石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

板橋宿を歩くー7

2011-04-26 22:03:00 | 板橋宿を歩く

 

文殊院

 

板橋宿本陣のあったスーパー「LIFE」の横の道は、「御成道」。江戸時代、将軍が狩りに行くときに通行した道でした。その「お成道」を挟んで反対側にあるのが「文殊院」。真言宗寺院で、本陣、脇本陣の飯田家の菩提寺でした。檀那の墓所としては狭いかなという感じがしますが、江戸時代からの五輪塔や石碑が並んで、由緒ある家の墓地の雰囲気があります。墓地の最奥右に石碑があります。

  

 

 

           文殊院                 飯田家墓所

 飯田家墓地最奥の石碑には「亡姉 阿静 之碣」と右から2文字ずつ刻されています。

 

阿静とは板橋本陣の娘の名前。この碑文は彼女の弟が姉を偲んで建立したものですが、静が加賀下屋敷に蟄居していた六代藩主吉徳の七女祐仙院に仕え、愛遇されていたことがこまごまと書かれています。静は健康を害して暇をもらい、自宅の本陣で療養に努めますが、祐仙院は毎日見舞品を届けさせた上、暇を取ってから亡くなるまでの給金も支払ったと書かれています。前田家下屋敷と周辺住民との交流の記録ですが、それが本陣の娘ですから、なにをか況や。板橋宿本陣の飯田家らしく、当時一流の学者に文章を依頼し、著名な書家に文字を書かせて、それを当代きっての石工廣瀬群鶴が彫り込んでいる、極めて質の高い石碑です。

 

遊女の墓と投げ込み寺

「文殊院」には、もうひとつ有名な墓があります。「遊女の墓」。板橋遊廓「盛元」の女郎4人の戒名、俗名、没年月日が刻まれている極めて珍しい墓標です。

 

珍しいというのは、江戸時代、娼妓が死んで、遺体の引き取り手がない場合、抱え主は遺体をむしろでしばり、銭200文を添えて、宿場内の決まった寺に投げ捨てる習わしで、墓を建てることなどありえなかったからです。遺体を投げ込むから「投げ込寺」。品川宿の「海蔵寺」、内藤新宿の「成覚寺」、千住の「浄閑寺」とともにここ板橋の「文殊院」も「投げ込み寺」として有名でした。品川宿の「海蔵寺」には「無縁首塚」があります。ここには元禄4年(1691)から明和2年(1765)までの75年間に獄死した7000余人のほか、鈴か森刑場での処刑者、宿場飯盛女の遺体などが一緒に葬られています。

内藤新宿の「成覚寺」には、「子供合埋碑」があり、施主として「旅籠屋中」の文が刻まれています。子供とは娼妓を指し、抱え主の子供という扱いなのです。投げ込まれた子供の数、約3000人。

 

    新宿「成覚寺」子供合埋碑

 

千住「浄閑寺」には「新吉原総霊塔」なる笠石塔の供養塔があります。日本堤に新吉原遊廓が出来てから昭和33年の売春防止法施行に至る間の300年間にこの寺に投げ込まれた娼妓の数、なんと約25000人。供養塔の前の石碑には「生まれては苦界 死しては浄閑寺」という川柳が刻されています。こうして三宿の投げ込み寺の実態を見てくると、「文殊院」の遊女の墓がいかに例外的であるかが分かります。

 

 


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