石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-6(谷中3丁目)

2016-08-25 06:07:14 | 寺町

前回で、谷中1丁目の寺紹介は終了。

今回から2丁目に入るが、谷中2丁目には、寺はない。

寺はないが、人家の塀の小堂に石仏が一体おわす。

東京大空襲で焼けたせいか、貌の容が崩れている。

地蔵か、青面金剛か。

堂の隅に「佛説延命地蔵菩薩經」なる書面がおいてあるから、お地蔵さんかも知れない。

こうした辻堂は、谷中寺町でわずかに二つ。

二つも残っていると言うべきか、二つしかないと嘆くべきか。

お地蔵さんの隣は、あの「澤の屋旅館」。

あの、というのは、外人専門の安宿として有名だから。

谷中寺町でやたら外人グループに遇うのは、澤の屋があるから、と言われている。

言問通りから旧藍染川の暗渠道路に面して、1丁目、2丁目と北へ進み、3丁目は三崎坂と谷中銀座の間、東は六阿弥陀通り、西はよみせ通りの区間ということになる。

 

 

 JR日暮里駅西口を出て、左へ進むと右手に寺が並んでいる。

しかし、ここは荒川区なので、パス。

そのまま進んで行くと、谷中銀座の石段「夕焼けだんだん」にぶつかる。

下の地図で「寿司処魚了津」の上の線の刻みが「夕焼けだんだん」。

 

ところで、「夕焼けだんだん」の名付け親は誰かご存じだろうか。

森まゆみさん。

私は、今、彼女の『谷中スケッチブック』を手元に、このブログを書き進めているが、谷中育ちで地域雑誌『谷根千』の編集発行人である森さんの記述は、具体的で詳細、教えられることが多い。

「夕焼けだんだん」ネーミングのいきさつは、赤ちゃんをおんぶして夕食の買い出しに谷中銀座に行ったら、商店街が石段のネーミング募集をしていた。

何気なく書いて応募した「夕焼けだんだん」が採用され、思いがけず賞金をもらった、という本人の記事を読んだ記憶がある。

才能ある人は、どんな所でも、その才能が花開くんだなあ。

地図を良く見ると判るが、「夕焼けだんだん」あたりは、谷中銀座ではあるが、実は荒川区西日暮里3丁目。

石段を下りてすぐ左へ入ると寺がある。

19 法華宗円妙山本授寺(谷中3-11-16)

山門の題目塔を除いて、石造物は墓標ばかり。

ポンプが現役のようだ。

ポンプは谷中名物。

しつこく写真を載せてゆくつもりなので、ご了承を。

次の寺、宗林寺へ向かう途中、道の両側に行列がある。

最後尾の人に訊いたら、かき氷屋の行列だという。

夜、テレビを見ていたら、この行列が出ていた。

冬の天然氷を削り、百種類を超える手作りシロッフからチョイスしたものをかけるのが人気なんだとか。

物好きだなあ、と思うが、彼らにすれば、クソ暑い中、石造物を探して寺廻りする爺さんのほうが、変人に見えることだろう。

道の左側にも寺があるが、そちらは、5丁目なので、今は見向きもしない。

20 日蓮宗妙祐山宗林寺(谷中3ー10-22)

「宗林」は見たことがあるなあと思ったら、家康に仕えた茶道家・斎藤宗林が開基者だった。

神田寺町から移ってきたのは、他の寺と同じ。

門前に、達筆で「ほたる澤 はぎ寺」の石塔。

寺の参道は、萩で覆われている。

秋は、見事だろう。

「ほたる澤」は、ほたるが飛び交う沢の意だが、勿論、今のことではない。

寺の後ろを藍染川が流れ(今は暗渠)ていて、初夏、無数の蛍が乱舞していたので、この名が付いた。

根岸に居を構えていた陶芸家・尾形乾山が、京都御所から貰ってきた蛍を、この寺に放したら、ひときわ明るい光だったので、谷中っ子はよそへ行っては自慢したと云われている。

浄行菩薩がおわす。

他に石仏はなくても浄行菩薩だけはあるのが、日蓮宗寺院の特徴。

珍しく説明文があるので、書き写しておく。

 浄行さんのいわれ
 浄行菩薩は、とくに法華経の教えをこの世に広めて人々を救う使命を持った菩薩さ
 まです。
 日蓮聖人は「一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし」と仰せられました。
 お題目を唱えながら水を掛け、この浄行さんを洗い清めてください。
 水がすべての穢れを浄めるように、浄行さんは、私たちの病や悩みをきれいに流し
 てくれると信仰されています。

山門を出て、六阿弥陀通りを右へ行くと突当りが三崎坂。

右に坂を下りるとすぐ大円寺の山門が見える。

21 日蓮宗高光山大圓寺(谷中3-1-2)

「東京都 大円寺」で検索すると、8か寺の大円寺がヒットする。

中でも、目黒と駒込、谷中の大円寺が有名。

目黒は、五百羅漢、駒込(実は白山)は、焙烙地蔵、谷中は、笠森お仙が売り物 です。

しかし、谷中・大円寺の笠森お仙は、史実に反すると指摘されて久しい。

大円寺の本堂は、珍しい形態で二つの本堂が並んでいる。

左が、お祖師様を祀る経王殿、右が、瘡守(かさもり)薬王菩薩を祀る薬王殿。

薬王菩薩は、瘡守稲荷のことで、明治の神仏分離で、大円寺にいられなくなり、やむなく仏に姿を変えたものです。

瘡守稲荷とは、できもの、皮膚病、梅毒に効くと信じられた民間信仰。

ことをややこしくしたのは、谷中に二つの瘡守稲荷があったこと。

一つは、ここ大円寺に、もう一つは、かつての感応寺(現天王寺)にあった笠森稲荷。

美人で名を馳せた笠森お仙がいたのは、感応寺境内にあった笠森稲荷の前の水茶屋「鍵屋」で、大円寺の瘡守稲荷ではなかった。

それなのに、大円寺には、永井荷風による「笠森お仙の碑」とお仙をモデルの錦絵で一躍有名になった絵師「鈴木春信の碑」がある。

両碑とも、春信百五十回忌の大正8年に建てられたが、これが混乱の因となった。

永井荷風が間違いを犯すとは、誰も思わなかったからです。

女ならでは世の明けぬ日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり、笠森の茶屋かぎやの阿仙、春信の錦絵に面影をとどめて百五十有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。時恰も大正己未夏鰹のうまひ頃」。

隣にたつ「鈴木春信の碑」の撰者は、笹川臨風。

優雅にして典雅、賦彩は華かならずして上品に画くところ韻致に富み、例へば朧にかすむ春の夜の夢かとばかり淡きが中に、花の香の幽かに響く風情あり。(中略)この大芸術家が屡々題材としたる江戸の艶女笠森お仙に、由縁深き谷中笠森稲荷を勧請せる大円寺の塋域に碑を建て以て我等が渇仰賛美の意を捧ぐ」

 問題は、永井荷風は大円寺が笠森お仙とは無縁だったことを知っていたか、ということになる。

『谷中スケッチブック』で著者・森まゆみさんは、小説「恋衣花笠森」を書いた荷風は当然知っていただろうと断ずる。

では、お仙が感応寺(現天王寺)の前の水茶屋の娘であったことを知りながら、荷風は、なぜ、大円寺に碑を建てたのか。

森さんは、永井荷風を反権力的な意志を持った作家と認定した上で、以下のように推理する。

日蓮宗の由緒ある大寺感応寺が、幕府の権力によって無理やり天台宗に宗旨を変えさせられた以上、荷風としては、天台宗の寛永寺子院養寿院や、旧跡の真言宗の功徳林寺に碑を建てるのは、潔しとしなかった。そこで同じ瘡守を祭る大円寺に建碑したのではないか」。(文庫『谷中スケッチブック』P92)

建碑には、荷風の意志が強く働いた、と森さんは見るのだが、荷風の日記では、碑文の執筆依頼を一度は断り、臨風の度重なる依頼にしぶしぶ応じた様子が書かれている。

「碑文なんか書かない方がいい」という本人のつぶやきもある。

つまり、荷風は、建碑に乗り気ではなかったことになる。

興が乗るまま、ズラズラと書いてきたが、荷風の真意の詮索はこのブログの趣旨に沿うものでもないので、この辺で止めときます。

笠森お仙と春信については、功徳林寺(谷中7丁目)で、再び、取り上げる予定。

谷中3丁目の3つの寺を紹介してきたが、3丁目はこれで終わり。

次回からは、4丁目に入ります。

 

(*次回更新日は、9月1日です)

 

≪参考図書≫

 

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 

◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 

◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

 

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 

◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 

◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 

◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 

◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 

◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-5(谷中1丁目のホ))

2016-08-20 06:37:34 | 寺町

宗善寺を出て、左方の坂が三浦坂。

三浦坂下からの写真。右の塀は宗善寺。

三浦坂を下りきった左に、4、臨江寺があり、ぐるっと一周したことになる。

宗善寺を出たら、三浦坂を下りないで、みかどパンまで戻り、三つ角を左、東の方へ進む。(下の地図では、川名石材店の左方の三つ又にみかどパンがある)

 16 天台宗光雲山元導寺法蔵院(谷中1-6-26

江戸開府に伴い新たに造成された神田寺町に、慶長16年(1611)開山したが、江戸の都市再開発で、慶安元年(1648)、他の寺と共に現在地に移転してきた。
戊辰戦争での本堂焼失に、廃仏毀釈が追い打ちとなって、荒廃の憂き目に遭うが、明治中頃に復興、関東大震災、戦災の難を免れ今日に至っている。(天台宗東京教区HPより)

石造物としては、宝篋印塔1基が目立つ。

『御府内寺社備考』の法蔵院縁起にある高さ1丈1尺の宝篋印塔とは、これのことだろうか。

ポンプがあるが「ポンプの柄が抜けるので、触らないで」と注意書きがある。

17 天台宗倍増山金嶺寺(谷中1-6-27)

法蔵院と同じ神田寺町からの引っ越し組。

開基は、あの天海和尚。

寛永寺の末寺であるのは、必然だろう。

山門に「如意輪観音」文字塔。

その台石には「西国三十一番長命寺」とある。

当寺は、「上野、王子、駒込辺三十三ケ所観音霊場」の三十一番札所だから当然だが、長命寺の本尊は十一面千手観音で如意輪観音ではない。

どういうことなのだろうか。

境内に入る。

犬がいる。

バジルという名前らしい。

注意書きの看板がある。

   お願い
 いつも可愛がってくれて
 ありがとうございます。
 ワタシも、もう15歳です。
 最近食べ物がのどに
 詰まったりすることが増えました。
 おやつをもらえるのは
 うれしいけれど、ガマンします。
     バジルより 

住職の人柄が分かる文章だ。  

庚申塔がある。

谷中寺町巡り17か寺目にして、初めての庚申塔。

なぜ、こんなに少ないのか、不思議なことだ。

青面金剛は、正面を残して、全面ツタで覆われ、貫禄十分。

「髭塚」なる珍しい石碑がある。

「散る花の 中に一本 桜かな 得知」

得知とは、明治時代の劇作家・幸堂得知のこと。

本人の髭がこの碑の下に埋まっているのだとか。

墓地入口の無縁コーナーは、三界萬霊宝篋印塔の左右に地蔵と聖観音がおわす重厚スタイル。

とろけたようなお地蔵さんがいい。

好きだ。

金嶺寺の山門を右折、突当りが言問通りで、その角にあるのが、

18 日蓮宗大法山一乗寺(谷中1-6-1)

人間の記憶は面白い。

一乗寺という名前では何も思い出せないが、この光景を見ると「あ、言問い通りに面したあのお寺」と思い出す。

石仏に興味を持つ以前から、何度もこの前を通ったことがある。

立派な門構えの山門と重厚な和風木造建築の庫裏が、インパクトを持って脳裏に刻み込まれているから、忘れようがない。

何段もの台石の上に題目塔が聳えている。

その下に、なぜか、魚籃観音がポツンとおわす。

都指定史跡として、大田錦城なる儒学者の墓があるが、私は知らないので、素通り。

もっと名前を知った人の墓はないか、墓地を歩いていたら、あった。

木島則夫の墓。

あの「木島則夫モーニングショー」のキャスター木島さんの墓ということになる。

「陽香院清温日島居士」。

私は、入社4年目の新米デイレクターとして、「木島則夫モーニングショー」の制作に携わっていた。

もう50年も前のことです。

台本のない生番組という日本初の実験的番組は高視聴率をあげ、成功を収めた。

アドリブとかハップニングが生番組を面白くさせる要素であることを、モーニングショーを通して知った。

木島さんは温厚な紳士で、怒った顔を見たことがない。

後に参議院議員になるが、テレビでの有名人が国会議員になった先駆けだった。

テレビの有名人は有能な国会議員にあらず、の先駆者でもあった。

(*次回更新日は、8月25日です)

≪参考図書≫

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

◇石田良介『谷根千百景』平成11年

◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-4(谷中1丁目のニ)

2016-08-15 05:32:34 | 寺町

谷中寺町巡りの4回目は、妙泉寺から長運寺、妙福寺、妙行寺、延寿寺、宗善寺と回り、これで谷中1丁目の寺を全部紹介することになる。

11 法華宗長久山妙泉寺(谷中1-5-35)

モダンな寺というよりも、大きくてモダンな一般家屋という印象を受ける。

右の建物の玄関上に「妙泉寺」の文字がなければ、寺だと思う人は誰もいないだろう。

建物ばかりか、石仏も超モダン。

漫画のキャラクターの傍に「貧乏が去る像」の石柱が立っている。

私には、冗談としか思えないが、像の左の縁起を読むと真面目な石像らしい。

以下が、縁起全文。

まずは、読んでみてください。

貧乏が去る像の貧乏神を撫でたあと
 頭上の猿を撫でると貧乏が猿(去る)という
 大変縁起のいい石像です。
 
貧乏神をこらしめる猿は、一説によれば、四天王のひとり、

 毘沙門天の化身ともいわれております。
 毘沙門天は、仏法を良く聞いたことから多聞天と呼ばれ、
 福徳の天女、吉祥天を妃とした神さまで、
 仏像の毘沙門天は貧乏神を踏みつけていることでも有名です。
 妙泉寺の貧乏が去る像は、国土安穏や訪れる方々の
 富貴繁栄を祈念するものでございます。
 家は富み、心は元気、幸福になりますようお参りください。」 
 

「こじつけばかりで、こんなもの信じられるか」と言わない方がいい。

現世利益を叶える民間信仰は、みなこじつけの産物だからです。

観音や地蔵の姿を借りて、仏教らしさを纏った迷信だが、「信ずるものは救われる」のだから、存在意義はある。

「貧乏が去り、金持ちになる」というのではない。

「貧乏が去る」だけで、誰もが無害。

ま、私は、像を撫ではしませんでしたが。

妙泉寺を出て、左折、住宅地を進むとひっそりと寺がある。

11 日蓮宗大乗山長運寺(谷中1-7-4)

谷中感応寺内に、安産守護を目的に創建されたのが、寛永5年(1628)。

それが感応寺の改宗事件の余波で、元禄10年(1697)、現地に移転を余儀なくされた。

墓地入口に舟形地蔵法界萬霊塔がある。

刻字は読めないが、卒塔婆から、そう判断できる。

「南無妙法蓮華経付施餓鬼為法界萬霊盂蘭盆会水向供養」。

今年もお盆の季節となった。

新しい卒塔婆が加わっていることだろう。

長運寺を出て、真っ直ぐ行く。

左の塀は、次の寺、妙福寺の塀。

突当りを左折するとすぐに山門がある。

12 日蓮宗石岡山妙福寺(谷中1-7-41)

山門前に、高い題目塔。

側面に朱色に刻されているのは「冠鍋日親大上人開基霊場」。

「冠鍋」は「なべかむり」と読み、日親が受けた刑罰の一つ。

日親は室町時代から戦国時代にかけて、日蓮の思想継承者として不受布施を実践した高僧。

足利義教に日蓮宗を信奉し他宗の信仰を捨てることを勧めたが容れられず、更に『立正治国論』を献上しようとした。

激怒した義教は、日親を投獄し、熱湯浴びせ、むち打ち、火あぶり、足の爪はがし、陰茎串刺し、真っ赤に焼けた鍋を頭に被せる刑罰を30回にわたって繰り返したという。

それでも日親は屈することなく、法華経の布教を止めなかった。

その日親が開基したのが、妙福寺。

境内に入る。

植物が生い茂って、境内と言うよりも植物園の一画の様。

植物に遮られて見えにくいが「日蓮大菩薩」塔がある。

石仏巡りを始めた頃、日蓮大菩薩に初めて出会って、「なんて尊大な始祖だろう」と思った。

だが、日蓮大如来ではなく、菩薩であることに気が付いて、考えを改めた。

お釈迦さまという仏さまがいらして、その教えを日蓮が使い走りの菩薩として、衆生に分かち与えるという図式の中の菩薩ならば、納得がゆくからです。

いろいろな草花の苗が、植木鉢に芽吹いている。

散水は、豊富な井戸水のようだ。

日親上人のキャラクターである、反権力的で、不屈の闘志などはどこにも感ずることはない、穏やかな境内でした。

 13 日蓮宗正栄山妙行寺(1-7-37)

日蓮宗寺院が続く。

どの寺も同じなのか、違うのか、違うとすれば、何がどう違うのか。

境内に「一字一石塔」がある。

経文を長く残す素材に石を選び、一石に一字を書いて埋め、その上に建てた石塔が「一字一石塔」。

書き写す経典は、大乗妙典と称される法華経が多かった。(『日本石仏事典』より)

日蓮宗寺院の妙行寺にあるのも、当然と言っていい。

当然といえば、日蓮宗だから、浄行菩薩がおわす。

「咳守護」とあるのが、他寺の浄行菩薩との違いだろうか。

 寺の前の三つ角に巨大なヒマラヤ杉。

その巨木に抱かれるように、駄菓子屋風パン屋がある。

三つ角にあるから「みかどパン」だが、ぐるっと寺に囲まれて、その昔、「三方寺店」と呼ばれていたらしい。

昭和のイメージそのままの風景に心奪われる。

絵筆を走らせる老人がいる。

絵心があれば、私もきっとここを描くだろうと思う。

谷中もこの辺りになると、ディープな谷中と言っていい。

目的の寺を目指してさっさと来る、というより、道に迷いながら、露路へ路地へと入りこんだら「昭和の谷中」にぶつかった、というのがふさわしい。

「ワーオ」という女の声に振り向いたら、外国人女性がいた。

歓声を上げるほどこの景色が気に入ったらしい。

帰国して、日本というとこの界隈を思い出すに違いない。

「心のスーベニア」として、最高です。

14 日蓮宗六浦山延寿寺(谷中1-7-36)

俗に「日荷さま」、「日荷堂」と呼ばれるのは、日荷上人をお祀りしているから。

山号の「六浦山」は、日荷上人の出身地、横浜市金沢区六浦にちなんだもの。

「日荷さま」は、健脚の神として敬われているが、それは日荷上人の信じられない健脚と大力伝説があるからです。

室町時代、荒井平次郎光吉(上人の俗名)の夢枕に、金沢文庫・称名寺の仁王が現れ、『身延山の守護神になりたいから、助力してほしい』と頼みます。
光吉が夢の話をしても、寺は、勿論、けんもほろろ。
一計を案じた光吉は、囲碁好きの和尚に勝負を挑みます。懸け碁に光吉は勝ち、仁王は光吉のものとなります。
しかし、和尚は、のんびりしたもの。「あんな重い仁王は動かしようがない」と。ある夜、山門から仁王を担ぎ出した光吉は、三日三晩かけて、身延山まで運び込み、奉納に成功します。
驚いた身延山の住職が光吉に授けた名前が「日荷」。
日蓮聖人の「日」と担いできた大荷物の「荷」を組み合わせた名前でした」。(延寿寺HPより)

「あやかりたい」気持ちがなければ、「あやかる」ことはないだろうが、「あやかりたい」気持ちがあれば、必ず、「あやかる」ということでもないと私は思うのだが・・・

「祈れば叶えられる?」神様が、境内にもう一つある。

「富増稲荷」。

あまりにも直截的で、私は、祈る気にもならない。

 

幕末の上野戦争では、この谷中も戦場となった。

その戦禍については、全生庵の項で詳述するが、ここ延寿寺も戦禍を被り、山門を残し、焼失した。

山門に立つ寺号石塔に残る傷跡は、当時の弾痕と見て間違いない。

 延寿寺の角を左へ。

緩やかな坂道を下ると左に宗善寺がある。

15真宗大谷派向岡山宗善寺(谷中1-7-31)

傾斜地に墓地が広がっている。

見晴らしがいい。

樹々の上に本郷台地の建物が見える。

ただ、それだけ。

浄土真宗寺院らしく、石仏、石造物は皆無。

だから、書くことがない。

だから、これで終わり。

(*次回更新日は、8月20日です)

 

≪参考図書≫

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

◇石田良介『谷根千百景』平成11年

◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-3(谷中1丁目のハ)

2016-08-10 07:55:00 | 寺町

玉林寺を出て、善光寺坂を上がる。

左側は、寺が続いている。

本光寺の角を左折、宗善寺までの一画が谷中1丁目。

道順に回って行くことに。

6 日蓮宗妙経山信行寺(谷中1-5-7)

句碑がある。

「おくられて わかれるみちや 屋なかむら 理頭」

ネット検索してみたが、理頭ではヒットせず。

日蓮宗寺院に付きものの浄行菩薩がおわす。

7 日蓮宗究竟山妙情寺(谷中1-5-5)

掲示板に「今月の聖語」。

他宗では、各寺院が「聖語」を書くが、日蓮宗では本部から送られて来た「今月の聖語」が掲示されている。

紀念碑がある。

何の紀念碑かと思ったら、天王寺からの借地だった境内地を檀信徒の助力で寺の所有地にした、その記念碑。

寛文六年の石塔がある。

寺縁起では、寛永年間創立の妙浄寺を中興したのは、京都立本寺十八世霊鷲院日審上人ということになっている。

その日審上人の墓標のようだ。

 

8 日蓮宗仏寿山上聖寺(谷中1-5-3)

季節がら、本堂にお盆燈籠が下がっている。

境内に石仏はない。

石仏はないが、石カエルはいる。

寺院には多い縁起物で、「無事かえる」とか「むかえる」とかの意だとか。

石仏はない、と書いたが、境内の隅の水子観音堂前には、観音ならぬ子安地蔵が2体おわす。

それにしても「水子観世音菩薩」という菩薩名は、初めて見るような気がする。

「水子地蔵」ではなく、「水子観音」なのは、かぜなのだろうか。

 

9 日蓮宗長原山本光寺(谷中1-5-2)

秋葉家の墓域に石碑が立っている。

少し長いが、書き写しておく。

「           

 四代 秋葉大助は天保十四年生まれ人力車の始祖なり
 資性英邁にして気を見るに敏 丈余の体躯と文武の力量に秀でたり 秋葉家に入り 
 て三代大助の素志を継ぎ人力車を完成 世に廣く販布し絶大なる好評を博せり 人          
 力車は明治初年の交通機関として社会全般に利用せられ 特に医師、芸能界には欠  
 く事の出来ぬ交通機関となりて 文芸、絵画、演劇に至るまで 明治の風俗に浸透
 し現今に至りても文明開化期のよき乗り物として 世人の懐古するところとなれり
      昭和四十九年十月建之
                                孫 秋葉紀務
                                 秋葉泰正」

寺の境内や墓地にある墓の人物紹介は、自治体の教育委員会の手になるものが大半です。

これは、台東区の教育委員会ではなく、秋葉家が建てたもの。

政治家、財界人、学者、文化人、芸能人だけでなく、こうした世俗の時の人も、教育委員会で紹介したほうがいい、と私は思うのですが。

10 日蓮宗顕寿山仏心寺(谷中1-5-35)

本光寺の角を左折、すぐ左に見えてくるのが、仏心寺の山門。

山門の奥に伸びる参道の両側は、緑に覆われている。

突然、右に広がりが・・・

奥に本堂、右手に、祖師日蓮の銅像、宝篋印塔、無縁供養塔がある。

他には何もない。

墓地は、参道の突当りに広がっている。

 *次の更新日は、8月15日です。

≪参考図書≫

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

◇石田良介『谷根千百景』平成11年

◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-2(谷中1丁目のロ、玉林寺)

2016-08-05 05:07:47 | 寺町

臨江寺を出たら来た道を戻って、善光寺坂へ。

左の塀が臨江寺。前の通りの下が暗渠で藍染川が流れている。道の向こうが善光寺坂。

坂を左折して上る。

ほんの少しで、左に喫煙コーナーがある公園風な空地に出る。

公園ではなく、そこは玉林寺の山門前。

5 曹洞宗望湖山玉林寺(谷中1-7-15)

境内がなんとなく薄暗いのは、大木で日差しが遮られているため。

樹々は数百年の年輪を重ねていて、この寺が古寺であることを物語っている。

家康入府は、天正18年(1590)だった。

その前年に、玉林寺は創設されている。

谷中寺町70か寺のなかでも三指に入る古い寺なのです。

山門横の石碑には「日出乾坤耀」と刻されている。

「日出でて乾坤輝く」とは、「太陽の光で世界が輝いている」ことだが、太陽の光とは、仏光を指し、「仏の慈悲と智慧の光で、世界は輝く」の意。

境内に入る。

燈籠は、増上寺石燈籠の一つ。

戦後、増上寺の徳川家霊廟はプリンスホテルの所有となり、参道の約1000基の石燈籠は、所沢に運ばれ、野積みされていた。

その地に西武球場が出来ることになって、石燈籠は希望者に配布されたが、これはそのうちの1基。

「有章院殿」とは、3歳で将軍となり、7歳で死亡した第七代家継の戒名。

玉林寺には「有章院」燈籠が他に2基、「惇信院」(家重)燈籠が1基、計4基の増上寺燈籠があるが、台東区ではこの寺でだけ見られる。

 境内には、第58代横綱千代の富士の顕彰像がある。

5年前に建立されたばかりの新しいもの。

銅像を建て、顕彰するのは、珍しくはないが、本人生存中というのは、レアケースではないか。

(と、この記事を書いて、1か月もしないうちに千代の富士逝去の報が・・・)

玉林寺には、東京都が天然記念物に指定しているシイの木の大木があるはずだが、探しても見当たらない。

寺務所で訊いたら、若い坊さんが案内してくれた。

探しても見当たらないはずで、本堂や庫裏と墓地の間の庭園を通り、その先の駆けあがりの小丘に木はあった。

都教育委員会の説明板によれば、シイの木の幹周り5.63mというから大人3人がかりでやっと囲める位。

下部はセメントで補強してあるようで、とても樹木とは思えない様相を呈している。

枝張りは7.5mもあって、1本の木なのに鬱蒼と暗い。

樹齢700年だとか。

寺の創建は430年前くらいだから、そのずっと前から巨木としてあったことになる。

シイの木は駆けあがりの中腹にあって、さらに30mほど上に展望台らしき場所がある。

玉林寺の山号は「望湖山」。

ちなみにこの書は、三代将軍家光公の筆になるもの。

「湖」とは、不忍池のこと。

今は障害物が重なって見えないが、その昔は、不忍の池を見下ろす絶景地だったに違いない。

帰り道、洞穴があるのに気付く。

訊いたら戦時中の防空壕だった。

原型が残る防空壕は、珍しい。

台東区が郷土史跡として指定してはどうか。

 

墓地への階段の両側は、無縁仏がズラリと並んで壮観。

谷中寺町で、無縁仏が最も多いのは玉林寺、と言って間違いない。

天正年間創立の寺なので、元和、寛永造立の石仏があるやもしれず、探してみたが、寛文時代の地蔵墓標を見つけただけ。

ざっと見ただけで、見落としがあることは十分ありうるが。

墓域にも石仏が並んでいる。

黒ずんでいるのは、空襲の痕跡か。

谷中は、戦災を免れたと聞いているが、場所によるのかもしれない。

墓地入口に井戸がある。

蛇口が見えるから、手押しポンプはもう現役ではないのかもしれないが、昭和のムードたっぷりで、離れがたい。

墓参の手桶の水は、かつて、全部、手押しのポンプでくみ上げた。

それが電動ポンプになって、手押しポンプはすっかり姿を消したが、なぜか、墓地にだけは残っていることが多い。

今回、谷中寺町を歩いて気が付いたのだが、谷中は特に井戸の保存率が高い。

谷中名物に「井戸」をあげたいくらいだ。

すでに、谷中名物になっているものに、ネコがいる。

ここでも、しろ、くろ2匹が低く唸って、にらみ合っていた。

(*くろネコは、手桶の右にいる

谷中といえば、路地が名物だが、知る人ぞ知る隠れた名物路地が玉林寺脇に2本走っている。

まず、右側の路地から。

境内右側に何気なく開いた通路がある。

車は入れるのだろうか。

標識が何もないから、入ってゆくのに気後れするが、そのまま進んでゆく。

左側は寺の塀、右側は民家に挟まれて、左へ、左へと回って行く。

家々に駐車場がないから車は通れないようだが、では、どうして建築したのだろうか。

火事の時、消防車はOKなのだろうか。

左に、都の天然記念物のシイの木が見えて来たら、右折、その先は行き止まりになっていて、階段がある。

階段わきにポンプ井戸があって、「野田家専用」の木札がかかっている。

すぐ横の家の表札が「野田」だった。

手押しポンプを押してみる。

いともやすやすと綺麗で冷たい水が出てくる。

スイカを冷やしておくと絵になるのにな。

石段を上がる。

左へ2、3回まわると、

左に寺の山門が現れて、「長運寺」とある。

全長300mはありそうだが、人っ子ひとり出会わなかった。

 

もう一本の路地は、寺の本堂左側隅っこに入口がある。

ここにも標識はない。

両側をブロック塀に囲まれた狭い通路を行くと短い上りがあって、その上に「私有地です。入らないでください」の看板。

看板の後ろはアパートで、それぞれの玄関が道に面して、すぐそこにある。

玄関前を横切って行くと、右に空地、その先は玉林寺の墓地だった。

墓地を見て進むともう前方が突当りの坂。

坂は三浦坂で、ごちゃごちゃと猫グッズが並ぶのは、「ねんねこ屋」。

全長100m弱の「探検」です。

*次回更新日は、8月10日です。

 

≪参考図書≫

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

◇石田良介『谷根千百景』平成11年

◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 


125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-1(谷中1丁目のイ)

2016-08-01 05:12:05 | 寺町

上野の山を挟んで、東にも西にも、寺町が展がっている。

このブログの「東京の寺町」シリーズで東上野、西浅草などは回ったが、西の、谷中寺町は、手を付けていない。

ためらう理由は二つ。

一つは、坂の多い地区だから。

脚力が弱くなって、坂道が苦手になった。

もう一つは、日蓮宗の寺が多いこと。

このブログは「石仏散歩」だから、石仏、石碑等の石造物がテーマだが、日蓮宗寺院には、石造物が少ない傾向がある。

浄土真宗寺院ほどではないが、境内に石造物が皆無の寺もあるくらいだ。

谷中寺町の6割は日蓮宗だから、こと、石造物に限れば、収穫はあまり見込めそうもない。

それでも谷中寺町を歩き回って来たのは、谷中の町が醸し出す雰囲気が好きだから。

戦災にも遭わず、焼け残った区域もあって、昭和の匂いがプンプンとするのが,堪らない。

普通、谷中寺町と云えば、JR西日暮里駅の内側西日暮里3丁目や上野桜木の一部も含めての呼称のようだが、今回は、谷中1-7丁目にある寺だけが対象です。

タイトルは「谷中の寺町」だが、正確には「谷中寺町の石造物」。

歴史的な大寺でも見るべき石造物がなければ、スルーします。

では、谷中1丁目からスタートです。

地下鉄「根津駅」を出て、言問通りを北へ上る。

言問通りの左側に谷中寺町は広がっている。

と、思い込んでいるから見逃してしまうのだが、言問通りの右側にも谷中1丁目はあるのです。

1 臨済宗楞伽山天眼寺(谷中1-2-14)

谷中寺町では、少数派の臨済宗寺院。

山号は「りょうかさん」。

武州忍城主松平候により、延宝6年(1678)開基された。

東京都の史跡として、太宰春台の墓が指定されている。

太宰春台は、江戸中期の儒学者ということだが、私は名前を聞いたこともない。

偉人とはいえ、まったく知らない人物を受け売りするのは気が進まないので、紹介はカット。

これからも、私が知らないということで、カットされる「有名人」が続出することになる。

いい年をして誠に、恥ずかしい。

石造物としては、のっぽの無縁塔が目立っている。

スカイツリーが見えれば、対の景色は面白そうだが、残念ながらスカイツリーは上野の山の向こうだから、見えるはずがない。

墓地入口に、年忌法要者のリストが掲示されている。

五十回忌の故人名が並んでいる。

果たして法要されたのは、何人なのだろうか。

寺を去る時、山門前の掲示板が目に入った。

「人の世に」とは、六道のうちの人道を指すのだろうか。

 

寺を出て、左折、すぐの信号を渡って向こう側へ。

黒いタクシーの横が天眼寺。タクシーのすぐ前に「文京区」の標識がある。

横切ってきた道路が言問通りで、別名、善光寺坂。

善光寺坂は信濃坂ともいうが、それは坂上に信濃善光寺の宿院があったから。

宿院善光寺は元禄の大火で焼失、寺は青山に移転したが、善光寺という名前だけが門前の坂に残った。(台東区教委の説明板より)

善光寺坂を渡った所にあるのが、「昔せんべい大黒屋」。

向かいは根岸2丁目で、その間の通りを行くと右に寺が3軒並んでいる。

2 日蓮宗栄源山本寿寺(谷中1-4-9)

 別名「川端の本寿寺」と呼ばれるのは、寺の前に藍染川が流れていたから。

今は暗渠になってその面影はないが、谷中2丁目の「へび道」はいかにも小川の流れそのままに見える。

漱石や鴎外の小説に、この藍染川が何度か登場するようで、文学散歩のブログでは往時の写真が載っている。

境内で目立つのは、2本のノッポの題目塔。

「南無妙法蓮華経妙経自讀三萬部 日観」

もう1基は、同じ刻文で、「二萬部」とある。

日蓮宗では「法華千部会」なる法会がある。

「妙法蓮華経」一部八巻二十八品の語数は、69384文字。

それを、千回読誦するのは大変だからも10人、100人の集団でやる。

10人なら一人100回で済み、100人なら10回で済むという百万遍念仏と同じ発想によるもの。

日観上人は「自讀」というのだから、一人で3万部読誦したということになる。

不眠不休でやるのだろうか、超人間的荒業のようで、日蓮宗寺院が密集する谷中寺町でも同種の石塔は見かけなかった。

 

墓地の奥に、一際、広く大きく目立つ墓域がある。

江戸の長者番付で前頭にランクされる酒屋高崎屋(本郷向丘)の墓。

      現在の高崎屋(東大農学部前)

どれほどの金持ちだったか、天保年間(1830-1844)、当時のスター絵師・長谷川雪旦に描かせた「高島屋絵図」があるほどです。

瓢箪型の石塔は、高崎家の家紋が千成瓢箪だから。

瓢箪は「繁盛、富、権力」の象徴でした。

高崎屋の家訓は「正直第一、謹慎、柔和、家を思い信心肝要」。

信仰心が篤いから、代々、本寿寺の檀家総代として多大な寄進をしてきた。

しかし、大スポンサーの高崎屋を相手に、寺が訴訟を起こしたことがあるというから、面白い。

本寿寺に残る古文書には、その訴訟記録が載っていて、それによれば、高崎屋の女将の葬儀を別の寺で執り行ったことに対して、寺が抗議する内容だという。

 

3 臨済宗祝融山瑞松院(谷中1-4-10)

墓地への入口の宝篋印塔しか見るべき石造物はない。

山門を入って右の隅にポツンと如意輪観音墓標がおわす。

どんないわれがあるのだろうか。

 4 臨済宗龍興山臨江寺(谷中1-4-13)

寛永7年1630)、不忍池南岸に建てられた。

池を望むから臨江寺なのたが、寛文7年(1967)、現在地に移転して「臨江」ではなくなった。

境内に入ると左に「忠節蒲生君平墓」が立っている。

蒲生君平は、宇都宮の人で、江戸後期の熱烈な尊王論者。

林子兵、高山彦九郎とともに寛政の三奇人と称された。

赤貧洗うが如く、乞食のような身なりで、あんまをしながら、天皇陵についての「山陵志」を著した、という人物資料を読みながら、かつての同僚を思い出した。

彼は蒲生君平の先祖の主君、蒲生氏郷の子孫だったが、40代半ばで退社し、マッサージ師となった。

つまらないことで横道をした。すみません。

臨済宗寺院だから、無縁塔にはかなりの石仏が並んでいる。

無縁塔からちょっと離れて、阿弥陀三尊が、放置されたように在す。

*次回更新日は、8月5日です。

 

≪参考図書≫

◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

◇石田良介『谷根千百景』平成11年

◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html