前回で、谷中1丁目の寺紹介は終了。
今回から2丁目に入るが、谷中2丁目には、寺はない。
寺はないが、人家の塀の小堂に石仏が一体おわす。
東京大空襲で焼けたせいか、貌の容が崩れている。
地蔵か、青面金剛か。
堂の隅に「佛説延命地蔵菩薩經」なる書面がおいてあるから、お地蔵さんかも知れない。
こうした辻堂は、谷中寺町でわずかに二つ。
二つも残っていると言うべきか、二つしかないと嘆くべきか。
お地蔵さんの隣は、あの「澤の屋旅館」。
あの、というのは、外人専門の安宿として有名だから。
谷中寺町でやたら外人グループに遇うのは、澤の屋があるから、と言われている。
言問通りから旧藍染川の暗渠道路に面して、1丁目、2丁目と北へ進み、3丁目は三崎坂と谷中銀座の間、東は六阿弥陀通り、西はよみせ通りの区間ということになる。
JR日暮里駅西口を出て、左へ進むと右手に寺が並んでいる。
しかし、ここは荒川区なので、パス。
そのまま進んで行くと、谷中銀座の石段「夕焼けだんだん」にぶつかる。
下の地図で「寿司処魚了津」の上の線の刻みが「夕焼けだんだん」。
ところで、「夕焼けだんだん」の名付け親は誰かご存じだろうか。
森まゆみさん。
私は、今、彼女の『谷中スケッチブック』を手元に、このブログを書き進めているが、谷中育ちで地域雑誌『谷根千』の編集発行人である森さんの記述は、具体的で詳細、教えられることが多い。
「夕焼けだんだん」ネーミングのいきさつは、赤ちゃんをおんぶして夕食の買い出しに谷中銀座に行ったら、商店街が石段のネーミング募集をしていた。
何気なく書いて応募した「夕焼けだんだん」が採用され、思いがけず賞金をもらった、という本人の記事を読んだ記憶がある。
才能ある人は、どんな所でも、その才能が花開くんだなあ。
地図を良く見ると判るが、「夕焼けだんだん」あたりは、谷中銀座ではあるが、実は荒川区西日暮里3丁目。
石段を下りてすぐ左へ入ると寺がある。
19 法華宗円妙山本授寺(谷中3-11-16)
山門の題目塔を除いて、石造物は墓標ばかり。
ポンプが現役のようだ。
ポンプは谷中名物。
しつこく写真を載せてゆくつもりなので、ご了承を。
次の寺、宗林寺へ向かう途中、道の両側に行列がある。
最後尾の人に訊いたら、かき氷屋の行列だという。
夜、テレビを見ていたら、この行列が出ていた。
冬の天然氷を削り、百種類を超える手作りシロッフからチョイスしたものをかけるのが人気なんだとか。
物好きだなあ、と思うが、彼らにすれば、クソ暑い中、石造物を探して寺廻りする爺さんのほうが、変人に見えることだろう。
道の左側にも寺があるが、そちらは、5丁目なので、今は見向きもしない。
20 日蓮宗妙祐山宗林寺(谷中3ー10-22)
「宗林」は見たことがあるなあと思ったら、家康に仕えた茶道家・斎藤宗林が開基者だった。
神田寺町から移ってきたのは、他の寺と同じ。
門前に、達筆で「ほたる澤 はぎ寺」の石塔。
寺の参道は、萩で覆われている。
秋は、見事だろう。
「ほたる澤」は、ほたるが飛び交う沢の意だが、勿論、今のことではない。
寺の後ろを藍染川が流れ(今は暗渠)ていて、初夏、無数の蛍が乱舞していたので、この名が付いた。
根岸に居を構えていた陶芸家・尾形乾山が、京都御所から貰ってきた蛍を、この寺に放したら、ひときわ明るい光だったので、谷中っ子はよそへ行っては自慢したと云われている。
浄行菩薩がおわす。
他に石仏はなくても浄行菩薩だけはあるのが、日蓮宗寺院の特徴。
珍しく説明文があるので、書き写しておく。
浄行さんのいわれ
浄行菩薩は、とくに法華経の教えをこの世に広めて人々を救う使命を持った菩薩さ
まです。
日蓮聖人は「一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし」と仰せられました。
お題目を唱えながら水を掛け、この浄行さんを洗い清めてください。
水がすべての穢れを浄めるように、浄行さんは、私たちの病や悩みをきれいに流し
てくれると信仰されています。
山門を出て、六阿弥陀通りを右へ行くと突当りが三崎坂。
右に坂を下りるとすぐ大円寺の山門が見える。
21 日蓮宗高光山大圓寺(谷中3-1-2)
「東京都 大円寺」で検索すると、8か寺の大円寺がヒットする。
中でも、目黒と駒込、谷中の大円寺が有名。
目黒は、五百羅漢、駒込(実は白山)は、焙烙地蔵、谷中は、笠森お仙が売り物 です。
しかし、谷中・大円寺の笠森お仙は、史実に反すると指摘されて久しい。
大円寺の本堂は、珍しい形態で二つの本堂が並んでいる。
左が、お祖師様を祀る経王殿、右が、瘡守(かさもり)薬王菩薩を祀る薬王殿。
薬王菩薩は、瘡守稲荷のことで、明治の神仏分離で、大円寺にいられなくなり、やむなく仏に姿を変えたものです。
瘡守稲荷とは、できもの、皮膚病、梅毒に効くと信じられた民間信仰。
ことをややこしくしたのは、谷中に二つの瘡守稲荷があったこと。
一つは、ここ大円寺に、もう一つは、かつての感応寺(現天王寺)にあった笠森稲荷。
美人で名を馳せた笠森お仙がいたのは、感応寺境内にあった笠森稲荷の前の水茶屋「鍵屋」で、大円寺の瘡守稲荷ではなかった。
それなのに、大円寺には、永井荷風による「笠森お仙の碑」とお仙をモデルの錦絵で一躍有名になった絵師「鈴木春信の碑」がある。
両碑とも、春信百五十回忌の大正8年に建てられたが、これが混乱の因となった。
永井荷風が間違いを犯すとは、誰も思わなかったからです。
「女ならでは世の明けぬ日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり、笠森の茶屋かぎやの阿仙、春信の錦絵に面影をとどめて百五十有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。時恰も大正己未夏鰹のうまひ頃」。
隣にたつ「鈴木春信の碑」の撰者は、笹川臨風。
「優雅にして典雅、賦彩は華かならずして上品に画くところ韻致に富み、例へば朧にかすむ春の夜の夢かとばかり淡きが中に、花の香の幽かに響く風情あり。(中略)この大芸術家が屡々題材としたる江戸の艶女笠森お仙に、由縁深き谷中笠森稲荷を勧請せる大円寺の塋域に碑を建て以て我等が渇仰賛美の意を捧ぐ」
問題は、永井荷風は大円寺が笠森お仙とは無縁だったことを知っていたか、ということになる。
『谷中スケッチブック』で著者・森まゆみさんは、小説「恋衣花笠森」を書いた荷風は当然知っていただろうと断ずる。
では、お仙が感応寺(現天王寺)の前の水茶屋の娘であったことを知りながら、荷風は、なぜ、大円寺に碑を建てたのか。
森さんは、永井荷風を反権力的な意志を持った作家と認定した上で、以下のように推理する。
「日蓮宗の由緒ある大寺感応寺が、幕府の権力によって無理やり天台宗に宗旨を変えさせられた以上、荷風としては、天台宗の寛永寺子院養寿院や、旧跡の真言宗の功徳林寺に碑を建てるのは、潔しとしなかった。そこで同じ瘡守を祭る大円寺に建碑したのではないか」。(文庫『谷中スケッチブック』P92)
建碑には、荷風の意志が強く働いた、と森さんは見るのだが、荷風の日記では、碑文の執筆依頼を一度は断り、臨風の度重なる依頼にしぶしぶ応じた様子が書かれている。
「碑文なんか書かない方がいい」という本人のつぶやきもある。
つまり、荷風は、建碑に乗り気ではなかったことになる。
興が乗るまま、ズラズラと書いてきたが、荷風の真意の詮索はこのブログの趣旨に沿うものでもないので、この辺で止めときます。
笠森お仙と春信については、功徳林寺(谷中7丁目)で、再び、取り上げる予定。
谷中3丁目の3つの寺を紹介してきたが、3丁目はこれで終わり。
次回からは、4丁目に入ります。
(*次回更新日は、9月1日です)
≪参考図書≫
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
◇石田良介『谷根千百景』平成11年
◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年
◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年
◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年
◇会田範治『谷中叢話』昭和36年
◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』
◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年
◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html