石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

129 花巻市の和讃念仏塔

2017-06-15 06:04:56 | 史跡

去年の秋、遠野の五百羅漢へ行った帰途、花巻温泉に一泊した。

遠野から花巻に着いて、わんこ蕎麦を食べ終わったのが、12時半頃。

温泉宿に直行するには早すぎる。

花巻市内と郊外の温泉郷までの間の寺社巡りで、時間をつぶすことに。

           路傍(北湯口)

実は、こうしたことがあろうかと思い、目的を決めてある。

一つは、宮沢賢治碑。

日本全国には、宮沢賢治にかかわる石碑が47基あるそうだが、そのうち18基が、故郷・花巻市にあると言われている。

       歌碑「巨杉」(延命寺)

記念碑、文学碑、歌碑と種類は異なれど、碑文の内容のまさにその地に立っているのだから、興味深い。

しかし、短時間で、18基全部回れるだろうか。

「花巻市の宮沢賢治碑」と題して、15基だとか、16基だと達成感がなく、ブログにUPする気にもならない。

面白そうだが、リスキーなので、テーマを変更、「和讃念仏塔」に絞ることにした。

何故なら、和讃念仏塔は、岩手県以外でその造立の報告はなく、しかもその大半は花巻市にあるという極めてローカル色の濃い石塔だからです。

  松山寺(台)

これまで確認された花巻市内の和讃念仏塔は151基。

全数をカバーすることなど夢想だにしない数だけに、数基でも引け目を感じなくて済むという利点がある。

 

「和讃念仏塔」は、当然のことながら、念仏塔の一つ。

まずは、念仏塔について。

念仏とは、仏の相好、功徳を思い浮かべながら、その仏の名号を唱えること をいう。

わが国では、浄土教が阿弥陀如来の信仰を広め、「南無阿弥陀仏」を唱えることによって、誰でも極楽浄土を遂げられるという教えが広まった。

やがて、念仏を唱える回数が多ければ多いほど、功徳が大きくなるという考えから、「百万遍念仏」が流行りだす。

 百万遍念仏塔(北湯口・路傍)

そして、誦する念仏回数を増やすには、大勢集まったほうがいいと念仏集団ができるようになる。

これを「念仏講」という。

多数作善の思想は、百万遍が二百万遍になり、三百万遍になってゆく。

講の人数も、当然、増えることになる。

「百万遍念仏」がいかに人数と日時を要するものなのか、このブログNO57「佐渡の百万遍供養塔」で述べているが、それによれば、光明真言を七百万遍達成するのに、35人の講中で、毎日6時間誦して、56日、農閑期の旧正月松の内8日間ぶっ通しでやったとして、7年間かかることになる。

大事業を達成すると人は記念に何かを残したくなる。

「念仏供養塔」は、こうして、造立されることになったのです。

花巻市の念仏塔は、437基。(以下データは、『花巻市文化財調査報告書ー花巻の和讃念仏供養塔』より)

このうち「南無阿弥陀仏」の六字名号塔が最も多くて161基、ついで和讃念仏塔151基、念仏供養塔62基、百万遍供養塔32基、踊念仏塔31基となっている。

ここでやっと肝心の「和讃念仏塔」の説明に入る。

「和讃」とは、仏教歌のことで、仏、菩薩の功徳、経典や祖師、高僧の業績を讃える七五調の唱え歌。

和讃に似たものに「御詠歌」があるが、御詠歌は、仏教の教えを五七五七七の和歌にして在家が歌う曲をいう。

『花巻市文化財調査報告書ー花巻の和讃念仏供養塔』の筆者・嶋二郎氏は、子供のころの思い出として、次のように回顧している。

子供の頃、生家の菩提寺曹洞宗東光寺(花巻市北笹間)へ旧暦七月十六日のお盆の祭りの日にはかならずお参りに行ったものである。この日には、決まって、花笠をかぶり、美しい着物をきた若い娘たちが、太鼓と笛の調子に合わせて踊る踊念仏(大念仏)の一団と巡礼姿の菅笠をかぶり、草鞋、脚絆で踊りもせず鈴の音に合わせて歌うような調子で念仏と和讃を唱える数人の一団(和讃念仏)がお寺の境内に次から次へと洗われて踊ったり、念仏を唱えたりしていたことを想い出す」。

嶋氏の回顧談では、7月16日のお盆の行事として和讃念仏が歌われているが、和讃念仏塔の造塔も7月が247基と圧倒的に多い。

      圓通寺(十二丁目)

2位の8月が11基だから、和讃念仏は、歌うのも造塔もお盆の専有行事だったようだ。

造立年代にも時代の特色が反映している。

天明7年(1783)に花巻市に初めて和讃念仏塔が登場し、その後1810年代(文化7-文政3)の10年間に22基、1820年代(文政4-12)26基と造立されていたものが、1830年代(天保2-11)には9基と激減している。

これは大飢饉の天保飢饉が相次いだ時代で、造立どころではない世情を表している。

その次の10年間、1840年代(天保12-嘉永3)には、42基と急増しているが、これは天保大飢饉の死者の追善供養の造塔であるとみられている。

 

花巻市文化財調査報告書第23集『花巻の和讃念仏供養塔』の筆者・嶋二郎氏によれば、和讃念仏塔に関する文献は皆無とのこと。

つまり和讃念仏の歌詞は一つとして残っていないということになります。

では、和讃とはいかなるものか、手近にある『親鸞和讃集』(岩波文庫)を覗いてみました。

 

讃阿弥陀仏偈和讃 愚禿親鸞作

南無阿弥陀仏(なもわあみだぶち)

一 彌陀成仏のこのかたは
   いまに十劫をへたまへり
   法身の光輪きはもなく
   世の盲冥をてらすなり

二 智慧の光明はかりなし
   有量の諸相ことごとく
   光暁かふらぬものはなし
   真実明に帰命せよ

三 解脱の光輪きはもなし
  光觸かふるものはみな
  有無をはなるとのべたまふ
  平等覚に帰命せよ(以下略)

以下が、私が半日で撮った無和讃念仏塔。ほんのわずかですが・・・

 八幡神社(花巻・上小舟渡) 明治二十年七月十五日 100(縦)×62(横)

圓通寺(花巻・十二丁目)文政十年 81×50

上は、圓通寺墓地にあった「烏八臼」。岩手県にも烏八臼があることを確認。

 八坂神社路傍(湯本・北湯口)明治四十年十月 85×50

熊野神社(湯本・椚ノ目)不明 66×30

松山寺(湯本・台)明治三十九年七月十二日 75

松山寺(湯本・台) 不明 145×50

 

 

 

 

 

 


95 (番外編)軍産都市板橋の中核、二造(東京第二陸軍造兵廠)跡地を歩く

2015-01-16 07:01:35 | 史跡

石神井川にかかる「板橋」の近くに、行きつけの居酒屋がある。

戦前からの飲み屋で、客は地元の幼馴染ばかり。

よそ者の私は、話の輪に入れず、聞き役に回ることが多い。

先夕、話題が戦後の子供時代のことになった。

「この裏に憲兵隊の宿舎があって、その馬小屋に引揚者が住んでいた」とママ。

ママは、今年80歳。

ママというよりババが似つかわしい。

「今でも路地の入口に当時の門柱があるよ」と云うので、翌日、カメラを持って行って見た。

石柱の表面は不動産会社の看板が貼り付けてあって、「憲兵隊」の文字の有無は不明だが、裏面の性情から察するに、戦前のものと思われる。

  

憲兵隊宿舎があった区域に、それらしき痕跡は、当然のことながら、ない。

今年は、敗戦70周年。

70年も経てば、大抵のものは、姿を変えてしまう。

門柱だけでも残っていることが奇跡なのです。

板橋は、戦前、軍産都市だった。

敗戦後、軍需工場はカメラや時計などの「平和産業」に転じ、一時、陽の目を見たが、やがて斜陽化し、工場跡地はマンション用地となった。

板橋が軍産都市だったのは、東京第二陸軍造兵廠(以下、二造)が板橋にあったからです。

     火工廠板橋火薬製造所

二造は、銃器と火薬の製造所でした。

では、その二造跡地はどうなっているのか、敗戦70年後の今年、その痕跡を探して跡地を歩いてみよう、というのが、今回の趣旨。

石造物は若干あるが石仏は皆無なので、「石仏散歩」の番外編です。

 

二造を知らない人でも、加賀藩下屋敷なら御存じでしょう。

二造の前身・火薬製造所は、その加賀藩下屋敷跡地に、明治9年、開設されました。

①火薬を扱うので緩衝地帯を含めて広い土地が不可欠。

②動力源の水力が豊富にあること。

③水路、陸路ともアクセスに至便なこと。

人家がない広い土地に石神井川が流れる加賀藩下屋敷は、火薬製造の最適地でした。

 

今、「二造」の文字は、2か所で見られます。

うち1か所が、板橋西公園の圧磨機圧輪記念碑横の説明板。

分厚い輪っかが3つついたこの奇妙な機械が、すべてのことの始まりでした。

この圧磨機圧輪は、幕臣澤太郎左衛門がオランダに留学、火薬製造術を習得し、帰国にあたりベルギーより購入したもの。しかし、こと半ばで幕府は倒れ、計画は水泡に帰した。太郎左衛門自身も賊として捕らわれたが、新政府により放免され、この地で石神井川の水力を利用した火薬製造を始めた」。(説明板より)

榎本武揚らと函館で官軍に抵抗したにも拘らず、澤太郎左衛門は死罪を免れました。

そればかりか、政府軍の技術者として迎えられます。

彼の習得した技術が、いかに時代が渇望していたものだったか、ということでしょう。

ここが火薬製造所だったことを物語る石碑が、公園の隅にひっそりと立っています。

「招魂之碑」と刻された、明治35年7月24日の爆発火災事故殉死者の供養塔です。

翌日、7月25日の都新聞の記事。

「●火薬庫の火災(死傷者十数名)
 昨日午前十一時二十分ごろ北豊島郡板橋町大字下板橋なる陸軍火薬製造所製造工場より発火したるが爆発燃質物のみある處なれバその勢ひ凄まじく忽ちにして煉瓦造りの工場二棟と空室一棟とを焼き払ひ死者五名、所在不明一名、重傷者四名、軽傷者十余名を出したり。(中略)技手花出丈七は見当たらず所在不明なるも多分ハ焼死したるものならんと云ふ」。

7月27日の紙面に花出技師の続報あり。

所在不明なりし花出丈七技手は猛火に包まれ逃がるるに道なく構内音無川に首のみ水上に出し全身黒焦げとなりて死し居たりと云ふ」。(*音無川=石神井川)

二造の正門があったと推測される東板橋体育館から西へ。

二造の周囲を時計回りで歩いてみよう。

東板橋体育館の道路の向こう側、特別老人ホーム寿栄園の隣が金沢小学校。

「金沢」小学校は、いわずもがな、加賀藩下屋敷に由来するもの。

この金沢小学校に陸軍の消火栓が残されています。

これは昔の消火栓です。昭和の始め頃につくられました。このあたりは、陸軍第二造兵廠というものがありました。星の印は陸軍のマークで、陸軍の人たちが火事を消すための設備として作ったのがこの消火栓です」(説明板より)

左に東板橋公園、右に加賀ガーデンを見ながら進むと四つ角に出る。

その角に所在無げに立つ鉄柱が、陸軍との境界柱だといわれています。

ボロボロになって、一見木材風だが、触ってみると鉄柱だと分かります。

同じように黄色にペイントした鉄柱があるが、こちらは只の車止め。

この四つ角をまっすぐ進むと50mほどで同じ鉄柱がある。

 右の電柱と塀に挟まれて鉄柱は、肩身狭く、縮こまって、ある。

黄色に塗ってないから見逃しそうだが、同じものだろう。

次の角を右折。

右が加賀2丁目、左、仲宿の間を進む。

右の塀の道路際にずんぐりした石柱がある。

近寄って、しゃがんで見る。

陸軍の軍の上半分までが見える。

ちゃんと全部読める境界石もある。

 

右は御影石。

陸軍まではかろぅじて読めるが・・・。

この辺りが、二造の西の境界線で、右側の古いコンクリート塀の内側の平屋は、将校用住宅だったらしい。

二造の跡地のほとんどは、企業、学校、研究所、公務員宿舎などになっていて、このあたりの個人住宅地は珍しい。

 北園女子会館を左折、道なりに進むと石神井川にぶつかる。

橋名は、御成橋。

将軍が鷹狩りに「御成り」になった橋だからです。

将軍吉宗は、板橋だけでも16回も鷹狩りに御成りになったのだとか。

御成橋ごしに帝京大学病院がそびえたっています。

この界隈は、この10年で激変、すっかり様変わりしました。

御成橋から稲荷台へ。

道の両側に広がる帝京学園の校庭には、今では想像できない「帝京山脈」が東西に走っていたのだとか。

 写真は『加賀五四自治会60周年記念誌』より借用

GHQの旧日本軍の返還施設としての現在地に昭和21年開校した当時「校舎は昔の兵舎を改装したもので、屋根の上を暗く細長くおおっている帝京山脈と呼ばれる土手の松山(造兵廠が人工で造った山)が東西に走り、いくえもあったそうです。北側は建物ごとに土手で囲まれ、多列の建物にはトンネルを通らなければ、行けない状態でした」(帝京中・高教諭 白石洋一『加賀の歴史と自治会60周年の軌跡』より)

 建物と建物をつなぐトンネル(『加賀五四自治会60周年記念誌』より)

緩やかな坂を上ってゆくと「稲荷台」の交差点。

左に、交通量が少ない割には二車線の、広い道路が走っています。

しかも環七にぶつかる手前で行き止まりという不思議な道です。

今度、調べて分かりました。

二造の電気鉄道跡地でした。

製品が火薬なので、蒸気機関車ではなく、電気鉄道だったのです。

二造での製造品を赤羽台の弾薬庫に輸送するための専用軌道でした。

二造跡地で、交通量に比較して立派な道路があったら、鉄道線路跡と思って間違いありません。

稲荷台から道なりに東へ。

東京家政大の手前にあるのは、財務省の官舎。

公務員宿舎が多いのも陸軍造兵廠跡地の特徴です。

下の写真は、昭和23年の東京家政大付属中、高校校舎。

   『加賀五四自治会60周年記念誌』より

兵舎をそっくり利用しているのが分かります。

東京家政大には、二造の赤レンガ建造物が、現在、3棟残されています。

    造形表現学科実習室

 

     生活科学研究室

天井板がなく屋根裏が見えるのは、爆発した場合、屋根が吹き飛ぶ構造になっているからだそうですが、授業中で、中へ入っての撮影はできませんでした。

建物の下の煉瓦が黒っぽいのは、爆発しても崩れない様に硬く焼いてあるから、とは、案内してくれた総務担当者の話。

東京家政大正門を出て、右折、すぐ信号のある十字路にぶつかります。

東方向が下の写真。

     この道路は、廠内電気鉄道軌道跡

手前左右のフェンスの下は埼京線、そこが北区との区境であり、戦前はここから向こうが一造(東京陸軍第一造兵廠)でした。

戦後民間に払い下げられた二造と違って、一造は米軍に接収されたままで、ベトナム戦争盛んなりし頃は、押しかけた全学連と機動隊との衝突で王子キャンプ周辺は騒然としていたものです。

米軍に接収され、自衛隊に引き継がれたため、一造の建造物は、二造に比べて、状態良く保存されています。

一造本部だった中央公園文化センターや銃砲製造所だった、通称「赤レンガ図書館」の区立中央図書館はその典型例です。

 

   一造本部だった中央公園文化センター(北区)

 銃砲製造所跡の北区立中央図書館(赤レンガ図書館)

十字路を南へ坂を下りる。

右は、愛生園。

左は、クリーニングの白洋舎。

反対側に回ると分かりますが、この白洋舎の建物は異様に低い。

車の高さからもその低さが分かります。

これは、一造の建物をそのまま使用しているから。

火薬を取り扱う一造の建物は、地面を掘り下げ、土塁に囲われた形になっていました。

右の茂みが土塁の残骸でしょうか。

隣のアパートの外階段から俯瞰すると、全体の沈み込みが分かります。

 

 隣の「愛世会」にも兵舎が残っています。

白壁なのは、レンガをセメント補強してあるから(と思う)。

周辺に転がっている廃棄物も年代ものが多い。

愛世会といえば、一造の遺構、長いコンクリート壁を撮りたかったが、遅かった。

コンクリート壁は取り壊され、仮のフェンスになっている。

こうして、昔の景色と匂いは、いつの間にか、なにげなく取り壊され、なくなって行くのです。

 

愛世会の前、道路を挟んで石神井川側にある理化学研究所にも、二造の赤レンガがある。

100年近く経っているのだろうが、補修がきちんとなされていて、綻びがない。

理研といえば、去年春、一人の女性研究員が、国民に期待を持たせ、やがて失望させた。

この赤レンガは、そうしたスポットライトとは無縁な研究所のように見える。

だが意外にも、スポットライトが当たった時代があったのです。

日本で最初のサイクロトロンを完成させた仁科芳雄博士が疎開先から移転してきたのが、この赤レンガ。

仁科博士を慕って日参していた湯川秀樹、朝永振一郎両博士もこの赤レンガに研究室を構えます。

二人のノーベル物理学賞受賞者を輩出した研究室が板橋にある!

もっと積極的にPRしたらいいのに、と思うのですが。

 

愛誠病院の前、金沢橋を渡ると右手に加賀公園が見えてきます。

小高くなっているのは、加賀下屋敷の築山だったから。

       築山から金沢橋を見る

下屋敷地図にも「大山」と記されている。

下屋敷の面積は、約22万坪。

江戸最大の大名下屋敷でした。

加賀公園の南i西側にある板谷公園あたりは、兼六園に似せた池泉回遊大名庭園になっていて、大山は庭園を俯瞰して愛でる場所でした。

    昔の回遊庭園跡地の板谷公園

二造の中にありながら江戸時代のままの姿かたちを保ってきた築山ですが、一か所、いかにも二造の跡地らしい遺構があります。

加賀公園西側の小山の中腹にあるレンガの構築物。

その壁の厚さに注目ください。

これが何の遺構なのか、即答できる人は、現在の日本人では、ほぼ皆無でしょう。

傍らの説明板には「弾道検査管(爆速測定管)の標的」と書いてあります。

弾丸を意図的に当てる、その壁だから厚くしてあったのです

精度が要求される銃火器は、品質検査が不可欠です。

試作の段階では、何度も試射が繰り返されます。

ここは、生産工場ではなく、試験場の一部でした。

加賀公園に接して西側には、野口研究所がありますが、フェンス越しにみえる敷地には、一抱えはあるコンクリート製の円管が伸びています。

これが、多分、弾道検査管でしょう。

この弾道検査管から10m南よりに場所を移すと、ここからは、道のような、しかし、道ではない細長い空地が真っ直ぐ西へ延びているのが見えます。

説明板には「電気軌道(トロッコ)線路敷跡」とあります。

このブログでも何回か触れてきた電気軌道ですが、こうした分かりやすい跡地かあるとは。

 西側から見た電気軌道(トロッコ)跡

弾道検査管といい、トロッコ線路跡といい、こうした二造の遺構は野口研究所が意識的に保存しているとしか思えません。

研究所内に入れないので、確かなことは分かりませんが、外から見るだけでも、現在でも使用されている二造建築物がいくつもあることが伺えます。

 ここでクイズ。

「遵」は、なんと読みますか。

遵守の遵だから音読みなら「じゅん」だが、訓だと「したがう」。

野口遵(したがう)氏は、化学肥料で財をなし、昭和16年、私財を投じて野口研究所を横浜に開設します。

ところが昭和20年の敗戦直後、研究所は進駐軍に接収されます。

移転先の候補地が、加賀の現在地でした。

二造の跡地だから、国有地。

大蔵省は、一時使用のレンタルとして、適正な貸付先を模索中でした。

適正な、とは、学校や企業、研究所などで個人住宅は対象外。

手を挙げたのが、野口研究所をはじめ、渡辺学園、理化学研究所、愛世会、資生堂、帝京学園など。

国有地で大蔵省所轄とはいえ、その上に君臨するGHQの許可がなくては、すべてことは始まらない時代。

GHQ宛の二造跡地転用申請書類があるか、東京都公文書館で探してみた。

保存されているマイクロフィルムに、二造の跡地利用に関する文書があった。

しかも大量に。

申請先は、GHQ(総司令部)ではなく、その下部組織の「東京神奈川軍政部東京分遣隊」になっている。

申請書は、東京都渉外部経由で軍政部に提出されたので、英文と和文の2通から成る。

たとえば、野口研究所の申請書はこうだ。

To:Commanding Officer,Yokyo-Kanagawa Military Government District Tokyo Detachment.

Through:Liaison Officer,Tokyo Metroporitan Government.

From:Tokyo Juridical Foudational Person Noguchi Research Institute.

Subject:Application for conversion 0f former military installation.

以下、申請内容は和文を転載。

弊研究所はすでに日本政府から1946年1月18日付を以て一時使用の許可を得ている旧陸軍の第二東京造兵廠板橋製造所の一部の転換をお願ひする。お願ひの理由は下記の通りである。

⑴ 我々は右の施設(主として建物)を我々の本来の事業である化学工業研究のため使用する。
⑵ 右施設は旧造兵廠の化学研究所として建設され使用されて来たものであるからなんらの変更整備を加へるこ
  となく使用することが出来る。
⑶ 我々の研究機関は1943年横浜に開設されたが1946年5月現地連合軍によって接収されたので以来前記場所で
  我々の研究活動を行ってきた。今日に到るまで他に適切な場所を見出すことが出来ない。
⑷ 現在われわれが遂行している研究は我国化学工業の復興に貢献し日本が現在直面している国民生活の危機を
  克服することを目的としている。上記の目的の為我々は以下述べるやうに肥料食料並に輸出品等の研究に特
  別の努力をしている。
  (中略)
我々は少なくとも我々が自分で新しい研究所を建築することが出来るやうな時が来る迄上記の施設をできるだけ長く使用することを必要とする。我々は我々自身の研究用の器具類を所有しているから前と同様に研究を続けることが可能である。すでに造兵廠に属していた機械器具の殆ど全ては賠償の為持ち去られている。

上記のやうな事情を汲まれて何卒我々の申請を認可賜るやうお願ひする。

                  財団法人 野口研究所
                      
常務理事 田代三郎 

和文申請書には日付がないが、英文には「April 26 1947」のスタンプが押してある。

同様な申請は、5月にもなされ、この時には東京都渉外部長による「肥料食品に対する研究は我国現状に鑑み極めて重要なるものである故何卒特別の御詮議を賜りたい」との推薦状が添付されている。

二造跡地に今もある学校、企業、研究所からも同様な申請が相次いで提出され、いずれも許可された。

申請者は旧軍の施設をそのまま使用してきたが、施設や機械はやがて老朽化する。

再開発したいが、国有地のレンタルのままでは難しいからと今度は払下げの要求へ。

同時に緑地帯指定の地目指定変更運動も活発化して、二造跡地は、目を見張るような変容を遂げて現在に至るのです。

   

再び 加賀公園に戻る。

公園の南、板橋5中は、工科学校の跡地です。

 境界石は学校グランドのフェンスと電柱に挟まれてある

5中の南東隅には、「陸軍省」の境界石がある。

ここから東板橋体育館へ行くと、二造の外縁を時計回りに一周してきたことになる。

 

 ≪参考図書≫

〇板橋区教委『写真は語る』平成6年

〇加賀五四自治会『加賀の歴史と自治会60周年の軌跡』平成21年

〇板橋区教委『板橋区域旧軍施設関連文書目録』平成19年

〇佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


38 コツ通りと首切り地蔵(小塚原仕置場跡)

2012-09-01 05:53:06 | 史跡

上の写真は、JR「南千住駅」と地下鉄日比谷線「南千住駅」の西側を走る旧日光街道。

看板下部に「コツ通り商店街」とある。

あなたは「コツ通り」の「コツ」とは何だと思いますか。

「コツコツ努力する」、「ハイヒールの音がコツコツと夜道に響いた」のコツではなさそうだ。

コツと発音する漢字としては、忽然や祖忽の「忽」と「骨」がある。

「通り」を形容するのには「骨」の方がいいようだが、「骨通り」なんてあるのだろうか。

しかも商店街の通りの名前なのです。

でも、こんなヒントを聞けば納得するかもしれません。

「南千住駅」の旧日光街道の反対側は、江戸時代の仕置場(処刑場)跡地で、どこを掘っても人骨が出てくるという噂がある。

人骨が出るのは噂ではなく事実ですから、「骨通り」説はますます有力視されるのですが、荒川区の教育委員会の文化財担当官はこれを真っ向から否定します。

仕置場は、小塚原(こつかっぱら)にありました。

その頭の二文字をとっての「コツ通り」であるというのが、彼らの見解です。

何故なら、と担当官はその理由を述べます。

仕置場がここに設置される200年も前から、この地は「小塚原」と呼ばれていて、「骨」とは全く無縁だったというのです。

あなたは、これで納得しましたか。

でも、と私は思うのです。

「こつかっぱら」を略して「コツ」というのは、日本語の感覚としてちょっと変ではないか。

「コツカ」なら分かるけれど、「コツ」と呼ぶのには抵抗があるのです。

人骨だらけだから「コツ通り」、この方が自然だと思うのですが、どうでしょうか。

 

 ここで、まず、仕置場とはどんな所か説明しておきましょう。

仕置場は、町奉行所による刑罰の執行場所であり、牢死、死罪、行き倒れなどの埋葬地でした。

また、試し切りや解剖の場でもあり、徳川家の馬の埋葬地でもありました。

次は、文化年間、コツ通りから仕置場を見た人の文章です。

「刑罪場あり。方三、四拾間。平原只草茫々として、路傍には死刑のものの捨札横たわり、西の方にハ、牛馬の死骸にや、数千の烏むらがりて、啄(ついばみ)喰らふその容体(ありさま)嘆息するに堪えたり」。(捨札とは、罪状書のこと)

 左隅に首切り地蔵、中央左、獄門台の首、右ページ左下、捨札、右の小屋は小屋。

下の写真は、小塚原仕置場跡地を俯瞰したもの。

 

電車が通過中の線路がJR常磐線。

下部の高架線は地下鉄日比谷線で高架の下はJR貨物線です。

JR常磐線上部の墓地が回向院、常磐線と日比谷線の間が延命寺の境内と墓地。

撮影した場所は都営アパートの10階からですが、小塚原仕置場は、このアパートの敷地から回向院までの範囲に広がっていました。

 都営アパートは926,928番に建っている

その広さ2000坪、間口60間(110m)、奥行き30間(55m)でした。

俯瞰写真右側の茶色のビルに面しているのが、旧日光街道、問題のコツ通りです。

回向院から貨物線の下まで、仕置場はコツ通りに面していました。

獄門台の晒し首は、見せしめの為ですから、道路から見えなければ意味がなかったのです。

茶色のビルの手前の白い建物が延命寺、その前で背中を見せて座しているのが、小塚原仕置場のシンボル首切り地蔵です。

小塚原仕置場のいかなる絵図にも、首切り地蔵は必ず描かれています。

『安政戊午頃痢流行記』 左下隅に首切り地蔵の左半身が見える。

ただし、場所が今とは違います。

もともとは、写真下部のJR貨物線の線路上にありました。

線路敷設の邪魔になると言う事で、現在地に引っ越してきました。

明治時代のことです。

常磐線、貨物線敷設時の人骨出土は、想像するだにすさまじい光景だったに違いありません。

埋葬された死体は年に約1000体。

その220年間分ですから、厖大な量です。

磔、獄門の場合は三日晒の上、「取捨」(死体に土をかける)されましたが、これだと犬が掘り起こすので、実際には4尺(1.2m)ほど掘り下げて埋葬していました。

それでも3,4年で一巡して、前の遺体の上に埋めなければならなかったといいます。

線路工事で掘り起こして出るのは、大量の骨とほんの少しばかりの土でした。

昭和30年代にも、同じ光景が繰り広げられました。

国鉄南千住駅の高架化と地下鉄日比谷線の開通、その工事の度ごとに骨が一杯掘出されました。

上は『日本行刑史(滝川政次郎)』掲載の写真。

延命寺の首切り地蔵の前に人骨が山のように積まれています。

昭和35年6月撮影とキャプションにあります。

昭和40年代には、魔の踏切の立体交差、コツ通りの貨物線下トンネル化、道路の拡張化などで、また、どっと骨が出ます。

道路拡張で回向院も境内を削られ、昭和49年改築現ビルが落成しますが、その際、削られた場所から樽詰の頭蓋骨が200ほど出ています。

改築された現回向院とその前のコツ通り

人骨出土騒ぎは、平成になっても続きます。

平成10年(1998)からの常磐新線つくばエキスプレス工事は地下トンネルでしたから、出るわ出るわ。

荒川区の小塚原刑場跡地発掘調査速報によれば、約130㎡の現場から出た頭蓋骨は200点、四肢骨1700点。

 『杉田玄白と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会)より

棺や早桶に納められているものは皆無で、そのまま土に埋められている遺体ばかりだったそうです。

以上は、「コツ通り」の「コツ」は人骨説、の補強例でした。

 

話変わって、下の2枚の写真、どこが違うかすぐ分かりますか。

「コツ通り」から延命寺境内を撮ったもの。

左が2012年5月25日、右は2012年8月23日の撮影です。

そうです、左の写真には首切り地蔵のお姿がありません。

実は、去年の3.11東日本大震災で、お地蔵さんの左腕が落下、胴体部分がずれるという憂慮すべき事態が発生しました。

余震があれば崩落の危険もあったのです。

崩落の危険を避けるために、寺では、お地蔵さんを一度解体し、改めて復元する道を選びました。

クレーンで吊り下げられる地蔵の頭

そして、2012年8月23日、首切り地蔵は無事復元されました。

復元された首切り地蔵(2012.8.23)

解体して分かったことがあります。

首切り地蔵は、これまで、27個のブロックの組み合わせと言われてきましたが、本体25個、台座8個の石材ブロックからできていることが判明しました。

台座正面には、右から「天下泰平」、「奉納経」、「国土安泰」の文字が見られます。

「経」は「法華経」のこと。

日本全国66カ所を巡礼し、法華経を書写して奉納して建てられる石塔によく見られる銘文です。

実は、首切り地蔵の前には巨大な題目塔(元禄11年・1698造立)が立っています。

 

大正時代までここには法華庵というお堂がありました。

回向院の他に法華経信者が小塚原仕置場の無縁仏供養に関わっていたことになります。

それを裏付ける冊子もある。

『江戸繁昌記』(天保7年・1836)には「小塚原仕置場では、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経が競うように唱えられている」と紹介されています。

なお、『小塚原法華庵略縁記』によれば、法華庵は日蓮ゆかりの佐渡塚原根本三昧堂の写し霊場であるとのこと。

佐渡の二文字があれば、つい興奮してしまう私の悪い癖で、これは余計な寄り道、付け足しでした。

 

このブログのタイトルは「石仏散歩」ですから、石仏、石造物の紹介は欠かせません。

巨大な題目塔の後ろの馬頭観世音碑は、ちょっと風変わりな石碑です。

題目塔の裏の馬頭観世音碑

万延元年(1860)に村田清道という人が建立したものですが、裏面に「乗馬供養塔」とあります。

ブロック塀が背後にぴったりと立っていて、刻文を読むことが出来ないのは残念ですが、使役馬ではなく、乗馬であることが珍しい。

もう一つ珍しいのは、個人の持ち馬を葬り、供養していること。

江戸時代、死んだ牛馬は特定の捨て場に持ち込まれ、その埋葬処理などはが行いました。

彼らは皮を剥いで皮革に加工する権利を有していました。

小塚原に埋葬された牛馬も、例外なく、皮を剥がれていたことになります。

皮を剥がされずに埋葬されたのは、将軍家とその関連家の馬のみ。

その際、将軍家は金1000疋(2両2分)を穢多頭の弾左衛門に下賜したと言われています。

村田清道なる人物が将軍家と無関係だとするならば、いかなる事情でこうした例外的事例が生じたのか、さぞや巨額な裏金が動いたのではなかろうかと、これはゲスの勘ぐりでした。

あえて余計な話を付け加えれば、JRAの競走馬で墓標があるのは10頭に満たないでしょう。

みんな馬肉になってしまいます。

ダービー優勝馬でもこの宿命を免れません。

 

話を小塚原仕置場に戻しましょう。

処刑、埋葬が小塚原仕置場の主な役割ですが、試し切りの場所としても機能していました。

刀は武士の象徴です。

江戸期も後半になると装飾的存在になるのですが、それでも刀の価値は「切れること」にありました。

その判断は、実際に死体を切ることで下されました。

  『徳川幕府刑事図譜』より様斬(ためしぎり)の図

試し切りには、刑死者の男の死体が用いられました。

土壇に置かれた首なし死体を試し切りしたのは、山田浅右衛門とその一門の者たち。

試し切りの後、刀は刀工のもとに戻されて、切断面に山田浅右衛門の名が刻まれ、品質を保証されることになります。

八代目山田浅右衛門山田源蔵の切断銘

人切り浅右衛門が昵懇にしていた武家に外務官僚川路左衛門尉聖謨がいます。

その川路が、嘉永6年(1853)、ロシアとの通商交渉の席上、ロシア使節団に日本刀一振りを贈答しました。

「此刀にて、ためしに人を切みるに、三人並べてこころよく胴切りにし、車骨を瓜の如くに切りたり」。

驚いたロシア人の「人を生きたまま切るのか」という質問に「刑人の屍を切る也。これをタメシと申候。かかる切るる刀さすは日本の常なり」と答えたと云います。『長崎物語(川路聖謨)』より

川路聖謨と聞けば、あの佐渡奉行の、と連想してしまう佐渡大好き人間である私の、つい余計な逸話の披露でした。

山田浅右衛門は士分ですらなく、浪人の身分でしたが、莫大な資産家でもありました。

浅右衛門之碑(「詳雲寺」豊島区西池袋)

その富は、家業である刀剣の鑑定と罪人の処刑だけでは達成できない巨額な金額だったと言われています。

物見高いは江戸町人、おいしい話は逃しません。

「朝右衛門きもをつぶして銭をとり」
「どろ坊の肝玉で喰ふ浅右衛門」

山田家には、胆蔵(きもぐら)があり、大甕には人間の脳みそが詰まっている、また張り巡らされた綱には一寸ばかりの茄子の如き人の肝がつり下げられている、と云う噂が流れていました。

それは噂ではなく、事実でした。

しかも「山田丸」、「浅右衛門丸」、「人丹」などと称して山田家から売り出されていた薬は、とんでもない高値でした。

人間の胆嚢が原料の人胆丸

薬の原料である人間のパーツは独占的に、しかも無料で入手できるのですから、笑いが止まらない。

死体を切るという怪しげな所業をしながら抜け目なく財を成す、人々に揶揄られても仕方ないでしょう。

 

最後に回向院。

小塚原回向院

小塚原仕置場での刑死者を供養するため、寛文7年(1667)、両国回向院の別院として建てられました。

仕置場の北に位置します。

コツ通りからビル寺院の、1階吹き抜け参道兼駐車場を過ぎると墓域にぶつかります。

墓域は2分されていて、左は一般、右が史跡エリアとなっています。

史跡エリアには、安政の大獄、桜田門外の変、外国公使襲撃などで刑死した幕末の志士88基の墓碑や鼠小僧次郎吉や高橋お伝などの著名悪党の墓が並んでいますが、数が多いので、あえてパス、2点の石碑だけ取り上げます。

 左 志士の墓                    右 盗賊等の墓

一つは首塚。

 首塚(別名 供養塔)

史跡エリアの右の通路の左側におわす観音様ですが、別名「供養塔」と呼ばれてきました。

刻文は「為前亡後滅等往詣楽邦也」、「為殃罰殺害諸無魂離苦得楽也」。

『橋本佐内と小塚原の仕置場』のコラム執筆者亀川泰照氏はこれを「生きとし生けるもの、あるいは悪鬼・夜叉といった人にあらざる存在に至るまで、全て極楽浄土へ往生させ、また悪報や禍により亡くなった諸々の魂を苦しみから解放し往生を得る」と読んで、この碑は無縁の霊を供養する目的で建てられた首塚であると断定しています。

小塚原仕置場の雑務を取り仕切っていたのが、非差別民のであったため、刻文の「」の二文字をこれと関連付けて「合葬墓」と誤って解釈されたのではないかというのです。

もう一つは「千人塚」。

       千人塚

回向院には『千人髑髏回向誌』が残されています。

商人がスポンサーになって千人塚を建て、無縁の供養をした記録です。

「笹乃雪喜三郎」とありますが、これは今も根岸に店を構える豆腐専門店「笹乃雪」のことでしょうか。

千人塚はその昔、何基もあったそうですが、今は回向院の一般墓地の南側に1基残っているだけです。

 

そして、回向院といえば、観臓記念碑。

       観臓記念碑

小塚原仕置場が近代医学の原点であったことを物語るモニュメント。

碑文の書き出しはこうです。

「蘭学を生んだ解体の記念に
 1771年・明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分けを見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持ってきて、その図を実物とひきくらべ、その正確なのに驚いた」。

3人は日本医学の為に日本語訳の刊行を決意し、苦心の末、3年後の安永3年に『解体新書』を発刊するのです。

重要なポイントは2点。

解剖された遺体は刑死者のものであったこと。

だから小塚原仕置場で実施されたのでした。

もう1点は、杉田玄白等は腑分けを「見た」のであって、「した」のではないこと。

実際に解剖に当たったのは、90歳の老人でした。

しかも老人は、非差別民のという身分でした。

当時、腑分けの経験があるのはだけだったのです。

『蘭学事始』で杉田玄白は、老人が「若きより腑分けハ度々手にかけ、数人を解たり」と語ったと回顧しています。

 

                            杉田玄白の墓(「栄閑院」港区愛宕)

そして、老人は次々と臓器を指し示し、これまで「腑分けの度に医師かたに品々をさし示したれとも誰一人某は何、此れは何々なりと疑われた方はなかった」と云ったとも書き記しています。

この時点ではの老人の方が医者よりも正確な人体の知識があったわけで、この言葉は幕府の医師批判にもなりうる、と『杉田玄白と小塚原の仕置場』の執筆者は指摘するのです。

 

 明治12年(1879)、小塚原仕置場は刑罰執行の場としての機能を終えます。

刑死者の埋葬地としての機能も雑司ヶ谷墓地への移転で完全に停止しました。

機能停止までの間の変化としては、まず、明治7年に、仕置場が高さ6尺の塀で囲われたことをあげなければなりません。

その背景には、法思想の変遷がありました。

獄門・晒し首は、死後なお見せしめの辱めを与える刑でしたから、それまでの仕置場に遮蔽物はありません。

刑の執行で罪は消滅するという近代法の思想が、塀を構築させたのです。

解剖の世界にも変化が生じました。

解剖の場所は仕置場から、医学教育の場へと移り、解剖は基礎医学の一分野として確立します。

解剖遺体も刑死者から献体へと移行してゆきます。

自らの意思で死後の献体を申し出た美幾(みき)女の墓が念速寺(文京区)にあります。

明治2年(1869)のことです。

遺体を傷つけることへの強い抵抗心が社会全般に行き渡っていた時代でした。

墓には「特志解剖第1号」とあります。

こうした歴史上の断片がモニュメントとして残っていることを見て、石造物の良さを改めて再確認するのです。

 

参考図書(というよりは丸写しネタ本)
『橋本佐内と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会2009)
『杉田玄白と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会2008)
『大江戸死体考』(氏家幹人 1999)
『日本行刑史』(滝川政次郎)
『甦る江戸』(江戸遺跡研究会)
『荒川区史跡散歩』(高田隆成)
『日光街道を歩く』(横山吉男)
『東京骨灰紀行』(小沢信夫)

 

このブログを見た友人から次のようなメールがありました。

「昨日、偶々俳句の「ごづ(牛頭)」という言葉を

広辞苑で引こうとしたら、その語はなかったのですが

「こつ」という語が目に入りました。

開いてみると、

 こつ【小塚】

江戸千住の岡場所、小塚原の通称。伎、小

袖曽我薊色縫「三次がーの馴染は、二枚が

けの熱燗だな」とありました。

すでにご承知のことと思い、かつまた荒川区教委の

担当者の話にもあったのかもしれませんが、

偶然見つけたので念の為おしらせします」。

 

私の思い違いが明白なようですが、

間違いも、また愛嬌。

いつものことです。

本文を訂正することなく、そのままにしておきます。

間違いを指摘してくれた友人に感謝。(2012-09-13)