石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 東京都北区の石造物-20c-田端4丁目

2020-07-27 08:24:51 | 石造物巡り

去年8月末から投稿してきた「東京都北区の石造物」は、今回が最終回です。

大事な最終回なのに、内容はゼロ。

田端4丁目の、上田端八幡神社と大龍寺を書いたものを、なぜか、消去してしまったのです。

なさけないことです。

改めて書き直す元気もなく、このまま終了とさせていただきます。

今年(2020年、令和2年)3月から、新型コロナ感染防止のための外出自粛で、家に閉じこもったままの生活が続いています。

当然、次回の企画の取材も行われることなく、ブログ『石仏散歩』は、一旦、休止とさせていただきます。

ブログ開設から今日で、4196日目。

ブログを続けることは、ボケ防止の最善策と思い、投稿の間隔は長くなりながらも、持続してきました。

それを止めることは、生活のリズムにも影響し、不安を感じます。

コロナ禍が収束し、私が健康であれば、再開したいと思っていますが、果たしてどうなりますことやら。

再開(再会)の日を楽しみに。

では、また。

2020年7月27日

 

 


137 東京都北区の石造物-20b-田端2丁目

2020-07-14 10:48:53 | 石造物巡り

◇田端八幡神社(田端2-7-2)

かつての神仏混合の名残を、これほど、意識させる光景も少ないだろう。

右が「田端八幡宮」。

左が、「東覚寺」。

今は、白壁で仕切られているが、昔は一体だった。

なにしろ、現在、東覚寺の名物・赤紙仁王は、その昔、八幡神社の参道入口に立っていたのです。

神仏分離令で、東覚寺へ移されたのでした。

一の鳥居の前には、なにやらコンクリート製の、橋の欄干状のものが、突き出ている。

昭和初期、八幡神社から200m南を東西に横切る谷田(やた)川の暗渠工事で不要になった橋を移転してきたもの。

さらに進むと参道は分岐して、左の石段は、男坂、そして右の女坂は、緩いスロープの富士塚となっている。

頂上には、富士塚の奥宮・浅間神社がある。

毎年、2月20日には、富士講の初拝みが行われる習わし。

神仏混合といえば、富士塚を上って左の不動明王は、その最たるものか。

普通、神社に不動明王はありえないから、神仏混合時代の痕跡と考えてよさそうだ。

本殿が新しいのは、平成5年に建立されたものだから。

昭和20年(1945)の東京大空襲で本殿は焼失、昭和36年(1961)に再建されたばかりなのに、平成2年またもや焼失した。

放火による惨事だった。

犯人は、左翼過激派。

即位の礼に反対して、神社放火という暴挙に出た、その愚行のターゲットとされてしまったという不幸。

男坂の階段を下りる。

途中、左側に自然石の石碑がある。

「皇孫殿下御降誕記念碑/大正十四年12月6日」とある。

皇孫殿下とは、昭和天皇第一皇女照宮成子(てるのみやしげこ)内親王のこと。

◇真言宗豊山派・白龍山東覚寺(田端2-7-3)

門前の真っ赤な物体が、先ず、眼に入る。

もともとは、阿吽の仁王像なのだが、赤紙がベタベタ張られて、元の金剛力士像はその一部も見られない。

通称赤紙仁王と呼ばれるこの仁王は、病を患う人がその患部に相当する仁王の体に赤紙を張ると治癒すると言われている。

疫病が流行った寛永年間に造立され、以降400年間、赤紙が張られない日はなかった。

御利益があって、治癒した場合は、お礼にわらじを供える習わしで、わらじかけも満杯のようだ。

八幡神社との仕切りの壁沿いに、不動明王とせいたか童子、こんがら童子脇侍。

山門を入る。

そんなに広くない境内だが、石仏の数は多い。

浮彫如意輪観音。

観音頭部。

銅製千手観音。

弘法大師一千五十年御遠忌祈念塔。

大日如来。

文殊菩薩。

弘法大師銅像。

大師稚児像。

二宮尊徳。

水子地蔵。

阿弥陀如来。

そして、なぜか、蜀山人(太田南畝)の狂歌碑がある。

文化14年造立の「雀供養之塔」。

資料によれば

「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」

と彫ってあるらしい。

漢字に直せば、(群雀 騒ぐ千声も 百声も 鶴の林の 鶴の一声)ということか。

鶴の一声とは、将軍の命令を指すのだから、言論統制風刺の狂歌だとする解説もある。

本堂に向かって左にある石造物3基は、

 

右から

九品仏/第二番/阿弥陀如来

中央は

享保3年(1718)造立の庚申塔

左は

西国二十九番丹後松尾寺写

 

ひと際目立つ銅製観音像は、鼓翼(はばたき)平和観音像。

戦時中群馬県の島温泉に集団疎開をした滝野川第一小学校の元生徒たちが平和を祈念して、平成7年(1995)に建立したもの。

鼓翼平和観音の前におわすのは、馬頭観音。

山門を出て、右へ曲がると塀際にも石仏がある。

育児/地蔵

六地蔵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


138東京都北区の石造物-20-田端1丁目

2020-06-28 10:41:45 | 石造物巡り

写真は、JR田端駅南口を出て、振り返った一枚。

JR改札を出て、店も民家も何もない所は、田端駅南口だけではなかろうか。

そういえば、山手線で最も印象が薄い駅の筆頭は、田端駅という記事があった。

右へ上がる階段があって、その上方に民家が見える。

階段を上がり、20,30m行くと横断歩道があって、その先は、長い下り坂になっている。

坂を下りると左に与楽寺。

◇真言宗豊山派・宝珠山地蔵院与楽寺(田端1-25-1)

山門前に庭園がある。

手入れが行き届いていて、気持ちいい。

私が訪れたのは、1月13日だっだが、門松がまだ飾られていた。

山門を潜る。

本堂へと参道が一直線に伸びている。

秘仏の本尊・地蔵菩薩は、弘法大師作と伝わる。

与楽寺は、古寺であり、巨寺なのです。

本堂前の、石をくりぬいて、浮彫りされている仏は、聖観音か阿弥陀如来か、寺に尋ねたら聖観音だとのこと。

その背後に立つ石碑は、与楽寺住職長岡慶信遺徳碑。

長岡氏は、真言宗豊山派第十九代管長、総本山長谷寺第七十三第貫主を務めた。

石像が阿弥陀堂の前にある。

与楽寺は、六阿弥陀四番。

六阿弥陀堂があり、

堂前には、線刻阿弥陀如来がおわす。

本堂右前の石造物群の中にある層塔は、灯籠部分が空洞になっている。

名称を寺に訊いたが、応対してくれた人は、知らないようだった。

知らないと言えば、その右隣りの円筒も同じ。

「巴連納札塚」と読めるが、その意味合いについては、「全く分かりません」。

灯籠かと思って通り過ぎようとしたら、よく見ると、下に三猿が。

寛文9年(1669)造立の、灯籠を主尊とする庚申塔でした。

墓地の入口に地蔵群がおわす。

真言宗寺院にしては、地蔵石仏が多いのは、本尊の地蔵と関係があるのだろうか。

船形光背浮彫が3体、

丸彫りが3体あるが、丸彫り地蔵は、いずれも見上げる高さ。

持参資料には、この辺りに、笠付き六面憧があることになっている。

多分、これだろうとは思うが。

山門まで戻って、本堂に向かって左の石造物群に入る。

最奥におわすのは、弘法大師。

その前に、霊場めぐりに関わる石塔群。

御府内第五十六番 与楽寺

六阿弥陀第四番 与楽寺

西国二十一番丹波国穴大寺写

 

 


138 東京都北区の石造物-19上中里

2020-06-14 11:00:46 | 石造物巡り

東京に70年住んでいるが、JR上中里駅を利用したのは、初めて。

一つしかない改札を出る。

駅前はガランと何もない。

都内のJR駅では、利用者数が下から2番目だとか、なるほどと納得。

駅前の坂を右へ上るとすぐ、平塚神社への石段がある。

 ▽平塚神社(上中里1-47-1)

 

石段を上ると本殿の右へ出る。

鳥居をくぐらずに本殿に参るのは、抵抗感があるのは、なぜだろう。

だから、鳥居まで戻って、入りなおす。

鳥居には「文化十年」、「九月吉祥日」と刻まれている。

鳥居右側に社号塔が3基もある。

まず自然石に「平塚神社」。

ついで見上げるような高さで「郷社平塚神社」。

そして、「平塚大明神」。

「大明神」の台石には、盃状穴がいくつか見られる。

広い境内に石造物は、ほとんどない。

あるのは、車ばかり。

参道が貸し駐車場になっている。

厳かさなど望むべくもない。

石造物がないから、境内社でも紹介しようか。

菅原神社。

大門佐紀稲荷神社

御料稲荷神社

石室神社

本殿前の狛犬は、谷底から這い上がろうとする子獅子とそれを見守る親獅子か。

 

次の目的地「城官寺」は、かつての平塚神社の別当で、道路を挟んで反対側にある。

▽真言宗豊山派・平塚山安楽院城官寺(上中里1-42-8)

 

 

城官寺とは珍しい寺号だが、開祖山川城官の名を採ったもの。

由来については、後ほど触れる。

石造物が少ない平塚神社に比べると城官寺は多い。

まず、山門前から。

「本尊阿弥陀如来」石塔。

「多紀桂山一族墓」は、幕府の医師多紀桂山とその一族の墓が墓所にあるということか。

「西国六番 大和壺坂寺」は、江戸で西国三十三番札所を巡れるように模したもの。

「弘法大師」文字塔もある。

境内に入ると右手に地蔵群。

5基それぞれが大きさもばらばらなので、六地蔵ではなさそう。

しかもそのうちの一つの台石には、盃状穴が見られるので、どこかの辻におわしたものか。

城官寺は、真言宗になる前は、浄土宗寺院だった。

その名残が地蔵像群に見られることになる。

地蔵群の横には、立派な宝篋印塔。

明和元年(1764)の銘がある。

徳川家廟所前にあった奉献灯籠もある。

大猷院とは、家光の法号。

開祖山川城官は、家光に仕える武士だったが、家光が病に倒れた時、平塚神社に願を立てた。

そのお陰か、平癒した家光は感謝して、200石を寄進、小庵を平塚神社の別当寺に改め、山川の名をとって、城官寺としたという逸話が残っている。

面白い庚申塔がある。

足元を注視されたい。

三猿が置物なのだ。

こうした庚申塔は初めて見た。

石の蛙もいる。

寺の境内でよく見かけるが、どうした意味合いがあるのだろうか。

どうせろくでもないこじつけがあるのだろうが。

 城官寺の裏口を出て、右へ。

住宅地の中に庚申堂がある。

▽上中里庚申堂(上中里1-41-1)

 

 

享保六年(1721)で、三面八臂の剣人青面金剛像。

保存が行き届いていて、信仰篤い人たちがいるこをほのめかしている。

 


138 東京都北区の石造物-18d-滝野川5、6丁目

2020-06-07 08:12:22 | 石造物巡り

新型コロナ感染防止のため外出を自粛しています。そのため、取材が出来ず、ブログを新規に投稿することが難しくなっています。これまで日曜日に更新してきましたが、以後、隔週日曜とします。

◇八幡神社(滝野川5-26-15)

なんと石造物が、ない。

ないことはなく、狛犬などはおわすけれど、それ以外、これといったものはない。

区教委作成の神社の謂れがある。

八幡神社 北区滝野川5-26-15

八幡神社は旧滝野川村の鎮守で、地元では滝野川八幡と称されることもあるようです。神社の祭神は品陀和気の命(ほんだわけのみこと)で、創設は建仁2年(1202)ともいわれていますが、詳細は不明です。社殿の裏手からは縄文時代後期の住居址が発見されており、社地は考古学的にも貴重な遺跡に立地しています。神仏分離以前は石神井川畔にある金剛寺が別当寺でした。明治初年には天祖神社神職が詞掌を兼務していたようです。

現在の本殿は明治17年(1884)に改築されており、拝殿は大正11年(1922)に修築されています。本殿に向かって右には神楽殿が、左には社務所が配置されています。境内には、富士、榛名、稲荷の三つの末社があります。このうち、特に榛名者については、村民が農耕時の降雨を願い、上州の榛名山から勧請したもののようです。

神社の社務所は終戦直後まで、旧中山道に面した滝野川三軒家の種子問屋が中心となっていた東京種子同業組合の会合場所として利用されました。組合ではここで野菜の種子相場の協定をしたり、東京府農事試験場に試作を依頼していた原種審査会の表彰などを行いました。

   平成14年3月     北区教育委員会

◇庚申大神・石大神宮・飯井宮(滝野川5-32-6)

八幡宮から、住宅街の中の緩やかな坂道を上ってゆくと、中山道に出るちょっと手前で、「怪しげな」神社に出くわす。

神社らしいが、門は閉ざされていて、中へは入れない。

門扉の前に「石大神宮 飯井宮」の黒御影の石柱があり、

中に「古蹟/庚申大神」の石柱がある。

道路に面した壁に、3枚のステンレス説明板がある。

長い文章なので、3枚全部を紹介できないが、そのうちの1枚だけを転載しておきます。

古塚の地の神々の御神徳
   ※古塚之地の神々は、妙力を持って世に御出になられた神々で、人が真心でこの神々に尽くせば尽くす程に不思議を下さ神々です。
   ※古塚之地の神々は、人間のエゴ(自我)・心得違いにより、埋もれてしまった神、葬り去られた神々を、禊の道を通して、本来の姿を興す(再興祭祀)道を下さる神々です。
   ※古塚の地の神々は、『万物障り無くして病むこと無し』と発し、『ささかにの蜘蛛の糸よりも細ければ気づかざりけり道の綾糸』沢山の因縁が絡みあい、こんがらがって生じて居る神障りを人がこの神々に願いながら、禊の流れに随って祖神垂示の道を踏むことにより解き明かしてくださる神々です。
   ※古塚之地の神々は、地球上のどのような神であろうとも、願掛け(祈願を掛ける事)を したならば、その結果に関わらず、必ずその神に願解き(祈願解消御礼)をしなければ神障りを生ずると発し、先祖の願を掛けっ放しにして神障りになっている祈願の解消の手立てと道を教えて下さる神々です。
   ※古塚之地の神々が、顕界(現世)幽界(あの世)を通して、本来踏むべき神ながらの道を禊の流れを通して教えて下さる神々です。天地の神の心を我が心とし、築き成したる葦原の国(とは、日本民族の本懐で祖神垂示の道)心せよ、心せよ、心の独楽に心許すな。神の守護はその者の心次第と。
   ※古塚之地の神々は、方災除の神でもあります。
   平成24年8月15日
           宗教法人 神道大教石大神宮再興祭祀天典大教会


「怪しげな」と書いたが、それは私の神社のイメージと異なるというだけのことで、もちろん、教義は無関係。

佇まいが、ちょっと不思議な、見慣れないという程度のことです。

そのまま緩やかな坂を上がって行くと、標柱があって、「狐塚の坂」と読める。

滝野川第六小学校の南から南西へ登る坂です。坂名は、坂を登った東にある滝野川消防署三軒家出張所のところに狐塚という塚があったことによります。ここから南西向い側の重吉稲荷境内にあった寛政10年(1798)造立の石造廻国塔に、「これより たきの川べんてん・たきふとう おふし・六阿弥陀・せんちゆ みち」という道標銘が刻まれ、岩屋弁天・正受院への参詣や六阿弥陀詣での人びとが利用したことをしのばせます。

確かに消防署の隣、中山道に面して、稲荷神社があって、そこが昔狐塚があった場所だと言われている。

そして中山道の反対側にも稲荷神社があって、これは重吉稲荷と云う。

◇重吉稲荷(滝野川6-76)

稲荷神社に付き物の朱色の鳥居と朱色の幟が少なく、落ち着いた祠。

祠というより、神社と云った方がいいような佇まいです。

一つだけ重大な欠点がある。

それは北区教委による説明板がないこと。

重吉というのは、人の名前と思われる。

重吉さんがこの神社とどう関わり合ったのか、ネット検索では分からなかった。

また、道路向こうにも稲荷神社があるのに、なぜ、こんな近くに稲荷神社があるのか、その理由についても知りたいのです。

鳥居には、昭和四年四月吉日と刻されている。

大正大震災で崩落した鳥居を再建したものだろうか。

重吉稲荷の隣、77番地におわすのは、「おふくろ観音」。

谷地大仏の寺、寿徳寺が造立したもの。

「おふくろ観音」とは珍しい名前なので、寿徳寺に電話して訊いてみたが、先代住職が建立したもので、詳しいことは判らないとの返答。

30年、少なくとも20年は経っているとのこと。

 ◇滝野川馬頭観音(滝野川6-62-1)

マンションの一画に小堂、中に「馬頭観世音」の文字塔。

普通は、特定の馬を供養するものだが、この碑の場合はどうだろうか。

特定できない、多数の馬の供養塔のような気がする。

というのは、江戸期、ここは馬捨て場だったからです。

あまり寄り付きたくない馬捨て場が、クローズアプされたのは、「新選組・近藤勇は、馬捨て場の側で処刑された」と云い伝えられたからでした。

処刑されたのが、馬捨て場だったとして、近藤勇の墓所はわずか100mも離れていない、JR板橋駅東口の一等地にある。

 正面ブルーの工事用シートが掛かっているのがJR板橋駅。

 左手前の柵内が、近藤勇墓所。

◇近藤勇墓所(滝野川7-8)

いつも感心するのだが、ここには、いつも、誰か人がいる。

板橋駅前という立地の良さもあるが、多分、新選組人気が途絶えることなく、続いているからだろう。

なぜ、それほど新選組は人気があるのか。

滅びの美学、なんていえばカッコイイけれど。

駅前の一等地にしては、広い墓所です。

ここも、あの寿徳寺の境外地だというから、「へえー」。

中央奥に立つのが「近藤勇/土方歳三之墓」。

命日の4月25日には、ここで盛大に供養が行われる。

偶然に通りかかり、読経のリードが女声だったので、「おやっ」と思い立ち止まった記憶がある。

菩提寺の寿徳寺住職は、女性だと後で知って納得した。

墓の右隣りに近藤の立像。

戒名は「勇生院頭光放運居士」。

ただし、全国にいくつか墓があって、それぞれ戒名は違うらしい。

ごろんと横たわった自然石の後ろには「近藤勇埋葬当初の墓石」の立て札が。

政府からにらまれて、立派な墓は建てられなかったのです。

そうした圧力をものともせず、ここに近藤勇の墓を作ったのは、新選組生き残りの永倉新八。

彼の墓も又、近藤勇の前に立っています。

 


138東京都北区の石造物-18b-滝野川3の続き

2020-05-24 06:05:41 | 石造物巡り

新型コロナ感染防止のため外出を自粛しています。そのため、取材が出来ず、ブログを新規に投稿することが難しくなっています。これまで日曜日に更新してきましたが、以後、隔週日曜とします。

本来なら、前々回に続き、今回の編集内容を投稿すべきところを18cを間違って投稿してしまいました。改めて金剛寺続編を投稿します

 

◇滝川山松橋院金剛寺(紅葉寺)の続き

 

更に句碑がもう1基。

白露や 無明の
 夢乃さ免(め)し庵」 村雨軒化風

句碑や歌碑の他、狂歌、川柳碑もある。

玄朱亭の狂歌碑

花笠をぬふ
梅や那(な)幾(き)春能(の)もやふを
よ勢(せ)き連(れ)の谷濃(の)戸尓(に)
者(は)類(る)鶯乃(の)聲     玄朱亭印肉墨

 

柳袋川柳碑

 

銘文

己れ嘉永五乃ハる五世川柳翁の門に入り松楽堂寿鶴と号し狂句道に遊び明治廿八年八世川柳翁の前号を嗣き古とし七十有一乃高齢尓達し自可(みずか)ら此碑を建出

落葉盤(は)おしむ那(な)
あと耳(に)芽能(の)春支度  二世括◇舎 柳袋
(狂歌、川柳ともに『北区の歌碑句碑』より)

 

参道右手にあるのが弁天堂。

紅葉寺の弁財天は「岩屋弁天」、「松橋弁天」と呼ばれていたという。

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本堂前を右折、きれいに手入れされた植え込みの中に七福神がおわします。

       大黒天

        恵比寿

       福禄寿

     寿老人

        布袋

      毘沙門天

これで六福神。

なぜか弁財天がいない。

弁天堂の弁財天と関係があるのだろうか。6396

水子地蔵がおわす。

立像の足元に赤子が纏わりつく姿をよく見かけるが、これは、左の手のひらに赤子を乗せていらっしゃる。

三途の川で、折角積んだ小石を鬼に蹴散らかされて、地蔵に救済を懇願しているそんな光景に見える。

そのまま本堂のガラス戸を左に見ながら進む。

右の植え込みの中に数基の石造物がある。

富士講からみの石碑が2基。

一つは、富士講歌碑。

一眠利(り)
永き浮世を
夢尓(に)左(さ)へ
見し白妙(しろたえ)能(の)
婦(ふ)し尓(に)ま可(か)勢(せ)天(て)
  三代目伊藤廣山  樫秀吉謹書也

 

そしてもう1基は、三角形のお結び型石塔。

富士山を模しているのだろうか。

        食行三代目伊藤
三(みつ)玉能(の)ひかりの本を
堂(た)ち伊(い)傳(で)て
ここ路(ろ)
安(やす)久(く)茂(も)西の浄土へ

これは、富士講先達・伊藤参翁こと安藤冨五郎の顕彰碑で、碑の涌きに区教委の説明板があるので、書き写しておきます。

富士講先達の安藤冨五郎顕彰碑

ここにある富士山をかたどった記念碑は富士講の先達として活躍した安藤冨五郎の顕彰碑です。碑の表側には参という文字を丸で囲んだ講紋及び「三国の光の本をたちいでて こころやすくも西の浄土へ」という天保八年□月十二日に没した伊藤参翁の和歌の讃が刻まれています。裏側の人物誌によれば、冨五郎は宝暦五年(1755)、滝野川村に生まれたが、青少年時代から富士信仰の修行をおこない、丸参講という講組織を作って富士信仰を広めるのに努力した。その甲斐あってか、中興の祖である食行身禄(伊藤伊兵衛)の弟子の小泉文六郎から身禄が姓とした伊藤という姓を許されて伊藤参翁と称した。富士への登山・修行は五十回に及び、富士信仰にかかわる多くの人々から敬われ、八十歳を超えてもなお、顔立ちは早春の山の枯れ草を焼く野火や紅色の雲のように活気に満ち、嘘や偽りのない美しさを保っていたとあります。

冨五郎が生きた時代、富士信仰は、政治経済の混乱や封建的な身分制秩序による苦難から人々が救われるには男女の平等や日常生活のうえでの人として守るべき規範を実践し、これによって弥勒の世を実現するべきだという信仰思想に触発され、人々のあいだに急速にひろまりました。

   平成七年三月  東京都北区教育委員会 7866

紅葉寺には、富士塚はない。

それなのに、なぜ、富士講関係の石碑が2基もあるのか。

のっぽの石柱は、「弘法大師一千百五十年祈念塔」。

本堂前まで戻る。

仏足跡がある。

もちろんお釈迦様の足跡だが、日本ではあまり見かけない。

スリランカに行ったことがあるが、上座部仏教(小乗仏教)のかの国では、歯とか骨とか聖体の一部を崇める風習がある。

仏足跡もあちこちで見た。

本堂前に大きな弘法大師修行像。

弘法大師が全国錫巡中に、ここ紅葉寺を開祖したという言い伝えがあるのだそうだから、むべなるかな。

 


138 東京都北区の石造-18c-滝野川4丁目

2020-05-10 08:17:00 | 石造物巡り

新型コロナ感染防止のため外出を自粛しています。そのため、取材が出来ず、ブログを新規に投稿することが難しくなっています。これまで日曜日に更新してきましたが、以後、隔週日曜とします。

 

◇真言宗豊山派・南照山観音院寿徳寺(滝野川4-22-2)

山門右に新選組近藤勇の線刻画がある。

寺は近藤勇の菩提寺であり、JR板橋駅前の近藤勇墓地は、寿徳寺の境外地です。

左の小堂には、お不動さん。

その左には「西国十二番/近江岩間寺うつし」の石柱が。

山門を入る。

数年前までは、いつも閉じられていた。

正面に本堂。

階段の手すりの朱色がアクセントをつけている。

階段の両側に立つ仁王には、金網が被せられている。

本堂に向かって左の庫裡前には、異国風仏像がおわす。

向かって右が、インド国サールナート出土/アショーカ王石柱頭部。

左が、釈尊初転法輪像。

「平成十三年十二月八日開眼」と間に立つ石柱に刻されている。

インドやスリランカへ住職が仏教の地順礼に行った、その記念に建てたもの。

ちなみに「初転法輪」とは、お釈迦様が初めて仏教の教義(法輪)を人々に説いたこと。

その時のお姿が「初転法輪像」です。

余談ですが、現在の寿徳寺の住職は、女性。

不明な石造物について訊きに行ったら、女の人が出てこられたので、記憶にある。

初転法輪像の左奥におわすのは、聖徳太子立像。

極めて珍しい丸彫りの太子像です。

台石には「天皇陛下/玉體安穏/皇軍海陸/武運長久/国民豊楽/天下泰平/五穀成就」とある。

戦前教育での聖徳太子のイメージはこうだったのだろうか。

 

本堂の左を墓地へ。

無縁仏塔がある。

突き当りに石造物が並べられてある。

目立つのは、日清、日露戦役の傷病者供養塔。

右から「日清事変戦病死者供養塔」、中が「日清日露戦役戦病死者為供養」、左は「日支事変軍用馬頭鳩大戦傷病亡供養塔」。

数が多いので、全部紹介できない。

一つ二つ、選んで紹介すると、「水神大六天尊護防空守護」。

太平洋戦争中の米軍の空襲防御を祈願するものか。

もう一つ、「帝釈天三猴」。

私にとっては、懐かしい石碑。

なぜなら、このブログ「石仏散歩」の第1回のタイトルが「帝釈天三猴」、まさにこの文字塔を取り上げて、私が石仏に関心を持つ経緯を述べているからです。

https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/a1a290af21dc961d542fdca3834e7bb0

寺を出る。

石神井川までのゆるやかな坂道は「谷津観音坂」。

      坂下から寿徳寺を臨む

このブログは「石仏散歩」なので、木彫像はどんなに有名であっても取り上げない。

だから、寿徳寺の本尊子育て観音については、触れなかった。

木の皮を煎じて飲むと母乳の出がよくなる銀杏の木とともに、子育て観音(子安観音)目当ての参拝客が、かつてはひきもきらずだったという。

それは、俳句にも詠まれるほどの人気だった。

秋たつや 子安詣の 名の束 河東碧梧桐

谷津観音坂を下る。

思いもしなかった景色が広がって、初めての人は驚くに違いない。

なにしろ本物の大仏が座していらっしゃるのだから。

しかし、大仏を詠んだ明治時代の句はない。

なぜなら平成20年に造立されたばかりだからです。

 

大仏は、正式には、谷津大観音というのだそうだ。

寿徳寺が出した説明板がある。

世界平和  萬民豊楽  子孫繁栄  諸願成就

   谷津大観音は、南照山観音院寿徳寺第二十四世住職新井慧誉和尚の発願によるもので、第
   二十五世新井京誉がその志を引き継ぎ寿徳寺の寺域である当地に建立着手しました。
   寿徳寺がまつる御本尊は聖観世音菩薩であり、谷津の観音様として親しまれておりますこ
   とから谷津大観音と呼称します。
   大仏を正面から拝せる、石神井川にかかる観音橋のたもとから一筋の光明が生まれること
   でしょう。
   平成二十年十二月吉祥日 開眼供養            當山第二十五世 新井京誉

    
概要 唐金鋳造 佛身四・五米
    
   総高石台共七・七米 唐金重量五t
    
設計施工 翠雲堂  監修 鏡恒夫  原型製作 渡邊雅文
    
こちらの蓮華は大観音様がお持ちの蓮華と同寸です。
    
泥中より美しく咲く蓮華にどうぞ触れ合って下さい。 
 

しばらく橋の上から見ていると、通りかかった人の半数以上は、頭を下げ、合掌してゆくのが分かる。

庶民の生活に溶け込んだ大仏さまといえようか。

 

 


138 東京都北区の石造物-18b-滝野川3

2020-04-26 06:00:42 | 石造物巡り

新型コロナ感染防止のため外出を自粛しています。そのため、取材が出来ず、ブログを新規に投稿することが難しくなっています。これまで日曜日に更新してきましたが、以後、隔週日曜とします。

 

◇子育て地蔵尊(滝野川3-61-1)

住宅街の一角にある。

堂内には千羽鶴がびっしりと掛けられている。

たまたま若い父親と男の子が、手を合わせていた。

◇陸軍境界石(滝野川3-53)

東京国税局官舎の西側は、工事中だった。

工事の切れ目の壁際の草の中に小さな石柱があって、「陸軍用地」と彫られている。

官舎群は陸軍用地の跡地にあるのが多い。

ここも例外ではないが、陸軍跡地を彷彿とさせるものは皆無で、この小さな境界石が残っていなければ、ここが軍用地であったとは誰も思わないだろう。

◇四本木稲荷神社(滝野川3-61-1)

四本木で「よもとぎ」と呼ぶ。

ここも陸軍用地跡。

しかも陸軍第一造兵廠の守護神社。

世が世なら我々一般人など立ち入ることなど不可能な神域だ。

神社に森は不可欠だが、ここの鬱蒼と、ジャングル化した森は、ただ手入れがされず放置されたもの。

神社への入口は、西と南にあって、

西の鳥居には「昭和十二年」、

南の鳥居には「大正十三年」と刻まれている。

忠魂碑がある。

神社ではよく見かける石碑だが、陸軍の守護神社で見る忠魂碑は存在感がある。

戦争に負けたからこそ、今の平和日本があるとするなら、戦死も無意味ではなかったことになる。

木々までは手が回りかねるようだが、神社はきちんと保存されているやに見える。

◇真言宗豊山派・瀧川山松橋院金剛寺=紅葉寺(滝野川3-88-17)

山門の石柱には「紅葉寺」とあって、金剛寺ではない。

江戸期、紅葉の名所として知られていたという。

どこまで史実かわからないが、弘法大師が遊歴した際に創設された寺、という伝説がある。

山門前に数基の石造物。

古いものに交じって、新しい「水子地蔵」や

七福神の石柱がある。

この同じ場所に「水子地蔵」があったというわけではなく、水子地蔵は境内にあるという宣伝のようだ。

ひと際高い石塔は「西国三十三所供養佛」。

山門を入ると仁王がお出迎え。

石造仁王はありそうでいて、中々お目にかかれない。

本堂へと歩を進めることなく、右の小径に入る。

最初の自然石は句碑。

由(ゆ)可(か)李(り)那(な)く か流(る)や まこ登(と)の 花の宿 為山

私には碑文を読む能力はないので、これは、北区教委『北区の歌碑句碑』からの転載。(以下、同じ)

その隣の細長い石塔は「弘法大師一千百五十年供養塔」。

≪続く≫

 

 


138 東京都北区の石造物-18a-滝野川1、2丁目

2020-04-12 08:31:48 | 石造物巡り

 

 

 

 

◇滝野川不動尊(象頭山本智院観音蜜寺)滝野川 1-58-2

境内は、都電「飛鳥山駅」のホームに接してあるが、金網があって入れない。

遠回りして山門から入る。

がらんとして境内は広くて殺風景。

民家と変わらない庫裡を左に

奥まで行くと本堂がある。

本堂にしては小さいから、これはお堂で、本堂は庫裡と見えた建物だろうか。

石造物もわずか。

狛犬一対と

大日如来1基のみ。

滝野川不動尊の山門に接して右に「身代わり地蔵尊」がある。

堂前の石柱2基には、「江戸三大」、「身代地蔵尊」とあり、

供花が新しい所を見ると篤い信者がいることが分かるが、

謂れなどは、資料不足で一切分からない。

チンチンチンチンと遮断機が下りて、都電が走ってゆく。

◇浄土宗・思惟山正受院浄業三昧寺(滝野川2-49)

寺の名前は、寺号だったり、院号だったり、さまざまだが、ここは「正受院」。

住職が決めるのか、「浄業三昧寺」では長すぎるので、いつのまにか「正受院」になってしまったのか。

独特の鐘楼門があるので、覚えやすい。

6年前にも来たことがあるのを想い出した。

このブログ「石仏散歩」の100回記念として、それまでの石仏巡りを回顧する特集を組んだ。

(「NO100 石仏のある風景 https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/m/201504」 2015-04-01)

石仏についていかに無知だったか、それがどのように成長したかを、正受院の墓地の庚申塔を例に説明したものだった。

もちろん、その阿弥陀如来庚申塔は、そのままおわしますが、この庚申塔だけが正受院の石造物ではないので、もう一度、参道から順にみて回ることに。

鐘楼門は、かなり珍しい。

下から仰ぐと、鐘が見える。

脇には、鐘楼門の説明板がある。

かなりの年代物で、ペンキがはげたり、文字をペンキで塗り潰したりしてあって、ほとんど読めない。

読める部分だけを繋げると「明治35年の制作で、東京では唯一の鐘楼門。釣鐘は195キロ。戦時中、国家に献納した」とあるから、戦後、作り直したものだろうか。

鐘楼門前にあるのは、細工の細かい、銅製阿弥陀如来。

阿弥陀様が多いのは、浄土宗寺院だからだろう。

本堂前、左にある武者姿は、択捉島を探索した近藤重蔵。

彼の人となりと業績について、北区教委は次のように説明している・

石造近藤守重坐像                        正受院本堂前
   坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂
   府」という標柱を建てた近藤守重の肖像です。
   守重は明和八年(1771)江戸町奉行与力の次男として生まれ、家督を継いで、通称を
   重蔵、号を正斎と称しました。
   寛政十年(1798)3月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉
   兵衛の協力で、石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力し
   ました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政五
   年(1822)から九年までの四年間を正受院の東隣に、瀧野川文庫という書斎を設けて
   住みました。
   石造近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼し
   て製作したと伝えられます。
   平成元年3月                           北区教育委員会

参詣人に若い女性がちらほら。

みんな慈眼堂とその横のお地蔵さんに手を合わせている。

正受院が別名「赤ちゃん寺」と呼ばれるのは、この慈眼堂が赤ちゃん(水子)の供養納骨堂だからでした。

右隣りの地蔵大菩薩の背後には「赤ちゃん供養塔」の石塔が立ち、

真新しい卒塔婆には「〇〇家胎児追善供養」と書かれています。

どこにも名前がないのは、水子だからです。

このお地蔵さんの後ろには、浄土宗寺院なのに、なぜか石仏不動明王群が。

これは、寺の裏手に、かつて「不動の滝」が、あったからです

江戸名所図会には正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として消壁に趨る、此境ハ常に蒼樹蓊鬱として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり」とあります。

不動明王が祀られている瀧だから「不動の滝」であり、「不動の滝」だから、またさらにお不動さんが祀られたのでしょう。

 

 

 

 

 

 


138 東京都北区の石造物-14-西ヶ原

2020-04-05 07:55:16 | 石造物巡り

 ▽古川庭園(西ケ原1-27-39)[parts:eNoztDJkhAMmJgNj80Qji6RkV0NjSz0TEz1TMz1zYwM/Y1MQx8hYz8TMQC3K19bQQC04ytbYyEDHyMQAAGNBDCc=]

 

武蔵野台地の傾斜地の上下を、上は鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルにより洋風庭園に、下は、京都の庭師「植治」こと小川治兵衛が手掛けた和風回遊式庭園と和洋を調和させた庭園が見事。

心字池を中心とした和風庭園には、数基の灯籠があるばかりで、石造物はほとんどない。

それぞれの灯籠には、説明板があるので、それをそのまま、付けておきます。

泰平型灯籠
名前の如くどっしりとした形で、蕨手(笠の縁が蕨のように渦巻状に反ったもの)は、角柱の様にごつごつし、竿は太く節も3つある。

 

雪見型灯籠
この灯籠は水辺によく据えられ、その姿が水面に浮いてみえる「浮見」と点灯時にその灯が浮いて見える「浮灯(うきび)」が「雪見」に変化したとする見方がある。

濡鷺(ぬれさぎ)型灯籠
他の形式と比べて笠が厚く、むくり(反り)がない。図柄は「濡れ」を文字で「鷺」を絵で表現するか、「濡鷺」を文字で表現する2種類がある。

もう1基、奥之院型灯籠があるが、なぜか説明板がない。

層塔も1基ある。

十五層塔
その語源はスツーバ(つみかさね)からきていて、現地では仏塔の一種として信仰を集めているが、日本でも石塔は塔婆と同じ考え方で用いられ共通性がある。(奇数積が原則)

庭師小川治兵衛は、平安神宮神苑、円山公園それに京都の財界人別荘庭園などを作庭した庭師の第一人者。

古川庭園には、小川治兵衛らしい石垣が2種見られる。

まずは、一見石垣とは見えない崩石積(くずれいしづみ)

崩石積(くずれいしづみ)
石を垂直に積む方法は数あるが、これは京都で発達した伝統的な工法である。石と石がかみ合って崩れそうで崩れない姿が美しいとされる。当庭園においても小川治兵衛の力作となっている。

もう一つは、洋風庭園の下の崖地の黒っぽい石積。

黒ボク石積
富士山の溶岩で、多孔質で軽く、加工もしやすい。山の雰囲気が出るため、主に関東で石組みとして用いられることが多いが、石垣状のものは珍しい。

 

古川庭園を出て、塀沿いに左へ進む。

塀が折れた所の一つ先の小路を左折、住宅道路の中に石柱が立っていて、「六阿弥陀三番目 無量寺」と刻されている。

これが無量寺の参道ということになる。

寺の気配はどこにもなく、ちょっと信じがたい気持ち。

そのまま坂を下りてゆくと墓地に出て、その墓地を過ぎると石垣と石塀に挟まれた道路に出る。

右は、無量寺の塀です。

▽真言宗豊山派・仏宝山西光院無量寺(西ヶ原1-24)

 

 無量寺には、門が3つある。

多分山門は、本堂に一番近い門で、真ん中が大門だろうとは思うが、この一番最初の門は何と呼ぶのだろうか。

寺に電話したが、檀徒ではないと言ったら、こたえられないと言う。

その門脇にも、先ほどの石柱と同じ「六阿弥陀三番目 無量寺」の石柱がある。

盃状穴が見られるから、どこか他所から移転してきたものか。

参道左の地蔵菩薩立像は、台石に「供養佛」とある。

その隣の覆い屋は地蔵堂で、提灯には「ことぶき地蔵尊」と書かれている。

かつては、古川庭園のあるブロックの東南角にあって、六の日には縁日が開かれ、賑わっていた。

交通安全と商店街の商売繁盛を記念すべく、昭和28年(1953)、無量寺におわした子育て地蔵を遷座したもので、交通事故激減に伴い、平成27年(2015)、再び、元の場所に戻されたものです。

大門前右側のお地蔵さんの台石にも「右ハ/六阿弥陀道三番」と刻されている。

門をくぐると左にあるのが「弘法大師」文字塔。

そして、三つ目の門。

ここにも「六阿弥陀第三番目無量寺」の石塔が。

「もう分かったよ」とついつぶやく。

江戸の町のどこかの辻にあったものだろう。

六阿弥陀巡りの人気の高さを、何基もある道標が物語っている。

 境内は、深い緑に覆われて、とても東京都心とは思えない静寂を醸し出している。

ドナルドキーン氏が「日本で最も美しい寺」と云ったとか。

鐘楼の下には、

六字名号塔が。

本堂も、樹木に遮られて、全景は見えない。

六阿弥陀で有名なので、阿弥陀様が本尊かとだれしも思うが、本尊は不動明王。

ある夜、忍び込んだ盗賊が、本尊の不動明王の前で金縛りにあったように、動けなくなったことから、「足止め不動」と言われるようになった。

本堂前には、宝篋印塔と

「西国三番紀乃国粉河寺写」の文字塔が見られる。

上中里の城官寺にある「西国六番壺坂寺写」と同類の石塔です。

三界万霊塔の前には六地蔵がおわします。

そして、なぜか、ポツンと聖観音立像。

▽曹洞宗・補陀山昌林寺(西ヶ原3-12-6)

 道路から引っ込んだ高台にあって、分かりにくい。

山門脇に古い石塔、「西国第五番/河内国葛井寺写」とある。

城官寺、無量寺にもあった西国三十三番写しの石柱です。

境内に入る。

どこか異国情緒あふれる雰囲気、中国風か。

「師孝門」と刻された石柱の傍に

孔子像2体。

墓地への入口になっている。

六地蔵が普通の墓地入口だとすると風変わりは免れない。

何故、孔子像なのか、、説明があると親切なのだが。

もう1基、説明がほしいのが、「石庭追慕」。

わざわざ石碑にするのだから、しかるべき事由があるはず。

境内で目立つのは、聖観世音立像銅像。

足元に「百寿観世音」とある。

本堂も変わっている。

その本堂前の石柱には、「南無末木観世音菩薩」と刻されているが、

この「末木」は本尊に関わるもので、行基が六阿弥陀を彫刻した際、残った木材で彫ったのが、昌林寺の本尊、「木残」観世音ともいわれます。

 


 

 


 


138 東京都北区の石造物42(田端3,4丁目)

2020-04-01 09:47:36 | 石造物巡り

◇田端不動尊(田端3-14-1)

住宅に挟まれて、宅地1軒分の広さに不動明王が祀られている。

築山の頂上に、お不動さん。

朱色の光背は、火焔光。

眷属のせいたか童子と

かんたか童子もいらっしゃる。

うっかりして引きの写真がないので、分からないが、当たり前の街並みの家と家との間にある。

なぜこんな場所に、と不思議に思う。

元々は、田端駅東口にあったのだが、鉄道拡張の為谷田川畔に移され、そこも又、改修工事で追われて、昭和10年(1935)、現在地に移されてきたのだという。

◇田端日枝神社(田端3-20-2)

細い路地、と錯覚する参道。

両側に民家が並び、その奥に鳥居が見えるので、ああ、あれが神社だと分かるが、よく見ると、参道入口に標識が目立つことなく、立っている。

石段の前の鳥居は、上部に三角の屋根を戴く山王鳥居。

石段を上がる。

石造物らしきものは狛犬だけかと思っていたが、

かなり大きな石祠がこの神社の本殿なのだそうです。

石段を上がって正面の木造社は、拝殿なんだとか。

現地ではそのことを知らずに撮影していたので、本殿石祠の撮り方がなんとなく、杜撰でした。反省。

◇法華宗陣門流・教風山普光院大久寺(田端3-21-1)

小田原城主大久保家と伊勢亀山城主石川家、両家の菩提寺で、大正年間、上台寺と合併云々と謂れにあるが、複雑ですんなりと頭に入ってこない。

本堂左わきに墓地への通路があるが、そこに石造物が並んでいる。

ひときわ目立つのは、3本の石柱の中に立つ石像らしきもの。

摩滅して像なのかも判然としない。

傍らの石柱には「日蓮大士おこしかけ石/伊豆連着寺より将〇」とある。

寺の説明では、大久寺再建にあたり、伊豆の連着寺にあった「おこしかけの石」を割って、その半分を寄贈されたものという。

本堂左隅に石板が置かれている。

石川家墓所の改葬の際発見されたもので、凸面には、故人の名前、生年月日等の情報を刻し、

凹面には「このしたにはかあり あわれみてほることなかれ」と彫ってある。

庚申塔もある。

1基は、元禄3年(1700)造立のありきたりのものだが、

もう1基は、きわめて珍品。

2匹の猿を擬人化した台石、だが上にあるべき庚申塔はない。

一説では、上に乗っていた庚申塔は、日枝神社のご神体になったことになっている。

造立年が慶安3年(1650)というのは、北区で最古の部類になる。

墓地には、大きな宝篋印塔が並び、いかにも大名家の墓地らしい雰囲気がある。

大きいだけに、倒れると再建に苦労するようだ。

倒壊したのは、3.11地震というから、9年間、このまま放置されていることになる。

墓の持ち主とは連絡が取れず、寺で処理しようにも、費用が莫大で、というな諸般の事情があるからだろう。

◇上田端八幡神社(田端4-18-1)

一の鳥居から二の鳥居までは、がらんとしている。

石造物も、鳥居と狛犬の他は見るものがない。

境内社に白髭神社。

ご神体は、今はなき杉の木。

この杉の枝ぶりが、松とよく似ていたので、「松だ」、「いや、杉だ」と武士が言い争い、斬り合いになったという伝説がある。

◇真言宗霊厳寺派・和光山興源院大龍寺(田端4-18-4)

別名「子規寺」と呼ばれるのは、正岡子規の墓があるから。

観光名所めいて、墓地には人が絶えることがない。

山門を入ると句碑が1基。

しかし、青蘿という俳人は、江戸時代の人で、子規とは無縁。

散(ちる)者(は)那(な)能(の)花よ利(り)
 起(おこ)流(る)あらし可(か)南(な)

と、資料にはある。

山門入って右側の隅に、背の高い宝篋印塔と

層塔が高さを競い合うように立っている。

墓地に入る。

子規の墓は、正面奥の塀、右側にある。

子規が火葬を嫌っていたので、土葬のできたこの場所に葬られたと言われている。

銅板に墓誌が刻まれている。

「子規居士之墓

正岡常規 又ノ名ハ處之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名 ハ竹ノ里人 伊豫松山ニ生レ 東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治◇◇年◇月◇日没ス 享年三十◇ 月給四十圓」

この墓誌は二代目。

最初の墓誌は盗難に遭った。

マニアというか、おたくというか、墓誌まで持ち去ろうとするのだから、フアン心理はこわい。

子規の墓の奥、一段と上がった墓域に、歴代住職の墓。

無縁塔や宝篋印塔が整然と並んでいる。


138東京都北区の石造物-16c-王子

2020-03-29 15:06:18 | 石造物巡り

JR線の線路の西側、飛鳥山公園は、王子1丁目だが、線路の東側、王子駅と駅前も同じ王子1丁目なので、面食らう。

鉄道線路の東西では、町名が違うのが普通だろう。

同じ町名にするのにはしかるべき理由があるはずだが、分からない。

▽装束稲荷神社(王子2-30-13)

「装束」は、辞書では「特別の場合に備えて、身支度をすること。また、その着物」とある。

風変わりな社名だが、それはこの神社の謂れにある。

 

 

王子の狐火と装束榎

 かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちが、この榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によ って、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も    盛んになっていました。やがて王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、上の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。

昭和4年装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。    北区教育委員会
 

つまり狐が装束を改めた榎に関わる神社だから、「装束稲荷」ということらしい。

社は、北本通りの裏通りにある。

北本通りのバス停「王子2丁目」に榎の大木はあった。

道路拡張工事で、榎は伐採され、その記念碑がこの地に建てられた。

碑があるのなら神社も、と建てられたのが装束稲荷神社。

昭和一桁の時代のことです。

狭い境内に入る。

狐が咥えているのは、カギ。

境内の川柳碑「いざあけん えび屋扇屋とざすとも 王子のきつねかぎをくわへて」のカギだろうか。

ちなみにエビ屋、扇屋は、王子で一、二を争う料亭のこと。

扇屋は今でも名物の卵焼きを販売している。

と、ここまでわかっていながら、句意は不明というのだから、面白い。

なお、川柳の作者は、あの太田南畝です。

社殿左わきに「装束榎」の碑。

大きな石碑に不釣り合いな細い榎の木が立っている。

伝説の大榎になるのに、何年かかるのだろうか。

境内の説明板には、大晦日の狐の行列の浮世絵が載っている。

榎の木の下で、装束を改めた狐たちが、王子稲荷へと向かう行列を描いたものだ。  

この故事を再現して、町おこしの起爆剤にしようと始まったのが、「王子狐の行列」。

大晦日、狐の面をかぶったり、顔に狐をペイントしたりした人たちが、ここ装束稲荷神社から、王子稲荷神社へと行列して進もうというもの。

平成5年から始まって、いまではすっかり定着したと聞いて、去年(令和元年)の大晦日、王子へ行ってみた。

王子についたのが夜の10時。

装束稲荷の前は身動きできないくらいの人だかりだか、そのほとんどは野次馬の見物人。

狐面の人たちは、ごくわずかだった。

風の強い夜で、このまま2時間も行列がスタートするのを待つには寒すぎる。

王子稲荷神社まで歩いて、帰宅したので、写真は、ネットからの無断借用です。(すみません) 

 

この中には、化けた本物の狐がいるという話が、まことしやかに流布しているのだそうで、なんとも楽しいことです。

来年は、12時に行って、行列に参加するつもり。

▽神谷橋庚申堂(王子5-20-3)

地下鉄神谷町駅出口そばにある。

格子戸の扉は施錠されていて、開けられない。

格子の間にレンズを突っ込んで撮った写真が下の写真。

光の反射で銅製の庚申塔はよくは見えない。

石造の庚申塔も2基ある。

堂の横に「古蹟 観音様の由来記」がある。

観音記ということは、観音を主尊とする庚申塔ということか。

中身をそっくり移し替えようと思い、写真に撮ってきたが、90年前の説明板なので、文字が薄れてよめない部分か゜あるので、断念する。

「昔ここに尼が住んでいて、尼の死後も無人の庵から鈴の音が聞こえるので、村人は庚申塔を建てて祀った」、概ね、このような内容の説明だと思っていい。

 

 


138 東京都北区の石造物-16b-飛鳥山(王子)の続き

2020-03-22 08:23:12 | 石造物巡り

▽飛鳥山の歴史

自然石に黒御影をはめ込んだ碑は、王子ロータリークラブ造立の、飛鳥山由来記。

 

   飛鳥山公園は、明治6年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは古くから人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台のところ)に飛鳥明神の神が祀られていたからと伝えられています。江戸時代の中頃元文2年(1737)徳川八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し荒地を整備して、たくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり、周りに茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語に出てくるような仇討ちの趣向や、変装などのためにたいへんな賑わいでした。また東側の崖からは、カワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって、危険防止のために禁止されました。この山は東から西へのなだらかな斜面でしたが道路拡張のためにせばめられ、先に中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。            

    昭和55年2月吉日       東京王子ロータリークラブ

 

そしてその右、覆い屋の中にあるのは、「飛鳥山碑」。

 

▽飛鳥山碑(飛鳥山公園内)

 

飛鳥山何と読んだか拝むなり

飛鳥山どなたの墓とべらぼうめ

この花を折るなだろうと石碑見る

何だ石碑かと一つも読めぬなり

川柳四首は、公園内の「飛鳥山碑」の難解さを詠んだもの。

「飛鳥山碑」は、大正15年に東京都の文化財に指定されています。

碑建設の経緯、碑の意義などについて、都教委作成の説明板があるので、まず、紹介しておきます。

 

東京都指定有形文化財  飛鳥山碑

 八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般市民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文2年(1737)に碑を建立した。

 石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は儒臣成島道筑によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立に至る経緯については。道筑の子和鼎の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治世が行き届いて太平の世であることを喧伝したもの考えられる。

 碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元享年中(1321-24)に豊島氏が王子権現を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀りつづけてきたことが記される。最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解するうえで重要な資料である。

 平成23年3月 建設                東京都教育委員会

 

平成4年(1993)、北区教育委員会から『飛鳥山』が刊行されました。

難解な碑文の解読と『飛鳥山碑始末』を元に飛鳥山碑にまつわる出来事を紹介しています。

 

以下は、その『飛鳥山』からの引用です。

まずは、難解碑文の読解から。

全文は、量が多いので、冒頭7行です。

 

惟南國之鎭   これ なんごくのしずめを

曰熊埜之山   くまののやまという

有神曰熊埜之神 かみあり くまののかみという

實 伊奘冉尊也 げに いざなみのみことなり

配祀伊奘諾尊  いざなぎのみこと

事解王子    ことさかのおうじをはいしす

或稱之三神   あるいはこれをさんじんとしょうし

 

訳文

南国の鎮めを

熊野の山といい

神様がいて熊野の神という

実はイザナミノミコト(女神)である

これにイザナギノミコト(男神)と

コトサカノオウジをあわせまつり

これを三神ともいう

碑文の作者成島道筑は、幕府坊主職で、吉宗より5歳上、毎日、吉宗に諸書の講義を行っていました。

飛鳥山開発と一般開放という己の功績を、後世に伝えるべく吉宗が建立した石碑は、歴代将軍の中でも唯一のものです。

吉宗は、拓本を表装して部屋にかけ、文章と云い、手蹟といい、これに比すべきものはないと愛玩したと言います。

使用した石は、五代綱吉の時に紀州から献上されたもの。

石工には、八丁堀の名工・佐平治が選ばれます。

仕事賃200両の見積もりに佐平治は、20両で十分と断ったそうです。

彫りあがった碑は、八丁堀から飛鳥山へ。

牛20頭と人足300人が力を合わせての大仕事。

その労をねぎらって牛1頭につき銭1貫文が支給されたという。

 

「飛鳥山碑」の右隣は「明治三十七八年戦役記念碑」。

明治37・8年というのは、日露戦争。

北区は、陸軍の後方支援施設が集中していたから、この種の石碑は枚挙をいとわない。

こども広場に入る。

その北方にあるのが、「船津翁の碑」。

明治初期の農業指導者・船津伝次平の顕彰碑。

碑は、彼の故郷、赤城山に向いて立っています。

碑文は線刻が薄くて読めないが、傍らの北区教委政策の説明板に、その全文が載せられている。

 

しかし、長文なので、ここに転載はしません。

 

 

 


138東京都北区の石造物-16-飛鳥山(王子)

2020-03-15 08:41:43 | 石造物巡り

飛鳥山には、10度くらい行ったのではないか。

都電の「飛鳥山」で降りるか、自転車で石神井川沿いに下って、飛鳥山の西側から、いつも、公園に入っていた。

だから、王子駅東口を出て、歩道橋を渡り、ケーブルカーで公園に入るのは初めて。

▽飛鳥山公園(王子1-1-3)

 ケーブル乗り場の手前、公園の縁に沿って走る道があるが、その道の公園反対側は、昭和色たっぷりの飲み屋街。

昼光は細部まで照らし出して、わびしさをひと際浮き出している。

なぜか見上げる高さにお地蔵さんがおわす。

「首無し地蔵」と言われるそうだが、首はあるようだ。

なぜ、首がなくなったのか、誰が首をつけたのか、そして、そもそもなぜ、ここにお地蔵さんなのか、一切が不明です。

ケーブルカー、他に乗客はいず、独り占め。

前を撮ったり、

後ろを撮ったり。

あっという間に山頂駅に。

下りると前方に、石を積み重ねた三角柱がある。

山頂モニュメントで、「飛鳥山 標高二十五・四米」と読める。

東京都23区内での山と言えば、44.6mの箱根山(新宿・早稲田)35mがトップ、次に36mの西郷山(目黒区・代官山)か。

飛鳥山は、6番目くらいの高さ。

昔は山の上から、土器(かわらけ)投げが盛んに行われていたという。

  土器(かわらけ)が 追々に飛ぶ 飛鳥山(川柳)

句碑がある。

「佛生も 復活も 花笑ふ日に」

岡野知十なる人の句だそうだが、私は全く知らない。

公立公園に句碑を建てるには、何らかの基準があるのだろうが、それはいかなるものなのだろうか。

覆い屋というには立派な建物に石碑がデンと座している。

「桜賦の碑」。

陽が射さない部分は、暗くて何も読めない。

傍らに説明板があるので、転写しておきます。

 「象山先生桜賦」の碑

        北区王子1-1

 表面に佐久間象山作・書による「桜賦」が、裏面に象山の門弟たちによる碑建立の経緯が記されています。

 信濃國松代藩士であった佐久間象山(1811-1864)は、幕末の志士たちに影響を与えた儒者でした。桜賦は、象山が門弟吉田松陰の蜜出国の企てに連座、松代に蟄居中の万延元年(1860)に作られたといわれます。賦とは、古代中国の韻文の文体の一つで、都城の賛美に多く使われました。

 「皇国の名華あり、九陽の霊和を集む」と始まる桜賦は、日本の名華、桜が陽春のなかで光輝くさまを描写し、桜の花は見る人がいなくても芳香をただよわせる、と結んでいます。蟄居中だったしょうざんが金納の志を桜に託した詩と考えられています。

 明治14年(1881)、門弟の勝海舟、北沢正誠、小松彰らによって碑が建立されました。表面の桜賦は、顔真卿の書風による象山の遺墨によっています。表面上部の扁額および裏面の碑文は、名筆家として知られた日下部東作、刻字は、やはり名工といわれた廣群鶴によるものです。

 碑は、初め飛鳥山西北端の頂き(地主山)に立っていましたが、同署へ展望塔カイラウンジ(飛鳥山タワー)を建てるにあたり、昭和41年に現在地へ移転されました。その際、都立王子工業高校の考古クラブの発掘によって、象山が暗殺された際の血染め挿袋を納めた石室が発見されました。石室もともに移設され、現在の碑の下に埋設されています。

     平成三十一年三月     東京都北区教育委員会

 この写真を撮ったのは、2019年11月15日だったが、桜の花?が咲いている。

 

冬桜など春以外に咲く桜があるとは聞いているが、果たしてれは桜なのか。

「桜賦」の傍にあるだけに、桜のように思えるが。

歌碑もある。

 

「そのかみの山をおほひし花ふぶき まぼろしにしてあがる噴水」

水上赤鳥という歌人の歌。

飛鳥山を詠んだ歌のようだ。

 

そして、これもまた、なぜ?と言いたくなる石像がある。

 

なにしろ聖観音菩薩がポツンとおわすのだから、「どうしてここに?」とつい言いたくなる。

 朝倉文夫に師事していた彫刻家赤堀新平が制作、北区に寄贈したものという。

 


138東京都北区の石造物-15b-岸町つづき

2020-03-08 08:08:23 | 石造物巡り

◇真言宗霊雲寺派・王子山金輪寺(岸町1-12-22)

江戸期は、支坊をいくつも抱え、王子神社と王子稲荷神社を別当する巨寺だった。

明治の神仏分離で別当を解かれ、支坊で唯一残った坊を金輪寺としたのが、現在の寺です。

かつての巨寺の面影は、ありません。

山門は閉ざされている。

通用門から入って、山門へ戻り、正面を向く。

本堂に向かい、参道左に不動明王と庚申塔。

庚申塔は、正徳2年(1712)の八臂合掌。

不動明王と庚申塔の前に手水鉢が置かれている。

変なところに置いてあるなあ、と思っていたが、なんとこれも庚申塔。

正面に三猿がいます。

手水鉢の庚申塔は、初めてではないが、これで3基目。

極めて珍しいものです。

参道右側にあるのは、弘法大師巡錫像。

よく見かけるお姿と違って、こちらは、動的。

いざ行かむ、心が全身にみなぎっている。

後方の地蔵立像は、90cm。

台石中央に「光明真言」、右に「寛政四子年二月吉日」、下に「講中」の文字が刻されている。

参道沿いに石造物が並んでいる。

本堂前に宝篋印塔が数基並んでいる。

さすが古寺。

「寛永」の文字が刻されている。

 

それは、石灯籠も同じ。

「寛永」は、都内石造物では、かなり古いもので、少なくはないが、それでも滅多に遭遇できないレアものです。