石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

136 目黒不動の石造物 ⑭ 勢至堂、本居長世碑

2018-09-30 09:10:04 | 寺町

北一輝顕彰碑の左隣は、勢至堂。

堂前まで行けるが、直前で鉄柵で遮られて、近づけない。

説明板には、「目黒区有形文化財」とある。

瀧泉寺勢至堂(区指定文化財・昭和59年3月31日指定・下目黒3-20-26)…
龍泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の龍泉寺の面影を残しています。向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、龍泉寺境内の優れた景観を形成しています。平成21年3月目黒区教育委員会
 
阿弥陀三尊の脇侍としては良く見かけるが、勢至菩薩を単独ではほとんどお目にかかることはない。
なぜ、ここにおわすのだろうか。
 
その左隣には、作曲家・本居長世の顕彰碑。
 
小川を模した水の流れの向こうに黒御影の「本居長世の碑」。
 
名曲『十五夜お月さん』の五線譜が刻されています。
 
彫り込まれた本人写真は、眉目秀麗、貴族的雰囲気だが、先祖が本居宣長、祖父が大正天皇の侍講という家柄だから、当然か。
 
童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに大正9年、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました。本居はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜この寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。今ここに氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。本居長世を慕う会 童謡の里めぐろ保存会』
 
私は、今年(平成30年)、明治大学リバティアカデミー春講座「唱歌・童謡にんげん史」を受講した。
 
講師は、音羽ゆりかご会会長・海沼実。
 
本居長世についてのエピソードで印象的だったのは、戦時中、好戦的歌曲がもてはやされる中、その時代の潮流に顔をそむけた本居長世には、仕事の依頼がなく、命より大事なピアノを売って、飢えをしのいだという話。
 
ちなみに、北原白秋も「陸軍の御用詩人ではない」と軍国歌謡への協力を拒否したという。
 
もちろん、流れに掉さしたものもいるわけで、その代表は、山田耕筰。
 
そのありようは、戦後、戦犯論争にまで発展した。
 
 
 
 
 

136 目黒不動の石造物 ⑬ 顕彰碑2基(青木昆陽・北一輝)

2018-09-23 09:22:34 | 寺院

目黒不動尊の広い境内には、顕彰碑が4基ある。

青木昆陽、北一輝、本居長世の3基は、いずれも男坂下の境内、本堂に向かって左側に固まってある。

そして、右側の地蔵堂脇にあるのが、西川春洞碑で、これは紹介済み。

今回は、まず、青木昆陽碑から。

墓があるせいか、目黒不動の青木昆陽の敬い方は格別のようだ。

本堂横には、芋畑が広がり、子どもたちが育成していたりする。

顕彰碑も2基ある。

元々は別々の場所にあったものを、平成9年(1997)、現在地にまとめた。

今は、カギがかかっていて、碑には近づけない。

建て主は、いずれも、東京の甘藷商人。

江戸から明治にかけて、安い食い物ながら、そして安い食い物だから、莫大な販売量で利益を上げた「芋や」が、金を出し合い、建碑したもの。

小さい碑には、中央に「甘藷講」と大書、右側面に「予輩亦甘藷ノ売買ヲ業トシ其澤(めぐみ)ニ浴ス」とその恩恵を吐露している。

高さ7mの巨石の碑は、明治44年10月建立。

この「昆陽青木先生碑銘」は、建立時、ニュースになった。

ニュースになったのは、碑文ではなく、碑材の大きさ。

宮城県から鉄道で大崎駅に運ばれてきたが、あまりの大きさに陸上輸送は困難を極め、遂には破損して碑面が4分の3になったというもの。

碑には近づけないが、近づけたとしても全文漢文で、私には読めない。

それでも、漢文の碑面を眺めていたら「佐渡」の文字が目に飛び込んできた。

書き下ろし文にした資料があるので、それを引用すると

種子は之を伊豆七島、八丈島、佐渡島、及び諸州に頒つ。我邦、蕃薯を殖すこと、実に此に始まる。時に享保廿年なり」とある。

何故、種芋を佐渡に送ったのか、その理由が少し先に書いてある。

官宥の罪囚人にして海島にはなつ者は天寿を保たしむるに在り。而して島中穀乏しく往々餓死す。若し蕃薯を植うれば、即ち以て之を救う可しと」。

私が「佐渡」の2文字に過剰反応するのは、佐渡が故郷だからですが、 そういう意味では、次の「北一輝」は佐渡を代表する有名人、大物登場で「待ってました!」。

顕彰碑があるのは、北一輝の墓が当山にあるからのようです。

では、北一輝とは、何者か。

目黒不動尊、瀧泉寺制作の説明板があるので、まず、それに目を通してください。

 「この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。先生は明治16年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助し又日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に2・26事件を惹起する要因になった。勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和12年銃殺刑に処せられた。然し先生の生涯をさゝえたものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。毎年8月19日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。当山

そして、肝心の碑文は、故大川周明が生前書き残したものです。

北一輝先生碑
 歴史は北一輝君を革命家として伝えるであろう。然し革命とは順逆不二の法門、その理論は不立文字なりとせる北君は果たして世の常の革命家ではない。君の後半生二十宥余年は法華経誦持の宗教生活であった。すでに幼少より喚発せる豊麗多彩なる諸の才能を深く内に封して唯大音声の読経によって一心不乱に慈悲折伏の本願成就を念し専らその門を叩く一個半個の説得に心を籠めた。北君は尋常人間界の縄墨を超越して仏魔一如の世界を融通無碍に往来していた。その文章も説話も総て精神全体の渾然たる表現であった。それ故にこれを聴く者は魂全体を挙げて共鳴した。かくして北君は生前も死後も一貫して正に不滅であろう。                昭和33年8月 大川周明撰」

私は、高校卒業まで、佐渡にいた。

しかし、北一輝については、まったく無知なのです。

小、中、高校と学校教育の中で北一輝が教材となることは皆無だったし、周囲の大人たちが彼を話題にすることもなかったからです。

それでも、右翼の大物というイメージはなぜか抱いていたようで、戦後民主主義教育の1期生として、「戦前的なるもの」を悪と決めつけてきた私は、北一輝を毛嫌いしていたような気がします。

そのイメージを変えたのは、彼の『佐渡中学生に与ふる書』でした。

北は、明治30年開校の佐渡中学一期生。

後輩に革命を呼びかける檄文を配布したのは、弱冠23歳の時でした。

「シベリアの原吹風に驚き駆る北山の雷
 漾々漁歌は霞む臘月恋が浦の波。
 此処古城の址松籟清きところ、
 三百、青春花顔の友は集ひて、
 聳り立つ学窓の日に眩ゆき。
 青春老い易しと云ふな、
 理想永へに春なり。
 花顔また誠に香ばし、
  丈夫蓋世の意気のみ。
 朔風書を掖(わきはさみ)て行く眉の何ぞ雄々しき、
 夏陽臂を執て帰る笑の何ぞ優なる。
 友よ、花の如き共よ、
 人永久に斯くこそあらなむ。

 さはれ友よ、夢に過ぎじ。
 窓外試に目を移して社会の現状を見る、
 何の理想あらむや、
 何の意気あらむや、
 地球さながらに地獄の底。

 言論の自由とや、
 遠き昔に去れり。
 思想の独立、
 今何処ぞ。
 土百姓(サーフ)の奴隷的服従を憲法の被布に包て、
 咄、東洋の土人。(以下略)

 ああ友よ。
 名を求むるか、脆ろし。
  理想こそ永久なるーー
 ソーシアリズムあり。
 恋か、小さし。
 意気のみぞ不滅なるーー
 デモクラシーに来たれ。(以下略)

ここでは、現状を「地獄の底」と嘆じ、言論と思想の自由を謳い、理想世界実現には、ソーシアリズムとデモクラシー革命が不可欠であることを宣言している。

社会主義に傾倒していることは明白で、「右翼」の面影はない。

ただし、この文脈での「右翼」は、反共一辺倒の戦後右翼のこと。

「反権力」をモットーとした戦前右翼となると彼は立派な有資格者になるから、ややこしい。

同じ年に刊行した『国体論及び純正社会主義』や1923年刊行の『日本改造法案大綱』では、基本的人権の尊重と言論の自由の保証、華族などの特権階級の消滅、農地解放、男女平等社会の実現に向け、革命が必要であると主張した(私は読んでいないので、これは受け売りですが)。

そして、これら北の主張のほとんどは、戦後GHQによって、実現されることになります。

 

 


136 目黒不動の石造物⑫前不動堂

2018-09-16 09:17:07 | 寺院

本堂に向かって、独鈷の滝の左にあるのが、前不動堂。

「前」というのは、本堂の前の意。

身分の高い者たちが本堂参拝中、本堂に代わって庶民が参拝する施設。(という説明が私には分かりやすかった)

当然、本尊そっくりの(?)不動明王三尊が祀られています。

建物は、都の有形文化財に指定されている。

なぜか戦禍を免れたようで、目黒不動にしては古い建造物ということになります。

目黒区教委の説明板からその一部を引用しておく。

瀧泉寺前不動堂(東京都指定有形文化財・昭和41年3月31日

前不動堂は、滝泉寺本堂手前の男階段左下にある、独鈷の滝の左崖下に建立され、堂内には木造不動明王三尊立像を安置してあります。江戸時代中期の仏堂建築として、比較的良く往時の姿を保っています。建造物と併せて、扁額「前不動」も附として指定されています。この扁額には「佐玄龍書」の署名があり、堂建立当時のものと推測されています

前不動堂の石造物といえば、堂前の狛犬でしょう。

しかし、これを狛犬と言っていいのか。

どう見ても獅子ではなく、犬。

しかも雑種の日本犬。

その和犬が、悄然とうなだれて、許しを請うているようにしか見えない。

狛犬本来の本尊を守護する役割などとても果たせそうもない軟弱さが目立ちます。

目黒不動尊の和犬の狛犬は、実は、これが初めてではない。

このブログ「136 目黒不動の石造物⑤参道(仁王門→男坂)」でも、既に取り上げている。

その時にも書いたが、前不動堂前の和犬は、本来は男坂前の台座に座していたのではないか、と山田敏春氏(日本参道狛犬研理事)は推測します。

その根拠は、前不動堂の犬の首の傷跡。

一対それぞれの首にスパッと切ったような跡があります。

 

震災か戦災か、被災して転げ落ち、首が胴体から離れてしまった。

とりあえず、無傷の和犬を台座に載せ、破損したものは修理して、前不動堂に安置した、のではないかと山田氏は推理するのです。

前不動堂の和犬が本来座していた、男坂前の台座には「奉献 御手洗信七郎藤原正邦」と刻されています。

この御手洗氏についての山田氏の記事によれば「御手洗信七郎正邦は、幕末の幕臣で、江戸期の石造物最多奉納者。神田明神、王子稲荷、牛島神社などの石造物にも寄進者として名前が残っている」のだそうです。

そして問題の「犬」について、山田氏は、『江戸名所図会(天保7年/1836)』に「楼門、左右に金剛、蜜迹二王の像を置く、裏に使者犬の像を置けり」とあることに注目します。

更に、文章は続き「ある人いう、この地は日本武尊をまつるところなり。慈覚大師この地経歴の頃、不動尊の像を彫刻してご神体に擬せられる。その故に日本武尊、駿河に狩りしたまえる時、凶徒放火して尊を襲う。その時尊、剣を抜きて、狩り犬の綱を切り放ち、燃ゆる草を薙ぎ払いたまう。尊その火の内に立ち給う形相、さも明王の形に似たるをもって、これを比せしとぞ。犬を当山の使者とするもこの故なりといえども、この説いまだ考えず」。

ご神体の不動明王が日本武尊に似ているから、凶徒から日本武尊を守ろうとして戦った犬が、目黒不動尊の狛犬となった、と言いたいようだが、それならば、もっと雄々しい犬であってしかるべきだろう。

狛犬が、獅子ではなく、犬であることの理由としては秀逸だが、その犬像が軟弱であることは説明しきれていないようだ。

おもしろいことに、同じく不動明王を祀る成田さん新勝寺にも、やさしい和犬の狛犬がいます。

何か共通する理由があるはずだが、寺も分からないのだとか。

なお、付け加えておけば、目黒不動には、この他にも、日本犬の石像がおわします。

一番有名なのは、男坂下左の、3匹の子犬に囲まれた母犬。

慈愛に満ちた母犬の優しい目が印象的だが、これも狛犬なのだろうか。

この他、「独鈷の滝」上のスロープにも何体かの犬像が見えるが、私のカメラではきちんと捉えられないので、お見せ出来ないのは残念。

 

 

 

 

 


136 目黒不動の石造物 ⑩ 女坂の2

2018-09-02 08:05:15 | 寺院

石段の一歩目、右手の玉垣の石柱に「諸願成就」とある。

諸願成就ならこれだけでOKなはずだが、ここから上に向かって、祈願四文字が等間隔に並んでいる。

災難消除

心願成就

そして、最初の踊り場。

左奥に、役小角像の石室がある。

その入り口に、はめ込み石板。

朱文字で目立っている。

「奉修復女坂土留石垣
 芝寿命院裏表惣長家永代連中
 當山留主居尓祥院榮列代
 享和元辛酉初冬吉日
 世話人皆悟院
 芝入横丁石右衛門」。

ここから又、四文字祈願語が続く。

 福寿開運 当病平癒

 

 学業成就

 

安産成就

子宝成就

良縁成就

災厄消除

方災消除

そして、山内安全。

信徒の家内安全ではなく、寺の山内安全であるのが、面白い。

 

第一踊り場から第2踊り場へ向かう石段から左を見上げると、朱色の板を背に銀色の棒が立っている。

何の説明もないが、焔の中にすっくと立つ倶利伽羅剣なんだそうだ。

広い境内の中で、なぜ、この場所なのか。

見上げても、見下ろしても、距離があって全容が見にくいことおびただしい。

狛犬がおわす。

位置が悪くて、ワンショットの写真も撮れない。

山田敏春氏(日本参道狛犬研)によれば、昭和42年建立されたセメント造形彩色狛犬だという。

戦時中、軍に供出したブロンズ製二宮尊徳像に代わるセメント製尊徳像が研究開発された。

セメントの調合や彩色は、何度もの失敗の末、会得されたが、この狛犬は、その成果の一つらしい。

同じものが、府中の大国魂神社と墨田区千歳の島杉神社にそれぞれあるそうです。

第2踊り場の石垣の上に、力石が3個。

仏教的価値のある文化財や偉人だけでなく、こうしたすたれ行く民俗的文化財の説明板も、もっとあってほしい。