石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

26 石工の想像力は自由に羽ばたいたかー疱瘡神像編ー

2012-02-23 09:23:59 | 民間信仰

「疱瘡神」は「ほうそうしん」ではなく「ほうそうがみ」」と読む(らしい)。

天然痘がこの世からなくなって30年余、いまや「しん」か「がみ」どころか、「疱瘡」を「ほうそう」と読むこともできない世代が多数になりつつある時代となった。

そういう現代にあって、「疱瘡神」が厳然と存在する世界がある。

石仏、石造物の世界である。

その昔、破格の感染力と致死力(40%)で、疱瘡は人々を恐怖に陥れた。

文久2年(1862)の麻疹(はしか)の大流行による江戸の死者は、26万人。

ちなみに江戸最大の火災、明暦の大火(1657)での焼死者は約10万、関東大震災約6万、昭和20年3月10日の東京大空襲、推定10万人と比べてもその大量死はけた外れの規模だった。

それは悪鬼の為せる業だと誰もが恐れた。

悪鬼を「疱瘡神」として見たて、村境に「疱瘡神」塔を建てて、村に入って来ないように念じた。

入って来た「疱瘡神」は、すべからく出てゆくように追い払いの儀式を行った。

「疱瘡神送り」で検索したら、大和郡山在住のご夫婦のサイトに「疱瘡神送り」を再現した写真があった。

 大和郡山市の「疱瘡神送り」

『民間信仰辞典』には、こう書いてある。

「大阪地方では赤飯の握り飯をつくり、それを桟俵に載せ、赤い弊帛を立て、蓮根などを供えて道の辻に送り出す」。

その写真の隣には、上田市立博物館の企画展で展示された「疱瘡神送り」の写真がある。

 長野県上田市の「疱瘡神送り」

いずれも朱色が目立つが、これは「疱瘡神」が赤を嫌うという伝承があるためで、「疱瘡

神除け」のお守りは赤一色のものが多い。

「疱瘡神」塔は全国各地に見られるが、ほとんど文字塔であることが共通点。

  神明神社(野田市)

埼玉県にも89基の「疱瘡神」塔があるが、全部文字塔ばかりである。(『石仏雑記ノート1』石川博司)

  下之氷川神社(志木市)

志木市には疱瘡で亡くなった子供の墓標がある。

 疱瘡で死んだ子供の墓。左上部は賽の河原の子供二人。

「疱瘡」の「疱」という字が辛うじて残っているが、これは法名の「疱維童子」の一部。

上部の浮彫は、賽の河原で石を積んでいる子供だというが、軟石のため像が崩れて不鮮明。

江戸期、夭折はそれ自体が親不孝とみなされ、墓を建てることも少なかった。

疱瘡に子供の命を奪われたことが、施主田中源佐衛門には心残りだった。

不条理な災難を忘れないための、これは怨念の墓標なのです。

本題に戻ろう。

全国の「疱瘡神」は、ほとんどみんな文字塔だと書いた。

だが、物事には必ず例外がある。

茨城県取手市には、なんと「疱瘡神像」塔がある。

しかも複数個あるのだ。

 疱瘡神像塔(水神社・取手市)

取手市は利根川に接している。

この利根川下流は、こと石造物についていえば、地方色豊かな特異地域と言って差し支えない。

千葉県東部の東総地方には、赤子を抱いた観音さまの子安観音が多い。

子安観音(賢徳寺・銚子市)

東総は、馬に乗った馬頭観音の分布地帯でもある。

馬乗り馬頭観音(路傍・銚子市)

ちょっと上流の野田市は、猿田彦像の密集地帯として有名だ。

猿田彦像(須賀神社・野田市)

取手市の疱瘡神像も利根川下流の特異石仏の一つと言えよう。

『取手市史(石造遺物編)』によれば、疱瘡神像は20体。

(注:藤代町と合併したので、現在は25基ということになる)

 造立は1710年から1890年までの180年間。

中心は1800-1830の文化・文政期だった。

造立主体は、女人講中。

疱瘡が子供のかかりやすい病気なので、母親の願いをこめて造立されたものと思われる。

なぜ、取手市に「疱瘡神像」塔があるのか、その理由は定かではない。

文字が読めない人たちから像塔要求が強く出されたのだろうか。

「馬頭観音や弁天様には石像があるのに、なんで疱瘡神には神像がないんだ?」

「疱瘡神像」の注文を受けて、石工たちは頭を抱えたに違いない。

馬頭観音や弁財天は仏像だ。

仏像には儀軌(お手本)があるから刻像は問題ないが、「疱瘡神」には儀軌はない。

「疱瘡神」はどんな姿をしているのか、石工は何人もの神官や住職に訊いたはずである。

だが誰もはっきりした姿を提示できなかった。

では、石工はどうしたか。

彼の出した結論は、その作品にある。

見てみよう。

 取手市最初の疱瘡神「浅間神社」    2番目「鹿島神社」(安永5年・1776)
(享保4年・1719)

 ①しめ縄の上に左は「疱瘡神」、右は「疱瘡守」の文字。

②男女神坐像。右の男神は右肩に幣束を、女神は徳利を持っている。

③右は赤く彩色されていた痕跡がある。赤は疱瘡神の特徴的な色。

二つの作品は細部こそ違え、雰囲気はよく似ている。

石工の頭には、下のような道祖神のイメージがあったのではなかろうか。

  双体道祖神(群馬県六合村、現中条町)

「疱瘡神」は疫病神である。

疫病神が入らないように村の入り口に「疱瘡神」塔は立てられた。

つまり、「疱瘡神」は塞の神でもあった。

塞神(さいのかみ)と言えば、道祖神、それも双体道祖神を誰もが思い浮かべるに違いない。

石工が「疱瘡神」として男女神を取り入れても不自然ではない訳が、そこにはあったことになる。

 

 3番目に古い「青龍神社」(寛政11年     4番「屋敷集会場」(文化2年・1805)
 1801)
 19世紀初頭のこの二つの「疱瘡神像」塔は、同一石工ではないかと思うほど構図が似ている。

男神は立ち、女神は座っている。

男神が幣束を持ち、女神が徳利らしきものを持っているのは、1,2番と同じ。

4番の中央に「三玉大明神」の文字。

「三玉大明神」とは、岐阜県大垣市の浄土宗「大運寺」で生まれたお狐様のことで、その神体に疱瘡除けの秘法が書かれているとのことから、日本各地から信仰を集めたと言われている。

5番、「鷲神社」(文政6年・1823)     6番、「鹿島神社」(天保3年・1862)

5番、6番は再び坐像に戻って、文字の台石の上に座している。

しめ縄があるかないかだけで、構図も雰囲気もよく似通っている。

取手市の「疱瘡神像」塔のうち、設立年が分かる塔だけを並べたらこういう結果になった。

偶然かも知れないが、年代が近接する二つの像が酷似しているというのは面白い。

後者が前者をまねたのではなかろうか。

ところで全体に共通したことがあるのだが、それは下の2体の双体道祖神を見てから触れることにしたい。

  長野県塩尻市                  長野県安曇野市

お分かりだろうか。

双体道祖神は男女仲好く頬を寄せ合い、手を取り合っているが、「疱瘡神像」塔はいずれも男女が離れていて、よそよそしい。

恐ろしい天然痘から村の人たちを守るという重大な使命の前には、いちゃついた男女神は不似合いだと、これは石工の倫理観のなせる業だと思いたい。

命題は「石工の想像力は自由に羽ばたいたか」であった。

儀軌がないのだから、もっと奔放に想像をめぐらしてほしかった、と思う。

悪鬼なのだから、鬼のバリエーションもあったのではないか。

それよりももっと空想の神がいい。

仕事人から芸術家になれるチャンスが彼にはあったのに、残念なことだった。

わき道にそれるが、取手市には東京芸大がある。

芸大の学生による「疱瘡神像」コンテストをやってみてはどうだろうか。

町おこしの一助になりそうな気がするのだが。

 

ところで女神が持っている徳利はどういう意味なのだろうか。

琉球には次のような歌がある。

「歌や三味線に踊りはねしちゅて清(ちゅ)ら瘡のお伽遊ぶうれしや」

「歌や三味線につれて踊ったりはねたりしながら疱瘡神のお相手をして遊ぶのはうれしい」という歌で「清(ちゅ)ら瘡」は「疱瘡神」を意味している。

琉歌には、疱瘡神だけをまとめた冊子があるくらい、沖縄の人たちの疱瘡への関心は高かった。伊計島では、疱瘡神を迎える宿を決め、夜伽して疱瘡神をもてなし、病が軽くすむように祈願し、流行期をすぎると、浜辺に豚の頭を供え、疱瘡神を送ったという。『日本の神々(谷川健一』より。

茨城県岩間町の年中行事の4月の欄には、つい近年まで、疱瘡囃子という行事があった。

種痘を受けた子供の家で太鼓をたたいて種痘が根付くように祈る行事だったそうだが、これは江戸時代の疱瘡祝とどこか似ているところがある。

疱瘡祝は子供が3歳になった時、疱瘡にもかからず無事成長したことを祝う儀式だった。

年々派手になる疱瘡祝を苦々しく思っているお上が出した触書がある。

「婚礼、出産、疱瘡祝の節村中男女集り分限不相応の賄いを費し候儀仕らず候様、縁者或は組合等ばかり相寄り万事手軽に取計い申す可き事」(「大藤家文書」茨城県谷田部町)

質素倹約令を出さなければならないほど、疱瘡祝は盛大に行われていたようだ。

牛久町の代々名主を務めてきた某家には、「文久二年疱瘡祝諸掛入用帳」なる文書が残されている。

「一 四百文 酒代 一 三百文 すし代(略) 惣〆金 三両壱分三朱ト三百四十四文」とある。(『茨城の民俗23号』)

疱瘡神は疫病神だから、「触らぬ神に祟りなし」が基本であった。

「瘡も触らなければうつらず」である。

しかし、疱瘡に罹らなければ、盛大に疱瘡神にお礼をのべた。

お祝いに酒はつき物である。

女神が徳利を持っていて何の不思議はないのです。

 

今回、「疱瘡神像」塔を求めて3回取手市に行った。

小文間という農村地帯を歩いていた時、ぽつんと佇む道標に出会った。

東西を走る国道に北からの農道がぶつかる所に道標はあって、「右 成田山 左 取手町」と表示してある。

石碑のメインをなすのは「開運不動明王」の文字。

その上に「麻疹」「疱瘡」の2文字が見える。

「麻疹」と「疱瘡」にご利益のあるお不動さんがこの近くにあることになる。

寄り道してみた。

3,400m先の坂道の途中に「大聖寺」はあった。

無住の寺で聞くべき人もいないので、「麻疹」と「疱瘡」に関わる痕跡を探したが、見当たらなかった。

国道に戻る途中、畑仕事をしているご婦人に声をかけた。

「あのお不動さんのことですが・・・」

「ああ、あれははしか不動といって、昔は大勢の人がお参りにきたもんですよ。私も子供のころはよく親に連れてこられました」。

腰を曲げて作業をしながら、こちらを見ることもなく、ご婦人ははしか不動の思い出話をポツンポツンとする。

もう、とうに忘れ去って思い出すこともなかったのに、きっかけを与えられて、記憶がどこからともなく蘇って来たかのように。

疱瘡とか麻疹は、今やそんな位置づけなんだなと改めて気付いたのでした。

 

 

 

 

 


25 東京とその近郊の塩地蔵図鑑(2)

2012-02-15 10:49:31 | 地蔵菩薩

○大宗寺(浄土宗)
 東京都新宿区新宿2-9-2


古色蒼然とした覆屋に塩で埋もれた地蔵坐像が記憶にあった。

写真フアイルをチェックしたら一昨年3月の写真が出てきた。

確かに白いドレスを着ているかのように全身真っ白だ。

だが、今は違う。

 

塩はかかってはいるが、「埋もれた」状態ではない。

なにもかも全体を新しくしたばかりらしい。

オデキを治すのには、ここの塩を患部に塗る。

治ったら倍返しのお礼参りをするのは他所の塩地蔵と同じである。

夏目漱石が幼年の頃、「大宗寺」の前に住んでいたことはよく知られている。

 寺の山門を入って右にある銅製地蔵坐像は江戸六地蔵のひとつだが、このお地蔵さんによじ登って遊んだことが『道草』に書いてある。

「塩かけ地蔵」も遊び場の一つだったのだろうか。

 

○東福寺(天台宗)
 東京都渋谷区渋谷3-5 

「大宗寺」は新宿の夜の繁華街のど真ん中にあるが、「東福寺」も渋谷の喧騒のすぐ傍にある。

周囲の環境を考えれば、境内は信じられない程の静寂に包まれている。

その静寂は、渋谷区最古の寺にふさわしい。

山門を入ると 舟形光背の地蔵が一基。

足元に3猿。

地蔵菩薩を主尊とする庚申塔だが、問題はその刻文。

「奉造立地蔵菩薩現当二世能化文明二年壬辰願主石塚云々」。

文明2年(1470)は足利時代、540年も前のことになる。

江戸か明治、後で誰かが「文明」と彫り変えた、という見方がもっぱららしい。

横道にそれた。

肝心の塩地蔵は「文明」庚申塔の傍らにおわす。

格子戸越しなのではっきりしないが、古くてとけた地蔵は、新しい地蔵の背後にいらっしゃるようだ。

 

○魚藍寺(浄土宗)
 東京都港区三田4-8-34

インパクトのある赤門をくぐる。

本堂右手に塩地蔵はおわす。

この塩地蔵について寺縁起は以下のように伝えている。

「塩地蔵さまは、昔、高輪の海中から出現されたと伝えられ、塩を供えて願をかければ、願い事がかない、また人に代わって災難を受けてくださるお地蔵さまとして尊信されています。願い事がかなった時は、また塩をお供え感謝御礼致します。海から上がったお地蔵様は、石質がもろかったために、こわれて現在はお代座だけを残して、その下に埋め、その上に新たにお地蔵さまをおまつりしてあります」(魚藍寺縁起)

海中から出現した地蔵には首がなかった。

首だけ後でつけたので、先代の塩地蔵は、首と体の色が違っていたという。

二代目を造立する時、その色の違いを再現するように心がけたらしい。

なるほど、制作意図ははっきりと読み取ることができる。

「塩地蔵」はあるが、塩を奉納する風習がなくなって、塩を用意する寺が多くなっている。

しかし、「魚藍寺」はそんな心配は無用のようだ。

供えられた塩の袋の多様さが奉納する信者の存在を物語っている。

 

○地蔵堂
 東京都港区三田5-9-23

三田界隈の寺めぐりをしていて、偶然通りかかった地蔵堂。

お地蔵さんは「志ほあみ地蔵尊」なるたすきをかけている。

熱心な信者の手で大切に護られている感じがする。

地蔵堂の裏は「龍源寺」というお寺。

「志ほあみ地蔵」と「龍源寺」で検索してみるが、反応なし。

「志ほあみ」は「潮網」でもあり、「潮浴み」でもある。

海中から出現したお地蔵さんではないかと思うが、どうだろうか。

 港区にはこの他、「塩地蔵」の「大養寺」(芝西久保)、「教善寺」(麻布六本木)、「梅窓院」(南青山)、「子育て塩地蔵」の「正光院」(元麻布)、「潮噴地蔵」の「永昌院」などの存在が江戸期の資料で確かめられているが、いずれも現在、姿がないようです。

○大円寺(天台宗)
 東京都目黒区下目黒1-8-5

「大円寺」の「とろけ地蔵」をネットで検索すると

①海中から出現した。

②「大円寺」が火元の明和の大火の熱でとろけた。

③すべての悩みをとろけさせ、解消してくれる、とある。

海中から出現した時に既に像容が崩れていたことはありうるが、大火の熱でとろけたというのは信じがたい。

太平洋戦争での東京大空襲で焼け焦げた石仏を数多く見てきたが、全身真っ黒になりはするが、溶けてのっぺりした姿にはならない。

このとろけ方は大量の塩に長年埋もれていた石仏に特徴的な姿なのです。

塩でとろけた地蔵が火災に遭ったと見た方がよさそうだ。

ただし、寺では塩奉納の習俗はなかったと言っている。

「悩みをとろけさせてくれる」そうで、まことにめでたい。

「イワシの頭も信心から」というではないか。

「信じる者は救われる」のだ。

 ○徳蔵寺(天台宗)
 東京都品川区西五反田3-5-15

すべて物事は需要と供給のバランスの上に成り立っている。

だが、品川区の「塩地蔵」分布はその常識を覆している。

「徳蔵寺」と「安楽寺」、二つの寺に「塩地蔵」はあるのだが、その距離はわずか500メートル。

どちらが先でどちらが後かは知らないが、すぐ傍に「塩地蔵」があることを知りながら、新たに「塩地蔵」を設けるのはいかなる理由によるものか。

願のかけようがちょっと異なっている。

 徳蔵寺の「塩地蔵」       安楽寺の塩かけ地蔵

「徳蔵寺」の「塩地蔵」の場合、仏前の塩を持ち帰り、風呂に入れて入浴すると効能があるとされているが、「安楽寺」の「塩かけ地蔵」は地蔵の足元に塩を供えることになっている。

たしかに「塩かけ地蔵」の下半身は塩害でいちじるしくやせ細っているようだ。

 

○胤重寺(浄土宗)
 千葉県千葉市中央区市場町10-11

「いぼ地蔵」だが、塩を塗っていぼを取るから「塩地蔵」と同義。

「いぼ地蔵」は新しいお地蔵さんで、まだ五体満足。

先代はやせ衰えた身体をお堂の脇に晒していた。

 

○聖徳寺(浄土宗)
埼玉県越谷市北川崎18

墓地に寛永11年の板碑型墓標かある。

塩地蔵も古いのだろうか。

お堂の中に安置されていて、よく見えないのだが、像容が崩れて、特に顔が縮んでいるように見える。

お堂の前に籠がぶら下がっていて、中に塩の袋がいくつか見える。

庫裏に声をかければ、格子戸をあけてくれるようだ。

 

○大長寺(浄土宗)
 埼玉県行田市行田23-10

 「大長寺」の「塩盛り地蔵」には行田市の寺めぐりをしていて、偶然、出会った。

円錐形にそそり立つ塩の量に驚いた。

解説板の説明は以下の通り。

「自らの御体を塩で清め、私たちの苦悩を除き下さる慈しみ深い菩薩様です。特に昔はイボを治す地蔵としてあがめられ、今は、心の闇を照らして救いくださる地蔵様として、慕われています。造立は千六百年頃です。
おまいりの仕方
お地蔵様に塩をたむけ、線香、賽銭などを献じ、願いを込めてお祈りします」。

 造立から400年経つことになる。

ほぼ全身に塩をかぶって、目鼻立ちこそないものの、お地蔵さんの姿を保っていることが信じられない。

目を転じると六地蔵も同様にとろけている。

今は塩はみえないが、かつては六地蔵も塩に埋もれていたのではなかろうか。

塩地蔵は、いずれも文字通り身を粉にして衆生済度を本願とする。

塩でとろけてしまうのも本望なのかもしれない。

 ○地蔵堂
 埼玉県さいたま市大宮区吉敷き町1

地蔵堂は大宮宿の旧中山道からちょっと入った所にある。

塩地蔵は小屋の奥に安置され、ガラスで仕切られている。

「お地蔵さんに塩をかけないでください。お地蔵さんが泣いています」と注意書きがある。

塩地蔵は塩をかけられてなんぼのものだろう。

かけないでというのは、行き過ぎではないか。

そもそも、かけたくてもガラスに仕切られていて、かけることなどできないのに。

この「塩地蔵」にはいわれがある。

「娘二人を連れた浪人が大宮宿で病に倒れた。地蔵が娘の枕元に立ち、塩断ちすれば病は癒えると告げた。娘たちは早速塩断ち、父親は回復した。娘たちはお礼詣りに沢山の塩を奉納した。この父娘にあやかろうと宿場の人たちも塩を供えるようになった」。

 

○慶岸寺(浄土宗)
 東京都狛江市岩戸北4-15-8

覆屋の柱に「塩地蔵菩薩」と木札がかけられている。

4体分の台座が並んでいるが、右は頭だけ、その隣は辛うじて地蔵立像と推測しうる石仏、左の2体は、「体」というのもおかしいくらい単なる石の塊で、こうまでして配列する意図が分からない。

今は塩を奉納する風習は無くなったようだが、この4体の像容の崩れ方は明らかに塩害風化によるもので、おそらく長い年月すっぽりと塩に埋もれていたに違いない。

川崎市にはなんと4カ所に塩地蔵がおわす。

○医王寺(天台宗)
 神奈川県川崎市旭町2-4-4

オデキを治すのに効く。

塩商人の商売繁盛祈願伝承も。

○成就院(真言宗智山派)
 神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町1-32-1

普通の墓標石仏に交じってたった1基の塩地蔵が立っている。

体がとけて顔もノッペラボウなのですぐ分かる。

○西明寺智山派)(真言宗)
 神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1-904

諸病平癒祈願。

参拝者は病気の部位と同じ所に塩を塗りつける。

今は取りやめになっているようだ。

○地蔵堂
 神奈川県川崎市高津区新作3-11

 「塩かけ地蔵」だが、格子戸の中に安置されていて、塩を供えられない。

 地蔵は真新しいようだ。

「医王寺」の塩地蔵と同じように塩売り商人の商売繁盛祈願のお地蔵さんだったらしい。

 

○光触寺(時宗)
 神奈川県鎌倉市十二所793

金沢八景から鎌倉に通ずる金沢街道は、別名、塩街道と呼ばれた。

六浦から鎌倉へと塩売り商人が通う道だった。

塩街道からほんの少し引っ込んだ場所にある「光触寺」は、時宗の名刹。

参道の両脇は墓地で、年代物の墓標が並んでいる。

この寺の境内に「塩なめ地蔵」がある。

この「塩なめ地蔵」の伝承は、『延命地蔵菩薩経直談』や『新編相模国風土記稿』などに詳しいが、ここでは『新編鎌倉志』から引用する。

「六浦の塩売、鎌倉に出るごとに商いの最花とて、塩をこの地蔵に供するゆえに名く。或は云、昔此石像光を放しを塩売り、像を打仆して塩を嘗めさせる。それより光を不放。故に名くと云」。

もっとも普遍化している伝承は、鎌倉へ向かう途中に塩を奉納したのに、帰りに立ち寄るとそれが無くなっていた。

地蔵が舐めたとしか思えない。

だから「塩なめ地蔵」とよばれるようになった、というもの。

 

これで「東京とその近郊の塩地蔵図鑑」(1)、(2)を終える。

面白い企画になるはずであった。

だが、終わっての感想は「つまらない」。

それが、なぜなのか、よく分からないのだから我ながらなさけない。

 

 


 

 

 


24 東京とその近郊の塩地蔵図鑑(1)

2012-02-01 08:11:53 | 地蔵菩薩

○心法寺(浄土宗)
 東京都千代田区麹町6-4-2

寺の所在地を「千代田区」と書くことは、これまでなかったし、これからもないだろう。

なぜなら、千代田区に寺は一つしかないから。

「心法寺」が、その唯一の寺なのです。

寛永13年(1637)、幕府は江戸城西方の防衛線強化のため、外濠工事に着手する。

そのため濠の内側の寺は、強制的に外濠の外に移転させられた。

千代田区に寺がない、これが大きな理由です。

「塩地蔵」は、本堂に向かって左手に2体小屋囲いされている。

「地蔵尊のお体に塩をぬってお参りをする」ために塩化作用でお地蔵さまの顔もからだもとろけてしまっている。

もともとは墓地にあったのだが、33年前、本堂の新築時に現在地に移し、新しい地蔵を加えて2体にした。

新しい地蔵のお顔も目鼻立ちが無くなりつつある。

33年という時の流れを考えると塩害は予想以上のもののようだ。

 

○宝塔寺(真言宗・智山派)

 東京都江東区大島8-38-32

小名(しょうみょう)院宝塔寺の院号は、寺の南を流れる小名木(おなぎ)川に因んだものだろう。

境内におわす「塩舐め地蔵」は、供えられた塩をぬると「いぼ」がとれることから「いぼ取り地蔵」とも呼ばれている。

塩で崩れて、顔と体は分かるが、原型を想像することもできない。

むかし、行徳方面から江戸市内に塩を売りに行く行商人たちは、必ず船を停めて「塩舐め地蔵」の足元に一握りの塩を奉納したという。

奉納した日は売り切れ、怠った日は売れ残る噂は本所深川の粋筋に流れて、料亭玄関の盛り塩も「塩舐め地蔵」のご利益にあやかったもの、とは寺のパンフレットの宣伝文句。

「塩舐め地蔵のお札あります」。

お札代300円。

お札とはお守りのことだった。

うっかりして効能を訊き忘れてしまった。

○亀戸天神
 東京都江東区亀戸3-6-1

行徳からの塩売り商人たちが塩を献じた場所が、江東区にもう一カ所ある。

亀戸天神。

塩を奉納されているのが、地蔵ではなく狛犬なので、この「塩地蔵図鑑」に入れてはいけないのかもしれないが、ちょっと触れておきたい。

雪と見間違うばかりの一面の塩の上に犬が立っている。

商売繁盛、諸病平癒の「お犬さま」だが、特にイボ取りにいいのだそうだ。

台風などで風が強い時、商人たちは隅田川から堅川に舟を繋いで風待ちをした。

暇を持て余して天神様を詣で、ついでに「お犬さま」に塩を供えたのがことの始まりだと言い伝えられている。

しかし、肝心の亀戸天神ではこれを確証のない話だとして「お犬さま」を神社のHPに載せていない。

 

○回向院(浄土宗)
 東京都墨田区両国2-8-10

回向院の「塩地蔵」は一等地におわす。

場所は申し分ないのだが、像は黒っぽく、全体が風化してメリハリがなく、印象が薄い。

「塩地蔵」としてちょっと変わっているのは、願い事をするためにお地蔵さんに塩を塗りつけるスタイルが多いのだが、ここでは願い事が成就したら塩を奉納することになっている。

だから風化は塩の浸食作用によるものではなく、長い年月による自然の風化だということになる。

足元に袋に入った塩が積まれている。

ご利益があったことになる。

前立腺障害を抱える身としては、真面目に拝みに行こうかなと思ったりするのです。

 

○浅草寺
 東京都台東区浅草2-3-1

通称「塩舐め地蔵」は銭塚地蔵の本尊分身なのか、銭塚地蔵堂前の「カンカン地蔵」なのか分からない。

 銭塚地蔵堂内            カンカン地蔵

電話で確かめようとしたが、銭塚地蔵の電話番号が「現在使われていません」と繋がらないのでお手上げ。

「銭塚地蔵堂」についての、浅草寺の「説明板」には「お堂には石造の六地蔵尊が安置されており、(中略)毎月、四の日と正、五、九の各月二十四日に法要が営まれ、参拝者は塩と線香とローソクをお供えする。特に塩をお供えするので塩舐め地蔵の名もある」とある。

文脈としては、地蔵堂内の六地蔵が塩なめ地蔵としか読めないが、カンカン地蔵を目にすると途端に六地蔵説は揺らいでしまう。

カンカン地蔵の説明板は「付随の小石で仏をごく軽くたたきお願いごとをする。石で叩くとカンカンと音がなるのでカンカン地蔵と称されている」と書いてある。

カンカン地蔵は原型をとどめない石の塊となって、無残な姿をさらけ出している。

しかし、小石で軽く叩くとこのようになるとはだれも思わないだろう。

大量の塩をかぶっていたために起きた浸食作用であることは明らかだ。

「浅草寺」の「塩舐め地蔵」はカンカン地蔵だと断言したい。

 

○源覚寺(浄土宗)

 東京都文京区小石川2-23-14

 「源覚寺」の別名は「こんにゃく閻魔」。

眼病平癒を願って閻魔さまを拝み、ご利益があればこんにゃくを供える風習がこの寺にはある。

閻魔さまが眼病ならば、「塩地蔵」の専門は歯痛。

2体のお地蔵さんは、いずれも首から上がない。

長年の塩漬けで溶けてしまったようだ。

 医学が未発達の時代、病気治癒は神仏に祈願するしかなかった。

そうした゛悲しい時代の匂い゛がこの寺には色濃く漂っている。

○えぼ地蔵祠
 東京都足立区加平1-2-5

足立区加平の「えぼ地蔵祠」は探しあぐねた。

ありふれた民家の敷地にあった。

民家の一角に祠があるなんて思いもしない。

あると思わないから、探しても目に入らないこととなる。

なんと地蔵祠のまん前で、この家のご婦人に「塩地蔵はどこですか」と訊いてしまうことに。

訊かれたご婦人も、キョトンとしていた。

「えぼ」は「いぼ」のこと。

仏前の塩を患部に塗る。

無事治れば、倍量の塩を献じてお礼参りとした。

2体の地蔵は異様な形にとろけて、原型を想像すらできない。

かつては毎年9月24日に祠の前に念仏講中が集まり、念仏を唱和したという。

 

○持寺=西新井大師 (真言宗豊山派)

 東京都足立区西新井1-15-1

 「西新井大師」の塩地蔵は、山門を潜ってすぐ左、屋台と屋台の間を入ったお堂に立っている。

参拝客は多いが、塩地蔵に足を止める人は少ない。

石に塩はこんなにくっつきやすいのか、とびっくりするほど隙間なくお地蔵さんに塩が塗りつけられている。

この塗られた塩を持ち帰り、患部に塗る。

完治すると倍量の塩を奉納する決まりがある。

いぼだけでなく、タコや魚の目にも効験があるという。

 

○智福寺(浄土宗)

 東京都練馬区上石神井4-9-26

「智福寺」境内には石造物は1基だけ。

「塩上げ地蔵」と呼ばれるその石仏は地蔵の輪郭はかすかにあるものの、原型を思い描くことは至難である。

生花が供えられているが塩は見当たらない。

石仏を埋めるばかりの供塩の行為は、今は廃止されてしまったようだ。

そうした風習が20年ほど前まで続いていたことは、とろけ地蔵の体が物語っている。

 

○大円寺(曹洞宗)
 東京都杉並区和泉3-52-18

「大円寺」の「しお地蔵」は「塩地蔵」ではなく「潮地蔵」と書く。

言い伝えでは、寛永2年(1625)、江戸湾芝浦沖で漁師の網に掛かって引き上げられたことになっている。

風化して顔の目鼻立ちはなくなっているが、これは海中にあったため全身に塩が沁み込んだためと見られている。

「大円寺」は移転寺院で、もともとは芝伊皿子にあった。

芝浦海岸は目と鼻の先にあったことになる。

地蔵の体にしみ込んだ塩分は、海の干満に合わせて仏体を濡れたり、乾いたりの状態に変化させたので「潮見地蔵」とも呼ばれている。

 ○西照寺(曹洞宗)
  東京都杉並区高円寺南2-29-3

海中から引き揚げられた仏像が本尊という寺がある。

高円寺の「西照寺」。

開基したのが日比谷で芝白金に移転し、更に明治になって現在地に移って来た。

海中というのは、日比谷の海だったと寺伝にはある。

この「西照寺」にも砂岩のとろけ地蔵がある。

顔はまるで骸骨のようだ。

当然、塩の作用によるものと思われるが、寺ではそうした塩の奉納があったことは知らないと言っているので、真相はヤブの中。

特記すべきは、造立年。

光背に「承応」の文字が見える。

杉並区内最古の石仏なので、塩地蔵かそうでないのかはっきりさせたいものだ。

(新宿区、渋谷区・・・と続きは「東京都その近郊の塩地蔵図鑑(2)」で)