仏歯寺の2階へ向かう列は2列あって、仏歯塔を拝み、供物を差し出すことを目的とする左列は遅々として進まず、一方、右列は止まることなく進むことができることは、前回、述べた。
右列の人たちは、さっさと階段を上り、本堂前の広間に座って、ひたすら祈る。
近寄ってアップを撮りたかったが、近づく勇気がなかった。
みんなで唱和することはない。
それぞれが勝手に、自分のタイミングと流儀で、仏との対話をしているように見える。
祈る人がいれば、祈らない人もいる。
アクションはばらばらで、雑然としたまとまりのない光景ではあるが、そこには静かな空気が流れている。
雑談する人がいないのです。
仏陀の前で祈る時には、まずこれを口唱するように、とガイド氏が教えてくれたのは、パーリ語の「三帰依文」。
- 1度目の帰依
- Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
- (私はブッダ(仏)に帰依いたします)
- Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
- (私はダンマ(法)に帰依いたします)
- Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(サンガン・サラナン・ガッチャーミ)
- (私はサンガ(僧)に帰依いたします)
- 2度目の帰依
- Dutiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ドゥティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
- (再び、私はブッダ(仏)に帰依いたします)
- のように、Dutiyampi をそれぞれの頭につける。
- 3度目の帰依
- Tatiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(タティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
- (三度(みたび)、私はブッダ(仏)に帰依いたします)
- Tatiyampi を、法、僧帰依文の頭につける。
その前に、まず、仏陀への崇敬の念。
「祝福されし者、至上の存在、全き悟達に達した者を称える」を唱える。
次に「三帰依文」を唱え、更に五戒(殺さない、盗まない、犯さない、嘘をつかない、酒を飲まない」を誓うのだが、これら全部を三回ずつ唱えても3分もかからないだろう。
信者たちは、30分も40分も祈り続けているのだから、何を唱えているのだろうか。
少なくとも、家内安全や病気治癒、商売繁盛などの現世利益でないことだけは確かだ。
「神頼み」はあり得ないからです。
「神はいない」、頼れるのは自分だけというのが、上座部仏教の基本だからです。
仏法僧に帰依し、五戒を守り、身を律して修行に励めば、自己を改革することができる。
出家者ほど修行しにくい在家者は出家に寄進することで功徳を積み、昇天を願う。
修行が、とても重要な意味をもっていることが判ります。
修行を「難行」ととらえ、「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば昇天できると「易行」に力点をおいた日本の浄土真宗とは、まったく異なった仏教がここにはあります。
ましてや親鸞は妻帯者、仏教徒ですらありえないとスリランカ人は断じるでしょう。
2階から再び1階に降りる。
夜が明けて、本堂の外観が見えるようになった。
本堂は、16世紀に建立されたそのままの姿。
この本堂を包むように外側に建物を建て並べて、現在の仏歯寺は成り立っている。
本堂は手の込んだ木造建築ときらびやかな意匠が目を惹く。
定番のムーンストーンとガードストーンを通って、「新仏間」へ。
日本人にはなじみ深い仏像がある。
大乗仏教国から寄付されたものだろうか。
献花台で、若い男がジャスミンの花ビラで仏陀像を描いていた。
広いホールの両側の壁と柱には、24枚の絵と説明文が掛けられている。
絵の内容は、仏歯物語り。
仏歯がスリランカに持ち込まれ、侵略軍の手を逃れながら最終的にここキャンデイに落ち着くまでの歴史を描いている。
すっかり明るくなって、先刻までの喧騒が嘘のように、寺は静まり返っている。
喧噪ではあるが、それはブッダをリスペクトし、ブッダに帰依する信徒の強い信仰心のなせる業だった。
日本ではありえない、熱狂的信仰の渦中に身を置いて、スリランカを体感したかのように思った。
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