石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

132東京の芭蕉句碑巡り-9(文京区・豊島区)

2017-12-25 09:32:36 | 句碑

芭蕉の経歴を辿る中で、関口芭蕉庵に触れた。(このシリーズ第3回)

関口芭蕉庵は、文京区にあるから、文京区の芭蕉句碑を取り上げたことになるが、そこから江東区の芭蕉庵へ移ってしまった。

再び、文京区へと入る。

 ◇浄土宗・昌清寺(文京区本郷1)

 

現在、2017年11月中旬。

サウジアラビアでは、多数の王子が身柄を拘束されたというニュースが流れている。

現国王の王子の権力安定のための手段と云われるが、こうした権力者同志の陰謀策略は、いつの時代、どこの社会でもあった。

昌清寺は、その権力闘争の犠牲者の菩提を弔うために開基された。

犠牲者の名は、駿河大納言忠長。

忠長は、三代将軍家光の弟で、幼名を国千代と云った。

父の二代秀忠や母お江(淀君の妹)が兄竹千代(家光))より寵愛したので、心配した竹千代の乳母お福(春日局)は、駿府の家康に直訴、竹千代が世継ぎとなった。

国千代は元服して忠長と称し、19歳で駿河55万国の城主となり、駿河大納言と呼ばれた。

だが後ろ盾の母お江の死後、「家康の孫」としての行き過ぎた言動に、家光の怒りを買い、領地没収の上、高崎城にお預けの身となる。

 

寛永10年、忠長自害、享年28歳。(この項、『江戸の芭蕉を歩く』から引用)

忠長の正室・お昌の方(織田信良の娘・久姫といい信長のひ孫)は夫の菩提のために、当寺を建立。公儀を配慮して忠長の乳母きよ(清)を開基であると披露、お昌の方とお清の二人の名前をとって、昌清寺と称するようになった。

句碑は、道路に面した駐車場の隅にある。

桜狩り きとくや日々に 五里六里

碑の傍らに説明板が立っている。

 花見塚 芭蕉の句碑
 江戸時代の『茗荷集』(文政五年)や『茗荷図会』(文政九年)に「花見塚本郷元町昌清寺にあり 寛政八年(1796)如月十二日靖彦これを建つ」とある。
 句碑には松尾芭蕉が貞享五年(1688)に吉野で詠んだ俳句「桜狩り きとくや日々に 五里六里」が刻まれている。
往時の句碑は存在しないが、現在の句碑は昭和59年に『茗荷図会』の花見塚模写図にならって復元再建されたものである。

寛政8年の碑陰には

「行かふハ 皆我友ぞ 桜狩り狩」 

「雲と嶺 雲と聳へつ 山桜」

の2句が刻されていたという。

昌清寺は、本郷台地の西南にあって、西へ急坂を下りると後楽園。

谷底の後楽園から更に西へ上ると伝通院となる。

次の目的地「慈眼院」は、伝通院の手前にある。

◇浄土宗・慈眼院(文京区小石川3)

 

うっそうとした境内には、数多くの石造物がある。

大樹があり、その横に句碑がある。

戸田権夫亭にて

一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川

小石川の戸田権太夫亭の句会で詠んだ句。

延宝5年(1677)の作とみられている。

句碑の設立は、大正7年(1918)10月12日。

芭蕉堂同人公雄翁滝沢氏を筆頭とする42人の発起人の氏名が彫られている。

芭蕉句碑の隣の

「月かけに しのぶや声の なき蛙」

は、発起人瀧澤公雄氏の句碑。

「声なき蛙」は、伝通院七不思議のひとつ、「鳴かない蛙」のことだそうだ。

石段がある。

石段を下ると稲荷神社があるが、その名は「沢蔵司稲荷」。

「沢蔵司稲荷」には、面白い伝説がある。

文京区教育委員会の紹介文を載せておく。

 

慈眼院・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり) 小石川3-17-12

伝通院の学寮(栴檀林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和六年(1620)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。

「そもそも 余は千代田城の内の稲荷大名神ある。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう。」

と告げて、暁の雲にかくれたという。(「江戸名所図会」「江戸志」)

そこで、伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。

「東京名所図会」には、「東裏の崖下に狐棲(狐のすむ)の洞穴あり」とある。今も霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥に洞穴があって稲荷が祭られている。

伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来たときは、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は、沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。

また、すぐ前の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。

  沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り (古川柳)

            文京区教育委員会 昭和56年9月

沢蔵司が通ったという蕎麦屋は今もあって、私も食べてみたが、「名物に・・・」のたぐいであったことを報告しておきます。

◇清土鬼子母神(文京区目白台2)

 

鬼子母神といえば、雑司ヶ谷鬼子母神だとばかり思いこんでいた。

その雑司ヶ谷鬼子母神の近くに別の鬼子母神があるとは。

謂われによれば、雑司ヶ谷鬼子母神堂の本尊がこの地で出土したのだという。

入口右に「鬼子母尊神出現所」の石碑が立っている。

出土した鬼子母神像を清めた三角形井戸・星の井は、今も境内にあり、その井戸の前に芭蕉句碑がある。

芭蕉庵桃青
 此道に 出て涼しさよ 松の月」

側面に「文化九年(1812)壬申九月」とある。

境内には、吉祥天も在して、女性に縁の深い霊所です。

 清土鬼子母神の西がわは、豊島区雑司ヶ谷。

その西隣の目白にある学習院大学に、芭蕉の句碑がある。

◇学習院大学(豊島区目白1)

 

孫が大学の馬術部に所属していたので、構内に鬱蒼とした林の崖地があることは知っていた。

馬場と厩舎は、崖下にあったからです。

その林の西側、人通りがない寂しい場所に句碑はある。

目にかかる 時や殊更 五月富士

傍らの解説プレートは

芭蕉句碑・富士見茶屋跡

目にかかる 時や殊更 五月茶屋

江戸時代、眺望に優れたこの地は富士見台と呼ばれていた。ここには富士見茶屋(別名珍々亭)があって、多くの風流人が訪れた。
初代歌川広重の連作「富士三十六景」の一つ「雑司ヶ谷不二見茶屋」は、ここからの風景を描いたものといわれている。句碑に刻まれているのは松尾芭蕉の句で、文化7年(1810)、雑司ヶ谷の俳人金子直徳によって、富士見茶屋の傍らに建てられた。

解説を読む限り、この句は富士見茶屋で詠んだもののように思われる。

が、実際は、箱根を越えて、富士山が一望できる場所で詠んだ句らしい。

同じ句碑が渋谷の御嶽神社にもある。

高台にあって富士見に格好の場所、が共通点。

かつての富士見坂も今では、木々が立ちはだかって、富士山を見ることはできない。

その方向だけ伐採してくれればと思うが、多分、ビル群で富士山は見えないのではないか。

目白駅から山手線に乗り、3つ目の巣鴨で下車。

◇真言宗・真性寺(豊島区巣鴨3-21)

 

「おばあちゃんの原宿」は、巣鴨の地蔵通りにある。

地蔵通りの地蔵は、「とげぬき地蔵」と呼ばれる高岩寺の延命地蔵だと思われているが、本来は、地蔵通りの入口左側にある真性寺の「江戸六地蔵」のことだった。

その江戸六地蔵の前の植え込みの中に芭蕉の句碑がある。

題杉風萩   芭蕉翁

 志ら露も こぼれぬ萩の うねり哉

句碑は、寛政5年(1793)、採茶庵梅人らが建てたもの。

寛政5年は、芭蕉百回忌に当たる。

建て主に「採茶庵梅人」の名があるが、この句は、深川仙台掘川海辺橋たもとの採茶庵で詠まれた。

採茶庵は、「おくのほそ道」への旅立ちの場所として有名です。

深川で詠んだ句が、なぜ、巣鴨にあるのかは不明だが、当時、巣鴨は萩の名所だったからだという説がある。

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-8(台東区・江戸川区)

2017-12-15 10:44:01 | 句碑

花の雲 鐘は上野か 浅草か

有名な句だから、知ってはいたが、芭蕉の句だとは。

深川で聞く鐘の音は、はて、上野だろうか、浅草だろうか、という内容だが、実際には、鐘の音はちゃんと聞き分けられたのだそうだ。

上野の鐘は、上野公園にある。

朝夕6時と正午に、今でも、鳴らしている(という)。

江戸時代には、上野と浅草の他、本所横川町、芝切通、市谷八幡、目白不動、赤坂圓通寺、四谷天竜寺の鐘が一斉に時を告げていた。

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の句碑は、だが、上野公園にはない。

上野駅前の商店街(アメ横?)にある。

句碑建立に当たり、できるだけ大勢の人の目に触れた方がいいと選定された場所だが、いささか場違いで、碑に目をくれる人は少ない。

姿のいい自然石に、俳人加藤秋邨の書で「花の雲 鐘は上野か浅草か」の銅板がはめ込まれている。

裏面にも、同じ加藤秋邨の詩が刻まれている。

「花の雲を洩れてくる鐘の音から
 芭蕉は風雅の世界を呼び覚ました
 鐘は上野か浅草か
 今この花の雲を洩れてくる鐘の音から
 街を行く人々は 何を呼び覚ますのだろうか
 それは 明日のしずかに近づいてくる跫音」

一方、浅草の鐘は、もちろん、浅草寺にある。

◇聖観世音宗・浅草寺(台東区浅草2)

 

 本堂に向かって右手前の弁天山に鐘楼はある。

この鐘は、5代将軍綱吉の時代に改鋳され、その際、鐘の音色をよくするためにと黄金200枚が鋳込まれた(そうだが、本当だろうか)。

鐘楼に向かう石段の脇に句碑はある。

が、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」ではない。

くわんおんの いらかみやりつ 花の雲

観音といえば、浅草寺。

深川の芭蕉庵からは、約3キロほどの近さ、浅草寺の大屋根は見えたに違いない。

で、肝心の「鐘は上野か浅草か」の句碑は、本堂西側の奥山公園にある。

 

ただし、芭蕉の「鐘は上野か浅草か」を真ん中に、右に西山宗因、左に宝井其角の句を併刻した、通称「三匠句碑」。

なかむとて 花にもいたし 顎農骨(あごのほね)
                                                            宗因
花の雲 鐘は上野か 浅草か
                     芭蕉
ゆく水や 何にととまる のりの味
                     其角

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」は、貞享4年(1687)の句。

「くわんをんの いらかみやりつ 花の雲」はその前年に詠まれている。

花といえば川向こうの花で、向島の桜は詠んでいないようだ。

浅草には、もう1基あって、それが「宮戸座跡」となっている。

◇宮戸座跡(台東区浅草3)

地図を片手にたどり着いた先は、料亭「婦志多」。

その門の脇に石碑が立っていて「宮戸座跡跡之碑」と刻されている。

碑の側面に「宮戸座」の説明がある。

宮戸座は、明治29年(1896)9月開場、座名は隅田川の古稱”宮戸川”にちなんだ。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)11月この地に再建。昭和12年(1937)2月廃座。ここの舞台で修業しのち名優になった人々は多い。東京の代表的小芝居だった 大歌舞伎に対し規模小さな芝居を小芝居と呼んだ。
 昭和53年(1978)6月24日 台東区教育委員会

 探し求めた芭蕉の句碑は、料亭の塀左端にある。

自然石にはめ込んだ石版に

象潟の 雨に西施が ねぶの花

「西施」とは、中国の美女だそうだが、中国の古典にうとい私には、手に負えない。

ただ、象潟が東北の地名であることは分かる。

では,何故、象潟の句がここ浅草にあるのか、その疑問は、道の反対側の説明板を読んで分かった。

 松尾芭蕉象潟の句碑
 江戸時代に現秋田県本荘藩主であった六郷公が、この浅草に下屋敷を構えたとき、その下屋敷付近の町に、六郷公地元の景勝地「象潟九十九島」にちなみ、「象潟町」と名付けました。
 このことにより、平成5年(1993)7月22日に秋田県象潟町と台東区馬道地区町会連合会との間で「姉妹地」の盟約が締結されました。そして、今年が締結10年目にあたり、江戸開府400年目でもあります。
 江戸文化の偉大なる俳聖「松尾芭蕉」が旅した「おくのほそ道」で秋田県象潟を訪れ、雨に煙る九十九島、八十八潟の絶景を中国の美女「西施」の憂いに満ちた姿と重ね合わせた素晴らしい句を残しております。
 象潟や 雨に西施が ねぶの花
 当浅草象潟地域と秋田県象潟町との強い「姉妹地」の関係は永久のものであり、末永い交流により相互の発展に寄与するとともに、江戸文化の復興とその継承を図るため、この句を石碑として浅草の地に建立したものです。
 平成15年(2003)7月20日
 台東区 馬道地区町会連合会 秋田県象潟町

 台東区には、もう1基ある。

◇熱田神社(台東区今戸2)

 

 

そう広くもない境内を2回回ったが、句碑は見つからない。

宮司に訊いてみようかと思っていたら、あった。

稲荷神社前の草木の茂みにすっぽり隠れてしまっている。

草木をかき分け、押さえつけていないと、句も読めない。

古池や 蛙とびこむ 水の音

今回、芭蕉の句碑めぐりをしているが、これほど手入れがされず放置しっ放しの句碑もめずらしい。

しかも、一番多い「古池や・・・」の句碑だから、なんとなくがっかり。

弘化3年(1846)建立だが、誰が何のために建てたのかは一切不明という。

これで、台東区内の芭蕉句碑は終わり。

次は、隣の江戸川区へ。

◇熊野神社(江戸川区江戸川5)

 

 都営新宿線「一之江」駅から、新中川沿いに南下、堤防を見上げるような低みに熊野神社はある。

折しも秋の交通安全週間で、町会の人たちが神社前のテントに詰め掛けているが、1分間に1台、車は通るだろうか。

道路から石段を下りて境内へ。

左手に芭蕉句碑はある。

茶水汲む おくまんだしや 松の花

 「おくまん」とは、熊野神社のこと。

神社の前は急流で、流れを和らげるために、「出し杭」が打たれていた。

「おくまんだし」とは、だから「熊野神社前の出し杭」のこと。

出し杭で和らいだ清い水は、江戸城中の茶の湯や野田の醤油に利用されていた(という)。

今の川からは、とても信じられない話ではあるが。

この句は、芭蕉の句かどうか、疑いがあるようだ。

「言い伝えでは」とか「伝説では」とか、の前置きがいつもついて回るところを見ると、芭蕉の句でない可能性が高そうだ。

◇香取神社(江戸川区中央4)

香取神社は、江戸川区役所の近く。

小松川村の総鎮守だったとか、風格がある。

小松菜の産地らしく「小松菜産土神」の大きな石碑が立っている。

 

芭蕉の句碑は、鳥居をくぐって左にある。

「秋に添て 行かはや末は 小松川

同じ句碑が江東区大島の大島稲荷神社にあった。

大島神社は、小名木川に面してあるから、深川から舟でくる芭蕉の句があっても当然だが、香取神社にあるのはなぜかと思ったら、江戸川区教育委員会の説明文を読んで分かった。

昔この辺一帯が芦原で船が自由に往来できた頃、その中に浮かぶ道ヶ島という小高い島に、下総の香取大神宮より経津主命の分霊を祀ったのが、香取神社勧請の由緒といわれる。当時国府台間々の入江から、武蔵国上野の台地に向かう船は、この神社の森を船路の目安としたので、間々井宮と称したと伝えられている。

行って見なかったので、不確かだが、神社の東には、親水公園があるという。

この辺りは、船で行き来するのが、自然の土地だったようだ。


132東京の芭蕉句碑巡り-7(墨田区)

2017-12-06 08:41:09 | 句碑

約70年間、東京暮らしだが、行ったことがない場所は結構多い。

旧安田庭園もその一つ。

名前だけは知っていたが、どこにあるのかさえ知らなかった。

両国駅から徒歩3分という立地にもかかわらず、園内は街の喧騒とは無縁。

ありきたりな言葉だが「タイムトリップ」したような「都会のオアシス」です。

□旧安田庭園(墨田区横網1)

 

 芭蕉句碑を探してそんなに広くもない庭園を2度回った。

持参資料には「園内駒止神社先」とある。

駒止稲荷神社はすぐ分かった。

だが、「先」が分からない。

神社は広い空き地の一画にある。

社の正面は、心字池。

正面が「先」でなければ、どこを指すのか。

探し回って、やっと見つけた。

「立ち入り禁止」の築山頂上近くにポツンとあった。

解説板もなく、おそらく通りがかりの人は誰もこれが芭蕉の句碑だとは気づかないだろう。

みの虫の 音をききにこよ 草の庵

 以下は、解説書からの受け売り。

ミノムシは鳴かないが、清少納言は「ちちよ ちちよ」と鳴くと書いている。ミノムシの鳴き声を聞きに私の草庵に来ませんか、という芭蕉から門弟たちに対するお誘いの句。

側面に「享和三発亥(1803)」とある。

◇臨済宗・要津寺(墨田区千歳町2)

 

 

 句碑だとか記念碑、顕彰碑は、どちらかというと本人の死後建立されることが多い。

このブログの「芭蕉句碑巡り」も、これまでは、「おくのほそ道」旅立ちの千住や芭蕉庵のあった深川など芭蕉が活動していた場所だったから、芭蕉当人とかかわりの深い石碑が多かった。

しかし、句碑の大半は、時代と場所を越えて、芭蕉本人とは無関係の場合が多い。

要津寺には、芭蕉関連の石碑が多いが、寺と芭蕉とはまったく関係がない。

芭蕉没後100年、弟子や弟子の弟子たちが、寺の前に芭蕉庵を再建したことが、事の発端だった。

その間の事情を、墨田区教育委員会は次のように説明している。

雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島嶺蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより、当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には、蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養墓や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。
 平成10年(1998)3月 墨田区教育委員会 」

よく言えば、モダンな、一風変わった本堂に向かって右手に、芭蕉関連の石碑群がある。

だが、草木が生い茂って、全部は見えない。

囲いの中に入ることも考えたが、寺の関係者が腕組みをしてみているので、諦める。

見える限りのものを左から挙げると、まず、「前雪中庵嵐雪居士、後雪中庵吏登居士」墓碑。

その右隣りに、青い自然石の句碑、

ふる池や 蛙飛込む 水の音

安永2年(1773)、10月12日の芭蕉祁忌に、建立された。

碑裏に「雪は古池に和清水音をつくし、月の一燈花の清香もをのづからなる此翁の徳光をあふぐのみ」と刻まれている(と資料にはある)。

書は、当時の能書家三井親和。

芭蕉記念館の「古池や・・・」の句碑は、これの模写したものと云われている。

更に右にあるのが「芭蕉翁俤塚」。

「俤塚」は、雪中庵三世大島蓼太が宝暦13年の芭蕉忌に、芭蕉の母の絵を納めて建立した。

「俤塚」の右は、その大島蓼太の句碑、

碑((いしぶみ)に 花百とせの 蔦植む 雪中庵蓼太

がある。

碑裏上部に「芭蕉翁百回忌発句塚碑」と刻されている。

この碑を建てた天明2年(1782)、蓼太は75歳。

百回忌の86歳までは生きていられないと、11年繰り上げて百回忌を営んだ。

実際、蓼太はこの5年後、80歳で死去しているから、彼の読みは当たったことになる。

それにしても一門の門弟たちの芭蕉愛のなんと篤いことか。

神格化も当然の成り行きだろう。

 

墨田区役所を過ぎて、向島へ。

三囲神社は句碑や歌碑が林立しているが、なぜか芭蕉の句碑はない。

しかし、芭蕉の高弟・宝井其角の雨乞いの句碑がある。

「此御神に雨乞いする人々に代りて

 遊(ゆ)ふだ地や 田を見巡りの神ならば 晋其角

 元禄6年(1693)は旱魃の年だった。

そのさなかの6月、三囲神社を参拝した其角は、雨乞いの儀式に遭遇する。

其角は、雨が降り、「豊かな」実りが来ることを祈って、「ゆたか」の三字を折り込んだ句を神前に奉納した。

それが「遊ふだ地や・・・」の句で、奉納するや、たちまち雨が降りだしたという伝説がある。

寄り道をした。

目的の長命寺は、三囲神社から4,500m。

句碑、歌碑だらけの境内で、ひときわ目立つのが、芭蕉句碑。

いざさらば 雪見にころぶ 所まで

(さあ、雪見に行こう。どこかで転ぶかもしれないけれど)

解説書によると、初案は「いざ出む ゆきみにころぶ 所まで」で、次に「いざ行かむ」となり、さらに手を入れて「いざさらば」になったのだそうだ。

『江戸の芭蕉を歩く』の著者・工藤寛正氏は、「芭蕉句碑は全国でで3500基を超えるが、この句碑は十指に入るといっていい」と絶賛している。

◇向島百花園(東京都墨田区東向島3)

「江戸時代の文人墨客の協力を得て開いた、今に残る江戸の花園」と公園のパンフレットは謳っている。

文人墨客と云うだけあって、園内には29基もの句碑が立っている。

その中でも芭蕉の句碑は、入口を入ったすぐの、一番目立つ場所にある。

春もやや けしきととのふ 月と梅

天保9年(1836)の建立で、裏面に11人の建立者の名がある。

句は、元禄6年(1693)に詠まれた画賛の一句で、場所を特定していないので、あちこちにこの句碑はある。(『江戸の芭蕉を歩く』より)より)

向島百花園には、芭蕉の句碑が2基あって、もう一基は「御成座敷」に向かって左にある。

「御成座敷」とは、十一代将軍家斉の来援記念に建てられた建物。

こにゃくの 斜(さ)しみも些し うめの花

元禄6年(1693)、去来の妹に死を弔うために、蒟蒻のさしみをすこしばかりと梅の花を供えて冥福を祈った句と云われている。

折しも萩の開花時期で、百花園名物「萩のトンネル」が見事だった。