石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

130上野公園の石造物(6)

2017-08-27 06:39:06 | 公園

輪王寺は、国立東京博物館の東隣にある。

山門を入る。

「輪王寺」よりも「両大師」の表示が圧倒的に多い。

「両大師」は、「輪王寺」の俗称。

本堂である開山堂に、寛永寺開山の慈眼大師(天海)と比叡山中興の慈恵大師(良源・元三大師)を併せ祀っていることから「両大師」と称されている。

本堂が新しいのは、平成元年(1989)の火災で焼失したものを平成5年(1993)に再建したから。

全焼したのだから、大ニュースだったはずだが、私の記憶にはない。

50歳になったばかりで、仏教とか寺院にまるで無関心だったからだろう。

境内を歩くのは外国人ばかりで、日本人の姿はない。

いかにも今(2017年)の上野らしい光景ではある。

開山堂に向かって右にあるのは、阿弥陀堂。

阿弥陀如来の脇侍は、お地蔵さんと虚空蔵菩薩。

阿弥陀堂に対面するように覆い屋があって、石仏地蔵が2体おわす。

その隣の銅塔は、法華塔。

本堂前の青銅灯籠は、大猷院(家光)霊廟に奉献されたもの。

本堂に向かって右へ行く小径を行くと「輪王殿」なる会館へ出るが、その小径の右側に井戸と鐘楼がある。

井戸は石柱で蓋をされていて、中を覗けないが、刻字は読み取ることができる。

謹みて
 東叡開山の廟前に
 追孝の善縁に擬す
 夫れ漢水の潔きは仏心清浄の徳を表し
 法雲の勧頂は妙法を断たざらしむ
 時正保二年辛酉十月二日 弟子晃海

 晃海は、天海の弟子で、天海没後東叡山の元老として活躍した僧という。

 上野公園での井戸といえば、清水堂の「清水観音の井戸」が有名だが、上野の山には、数多くの井戸があった。

埋立地の江戸の町は、水の苦労が絶えなかった。

そうした中で、上野山だけは、水に恵まれた場所だった。

寛永寺敷地内には、いくつもの井戸マークがあり、各将軍の霊廟前にも必ず井戸があったといわれている。

東照宮には2か所、ほかに点在する茶店にも、商売上、つるべ井戸が不可欠だった。

 井戸の奥の鐘は、慈眼大師天海大僧正を師と仰ぐ家光公が奉献したもの。

本堂と輪王殿のしきりにある木戸は、下谷にあった幸田露伴邸から移築したもの。

露伴の代表作『五重塔』の主人公「のっそり十兵衛」は、寛永寺根本中堂を手掛けた大工の棟梁がモデルだったといわれている。(台東区教委の説明板より)

輪王殿前の門は、寛永寺旧本坊表門、国指定の重要文化財です。

江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、「東叡山の山王である」輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は3500坪(約1.5ヘクタール)という壮大なものであったが、慶応4年(1868)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。これはその焼け残った表門である。明治11年、帝国博物館が開館すると、正面として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。


門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく藥医門である。なお、門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦争の激しさがうかがえる。」(台東区教育委員会)

 輪王寺(両大師)の裏手は、寛永寺子院が立ち並んでいる。

 

 地図を上下に動かして見てください。

輪王寺(両大師)は、下部にある。

           現龍院

            等覚院

            覚成院

           修禅院

           春性院

            泉龍院

            吉祥院

            福聚院

          東漸院

           元光院

     林光院

           寒松院

寒松院は、伊勢津藩主藤堂高虎の戒名「寒松院殿道賢高山権大僧都」からとったもの。

藤堂家の屋敷は、今の動物園と東照宮にあったが、東照宮建立にあたり、屋敷を献上、東照宮の別当として寒松院を建てた。

このブログ「上野公園の石造物(5)」では、上野動物園内にある藤堂家の墓所の五輪塔群について触れている。

法名寒松院に関しては、家康を慕う高虎の心情が読み取れる有名な逸話がある。

元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。Wikipediaより。

 

 

            真如院

            見明院

             本覚院

本覚院には、延岡藩主でキリシタン大名の有馬直純の供養塔がある。

本覚院は、江戸期には山王台にあって、当時はこの供養塔の周りには12基ものキリシタン地蔵があったという。

現在地へ移る際、そのうち10基は、国立博物館に預けたことになっているそうだが、博物館の所蔵リストには見当たらず、行方不明。

境内の地蔵といえば、下の写真のお地蔵さんしかないが、これがキリシタン地蔵なのだろうか。

 本覚院の道を挟んで反対側には、寛永寺子院の墓地が広がっている。

施錠されていて、入れないので、こんなことを書いても無意味だが、中に家光に殉死した4人の大名の墓がある。

大名の家来の家来まで殉死したのだとか、太平の世と云われる家光の時代としては珍しい事件だったのではないか。

戦乱の世を生き抜いてきた藤堂高虎は、自分の死に殉ずる希望者が家臣に数十人もいることに愕然としたという。

わずかな年代の違いだが、家康の時代と家光の時代とでは、様変わりしていたことが分かる。

これら殉死者の墓がこの地にあるのは、家光の霊廟が上野にあるからなのだが、日光の大猷院殿の傍らにも4人の名を刻んだ石碑があるという。

 

墓域前の石塔「悲しみの東京大空襲」は、落語家・林家三平の妻、海老名香葉子さんが2005年に建立したもの。

毎年3月9日には、大勢が参加して、慰霊供養が行われている。(当ブログ「NO61東京大空襲関連の石仏・石碑」http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=237c42fed0294113e6ca8fd6e56ffd4b&p=7&disp=30をご覧ください。

 ここから上野駅方向に向かい、輪王寺角を右折、国立東京博物館へ。

石造物ではないが、2、3紹介しておきたいものがある。

一つは、ジエンナー像。

正門を入って右へ50mに立つ青銅像。

大日本私立衛生会が明治36年に建立したもので、なんと「種痘医祖善那君像」と刻されている。

台座の銘文も、いかにも明治調。

是に種痘医善那君の像をつくる。君は英国の人、良医を以て名あり。特に時に痘瘡の世に禍いするを患ひ、牛の痘種法を創む。西暦千七百九十八年に至り、初めて之を世に公けにす。その方流、各国に伝はり、五十余年を経て、我が長崎に入る。実に嘉永二年なり。遂に遍く海内に布く。さきに代日本立衛生会、君が像を鋳て以て徳を表はさんと謀る。朝野の人士、翕然として賛助す。東京美術学校に託して鋳造す。今ここに明治三十七年六月、官のゆるしを得てこれを帝室博物館の側に建つ。ああ民寿の域を躋(のば)す恵沢、すなわち記し以て後に告ぐ。 大日本私立衛生会 献納」

 文面が格調高く、激しいものだけに、忘れ去られたかのように、ポツンと所在なさげに立つ像のわびしさはひとしおです。

東洋館への道の両側には、石造物もある。

18-19世紀の、朝鮮の「文官」と「羊」。

場所が分かりにくいが、資料館裏手の校倉もお勧め。

日本最小の校倉で、鎌倉時代の遺構。

奈良の十輪院にあったが、寺が衰えて修理が出来なくなり、明治15年(1882)、ここに移したもの。

本来は大般若経六百巻の収蔵庫で、内部には、釈迦、十六善神、四天王の壁画がある。

床下はめ込み石に線刻されているのは、十六善神。

最後に、小泉八雲胸像。

立っているのは、子ども図書館の前だが、子ども図書館はかつては帝国図書館だったから、当を得ているというべきだろう。

胸像の上に幼児7人が壺を囲んでいるが、子ども図書館とは無関係。

正面には「小泉八雲先生」と刻し、左右側面には「文は尽す人情の美」、「筆は開く皇国の華」とある。

背面の書は、市河三喜の手になるものだが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、東大英文科の初代教授だった。

ちなみに二代目教授は、夏目漱石。


130上野公園の石造物(5)

2017-08-15 08:59:47 | 公園

右に上野大仏、左に時の鐘を見て進む。

突き当りを右折すると眼前に巨大な灯籠が現れる。

「お化け灯籠」です。

高さ約7m、胴回り3.6m。

大きいから「お化け灯籠」というのだが、いや、実際にお化けが出るのだという説もある。

落語家の三遊亭金馬が『うえの春秋』で紹介している説で、落語家らしい語り口を損なわないために、原文をそのまま引き写しておきます。

その頃徳川家へおべっかを使うには、十万石以上の大名でないと石灯籠は納められない。この佐久間さん(佐久間大善享平朝臣勝之)はわずか1万八千石。「そんな民主主義に反する事のあるべきや」と無理をして、その人たちより特別大きいものを納めたので、切腹仰せつけられ、有難くお受けして相果てたが、地獄へ行ってつくづく考えると有り難くない。夜な夜なこの灯籠の影へ化けて出て、通る人をポン引きのような手まねぎをしたので一名「お化け灯籠」。(須賀利夫『うえの春秋』P360)

 

お化け灯籠から左に目を移すと「上野東照宮」の大鳥居が目に入る。

「上野東照宮」は、寛永4年(1627)、藤堂高虎が僧天海と相談して、庶民が参詣できる権現さまをとこの地に創設した。

この大鳥居は、厩橋(高崎)藩主酒井雅楽頭源朝臣忠世が寛永10年に寄進したものだが、左の柱の背面に「奉再建之 享保十九年(1734) 酒井雅楽頭源朝臣忠知」の文字がある。

100年後に大鳥居はなぜ再建されたのか、大河原久弥『上野繁盛史』では、「故あって一時地中に埋められ、再び元の位置に建てられた」としか書いてなく、その理由は不明のままです。

ここで再び登場するのが、三遊亭金馬師匠。

なんと、鳥居は島流しになっていたというのです。

4月17日が東照宮のご命日で、代々の将軍がお成りになった。霊廟の入口の鳥居が十年間佐渡へ島流しになった問題の鳥居で、将軍お成りの前日、この鳥居のツカが落ちた。何か謀反があるのではないかと石屋を取り調べたが証拠はなく、無罪。ではこの鳥居が悪いというので遠島にされ、寛永十年に許されて元のところへ戻ってきた。鳥居を納めた人は、落語「三味線栗毛」で有名な「酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)」。ウタが乗る馬だからと持ち馬を三味線栗毛と名付けた。洒落た殿様である」。須賀利夫『うえの春秋』P360)

私の田舎は佐渡だが、東照宮の鳥居が流されてきた、なんて聞いたことがない。

果たしてそうした史実はあったのだろうか。

 

今回のタイトルは「上野公園の石造物」だが、石造物が沢山あるわけでもなく、石造物以外のものも取り上げてきた。

タイトルに偽りあり、でいささか後ろめたいが、ここ上野東照宮に限っては、胸を張って威張っていられる。

なにしろ石灯籠が280基もあるからです。

この280基もの石灯籠は、三代将軍家光が本殿を造営替えした慶安4年(1651)、全国の大名から寄進されたもの。

竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名、奉納年月日が刻されている。

石灯籠の火袋が黒ずんでいるのは、関東大震災で落ちた火袋を、避難民がかまど代わりにして煮炊きしたからだといわれている。

上野戦争や東京大空襲の戦禍を免れているので、火災の跡でないことは確か。

 

竈代わり説は、信ぴょう性が高そうだ。

石灯籠280基のうち、25基は元々大阪建国寺にあったもの。

大阪に幕府の睨みをきかせるために、天満に東照宮が建てられ、その別当として、建国寺が設けられます。

幕末、徳川嫌いの大阪人により、東照宮と建国寺はめちゃくちゃに荒らされるのですが、その事態に胸を痛めていた有志が石灯籠100基のうち25基を上野東照宮に送ってきたのでした。

池の端からの石段を上がっての参道左に建つ「重建石灯」碑にその経緯が刻されている。

 

石造物ではないが、青銅灯籠も50基ほどある。

奉献は、石灯籠と同じ東照宮社殿落慶の日、慶安4年4月17日。

灯籠だから照明用と思うが、神事、法会を執行するときの浄火を目的とするもの。

上から、宝珠、笠、火袋、中台、竿、基壇と重なっている。

青銅灯籠奉献者は以下の25人。

徳川頼宣(紀州)、徳川頼房(水戸)、徳川光義(尾州)、伊達忠宗(仙台)、松平光通(越前)、池田光仲(因州)、浅野光晟(芸州)、松平民部大輔(防長二州)、藤堂高次(伊勢)、森長継(美作)、細川六麿(肥後)、保科正之(会津)、黒田忠之(筑前)、池田光政(備前)、井伊直孝(近江)、前田利家(加賀)、松平直政(出雲)、松平光長(越後)、島津光久(薩摩)、佐竹義隆(出羽)、蜂須賀忠英(阿波)、有馬忠頼(築後)、上杉実勝(奥州)、松平忠義(土佐)、鍋島勝茂(肥前)

一人、一対で計50基になる。

基壇の獅子が鋳物師によって異なり、面白い。

 

本殿前に絵馬が重なるようにかけられている。

英語あり、ドイツ語あり、中国語あり、国際色豊かだが、日本の神様だからか、外国人も日本語で書く人が多い。

日本語で書いたからからと云って「日本の女子と付き合えるように」という台湾人の願いを権現様は聞き届けてくれるとは思えないが。

 

 参道の行き止まり、本殿前の右側に句碑が3基。

川柳もあるようだ。

手前から

乱世を汲まむ 汲む友あまたあり 三柳

盃を挙げて 天下は廻りもち 周魚

富貴には 遠し年々 牡丹見る 鉄之介

句碑の後ろは、動物園で、五重塔がそびえている。

五重塔は、国の重要文化財。

寛永16年(1639)に建立され、上野戦争、関東大震災、東京大空襲の災禍にもあわず、、江戸初期の建築様式を今に伝えています。

東照宮所属の五重塔は、明治の神仏分離令で破壊される運命にあったものを、当時の宮司の機転で、寛永寺所属として申請、取り壊しを免れます。(現地説明板より)

下の写真は、動物園に入って、撮ったもの。

動物園に五重塔があるとは知らなかった。

知らないといえば、動物園には、この地に下屋敷があり、上野東照宮の別当寒松寺を創建した藤堂竹虎の墓があることは、ほとんど知られていない。

戦争中餓死した動物の慰霊塔の背後にめぐらされた柵の上にちらっと見える五輪塔がそれ。

柵の間から見るとその数の多さに驚く。

周囲が賑やかなだけに、隔離され、忘れられた遺跡の孤立感が際立っている。

動物園を出て、東進すると右手の空き地奥に「グラント将軍植樹碑」がある。

アメリカ大統領を辞めたばかりのグラント将軍は、明治12年(1879)来日した。

ここ上野公園での歓迎会で、将軍は、ローソン檜を、夫人は泰山木を記念に植えた。

約140年後、2本の記念樹は大木となっているというが、植物に無知、無関心の私には、どれがその記念樹なのか、特定できない。

グラント将軍植樹碑を背に北上、大噴水の左の木陰に説明板があって、「寛永寺根本中堂跡」と読める。

江戸時代、言上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。いま噴水池のある一体を、俗に「竹の台」と呼ぶ。

そこには回廊がめぐらされ、勅額門を入ると根本中堂が建っていた。根本中堂は寛永寺の中核的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。(中略)

中堂前両側には、比叡山延暦寺中堂から根分けの竹が植えられ、「竹の台」と呼ばれた。慶応4年(1868)、5月15日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。(台東区教育委員会)」

木立に一人、老人がポツネンと座している。

浮浪者だろうか。

1990年代、この辺りはブルーテントが密集していたのを想い出す。

問題が多発するから行政はテント村を排除したのだが、私はブルーシート村のある上野公園が好きだ。 

 

ボードワン博士像と刻されているが、ボードウインが正しいらしい。

上野公園生みの親としてられている。

上野戦争で荒廃しきった上野山に大学病院建設計画が持ち上がり、現地視察に来たオランダ軍医のボードウイン博士は、病院よりも公園建設を熱心に勧めた。

いまは、イケメンの青年像だが、11年前建て替えられる前は、中年の外国人像だった。

この中年男性は、ボードウイン博士の弟で、建像に用いられた写真が間違っていたのだという。

この話を聞いて、私が不思議でならないのは、「誰がその間違いにきづいたのだろうか」という疑問。

そして、150年前の人物像が兄弟の取り間違えだからと分かって、銅像を建て直す人たちがいることにも驚く。

 

 

 


130上野公園の石造物(4)

2017-08-05 14:04:59 | 公園

近年、外国人観光客は増える一方だが、彼らの人気スポットの一つが京都の伏見稲荷。

朱色の千本鳥居が強烈な異国情緒を放つらしい。

稲荷神社は全国に展開していて、中にはミニ千本鳥居がある神社もある。

上野公園の花園稲荷神社もその一つ。

千本鳥居ならぬ「百本鳥居」があって、カメラを構える外国人が後を絶たない。

最近は「パワースポット」なる言葉が流行っている。

この花園稲荷は縁結びのパワースポットとして、特に未婚の女性に人気が高いのだそうだ。

絵馬が掛かっている。

定番の「〇〇さんと結婚できますように」が多いが、「運命の人、小泉進次郎さんと結婚できますように」と書いた絵馬がある。

政治家は、大変だな、ってつくづく思う。

英語や中国語、ハングルの絵馬が、外国人観光客の増加を反映している。

神社本殿の前に通路が伸び、その左に鳥居が見える。

鉄柵の扉があるが、中へ入れそうなので、入ってみる。

突き当りの壁に「穴稲荷」の説明板がある。

正しくは忍岡稲荷と云い花園稲荷の旧跡である。左奥のお社は、寛永の初め天海が寛永寺を草創の際に忍ケ岡の狐の住処を失った事をあわれみ一洞を造りその上に祠を建てて祀ったものと云われている

突き当りの祠が説明された穴稲荷のようだ。

この穴稲荷の洞窟には、もう1か所横穴が掘られていて、ここが奥の院。

鉄柵でふさがれて、中を覗いても暗くて何も見えないが、資料によると石碑が1基、収められているという。

非公開なので誰も見ることはできないのだが、幸い資料が手元にあるので、転載しておく。

東叡山中、西岸の池の辺、昔、一祠あり、伝えて曰く、稲荷神宮と。ただその跡あり。宮社廃絶す。予、霊夢により、まさに再興せんとしていわく、すなわち巌窟の中に、新たに金銅の神体を納め、かつ宮祠を造り、もつて当山の擁護に擬す。霊神に祈りていわく
天下清平 仏法安寧
諸願如意 永劫妙霊
時承応甲午三年(1654)仲冬十一月吉日  権僧正法印晃海」 (原文は漢文)
               古宇田亮宣『上野公園およびその周辺の諸銘碑』より

     穴稲荷の中から外を見た風景

花園稲荷神社を出て左へ。

「精養軒」にぶつかるが、そのレストランに向かって左の崖上に「時の鐘」がある。

「花の雲 鐘は上野か浅草か」芭蕉

芭蕉の有名な句の、「上野」の鐘はまさにこの鐘を指す。

実は「上野の鐘」は二つあって、もう一つは寛永寺本堂前にあった。

こちらは法要用の鐘で、幕末の上野戦争で寛永寺が砲火に包まれた時、焼失した。

時の鐘は、2時間おきに時報を告げていたが、今は、朝夕6時と正午の三回、昔ながらの音を響かせている。

鐘の銘は

東叡山大銅鍾
 天明七丁未歳八月(1787)
 一切衆生 悉有仏性
 如来常在 無有変易

経文は涅槃経から撰んだ2句。

鐘に近寄れないので、経文や菊花紋の写真はない。

 

上野公園に大仏があることを知らない人が多い。

しかもその大仏の売り文句は、「顔をなでることができる」。

大仏といえば、誰もが、奈良や鎌倉の大仏を思い浮かべることだろうから、「顔をなでられるって、どういうこと?」といぶかるに違いない。

行ってみれば分かるが、大仏の顔だけがある。

かつてこの地は、越後村上藩主の屋敷だった。

寛永寺草創の直後、藩主は屋敷内に大仏を建立する。

火災や地震で何度も倒壊したが、その都度再建されてきた。

しかし、関東大震災で首が落下した際は、資金が集まらず再建されなかった。

そうこうするうちに昭和15年(1940年)、胴体部分が軍需金属として軍に供出されることになり、結果として、大仏は頭だけを残すことになった。

売店を覗く、と「合格祈願」のお守りだらけ。

「もうこれ以上、落ちることはない」からと、受験生に人気が高いのだそうだが、私には、浪人にしか祈願資格がないように思える。

「もうこれ以上落ちることはない」ということは、一度以上落ちた人の言葉だから。

 

大仏からの戻り路、お地蔵さんが立っている。

上野公園で唯一のお地蔵さんではないか。

地蔵の背面にも台石にも文字は見られないので、由緒は不明だが、対面の宝篋印塔は、対照的に文字があふれている。

関良雪という新人深い画家の懇願を受けて、彼の死後、この地に宝篋印塔を建て、陀羅尼を安置した経緯が刻されている。

資金提供者に関良雪の妻浄因の名前がある。

 珍しいのではないか。