夜通し降り続けた雨が上がって、旅館を出る頃は快晴だった。
ひたすら三国(さぐり)川沿いに上流へ向かう。
三国川ダムの堰堤に立つと谷筋のようすがよく分かる。
よく分かる、と言っても見えるのは、最奥の集落・清水瀬だけ。
張り出した山と山の向こうに、これから行く舞台集落が見えるが、その向こうに広がっているはずの六日町市街は見えません。
幾重にも左右から山がせり出すということは、多くの沢が流れ込むことであり、「多い」=「五十」で、五十沢(いかざわ)という地名になった。
水が豊富だからダムが建設されたのだが、なんと石も豊富な土地なのです。
堰堤からダム湖を見下ろすと、コンクリートのはずが石垣になっている。
あり余る石を使っての、流行りことばで云えば「地産地消」。
太良兵衛も石材には苦労しなかったはずです。
①石仏・石碑(野中の観音堂)
ダムから下って、新清水瀬橋を渡るとそこが野中集落。
無人野菜販売所に老女が3人。
「観音堂はどこ?」と訊くが、「知らない」とそっけない。
何度とかやり取りしていると「観音堂は知らないが、観音さんなら知ってる」ことが分かってきた。
「頭の固いばばあは嫌いだ」と心の中で悪態をつきながら「観音さん」に向かう。
30mも離れてないすぐ裏手が観音さんだった。
田んぼに向かって石造物が2列に並んでいる。
現場にいるときは知らなかったので、アップを撮ってなかったが、どうやら後列右から3番目が太良兵衛作品らしい。
しかし、アップにしたところで、文字が読めるはずもなく、無意味なような気がする。
帰りに無人野菜販売所を覗いたが、誰もいなかった。
ナスを買って、100円を籠へ。
売り手の「頭は固かった」けれど、ナスは柔らかくてうまかった。
2 二十三夜塔、蠶霊大神(舞台入口)
野中から下ってゆくと「舞台入口」の標識がある。
その少し先に4基の石塔。
3基は二十三夜塔で、1基が蠶霊大神。
二十三夜塔の真ん中は、畦地観音堂の二十三夜塔に文字が似ている。
養徳寺住職・専頂代の書ではないか。
蠶霊大神があるということは、養蚕もしていたことになる。
農地が狭いから、林業も養蚕も機織りも何でもやらなければ、生活が成り立たなかった。
石工専業の太良兵衛は珍しい存在だったことになる。
4基とも太良兵衛の作品だが、当然だろう、なにしろこの左上に彼の家があるのだから。
集落全部が小高い丘にあるから「舞台」というのだそうだ。
墓地の背後、丘陵の集落が舞台。下を走る道路から家々は見えない。
市の有形文化財に指定されている『大福細工覚帳』は、太良兵衛の家にそのまま残されている。
本物を見たい気持ちは山々なれど、研究者でもない素人がお願いする筋合いでもなさそうなので、子孫が住む家には近寄らなかった。
前回の前篇でも書いたが、太良兵衛は石工として格段に技量が優れているわけではない。
名工で名高い、高遠の守屋貞治などと比較すべくもない。
太良兵衛に存在価値があるとすれば、多作であることとそのすべての記録を残したこと。
では『大福細工覚帳』には、どんなことが書かれていたのだろうか。
曽根原駿吉郎『太良兵衛の石仏』に太良兵衛が記録をつけだした文化6年(1849)の、最初の記録があるので、転載しておく。
当然、原本は縦書きです。
なお、〇 一両事也
☐ 一分事
▲ 一弐朱事
● 百文事
文化六年
1 地蔵 一 ●● 舞台 杢右衛門
1 石塔 三
☐●● 畦地新田 七兵衛
1 観音 三
1 石塔 一 ●●● 京岡村 新兵衛
1 観音 一 ●●三十文 水堀 平吉
1 石塔 一 ●●●●● 長松 五右衛門
1 石塔 二 ●●●●●● 水堀 治郎右衛門
1 石塔 一 ●●五十文 長松 三之助
1 四面石塔 一
☐ 畦地 久右衛門
1 観音 一
1 観音 一 ●● 同村 太郎助
1 石宮 一 ●●●●● 同村 山ね
1 石塔 二
●●●●●●● 清水瀬 清右衛門
1 観音 一
1 石塔 一 ●●● 同村 儀兵衛
1 観音 一 寄進 舞台 長兵衛娘はる
1 石塔 一
●●●五十文 同村 吉右衛門
1 観音 一
1 石塔 一 ●● 新屋 太兵衛
1 石塔 一 ●●● 宮村 安佐衛門
1 石垣 一 ●●● 新屋 重兵衛
1 石塔 四
●●●●●● 土沢 光明院
1 二十三夜塔 一
1 石塔 二 ●●●●●● 宮村 仙五郎
1 観音 一 ●●五十文 干溝 庄右衛門
1 石塔 一 ●●● 水堀 磯右衛門
1 観音 一 ●●●七十文 畦地新田 清右衛門
1 石塔 一 ●●● 蕨野 助右衛門
1 観音 一 ●●● 一ノ又度 庄蔵
1 石塔 一
●●●●● 蕨野 弥右衛門
1 観音 一
1 石宮 一 ●●●●● 野中 林
1 石塔 一
●●● 土沢 平治郎
1 地蔵 一
1 観音 一
●●●● 舞台 武左エ門
1 地蔵 一
1 石塔 一 ●●●●● 野中 治右衛門
1 道祖神 一 ●●●● 蕨野 弥右衛門娘おとい
1 馬頭観音 一 ●●四十文 舞台 幸右衛門
1 地蔵 一 ●二十文 同 与左衛門
1 石塔 一 ●八十文 蕨野 太良兵衛
1 石塔 三
●●●●●五十文 畦地 孫左衛門
1 観音 一
1 石塔 一 寄進 同村 徳右衛門
1 地蔵 二 ●●十文 清水瀬 松右衛門
1 石塔 一 ●●五十文 中川 利左衛門
太良兵衛が独り立ちした最初の年、制作、販売した基数58基。
1週間に1基強というハイペースです。
40年間の平均ペースは、5日で1基。
果たして独りでやっていたのか、疑問が残る。
石工の仕事は、彫るだけではなく、石材を山から切り出すことも含まれるからです。
ちなみに高遠の名工・守屋貞治の生涯制作点数は336点。
貞治の作品は大型の石仏で芸術色が強いのに対して、太良兵衛作品は小さな半肉彫りや文字塔が多い。
だから、制作しやすいということはあるにしても、生涯3000点という数字は、驚異的だといわねばなりません。
『大福細工覚帳』の特色の一つは、価格が書いてあること。
石工・太良兵衛の年収はどれほどだったのか。
因幡純雄氏の計算によれば、天保3年(1832)の制作点数52点の売り上げは、5両2分400文。(1両が4分、16朱、4000文として計算)
同じ年、塩沢全体の、塩沢縮1万6000反の売り上げは、1万1000両だったから、1反は1両に満たなかったことになる。
一人で、どのくらい織ることができるかと云うと、冬季だけだと1反、通年で3反がいいところだそうだ。
太良兵衛は、機織り人の2倍の収入があったことになります。
太良兵衛の墓があると聞き、寄って来た。
「先祖代々の墓」の下に屋号の「吉右衛門」。
吉右衛門は、太良兵衛の父親の名前でもあります。
太良兵衛本人の墓は、家の墓域の背後にせせこましく並ぶ5基の石造物の真ん中。
この墓地で目を引いたのは、石室の六地蔵。
雪に埋もれない配慮でしょうか。
豪雪地帯ならではの石造物です。
3 石宮、猿田彦像(宮の坂本神社)
境内片隅に4基の石造物。
左は大小の石宮。
とりわけ小さい石宮は、まるで素人の作品みたいだが、れっきとした太良兵衛作。
裏に刻されたマークが彼の作品であることを物語っています。
「素朴な 」という形容詞は、この石宮のためのことば、と云いたいくらいです。
猿田彦像は、曽根原氏の見立て。
「役行者像ではないかと思ったが、上部に雲形が刻んであるので、すぐ猿田彦の石像と分かった。猿田彦は、天孫降臨の際天照大神を案内した神であるから、日本人にとっては、なじみ深い神であるが、石に彫ったものは、ほとんど見られない。多作の太良兵衛にしても、猿田彦像はこの一体しかつくっていない。」(『太良兵衛の石仏P188』)
4 二十三夜塔、石橋(田崎の日吉神社)
五十沢から昔の隣村、城内地区へ。
石工としての年を経るごとに、太良兵衛の顧客範囲は広がって行った。
五百沢村外の初めての注文は、隣村の城内村からだった。
城内・田崎の日吉神社には、太良兵衛作の他に、注目すべき作品がある
。
上の写真で中央に位置する鳥居がその注目石造物。
曽根原氏によれば、太良兵衛の父吉右衛門の造立したものという。
曽根原氏もその出所を明示していないので、定かではないが。
父吉右衛門は、高遠の旅稼ぎ石工だった。
その腕を見込まれ、舞台の大塚家に婿入りし、地つきの石工になった。
この写真では見にくいが、鳥居の奥の石橋は、太良兵衛の作。
この石橋は人しか渡れないからそのまま残っているが、車が通れる石橋は、石工の計算以上の重量に堪えられず、折れたり、へこんだり、使用不能になってしまっているのが多い。
すっきりと洒脱、太良兵衛の持ち味か。
左の燈籠と狛犬の奥の二十三夜塔も太良兵衛作。
裏の印がその証拠。
こんなにはっきり見えるのも珍しい。
それにしても二十三夜塔の書体は、養徳寺住職専頂代のものではないだろうか。
養徳寺前の二十三夜塔の書を、その後もあちこちで流用しているように思われる。
5 百八十八番供養塔(田崎の亀福寺)
亀福寺の本堂が、私は好きだ。
火灯窓があるので、禅寺かと思ったが真言宗寺院だった。
軒下に冬用の薪がうず高く積み重ねられている。(写真では、日陰になって見えにくい)
無数の丸い年輪は、まるでデザイン画のよう。
その亀福寺への参道わきに立つのが、百八十八番供養塔。
「四国、西国、坂東、秩父供養 法印泉能」と刻されている。
「台石は畦地石」と『大福細工覚帳』に書いてあるという。
江戸時代後期、経済的余力のある庶民はやたら旅に出始めた。
太良兵衛もその一人。
彼は、生涯に3度、おおきな旅をしている。
最初は、文政10年(1827)、太良兵衛38歳の時で、伊勢神宮から大峯山へ入り、大坂、京都を観光して帰国。
二度目は富士登山。
小川養徳寺の隠居坊主能寿師と富士山に登り、その後、秩父霊場を巡り、江の島、鎌倉、江戸、日光を遊山しています。齢55歳でした。
最後は、弘化4年(1847)の善光寺参り、この翌年、逝去。
太良兵衛は、旅の記録を残してはいない。
以上3度の旅は、蔵書の裏書の購入場所からの推定。
もしかしたら、もっと旅に出ているのかもしれません。
6 地蔵座像(藤原の墓地)
広大な水田をバックにデンとお地蔵さんが座して在す。
文政3年(1820)、太良兵衛31歳の作品。
逆光で、私のカメラ技術では、顔の表情まで捉えられない。
ふっくらとした丸顔に穏やかな顔立ちは、太良兵衛に違いない。
印も見える。
太良兵衛は、地蔵を533点制作している。
二世安楽を願う人々の気持ちがいかに強かったか、その反映と云えなくもない。
ちなみに一番多いのは、如意輪観音で、731点だった。
7 二十三夜塔(下原の集会場)
集会場の小屋の後ろに、大きな体を小さくして居心地悪そうに佇んでいる。
曽根原氏の『太良兵衛の石仏』には、四辻の一角に立っているとある。
『太良兵衛の石仏』は、1971年刊。
43年も経てば、有為転変は当然、四辻からここに移転してきたらしい。
文字はこれまた養徳寺住職泉頂代の書。
変わっているのは、上部に勢至菩薩が浮彫されていること。
元々は彩色されていたようで、朱色がかすかに残っている。
石塔の大きさから、この地での二十三夜講の賑わいが偲ばれる。
8 千部塔(長森の善照庵)
向こうの朱色の屋根が善照庵。
長い参道入口左に「法花千部塔」は立っています。
千部塔とは、大乗妙典(華厳経、大集経、般若経、法華経、 涅槃経)を一千部読誦した供養塔のこと。
台座の刻字は「経曰若有聞法者無一不成仏」。
太良兵衛の『大福細工覚帳』には、この塔の細工日数126日と記載されているとは、曽根原氏の言。
多作の太良兵衛にしては、手間暇がかかりすぎているようだが・・・
寺の赤い屋根が見える写真に戻ってほしい。
塔の下の花立は、太良兵衛が寄進したものだそうです。
以上で、太良兵衛の石仏紹介は終わり。
短い滞在時間の中で、これだけ見て回れたのは、市役所から提供された克明な資料があったからです。
改めて、南魚沼市社会教育課文化振興係の担当者にお礼申し上げます。
太良兵衛が石工として活動した江戸後期は、天災による慢性的飢饉が人々を苦しめていました。
しかし、それでも全体的には庶民の懐は緩やかに上昇し続けていました。
土葬の上に自然石を置く墓から石柱墓標や石仏墓標への移行は、庶民の経済的余裕の現れでした。
『太良兵衛の石仏と六日町の近世』の筆者、因幡純雄氏によれば、五十沢地区畦地集落の場合、太良兵衛の現役40年間に畦地からの注文は118点、畦地の戸数は30軒ですから、1軒あたり4点、つまり10年に1点は各家から注文があったことになります。
石造物の寿命を考えると、前のがなくなったから、ではなく、新たな追加注文であり、そこには庶民の豊かな台所事情と信仰心の篤さが伺えます。
こうして越後の農村の台所事情が、石造物を通して、具体的に知ることができるのも、太良兵衛が制作ノート『大福細工覚帳』を残したからでした。
六日町の産業史の貴重な史料として、「大福細工覚帳」は南魚沼市の文化財として指定され、太良兵衛の子孫・大塚家に保管されています。
原本の管理は厳重にする一方、『大福細工覚帳』の原本コピーを市立図書館で自由に閲覧できるようにしてはどうか、これは私のささやかな提案です。
自由な閲覧は、太良兵衛石仏への興味関心を広げ、研究の深度を「深める」ことになると思うからです。
≪参考図書≫
☐曽根原駿吉郎『太良兵衛の石仏』講談社 昭和46年
☐新潟県立歴史博物館『石仏の力』平成25年
▽駒形宏「太良兵衛の石仏を尋ね歩いて」(1)(2)
▽因幡純雄「太良兵衛の石仏と六日町の近世」
▽池内紀「かくれ里」
*▽はいずれも掲載誌失念。