との記事にしたがって東へ歩くが、100mを過ぎてもそれらしき堂は見当たらない。

なにしろ半世紀前の記事、変転極まりない東京にあって、石仏が、とりわけ路傍の石仏が記事通りに変わらず存在すること自体が稀有なこと、なくなっていても不思議ではない。。

200mほど歩いて向こうに交番が見えてきた。

交番で訊いて分からなかったら諦めようと思っていたら、なんと交番の手前にお堂はあった。

三吉老は「名ばかりの(みすぼらしい)辻堂」と書いているが、小さいがコンクリート造りのがっしりしたお堂になっている。

コンクリートで改築したようだ。

掃除もされて、造花ではあるが、花も供えられている。

堂内には、90㎝ばかりの地蔵立像と笠付石柱が在す。

どうやら石仏が「お茶あがれ地蔵」らしいが、豊島区の有形文化財に指定されているのは、笠付石柱の文字庚申塔。

宝永元年(1704)建立で、正面に「奉供養庚申石塔息災祈所」と刻されている。

「お茶あがれ地蔵」の由来については、豊島区教育委員会の説明板では「江戸時代に結婚を阻まれ病死した女性の供養のために建立」と簡単な説明だが、三吉さんの『武蔵野の地蔵尊(都内編)』では、もう一つの説話を紹介している。

元禄年間、借金に苦しんだ板橋の宿場女郎が夜逃げをした。池袋村まで来たが、それ以上歩けなくなり、農家の戸を叩いた。女郎はお茶を、お茶を、と二言、三言云ったが、農家ではどうすることもできず、ついに女は死んでしまった。その後、毎晩、女の死んだ時刻になると、お茶を、お茶をという声が聞こえるようになり、恐れおののいた村人たちは地蔵を造って女の冥福を祈った」。

三吉老の記事では「堂内に2基の丸彫り地蔵が安置してある。うち1基には庚申と彫ってあり、残る1基は女郎供養のお茶あがれ地蔵である。」と書いてある。

はて、さて、これは困ったことになった。

何がこまったか、というと三吉老が「堂内には2基の丸彫り地蔵がある」と書いているのに、堂内には、丸彫り地蔵は1躯のみ、残りは庚申塔ではあるが、地蔵庚申塔ではなく、文字庚申塔があるだけ。

三吉さんが現場を見ないで書いたとは信じがたい。

と、なると庚申と彫った丸彫り地蔵は何らかの理由で撤去され、代わりに文字庚申塔が持ち込まれたことになる。

しかし、そうした由緒あやしき石造物を豊島区が有形文化財に指定するだろうか。

疑問だらけの、お茶あがれ地蔵堂なのでした。

 

◇高尾地蔵/西方寺(豊島区西巣鴨4-8)

高尾とは、吉原の遊女・二代目万治高尾太夫のこと。

高尾地蔵については、当ブログNO17「シリーズ東京の寺町①―豊島区西巣鴨その1-」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/4044a88502b87ae8fcafad5fb01c77c2

をご覧いただきたい。

その際、書き落としたことがあるので、それを付け加えておきます。

高尾地蔵の前に、顔と前足の一部を欠いた動物がいます。

猫です。

頭の横に上げた左前足があれば、招き猫とすぐ分かるのですが、肝心の前足がないので、甚だ分かりにくい。

この猫、もともとは西方寺正門の壁の上にありました。

石門は南面し、一柱に招き猫の像を安置する」(『武蔵野の地蔵尊・都内編』より)

   HP「ねこれくと」より無断借用

ネット検索でみると2002年には壁の上にあったものが、2005年には高尾地蔵の前に移されているようです。

移さざるを得ない事情は何だったか、気になります。

この招き猫は、寺が日本堤からここ西巣鴨へ移転してきた時、一緒に移ってきたものでした。

浄閑寺と並んで、投げ込み寺と呼ばれた西方寺ですから、当然、この猫にも遊女がらみの伝説があります。

三浦屋の抱え娼妓のうちに猫を可愛がっていた一人がいた。或る日、不浄に入ろうとしたところ、日ごろ可愛がっていた猫が着物の裾をくわえてなかなか内に入れさせない。扉をあけてむりに中にはいってみたら、一匹の蛇がいて遊女にとびかかろうとする。猫は躍って蛇を食い殺した。」(『武蔵野の地蔵尊・都内編』より

◇燈籠地蔵/善養寺(豊島区西巣鴨4-8)

本堂の左、墓地への道に道標があり「元下谷坂本町善養寺道」と読める。

明治41年、下谷から現在地へ移転してきた。

「寺は太平洋戦争の戦禍をまぬがれ、多数の寺宝を所蔵する。
 地獄曼荼羅 木彫派風地蔵 六地蔵碑 燈籠地蔵二 地蔵掛け軸三副
 このほか、墓地には緒方乾山墓、新門辰五郎先祖代々墓、八万四千体地蔵のうちの4基などがある。」(『武蔵野の地蔵尊・都内編』より)

 2基の燈籠地蔵のうち1基は、新門辰五郎の実家町田家墓地の一隅にあることを確認できたが、もう1基(六態の地蔵尊が彫りつけてあり、火袋は八面にして灯明可能)がどうしても見つけられない。

庫裏の呼び鈴を押したら、住職が出てきた。

趣旨をあかし、場所を問うたら「あがれ」との無言の所作。

ついて行くと庫裏の中庭の一隅を指して「あれがそう」と云う。

外からはまるで見えないので、これではいくら探しても見当たらないわけだ。

三吉老によれば、三韓(新羅、百済、高句麗)渡来の燈籠だそうだから年代ものということになる。

その傍らに寛永寺の寄進燈籠も1基見える。

寄進燈籠マニアは、ここに1基あることを知っているのだろうか。

境内にある八万四千体地蔵のうち4基については、当ブログNO8「八万四千体地蔵」

http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/feb66aaf533d9d82f5cd67bfede1bbe4

 をご覧ください。

4年前、ブログなるものを始めたばかりの作品で、久しぶりに読み返してみて感慨深いものがあった。

境内には「茶筅塚」なる珍しい石碑もある。

「緒方乾山の墓があるので茶道関係者が建てたもの」とは住職の弁。

傍らに「有難や茶碗たのしみ一生を道の教えで我ら極楽」の碑もある。

もう一度、新門辰五郎に話を戻すと、善養寺墓地にある町田家の墓は、辰五郎の実家の墓で、彼自身の墓は善養寺の裏隣りの盛雲寺にある。

盛雲寺もまた善養寺と同じく、明治41年、上野下谷から移転してきた寺です。

当ブログNO17「シリーズ東京の寺町①―豊島区西巣鴨その1-」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/4044a88502b87ae8fcafad5fb01c77c2

 でも書いたことだが、私自身は新門辰五郎について全く知識がない。

三吉老の筆になる新門辰五郎小伝は次の通り。

けだし、辰五郎は江戸末期における侠客の一人であり、浅草消防の組頭でもあり、三千人の子分がいたという。齢七十歳のときに、戊辰の役に彰義隊にくみして官軍に抗し、また弘化の大火には佃島の油庫を守って焼失からまぬかれさせたという逸話がある」。

 南千住の円通寺には、彰義隊の墓標群があるが、その中に新門辰五郎の名を刻む碑もある。

◇江戸六地蔵/真性寺(豊島区巣鴨3-2)

江戸六地蔵とは、宝永から享保にかけて江戸の出入口六か所に造られた銅製地蔵菩薩坐像のこと。

言い出しっぺは深川の坊主、地蔵坊正元。

地蔵祈願で病が治癒したことから篤く地蔵を信仰するようになった正元は、六地蔵建立を発願し、江戸市中から浄財を集め、実現させた。

記録に残る寄進者数は、7万2000人。

真性寺の地蔵は、中山道に面していて、江戸六地蔵の第4番にあたる。

ちなみに、1番は品川寺(東海道)品川区南品川3

2番 東禅寺(奥州街道)台東区東浅草2

3番 太宗寺(甲州街道)新宿区新宿2

5番 霊厳寺(水戸街道)江東区白河1

6番 永代寺(千葉街道)江東区富岡1 は、廃仏毀釈で廃棄、残っていない。

 

参拝者の数は、圧倒的に巣鴨・真性寺に軍配があがるようだ。

とげぬき地蔵への参詣客で、ついでに江戸六地蔵をお参りしようという者が跡をたたない。

いつも線香の煙がたえないようだ。

突然話が変わって恐縮だが、私の田舎は佐渡。

佐渡ではいまも百万遍念仏が行われている地区がある。

大勢で大数珠を繰りまわしながら念仏を唱える光景は、佐渡の新春の風物詩です。

その百万遍念仏が、ここ真性寺では、今も毎年6月24日に行われている。

江戸六地蔵の脇に立つ「陰光地蔵尊」の文字碑は、この百万遍念仏に関わるもの。

長文の碑の刻文を要約すると「天保10年から大正10年までの80年間、父が50年、息子が30年、一度も休むことなく百万遍念仏の音頭取りを続けてこられたのは、ひとえにお地蔵さんのお蔭」と感謝の念が書いてある。

これもまた地蔵信仰の一つなのです。

◇一石六地蔵/西福寺(豊島区駒込6-11)

通用門を入って右側に西面して高さ1.6m、舟形光背の面に、円頂、立姿六態の地蔵を一列に浮彫りした一碑が建つ。明暦元年の造立で施主は10人」。

確かに西面して一石六地蔵があるが、無縁塔の前列の横にあるので、まるで無縁仏のようだ。

この碑の面白さは、その像容や彫技にあるのではない。

高さと像容が極めて酷似したものが練馬区の寺にあるので、それが面白い。

造立も明暦元年と同じなので、同一石工の作品ではないかと云われている。

練馬区の寺は、金乗院 (練馬区錦2)。

境内の一石六地蔵の写真がこれ。

アップにすれば比べやすいかもしれないので・・・

        西福寺

       金乗院

 こうして比べてみると雰囲気は似ているが、像容は、かなり違うようだ。

三吉老は、同一石工の作と断じているが。

◇十二地蔵碑/路傍(豊島区駒込5-4染井墓地入口近く)

実は、西福寺と金乗院の一石六地蔵に雰囲気の似た地蔵碑が染井墓地入口近くにある。

雰囲気は似ているが、ただしこちらは二段二列に二組の六地蔵が刻されている。

六地蔵を二倍にすれば、御利益や効能も倍加するというのだろうか。

珍しいので、これ1基だけかと思ったら、埼玉県幸手町の路傍に一面3体、四面12体の地蔵幢があると三吉老は云う。

近いうちに幸手市まで探しに行くつもり。

 

 

 

 


94 愛知県半田市亀崎の鬼門地蔵

2015-01-01 07:51:15 | 地蔵菩薩

新年おめでとうございます。

新年用企画が、諸事情でボツになったので、1月16日、up予定の鬼門地蔵に変更しました。

本年もよろしくお願いします。

 

現代は情報化社会。

過剰な情報に埋もれて、私たちは、その取捨選択に追われる毎日です。

だから「初めて知る」事柄も、既に流布していたのに、こちらがそれを知らなかったケースが大半です。

しかし、中には、情報が発信されず、誰も知らないことも、たまに、あります。

愛知県半田市亀崎の鬼門地蔵は,さしずめ、その典型例でしょう。

 鬼門地蔵(半田市亀崎)
「吉岡たすく『野の仏紀行』(佼成出版社)平成2年」より無断借用

『日本石仏事典』や『日本石仏図典』にも載っていません。

現代日本の石仏の運命と同様に、鬼門地蔵もその数を減らしつつありますが、それでも地域に根付く独特な文化、習俗と見なすに十分な数が残っています。

私は、たまたま、「吉岡たすく『野の仏紀行』(佼成出版社)平成2年」で、鬼門地蔵の存在を知りましたが、半田市民が地元の誇るべき文化として鬼門地蔵を全国レベルのメディアに紹介してこなかったことが、誰も知らない最大要因として挙げられるのではないでしょうか。

 

鬼門とは、北東の方位を指し、陰陽道では、鬼が出入りするので忌むべき方角とされます。

平安京では、京都の東北に当たる比叡山に鬼門除けとして延暦寺を建立し、また、江戸では、江戸城の鬼門である上野に寛永寺を建てたことは、よく知られています。

半田市の鬼門地蔵は、その屋敷版。

「吉岡たすく『野の仏紀行』(佼成出版社)平成2年」より無断借用

個人の家を守り、又は厄除けとして屋敷内の鬼門の方角に、石の地蔵をお祀りするものです。

私が半田市へ行ったのは、2014年12月19日。

名古屋周辺は、前夜の、9年ぶりの大雪で交通網はズタズタ。

予定よりだいぶ遅れての半田市到着でした。

一泊して翌朝降り立ったのが、JR亀崎駅。

余談ですが、明治19年設立のこの駅舎は、日本最古の駅舎だとか。

半田市教委への事前の問い合わせで、鬼門地蔵は、半田市の亀崎と乙川にあること、亀崎の神前神社をスタート地点とするのがいいことなどを、予備知識として得ていました。

亀崎駅から神前神社へ向かいます。

 JR亀崎駅は中央上部、神崎神社は右下隅緑色。

町は、開発から取り残されて、昔の面影を色濃く残す港町。

        神崎神社 

神前神社でUターン、鬼門地蔵探しのスタートです。

 亀崎のメインストリート仲町通り(神前神社前から南方向を見る)

100mも進まないうちに第一小祠発見。

①3階建てビルの鬼門地蔵

亀崎には珍しい3階建てビルの北東の壁に木製の小祠。

小祠の正面の延長線には、神前神社がある。

亀崎の海側の家々の鬼門は、すべて神前神社方向だと思って間違いない。

②宝珠を捧げ持つお地蔵さん

 3階建てビルのそばの2階家。

 

道路に面して小祠が板壁に取り付けられている。

祠の扉は留め金を外せば、簡単に開く。

鬼門地蔵は宝珠を捧げ持つお地蔵さんが多い。

右手に錫杖、左手に宝珠の普遍形ではない。

 

③優しいお顔の地蔵さん

仲町通りに面してもう1基お地蔵さんがある。

 玄関戸にまぎれて見えにくいが、クーラーの右隣、石台に乗って小祠がある。

玄関前の台石に小祠が乗っている。

他所から来た者は、ここにお地蔵さんがいらっしゃるなんて想像もできないだろう。

柔和なお顔のお地蔵さん。

こんな優しそうなのに、鬼の侵入を阻止できるのだろうか。

④壁に取り付けられた小祠

 仲町通りに面してもう1基見つける。

通り側に鬼門があり、家と家との間が離れているので、あればすぐ見つけやすい。

だが、それも終わりのようだ。

 

仲町通りから小路に入り込んで行く。

地元では、狭い路地のことを「せこ」というらしい。

 「せこ」は入り組んでいて、どことなく明治、大正の匂いが漂っている。

紋切り型表現で恥ずかしいが、タイムトリップしたみたい。

 共同で使用していた井戸か。井戸端会議場でもある。

期待が持てそうな気がする。

人がいれば訊く。

だが、「きもんじぞうをご存知ですか」と訊いては、ダメ。

「きもんじぞう」が初耳で、知らない人ばかり。

「ほら、家の壁に小さな祠が取り付けられていて、中にお地蔵さんがいる・・・」と説明するとうなずく人もいる。

老人が多い。

うなずくから「この近くでどこかありませんか」と聞くと、とたんに口ごもってしまう。

「子供の頃、あの家にはあったけど・・・」と返事が過去形になって、結局、収穫はゼロ。

 

5 裏鬼門地蔵

 どこをどう歩き回ったのか、海側の比較的新しい家の壁際に祠を発見。

でも、どこか違和感がある。

祠のある場所が、鬼門ではないから、変な感じがするのだ。

家に向かって右の奥が鬼門だから、本来、ここにあるべきではないことになる。

と、現場では思ったのだが、帰宅後調べたら、裏鬼門も忌むべき方位であることが分かった。

さしずめ、これは裏鬼門地蔵と云うべきか。

 

6 地元石工制作の地蔵

 狭い「せこ」に車が入り込んでくる。

車体に「介護」の文字。

車が止まったと思ったら、家から杖をついた老人が身体を支えられながら出てきた。

壁に鬼門地蔵がある。

 

撮影していいか、尋ねたら、

「家を改築したとき、こんなもんやめようと皆んな云ったけど、元のように取り付けたんですよ」。

そんな言葉を残して、車は立ち去った。

ご老人の娘さんか、嫁さんか、少し若い、これも年配のご婦人が話の相手をしてくれる。

地蔵石仏は、地元亀崎の石工の制作したものという。

 

教えてくれた場所を訪ねたが、場所を聞き間違えたのか、石工の店には行き着けなかった。

彩色石仏だが、口紅を除いて墨の濃淡がベース、シックな装いだ。

お地蔵さんの足元を包む座布団に信仰心の篤さが見られる。

当然、供花も新しい。

付け加えるならば、亀崎の鬼門地蔵12基を見て回ったが、枯れた供花はどこにもなかった。

いまどき、町ぐるみの信心深さは、特筆すべきことのように思える。

 

あちこち、ぐるぐると「せこ」を歩き回ったが成果はない。

仲町通りに出たら、目の前に「かめとも」の看板。

「観光案内所」らしいので、飛び込んでみる。(*「かめとも」は、町おこしの会のたまり場)

責任者らしい男性が、「鬼門地蔵マップを作ろうとしたんですが、なにしろ個人所有なので、いろいろと問題もあって」と、マップがない事情を話してくれる。

「でも、ちょっと歩けば、すぐ見つかりますよ」と事もなげにいう。

「せこ」を歩き回って来た私としては、そんな「調子のいい」話には簡単には乗れない。

「そんなにどこにもあるのなら、とりあえず一つ紹介してくださいよ」と粘る。

路地を歩き出す彼の後を追う。

「ここは友人の家。子供の頃はあったのに」とか「改築するまでこの家にはあったのに」とかブツブツ言いながら進むが、なかなか祠には行き当たらない。

彼の家にも数年前まではあったらしい。

彼は、「亀崎の鬼門地蔵は170体くらいはある」というが、38年前の半田市史では「今では30軒ほど。昔はこの数倍のお地蔵さまが祀られていた」と記載されている。

どっちが本当なのか。

町おこしのリーダーが、地元の文化財の数を誇張していうのは、当たり前とすれば、市史の30基が実数か。

その後40年近くたったことを考慮すると、今や20基くらいになっていてもおかしくはない。

結局、彼が紹介してくれたのは、「半七地蔵」だった。

 

鬼門地蔵が個人所有の地蔵なのに対して、「半七地蔵」は地域のお地蔵さん。

亀崎には、この他「里地蔵」、「中町地蔵」などがある。

石仏から見た半田市の特徴は、極端な地蔵信仰にある。

石仏の総数は、約2000基。

その約6割は墓地内墓碑や供養塔であり、残りの4割、約800基はそれ以外、つまり個人屋敷や路傍にあることになる。(『半田市史文化財編』1977年)

これらの石仏地蔵は、近世中期以降、特に元禄・宝暦・文化年間に爆発的に造立された。

それは、新田開発、回船業、醸造業が発達し、地域の基幹産業となってゆく時期と同じであった。

住民たちの経済的安定が石造物造立に反映されていることになるが、では、何故、地蔵なのか。

市史執筆者もこの疑問に明確な答えを示してはいない。

「がんらい浄土信仰は宗派を超越して当地では根強く、寒念仏・四遍念仏をはじめ念仏供養塔の類が広く分布し、特に六字名号の文字碑が多いのもその特色である」。

説明になっているような、いないような。

 7 キリスト風地蔵

これまで、仲町通りから海側ばかりを歩いてきたが、今度は山側一体を探すことに。

残雪の「せこ」の片隅に開き戸が開いたまま、寒そうに佇むお地蔵さんを発見。

鬼門地蔵はブルーシートの先、白壁の下にある

近寄って見る。

キリスト様かと見間違うバタ臭いお顔。

とてもお地蔵さんには見えない。

これも地元の石工の作品なのだろうか。

 

8雪の中の鬼門地蔵

亀崎駅からの掘割通り脇に鬼門地蔵がある。

鬼門地蔵だけでも珍しいのに、雪上の鬼門地蔵は、極めて珍しいことになる。

半田市に雪が降ることがめったにないからです。

 

9 家の一部の鬼門地蔵

掘割通りから東光寺方向へ向かう。

典型的な鬼門地蔵がある。

屋敷の鬼門の方角の石垣と柵を一部凹ませ、祠を安置、外からもお参りできるようにしてある。

家を建てる時、鬼門地蔵を念頭において設計されたものと思われる。

そうした家の祠だから、掃除が行き届いていて気持ちいい。

10 鬼門地蔵?辻地蔵

東光寺参道前の道の隅に小堂がある。

中にお地蔵さん。

背後の家の鬼門の方角にあるので、鬼門地蔵のようでもあり、個人所有の堂にしては立派なので、地域の辻地蔵のようでもある。

訊いて確かめたかったが、あいにく人通りがなくて、断念せざるを得なかった。

 『半田市史文化編』の受け売りだが、こと石仏に限って見ると、亀崎地区は全国でも珍しい地域だという。

     仲町地蔵(地域の辻地蔵)

何が珍しいかというと、地蔵ばかりで、観音がないこと。

観音様が少ないのではない。

ないのです。

阿弥陀如来8、地蔵142、観音0、弘法大師2、行者1 計153

以上の数字は、亀崎の寺境内と墓地、堂、路傍、屋敷などの石仏の総て。

観音ばかりか庚申塔も見えない。

「学問的にも注目すべき点」だと『半田市史』は指摘するばかりで、その理由については、触れていない。

東光寺から奥は坂道ばかりのようなので、Uターンして、亀崎7丁目へ。

家の前で掃除をしている私と同年輩の男性に声をかけた。

珍しく鬼門地蔵に詳しい人で、たちどころに2か所の所在地と行き方を教えてくれた。

「鬼門地蔵が少なくなって、亀崎でなくなってしまう。寂しい事だ」と小さい声だが、きっぱりという。

11 キリスト風地蔵の兄弟地蔵

教えられた場所に鬼門地蔵はあった。

庭なのか駐車場なのか、広い空間のその片隅にポツンと佇んでいて、なんとなく侘しい。

お地蔵さんは、ブルーシートの家のキリスト風地蔵とやや似ている感じ。

キリストさまが宝珠を持っていれば、同じ石工の可能性があるが、前掛けがかかっていて分からない。

 

12 亀崎南端の鬼門地蔵

もう一つ、教えてもらった鬼門地蔵は、亀崎町の南端の国道沿いにあった。

位置関係から裏鬼門地蔵かと思われる。

駐車場の一隅に車と並んでいて、何の違和感もない。

伝統的習俗は、地域が近代化されても、どっしり居座って変化になじんでしまうようだ。

これで亀崎の鬼門地蔵探訪は終わり。

2時間半で12基。

多いのか、少ないのか。

もっとあちこち「せこ」を歩き回ってもいいかなと思ったが、乙川にも鬼門地蔵は沢山あると聞いているので、このまま国道を乙川方向に歩いてゆくことに。

13(おまけ)新居町の辻地蔵と鬼門地蔵

亀崎町から新居町に入って、老人夫婦に鬼門地蔵を訊いたら、「あるよ」との答え。

「道路の向こう側の小路をどんどん行きなさい」。

云われた通り進んでゆくとご婦人が迎えてくれた。

どっしりした、真新しい台石の上の地蔵堂は、彼女の家で世話をしている地域地蔵。

木製の台がボロボロになったので、コンクリートで造りなおしたばかりだという。

「30年位前までは、8月の地蔵盆というと子供たちが菓子をもらいに行列した」らしい。

「もっと小さな個人のお地蔵さんもあるよ」と連れて行ってくれたのは、まさに鬼門地蔵。

思いがけない場所に、突如、現れて、鬼門地蔵は探しにくい。

しばらく小路を歩くと、こんな条件のこんな場所にあるはずと予測がつくものだが、鬼門地蔵にはそうした予測は無理のようだ。

ここから1時間ほど歩いて乙川駅へ。

道路際に鬼門地蔵は1点も見つけられなかった。

9時から歩き始めて、12時半。

体力が落ちて、3時間半のウオーキングが限度。

未練を残して名古屋方向への電車に乗った。

 

今回の取材の反省点としては、「厄除けの鬼門地蔵はその役割を果たしているか」を、鬼門地蔵のある家で確かめなかったこと。

何か決定的なミスを犯したようで落ち着かない。

半田市教育委員会にも注文がある。

まず鬼門地蔵マップの作成を急いでほしい。

現状の把握が急務だからです。

このまま放置していたら、早晩消滅することは必至。

では、現状維持の方策はあるか。

新改築して鬼門地蔵を残す家には、補助金をだしたらどうだろうか。

部外者で門外漢の余計なおせっかいですみませんが・・・

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


93 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今(北区・荒川区編)

2014-12-16 06:00:12 | 地蔵菩薩

引き続き、「三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今」の4回目。

今回は、北区、荒川区編。

4回続けて、同一シリーズ。

少し曲がなさすぎるが、最近の、急激な体力減退では仕方ないか、とも思う。

地下鉄の階段は、途中、3度ほど立ち止まって休まないと地上に出られない。

寺社には、石段が多い。

上がらないで引き返すこともある。

平地を歩いていても、ついつい、腰かけてやすんでしまう。

若い時の放埓のつけが回った、と諦めているが、へたり込む自分がなさけない。

70代半ばでこの体たらくのわが身に比べ、三吉さんのなんと壮健だったことか。

『武蔵野の地蔵尊』を著したのは、93歳だったというのだから、驚くばかりだ。

◇六面塔九尊/西音寺(北区中十条3)

山門の外に有蓋、高さ1.3mばかりの六面搭かある。(*ブルー文字は『武蔵野の地蔵尊』からの引用)

各面に立姿の地蔵一尊ずつを浮彫してあるが、地蔵尊の上のところに弥陀と観音、勢至の三尊を三面に一体ずつを浮き彫りにしてある。一塔に弥陀、観音、地蔵をあわせて九尊を浮き彫りにした例は他に例がない。

「武州豊島郡十条村願主浄心、奉造蔵六地蔵大菩薩為有無両縁也」の十五文字を彫る。けだし、弥陀と観音とは後日これを追刻したものであろうか。

 

◇鋳造地蔵と逆卍地蔵/西福寺(北区豊島町2)

 朱色の山門と見上げる高さに坐すカラフルなお釈迦さまが印象的なお寺。

「境内に南面して雨屋の下に、一体の鋳造の座姿地蔵を安置する。この地蔵は、戦火で堂宇焼失のあと、盗難にあったが、重かったためか、本尊は投げ捨てられ、蓮座のみ持ち去られた。蓮第はコンクリートをもってこれに代えた」。P56

蓮台がコンクリートの座姿地蔵を探すが見当たらない。

仕事中の職人さんに訊いてみる。

西福寺出入りの石屋だという。

鋳造座姿地蔵は、なんなく見つかった。

本堂前に坐していらっしゃる。

蓮台がコンクリートではなく、黒御影なので、間違うのも無理はない。

3年ほど前、ここに移転してきたばかりだとは、石屋さんの話。

三吉老が「六地蔵一揃い、六体ともに逆卍が浮彫してある」と指摘する逆卍だが、石屋さんによれば、「ああ、あれは石屋の間違い。意味などなんにもないよ」。

これもまた石屋の話だが、門前の身代わり地蔵も、最近安置したもので、謂れなどあるはずもないと、そっけない。

そう云われて見れば、どこもかしこもピッカピカ、出来立てホヤホヤのお地蔵さんのように見える。

 

◇鎮台戦没者供養地蔵/正光寺(北区岩淵町)

「寺は戦火で全焼し、復興は容易ではない。20数年を経過しても本堂は仮のままであり・・・」P57

三吉老がこれを書いたのは、昭和40年代と思われる。

その後、本堂は復興された。

だが、昭和53年(1978)、ホームレスによる失火でまたまた焼失。

以来、33年間、放置されたまま、寺は野良猫の住まいとなっていた。

それが2010年、法然上人八百年第遠忌を記念して本堂建立に着手、翌2011年完成する。

どこを見ても新しいものばかり。

どこもピカピカ。

お寺は古い感じがないとおごそかさにかける、と思うのは、私ばかりでしょうか。

鎮台戦没者供養地蔵は、山門をくぐるとすぐ左に坐していらっしゃる。

「鎮台」とは、師団のこと(らしい)。

明治29年に造立開眼されたというこの延命鋳造座姿地蔵の台石には、主として近衛第一師団の戦没将兵の名が刻されている。

昭和生まれの私には「鎮台」の意味も曖昧だが、明治15年生まれの三吉さんには、日清戦争は「同時代史」そのもの。

造立の年代は新しいが、記念すべき鋳造の地蔵尊である」と記述にも熱が入る。

◇検校地蔵/城官寺(北区上中里1)

 本郷通りを旧古河庭園から王子方向へ進むと平塚神社が見えてくる。

信号を右折、神社を見ながら進むと右に城官寺の参道が現れる。

城官寺は、その昔、平塚神社の別当寺だった。

城官は、人の名前。

山川城官貞久は、盲人の鍼医で検校。

将軍家光の病平癒を、城官が平塚神明に祈願したら家光の病は癒えた。

それを耳にした家光は、朱印地を平塚明神に与え、自らも参詣した、という言い伝えがある(らしい)。

山門の扁額「平塚山」は、田中角栄元総理の書だとか、おっとこれは蛇足だった。

その山川城官検校の墓が墓地にある。

自信満々、出世意欲に満ちた表情の、地蔵らしからぬ恰幅のいい石仏である。

山門を入って参道の右側に、数基の丸彫り地蔵が立ち、その群塔の東端に、形体がやや異なった一基がある。これは、寺の付近に住む八人家族が一家こぞって焼死したのをあわれんで、近隣の人たちが大正7年に造立したものである」。P57

参道に確かに5基の丸彫り地蔵が立ち並んでいる。

曇天で東が分からない。

向かって左だとすると面白いのに、と思う。

台石に椀状凹みが多数あるからだ。

椀状凹みについては、このブログNO44-45、55、56,58、60を見てほしいが、いつごろあけられたものか、時期が特定できていない。

この地蔵は大正7年造立なのだから、大正年間くらいは穴をあける風習があったことになる。

大発見だ!と一人興奮したのだが、どうやら向かって右から2番目が三吉老の云う「一家八人焼死供養地蔵」だと判明、がっくりと膝を落とす。

隣の台石との間隔が狭くて、全文は読めないのだが、「大正七年」の文字は読み取れるから、これが問題の地蔵と断定して差し支えなさそうだ。

 

◇骨地蔵と吉展地蔵/回向院(荒川区南千住5)

東京都には回向院が2か所ある。一つは江東区両国にあり、もう一つは荒川区旧小塚原にあって、いずれも浄土宗に属す。小塚原とは、刑場のあった原の旧称で、刑場の広さは間口60間、奥行き30間、およそ10万余の罪人が処刑された。無縁となった刑死者の遺骸はこの地に埋められ、無縁供養の巨大地蔵が造立され、骨地蔵と呼ばれた」。

骨地蔵は、首切り地蔵とも呼ばれる。

首切り地蔵については、このブログNO38「コツ通りと首切り地蔵(小塚原刑場跡)」をご覧ください。

「吉展ちゃん誘拐殺人事件」と聞いて、「ああ、あの事件」とすぐ分かる人たちは、60歳以上だろうか。

日本初の報道協定が結ばれ、犯人の声がテレビ、ラジオで公開された。

私は、民放テレビの、騒然たるニュースルームの只中で、新米報道部員として、手を拱いて立ちすくんでいた。

実は、吉展ちゃんは誘拐直後殺害されていて、南千住の円通寺の墓地に投げ捨てられていたのだった。

この吉展ちゃんを供養する地蔵尊が、荒川区には、なぜか、2基ある。

回向院の吉展地蔵は、犯人が捕まり、一件落着した1965年7月から4か月後の11月に造立開眼された。

台石に下記の文がある。

昭和38年3月31日、いたいけない村越吉展ちゃんは台東区入谷町南公園にて突如誘拐され、計り知れない不幸にあう。子を持つ母たちはたとえようもなく、男おんなのへだてなく、あげて魂の消え息つまる思いで明けくれた。ここに有志相図り、地蔵尊を建立す。今の世、のちの世まで、この像をおがむ人は人の命をあやまることなく、生きとし生けるものみなを切にいとしんでほしい。それが吉展ちゃんのこの上ない供養と信ずる」 P98

もう1基の吉展地蔵は、吉展ちゃんの遺体が投げ込まれた円通寺にある。

◇鋳造吉展地蔵/円通寺(荒川区南千住1)

吉展ちゃんの遺体は、犯人の自供によって、円通寺墓地の池田家の墓穴で発見された。

その翌年、円通寺に鋳造吉展地蔵が造立される。

鋳造したのは、島村亮明氏。

島村氏はまだ青年の頃、当寺の境内に石彫りの地蔵尊1基を造立したことがあったが、この鋳造吉展地蔵は、その原型に擬して立姿につくりあげたものである」。P99

 ◇小夜衣地蔵と比翼塚/浄閑寺(荒川区南千住2)

(*この項、後刻、追加)

◇東都六地蔵/浄光寺(荒川区西日暮里3)

 寺は諏訪神社の東に位置する。

その昔、浄光寺が諏訪神社の別当であった頃は、雪見寺と呼ばれ、北方の展望極めて佳、将軍が折々お成りになって景色を嘉せられたという由緒ある寺である。

 『江戸名所図会』。浄光寺は上部右に。境内左下に六地蔵の文字が見える。

寺には八景があった。P102

筑波茂陰 黒髪晴雪 前畔落雁 後岳夜鹿
墨田秋月 利根遠帆 暮荘烟雨 神詞老松

諏訪神社の老松のみ残り、他は消滅した。

下の絵の2本の松がそれ。

松と桜の間の縁台に人が座っているのは、諏訪神社の境内。別当の浄光寺は右にあるのだが、画面の外。画面の下の人たちは、地蔵坂を上がってきたばかり。地蔵坂は今でも残っていて、西日暮里駅のホームのすぐ横を下ると右が駅改札口。

真箇令人忘日暮 遥山近水入眸明
此中八勝雖皆好 我愛後邸聞鹿声(大沼枕山『江戸名勝詩』)

この詩景を味わうこともかなわないのである。

境内左に2基の鋳造地蔵がおわす。

右の立姿地蔵は、東都六地蔵の三番目。

通称江戸六地蔵には、二通りあって、造立年度により、元禄年中のを「始めの六地蔵」、宝永年中のを「後の六地蔵」と区別する。

六つの街道入口に坐すいわゆる「江戸六地蔵」は「後の六地蔵」。

「始めの六地蔵」は「東都六地蔵」と呼ばれるが、第二番の専念寺(文京区千駄木)の地蔵尊を除いて、震災、戦災で全て諸元のものは姿を消した。

東都六地蔵二番「専念寺」の地蔵。

ここ浄光寺を初め、一番瑞泰寺、四番心行寺の地蔵は復刻したもの。

 東都六地蔵一番「瑞泰寺の鋳造地蔵

なお、五番福聚院、六番正智院の東都地蔵は、消失したままです。

東都六地蔵と並んで合掌、座姿の金銅仏を安置する。

この尊像を造立した際、東都六地蔵を修理した。今でも土中からまれに小さい地蔵が発見されることがある。これは東都六地蔵をここに安置した際の護摩の灰というものであって、檀家信徒に配ったときのあまりであるという」。

 浄光寺から東へ100m、富士見坂に出る。

Wikipediaによれば、都内23区の富士見坂は23箇所もある。

富士山が見えるから富士見坂なのだが、この日は見えなかった。

「ちゃんと見えることもあるんですよ」と出窓に写真を張り付けた家がある。

折角だから、その写真をパチリ。

望遠レンズの威力がすごい。

富士見坂を下って左へ行けば、目的の南泉寺はすぐそこ。

◇座姿六地蔵/南泉寺(荒川区西日暮里3)

墓地に丸彫りの座姿六態地蔵を安置してある。

およそ六地蔵という種類の石仏は、寺の入口や墓地の出入り口などに一列、もしくは左右にならべて立っていて、座姿の六態は希少である。東京都にあっては、麹町六丁目の心法寺、墨田区の多聞寺、青梅市二俣尾の慶徳寺、および世田谷の百地蔵などである

なお、当寺の境内には蛙塚がある。

蛙の川を剥いで袋物を作り、これを輸出する業者が蛙供養のために作ったのである

 

◇寿美吉地蔵/路傍(荒川区西日暮里6) 

 『武蔵野の地蔵尊』には、こうある。

田端駅に近く、その東側の旧日暮里3丁目に北面して大きい雨屋が建ち、屋内に巨大な丸彫り、座姿の石地蔵を安置し、その名を寿美吉地蔵と名付ける」。P109

西日暮里駅から、線路の北側を田端駅方向へ。

さして広くもない西日暮里6丁目の小路を行ったり来たり。

何人か老人にも訊いてみるが、誰もそんな地蔵は知らないという返事。

断言はしないが、この40年間で、なくなった可能性が高い。

◇国定忠治地蔵/東源寺(荒川区荒川7)

西日暮里から千代田線で一駅、町屋駅で下車。

駅そばの東源寺を探す。

持参の2004年発行のポケット地図には「東源寺」が載っている。

だが、見つけられない。

交番で訊いてみる。

おまわりさんも首をかしげるばかり。

地図の場所には寺はないとのこと。

もう一度、現場に戻って、同じ住所の家の人に尋ねてみた。

東源寺は、この場所にあったのだという。

門前iにあった国定忠治地蔵がどうなったかは、まったく分からないそうだ。

答えてくれた男性のトラックには、「石材店」の文字。

もしかしたら、東源寺出入りの石屋さんだったのだろうか。

 


92 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今(板橋区編)

2014-12-01 02:47:56 | 地蔵菩薩

 「『武蔵野の地蔵尊』たちは今」シリーズの第3弾。

著者の三吉さんは、私にとっては神様みたいな存在で、本で取り上げている地蔵尊を尋ね歩くだけでも、勉強になると喜んでいます。

今回は、私の居住する板橋区。

三吉さんは、8体の地蔵尊を取り上げていますが、実は、謂れのあるお地蔵さんはもっと多いのです。

当然、三吉さんはご存知だったことでしょうが、紙幅の都合で割愛せざるを得なかったのでしょう。

他に魅力的な、面白い地蔵尊があることを知りながら、素通りすることは地元の者としては難しいことで、今回に限り、『武蔵野の地蔵尊』記載以外の地蔵がやや多くなりそうです。

*ブルー文字は、『武蔵野の地蔵尊』からの引用。

*『武蔵野の地蔵尊』に記載以外の地蔵尊は▽マーク。

▽平尾追分地蔵/東光寺(板橋区板橋4)

本堂前に石仏が並んでいる。

ひときわ大きい地蔵尊は、平尾追分地蔵尊。

かつて寺の参道は、中山道に面していた。

江戸から来ると板橋宿は、平尾宿、中宿、上宿と分かれていた。

ここは平尾宿で、参道の前は中山道と川越街道の追分だった。

下が、追分跡地。

右の道路が旧中山道。

この追分の想像図が下の絵。

板橋区立郷土資料館が開いた企画展「平尾宿―脇本陣豊田家」の展示資料集の表紙として描かれもの。

ちょっと分かりにくいが、絵の左、分岐点に一本松を背に黒っぽく坐しているのが地蔵尊。

旅の安寧を願って、旅人は皆、手を合わせたに違いない。

まるで布袋様のような体躯でゆったりと座っている。

板橋区最大のお地蔵さんです。

造立は享保4年(1719)、宿場の人たち200人が施主となって建てられました。

◇胸突き地蔵尊/子安神社(板橋区板橋2)

道路に面して小堂が立っている。

「胸突き地蔵尊」の看板がかかっている。

格子戸の格子の間から覗くと石仏がおわすのは分かるが、全身朱色のマントを着ていて像容は確認できない。

頭は円頂であることは推察できるから、これが胸突き地蔵だろう。

「ある日の夕方、一人の旅人が子安神社の森から飛び出してきた追剥に切り付けられた。胸を一太刀、倒れた旅人を見て追剥は驚いた。旅人と思ったのは、石の地蔵さんだったから。自らの悪行を悔いた追剥は、その場に一地蔵堂を建て、地蔵尊を安置した」。P43

胸突き地蔵のこれが謂れで、その証拠に地蔵の胸には刀傷があるのだそうだが、不粋なマントに隠されて見えない。

台座には「右上尾、左河越」の道標があるはずだが、格子から覗く視野は狭く、とても確認できるものではない。

 

▽お福地蔵尊/路傍(大山町54)

 玉垣にしっかりと囲まれて、お堂がある。

線香の煙が絶えず、供花は新しい。

これほど管理が行き届いているお堂は、今時、珍しいのではないか。

私の散歩の圏内で時々通りかかるが、2回に1回は、参詣者の姿を見かける。

 お察しの通り、お福という女性が地域の人たちに福を授けたから「お福地蔵」。

 お福地蔵奉賛会が掲げた縁起によれば、

「文化文政の頃、鎌倉街道(日大交差点付近)にお福さんという行者が住み着き、人々の難病苦業を癒して住民から慕われていた。死後、その供養のため石地蔵が建てられ、お福地蔵として崇拝されている」。

境内には、もう1基「お身洗い地蔵」があるが、これは、巣鴨・高岩寺の「お身洗い地蔵」の分身だといわれている。

 

◇しろかき地蔵/西光寺(板橋区大谷口2)

『武蔵野の地蔵尊』では、「苗代かけ地蔵」となっているが、板橋区有形民俗文化財としては「しろかき地蔵」で登録されているので、ここでは「しろかき地蔵」とします。

「しろかき」とは、「田植えの前に田の土をかきおこして、ならすこと」。

都会育ちの現代人には、なじみのない言葉だろうから、余計なお世話だが、意味を載せておく。

本堂のうちに”苗代かけ地蔵」という名の石彫り一尊を安置する。ふつうの彫法と異なり、ことごとく曲線で、いわゆる波状彫りである」と三吉老の本にはある。

「本堂にあるのでは、見られないかもしれない」と案じていたが、境内の小堂に「しろかき地蔵」はおわした。

お堂が火災に遭い、石仏を本堂においていたが、お堂を再建して元に戻したという。

一見なんの変哲もない石仏のようだが、中世に造られたものと区教委文化財担当は認定している。

中世の石仏となると、23区でもかなり珍しいものになります。

板橋区では、毎年秋、登録文化財の一部を公開しています。

数年前、「しろかき地蔵」公開に当たって、市民に配布した絵ハガキが手元にあるので、その説明を載せておきます。

「目や鼻は少々破損していますが、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、衣には繊細な模様が残っています。像全体の曲線、猪首、衣の文様、錫杖の長さ、蓮台の彫刻などの特徴から中世に造られた石仏と考えられています。
西光寺の北を通る大谷道の坂は地蔵坂と呼ばれ、えんが堀にかかる橋は地蔵橋と呼ばれていました。地蔵は、当初地蔵坂の途中、氷川神社西側斜面に祀られていましたが、戦前に当寺に移されました」。

肝心の「しろかき地蔵」の由来には、2説ある。

まず、『武蔵野の地蔵尊』から。

おおぜいの者が出て苗代をかけていると見ず知らずの人が、毎日毎日、お手伝いをしてくれました。どなたさまかと後をついて行くと、お堂の中に入っていきました。中には一体のお地蔵さん。地蔵が百姓になり、代かきを手伝ってくれたのです」。

しろかき地蔵堂に張り付けてある住職による由来書。

「信心深い百姓が明日の田植えに間に合うように懸命に代かきをしていたが、日暮れになり途方に暮れて溜息をついていた。そこへ若い坊さんが来て「お困りのようですね。代かきが終わらなかったんですか」と話しかけ、いずこかへ去って行った。
翌朝、田んぼへ来た百姓はびっくり。さしもの広い田んぼはきれいに代かきが終わっている。あたりを見回すと田んぼの泥が点々とついていて、それを辿ってゆくとお堂に着いた。よく見るとお堂の中のお地蔵さんは腰まで泥だらけだった」。

地蔵尊が変化して農作業を手伝ってくれたという話はこの西光寺のみではない。例を挙げれば、浅草寺の田植え地蔵、埼玉県日高町の霊厳寺、台東区橋場の浄土宗保元寺、葛飾区新宿の一心寺などがある」。

 ▽雨乞い地蔵尊/路傍(板橋区向原1)

すぐ先は、練馬区という場所に雨乞い地蔵はある。

マンションの片隅にしっかりした像容で立っていらっしゃると思ったのだが、どうやら平成12年に造りなおされたのだという。

それ以前の尊像は砂岩のため風化が激しく、崩壊寸前だったのを地域の人たちが再建したのだそうだ。

雨乞い地蔵があるということは、かつてこの場所は一面の田んぼだったに違いない。

今はどっちを向いても田んぼは見えない。

目的を失って、雨乞い地蔵は途方に暮れて所在無げです。。

 

◇爆死者九体供養塔/路傍(板橋区大山金井町)

板橋区大山金井町の一角に、万人風呂と云う名の公衆浴場がある。浴場の外、四辻の角に有蓋の八面搭が立つ」。P35

今、万人風呂はない。

公衆浴場の跡地には、マンションが建っている。

一角の光景は一変したが、地蔵八面搭は同じ場所にある。

戦時中、広い土地のある銭湯に防空壕が掘られ、近隣住民の利用に供することが流行った。

昭和20年4月13日、空襲警報で万人風呂の防空壕に13人が避難していた。

不幸なことに、焼夷弾は防空壕を直撃し、13人のうち9人が爆死した。

銭湯の経営者小川氏は、人を助けようと好意をもって壕を築造したのであったが、これがかえって不幸の結果になったのは、私の不徳の致すところであると、資財15万円を投じて菩提供養のこの塔を造立した」p36

爆死した9人の中には、幼児もいた。

八面塔に9人を収めるために、一面には童子を抱く地蔵尊が彫られた。

通称「八面九体地蔵尊」と呼ばれている。

 

▽平和地蔵尊/路傍(板橋区南常盤台2)

これもまた、爆死者を悼む地蔵尊。

南常盤台の住宅地の真ん中にある。

昭和20年6月10日の空襲は、板橋区最大の被害を出した。

B29のターゲットは前野町の工場地帯。

2時間にわたり、250キロ級爆弾が116個投下され、死者269名、被災世帯497、被災者2467名という大きな被害をもたらした。

悲劇を二度と繰り返すまいと、昭和23年に建てられたのが、この平和地蔵尊。

 大小2体の地蔵尊は、大人と子供を表わしているという。

 

◇逆修子育て地蔵/専称院(板橋区仲町)

造立は昭和28年だから61年前のこと。

像容にも目新しい点はない。

珍しいのは、この地蔵尊が、逆修であることか。

当時の住職の母堂が造立した。

われ没後には、参詣する人々はこの地蔵に香華を手向けてください。われは浄土でお守りしましょう」と云って亡くなったという。

逆修塔などは、中世から近世までのことだとばかり思い込んでいたので、びっくり。

本堂内には、祐天上人が開眼したと称する総金色の座姿の木彫地蔵が安置している」そうだが、祐天の六時名号塔を台石側面に彫った地蔵尊が境内にある。

晩秋の低い光線が木の葉を映じて、像は見えにくい。

地蔵座像の下、正面には「堅通三界 溺水亡霊解脱塔」とある。

この地に移転してくる前は、荒川の氾濫で溺死者もでる場所に寺はあったものと見える。

祐天の六字名号は右側面に。

 

書として残されていたものを刻んだものだろう。

寺の外、塘路に面しての地蔵堂の地蔵尊は、道標を兼ねていた。

旧川越街道と子易道の分岐点にたっていたものをここに移転してきたのだという。

 

▽はいた地蔵/南蔵院(板橋区蓮沼町)

いろんな資料に、はいた地蔵の写真は載っている。

だが、そのどれにも謂れは載っていない。

はいた地蔵だから歯痛に関するものだとは推測できるが、願う時や願いが叶った時のしきたりはあるのだろうか。

寺へ行って訊いてみた。

造立年が正徳3年(1713)だから、現在地へ移転する前の志村坂下の沼畔に寺があった時の石仏で、移転理由の荒川の洪水で一切の史料を失ったので、いわれやしきたりなどは全く分からないとの返事。

はいた地蔵が造立されてから15年後の享保13年(1728)、蓮沼村全体が台地に移転してきた。

南蔵院近くの地下鉄「本蓮沼」駅の駅名にだけ、かつての村名が残されている。

石造物の多い寺で、地蔵尊を主尊とする庚申塔がある。

承応2年(1653)の造立は、板橋区内最古の地蔵庚申塔ということになる。

 

 ◇織部型地蔵燈籠/常楽寺(板橋区前野4)

「板橋区で石仏の寺は、どこ?」

有力な候補が常楽院であることは、間違いない。

山門の両側にずらりと石仏が並んでいる。

右側には、大き目な石仏。

左は、如意輪観音中心の石仏墓標群。

けだし、一つの寺院でこのように多種多様の地蔵尊が存在するのは、都内では常楽院のみであろう

三吉老からお墨付きをもらうほどだから、まるで石地蔵が林立しているようだが、もちろんそんなことはない。

石地蔵だけではなく、「多種多様な地蔵尊」があるのであって、その代表例が灯篭地蔵。

常楽院には、火袋や竿に地蔵を刻した灯篭が3基もあります。

はっきりしているのは、織部灯篭籠地蔵。

別名キリシタン燈籠。

桃山時代、茶人吉田織部の創案灯篭だが、三吉老によれば、江戸期以前の織部型灯篭は、江戸・東京にはない、とのこと。

竿の部分に合掌する立姿の地蔵尊が1体刻されている(はずだが確認できない)

織部型灯篭は見分けやすいが、他の石灯籠は判断しにくい。

住職に教えを請いたいとお願いしたら、登場したのは、若い男性。

住職が去年急逝されて、急きょ跡を継いだそうで、地蔵灯篭の存在もご存じない。

そんな住職だったが、水子灯篭は容易に見つけられた。

なんのことはない、『武蔵野の地蔵尊』に写真が載っていたのです。

周囲には、灯篭の部分がごろごろ。

3.11の地震で倒壊した灯篭の残骸だとか。

おぼつかない住職と二人で探したが、見つけられなかったのが三末地蔵。

火袋に四尊を浮彫し、姿は合掌」している灯篭はいくつかあるが、肝心の三末の文字「心火末不消、心眼末不開、心源末未極」が見当たらない。

巡業地蔵(通称笠懸地蔵)は、門前右側の石仏群の中、一きわ高くおわす。

2012年2月雪の朝撮影。笠に雪がうっすらと積もっている。

三吉老がいつ常楽院を訪れたかは不明だが、「その後に笠を失う」と書いてあるところから失ったのは、昭和40年代のことではないか。

境内大改築が行われた昭和49年(1974)には、この門前も改修され、亡くなった笠も復元されたはずです。

復元されたのは、見返り地蔵も同じ。

場所が門前から墓地入口に移動され、首が新しくなった。

何を見返っているのかというと、冥途へ向かう亡者の列。

台石に童子、童女の文字が読めるから墓石だろう。

墓標見返り地蔵は、珍しい。

墓地に入ると一際目立つのが、子育て地蔵。

彫りが、すばらしい。

右手に錫杖、左手に幼子を抱く丸彫り立姿の地蔵尊。

衲衣に2童子がしがみつく造容に、子供の守護神としての地蔵尊が造顕されています。

 

 ◇施無畏地蔵/松月院(板橋区赤塚8)

参道入口に「施無畏」と台石を刻んだ地蔵尊がある。

昭和29年造立だから、まだ新しい。

「施無畏という名は、主として観音に使用される法語であるが、地蔵にこのような呼称を付したのは稀例である」。P37

山門の両脇は、白壁塀。

左の塀沿いに進むとポッカリ空間があって、4基の地蔵尊がおわす。

写真の右から2基めが、塩地蔵と云われている。

確かに足元に塩は見えるが、塩害で体がとろけそうなのは。左の2体。

墓地に入る。

六地蔵灯篭がある。

貞享2年の開眼で,胴は筒形、燈籠の下の土中に、一石に一字の経を墨書して埋めてある。『奉書写大乗妙典全部五輪一石一字衲地輪豊島郡大門村万吉山松月院三代貞享元甲子年云々』と彫り付けてある。この灯篭のかたわらには、開基千葉貞淵の墓と損傷した数基の小型の五輪塔がある。おもうに、この灯篭はこの二つを開眼すると同時に造立したものであろう」P38

 

◇一宿一飯地蔵/乗蓮寺(板橋区赤塚5)

 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』には、「戦災で本堂は仮堂」とか「戦災による被害の復旧未だし」とかの記述が多い。

三吉さんが地蔵を探して寺々を回ったのは、昭和20年代からではないかと思っていたが、それを決定づける記述があった。

寺(乗蓮寺)は浄土宗に属し、板橋区役所の北近く旧中山道の西面に沿う」。

乗蓮寺は、東京大仏が有名で、今は、板橋区の赤塚5丁目にある。

昭和46年(1971)から7年間をかけて、仲宿から赤塚へ引っ越した。

中山道の拡幅、首都高5号線建設が移転原因だった。

ショックなのは、乗蓮寺移転を私は全く記憶していないこと。

昭和46年といえば、私が現在地に住むようになってから10年後のことです。

薬マツモトの前が旧中山道。その前に伸びるのが乗蓮寺参道。ハイタウンやアクロスは寺の跡地に建てられたマンション。境内はピンクの中山道(国道16号)を越えて広がっていた。

私の家から歩いて10分ほどの場所で起きた地元の大ニュースを知らなかったなんて我がことながら信じられない。

そういえば、旧中山道に面していた乗蓮寺そのものの記憶もありません。

都電の車窓から、寺の長い塀と黒々とした木立を見たはずですが、覚えていないのです。

20代後半から30代、いかに地元に目が向いていなかったか、神社や寺に無関心だったか、もうあきれるばかりです。

本堂の前に北面して丸彫り、立姿の地蔵尊を安置し、「一宿一飯一銭一粒」の八文字を彫ってあって、正徳5年(1716)の造立である」P42

 今この地蔵尊は、大仏の後方、無縁仏に囲まれてある。

 台石右には、施主名、なぜか女性の名前ばかり9名。

左には、「願主一誉行心 為一宿一飯 一銭一粒 播主 品川住 乃至法界 利益無窮」。

一宿一飯の意味を三吉老は次のように書いている。

巡礼が道に迷い、日暮れて夜に入った。一僧に導かれてある寺に連れて行かれて、一宿一飯をこうて事なきを得た。地蔵尊が僧に変装してこの者を案内したという」。P43

「同じ文字を彫った石地蔵が、横浜市旧明倫学園前の丘の頂上の辻に北面して立っていて、江戸向き地蔵と呼ばれている」ともあるが、確認していません。

 

≪参考図書≫

〇三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』昭和47年 有峰書店

〇『板橋の史跡を訪ねる』平成14年 いたばしまち博友の会

〇板橋区教育委員会『いたばしの石造文化財 その四 石仏』平成7年

 


91 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今(新宿区編)

2014-11-16 06:57:27 | 地蔵菩薩

 修理に出していたパソコンが3週間ぶりに「退院」してきた。

心配していた通り、ピクチュアの画像は消失していた。

写真がなければ、「守屋貞治の石仏かけ巡り見仏記(後編)」は諦めざるをえない。

「三好朋十『武蔵野の地蔵尊』たちの今」に切り替えることに。

今回は、新宿区編。

 

◇猫地蔵/自性院(新宿区西落合1)

 猫寺としては、世田谷区の豪徳寺が有名だが、ここ自性院も負けていない。

北口を入ってすぐの石柱の上に大きな石の猫。

秘仏の猫地蔵は、一年に一度、2月3日に御開帳される。

 

      猫地蔵          猫面地蔵
(2枚の写真はブログ「天空仙人の神社仏閣めぐり」より無断借用)

ややこしいことに、猫地蔵のほかに猫面地蔵もある。

私には、どっちがどうだか区別がつかない。

境内の「猫地蔵詠歌」の2番と3番が猫地蔵と猫面地蔵の由来のようだ。

2 文明9年に政争あり 猫に導かれて福を得る
 道灌公の報恩行 み像祀りしはじめとす

3 後に明和の4年には 貞女の鑑称えんと
 猫面地蔵刻みたり 家は栄ゆる子は育つ

だが、漠として、意をくみがたい。

区教委の説明をつけておく。

猫地蔵
猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、 道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、 猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという話が伝えられている。

猫面地蔵
江戸時代の明和4年(1767)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、 牛込神楽坂の屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。

 

◇淀橋七地蔵/常円寺(新宿区西新宿7)

寺は青梅街道に面していて、道を挟んで南側は新宿高層ビル街。

19世紀と21世紀が混在する稀有な場所です。

 常円寺は日蓮宗寺院。

 「日蓮宗に所属する寺にして地蔵尊を安置してある数は希少で、東京都では2,3か所あるにすぎない」P126 (*ブルー文字は、『武蔵野の地蔵尊』の記述)

 日蓮宗寺院には珍しいお地蔵さんが、常円寺には7基もある。

「昭和4年の夏の頃であった。新宿駅の手荷物係に預けられたトランクが異臭を放ち、開けてみたら子供の絞殺死体が7体詰め込んであった。預け主は偽名を使ったが、警察の調べで判明。不義の子供を養育してやるといって養育費をもらい、嬰児は絞殺するという極悪非道の夫婦だった。


この七地蔵は、子供たちの供養にと、淀橋界隈の住民たちが浄財を喜捨して建てたもの。戒名の代わりに〇の中に▽を彫ってある」。 

当時の新聞を探すも見当たらない。

代わりに昭和5年4月の『東京朝日新聞』に板橋もらい子殺人事件の記事を発見。

「身の毛よだつ」「殺人鬼村」「成金気分で浮かれる」「一年に三人を生んでいる女房」「保釈中にもらい子無残の死」などの見出しが、連日、紙面をにぎわせている。

この板橋もらい子殺人事件が起きたのは、地下鉄「板橋本町駅」近くの岩の坂。

私の家からも500mとは離れていない。

今はこれッポッチも面影はないが、東京でも有数なスラム街だった。

そのスラム街の状況がいかなるものだったかは、このブログの「板橋宿を歩くー10」を読んでほしい。

もらい子殺しも書いてあります。

 

◇名和地蔵/専福寺(新宿区東大久保2)

 西新宿の常円寺は日蓮宗で、日蓮宗寺院には地蔵尊は少ないと書いた。

実は、真宗寺院にも同じことが言える。

新宿区内には、19の真宗寺院があるが、地蔵尊を安置してあるのは、泉福寺と専行寺の2か寺。だいたい真宗系は、弥陀一向の宗旨であって、地蔵尊を安置してある例が非常に少ないが、悲惨な最期を遂げた人、あるいは変死したような不幸の人の供養を目的として境内に石地蔵を造立した例はいくつかある。専福寺もそのひとつである。境内に名和地蔵と云う名の同型の石地蔵が4基ならんでいる。P128

4基あるはずの石地蔵を探すが、見当たらない。

観音石仏はある。

墓地も一通り巡って見たが、お地蔵さんはないようだ。

庫裏で訊いてみた。

若い女性が出てきて、「住職が留守なので、詳しいことは分からないが、名和地蔵というお地蔵さんは聞いたことがない」という。

お礼を言って帰ろうとしたら、「そういえば、墓地の一番奥に石仏が固まっているけれど、もしかしたら、あの中にお地蔵さんがあるかも」と教えてくれた。

再び墓地へ。

墓地のどん詰まりに身を寄せて石仏群がある。

その最後列の丸彫りの地蔵4体は、顔かたちが同じ。

名和地蔵に違いない。

名和とは、人の姓。

4体あるのは、母と3人の子どもです。

「明治43年12月21日、盗人が名和家に忍び入った。折柄主人は不在。盗人は物色中、妻浦子さん(28歳)にみつかった。盗人は強盗に早変わり、刃物を使って浦子さんと幼い3人の子供を惨殺し、一物も取らずに逃走した」。

 

 母子4人の冥福を祈って近隣の人たちが浄財を喜捨して造立したのが、この名和地蔵。

近隣の人たちの浄財で造立、というところは、常円寺の淀橋七地蔵と同じだが、淀橋七地蔵は今でも線香と生花が供えられ、丁寧に維持されているのに対し、名和地蔵は見捨てられたように放置されている。

母親と思われる地蔵の頭は修理されているから、見捨てられたわけではなさそうだが・・。

お地蔵さんにも、運、不運があるようだ。

 

◇旭地蔵/成覚寺(新宿2)

成覚寺は、通称「投げ込み寺」。

投げ込まれたのは、遊女の死体だった。

内藤新宿の公認飯盛り女は150人。

宿屋は50軒だったから、1軒当たり3人の遊女を抱えていたことになる。

もちろん、非公認のやみの女もいた。

遊女の扱いは、犬猫同然。

死ねば、着物は剥され、髪飾りは取り外され、さらしもめんにお腰一枚で成覚寺に投げ込まれた。

拾文女郎は、米俵にくるんで投げ込まれた。

投げ込まれた遊女の遺体は、約2200体といわれている。

石段を下りて墓域に入る。

左中央に子供合埋碑。

子供とは、遊女のこと、つまり、遊女供養塔です。

石段のすぐ左下にあるのが、旭地蔵。

旭とは、町名のこと。

地蔵尊は、旭町、新宿高校近くの玉川上水淵に建っていた。

なぜ、玉川上水淵に建っていたかというと、これは玉川上水に身投げした心中者たちの供養塔だからです。

「台石には、寛政、享和、文化などの年に心中した男女の法名が彫り付けてある。願主は惣新宿所在の楼名、客と遊女との心中を、楼主が憐れに思って比翼の共同塚をたててやったのである」P127

 ◇どぶ地蔵・着せ替え地蔵/宗円寺(新宿区市ヶ谷柳町)

 寺は柳町 にある。

昭和のはじめまで寺の前に川が流れ、土手に柳の並木があったから柳町となった。

今は歩道となった暗渠の上を歩く人たちは、足元に水が流れていることを知らない。

どぶ地蔵の名称もこの川に由来する。

川といっても溝のようなもので、当然、どぶ川だった。

このどぶ川に落ちて溺死した人の菩提供養のために造立されたのが、どぶ地蔵。

どぶ川を見たことも臭いをかいだこともない今の若者たちは、どぶ地蔵といわれても何のことやらチンプンカンプンだろう。

寺の前を川が流れ、柳の並木がある写真を区立図書館で探したが、見つけられなかった。

 とぶ地蔵は、着せ替え地蔵と並んでおわす。

西面して丸彫り、左手に童子を抱く座高80㎝ばかりで、台石は六面、西面に子育て地蔵の5字を彫る。

着せ替え地蔵は産婦の家に招かれて安産の日まで滞在し、安産すれば新しく着物を仕立てて着せてもらって寺に戻る。大小二つあって、大きい方はいつも留守居する。

 

 ◇高山卍字地蔵/宗参寺(新宿区弁天町)

 曹洞宗雲居山宗参寺は、境内に名主牛込太郎の墓があるのでその名を知られている。牛込氏は、喜多見、渋谷、葛西氏などとともに江戸の初期における有力者の一人として名高い。

牛込氏の墓の北に隣って南面して高さ1.2mの舟形の光背面に、日月と卍とを彫り、その下に高山院云々と文字を彫り、円頂、立姿の地蔵を浮き彫りにした一塔がある。「干時寛文八申年李右衛門高山院月照宗徹居士信俊逆修云々」と彫る。申の年の開眼であるから日と月とを文字の上に張り付けたのであろう.山鹿素行一家に縁のある石仏である。 P130

 

◇豆腐地蔵/東福院(新宿区若葉町2)

 前回の文京区編でも、喜運寺の豆腐地蔵を取り上げた。

由来は似通っていて、豆腐を買いに来た小坊主を切りつけたら地蔵だった。後悔して善人になった、というような筋書きです。

3体の地蔵の中央、丸彫り、立像が東福院の豆腐地蔵。

東福院の近くの豆腐屋は金貸しもやっていた。

毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいた。

豆腐屋の亭主を金の亡者から真人間にするためだった。

坊さんが帰った後、金入れにはいつもシキビの葉があった。

亭主は懲らしめの為、坊さんが木の葉を入れるのを確かめて、坊さんの腕を切り付けた。

血潮はほとばしり、亭主はおそろしくなってその夜は眠られず、翌朝早起きして滴った血潮の跡についていくと、東福院の地蔵堂の前で消えている。堂の中には地蔵の手首が落ちている。びっくり仰天、亭主は腰を抜かしてしまった。悪行を後悔した亭主は生まれ変わって真人間になることを地蔵尊に誓い、地蔵祭を行った。この話は江戸中の評判となり、地蔵尊参詣の人が多くなって豆腐屋は大繁盛した。P132

 

◇成子子育て地蔵/路傍(新宿区西新宿6-9成子天神下)

淀橋七地蔵の常円寺を出て、青梅街道を西へ。

成子坂を下り、成子天神 を過ぎると「成子天神下」の信号がある。

信号を渡る。

左前方、高層ビルの真下にお堂がある。

その一角だけ沈み込んだような異空間。

お堂の存在を知ってか、知らずか、皆一瞥もしないで通り過ぎる。

 

街道筋であるとはいえ、その昔、この辺は追剥が出没する淋しい場所だった。

盆の藪入りで久しぶりに一人息子が家に帰ってくる農家の親父。

息子を歓待してやりたいが、先立つものがない。

ふと悪心を起こして、夕まぐれにまぎれ、旅人を襲い、財布を奪った。

背後から襲われた旅人は即死だった。

家に帰り、財布を取り出した親父は驚いて、財布を落としそうになる。

奉公に出るとき、息子に持たせてやった財布だったから。

父の驚きは言語に絶し、いくら悔やんでも死んだ子は帰り来ない。直ちに一体の地蔵を造って、父は堂守となって一生を終わったという。

昭和50年代まで地蔵講が存在し、バスで長野善光寺に一泊旅行するなど、その活動は活発だったという。

地蔵堂の前の2体の石仏は、空襲で焼けた地蔵堂再建のために地面を掘ったら出てきたのだそうだ。

それは昭和26年(1951)のことだったが、半世紀後の平成14年(2002年)、お堂は耐火構造で新築された。

日本の中でも西新宿ほど激変した町はない。

「昭和」は、すでに、この町のどこにもなくなっている。

しかし、「江戸」は、こうして保存されている。

奇跡というべきではないか、これは。

 

◇咳止め地蔵(カンカン地蔵)/路傍(新宿北新宿2-1)

咳止め地蔵へ行った時、別名カンカン地蔵だということを知らなかったので、ポンチョ風の黄色の布をめくってみることはしなかった。

めくってみれば、お地蔵さんの体はあちこち欠けていたはずです。

カンカン地蔵のカンカンは、小石で石仏を叩く音のこと。

浅草寺にあるカンカン地蔵は、みんなが叩くので、原型をとどめていない。

   浅草寺のカンカン地蔵

「いや、そうではない。カンカンは、咳をするコンコンが変化したものだ」という説もあるようだ。

なにしろ造立されたのが、宝永5年(1708)のこと。

前年の富士山大爆発による大量の降灰でのどを痛める人が続出し、咳止めを御利益とする地蔵の造立は村の総意によるものだった、というのです。

成子坂下の子育て地蔵尊でも書いたが、西新宿は淀橋浄水場跡地が新宿副都心として再開発され、過去を遮断した高層ビル街となった。

しかし、咳止め地蔵尊がおわす北新宿2丁目と西新宿8丁目は、21世紀になっても「昭和」の匂いが漂う一画でした。

銭湯があり、牛乳屋があり、駄菓子屋があった。

当然のことながら、この地域にも開発の波は押し寄せてくる。

平成6年(1994)に始まった再開発計画は昭和的なるものを一新する。

地蔵堂の移転も平成18年(2006)に行われた。

東京にかぎらず、全国的に都市再開発によって消滅していった石仏は数知れない。

淀橋咳止め地蔵がなくならないで、昔より立派なお堂に安置されていることは、現代の不思議というほかはないだろう。

素通りする人が圧倒的に多いが、なかには立ち止まって手を合わせる人もいる。

若者の姿もある。

「なぜ?」と訊かれて、若者本人もその理由を答えられないだろうが、それは彼や彼女が「日本人」だから、としかいいようがない。

未来的な超高層ビル街でも、ここは正に「日本」なのだから。

 

◇地蔵坂由来の地蔵/光照寺(新宿区袋町)

 新宿区には、由緒ある町名が多い。

「袋町」とはどんな由来があるのだろうか。

知りたくなるだけでもいい。

それに比べ、戦後つけられた、栄町、幸町、平和台、青葉台などという町名のいかにくだらない事か。

JR飯田橋駅西口を出て、神楽坂を上る。

毘沙門天を過ぎて最初の小路を左に入る。

坂だ。

坂の名前は、地蔵坂。

新宿区役所が立てた坂名標識には「坂の上の光照寺にある三井寺から移された子安地蔵にちなんでつけられた」とあるが、もっとこみいった言い伝えがある。

光照寺の子安観音は、お産と子供の病気に効験があると人気になり、寺は参詣者で賑わった。

 境内にあるこの地蔵が、タヌキが化けた子安地蔵なのかは不明。
 多分、違うのではないか。

困ったのは寺の境内に住むタヌキたち。

めったに穴から出ることができない。

考えたのが、地蔵に化けて坂を上ってくる参詣人を脅かそうというもの。

この地蔵、突然笑い出したりするので、気味悪がって、夜は人通りが絶えた。

タヌキが地蔵に化けて出た坂だから、地蔵坂というわけ。

地蔵坂には、こんなおまけ話もある。

この話を聞いたお侍が、日暮れに坂を通りかかったら、錫杖をガシャンガシャンといわせながらお地蔵さんが下りてくる。

これこそ例の化け地蔵と侍は刀を抜いて切りつけた。

すると地蔵、はっしと錫杖で受け止め「これ、何をなさる」と戒めた。

よく見ると切り付けた相手はタヌキではなく、昵懇の仲間の武士だった、というもの。

懇意な友人にタヌキが化けたのか、本人だったのか、分からないところがミソ。

この項だけは『武蔵野の地蔵尊』からの引用ではない。

宝暦年間(1751-1764)に出版された『鶏鳴旧蹟志』に載っている話です。

≪参考図書≫

○三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』有峰書店 昭和47年

○安本直弘『四谷散歩』みくに書房 1989年

○芳賀善次郎『新宿の散歩道』三交社 昭和48年

○長澤利明『江戸東京の庶民信仰』三祢井書店 平成8年

○長澤利明『東京の民間信仰』三祢井書店 平成元年

 

 

 


90 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今(文京区編)

2014-11-01 05:52:10 | 地蔵菩薩

パソコンが故障した。

買って1年も経っていない。

写真を外部メディアに保存できないまま、修理に出したので、予定していた「守屋貞治の石仏かけ巡り見仏記(後編)」はあきらめざるを得なくなった。

さあ、困った。

急きょ変更しうるネタはないだろうか。

書棚を眺めていて目についたのが『武蔵野の地蔵尊』3冊。

三吉朋十氏が50年の歳月をかけ採訪した武蔵野一帯の地蔵尊一千体の記録労作。

3冊目の刊行は、1975年、三吉氏93歳のことだった。

40年前、93歳だった人の著書にしては写真は多いが、それでも掲載地蔵の三分の一くらいか。

全部の写真を撮ってみてはどうだろうか。

石仏だから自然消滅はしないだろうが、40年の年月のなかで、環境が変わり、場所が移動したり、一部が破損したりしているものもあるだろう、そんな近況を付け加えるのも、有意義なことのように思える。

思いもしない由来と名前の、いろんな地蔵に会えるのも楽しみだ。

思い立ったが吉日、『武蔵野の地蔵尊(都内編)』を手に地下鉄に飛び乗った。

まずは、文京区の地蔵からです。

三田線「白山駅」で下車、白山通りの坂道を下り、最初の信号を左に入る。

100mほど進むと、そこが円乗寺。

(*文中、青色文字は『武蔵野の地蔵尊』の記述)
(*石仏でない木彫地蔵は、除外)
(*このパソコンは、借り物)

 

◇お七地蔵/円乗寺(文京区白山1)

「寺は太平洋戦争で全焼したあとは、復興容易ならず、仮堂のままである。その後に寺の入口の路傍に地蔵堂を立て、石彫の地蔵と一幅の地蔵尊掛軸とをかけて、お七の供養をしている」(都内版P88、以下同じ)

小ぶりながらも本堂は復旧している。

入口の地蔵堂の前は「南無八百屋於七地蔵」の朱色の幟が林立して、けばけばしい。

 

この於七地蔵を拝んで立ち去る参拝者がいるようだが、境内にはお七の墓がある。

本堂前、参道左の3基の石塔の中央が、それ。

 原型がまるで分らないほど破損している。

芸妓などが削って、墓石の粉を持ち帰ったためという。

 

 

右の石碑は、お七を演じて好評を博した歌舞伎役者岩井半四郎が寛政年間(1789-1801)に建てたもの。

西鶴の『好色五人女』や歌舞伎で、お七物語は広がりを見せたが、同時に異説も生まれた。

その最たるものは、吉三伝説。

もともと吉三は、お七と恋人左門の仲介者だった。

話の本筋は以下の通り。

天和元年(1681)、本郷追分の八百屋が火事になり、一家は菩提寺の円乗寺に避難する。時にお七、16歳。お七は、寺に身を寄せていた旗本小堀左門と懇ろになり、翌春再建された家に戻るも左門のことが忘れられない。二人の仲を取り持ったのが、吉三。葬式の死装束を寺から引き取る湯棺買いを商いとしていた。「家さえ焼ければ、また円乗寺に行ける」と吉三にそそのかされたお七は自宅に放火、捕らわれて、火あぶりの刑に処せられた。

異説では、吉三郎は寺小姓で、お七の恋人になっている。

目黒行人坂の大円寺の吉三の浮彫は、この異説に基づくもの。

 

 大円寺

上は、大円寺境内に立つ西運(吉三)像。お七の死後、僧になった吉三こと西運は、お七の菩提を弔う念仏堂を建立するため、目黒行人坂から浅草観音までの往復十里(約40km)を念仏を唱え日参し続け、27年5ヶ月かけて念願の念仏堂を建立したと伝えられている。これはその日参する姿。

 

円乗寺を出て左へ、坂を上る。

坂の名前は「お七坂」。

坂を上って白山通りを左折すると大円寺の巨大な標柱が見えてくる。

側面に「ほうろく地蔵尊」の文字。

朱色の山門の背後のビルは、都立向丘高校です。

◇ほうろく地蔵/大円寺(文京区向丘1)

「山門のうちに西面して丸彫り、円頂、立高1.05mの珠杖をもった”焙烙地蔵”という名の石仏を安置し、いつも頭上にほうろくをのせてある。脳を病み、あるいは首から上に病のある人がほうろくに祈願の目的を墨書して、これを尊頭にのせて祈願するとなおるという」(P96)

祈願者は今も絶えないようだ。

目算するところ約500枚もの焙烙(ほうろく)が重ねてある。

いずれにも脳の病が墨書されている。

焙烙は1枚、2000円。

寺では、病名と奉納者名を書いて、祈祷の上、尊頭にのせるという。

平成の世の中、焙烙を知らない世代の方が多くなった。

老婆心ながら説明すれば、焙烙とは「物を煎るための素焼の土鍋」。

では、その焙烙が、なぜ、お地蔵さんの頭にのっているのか。

これには、深遠なわけがあるのです。

中国の殷の時代、焙烙の刑という残虐無比な刑罰があった。

炎の上に油を塗った銅板をおき、罪人を歩かせるというもの。

熱いから飛び跳ねる、その姿が焙烙ではじけるゴマなどに似て、焙烙の刑と称された。

生きたまま焼かれる刑は、日本では、火あぶりの刑。

火あぶりの刑といえば、すぐに思い出されるのは、お七。

お七を供養したい仏心があっても、火付け人お七の供養地蔵とわかっては、公儀に穏便に済むわけがない。

お七地蔵とわからないカムフラージュが、このほうろく地蔵にはなされたというわけ。

「ほうろく地蔵はお七の身代わり地蔵」という言い伝えが、今もなお、生き続けているのです。

地蔵堂の前には、庚申塔が3基ある。

この庚申塔もお七に関連があるといえなくもありません。

庚申塔がかつてあった場所は、本郷追分。

本郷追分には、お七が放火した自宅の八百屋がありました。

 

白山通りから住宅地を右左折しながら本郷通りへ。

本郷通りに面して「親鸞研究センター」がある。

 

目的の正行寺はその隣だが、浄土宗寺院です。

◇咳止め唐辛子地蔵/正行寺(文京区向丘1)

太平洋戦争に罹災し、今なお仮堂のままである」と昭和47年刊の『武蔵野の地蔵尊(都内編)』には書いてあるが、昭和59年、本堂は再建され、面目を一新した。

「境内には東面して一宇の仮堂があり」、三吉老が目にしたのは下の写真の光景だったはず。

誰にも顧みられない、わびしさにお堂は包まれていました

今回、2年半ぶりに訪れたら、お堂も新しくなり、境内の雰囲気も明るくなっている。

堂内に坐するのは、怖そうな眼をした男。

「唐辛子地蔵」と云うのだそうだが、とても地蔵には見えない。

覚宝院という名の、耳の不自由な修験者だと山中笑の記録にはあると三吉老はいう。(*山中笑は民俗学者、筆名共古)

覚宝院の石像あり、咳の願掛けに霊験ありと信仰する者多し。願う者は口上にてはせず、書面にしたため堂内に納め置くこととす」。

口上ではなく、書面にするのは、覚宝院が「ツ〇ボ」だったからだが、書面ならハガキでもよかろうと願いをハガキに書いて郵送する横着者が出始めた。

住所がなく「追分覚宝院様」や「たうがらし地蔵様」の宛名だけのハガキもあったらしい。

それでも届くのは、明治七ふしぎの一つと山中笑は言ったという。

ハガキの内容は、例えば、以下の如し。

「セキデナンギイタシコマリオリ三日カンノウチニオナオシ下サレ度候ナオリシタイオレイニ来リマス
                明治三十三年一月六日生 浅草西鳥越八番地 小池松義」

なお、「とうがらし地蔵」の由来については、次のような記述がある。

「この石仏(覚宝院)は唐辛子を好まるとて小さき徳利へ唐辛子2,3本をさして供ずる者あり」。

古いお堂の時は、石仏の前に唐辛子が確かに供えられていた。

が、新しい堂内には唐辛子はどこにも見られない。

唐辛子を供えることくらい容易だろう。

是非、復活してほしいと寺の関係者にお願いしたい。

 

本郷通りを渡って、浄心寺へ。

この界隈は寺町だから、やたら寺が多い。

大円寺、正行寺と浄心寺の位置関係が分かる地図を載せておく。

 

 

 ◇雷よけ地蔵/浄心寺(文京区向丘2)

「大正のはじめころ、大雷雨があった。浄心寺の墓地に落雷し、立木が裂け、石仏が崩れた。2基の石地蔵の1基は砕けたが、ほかの1基は無事だった。人々はこれを雷除け地蔵と呼んだ。落ちない地蔵尊ということで、受験生に人気となり、一時は大勢が参詣した」( p94)

雷よけ地蔵を探して、広い墓地を歩きまわるが、見当たらない。

 

墓地を清掃している老人に訊いてみた

「雷よけ地蔵」という名前を耳にしたことがないと言う。

でも寺が管理している墓域に1基だけお地蔵さんがあるというので行ってみた。

墓地の北隅に、無縫塔、阿弥陀如来と並んで丸彫りの地蔵がおわす。

寺が管理しているだけあって、供花が新しい。

これが「雷よけ地蔵」だろう、間違いないように私には思える。

寺を出て、バスを待つ間、ふと大きなお地蔵さんが立っているのが目に入った。

台石に「春日のお局さんの御愛祈のお地蔵さん」とある。

どういう謂れがあるのか、証拠となる文書はあるのか、寺に電話で問い合わせてみたが、「ただ言い伝えです」と素っ気ない。

もともとこの寺にあったものか、他所から持ち込まれたものか、それすらも分からないらしい。

 

◇豆腐地蔵/喜運寺(文京区白山2)

          喜連寺(文京区白山2)

喜運寺の本堂には、豆腐地蔵尊という木彫りの秘仏が、門前にはお前立と称する石彫地蔵があったが、太平洋戦争で崩壊してしまった」。 

三吉老は昭和47年刊行の『武蔵野の地蔵尊』で、こう書いているが、昭和53年、寺が建てた豆腐地蔵由来碑では、「豆腐地蔵は石仏で、震災、戦災を免れて本堂にあるが、秘仏なので非公開である」と説明されている。

  豆腐地蔵由来碑

となると、本堂前の「延命豆腐地蔵尊」は、お前立ということか。

「都内には豆腐地蔵のある寺は、ここ喜運寺のほか、杉並区の長延寺と長竜寺の3か寺にあるが、その由来は大体同じ」らしい。

『武蔵野の地蔵尊(都内編』での由来は、長文なので、大幅に縮小して載せておく

「小坊主が豆腐を買いに来た日の売り上げには、木の葉が混じっていた。てっきりキツネの仕業と睨んだ豆腐屋の吉兵衛は、坊主の後をつけ、豆腐切り包丁で肩を切りつけた。ギャッという叫び声とともに坊主の姿は消え、後に血のついた石片が転がっていた。血のしたたりをたどってたどり着いたのは、喜運寺。堂の中のお地蔵さんの肩から下が欠けていた。
 "キツネだとばかり思い込んで、とんでもないことをした。お許しください"と吉兵衛は、毎日、お地蔵さんに豆腐をお供えした。この話が江戸中で評判となり、寺の門前に開業した地蔵屋という屋号の豆腐屋は大繁盛した」。(p90)

 

◇甘酒地蔵/日輪寺(文京区小日向1)

まず、写真を見てほしい。

          甘酒地蔵

これが地蔵尊に見えるだろうか。

「甘酒地蔵がお地蔵ならば、蝶々トンボも鳥のうち・・・」と呟いてしまいそうだ。

訳を知るとこれは和服を着た特定の婦人像だと分かる。

それならば、「〇〇像」といえばいいのに、地蔵とするところに、庶民の地蔵信仰の幅の広さと奥深さがあるように思う。

甘酒地蔵の由来は、もちろん、『武蔵野の地蔵尊』に載っているが、今回は矢田挿雲『江戸から東京へ 第五巻』からの引用。

「本堂に向かって、左方にある、一老婆の坐せる石像が、音に響ける甘酒地蔵である。生前は与力某の妻であったが、血族が死に絶えて孤独となり、自分も重い喘息に悩まされていた。咳に苦しむ人を治してあげたいと念じ、余財を甘酒に代え、自宅の門前で接待を始めた。ばあさんの死後、婆さんの家のツゲの木に甘酒のビンをつるして祈願すれば、咳の病は治るという噂が広まり、誰からともなく、婆さんを甘酒地蔵というようになった。日露戦争の頃、日輪寺の住職が石像を刻し、境内においた。爾来、信仰ますます盛んで、痰持、咳持、百日咳が不思議に治り、御礼の甘酒や白酒の寄進が相次いでいる」。

 

◇縛られ地蔵/林泉寺(文京区小日向3)

寺は、拓殖大学の向かい側の台地にある。

境内への石段の踊り場に、縄でぐるぐる巻きにされた石仏がある。

通称、縛られ地蔵尊。

縛られ地蔵としては、葛飾区の南蔵院にあるのが有名で、ここ林泉寺にもあることはあまり知られていない。縁起は双方ともに同じようであって、どれが大岡政談に伝えられる地蔵であるかは疑問である。p107

確かに、傍らの文京区教育委の説明でも、巷間伝えられる大岡政談をあげ、南蔵院にも同じ縛られ地蔵と逸話があるとして、どちらが正統かは言及していない。

 

◇歯痛地蔵/源覚寺(文京区小石川2)

 源覚寺と聞いてピンと来ない人も、コンニャク閻魔と云えば分かる、眼病と厄除けに霊験あらたかなエンマさまの寺。

しかし、三吉老はエンマさまには目もくれない。

「戦災でつんぼ歯痛地蔵堂も焼けてしまった。地蔵尊は壊れなかったが濡れ仏のまま境内の元の場所に寂しく立っており、近所に歯医者があるためか、祈願に来る人もめったにいない。
焼け残った石地蔵は、一つは船底型に円頂の地蔵尊を浮き彫りし、他の1基は丸彫りで立高60センチばかり、歯痛に利益があった。つんぼであるから願い事は一切紙片に書いて柱に釘打ちをしておき、痛みがなおったら釘をぬいてあげる」 (P92)

焼け残ったという歯痛地蔵を探すが見つからない。

狭い境内だから見落とすはずはない、おかしいなと思いながら庫裏のベルを押す。

出てきたご婦人は、「塩地蔵がそうです」とそっけない。

せめて「塩地蔵がそうですよ」と言ってくれればいいのに。

塩地蔵はお堂のなかに確かに2基あるが、頭が塩でコーティングされていて、地蔵なのかどうかも分からない。

「塩地蔵」の説明板にも「歯痛に効く」とは書いてない。

「歯痛に効能あり」と付け加えてはどうか。

「塩地蔵 歯痛地蔵」で検索したら、日本歯科医師会のブログhttps://www.jda.or.jp/park/knowledge/index12_9.html「歯の神様」として取り上げられていた。

「昔は、歯磨き剤の代わりに塩が用いられており、現在でも殺菌や消炎にも効用があると言われています」とその効能は、歯科医師会のお墨付き。

このブログでもNO24,25で「東京とその近郊の塩地蔵図鑑(1)(2)」として塩地蔵を巡った。

その経験では、歯痛よりイボとりに効能ありとする塩地蔵の方が多かった記憶がある。

 

〇三吉朋十『武蔵野の地蔵尊(都内編)』(昭和47年 有峰書店)

〇矢田挿雲『江戸から東京へ 第五巻』(昭和28年 再建社)

〇山本傅『東京の縁日風土記』(昭和57年 堅省堂)

〇長澤利明『東京の民間信仰』(平成元年 三祢井書店)

〇長澤利明『江戸東京の庶民信仰』(平成8年 三祢井書店)

〇岸乃青柳『東京のお寺・神社謎とき散歩』(平成10年 廣済堂出版)

〇小石川仏教会『小石川の寺院 上巻』(平成14年 西田書店)

〇鈴木一夫『江戸・もうひとつの風景 大江戸寺社繁盛記』(1998年 読売新聞社)

 

 

 

 


80 若狭小浜の化粧地蔵ワールド

2014-06-01 05:13:48 | 地蔵菩薩

高校の友人が、大津市に住んでいる。

彼の招きで、5月半ば、友人3人と連れ立って、湖南を訪れた。

酒を飲み、歌を歌い、牌を自模り、昔話に花を咲かせて、旧交を温めた。

ハイライトは、琵琶湖伝統漁法えり漁の見物。

たも網を上げることもままならない巨大な鯉や鮒に歓声を上げた。

琵琶湖周辺観光は初めての3人と別れて、1日、小浜市へ足を延ばした。

小浜市は国宝仏像の濃密地域だが、私の目的は、別にある。

一つは、天徳寺(若狭町)の四国八十八ケ所本尊石仏群。

佐渡の石工が彫り、佐渡から運ばれたとの伝説がある石仏群です。

もう一つは、小浜市の化粧地蔵を見て回ること。

八月の地蔵盆に、子供たちがお地蔵さんに色を塗る風習があることを『日本の石仏』で知ったばかりでした。

佐渡の石工制作の石仏群はいつか取り上げることにして、今回は化粧地蔵に焦点を当てます。

場所は、小浜市西津地区。

小浜市街北東部の海に面した、昔からの漁村です。

西津漁港をスタートして、直ぐに最初の小堂を発見。

お堂は海に背を向けて立っていました。

 お堂の後方の木と木の間の白い部分は、海。

地蔵盆は、毎年8月23日に行われます。

と、いうことは、ほぼ9か月経っていることになり、彩色の色落ちが心配です。

でもその心配は、最初の化粧地蔵を見て、払拭されました。

 

 少しよごれてくすぶった感じではありますが、色彩は明瞭でした。

小浜の化粧地蔵の主な色材は、昔は、ベンガラの赤、石灰の白、墨の黒でした。

今はエナメルですから、色はなんでもあり。

伝統の3色にゴールドを大胆に組み合わせて、いかにも現代風化粧地蔵です。

小堂は、場所によって異なりますが、これは総コンクリート造り。

共通しているのは、供花が新しい事。

毎日、お参りする人がいることが判ります。

 

布団かと見間違えるような涎かけ。

関東よりは関西の方が涎かけは大きめですが、これは格別。

涎かけの色も大胆で、お地蔵さんの化粧に負けていません。

地蔵にはどう見ても、見えない。

私には「加トちゃんケンちゃん」に見えます。

常識にとらわれない子供の発想のすごさに驚嘆してしまう。

涎かけは女もののブラウスだったものか。

この母にしてこの子あり。

 

お盆が終わると、小浜では、地蔵盆の準備が始まります。

子どもたちは、お堂とお地蔵さまをリヤカーで海へ運んで、洗います。

前の年の色を洗い落として、新しく描くのですが、その姿かたちと配色はノートに記録されて代々受け継がれているのだそうです。

 

これは女の子の制作でしょうか。

お雛さまのようです。

前の、箱の中の、色付けした小さな石も、全部、お地蔵さま。

地蔵盆の期間、「出張」と称して、子供たちが外へ持ち出し、道行く人にお賽銭をねだるのに使われる地蔵です。

大胆というか、それとも、手抜きというべきか。

ベンガラの伝統の反映か、西津地区では、朱色の使用頻度が高いようだが、これは度を越しています。

しかし、頭上の卍は書いてあるから、目鼻を描かなかったのは、意図的だったのでしょうか。

ベースの石仏は浮彫されています。

地蔵の輪郭を彫ったものと自然石と両方があるようです。

これは涎かけではなく、布団でしょう。

布をかけてあるのではなく、描いてある。

手の組み方が棺桶の中の作法のようですが、寝ているとすれば、新宿2丁目風に私には見えます。

化粧地蔵を探し回っている時、床屋の前を通りかかった。

 見ると店の前のコンクリートブロックが彩色されています。

子どものころから、石に色を塗って育ってきた。

大人になってもついその癖が出てしまう。

小浜らしい光景だと思い、パチリ。

 

神社の脇にもお堂がある。

中の2体には目を奪われた。

 こうした作品を表現するボキャブラリーと能力がないことが、哀しい。

見事な、と書いて、その言葉の陳腐さに身がすくむ思いがします。

 

 

下の小堂の内部も、幻想世界です。

中央の地蔵は清楚で端麗にして判りいい。

問題は、両端の3点。

この2点は、まだわかる。

 

頭らしきものがあるから。

それにしても破天荒な地蔵。

ニューヨーク近代美術館に出品したいものだ。

下の作品は、何だろう。

よーく見たら、上下逆さまなのです。

描きあげて置こうとしたら、逆さまでないと安定しないことが分かった。

後先考えず、闇雲に描き始めるのは、子供だからでしょう。

後先考えるようになったら、大人になったということです。

 

後ろが直ぐ海の、このお堂の中もめくるめく化粧地蔵ワールド。

 

そうか、これがお地蔵さんの顔なんだ。

もう、言葉もない。

ただ、ポカンと口をあけて、見とれるだけ。

あか抜けた、ちょっと大人っぽいデザインと配色。

もしかしたら大人の手が加わっているのだろうか。

 

 地味でくすぶった仏像のイメージを、化粧地蔵は蹴飛ばしてしまいます。

 

地蔵盆の参加メンバーは、かつては、小学1年生から中学2年生までの男の子でした。

年の順に、大将、中将、少将と別れて、年上の大将から色を塗り始め、少将は、小さな「出張」地蔵を担当したものですが、今は子供の数がめっきり少なくなり、幼稚園児や女の子も参加するようになりました。

子どもがいなくなって、地蔵盆そのものを行わなくなった地域も増えています。

子どもがいなくなって、描き直すことがないので、油性ペイントで描いた化粧地蔵もあるのだとか。

お堂がなく、雨ざらしのお地蔵さんもあります。

掃除が行き届き、お供え物が新しい。

信仰心厚い人がいるからでしょう。

名ある寺の本堂奥におわす仏さんも、この漫画チックな、野ざらしのお地蔵さんも、わけ隔てることなく、同じように敬虔に拝む人がいる、小浜という町はすばらしいと感嘆してしまいます。

 細かく着物の柄が描いてある。

お地蔵さんは女だ、とこの子は思い込んでいるようです。

しかも少女ではなく、妙齢の御婦人。

そこはかとない色気と品性があります。

 

西津地区は、狭いながら碁盤の目のように道が交差し、化粧地蔵のお堂は、道の交差する角々にたっています。

置かれた場所や形は他のお堂(祠と呼びたいのだが、地元ではお堂と云っているので堂を使用)と変わらない。

どんな化粧地蔵かと期待して覗いたのですが、無垢な石仏があるばかり。

お大師さんでした。

石仏ならなんでも色を塗るわけではないらしい。

少なくても西津の子供たちは、お地蔵さんとお大師さんの区別はできるようです。

すばらしい。

髑髏のように、私には見えます。

まさかサングラスではないでしょう。

卍のあるお地蔵さんが多い。

意味を知りたくて、町内の寺の住職に訊いてみたが、知らないという返事でした。

 

以下、作品のみ展示。

ゆっくり鑑賞してください。

 

 

一見、関取風の人の好さそうなお兄さん。

 お地蔵さんとの接点を探そうにも、どこにも見当たらない。

お地蔵さんの、あまりの変貌ぶりに唖然、呆然。

この姿で、賽の河原に現れたら、鬼もびっくり、逃げ出すに違いない。

そういう意味で、効果的ではあります。

 

楽しい1時間半だった。

時間があれば、他の地区も回りたかった。

ネット検索すると宮津市、大津市、大江町などにも化粧地蔵はあるらしい。

子どもが主役の仏教行事は、ほかにもあるだろうが、クリエイティブな活動を伴う伝統行事は少ないでしょう。

少子化で小浜の地蔵盆も先細りになる一方だといわれています。

豊かな暮らしとは、快適と便利さを追求するだけでなく、こうした伝統文化に囲まれた暮らしでもあるはずです。

化粧地蔵を、なんとか維持、継続してほしいと心から願い、今度は、地蔵盆の当日に小浜を訪れたいものだと思うのです。

 

≪参考図書≫

○一矢典子「若狭小浜の化粧地蔵」『日本の石仏』NO143、2012年秋号所載

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


71 六地蔵考

2014-01-16 07:31:59 | 地蔵菩薩

石仏めぐりを始めてから日が浅いので、レパートリーが狭く、月2回の更新に四苦八苦している。

自堕落な正月を過ごしてぼんやりしていたら、10日になった。

更新まで、あと5日しかない。

正月だから七福神めぐりでもと思うが、谷中、浅草、隅田川、深川、目黒、小石川、品川、銀座、柴又、板橋、伊興、川越と都内と近郷の七福神は回っている。

居間に掲げてある板橋と浅草七福神の御朱印色紙

回ったことのないコースはまだいくらでもあるが、1か所回ってそれを書いてもあまりパッとしたものにはならない気がする。

どうも気乗りがしない。

では、どうするか。

時間的制約を考えると「ありもの」で処理するしかなさそうだ。

手持ちの写真フアイルから材料を探すことにした。

選んだ素材は、六地蔵。

「六地蔵考」とタイトルをつけたが、「考」えるほどの知識と能力はないので、「六地蔵いろいろ」とでもすべきか。

 

六地蔵といっても、各街道の、江戸の出入り口に在す「江戸の六地蔵」ではない。

墓地の入口に並ぶ六地蔵です。

                 円融寺(目黒区)

六地蔵の六は、六道の六。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道を意味します。

地蔵菩薩は、釈迦の没後、弥勒菩薩が出現するまでの56億7000万年の無仏の世界にあって、六道輪廻に苦しむ衆生を救済する能化といわれます。

地蔵の分身は常に六道の衢(ちまた)にあって、終日衆生と交わり、仏縁のない衆生でも救済する仏だけに、寺院の本堂の奥に座すること少なく、野仏として人々の目に触れることが多い仏でもあります。

「このような石仏はありますか」と尋ねるより「お地蔵さんはありますか」と尋ねたほうがいいくらい人々に親しまれた仏ですが、地蔵は地蔵でも、六地蔵となると話は別、途端に縁遠くなってしまいます。

この傾向は石仏愛好家でも同じ。

季刊『日本の石仏』でも地蔵をテーマの寄稿は多いが、六地蔵はほぼ皆無、無視された状態です。

みんなが無視するものに執着するのが、私の性癖。

六地蔵は、恰好なテーマということになります。

前口上はこれくらいにして、本題へ。

 

六地蔵と聞いて、まず思い出すのは、源心寺(市原市)の六地蔵。

             源心寺(市原市)

門を入ると左手の巨大な六地蔵が目を引く。

光背型の座像だが、それでも高さ2.5m。

伏し目がちにゆったりと坐すお姿は神々しいばかりです。

造立年は万治年間と推測されていて、向かって右から2番目には「逆修」の文字。

開基者の娘が自分のために建てたものと見られています。

大きいといえば、地蔵院(越谷市)の六地蔵もなかなかのもの。

山門から本堂へ向かう途中の、六角地蔵堂に六地蔵はおわします。

 地蔵院(越谷市)の六角地蔵堂

施錠されていて格子の間から覗くだけですが、見上げる大きさ。

狭いお堂にまるで罰ゲームのように、お地蔵さんが肩を接していらっしゃいます。

丸々とした体躯は、これで筋肉質ならば、仏というよりもプロレスラーでしょう。

源心寺と地蔵院二つの事例を見ました。

実はこの2例、六地蔵としては、例外に属する石仏なのです。

規格外れの大きさは、勿論、例外的なのですが、源心寺の場合は座像であること、地蔵院のは堂内に施錠されていること、が珍しい。

大半は立像で、墓地の入口に並んでいるのが普通です。

         称禅寺(みどり市)

上のスタイルが最も普遍的な丸彫り立像。

下は大型の光背型浮彫り立像。

              真栄寺(我孫子市) 

中央に阿弥陀如来。

制作年は宝永年間(1704-1711)です。

同じく大型ですが、下は角柱型浮彫り立像。

       慈恩寺(本庄市)

 

頭部の円光背も2種類がある。

      法泉寺(墨田区)  

 

           大秀寺(葛飾区)

ここで冒頭に戻って、座像六地蔵について。

地蔵尊の調査に没頭すること40年、3800基余りのお地蔵さんを調べつくした故三吉朋十さんはその著書『武蔵野の地蔵尊』の中で、次のように書いている。

          多聞寺(墨田区)の座姿六観音

「多聞寺(墨田区墨田)では、墓地内に南面して丸彫り、座姿の六態地蔵を安置する。けだし、座姿六体が揃っての石彫地蔵の例は希少である。石彫りの地蔵は数において立姿がその大半を占め、ついで座姿のものは大概独尊であるが、都内での座姿六地蔵は当寺の他に、練馬区の三宝寺、千代田区の心法寺、荒川区の南泉寺など数か寺にある。このほか埼玉県児玉郡に4か寺、北葛飾郡松伏に一組ある」。

要するに、座像六観音は極めて珍しいというのです。

 心法寺(千代田区)は区内唯一の寺 

 

         南泉寺(荒川区)

三吉氏の指摘以外では、実相院(世田谷区)にもあるが、像が新しい。

             実相院(世田谷区)

『武蔵野の地蔵尊 都内編』は1975年刊行だから、その後に造られたものと思われる。

私の写真フアイルには、この他、群馬県、長野県、富山県の座姿六地蔵があるので載せておく。

         林昌寺(中之条市)

            路傍(松本市)

  万福寺(砺波市) 六地蔵の両側は不動明王

 

非常に多い立像六地蔵と希少な座像六地蔵を見てきたが、この立姿、座姿は儀軌に書かれているわけではありません。

どの仏像にも、あるべき像容を記したお手本(儀軌)がありますが、六地蔵にはないらしいのです。

「六地蔵の名称や形像には、教義的な背景は存在しない」(速水侑『地蔵信仰の展開』)のは、六地蔵に関する経典が、中国伝来のものではなく、日本で作られたものだから、と考えられています。

と、いうことは、六地蔵を彫る石工は何の制約もなく、自由に彫刻できることを意味します。

その典型例は、浄鏡寺(宇都宮市)の六地蔵。

            浄鏡寺(宇都宮市)の六地蔵

寺の境内より、近代美術館にあるほうがふさわしい芸術品。

何の制約もなく自由に、とはいえ、これほど伸びやかな作品を発注し、受け入れた住職がいるなんて。

浄鏡寺ほど「飛んで」はいないものの、お地蔵さんのイメージを打ち破る六地蔵は他にもいくつかあります。

               愛染院(練馬区)

旧来のスタイルを保ちながらも、顔が面白い。

どこかモアイ像に似ていると思いませんか。

              西芳寺(杉並区)

六地蔵というよりは、羅漢といった方がよさそうな・・・

                  西光寺(匝瑳市)

これは、また、リアルな造形。

石工の隣近所、幼馴染をそのまま写したかのような、仏というより俗人そのものの六地蔵です。

お地蔵さんだから、幼児体型もある。

幼児の場合は、リアルさは影をひそめ、大胆なデフォルメ作品が目立つ。

                   地蔵院(印西市)

墓参者を笑顔で迎える六地蔵。

笑う地蔵とはすごい。

その発想に脱帽。

            西福寺(世田谷区)

六地蔵というよりは、かわいらしいオブジェとでもいおうか。

真ん中左の像は錫杖を持っている。

涎かけを外せば、それなりの持物を持ち、しかるべき所作をしているのかもしれない。

めくってみるべきだった。

後悔先に立たず。

ここで先ほどの浄鏡寺のシュールな六地蔵に戻ります。

よく見ると台石に文字。

「護讃地蔵」と書いてあります。

初めて接する地蔵名。

ネットで調べてみた。

六地蔵の内の一つの名称でした。

六地蔵それぞれに名前があるとは。

ちなみに、浄鏡寺の六地蔵の名前は、延命地蔵(地獄)、弁尼地蔵(餓鬼)、讃龍地蔵(畜生)、護讃地蔵(修羅)、破勝地蔵(人間)、不休息地蔵(天上)。

六地蔵の名前を初めて見た、と思ったのですが、写真フアイルをチェックすると、名前付きの六地蔵がありました。

不注意で恥ずかしい。

大正寺の六地蔵は、浄鏡寺のと同じ名称。

                 大正寺(調布市)

左から、讃龍、不休息、延命、破勝、弁尼、護讃と並んでいます。

写真フアイルには、他にも名前を表示した六地蔵がありました。

驚いたことになんと浄鏡寺や大正寺の六地蔵とは異なった名前だったのです。

    持地(修羅)   鶏亀(地獄)  法印(畜生) 宝性(人間) 陀羅尼(餓鬼)法性(天上) 

                                                              興禅寺(富士見市)

金剛願(天上) 金剛宝(人間) 金剛悲(修羅) 金剛幢(畜生) 放光王(餓鬼) 預天賀(地獄)

                                                                安龍寺(鴻巣市)

無二(餓鬼) 伏勝(天上) 諸龍(修羅) 禅林(地獄) 護讃(畜生) 伏息(人間) 

                                                         高倉寺(木更津市)       

なぜ、こんなに六地蔵の名前が違うのか。

中国からの経典ではなく、日本で発案されたことに原因がありそうです。

六地蔵が初めて記録されたのは、『今昔物語』(1110年頃)。

巻17の第23話の玉祖惟高(たまおやこれたか)の地蔵霊験譚でした。

「周防の国玉祖神社の宮司玉祖惟高は病におかされ、息絶えて冥途へ旅立った。冥途の広野で道に迷っていると6人の小僧が近づいてきた。6人のうち、一人は香炉を捧げ持ち、一人は掌を合わせ、一人は宝珠を、一人は錫杖を、一人は花筥を、一人は数珠を手に持っていた。
香炉を持ちたるひとの曰く『汝我らを知るや否や。我らは六地蔵尊なり。六趣衆生を救はんがため、六種の身を現ず。汝巫属といへども久しく我に帰するなり。これをもって汝を本土に帰らしむ。汝かならず我が像を作り恭敬をいたせ』。
間もなく惟高は息を吹き返し、蘇生した。彼は、お堂を建て、六人の小僧に似た地蔵を造立して供養した。」というストーリー。

六人の小僧の持物は記録されているが、名前はない。

総ての六地蔵の持物が共通なのは、この記録に拠るものです。

名前はない。

しかし、ないのは困るからつけよう。

各宗派がそれぞれの理屈をつけて名前をつけた。

六地蔵にいくつもの名前がある、これがその理由だと私は推測するのです。

 

六地蔵に名前があることが信じられないのは、丸彫りの六地蔵ばかりではないからです。

一石六地蔵も少なくありません。

一石だから六体揃っての一つの世界という感覚が強くなって、個々の独自性は希薄にならざるを得ない。

 

 来迎阿弥陀如来をいただく一石六地蔵  観音堂(野田市)

             宝泉寺(渋谷区)

        松光寺(港区) 

 一体ごとに戒名がつく一石六地蔵墓標 観音寺(野田市)                 

まして、フオルムの面白さを追求する最近の作品では、陀羅尼地蔵だ、金剛悲地蔵だなんて云うのは空しくなってしまう。

             真福寺(さいたま市)

丸彫り六地蔵よりも一石六地蔵のほうが、石彫作品として面白いものが多いようだ。

一石六地蔵があれば、二石六地蔵があり、三石六地蔵もある。

     円光院(練馬)の二石六地蔵(享保年間1716-1736)

  蓮華院(幸手市)の二石六地蔵(天保年間1830-1844

 大地主原島家跡(高山市)の三石六地蔵

いろんな人がいて、いろんな六地蔵がある。

世の中は、だから面白い。

 

一石六地蔵といえば、こんな「発見」がある。

「発見」したのは、私ではない。

『武蔵野の地蔵尊』の著者、故三吉朋十氏。

豊島区染井墓地近くの西福寺には、高さ1.6m、舟形光背に六地蔵を一列に浮き彫りにした石碑がある。

 

    西福寺(豊島区)

明暦元年(1655)の造立で施主は10人。

中央に「奉造立六地蔵尊容為二世安楽也」と刻されています。

広い碑面に小さい六地蔵を横に一列並べる手法は珍しい。

この珍しい手法の一石六地蔵が練馬区の金乗院にもあるのです。

 

    金乗院(練馬区)の一石六地蔵とそのアップ

六地蔵の配列は異なるが、像容は酷似しています。

造立年は明暦2年、だから西福寺の碑の1年後。

三吉氏は、同一石工の作品ではないかと推測します。

 

何気なく「明暦2年」と書いて、今、気付いたのは、これは今に残る江戸石仏のもっとも古い時代に属するということ。

なかなか明暦の石碑にお目にかかることはありません。

丸彫りにしろ、一石六地蔵にしろ、造立年を銘記するものはごく少数で、銘記してあっても読めなかったりするので、年代を特定できるのは限られています。

私の写真フアイルの中では、正覚寺(台東区)の六地蔵がもっとも古くて、慶安4年(1651)。

     正覚寺(台東区)の六地蔵のうちの一体

浅草寺の石幢六地蔵は、銘記はないものの、室町時代造立かと解説板にはあります。

 

 浅草寺(台東区)の石幢六地蔵と説明板

勿論、関西に行けば、古い石造物はいくらでもある。

旅行中たまたま寄った西教寺(大津市)の六地蔵は、六体それぞれに年代が銘刻されていました。

     西教寺(大津市)

西教寺は、明智光秀の菩提寺。

琵琶湖を一望する墓地の入口に六地蔵はおわします。

 

詳しい説明板があったので、書き写しておく。

「この石仏の光背の左右にはすべて銘刻がある。六体とも天文十九庚戌六月廿四日とあり、室町時代後期にあたる天文十九年(1550)に造立されたことが分かる。一体ずつの銘文を列記すると『金剛願 三界万霊平等利益』、『放光王 道賢妙正叡三逆修』、『金剛幢 道林妙心宗春真叡逆修』、『金剛悲 覚玄妙秀西道家叡妙』、『金剛宝 当寺衆僧等逆修善根所』、『預天賀 ○恵上人廿三○忌』となる。是に拠れば、衆生の寧穏を願うもの、自己の逆修(生きているうちにあらかじめ仏事をおさめ死後の冥福を祈る)を成すものなど多くの信者によって造立されたことを示している」。

西教寺の場合は施主が異なる六地蔵だが、造立年が違い、40年かかって揃った六地蔵がある。

松林寺(杉並区)の六地蔵は墓標。

             松林寺(杉並区)

六体とも、施主と造立年が異なっています。

宝暦13年(1763)から享和3年(1803)まで、40年ものへだたりがある。

いかなる事情があったものか。

戒名には、男と女、男の子と女の子と性別、年齢の区別がない。

台座に「右五日市道、左府中裏道」と刻されているから、どこか分かれ道の角にでも立っていたのだろうか。

道標と墓標を兼ね、別々に造られた珍しい六地蔵ということになる。

珍しいといえば、線彫り六地蔵と文字六地蔵も付け加えておきたい。

   世尊院(台東区)の線彫り六地蔵

 

 常善院(足立区)「法印地蔵」と刻字されている

  石雲寺(甲府市)の「六道地蔵尊」 

六地蔵を主尊とする庚申塔もある。

蓮華院(板橋区) 日月、三猿はないが、「庚申」と刻字がある六地蔵

 

極めつけは光蔵寺(所沢市)の六地蔵。

何の変哲もなさそうだが、六体それぞれが、月待、日待、庚申待、念仏供養等各講により造立されている。

                  光蔵寺(所沢市)

 撮影時にはこの特殊性に気付かなかったので、刻字をアップでとらえてない。

再撮影に行きたいが、15日までには間に合いそうもない。

誠に残念。

なお、石幢六地蔵もフアイルには沢山あるが、選択の基準が判らないので、割愛した。

よだれかけもいろいろある。

別な機会に取り上げるつもりです。

 

このブログを仕上げ、アップした翌日、石仏めぐりで印西市へ。

道端に小さい石仏が並んでいる。

隣が野墓地だから、六地蔵だろう。

素朴で愛らしい。

六地蔵を書いたばかりなので、愛着がある。

つい、パチリ。

 

≪参考図書≫

○三吉朋十『武蔵野の地蔵尊 都内編』昭和47年

○石川純一郎『地蔵の世界』1995年

○榊原勲「六地蔵は形相の自由が人気の秘密」(『日本の石仏』NO71 1994年)

○石井亜矢子『仏像図解新書』2010

○日本石仏協会『石仏地図手帳埼玉篇』昭和63年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


49 甲府盆地のでか地蔵

2013-02-16 08:46:08 | 地蔵菩薩

3.11地震での原発事故を「想定外」と当事者は弁解したが、そもそも想定内で物事が収まると思うほうが間違っている。

意外なシーン展開があるほど芝居は面白い。

予想外なことがあるから人生は楽しいのです。

常識の壁がもろいことは、もはや、常識なのです。

お地蔵さんの世界も同様。

お地蔵さんはこれくらいの大きさと決めつけてはいませんか。

下の写真を観てください。

これもお地蔵さんなのです。

場所は、甲府市のほぼ中央、東光寺3丁目の国道6号線の真下。

狭い坂道の片側に御座すので、大きな岩があるとは思っても、これが地蔵だとはだれも気付かないでしょう。

首をかなり無理して上を見上げなければ、地蔵の顔は見えないからです。

背後には「御長弐丈八尺七寸六分」と刻されている。

メートルにすれば、8.7m。

元々は、岩そのものが御神体でした。

人々は岩に手を合わせていた。

 

仏教が伝来し、石仏が身近な存在になって来ると、この岩に仏頭を乗せてお地蔵さんにしようという輩が出始める。

岩が神から仏に変わったのは、刻銘によれば、宝永4年3月。

甲府宰相綱豊が六代将軍になるのは、その2年後の宝永6年のことです。

 

自然石に仏頭をのせるスタイルの、このでか地蔵は、甲府盆地の北側を走る北山道沿いに甲府市に4体、笛吹市と山梨市に1体ずつ計6体が報告されている。

今回は、甲府盆地を西から東へと移動しながら、6体のでか地蔵を尋ね歩きます。

最初は青松院の合羽地蔵。

青松院は、甲府市から昇仙峡に向かう途中の山宮町にあります。

目的のでか地蔵は、本堂前に座していらっしゃる。

 

傍らの石柱には、「合羽地蔵」の文字。

 身体の部分の自然石のすそ広がりが、合羽を着た姿に似ているからだそうです。

そう言われれば、合羽をガサガサ音立てて登校する中学生の男の子に見えなくもない。

頭と身体の石質の違いが、アップにするとよく分かる。

本堂裏に回ると見事な石庭が広がっています。

こうした石庭はこの地方の寺には良く見られる形式です。

ということは、つまり、この地方は石が豊富だということになります。

 

西から二番目の塩澤寺は、宿泊した湯村温泉の旅館から歩いて1分。

朝食前にふらりと行って見ることに。

年に一度の厄除け地蔵祭が明日からと云う事で、幟が翻り、提灯が揺れて、寺は祭の準備の真っ最中。

 

10世紀開基の古い寺だから、中世の石造物がごろごろある。

 

甲府盆地最古の弥陀種子板碑  右端が応永7年(1347)の無縫塔

それらを見ながら、墓地へ向かうと異様に鼻の大きなでか地蔵が目に飛び込んできた。

通称「たんきりまっちゃん」。

なぜそう呼ばれるのか、説明板がないので、不明。

鼻をこれだけ強調するのにはそれなりの訳がありそうだが、それが皆目分からない。

鼻のつく言葉はいろいろあるが、どれもマイナスイメージばかりで、そのこともわけを分かりにくくしている。

「鼻息か荒い」

「鼻毛を読まれる」

「鼻先であしらう」

「鼻つまみ」

「鼻で笑う」

「鼻にかける」

「鼻もちならない」

「鼻をあかす」

「鼻を高くする」

「鼻をへし折る」

「一度でいいから鼻毛をぬかれてみたかった」などと下らないことを思いつつ宿へ。

道の端にガムテープが等間隔に貼ってある。

近寄ってみたら「バナナ」の文字。

祭に出店する屋台の地割りの印しだった。

結局、鼻が大きい理由については、お手上げのまま。

どなたか教えてください。

 

三番目は、冒頭のでか地蔵なので、パス。

そのまま南下して中央線を越え、国道411号にぶつかったら右折、西へ進む。

身延線金手駅前の瑞泉寺が目的四番目の寺。

本堂前の植え込みの中に高さ50㎝ほどの仏頭がある。

 

螺髪ではなく坊主頭だから、地蔵菩薩の頭に違いない。

傍らに説明板がある。

「ひきとり地蔵

古く伝わるこの名前
うき世のなやみ
この世のまよい
慈悲のまなざし
清らに照らし
身命おしまず
ひきとります
みんなのやすらぎ
大きなねがい
お地蔵さまの
おやくそく」

全ての悩みと迷いを引きうけて安らぎを与えると宣言するのだからすごい。

仏頭だけで五体不満足なお地蔵さんにそんな力があるのだろうか。

工事中、地中から掘り出されたもので、身体に相当する石は探しても見当たらなかったという。

仏頭というと日光の浄光寺に御座す「憾満親地蔵御首」が有名だが、こちらは大谷(だいや)川川渕の並び地蔵が洪水で流されたものを掘り起こしたもので、もともとお体があったことは分かっている。

 

浄光寺(日光市)の憾満親地蔵御首

       大谷川沿いの並び地蔵

 仏頭だけの仏はいかにも不自然で、身体部分はどこかにあるものと思う。

18年前の資料には「本堂裏の庭園に大きな岩がある。高さ3mほどで頭部とのバランスも丁度いい。もしかしたら、これが身体部分てはないか」とある。

行ってみたが、塀で囲われていて、中の様子が分からない。

残念。

 

次の目的地は、笛吹市内の保善寺。

国道140号の雁坂みちをを一路東へ。

JR「石和温泉駅」を過ぎて約1.5キロ、鎮目北を左折すると保善寺がある。

肝心のでか地蔵は本堂左の石造物群の中に座している。

 

でか地蔵というには小さく、普通のお地蔵さんにしては大きい、そんなサイズ。

自然石の上に仏頭というスタイルは、他の5体と共通している。

名前も謂れもない、寂しいお地蔵さんです。

帰宅してテレビを観ていたら、体重が300キロを超え、ダイエットしないと命に関わるというアメリカの女性を放送していた。

どこかで見たことがあるなと思いながら観ていたのだが、このお地蔵さんと皮膚の感じがそっくりだった。

ゴツゴツした身体に比べて、顔はすっきり、さっぱりしている。

この自然石の上に乗せる頭だと確認した上で石工は彫ったのだろうが、身体とあわせて違和感のない頭をなぜ造らなかったのだろうか、訊いて見たい気がする。

 

雁坂みちを左折、日本三大夜景のひとつ、フルーツ公園を通り抜けると最終目的地、山梨市水口集落に着く。

緩い坂道を上って行くとデンと構えたデカ地蔵がにらみをきかせている。

地蔵の前には、丸石道祖神も御座す。

この集落の、昔からの信仰の場だったに違いない。

でか地蔵は「首地蔵」と呼ばれているらしい。

 

説明板がある。

少々、長いけれど、書き写しておく。

「昔、大雨が続いて山の地盤が緩み、大きな土砂崩れが起きて、中組の数軒の家をつぶしてしまった。その時転落してきた大きな岩の下敷きになって御子守さんの娘が背負った赤ん坊とともに死んだ。一説によるとその娘はオミヨという12歳の少女であったという。それ以来村の赤ん坊がひどい夜泣きをしたり、何かにおびえるようになって、娘の霊が祟っているとうわさされた。落ちてきた大岩からも夜になるとすすり泣きの声が聞こえてきたという。そこを訪れた旅の僧が娘の慰霊のために石を彫って地蔵の首を作り、巨岩の上に乗せて供養をしたところ赤子の夜泣きもすっかりおさまった。それ以来村人たちは首地蔵に香華をささげ、供養を怠ることがなかったという。ある時道路が拡張されることとなって、首地蔵の巨岩が邪魔になり、岩を割って撤去することになった。石屋が岩に穴を開けたところ、その石屋は家に帰った後、高熱を出して苦しんだ。娘の霊が祟っているということになり、工事は中止されて、今でも地蔵は道路端に残され、岩が道路に少しはみ出たままになっている。またこの岩はもとは道路の反対側にあり、道路の舗装工事の際に現位置に動かしたところ事故が起きて工事人夫が大怪我をしたとも伝えられている。                               平成24年3月」

この首地蔵を見て、万治の石仏を思い浮かべる人もいるのではないだろうか。

      万治の石仏(長野県下諏訪町)

 自然石に首が乗っているところはまったく同じ。

石の大きさもほぼ同じだが、首の向きが逆になっている。

最も大きな違いは、首地蔵が地蔵菩薩であるのに対し、万治の石仏は阿弥陀如来であること。

万治の石仏の首の下には、薄肉彫りで弥陀の定印が彫られ、横には「南無阿弥陀仏」の六字名号もある。

阿弥陀さんとお地蔵さんは別物だから、首地蔵は万治の石仏の影響を受けていないと云うのは、言い過ぎ でしょう。

万治の石仏は、始祖木食弾誓の50回忌供養のために弟子によって造仏された。

弾誓が山岳修行の上、開眼したのは佐渡の岩屋口の洞窟でした。(注:カテゴリーから「木食弾誓と後継者」をクリック「それは佐渡から始まった(1)」をご覧ください)

生きる阿弥陀如来として、弾誓は再生したのです。

弾誓開眼の地だから、佐渡にはその弟子たちの足跡も多く残っています。

彼らは作仏聖でもあったから、その足跡は、仏像や石仏として残ることになります。

とりわけ多いのが地蔵石仏。

佐渡が、地蔵の島といわれるのは、弾誓派の活動によるものと考えて差し支えありません。

その作風の特徴は、平べったい顔に大きな鼻。

 法然寺(佐渡市相川)の地蔵菩薩

彫技の稚拙さがおおらかさをもたらしています。

大きな鼻といえば、塩澤寺の「たんきりまっちゃん」を思い出す。

 

       万治の石仏            塩澤寺のたんきりまっちやん

弾誓派の名残りが、甲府のでか地蔵にもどこかあるように思えてなりません。

 

ところで、甲府盆地を西から東へ巡って、気付いたのは巨石があちこちにあること。

巨石、巨岩が多いから、でか地蔵もあるということになります。

地図を見ると大石神社があるので、行ってみた。

石段を見て、たじろいだ。

頂上が見えないほど長い。

やっとの思いで着いた本殿の背後のご神体は、高さ12m、周囲67m。

 

昔から磐座として祀られてきたこの御影石を中心に、周囲には巨岩がごろごろ点在している。

 

巨石、巨岩を神として崇めるアミニズムの時代が長く続いた。

巨石信仰に仏教が接近するのは、山伏たち山岳修行者を通してだった。

弾誓とその後継者も山伏の一員である。

彼らはその教義を仏頭伝授という秘儀で伝えていた。

仏頭と巨石の繋がりは、こうして生じたのではないか。

証拠はないけれど、このように夢想するのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


33 よし子地蔵

2012-06-16 09:13:46 | 地蔵菩薩

人の行為には、すべて、きっかけや動機があります。

私が石仏めぐりを始めたのは、あるお地蔵さんに出会ったからでした。

今回は、このお地蔵さんについての話です。

私は東京生まれですが、育ったのは佐渡です。

1年生になる春、入学するはずの小学校は疎開してありませんでした。

父と母の田舎、佐渡へ移って、小学校から高校まで過ごしました。

今、74歳ですから、佐渡にいた15年間は、人生のほんのわずかな期間なのですが、多感な時期だっただけに佐渡に対する思い入れは大きなものがあります。

佐渡は島です。

島だから隅々まで知っている、と思われがちですが、とんでもない。

日本一の大きな島ですから、行ったことのない場所の方がずっと多いのです。

今から5年前、古稀を迎える直前、一つのことを心に決めました。

行ったことがない、まだ知らない佐渡に出会ってみたい。

島の隅々まで回ってみたい。

その手段として選んだのが、「佐渡八十八カ所」巡りでした。

この選択は正解でした。

島中に点在する寺を巡ることは、島の地理と近世史を知る近道だったのです。

予期せぬ、多くの石仏、石造物に出会えたことも収穫の一つでした。

特に地蔵菩薩。

佐渡は地蔵の島と言われます。

寺にお堂に四辻に、田圃に海岸に岬に、島の至る所にお地蔵さんが立っています。

観音様や庚申塔、馬頭観音もありますが、圧倒的にお地蔵さんが多いのです。

数が多いだけに、魅力的なお地蔵さんも少なくありません。

冒頭のお地蔵さんもその一つ。

実は、このお地蔵さん、佐渡博物館の中庭にいらっしゃいます。

なにはともあれ、その頬笑みがすばらしい。

普通は閉じているはずの目が、細いながらも開いています。

「お悩みは何?」と、こちらの目を見ながら問いかけているかのようです。

石であることを忘れさせる柔和な表情は、いかなる悩みも受け止めてくれる包容力に満ちています。

目じりの下がった眼が微笑の源ですが、両端がちょっと上がった口元も頬笑みを強めています。

こんなに微笑んだ仏様は、大きな寺の本堂では決してお目にかかれません。

野仏だからこそお目にかかれるのです。

 

石仏の微笑というと、小泉八雲の『日本人の微笑』を思い浮かべます。

小泉八雲が京都の小さなお寺の入口でお地蔵さんを見ていると、そこへ十歳ほどの少年が走り寄ってきて、お地蔵さんに手を合わせ、頭をさげて黙とうしたというのです。その少年の微笑は、お地蔵さんの微笑と似ているので、まるで少年と地蔵は双子のように見えたのだそうですが、お地蔵さんの微笑みは日本人の微笑だったのではないかと小泉八雲は云うのです。

明治時代、日本に来たイギリス人には日本人の微笑は不可解でした。失敗を犯したことで鞭打たれながらも微笑みを絶やさない車夫、夫が死んだからと笑いながら休暇を求める女中、こうした日本人の微笑は理解できないと嘆く同胞に対して小泉八雲は、この微笑は日本人の礼儀正しさに因るものだと説くのです。「これをあなたは不幸な事件とお考えになるでしょうが、どうかそんなつまらない事にお心を悩まさないでください。やむを得ずこんなことを言って、礼儀を破ることになったことをお許しください」。微笑は長い間に育まれた礼法であり、無言の言語なのだと小泉八雲は喝破するのです。

閑話休題。

当のお地蔵さんは、観音様や不動明王などと一緒に佐渡博物館の中庭に「展示」されています。

博物館の展示品であるならば、由緒ある石仏であるに違いないと思ったとしても不思議ではありません。

でも、どの石仏にも由緒は表示されていません。

今なら、石工としても未熟な作り手の作品だと分かりますが、石仏に出会ったばかりの頃ですから、どんな名のある石工の作品なのだろうか、いかなる歴史ある寺の石仏なのだろうかと想像は膨らむばかりでした。

幸い、高校の同級生が博物館員だったので、お地蔵さんの氏素性を尋ねる手紙を出しました。

嬉しいことに、すぐ返事がありました。

「お手紙のお地蔵さんは、昭和43年に博物館に入ったものです」と前置きがあり、以下本文。

「通称、よし子地蔵。昭和17,8年頃、福井県から夏休みに親戚のお寺に遊びにきていた女の子が相川鉱山のトラックに敷かれて死亡した。女の子の名前は、よし子。その子の供養のために造られたので、よし子地蔵と呼んでいる。よし子地蔵をお守りしてきた鈴木あさよさんは、ご主人を亡くし一人で暮らしてきたが、このたび、宮城県にいる息子さんの所に身を寄せることになり、当地蔵を博物館に寄贈することになった」。

石仏といえば、江戸時代のものと決めていたので、昭和の彫像と知って意表をつかれた思い。

手紙は、石工についても触れられています。

「石工は相川水金町(相川遊郭のあった町)の石坂石屋さん。現在は廃業して家は廃屋になっている。よし子地蔵は、石坂平八郎さんかその親父さんの手になるものと思われる。相川の石屋・三木石材店のご主人の話。『相川の石屋はいわゆる石材屋で、地蔵などの細工物はやらないのが普通。石坂さんも頼まれたので、仕方なしに造ったのでしょう。あまりうまくないとおもいますよ』」。

三木石材店のご主人の話は、友人が電話して訊いてくれたものらしい。

「あまりうまくないと思う」という石材店主人のコメントを受けて「それが結果として佐渡の類型的な地蔵顔でない地蔵さんになったのでしょう」と友人は言うのです。

そして、次のように結論づけています。

「稚拙というか細工下手というか、はたまた親御さんの気持ちを汲んで、石坂さんがあえて従来の地蔵顔にとらわれず自分の子供地蔵を表現したのでは、とも推測できます。当時の一般的地蔵のお姿からすると大変ユニークで多くの人の目を引き、足をとめたと思います」。

加えて、受け入れを担当した館員のコメントも付いています。

彼は石仏の専門家なので、そのコメントは正鵠を射ていると思って良さそうです。

「彫り方は稚拙で、頭などは目と口を刻みこんだだけ。つりあいもよくない。合掌の手と衣文も不自然である。相川の石工というが、昭和の時代となるとこれ位の彫りが精いっぱいになっている。しかし、こうした幼稚な彫りに、一種の面白さがあるようにも思う」。

歴史学的にも民俗学的にも無価値で彫技も未熟だが、味がある。

だから博物館で展示するというのは、大胆な決断ですが、狙いは的中、よし子地蔵に私は蠱惑されてしまうのです。

これをきっかけに、それまで見向きもしなかった石仏に目を向けるようになります。

趣味は石仏めぐりと言うのに躊躇がなくなるほど、生活が一変しました。

第2、第3のよし子地蔵を見つけたかったからですが、目的は達せられず、代わりに自分にそっくりな地蔵に出会いました。

場所は、双体道祖神のメッカ旧倉渕村(現高崎市)の墓地。

自分に自分が手を合わせるというのは、なんとも奇妙な感覚でした。

 

よし子地蔵は佐渡の恋人ですから、帰郷する度に会いに行くのですが、名前が分かってからは、やや複雑な気持ちに。

偶然のなせる業とは分かっていても不思議でたまらない。

来年金婚式を迎える、そのパートナーがよし子なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


25 東京とその近郊の塩地蔵図鑑(2)

2012-02-15 10:49:31 | 地蔵菩薩

○大宗寺(浄土宗)
 東京都新宿区新宿2-9-2


古色蒼然とした覆屋に塩で埋もれた地蔵坐像が記憶にあった。

写真フアイルをチェックしたら一昨年3月の写真が出てきた。

確かに白いドレスを着ているかのように全身真っ白だ。

だが、今は違う。

 

塩はかかってはいるが、「埋もれた」状態ではない。

なにもかも全体を新しくしたばかりらしい。

オデキを治すのには、ここの塩を患部に塗る。

治ったら倍返しのお礼参りをするのは他所の塩地蔵と同じである。

夏目漱石が幼年の頃、「大宗寺」の前に住んでいたことはよく知られている。

 寺の山門を入って右にある銅製地蔵坐像は江戸六地蔵のひとつだが、このお地蔵さんによじ登って遊んだことが『道草』に書いてある。

「塩かけ地蔵」も遊び場の一つだったのだろうか。

 

○東福寺(天台宗)
 東京都渋谷区渋谷3-5 

「大宗寺」は新宿の夜の繁華街のど真ん中にあるが、「東福寺」も渋谷の喧騒のすぐ傍にある。

周囲の環境を考えれば、境内は信じられない程の静寂に包まれている。

その静寂は、渋谷区最古の寺にふさわしい。

山門を入ると 舟形光背の地蔵が一基。

足元に3猿。

地蔵菩薩を主尊とする庚申塔だが、問題はその刻文。

「奉造立地蔵菩薩現当二世能化文明二年壬辰願主石塚云々」。

文明2年(1470)は足利時代、540年も前のことになる。

江戸か明治、後で誰かが「文明」と彫り変えた、という見方がもっぱららしい。

横道にそれた。

肝心の塩地蔵は「文明」庚申塔の傍らにおわす。

格子戸越しなのではっきりしないが、古くてとけた地蔵は、新しい地蔵の背後にいらっしゃるようだ。

 

○魚藍寺(浄土宗)
 東京都港区三田4-8-34

インパクトのある赤門をくぐる。

本堂右手に塩地蔵はおわす。

この塩地蔵について寺縁起は以下のように伝えている。

「塩地蔵さまは、昔、高輪の海中から出現されたと伝えられ、塩を供えて願をかければ、願い事がかない、また人に代わって災難を受けてくださるお地蔵さまとして尊信されています。願い事がかなった時は、また塩をお供え感謝御礼致します。海から上がったお地蔵様は、石質がもろかったために、こわれて現在はお代座だけを残して、その下に埋め、その上に新たにお地蔵さまをおまつりしてあります」(魚藍寺縁起)

海中から出現した地蔵には首がなかった。

首だけ後でつけたので、先代の塩地蔵は、首と体の色が違っていたという。

二代目を造立する時、その色の違いを再現するように心がけたらしい。

なるほど、制作意図ははっきりと読み取ることができる。

「塩地蔵」はあるが、塩を奉納する風習がなくなって、塩を用意する寺が多くなっている。

しかし、「魚藍寺」はそんな心配は無用のようだ。

供えられた塩の袋の多様さが奉納する信者の存在を物語っている。

 

○地蔵堂
 東京都港区三田5-9-23

三田界隈の寺めぐりをしていて、偶然通りかかった地蔵堂。

お地蔵さんは「志ほあみ地蔵尊」なるたすきをかけている。

熱心な信者の手で大切に護られている感じがする。

地蔵堂の裏は「龍源寺」というお寺。

「志ほあみ地蔵」と「龍源寺」で検索してみるが、反応なし。

「志ほあみ」は「潮網」でもあり、「潮浴み」でもある。

海中から出現したお地蔵さんではないかと思うが、どうだろうか。

 港区にはこの他、「塩地蔵」の「大養寺」(芝西久保)、「教善寺」(麻布六本木)、「梅窓院」(南青山)、「子育て塩地蔵」の「正光院」(元麻布)、「潮噴地蔵」の「永昌院」などの存在が江戸期の資料で確かめられているが、いずれも現在、姿がないようです。

○大円寺(天台宗)
 東京都目黒区下目黒1-8-5

「大円寺」の「とろけ地蔵」をネットで検索すると

①海中から出現した。

②「大円寺」が火元の明和の大火の熱でとろけた。

③すべての悩みをとろけさせ、解消してくれる、とある。

海中から出現した時に既に像容が崩れていたことはありうるが、大火の熱でとろけたというのは信じがたい。

太平洋戦争での東京大空襲で焼け焦げた石仏を数多く見てきたが、全身真っ黒になりはするが、溶けてのっぺりした姿にはならない。

このとろけ方は大量の塩に長年埋もれていた石仏に特徴的な姿なのです。

塩でとろけた地蔵が火災に遭ったと見た方がよさそうだ。

ただし、寺では塩奉納の習俗はなかったと言っている。

「悩みをとろけさせてくれる」そうで、まことにめでたい。

「イワシの頭も信心から」というではないか。

「信じる者は救われる」のだ。

 ○徳蔵寺(天台宗)
 東京都品川区西五反田3-5-15

すべて物事は需要と供給のバランスの上に成り立っている。

だが、品川区の「塩地蔵」分布はその常識を覆している。

「徳蔵寺」と「安楽寺」、二つの寺に「塩地蔵」はあるのだが、その距離はわずか500メートル。

どちらが先でどちらが後かは知らないが、すぐ傍に「塩地蔵」があることを知りながら、新たに「塩地蔵」を設けるのはいかなる理由によるものか。

願のかけようがちょっと異なっている。

 徳蔵寺の「塩地蔵」       安楽寺の塩かけ地蔵

「徳蔵寺」の「塩地蔵」の場合、仏前の塩を持ち帰り、風呂に入れて入浴すると効能があるとされているが、「安楽寺」の「塩かけ地蔵」は地蔵の足元に塩を供えることになっている。

たしかに「塩かけ地蔵」の下半身は塩害でいちじるしくやせ細っているようだ。

 

○胤重寺(浄土宗)
 千葉県千葉市中央区市場町10-11

「いぼ地蔵」だが、塩を塗っていぼを取るから「塩地蔵」と同義。

「いぼ地蔵」は新しいお地蔵さんで、まだ五体満足。

先代はやせ衰えた身体をお堂の脇に晒していた。

 

○聖徳寺(浄土宗)
埼玉県越谷市北川崎18

墓地に寛永11年の板碑型墓標かある。

塩地蔵も古いのだろうか。

お堂の中に安置されていて、よく見えないのだが、像容が崩れて、特に顔が縮んでいるように見える。

お堂の前に籠がぶら下がっていて、中に塩の袋がいくつか見える。

庫裏に声をかければ、格子戸をあけてくれるようだ。

 

○大長寺(浄土宗)
 埼玉県行田市行田23-10

 「大長寺」の「塩盛り地蔵」には行田市の寺めぐりをしていて、偶然、出会った。

円錐形にそそり立つ塩の量に驚いた。

解説板の説明は以下の通り。

「自らの御体を塩で清め、私たちの苦悩を除き下さる慈しみ深い菩薩様です。特に昔はイボを治す地蔵としてあがめられ、今は、心の闇を照らして救いくださる地蔵様として、慕われています。造立は千六百年頃です。
おまいりの仕方
お地蔵様に塩をたむけ、線香、賽銭などを献じ、願いを込めてお祈りします」。

 造立から400年経つことになる。

ほぼ全身に塩をかぶって、目鼻立ちこそないものの、お地蔵さんの姿を保っていることが信じられない。

目を転じると六地蔵も同様にとろけている。

今は塩はみえないが、かつては六地蔵も塩に埋もれていたのではなかろうか。

塩地蔵は、いずれも文字通り身を粉にして衆生済度を本願とする。

塩でとろけてしまうのも本望なのかもしれない。

 ○地蔵堂
 埼玉県さいたま市大宮区吉敷き町1

地蔵堂は大宮宿の旧中山道からちょっと入った所にある。

塩地蔵は小屋の奥に安置され、ガラスで仕切られている。

「お地蔵さんに塩をかけないでください。お地蔵さんが泣いています」と注意書きがある。

塩地蔵は塩をかけられてなんぼのものだろう。

かけないでというのは、行き過ぎではないか。

そもそも、かけたくてもガラスに仕切られていて、かけることなどできないのに。

この「塩地蔵」にはいわれがある。

「娘二人を連れた浪人が大宮宿で病に倒れた。地蔵が娘の枕元に立ち、塩断ちすれば病は癒えると告げた。娘たちは早速塩断ち、父親は回復した。娘たちはお礼詣りに沢山の塩を奉納した。この父娘にあやかろうと宿場の人たちも塩を供えるようになった」。

 

○慶岸寺(浄土宗)
 東京都狛江市岩戸北4-15-8

覆屋の柱に「塩地蔵菩薩」と木札がかけられている。

4体分の台座が並んでいるが、右は頭だけ、その隣は辛うじて地蔵立像と推測しうる石仏、左の2体は、「体」というのもおかしいくらい単なる石の塊で、こうまでして配列する意図が分からない。

今は塩を奉納する風習は無くなったようだが、この4体の像容の崩れ方は明らかに塩害風化によるもので、おそらく長い年月すっぽりと塩に埋もれていたに違いない。

川崎市にはなんと4カ所に塩地蔵がおわす。

○医王寺(天台宗)
 神奈川県川崎市旭町2-4-4

オデキを治すのに効く。

塩商人の商売繁盛祈願伝承も。

○成就院(真言宗智山派)
 神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町1-32-1

普通の墓標石仏に交じってたった1基の塩地蔵が立っている。

体がとけて顔もノッペラボウなのですぐ分かる。

○西明寺智山派)(真言宗)
 神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1-904

諸病平癒祈願。

参拝者は病気の部位と同じ所に塩を塗りつける。

今は取りやめになっているようだ。

○地蔵堂
 神奈川県川崎市高津区新作3-11

 「塩かけ地蔵」だが、格子戸の中に安置されていて、塩を供えられない。

 地蔵は真新しいようだ。

「医王寺」の塩地蔵と同じように塩売り商人の商売繁盛祈願のお地蔵さんだったらしい。

 

○光触寺(時宗)
 神奈川県鎌倉市十二所793

金沢八景から鎌倉に通ずる金沢街道は、別名、塩街道と呼ばれた。

六浦から鎌倉へと塩売り商人が通う道だった。

塩街道からほんの少し引っ込んだ場所にある「光触寺」は、時宗の名刹。

参道の両脇は墓地で、年代物の墓標が並んでいる。

この寺の境内に「塩なめ地蔵」がある。

この「塩なめ地蔵」の伝承は、『延命地蔵菩薩経直談』や『新編相模国風土記稿』などに詳しいが、ここでは『新編鎌倉志』から引用する。

「六浦の塩売、鎌倉に出るごとに商いの最花とて、塩をこの地蔵に供するゆえに名く。或は云、昔此石像光を放しを塩売り、像を打仆して塩を嘗めさせる。それより光を不放。故に名くと云」。

もっとも普遍化している伝承は、鎌倉へ向かう途中に塩を奉納したのに、帰りに立ち寄るとそれが無くなっていた。

地蔵が舐めたとしか思えない。

だから「塩なめ地蔵」とよばれるようになった、というもの。

 

これで「東京とその近郊の塩地蔵図鑑」(1)、(2)を終える。

面白い企画になるはずであった。

だが、終わっての感想は「つまらない」。

それが、なぜなのか、よく分からないのだから我ながらなさけない。

 

 


 

 

 


24 東京とその近郊の塩地蔵図鑑(1)

2012-02-01 08:11:53 | 地蔵菩薩

○心法寺(浄土宗)
 東京都千代田区麹町6-4-2

寺の所在地を「千代田区」と書くことは、これまでなかったし、これからもないだろう。

なぜなら、千代田区に寺は一つしかないから。

「心法寺」が、その唯一の寺なのです。

寛永13年(1637)、幕府は江戸城西方の防衛線強化のため、外濠工事に着手する。

そのため濠の内側の寺は、強制的に外濠の外に移転させられた。

千代田区に寺がない、これが大きな理由です。

「塩地蔵」は、本堂に向かって左手に2体小屋囲いされている。

「地蔵尊のお体に塩をぬってお参りをする」ために塩化作用でお地蔵さまの顔もからだもとろけてしまっている。

もともとは墓地にあったのだが、33年前、本堂の新築時に現在地に移し、新しい地蔵を加えて2体にした。

新しい地蔵のお顔も目鼻立ちが無くなりつつある。

33年という時の流れを考えると塩害は予想以上のもののようだ。

 

○宝塔寺(真言宗・智山派)

 東京都江東区大島8-38-32

小名(しょうみょう)院宝塔寺の院号は、寺の南を流れる小名木(おなぎ)川に因んだものだろう。

境内におわす「塩舐め地蔵」は、供えられた塩をぬると「いぼ」がとれることから「いぼ取り地蔵」とも呼ばれている。

塩で崩れて、顔と体は分かるが、原型を想像することもできない。

むかし、行徳方面から江戸市内に塩を売りに行く行商人たちは、必ず船を停めて「塩舐め地蔵」の足元に一握りの塩を奉納したという。

奉納した日は売り切れ、怠った日は売れ残る噂は本所深川の粋筋に流れて、料亭玄関の盛り塩も「塩舐め地蔵」のご利益にあやかったもの、とは寺のパンフレットの宣伝文句。

「塩舐め地蔵のお札あります」。

お札代300円。

お札とはお守りのことだった。

うっかりして効能を訊き忘れてしまった。

○亀戸天神
 東京都江東区亀戸3-6-1

行徳からの塩売り商人たちが塩を献じた場所が、江東区にもう一カ所ある。

亀戸天神。

塩を奉納されているのが、地蔵ではなく狛犬なので、この「塩地蔵図鑑」に入れてはいけないのかもしれないが、ちょっと触れておきたい。

雪と見間違うばかりの一面の塩の上に犬が立っている。

商売繁盛、諸病平癒の「お犬さま」だが、特にイボ取りにいいのだそうだ。

台風などで風が強い時、商人たちは隅田川から堅川に舟を繋いで風待ちをした。

暇を持て余して天神様を詣で、ついでに「お犬さま」に塩を供えたのがことの始まりだと言い伝えられている。

しかし、肝心の亀戸天神ではこれを確証のない話だとして「お犬さま」を神社のHPに載せていない。

 

○回向院(浄土宗)
 東京都墨田区両国2-8-10

回向院の「塩地蔵」は一等地におわす。

場所は申し分ないのだが、像は黒っぽく、全体が風化してメリハリがなく、印象が薄い。

「塩地蔵」としてちょっと変わっているのは、願い事をするためにお地蔵さんに塩を塗りつけるスタイルが多いのだが、ここでは願い事が成就したら塩を奉納することになっている。

だから風化は塩の浸食作用によるものではなく、長い年月による自然の風化だということになる。

足元に袋に入った塩が積まれている。

ご利益があったことになる。

前立腺障害を抱える身としては、真面目に拝みに行こうかなと思ったりするのです。

 

○浅草寺
 東京都台東区浅草2-3-1

通称「塩舐め地蔵」は銭塚地蔵の本尊分身なのか、銭塚地蔵堂前の「カンカン地蔵」なのか分からない。

 銭塚地蔵堂内            カンカン地蔵

電話で確かめようとしたが、銭塚地蔵の電話番号が「現在使われていません」と繋がらないのでお手上げ。

「銭塚地蔵堂」についての、浅草寺の「説明板」には「お堂には石造の六地蔵尊が安置されており、(中略)毎月、四の日と正、五、九の各月二十四日に法要が営まれ、参拝者は塩と線香とローソクをお供えする。特に塩をお供えするので塩舐め地蔵の名もある」とある。

文脈としては、地蔵堂内の六地蔵が塩なめ地蔵としか読めないが、カンカン地蔵を目にすると途端に六地蔵説は揺らいでしまう。

カンカン地蔵の説明板は「付随の小石で仏をごく軽くたたきお願いごとをする。石で叩くとカンカンと音がなるのでカンカン地蔵と称されている」と書いてある。

カンカン地蔵は原型をとどめない石の塊となって、無残な姿をさらけ出している。

しかし、小石で軽く叩くとこのようになるとはだれも思わないだろう。

大量の塩をかぶっていたために起きた浸食作用であることは明らかだ。

「浅草寺」の「塩舐め地蔵」はカンカン地蔵だと断言したい。

 

○源覚寺(浄土宗)

 東京都文京区小石川2-23-14

 「源覚寺」の別名は「こんにゃく閻魔」。

眼病平癒を願って閻魔さまを拝み、ご利益があればこんにゃくを供える風習がこの寺にはある。

閻魔さまが眼病ならば、「塩地蔵」の専門は歯痛。

2体のお地蔵さんは、いずれも首から上がない。

長年の塩漬けで溶けてしまったようだ。

 医学が未発達の時代、病気治癒は神仏に祈願するしかなかった。

そうした゛悲しい時代の匂い゛がこの寺には色濃く漂っている。

○えぼ地蔵祠
 東京都足立区加平1-2-5

足立区加平の「えぼ地蔵祠」は探しあぐねた。

ありふれた民家の敷地にあった。

民家の一角に祠があるなんて思いもしない。

あると思わないから、探しても目に入らないこととなる。

なんと地蔵祠のまん前で、この家のご婦人に「塩地蔵はどこですか」と訊いてしまうことに。

訊かれたご婦人も、キョトンとしていた。

「えぼ」は「いぼ」のこと。

仏前の塩を患部に塗る。

無事治れば、倍量の塩を献じてお礼参りとした。

2体の地蔵は異様な形にとろけて、原型を想像すらできない。

かつては毎年9月24日に祠の前に念仏講中が集まり、念仏を唱和したという。

 

○持寺=西新井大師 (真言宗豊山派)

 東京都足立区西新井1-15-1

 「西新井大師」の塩地蔵は、山門を潜ってすぐ左、屋台と屋台の間を入ったお堂に立っている。

参拝客は多いが、塩地蔵に足を止める人は少ない。

石に塩はこんなにくっつきやすいのか、とびっくりするほど隙間なくお地蔵さんに塩が塗りつけられている。

この塗られた塩を持ち帰り、患部に塗る。

完治すると倍量の塩を奉納する決まりがある。

いぼだけでなく、タコや魚の目にも効験があるという。

 

○智福寺(浄土宗)

 東京都練馬区上石神井4-9-26

「智福寺」境内には石造物は1基だけ。

「塩上げ地蔵」と呼ばれるその石仏は地蔵の輪郭はかすかにあるものの、原型を思い描くことは至難である。

生花が供えられているが塩は見当たらない。

石仏を埋めるばかりの供塩の行為は、今は廃止されてしまったようだ。

そうした風習が20年ほど前まで続いていたことは、とろけ地蔵の体が物語っている。

 

○大円寺(曹洞宗)
 東京都杉並区和泉3-52-18

「大円寺」の「しお地蔵」は「塩地蔵」ではなく「潮地蔵」と書く。

言い伝えでは、寛永2年(1625)、江戸湾芝浦沖で漁師の網に掛かって引き上げられたことになっている。

風化して顔の目鼻立ちはなくなっているが、これは海中にあったため全身に塩が沁み込んだためと見られている。

「大円寺」は移転寺院で、もともとは芝伊皿子にあった。

芝浦海岸は目と鼻の先にあったことになる。

地蔵の体にしみ込んだ塩分は、海の干満に合わせて仏体を濡れたり、乾いたりの状態に変化させたので「潮見地蔵」とも呼ばれている。

 ○西照寺(曹洞宗)
  東京都杉並区高円寺南2-29-3

海中から引き揚げられた仏像が本尊という寺がある。

高円寺の「西照寺」。

開基したのが日比谷で芝白金に移転し、更に明治になって現在地に移って来た。

海中というのは、日比谷の海だったと寺伝にはある。

この「西照寺」にも砂岩のとろけ地蔵がある。

顔はまるで骸骨のようだ。

当然、塩の作用によるものと思われるが、寺ではそうした塩の奉納があったことは知らないと言っているので、真相はヤブの中。

特記すべきは、造立年。

光背に「承応」の文字が見える。

杉並区内最古の石仏なので、塩地蔵かそうでないのかはっきりさせたいものだ。

(新宿区、渋谷区・・・と続きは「東京都その近郊の塩地蔵図鑑(2)」で)

 

 

 

 

 


9  木の洞(うろ)地蔵

2011-07-17 06:03:22 | 地蔵菩薩

「墓場」には二通りの意味がある。

①墓のある場所。

②かつて有益であったものが役に立たなくなり廃棄物として集積される場所。「家電のーー」

高野山一の橋から奥の院への参道一帯は、さしずめ「墓の墓場」である。

               高野山奥の院への参道

林立する諸大名家の巨大な五輪塔の多くは、参拝に訪れる者もなく、荒れるに任せて放置されている。

その巨大さは、栄華と権勢の象徴であった。

それだけに、荒廃は「虚無」をことさらに際立たせているようだ。

ここに立つと、先祖の霊を悼むというよりは、とてつもない空しさに押しつぶされそうな気持になる。

奥の院に向かって右の一角に、五輪塔墓標を積み上げた無縁供養塔がある。

奥の院の御堂改築にあたり、地面を掘ったら、中世後期の古い五輪塔墓標がわんさかと出てきた。

信長が安土城築城に際して、古い墓石を基礎工事に埋め込んだことは有名だが、当時は、信長に限らず誰もが古い墓は廃棄物として土中に埋めて平気だった。

近江の「石塔寺」の石仏群も、皆、土中から出土したものである。

高野山の巨大五輪塔の下にも小さな五輪塔が敷き詰められているのは間違いない。

何を言いたいのかというと、後世の人たちから顧みられなくなった墓石は土中に埋めてしかるべきであるのに、ここの五輪塔は巨大すぎて、埋めるに埋められない。

ここは、墓のかたちをした廃棄物が林立する「墓の墓場」なのである。

このモノクロームの墓場に色彩を与えているのは、石仏地蔵にかけられた涎かけ。

地蔵ばかりで観音さんが少ないのは、ここが死後の安穏を願う墓域だからだろう。

みんな小さな石仏であるのは、いずれも背中に背負われて約6里の山道を運ばれてきたからである。

他所の地蔵に比べて、高野山の地蔵はユニークな顔をしているのが多い。

高野山だから儀軌通りかと思うが、そんなことはないのだ。

そこが面白い。

 

その俗人くさい顔をコケが覆って、異様さが一層強調されていたりする。

大きいから威圧的だが、空虚な巨大五輪塔よりも、その周辺に転がっている石仏墓標に、僕は心を惹かれてしまう。

中でも格段のお気に入りは、下の写真だ。

杉の大木の根もとの洞に安置された3体の石仏。

置かれてから日が浅いのか、しっくりとなじんでいない。

赤と青の涎かけが、しっとりとした天然の見事な仏座の雰囲気を壊している。

僕が惹かれるのは、その手前、うっかりすると見逃してしまいそうな半身の地蔵である。

右半分は杉の木に埋没して、木と一体化している。

樹液が石仏の体内にも流れているようだ。

土中に埋められるはずだった。

それが誰かの手によって、ひょいと杉の木の洞に放り込まれた。

それがいつのことだったのか。

長い年月をかけて、木は石仏をやんわりと包み込み、しっかりと抱きしめた。

唇の左端をあげて、仏は笑っているようだ。

あるいは苦笑しているのか。

「えらいことになってきたな。でも、ま、これも運命か」。

木に抱擁され、木と一体化して、木の中に溶け込んでいった無数の先達たちを仏は知っている。

全身が木に飲み込まれるのは、そんなに遠い先のことではないだろう・

ここで「木に飲み込まれる」という表現は不適切だった。

新しい仏性が木に変身して誕生!というべきか。

杉の生き仏の誕生と言ってもよさそうだ。

その時を自分の目で確認したいというのが、僕のささやかな願望なのである。

 

場所が変わる。

まず、写真を何点か見てほしい。

高野山の石仏を上回るユニークな石造物ばかり。

いずれも修那羅(しょなら)山の石神仏である。

修那羅山は信州にある。

上田市から青木村へ。

麻積村へ走る国道12号の峠が修那羅峠。

 

その峠から山道を30分ほど登ったところが山頂。

標高1000mといわれている。

そこに神社がある。

       修那羅山安宮神社

安宮神社と言い、神社を取り囲むように奇怪な石造物がそこらじゅうに点在している。

その数700点超。

仏教の儀軌に則った石仏もあるにはあるが、少ない。

石像の多くは、異様な風態だが、おしなべて解放的で明るい。

石碑もある。

文字だから読めれば分かると思うと足元をすくわれる。

        催促金神                一粒万倍神

「催促金神」なる神がいる。

貸した金が返ってくるように神に催促しているのか、借金をしているから、相手に催促を遅らせるか、忘れさせるように神に祈るのか、いずれにせよ、身勝手な現世利益神なのである。

修那羅山石神仏の特徴の一つは、死後の世界の安楽を希求する浄土教的なムードが希薄だということ。

死後の世界のことより、生きている今この時を少しでもレベルアップしたい、その切実な思いがどの石造物にも精一杯彫り込まれている。

生活を脅かすものはみな石に彫られた。

「神よ、この者を無力にしてください」なのか、

「神として崇めるので、どうか穏やかに」なのか。

他人が見てそれが何の像であるか分からないことは、問題ではない。

彼(彼女)と神とが通じ合えばいいのだ。

両者の心が通えば目的は成就したことになる。

「変なの」、「頭おかしいんでないか」。

里の人たちのさげすみの目を背中に、自分の神を背負って1000mの山道を登って行く。

信仰心のなせる業である。

宗教のパワーと言ってもいい。

そのパワーの源は、この山に住む修那羅大天武なる修行者にあったと見られている。

     修那羅大天武の碑

大天武なる男は越後の産で、9歳の時天狗に従って諸国修行の旅に出たと来歴にある。

60歳を超えて、この地で加持祈祷をしながら、雨乞いを行って人々の信仰を集めた。

「天狗に従って諸国修行」と聞いただけで、マユツバと思いたくなるが、彼の言行が人々に信頼されたことは事実である。

大天武の偉い所は、権威を否定し、認めない点にあった。

当時の人々が仏や神を石に彫るとしたら、観音さんやお地蔵さん、不動明王、庚申塔や道祖神、お稲荷さんの狐や狛犬を参考にするしかなかった。

見たこともないものを作り出すことなど誰もできなかった。

だから、ついついどこかで見たことのある石仏を持ち込んでくることになる。

大天武は言う。

「これがお前の神なのか」。

「もっと違った姿形をしているんではないか」。

「地蔵や観音を捨ててしまえ」。

「お前だけの神を作れ」。

「俺(大天武)にも分からない像容でも、お前と神が通じ合えばいいのだから」

その言やよし、こうして信州の山の一角に破天荒な聖地が出現した。

時は、江戸末期から明治初年。

激動の時代ではあったが、世の保守性は微動だにしなかった。

そうした時代に開花した、ここは解放区だった。

クリエティビティがある。

オリジナリティがある。

唯一であることを誇る心がある。

俺の、俺だけの神がある。

私の、わたしだけの仏がある。

古墳、縄文の復活がある。

日本のビカソがいる。

修那羅山は、野外美術展であり、夢のワンダーランドなのです。

 

主題に戻ろう。

 主題は「木の洞地蔵」だった。

 ここ、修那羅山にも「木の洞地蔵」がある。

正確には「木の洞観音」か。

一通り石造物を見終えて、帰ろうとした時だった。

東京の家を出てきたのが朝の4時半だったから、まだ9時に大分前の時間だった。

「早いお着きですね。どこからですか」と声をかけられた。

どうやら宮司夫人のようだった。

雑談をしていると、「あれは見ましたか」と聞かれた。

「あれ」とは、木の洞の石仏。

「是非、見て行かれた方がいいですよ」と勧められ、教えられた場所に戻る。

見覚えのある木が太い根っこを晒して立っている。

白樺の仲間だろうか。

一見、それらしい洞が見えない。

「変だな」と思いながら、ゴツゴツした根っこをよじ登って行くと、あった。

キツツキが開けた穴だろうか。

10㎝くらいの穴がぽっかりと開いて、中に十一面観音が合掌している。

穴には、雨水だろうか、こげ茶色の透明な水が溜まっていて、石仏の下半身は水没している。

雨水ではなく、樹液なのかもしれない。

この石仏に気づく人は、誰もいないだろう。

なぜ、こんなところに石仏を置いたのだろうか。

もともと修那羅の石神仏は祈りの対象として置かれた。

それが今では見物の対象となっている。

どこにも天邪鬼はいる。

「誰にも気づかれず、見られない石像が一つくらいあったっていいだろう」。

彼は格好の隠れ家を見つけた。

十一面観音は、久しぶりに静謐を得たはずであった。

その平安を僕は破ってしまった。

根っこをよじ登り、あまつさえ、写真をとって、みんなに見せている。

こういうのを罰当たりな行為という。

バチが当たらなければいいのだが。

 

樹の洞があれば石仏を置きたくなる人がいれば、洞の中に仏像を刻む人もいる。

埼玉県幸手市西関宿(にしせきやど)。

北は茨城県、東は千葉県に接する埼玉県のはずれ。

江戸川を挟んで向こうの野田市関宿は、江戸時代、舟運の要としての宿場であった。

関宿の西に位置するから西関宿だが、繁栄のおこぼれにあずかって、当時はこっちも賑わっていた。

その繁栄の一端が川に近い寺社の石仏に見ることができる。

「臨川庵」も例外ではない。

無住で今は見る影もないが、ゴミのように横たわった石仏に佳品がある。

                  臨川庵(埼玉県幸手市西関宿)

「臨川庵」にはもう一つ誇るべきものがあった。

「銀杏地蔵」。

境内にあるイチョウの木をノミで彫った地蔵のこと。

イチョウの大木の根元に屋根を食いこませた形で小屋が建っている。

小屋の前面には鈴緒が下がり、その奥に格子戸。

格子戸を覗く。

照明がないので薄暗いが、洞がポッカリと空いているのが分かる。

温泉地の秘宝館に入ったような気分だ。

洞の高さは40-50㎝くらいか。

奥行きも10数㎝はありそうだが、目を凝らして見ても中には何も見えない。

かつてはここに生木の地蔵がおわした。

子育て地蔵として有名で、近在から参拝にくる人が絶えなかったと言われている。

それが木の生育とともに生木を彫った地蔵は姿形を変え、再び、木に戻ってしまう。

洞ばかりを見ていたので、気付かなかったが、洞の右側に木彫りの地蔵が立っている。

小屋の柱に取り付けられた説明文によれば、消失してしまった名物を偲んで、集落の人たちがイチョウ材で「銀杏地蔵」を復刻したのだそうだ。

イチョウ材で復刻の努力は多とするが、洞より大きいのは画竜点睛を欠くようだ。

 

「臨川庵」の「銀杏地蔵」は木の成長とともに消え失せたが、彫った地蔵は残ったが肝心の木が切り倒された事例がある。

八王子市の「宗格院」の山門を入ると左に「宝珠閣」なる堂がある。

        宗格院(八王子市千人町)          宝珠閣

堂内の中央には「せき地蔵」が座しているが、その前に一風変わった地蔵がおわす。

松の木に穴をあけ、中に地蔵を彫りこんだ一木地蔵尊。

彫ったのは「宗格院」26世住職。

境内の松の木に自らノミをふるった。

しかし、松の木は事情によって切り倒されることになり、地蔵の部分だけが保存されることとなった。

株の高さ50㎝、像高17㎝。

有輪で蓮華座に立つ尊像は、素人離れした見事な素彫り技術を今にとどめている。

松の木が切り倒されたのは惜しまれるが、そのまま放置しておけば、「銀杏地蔵」と同じ運命をたどったかも知れず、是非の判断は難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


8 八万四千体地蔵

2011-07-01 09:42:12 | 地蔵菩薩

「多数はパワーである」

「多数は正義である」

「多数は美しい」

まるで、小沢一郎の政治信条のようだが、上野「浄名院」の境内に足を踏み入れると、誰しもが同じ感慨を抱くのではなかろうか。

同じサイズ、同じ像容の地蔵立像がビッシリと並ぶ様は、壮観であり、異観である。

          「浄名院」(上野桜木2)の八万四千体地蔵群

石像は、縦35㎝、横25㎝。

正面に地蔵立像の陽刻。

その右側に「八万四千(はちまんしせん)体地蔵尊」。

左に「第○○○○番」と通し番号。

右側面には「発願主 上野浄名院比丘妙連」、左側面には施主名が刻まれている。

 

無数の石仏が群れ集う光景としては、近江の「石塔寺」がイメージされる。

「日本は木の文化」などという言葉は、ここに立つとすっ飛んでしまう。

祈りを石に刻むという行為が日常的で普遍的であったことに、気付くからだ。

             石塔寺(東近江市)             

 

「石塔寺」の由来は「僧答て曰、昔仏生国の阿育(アショカ)王、八万四千の塔を造、十方へ抛給たりしが、日本国江州石塔寺に一基留り給へり」『源平盛衰記』にある。

八万四千基の仏塔に納められたのは、釈尊の仏舎利。

「浄名院」の八万四千体地蔵の発想は、「石塔寺」から得たもので、発願主は同寺第38代住職、妙運和尚だった。

明治12年のことである。

 「八万四千」とはmanyの意味であって、83999の次の数ではない。

本来は「法門(釈迦の教え)」の形容詞で「八万四千の法門」というように使われる。

「劫」だとか、「恒河砂」のようなスケールの大きな無限大の概念を作りだしたインド人にしては、多数を表現するのに「八万四千」とはいささかこじんまりし過ぎているように感ずるが、余計なお世話か。

とにかく、出来るだけ多くの地蔵を一か所に集めることが、妙運和尚の狙いだった。

ならば、八万四千体地蔵は「浄名院」にあってしかるべきで、他の寺にあるはずはない。

ところが、違うのである。

「浄名院」の山号は「東叡山」。

「寛永寺」と同じだ。

その「寛永寺」の本堂脇の石仏群の中に八万四千体地蔵がおわす。

   寛永寺境内の「八万四千体地蔵」

通常の35㎝丈ではなく、人の背丈を越える立像なので、つい見逃してしまいがちだが、右に「八万四千體之内」、左に「第五千七百番」と刻してあるので、「浄名院」の「八万四千体地蔵」であることが分かる。

背中には、発願主妙運の名前もある。

この地蔵を見た時は、疑問は抱かなかったが、豊島区西巣鴨の「善養寺」で4基の「八万四千体地蔵」に出会った時は、なぜ、ここにあるのだろうかと不思議に思った。

本堂に向かって左手の、墓地への通路の脇に4体の地蔵は立っていた。

        善養寺(豊島区西巣鴨4)の「八万四千体地蔵」

「浄名院」の多くの地蔵がそうであるように、その内の2体は顔は崩れ、杖はとろけて消え失せている。

また、2体の番号は「第七百三十三番」と「第七百三十四番」。

連番である。

連番であることは、特別な事情があることを物語っているような気がする。

庫裏の呼び鈴を押す。

応対してくれたご婦人は、しかし、「浄名院」も「八万四千体地蔵」もご存じなかった。

当然のことながら、4体の地蔵が「善養寺」におわす理由については知る由もない。

連番の「八万四千体地蔵」は、千葉県我孫子市の「地蔵院」にもある。

「第六萬六千六百壱番」と「第六萬六千六百弐番」。

     地蔵院(我孫子市中峠) 左から2列目が「八万四千体地蔵」

他の石造物と一緒に、その存在すらも忘れ去られて、所在なげに相前後して佇んでいる。

「浄名院」との関連を知りたいのだが、以前は寺だったらしいということだけで、尋ねるべき人もいない。

所在なげに、という有様は、板橋区の「遍照寺」の「八万四千体地蔵」も同様である。

寂れた寺の本堂の壁に沿って石仏が並んでいる。

見方によっては、石仏というよりも廃棄物の感が強い。

         地蔵院(板橋区仲宿)の「八万四千体地蔵」とその台石

柵があって近寄れないが、ひときわ高い地蔵は、「八万四千体地蔵」のようだ。

ズームレンズで「八万四千體之内二千百七十三番」を確認。

発願主妙運の文字も読める。

この寺でも尋ねるべき人がいない。

知りたいことが知りえないと、落ち着かない。

そんな時見つけたのが「八万四千体地蔵と遊女の墓」(榊原勲-『日本の石仏63巻』)。

浅草寿町の「永見寺」にある「八万四千体地蔵」を同寺に葬られている新吉原の遊女・玉菊と関連つけて論ずるもので、榊原氏はここで、本来「浄名院」にあるべき地蔵が他所にあるのは、関東大震災、太平洋戦争などの混乱時に境内から持ち出されたからだと見解を述べている。

     永見寺(台東区寿2)の玉菊稲荷堂と堂前の「八万四千体地蔵」

そして「この地蔵石像には、道祖神盗みならぬ゛地蔵盗み゛を想像する」とまで言っている。

「檀家の方が持ち込んだもので、お断りするわけにもいきませんので」。

住職の言葉は、゛地蔵盗み゛を彷彿とさせるが、その檀家は今でも供花に訪れるそうで、゛盗んだ゛ものではなさそうだ。

「永見寺」の場合は、1体だから゛盗む゛こともありうるが、杉並区の「真盛寺」のように10体もあると゛盗む゛のは容易ではなかろう。

参道から墓地へ導く道路の両側に石仏が点在しているが、左の一角に「八万四千体地蔵」群がある。

この10体の地蔵は『杉並の石仏と石塔』(杉並区教育委員会)にも記載されている。

実は「真盛寺」の境内に、一般人が入ることは禁じられている。

当然写真も撮れないので、『杉並の石仏と石塔』から転用するしかない。

    『杉並の石仏と石塔』(杉並区教育委員会)より

10体の「八万四千体地蔵」の内5体は、三万八千一番から三万八千五番までの続き番号。

三万八千二番がなくて、三万八千三番が2基あるのは、手続きミスか。

建立年月日はいずれも明治31年11月だが、最後の三万八千五番だけは明治35年5月となっている。

4年半も離れているのは何故だろうか。

他の5基のうち1基だけは明治31年建立だが、4基は明治40年から44年までの建立。

番号は1798番から3700番までの間に散らばっている。

明治34年建立が38001番で、明治40年11月のが2811番だから、連番は1番から順番に付けられたわけでもなさそうだ。

それは何故だろうか。

そうした疑問に「真盛寺」では、「八万四千体地蔵については、何も分かっていません」との返事。

疑問は増すばかりである。

これまでの「八万四千体地蔵」は、寺の境内に立っていた。

庚申塔や馬頭観音、夜待塔などと同じ扱いである。

ところが、中野区の「明治寺」では、墓地に2基の「八万四千体地蔵」がある。

            明治寺(中野区沼袋2)

丸彫りの地蔵坐像の両脇に「八万四千体地蔵」が立っている。

墓地にはあるが、「○○家の墓」と刻されてはいない。

写真は、ない。

「墓参者以外お断り」の墓地だからである。

 

ここまでお付き合いいただいた方は、みんな思うだろう。

「浄名院」へ行って、訊けばいいのに、と。

その通りだが、実は「浄名院」に住職は住んでいない。

出てくるのは、十代の少年と思しき若い人で、寺の歴史についての知識は全く知らないようなのだ。

住職は関西に在住で、所要のあるときだけ上京してくるという。

今年になって、「浄名院」の雰囲気は変わってきた。

墓地を覆っていた大木はことごとく伐採され、視野が広がって明るくなった。

                   浄名院境内と売り出し中の墓苑

「八万四千体地蔵」の配列のレイアウトも変えているようだ。

新しく生み出されたスペースは、新規墓苑として売り出し中である。

重機が石仏を釣り上げて、移動している。

たまたま「第二千八百番」台の地蔵の前に立っていたので、

「真盛寺」の「第二千八百七十番」があるのか、ないのか調べてみた。

通し番号であるならば、ここにはなくて当たり前なのである。

結論から言うと確認できなかった。

番号順に並んでいないからである。

「第二千八百七十三番」を見つけたので左右を確認する。

しかし、左は「第四千四番」、右は「第千二百六十三番」。

めちゃくちゃな並び方なのだ。

「浄名院」からの帰途、谷中墓地から西日暮里駅へ向かう。

途中、天台宗「安立院」に立ち寄る。

       安立院(台東区谷中7)   地蔵群の中に2基の「八万四千体地蔵」

山門をくぐると境内左手に10基の地蔵石仏。

大半は石仏墓標だが、2基「八万四千体地蔵」がおわす。

庫裏に声をかけたら、年配のご婦人が現れた。

七十代後半か八十代前半とお見受けした。

そのご婦人の話によれば、「八万四千体地蔵はもっと沢山あったが、石が柔らかくて、像容が崩れてきたので、2基を残して、数年前、土中に埋めた」とのこと。

「先々代の住職から聞いた話では」と「八万四千体地蔵」が「安立院」に群立していた訳を話してくれた。

同じ天台宗ということで、明治時代、双方の住職は懇意にしていた。

「浄妙院」の妙運住職の「八万四千体地蔵」建立計画に賛意を表した「安立院」の住職は、信徒に「八万四千体地蔵」の寄進を勧めた。

一方、「浄名院」の妙運和尚は、「八万四千体地蔵」が全国に展開することを願い、寄進者の希望があれば、通し番号を提供し、その地蔵は寄進者の菩提寺に設置してもいいことにしたのだという。

「安立院」に「八万四千体地蔵」が沢山あった、これがその理由であった。(この稿続く)

 

ここまで書いて投稿したのが、7月1日。

それからわずか2週間、2か所で八万四千体地蔵に出会った。

まず、7月6日、武蔵野市吉祥寺。

「光専寺」の墓地への道で1体発見。

   光専寺(武蔵野市吉祥寺本町2)     八万四千骵之内第八千百番

過去に一度来たことがあるのに、見た記憶がない。

保存ファイルをチェックしたら、ちゃんと撮影してある。

撮影はしたが、八万四千体地蔵だということに気付かなかったらしい。

昭和8年建立と彫ってある。

明治時代ではなく、昭和のことだから、もしかしたら建立理由が分かるかもしれないと思い、聞いてみた。

残念ながら、分からなかった。

寺の近くに住むご婦人が熱心な地蔵信仰者で、生前は毎日のようにお参りに来ていたという。

ご主人の病気平癒を祈願して建立したはずだが、「浄妙院」との関係は寺でも不明だとのこと。

そのご婦人も亡くなり、後継ぎも不在だから、建立の事情を調べようにも調べようがないという結論になった。

その4日後、春日部市の石仏めぐりをしていたら、「成就院大日寺」で出くわした。

無縁仏コーナーの最後列中央に一段と高くそびえるのが「八万四千体地蔵」だった。

「第四千七百七十七番」。

                 成就院大日寺の無縁仏群と八万四千体地蔵   

「八万四千体地蔵」を探しているわけではないが、関心を持っていれば、こうして短期間に2体もの地蔵に会えることが分かった。

関心を持っているかどうか、が決め手になるようだ。

できれば住職に話を聞きたかったが、法事の最中で多忙のようなので、後刻電話をした。

「分かりません」との返事だった。

昭和のことすら遠い昔のことになりつつある。

ましてや、明治時代のことは雲をつかむような感じになってしまっている。

 

そうこうしている最中、一冊の本に出会った。

『東京古寺地蔵めぐり』見吉朋十著(有峰書店、昭和63年)。

明治15年生まれの著者が数十年にわたり3800体の地蔵めぐりをしたその成果をまとめた好著である。

その「浄名院」の項に次のような記載がある。

「上野山内、桜木町に南面して八万四千体地蔵尊の総本山としての天台宗の浄名院がある。この寺の境内に、地蔵比丘妙運和尚が、明治の中ごろからの悲願による数千基の石地蔵を安置する。寺には、台本が備えてあって、日本全国津々浦々の寺にある他の地蔵も、妙運と光輪二導師の開眼により地蔵尊番号がもれなく記載してある」。

 日本全国どこの寺でも八万四千体地蔵があれば、その番号は「浄名院」の台本に記載されているというのだ。

「浄名院」の「八万四千体地蔵」が、何故、よその寺にあるのか、その理由を知りたくて、いろいろ聞いて回ってきたが、何のことはない、「浄名院」の和尚も承知の上で、全国展開していたというわけである。

急にガックリと疲れを覚えた。

アホみたいではないか、オレは。

それでも思い直した。

そして、あることに気付く。

「そうだ、浄名院でその台本を確かめればいいのだ」。

電話をしたら、お盆で住職がたまたま上京中とのこと。

お会いすることになった。

お目にかかった住職は、まだ若々しい30代の方だった。

いつもは副住職をしている京都・伏見区のお寺にいて、用事のある時だけ上京するのだという。

       盆供 万燈供養中の浄名院

「八万四千体地蔵」を計画した妙運和尚も滋賀県出身で、歴代、近江、京都の坊さんが「浄名院」の住職を務めてきているとのこと。

持参した11か寺の「八万四千体地蔵」の写真を興味深げに見て、「京都の私の生家である寺にも1体ありますが、他の寺にもあることは、初めて知りました。感激ですね」とおっしゃる。

問題の台本については、『東京古寺地蔵めぐり』を読んで台本があることを知り、探したが見当たらない。ただ、一か所、かなり重要な場所が手つかずになっているので、希望は持っているのです、という。

台本が見つかったら、連絡をしていただくことにしてお別れする。(この稿続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4 水子地蔵

2011-05-23 14:50:52 | 地蔵菩薩

2月の半ば、陽がさして風がなく、冬にしては暖かい昼過ぎ、池袋西口、川越街道に面した寺の参道を歩いていた。

長い参道が山門へと続く。

山門をくぐる。

参道はそのまま真っ直ぐ本堂前を横切り、右折して墓地へと誘う。

ふと、背後にハイヒールの音がした。

振り向いてみる訳にも行かず、目的の無縁塔に向かう。

無縁塔に着く。

カメラを取り出して撮影の準備に取り掛かる。

ハイヒールの音がしなくなったことに気がついて、振り返った。

参道を挟んで、無縁塔の反対側に水子地蔵がある。

その前に若い女がしゃがんで、合掌していた。

川越街道の向こうに法務局がある。

だから弁護士事務所や司法書士事務所が多い地区だが、そのどこかのOLだろうか。

外食を終えたその足で、寺に来たものらしい。

ハイヒールでしゃがむという不安定の姿勢ながら、身じろぎもせず、合掌は長く続いた。

   池袋西口の寺の水子地蔵

若い女性が墓地で手を合わせるシーンを見るのは、初めてだった。

強烈な印象として脳裏に焼き付いた。

その夜、酒の席でそのシーンを語った。

「自分の都合で生まれるべき命を闇に葬ったことの罪の意識はぬぐい切れないんだろうな。せめて成仏してほしいと願うんだよ、彼女は」。

こう言ったら、「それは違う」と友人に真っ向から反論された。

「水子の祟りが及ばないように願っていただけだよ」。

罪の意識など皆無、祟りがないように祈る自分勝手な女だというのだ。

 「水子の成仏」を祈る。

「水子の霊が祟らない」ように祈る。

どっちが正しいのだろうか。

実は二つとも正しい。

歴史的な背景が、それぞれにある。

 

「一重組んでは父の為、二重組んでは母の為・・・」。

河原地蔵和讃の旋律は、日本人の胸に重く沈みこむ。

夭折した子供は、親不孝と見なされ、地獄に墜ちる。

三途の川で子供たちは親不孝を詫びながら石を積んでは塔にする。

その塔を鬼が来てけ散らかす。

逃げまどう子供たち。

その子供たちに救いの手を差し伸べるのが地蔵菩薩だった。

     賽の河原(佐渡)

その「河原地蔵和讃」にこんな一節がある。

「二つや三つや四つ五つ十にも足らぬ子供らが・・・」。

これは引用ミスでも、書き間違えでもない。

最初から、「一つ」はないのだ。

古来、わが国では水子の墓はなかった。

人として認められなかった、からではない。

人として認めたくなかった、からである。

「今回は生んであげられなかったけれど、次の機会には必ず」と親は水子の遺体を床下に埋めた。

成仏してしまっては、生まれ変われなくなってしまう。

だから、あえて、墓をつくらない。

お経も上げない。

水子と一歳児の霊は、従って三途の川に行くことはなかった。

河原地蔵和讃に「一つ」が欠けている、これが理由である。

 

その昔、水子・間引きは地域社会の公認行為だった。

家族の生存を図るための必要悪だったからである。

なにしろ天変地異が相次いだ。

11世紀から16世紀の500年間、

旱魃は166回、長雨は325回にのぼった。

そのたびに凶作となり、人々は飢餓に瀕した。

この構図は、江戸時代になっても、変わらない。

水子・間引きは人口減をもたらす。

人口減は労働力減を意味し、生産力の低下を招いて、幕藩体制の根幹を揺るがすことになる。

幕府が水子・間引き禁止令を出すのは、必然の成り行きだった。

水子は殺人、と脅かした。

この段階で、水子は初めてその人格を認められ、成仏できることになる。

しかし、肝心の貧困を放置して、水子・間引きを禁じても効果はなかった。

どうしたか。

倫理、道徳に訴えた、のである。

「怨霊の祟り、終に家断絶し、後生は地獄の責めを受くべし」(『子孫繁盛記』)。

巷に出回る草紙が、繰り返し、怨霊の祟りを強調し続けた。

水子地蔵の前で合掌する二通りの意味は、こうして成立したのであった。

このあたりの筋書きは富岡邦子氏「地獄と水子供養」(『日本の石仏』NO54)の受け売りだが、妊娠中絶が社会的事件として注目され始めるのは、1948年の優生保護法の成立以降である。

折しも伝統的地域社会が崩壊し、核家族化が進行しつつあった。

中絶理由が「貧困」よりも「快適な生活水準の維持」に変質してきた。

性の自由化、性の解放も中絶の増加に拍車をかける。

 中絶の激増は、水子供養の需要を喚起する。

需要があれば、供給が応える。

水子供養が仏教の教義のなかでどうなのかはさておき、水子地蔵を造立する寺が増える。

理屈はどうにでもつく。

商売が優先するのだ。

浄土真宗寺院以外の、ほとんどの宗派の寺に水子地蔵が立つことになった。

大体が立像で、左手に赤子を抱え、足元にも子供が2,3人寄り添っている像容が多い。。

     西蔵院(台東区)

水子地蔵の周りには、三等身の幼児体型の小型地蔵が並び、オモチャや人形が置かれて、カラフルな風車が回っていたりする。

             粟島堂(兵庫県加西市)             大聖寺(埼玉県小川町)            

 意外なことに古刹にも水子地蔵はある。

       書写山円教寺(姫路市)      慈照院長谷寺(鎌倉市)

 最たる例は、増上寺。

本堂に向かって右に小型地蔵が列をなしている。

黒々とした歴史的建造物とカラフルな地蔵群のコントラントが撮影意欲を喚起するようで、外国人観光客の撮影スポットとなっている。

しかし、徳川将軍家の菩提寺であることを思うと、この風車つき地蔵群は重厚な雰囲気を損なってはいないか。

いや、あれは子育て地蔵で水子地蔵ではないと言うかもしれないが、乳幼児死亡率が世界1低い日本では、もはや子育て地蔵でもあるまい。

誰もがあれは水子地蔵だと思っているに違いない。

そして、徳川家の菩提寺になぜ水子地蔵があるのか理解に苦しむことになる。

                 三縁山広度院増上寺(港区)

 水子地蔵といえば、埼玉県小鹿野町にある紫雲山地蔵寺を抜かすわけには行かないだろう。

秩父観音霊場31番札所観音院への途中、道の両側の山頂まで、全山、地蔵と風車で埋め尽くされる様は異観であり、壮観である。

              紫雲山地蔵寺(埼玉県小鹿野町)

 霊観の強い人には、無数の怨嗟のつぶやきが聞こえるのではないだろうか。

この小鹿野の地蔵寺は、1971年の創立だが、同様に水子地蔵の大半は、昭和、平成に造立された。

もちろん、例外もある。

両国の回向院には、寛政5年の水子塚がある。

正式山号が「諸宗山無縁寺回向院」。

だから、なんでもありなのだ。

           回向院の水子塚(墨田区)

地震、火災、洪水、津波の被災者はもとより刑死者、牢病死者に至る不幸な死者という死者を一手に引き受けてた寺だから、幕府が禁止令を出している水子の霊もちゃんと弔ってくれる。

 

水子の親が誰かが分かる石仏もある。

秩父観音霊場第四番札所の金昌寺は、石仏の寺として有名である。

境内から後背の山まで石仏で埋まっている。

      石仏の寺金昌寺(秩父市)

 

中に寄進者の名前が彫られた石仏がある。

この地蔵の左側面の文字は「紀様奥女中」。

「紀」とは「紀州」のこと。

不義の子を孕み、間引きせざるを得なかった紀州江戸屋敷の奥女中が、我が子の成仏を祈って寄進したものという。

 

石仏は、ほとんどの現代人に見向きもされない。

観音も庚申塔も、みんな「お地蔵さん」になってしまっている。

わずかに石仏愛好家たちが暖かい目を注いでいるのだが、水子地蔵は、そうした彼らからも見放されているようだ。

石仏写真展で水子地蔵が被写体の作品にお目にかかることは、まず、ない。

季刊雑誌「日本の石仏」で水子地蔵がとり上げられたのは、創刊以来35年間、たったの一度だけ。

専門家であればあるほど、無視する傾向があるようだ。

歴史が浅いことが原因のひとつ。

寺の商売気が透けて見えることも嫌気を増す。

水子となった霊たちに落ち度はないだけに、よってたかっての、この冷たい扱いには義憤を感ずる、と締めると格好いいのだが、水子地蔵の前を素通りするのは自分も同じで、つい、口ごもってしまう。

みんなが無視するなら、ちょっと水子地蔵に目を向けてみようかと、これは少数派であることを愉しむ自分なりの趣向なのです。

 

このブログを書いている最中、八王子の寺のある家の墓地で、水子の墓に出会った。

一家の墓域の片隅にお地蔵さん。

地蔵の足下の台石には「心善水子 香雪水子」とある。

「ああ、こうして弔う人もいるんだ」と心温まる思いがした。