清水観音堂から東へ。
漢文がびっしり彫り込まれた石碑が2基、その右に朝鮮服の男性の線刻画がある。
石碑の前に「王仁博士の墓」の標柱。
私は、王仁博士を知らないので、以下はWikipediaからの引用です。
「王仁(わに、生没年不詳)は、百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である[1]。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した中国人であるとされ、この場合姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解があるが、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する。」。
同じWikipediaによれば、王仁は、韓国では「日本に進んだ文化を伝えた韓国人」と教えられている、という。
顕彰碑の周囲に屯していた観光客に記念写真のシャッターを押してくれるよう頼まれたが、そういえば、言葉は韓国語だった。
韓国人の上野の観光ガイドには、王仁顕彰碑は観光スポットに入っているのだろう。
日本人が王仁を知らな過ぎることに、ショックを覚える韓国人も多いという報道もある。
さらに東寄りにあるのが、「慈眼大師毛髪塔」。
中央の高い円柱には「帰命東叡開山慈眼大師 贈大僧正法印大和尚位」。
毛髪は、この円柱の真後ろの五輪塔火部に収められているという。
文字からしても、収めてあるのは慈眼大師の毛髪だと思うのだが、坊主の毛髪など存在するのか、不思議でならない。
ネット検索で「慈眼大師」の画像を探したら、こんな写真があった。
毛髪などとんでもないことになる。
では、「慈眼大師毛髪塔」はどう解釈するのだろうか。
一説では、毛髪はやんごとなきお方のもので、それを慈眼大師が大切に収め、保存したというもの。
慈眼大師天海にとってやんごとないお人といえば、家康、秀忠、家光になるが、その誰かは特定できないらしい。
「坊主の毛髪なんておかしいだろう」、そんな素朴な疑問から発したいちゃもんみたいなもんで、その真相にはあまり興味がないから、これでジエンド。
ここでいったんバック、「上野恩賜公園」の標石まで戻る。
先ほどは、右手の幅広い石段を上ったが、今度は左の道を行くことに。
元々は石段はなく、崖地だった。
だから上野公園への入口は、左の道だけだったことになる。
道の左端に腰掛けるに丁度いい石が並んでいると思ったら、手形群だった。
なんでも国民栄誉賞受賞者の手形ばかりだそうで、全部で12人分。
ただし、うち2人は手形ではない。
二人というのは、植村直巳と吉田正。
手形は、受賞順に並んでいる。
王貞治
古賀政男
長谷川一夫
植村直己
山下泰裕
衣笠祥雄
美空ひばり
千代の富士
藤山一郎
服部良一
渥美清
吉田正
高橋尚子
2000年受賞の高橋尚子までの12人の手形とサインが並んでいるが、なぜか長谷川一夫、長谷川町子、黒澤明がない。
なお、これ以降、遠藤実ら8人と1団体が受賞している。
左に手形群を観ながら進むと大きな石碑にぶつかる。
「一めんの花は碁盤の上野山
黒門前にかかる白雲 蜀山人」とある。
蜀山人は、別号、太田南畝。幕臣だったが、狂歌をよくし、漢学・国学にも通じる博識家。江戸文人の典型と称される。
碑の傍らの台東区教委の説明板には
江戸時代、上野は桜の名所だった。昭和13年、寛永寺総門の黒門跡にその桜と黒門を詠みこんだ蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷土食豊かな建碑といっていい、と書かれている。
蜀山人紹介と建碑事由が裏面に刻されているので、転写しておく。筆者は、山田孝雄氏。
「蜀山人本名は大田直次郎幕府の徒士なり。名は覃字は子耜、号は南畝、又杏花園、四方赤良、蜀山人、桜山人の号あり。文政6年没す。寿75。人となり孝友能吏の誉あり。心事括淡才俊に学博く文を能くし詩藻沸くが如し。狂歌は余技に止むれど天明調の牛耳を執り古今独歩と称さるる。上野の花を賛せる此歌は蓋し立圃の文に基く所あらむ。古典保存会幹事七条愷翁多年此花と生を共にし縁きわめて深し。近時この自筆の詠を得て大いに悦び之を石に寿し黒門の址に建て以て記念とせんを翼ふ。当局其心を嘉して之を聴す。皆一に此花を愛するによる。 昭和13年4月」
蜀山人碑を通り過ぎると、すぐ右側に清水観音堂が見える。
草木に覆われて下半分は見えないが、立っている石碑は「黒門の由来」碑。
「黒門は東叡山寛永寺の総門として寛永二年(1625)創建されたが、門前の上野広小路一帯が江戸でも指折りの繁華街となり、門名に因む町名まで生まれたため、東叡山八門中もっとも著名となった。明暦、元禄、享保、明和の大火ごとに類焼しては再建された。明治維新史に有名な黒門口の激戦(1868)ではこの門に拠る徳川方の彰義隊めがけて官軍の砲火が集中された。昭和39年(1964)住居表示により広小路一帯が上野一乃至七丁目と改称された結果、黒門に因む町名は全部消滅し、かつ五代目黒門の腐朽も著しくなったので、(中略)遺跡に近い当所にこの六代目黒門を建てた。桧材の肌に点々とみられる凹みは、96年前の激戦の際、旧黒門に印された弾痕を忠実に模刻したものである。
昭和39年秋 上野黒門復元委員会 委員長 長野浩市謹著」
昭和39年に復元して建てた黒門は、今はない。
復元黒門用と思われる基礎石が「黒門の由来」碑下にあるだけ。
石碑では「五代目黒門の腐朽が著しくなったので」ここに「六代目黒門を建てた」とあって、五代目黒門の所在には触れていない。
素直に読めば、五体目黒門はこの地にあったように感じるが、実は、五代目黒門は、荒川区の円通寺に今もある。
円通寺に保存されている黒門
五代目黒門は、上野戦争の弾痕生々しい本物を移築したもの。
その本物黒門が現存するというのに、昭和39年建造、53年前の六代目黒門がないというのはなぜか。
写真は『上野繁盛史』より
写真を見る限り、しっかり再建されているように見える。
では、どうしてここになくなったのか。
どこに移築されているのか。
台東区教育委員会に問い合わせて判明したのは、昭和39年再建の比較的新しいものであるにもかかわらず、老朽化が著しく、取り壊した、というものだった。