石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

131花巻市の五・七庚申塔

2017-06-25 09:28:30 | 庚申塔

現代は情報化社会だから、初めての観光地でも初めてのような気がしない。

その観光地のメインスポットの写真を何度も見ているから、感激が薄い。

興味のあることなら、関連情報が向こうの方から飛び込んでくるような気がする。

だから、五庚申塔、七庚申塔と聞いて、「え、そんなのあるの?初めて知った」といささか驚いた。

     七庚申塔(花巻市鍋倉)

 

あなたは、知ってましたか。

五庚申塔と七庚申塔が特に集中しているのは、岩手県花巻市で、ほかに宮城県北部、秋田県、山形県、青森県など東北地方にあるといわれています。

   花巻インターチェンジ空撮

花巻市の和讃念仏塔については、このブログでも取り上げたが、その際、五・七庚申塔の写真も撮ってきたので、今回はその報告です。

 

まずは、五・七庚申とは何か、から。

「庚申」とは、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が組み合わさったもので、60日(年)ごとに回ってくる。

一年は365日だから、基本的には6回だが、年によって、7回だったり5回だったりする。

明治以降の五・七庚申年を列記すると

明治12年(1879) 七庚申
明治22年(1889) 七庚申

稲荷神社(穂塚) 明治22年閏12月19日

明治33年(1900) 七庚申

 

 稲荷神社(二枚橋)明治33年7月11日   

明治35年(1902) 五庚申
明治36年(1903) 七庚申
明治44年(1911) 七庚申
大正元年(1914) 五庚申
大正3年(1914)  七庚申

 熊野神社(椚の目)大正3年10月1日

大正14年(1925) 七庚申
昭和11年(1936) 七庚申

 熊野神社(椚の目) 昭和11年4月

初和22年(1947) 七庚申
昭和23年(1948) 五庚申
昭和24年(1949) 七庚申
昭和34年(1959) 五庚申
昭和35年(1960) 七庚申
昭和63年(1988) 七庚申

 路傍(鍋倉) 昭和63年1月6日初庚申日

7回の年を七庚申年、5回の年を5庚申年と呼び、七庚申年は豊作、五庚申年は凶作という伝承があったらしい。

宮沢賢治は、七庚申年も五庚申年も凶作と恐れていたようで、「庚申」と題する詩がある。

歳に七度はた五つ、庚の申を重ぬれば、
稔らぬ秋を恐(かしこ)みて、家長ら塚を理(おさ)めにき、
汗に蝕むまなこゆえ、昴の鎖の火の数を、
七つと五つあるはただ、一つの雲と仰ぎ見き。

さらに、かの有名な「雨ニモ負ケズ」の作詞手帳の終わりのページに、「七庚申・五庚申」を色鉛筆で描いた戯画的スケッチもある。

宮沢賢治の庚申信仰の度合いをうかがわせるエピソードです。

では、五・七庚申塔は、庚申塔全体の何割か。

花巻市では、庚申塔総数が308基でその約40%の122基が五・七庚申塔。

しかも、その122基のうちたった7基が五庚申塔で、大半の107基は七庚申塔が占めています。(平成元年)

 五庚申塔(羽山神社・台)

理由は定かではないが、五庚申と七庚申を並立した「五七庚申塔」もある。

   熊野神社(小瀬川)

写真では見にくいが、石塔の上部に横に、五 七と刻してある。

造立年月日は不明で、その造立理由もわかっていない。

 

五・七庚申塔の造立時期を見ると、圧倒的にその年最後の庚申日の造立が多い。

稲荷神社(穂塚) 明治44年12月27日

伝承では、七庚申念は豊作ということになっているので、年末に豊作を神に感謝したと考えれば理屈は成立するが、五庚申の凶作の場合はどうなるのか。

 延命寺地蔵堂(滝ノ沢) 昭和12年 七庚申塔の右に「日月清明」、左に「百穀豊穣」とある。

年初めに「凶作にならないように」と祈願するのは自然だが、凶作だった年末に神にかける言葉はなさそうだ。

伝承と実際の庚申行事とは無関係だったことになる。

史実的にも、五・七庚申年と東北地方の冷害被害とは重ならないと言う。

伝承が非科学的であることは明白のようだ。

それにも関わらず、五・七庚申年に、庚申塔の造立が相次いだのは、豊作期待と凶作忌避の気持ちがそれだけ強く農民たちにあったからであろう。

         稲荷神社(穂塚)の七庚申塔群

江戸時代には普通の「庚申塔」ばかりで、五・七庚申塔は少なかったのに、明治に入ると途端に激増したのはなぜなのか、これもまた興味あるテーマだが、それはいずれまた後で。

≪参考図書・文献とウエブ≫

〇花巻市老人大学院学芸部『花巻の石碑ー花巻市石碑調査報告書ー』平成元年

〇嶋二郎『岩手の庚申塔』ー五七庚申塔をたずねてー(『日本の石仏』NO99、2001年春号)

〇「宮沢賢治の里より」―七庚申と五庚申ー
  http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/59fed7d0a8abefe86e5ed5b0aedcbfaf

 


121御霊神社(前橋市元総社町)千庚申の無惨-2-

2016-04-28 05:48:18 | 庚申塔

一石百庚申などの多文字庚申塔9基を含む千庚申(実際は、262基)を有する前橋市の御霊神社が、市の区画整理事業ですっかり様変わり、鬱蒼とした森と立ち並ぶ庚申塔群が姿を消したことは、前回、報告した。

262基の庚申塔は、廃棄されずに保存されているから、完全復元は無理としても、何らかの形で、新しい境内にもどされる可能性が高い。

一石百庚申塔が9基も一か所にあるのは、極めて稀有なケース。

折角前橋まで行ったので、乱雑に置かれた石塔群から、多文字塔だけを選んで、紹介します。

写真だけは私が撮ったものだが、紹介文と拓本は『野仏ー第33集ー』の「群馬県前橋市元総社町の千庚申」(縣敏夫)からの引用と借用です。(引用部分は青色文字に)

 

前回も掲載したが、御霊神社千庚申の配置図は下図の通り。

まず、配置図の下部を見てほしい。

参道入口で、左側の一番手前に「五霊社/千庚申/入口」の道標が立っていた。

道標から2mおいた所には「奉造立千庚申供養」の總供養塔があった。

いずれも見当たらないだろうと思っていたが、運良く発見することができた。

肝心の一石百庚申塔6基は、配置図上部の要石「庚申」の下に右、左と三段に配置されている。

2番は、隷書の「青面金剛尊」を主銘として、それを取り囲むように「庚申」百文字が配置されている。

裏面に「萬延元年庚申三月庚申日/遺幻大順拝書」とある。

「大順」は、要石の書を書いた法橋智則の号

配置図3番、4番は見当たらないので、拓本だけを載せておく。

3番。

篆書の「青面金剛王」を主銘に、その周辺を篆書、隷書、行書、楷書の「庚申」が取り囲んでいる。

上部左右に瑞雲に乗る日月を配す。

4番。

「6基の百文字塔の中では、特徴のない平凡な塔」と筆者の縣さんは断じている。

 5番は、1番に乗りかかるように仰向けになっている。

主銘の「青面王」は隷書で、「王」の横棒が4本なのは、変化を持たせるためとは、縣さんの言。

背面の供養者筆頭に「長尾雅楽丸」とあるのは、当千庚申の主催者神徳院智常の長男です。

 

6番は、主銘の「猿田彦大神」を、百種類の書体で悉く違った「庚申」が取り囲んでいる。

主銘を揮毫したのは、吉田神道の棟梁卜部氏による「神祇管領上長」を称した、最高の正二位で卜部朝臣江延。(意味不明のまま書き写すのもしんどい)

一方、碑面の百文字を異なる書体で書いた米山高柳有孚は、藤岡市下栗須の代々名主の家に生まれ、名を為七と称した

彼は、安政5年(1858)に47歳で没しているので、この百文字はあらかじめ書き残しておいたものを、なくなってから2年後に造立したことになる

下部には、枠の中に一石齋暉貞の筆になる、御幣を担ぐ猿と二鶏が浮き彫りにされている

7番は、枠の中に「青面王」と横書きにし、その下にさらに枠を設けて「庚申」百文字を配する。

これで、百庚申塔(正確には、主銘を入れて百一庚申塔)は終わり。

この他に五十庚申塔が3基ある。

いずれも朱線で囲われた百庚申塔群の下、左右両側10基の中にある。

青面金剛の種子(ウーン)を主銘とする五十庚申塔。

背面に「庚申年二月満徳日」とあるが、庚申日を萬徳日とする例は珍しい

以下2基も五十庚申塔だが、縣さんは「特徴のない塔」と冷たい。

254基もあるから変わり種もいくつかあるが、裏返しになって見つけられない。

書体の変わり種が2基並んでいるので。これだけを載せておく。

左は、篆書で「庚申」、右は、草書で「青面金剛尊王」と刻されているのだそうだ。

 

鬱蒼とした神社の森の暗がりに250基もの庚申塔が整然と並び、百庚申塔群がその中央を占める壮観な光景を期待して前橋まで行ったのに、様変わりした境内と粗大ごみのように置かれた千庚申を見て、ショックを受けた。

なぜか、むしゃくしゃして気分が晴れないまま、ブログに書いてきたが、誰もこんな庚申塔のことなんか見向きもしないだろうな、何をやっているんだ、俺は、と情けない思いがよぎる。

3,4年後、元気だったら、どのように復元されたのか、見にゆくつもり。

ブログを続けていれば、その模様を報告します。

参考資料に頼りすぎなのは、いつものことだが、今回は、縣さんの『前橋市元総社町の千庚申』におんぶにだっこ、まるで盗作のようになった。

改めてお詫びをし、お礼申しあげます。

 


121御霊神社(前橋市元総社町)千庚申の無惨-1-

2016-04-23 05:51:32 | 庚申塔

『野仏』という冊子がある。

「多摩石仏の会」が年1回刊行する機関誌です。

なかなかハイレベルな内容で、私などは、半分も理解できない記事もある。

その『野仏』第33集に「群馬県前橋市元総社町の千庚申」が載っている。

元総社町にある御霊(ごれい)神社の千庚申、実際には254基の文字庚申塔全部の碑文を紹介する記事。

肝心な碑文は、拓本を添付する念の入れようで、その労力、いかばかりかと感服するばかり。

労力ばかりではなく、筆者の知力もすごい。

碑文を揮毫した書家から書体まで、その考察は及んでいる。

254基の大半は、「庚申」、「庚申塔」、「猿田彦」、「青面金剛」などの単文字塔だが、9基だけは多文字塔、いわゆる一石百庚申塔なのです。(正確には、百一文字塔が6基、五十一文字塔が3基の、計9基)

一石百庚申塔を見るのは初めてではないが、9基も一か所にあるのは、見たことがない。

254基もの庚申塔が群立する光景と合わせて、一石百庚申塔群を見てみたい、と『野仏』を持って、2月上旬、前橋に向かった。

電車の中で御霊神社を検索、写真で拝殿の雰囲気をつかむ。

『野仏』の記事にも「塔の造立場所は光線に乏しく」とあるから、かなり鬱蒼とした森の中にあることが予想される。

駅前でレンタカーを借りる。

赤城おろしが冷たい。

「著名な総社神社裏手の交差点より、北方に二つの森が見え、左が御霊神社」とあるが、現地に近づいても森は見えない。

やがて、「目的地に到着しました」とナビ。

車を降りる。

農地ではない空地が広がっている。

トラクターやトラックの轍が縦横に走り、伐ったばかりの大木の切り株があちこちに見える。

通りがかりの人に訊いたら、確かにここが御霊神社で、市の区画整理事業で、境内の森は全部伐採されたとのこと。

そういえば、小さな祠が小高い場所にある。

「御霊神社」の扁額が見える。

鬱蒼とした森の中の神社をイメージしていたので、これが探していた「御霊神社」だとは、気付かなかったのも無理はない。

傍らに「御霊神社と長尾氏由緒」の看板がある。

長文の末尾に、千庚申の由来が書いてある。

境内の千庚申は殿小路町阿弥陀寺町の世話人によって万延元年庚申年に祭礼ができる様万延元年以前三年から石屋に依頼して元総社村中、大友村、石倉村全戸から一体ずつの庚申塔の寄付を仰ぎ・・・」。

千庚申の由来は分かった、が、肝心の庚申塔群はどうしたのだろうか。

それらしきものは、1基もない。

歩き回って探してみる。

境内右横の住宅の向こう側の空き地に、あった。

あったが、それは無残な状態だった。

遠くからの見た目では、石ばかりの廃棄物置き場に見える。

保存されている感じがしない。

区画整理が終わって、千庚申を復元するのなら、一基ずつ番号を打ってあるはずだが、そうした形跡はない。

復元と言っても以前の配置に戻すのではないのだろうか。

御霊神社の創設家は長尾家、と持参資料にはある。

神社の隣の家の表札は「長尾」なので、声をかけてみた。

応対してくれた女性は、「市役所で訊いて」という。

 

帰宅して、前橋市役所に電話で聞いてみた。

「御霊神社の千庚申」と言ったら、交換手は、文化財保護係につないだ。

だが、担当者は御霊神社の千庚申については全く知らないと云う。

「市の指定文化財ならばともかく、それ以外の文化財となると手が回らなくて・・・」。

一石百庚申塔が9基もある祀所は、日本中で御霊神社しかない。

日本で唯一という条件でも指定されないと云うのは、何故なのか。

個人所有の文化財については、役所は関知しないという建前は分かるが、市内の文化財の成り行きに無関心というのは、文化財「保護」の観点からすると理解に苦しむ。

千庚申は復元されるのか、されないのか、されるとしたらその時期は?

今度は、区画整理の係へ電話をする。

    前橋市役所

「市内で一番低い土地なので、嵩上げしなければならない。それがいつになるのか、数年先のことで、いつは云えない。千庚申については、担当してないので、分からない」との返答。

千庚申が廃棄物として処理されることはなさそうだが、以前と同じように復元されることもなさそうだ。

これで今回のブログの趣旨は、書き終えた。

これで終わりにしてもいいのだが、目的の一石百庚申について、見える範囲で確認したことを、若干、付け足しておく。

刻文とその意味合いは、「元総社町の千庚申」の受け売りであることは、言うまでもない。

まずは、配置図から。

千庚申の祀地は、長尾家の屋敷西隣地に位置する御霊神社の参道と約180坪の樹木に覆われた広い場所を占めている。しかも百数十年前の造立当時の遺構を変えずに保存されている貴重な存在である」。(『野仏第33集』の「元総社町の千庚申」より。以下、青文字は、同じ)

配置図が小さくて分かりにくいが、右下が入口、参道突当りが御霊神社、一石百庚申塔群は、その左の朱線で囲った場所にある。

全体を囲うように単文字庚申塔が立ち並び、その奥まった一角を多文字塔が占めるという構図。

6基の一石百庚申塔は、朱線の中にあると書いたが、よく見ると7基ある。

これは、全体の要石の①が、「庚申」の単文字塔であるからです。

保存場所では、注連縄が掛けられて、その優位性を誇示しているが、前の石塔に邪魔されて全体像を見ることはできない。

 「庚申」の文字の左脇に「遺幻法橋智則書」の銘がある。

法橋智則は、前橋市・長見寺十一代侍従。文化元年生まれだから、万延元年は56歳。京都で修行をつみ、顕密をきわめ、法橋守権少都となり、聖護院法親王の薬草を務めた構想だった。

この千庚申のうち無銘の塔のほとんどは、智則の筆によるものと思われる。

今は切り離されてしまって特定できないが、台石は、この地より西北約1㎞の上野国分寺跡の基礎石を運んできたものと云う。

以下、多文字塔を、見つけられた範囲で紹介してゆくが、それは次回から。

≪続く≫

 

 

 

 

 

 


52 聖観音庚申塔(東京都23区内編)

2013-04-01 05:44:48 | 庚申塔

庚申塔といえば、誰もが、青面金剛の刻像を思うだろう。

  庚申堂(藤沢市)の青面金剛庚申塔(元禄年間)

あるいは、「庚申」と刻された文字碑か。

  不動院(足立区)の庚申文字碑(文化年間)

両者には、像と文字という違いがあるのですが、それは、流行した時代の違いでもあるのです。

青面金剛像塔は、天和から天明の(1681-1789)、元禄、享保を含む「庚申塔最盛期時代」のものであり、文字塔はそれ以降の「庚申塔末期」のものとされています。

ついでに書き加えれば、庚申塔の第1期は「板碑時代」で、中世の室町から安土桃山時代造立のものを指します。

江戸時代に入って、元和ー延宝年間(1615-1681)の「初期時代」、あるいは「混乱時代」が庚申塔時代区分の第2期ということになります。

何が混乱していたかというと、主尊。

青面金剛に主尊が定着する前は、阿弥陀や大日、薬師などの如来、地蔵や観音、勢至などの菩薩、不動や倶梨伽羅などの明王、弁財天、閻魔の天部など、多種多様な主尊庚申塔が造立されていました。

庚申待ち行事は、仏教行事というよりは、民間信仰の色彩が濃く、準拠すべき仏教経典が希薄だったために想像(創造)力が羽ばたいたからかもしれません。

今回は、庚申塔時代区分第2期の「混乱時代」から聖観音を主尊とする像塔を抽出して羅列します。

区域は、東京都23区内。

なぜ、東京23区内の聖観音庚申塔なのか。

理由は特にありません。

ブログ1回分の分量として、適量かなと思うから。

総数24基。

その8割は写真フアイルにあるので、新たに撮影しなくても済む、というのも理由の一つです。

1、西方寺 (杉並区梅里1-4)

下は、4年前、石仏めぐりを始めた頃の写真。

石幢は、本堂に向かって左にポツンと立っていた。

その頃、石幢という名称を知っていたかどうか。

六観音や庚申塔すらあやしい初心者だった。 

 

    六観音石幢 (承応2年・1653)   六観音のうちの聖観音面

六観音石幢の聖観音の面の下に「此一躰者庚申供養」と刻してあるのだが、初心者の私は、像は撮ったが、文字はとっていない。

右下に「此」だけが辛うじて読みとれます。

2、蜜蔵院(大田区田園調布南2-4)

蜜蔵院は、東急多摩川線沼部駅から徒歩3分。

石段を上がって右に石仏が点在しています。

前面中央が、聖観音立像庚申塔。

 

  聖観音庚申塔(寛文3年・1663)

ややうつむき加減のおしとやか美人。

沼部村の八人が寛文3年(1663)に建立したもの。

3、観音寺(足立区綾瀬4-9)

寺は、常磐線綾瀬駅すく傍。

この界隈の五兵衛新田を開発した金子五兵衛の菩提寺として開基された。

墓地入り口に石仏が3基おわす。

中央の聖観音立像は庚申塔。

    聖観音庚申塔(寛文4年・1664)

足立区有形文化財に指定されている。

4、天桂寺(杉並区成田東4-17)

 杉並の地名の元となった杉並木を植えた領主岡部家の墓が並んでいる。

          岡部家の墓

山門を入った右側に3基の石仏立像。

右の2基は地蔵だが、左は観音さまで「奉供養庚申待」と刻してある。

丸彫りの観音庚申は珍しい。

   杉並区最古の観音石仏

設立年月日は、寛文4年(1664)7月。

杉並区で最も古い観音石仏と云われています。

5、福聚院(文京区小石川3-2)

寺は伝通院のまん前。

境内は、経営する幼稚園のグランドになっている。

入り口のすぐ左手に2基の石仏が立っていらっしゃる。

両方とも崩れ方が激しい。

特に左の石仏は三猿が足元に見えるので、庚申塔であることは分かるが、顔は石がめくれて、判別不可能。

 観音庚申塔(寛文5年・1665)

観音庚申塔に分類するのは、資料にそう書いてあるからです。

顔だけでなく、文字も判読不能で、寛文5年の造立年も資料の丸写し。

こうしたもはや原形をとどめない石仏も「観音庚申塔」として組み入れるべきか、一考を要します。

6、観音寺(新宿区西早稲田1-7)

 早稲田大学の隣の超モダンな寺院。

早稲田大学の敷地は観音寺の境内だったと聞いたことがある。

本当だろうか。

参道?右側に石仏群が並んでいる。

建物だけでは寺院と分からない人も、この石仏群でここが寺だと分かることになる。

一番奥の観音さまが庚申塔。

 

三猿はないが、「奉待庚申供養」とはっきりと文字が読める。

造立年は、寛文7年(1667)。

7、根岸小学校(台東区根岸3-9)

今、庚申塔は寺社にある場合が多いが、もともとは路傍にあった。

度重なる開発で、行き場を失って寺社に集められたのです。

根岸小学校の敷地にある3基も元々は別の場所にあったものが、ここに移転させられた。

路傍だから、昔の雰囲気を保っている。

掃除と供花を毎日欠かさないようで、いつ見てもきれいで、感心してしまう。 

今回の趣旨の聖観音庚申塔は、向かって左端。

造立は、寛文8年(1668)。

ついでに他の2基にも触れておこう。

 

真ん中のピラミッド型三猿は、元禄16年(1703)。

右端の板碑型三猿は、寛文9年(1669)建立です。

8、自性院(江戸川区東葛西2)

寺の名前はどうして同じ名前が多いのだろうか。

わずか24基の観音庚申塔のありかに観音寺が2、観音堂1、自性院が2寺もあるのです。

2寺のうちの一つ、江戸川区東葛西の自性院の庚申観音は 、山門脇にあります。

 

寛文8年(1668)造立の江戸川区有形文化財。

刻文は「奉待庚申結衆三尸教祈願成就二世安楽所」と読めます。

9、大日堂(文京区小日向2)

大日坂を上って行くと右手にあるのが、大日堂。

狭い境内の塀に沿って3基の石仏が立っている。

中央が目的の庚申観音。

寛文8年(1668)の銘がある。

10、鳳林寺(杉並区高円寺南2)

 観音庚申塔を探すが見当たらない。

見当たらないわけで、無縁塔の最上段に墓標と並んでひっそりとおわした。

「奉庚申供養南無大悲観世音菩薩」。

「寛文九年(1669)己酉十月十二日」造立。

11、待乳山聖天(台東区浅草7)

「待乳山聖天」という名前が、わけもなく好きだ。

 本尊が歓喜天だというのも、いい。

歓喜天は秘仏。

一度見てみたいと思っているが、チャンスがない。

石段を上ると右手に寺が見えるが、その手前に7基の石仏が並んでいる。

7基のうち5基が庚申塔。

聖観音庚申塔は、左から3番目です。

寛文12年(1672)造立だが、顔は擦り切れて、のっぺりとしている。

12、素盞雄神社(荒川区南千住6)

 江戸時代までは、牛頭天王と呼ばれていた。

明治初年の神仏分離で素盞雄神社と改名した。

松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発したのは、この場所。

「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」(『奥の細道』

          句碑

この時芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句碑が境内にある。

庚申塔は、3基。

     荒川区有形文化財指定の庚申塔群

中央が聖観音庚申塔で、寛文13年(1673)造立。

傍らの説明板によれば「庚申講と念仏講の両方の文字が刻まれているので、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られる」とのこと。

左端の庚申塔の主尊は、聖観音ではなく、如意輪観音(延宝6年・1678)。

「月待信仰の勢至菩薩の種子が刻まれているので、庚申信仰と月待信仰が習合したもの」と荒川区教育委員会では双方とも区の有形文化財に指定しています。

13、大塚公園(文京区大塚4)

公園前のバス停でバスを下りるとそこがもう公園。

歩いて30秒もしないうちに、木々の茂みの下の石仏群に出会う。

大ぶりの4基の庚申塔の右には、丸彫り地蔵がゆったりと座していらっしゃる。

庚申塔4基は、左から聖観音、大日如来、地蔵と主尊が異なっている。

傍らの解説板を載せておくので、読んでほしい。

 14、地蔵山墓地(荒川区西尾久2)

 都電荒川線宮の前駅そば。

墓地に入って左手の奥に庚申塔がある。

            地蔵山墓地

写真では、イチョウの木に隠れて見えない。

5の福聚院の観音庚申と同じように、ここの石仏も崩れ方が激しい。

 

見るだけで痛々しい。

右肩の上の「延宝六戊午年」が読めるだけ。

像容を推し量ることはとても不可能で、聖観音庚申塔として載せるのは、資料にそう記載されているからです。

15 慈眼寺・澤蔵司稲荷(文京区小石川1)

都心とは思えない静謐が、林の中にある。

            慈眼院

澤蔵司なる聞き慣れない人名とその謂れについては、境内の説明を見て戴きたい。

聖観音庚申塔は、他の石仏に交じって所在なさげに佇んでいる。

顔だけは少し崩れているが、像容も文字もはっきりした佳品。

天和3年(1683)の年銘がある。

そろそろ青面金剛庚申塔時代へと移ってゆく過渡期と言っていい。

16、子育て地蔵堂(墨田区東向島3)

 これでもかとばかりの、朱色の氾濫である。

      子育て地蔵堂

地蔵堂に入るのが、恥ずかしくなるそんな色の使い方だ。

狭い境内に肩を並べて石仏がおわす。

入り口から2番目が聖観音庚申塔。

朝の掃除が終わったばかりのようで、観音さまにかけた水が乾いていない。

「奉供養庚申」「貞享三寅年」と刻してある。

17、福性寺(北区堀船3)

エキゾチックな本堂の前に墓地。

その墓地の入り口に聖観音庚申塔はおわすのだが、窮屈で写真もちゃんと撮れない。

まん前に地蔵立像、横に六地蔵石幢があって、窮屈なことこの上ない。

造立は元禄元年(1688)です。

 18、路傍(板橋区成増4-1)

資料には、成増3-3十字路の角とある。

      成増3-3の十字路

3-3を2度ぐるりと回ってみるが、それらしき石仏は見当たらない。

変貌著しい東京のことだから、こんなことは珍しくない。

あきらめて次の目的地に歩いていたら、覆い屋根のある石仏に出会った。

「板橋区指定文化財 庚申塔 通称成丘地蔵」と記されている。

刻文は「奉待庚申供養二世安楽」、「干時元禄四年辛未十一月廿日」だから、資料の庚申塔と同じ。

いつのまにか、この地に移されたものと見える。

「通称成丘地蔵」と書いてある。

間違っていることは明らかだが、指摘するのは無意味だろう。

観音様でもお不動様でも、石仏ならば、みんなお地蔵さんと呼ぶのは普通のことだから。

19、久保家墓地(板橋区成増4-31)

久保さんと云う家の墓地。

墓地に入るとすぐ左に庚申観音がおわす。

 

台石に三猿が見える。

元禄5年(1692)造立だから、この頃には三猿が普通になって来たのだろう。

施主として8人の名前が刻まれているが、そのうち4人は久保姓。

名主とその一族なのだろうか。

墓誌は、延宝年間から平成まで、340年間の家族史を語って、横に長い。

20、自性院(北区神谷3)

8の江戸川区の自性院に続いて、今度は北区の自性院。

この寺は、石仏愛好家には見逃せない寺だろう。

環七に面していながら、静かで、石仏が多い。

道路から寺に入るとすぐ左に6基の庚申塔。

青面金剛像塔2基、如意輪観音1基、聖観音1基、地蔵1基、文字碑1基とバラェティに富んでいる。

今回目的とする聖観音主尊庚申塔は、日月、三猿つき、元禄8年(1695)建立のもの。

            聖観音庚申塔

こうして聖観音庚申塔をずらずら並べると、どこにでもある、ありきたりの石仏のように受け止められる可能性がある。

しかし、東京23区でたった25基、文京区5基、板橋、杉並、足立が3基と複数基ある区もあるのだから、当然1基もない区も多い。

偶然に見かけたら、宝くじに当たったくらい珍しいことだと思った方がいいのです。

21,円能院(大田区山王1)

大田区の大森から池上にかけては日蓮宗寺院が多い。

日蓮宗の寺には石仏は期待できないから、つい足が遠のいてしまう。

円能寺は真言宗寺院だが、大森駅に近いので、敬遠区域にあって、行ったことがなかった。

当然、保存フオルダに「円能寺」のフアイルはない。

行って来た。

だが、これと確定する庚申塔は見つけられなかった。

資料には、丸彫聖観音とある。

無縁塔に丸彫聖観音立像が3体あるが、このうちのどれかだろうか。

  

庚申塔にしては3体とも大きめのように思える。

もしかしたら墓地の中にあるのかもしれない。

もう一度、足を運んでみるつもりでいる。

22、薬師寺(足立区綾瀬1)

山門前に文字庚申塔。

 

「三尸之毒虫」と刻されている珍しい庚申塔だと説明にある。

薬師寺のフアイルはあるのだが、肝心の聖観音庚申塔の写真がない。

探しに行ってみた。

あった。

 

無縁塔の上段に、墓標とは違った扱いでおわした。

元禄13年(1700)造立のものである。

 

 

23、炎天寺(足立区6月3)

炎天寺という寺号がいい。

参道には石仏が列を成して並んでいる。

その石仏群の奥に観音庚申がおわすが、年銘は文政4年(1821)。

観音を主尊とする庚申塔は、第2期(元和-延宝)の混乱時代に流行ったとする定義から外れている。

庚申塔時代区分の定義者である石川博司氏は、「熱烈な観音信者の造立か、かつてあった観音主尊庚申塔の再現」ではないかと見ている。

 隣の馬頭観音は覆屋の中に安置されている。

馬持ちが愛馬のために奮発したのだろうか。

 

 

24、根津神社(文京区根津1)

 根津神社には面白い庚申塔の組み合わせがある。

石幢のようだが、六体の庚申塔の表面を繋ぎ合わせた

もので、もちろん、一石六面体ではない。

聖観音庚申塔を皮切りに、6基の庚申塔を順繰りに紹介してゆこう。

①聖観音  庚申供養 講中十二名 造立年不明

②青面金剛 日月、鬼、鶏 元禄五壬甲(1692) 施主二十六名 

③青面金剛 日月、猿 延宝八庚申(1680) 願主一名

④梵字 庚申供養 寛永九年壬甲(1632)施主七名

⑤青面金剛 日月、鬼、猿 駒込千駄木町施主十名 宝永録巳丑(1709)

⑥青面金剛 猿、鶏 寛文八戌申(1668) 駒込村 施主十五名

 

以上、東京都23区内聖観音庚申塔を羅列してきた。

振り返って、この作業が面白かったかと云うと首をかしげざるを得ない。

他人がまとめた資料に基づいて、写真を羅列しただけで、私が新たに見出した物は皆無だから、面白くないのは当然か。

一番の問題は、東京都23区内の観音庚申塔一覧を作って、「だから何だ?」と問われること。

東京23区は分かった、では、埼玉県は?千葉県は?となると、どこかでキブアプせざるをえなくなる。

皆悉調査は不可能と分かっているから、少しでも網羅的なことを始めると途端に欲求不満に陥ってしまうことになるのです。

でも、多分、このスタイルでのテーマ設定は続けてゆくことになるだろう。

簡単に問題が設定できるから。

例えば

「聖観音庚申塔(埼玉県編)」

「大日如来庚申塔(東京23区編)」etc

 

参考(というよりは、丸写しの資料)

○石川博司「観音主尊の庚申塔ー東京都を中心に隣接県の場合ー」(『日本の石仏』no95・2009年秋号)

○HP「庚申塔物語」http://hoko.s101.xrea.com/koshinto/etc06.html

 

 

 

 


34 ん?庚申塔

2012-07-01 15:37:01 | 庚申塔

このブログ「石仏散歩」の閲覧者数は微々たるものだ。

そのうちの大半は、私の友人か知人ではなかろうかと推察している。

義理とお付き合いで、というのが本音だろう。

だとすれば、石仏の知識も興味もない人たちということになる。

お地蔵さんと観音さんの区別がつかないと思っていい。

数年前の私自身がそうだった。

 

石仏、石造物全般は、もともとは強い信仰心や宗教的行事や習俗と関わって造られたものだった。

信仰心が薄くなり、宗教的行事が行われなくなって、石仏、石造物の存在が希薄になってくる。

無視され見向きもされないのに、石だから、そこにあり続ける。

だから、夜待塔や馬頭観音は、寂しい。

無意味にそこにあるのだから。

庚申塔も哀しい。

通行人の大半は、その存在理由を知らないのだから。

 

今回のテーマは変わり種庚申塔だが、お地蔵さんも観音さんも区別がつかない友人たちの為に、まず一般的な庚申塔を示しておこう。

 像は青面金剛。

  安養院(足立区)元禄15(1702)      大円寺(杉並区)寛文7(1667)

中央の2手が合掌している(左)か、右手に剣、左手にショケラという女体をぶらさげている(右)6手像が一般的です。

像の上方左右に日、月、足元に邪鬼を踏まえ、その下に三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)がいる。

童子や鶏が傍らにいる像も多い。

 吹上観音堂(和光市)宝暦11(1761)          東光寺(板橋区)寛文2(1662)

 

庚申塔が建てられ始めたのは、室町時代からと言われている。

最初は板碑庚申塔の時代だった。

  来光寺(足立区)寛文6(1666)

江戸時代に入り、阿弥陀如来、地蔵菩薩、観音菩薩といろいろな仏様を主尊とする庚申塔が流行りだす。

足元の三猿が見極めのポイントか。

 阿弥陀如来庚申塔 宝幢院(北区)      地蔵菩薩庚申塔 東福寺(渋谷区) 

それが天和(1681-1684)の頃から青面金剛一本になり、100年後の寛政の頃から文字塔の時代に入る。

  路傍(長野県箕輪町) 昭和55(1980)      水神社(取手市)寛政12(1800) 

 神明社(春日部市)文化3(1806)

庚申の文字を刻むものが多いが、青面金剛や猿田彦など夫々に変化があり、バライティに富んでいる。

 

庚申の日は60日に1度巡ってくるから、普通の年だと年6回アタリ日があることになる。

その夜は眠らずに過ごして、家内安全、健康長寿を願うのが庚申待ちだった。

3年、18回の庚申待ちを行えば「一切の願望、此内に成就せぬと云う事なし・・・」(『庚申因縁記』)と云われ、その達成を記念して庚申塔は建てられた。

庚申塔は、それを拝むことよりも建てること自体に意味があった。

建てることで、二世安楽を祈念したのである。

以上、庚申塔基礎講座でした。

 

と、いうことで、本編へ。

まずは、文字。

なぜか、誤字、脱字が多い。

今や、住みたい町NO1の吉祥寺。

駅北口からアーケード街を抜けて、五日市街道にぶつかったら左折すると右手に「安養寺」がある。

参道にある庚申塔が面白い。

 安養寺の甲辛塔(寛文5.1665)

 なんと2か所に誤字がある。

 

 南無阿弥「施」仏は南無阿弥「陀」仏      「甲辛」は「庚申」の誤字

施主は驚いただろう。

でも、彫り直しを命じなかったのは費用が嵩むからだろうか。

同じような誤字が取手市にもある。

 両足神社(取手市}の庚辛塔(延宝5・1677) 庚「辛」は庚「申」の誤字

「甲神」というのもある。

   成安寺(埼玉県滑川町)

「甲辛」でも「甲神」でも二文字あれば、庚申かと読みとれる。

 

 一字しかないものもある。

「奉供養庚待」。

庚申の申が抜けている。

 万福寺(墨田区)              解説文の一部

石を彫る、ことに、うっかりは似合わない。

確信犯だとすると何故?と理由を知りたくなる。

 

誤字、脱字があっても、私には決して分からない梵字だけの庚申塔がある。

永福稲荷神社(八王子市)の梵字庚申塔(享保8.1723)

梵字真言だそうで「ウーンオンディバヤキシヤバンダバンダカカカカソワカ」と読むらしい。

世間は広い。

学のある人は尽きない。

当然、隷書体やてん書体の庚申塔もある。

 隷書体の庚申塔(観音堂・小山市)   てん書体の青面金剛(須花庚申塔群・佐野市)

文字は読めるが、趣旨不明のものもある。

「道祖神」の下に三猿。

    葛飾白山神社(市川市)

道祖神なのか、庚申塔なのか。

道祖神を主尊とする庚申塔とすると収まりがいいようだ。

 

青面金剛の頭上に蛇。剣にも蛇が巻きついている。

        清善寺(行田市)

なぜ蛇なのか。

ドクロと蛇の組み合わせもある。

          顕正寺(横須賀市)

見ざる、聞かざる、言わざるだから三猿なのに、5猿の庚申塔がある。

     神明社(町田市)

両腕からつり下げられたように2匹の猿がいる。

 

5匹なんてものの数ではない。

36匹の群猿庚申塔が江の島にある。

護国寺では、猿が庚申塔を支えている。

 護国寺(文京区)

 かと思えば、猿が主尊の庚申塔もある。

    庚申塚(豊島区)

見ざる、聞かざる、云わざるを文字にすれば、こうなる。

 東八幡神社(春日部市)

視るなかれ、聴くなかれ、言うなかれ。

いや、面白い、と思うのだが、ひとりよがりなんだろうか。

 

邪鬼にはバリエーションが多い。

青面金剛に踏みつけられている邪鬼だが、これは踏まれ方がひどい。

顔が逆さまになっている。

徹底的に、これでもかと踏まれているようだ。

 

      永楽寺(三浦市)

ふんどし姿の邪鬼がいる。

道徳的な石工だったのだろう。

  呑龍堂(埼玉県小川町)

一方、こちらは腰巻の女。

青面金剛の左足は邪鬼を踏んでいるが、右足の下は仰向けになった女性のようだ。

  八幡神社(船橋市)

腰の二重線は、腰巻の紐と見える。

うつ伏せになった猿がいる。

見ざる、聞かざる、言わざるではなさそうだが、何だろうか。

この八幡神社の女性は人間のようだが、女の邪鬼もいる。

  福樹寺(三浦市)

胸が膨らんでいる。

乳房ではないか。

腰巻を巻いた上半身裸の女邪鬼と見るがどうだろうか。

三浦市の庚申塔に風変わりなものが多いようだ。

石工に自由裁量が与えられていたからだろうか。

 

以上は、私個人が出会った変わった庚申塔。

無数にある変わり種のほんの一部です。

「だから、何だ」と言われると困ってしまうが、今後さらに集ったらまた載せるつもりでいる。

 


29 日本一庚申塔の多い町-佐野市田沼地区-(後編)

2012-04-16 05:54:11 | 庚申塔

⑨作原栃久保庚申塔群(190基)

県道201号線もどん詰まりになる手前、栃久保の道路左側の小高い岩山一帯に庚申塔が群立している。

昔は道の右側にも100基ほどあったのだが、昭和47年、道路改修の際、現在地に一括した。

庚申塔群中央の石碑にその経緯が記録されている。

     庚申塔合祀記念碑 

「この庚申塔塚は寛延元年の創立にて当時の部落住民の信仰者が石に庚申塔の文字を刻み、百個を作り上と下の二ケ所に安置したのが百庚申の起因と云う。後ち寛政、万延年間にて同所に多数の塔が建てられ、大正九年庚申歳にも真如院住職の松本尊澄邦の揮毫による庚申塔を栃久保松葉講中にて建てた。この庚申塔塚をでは庚申様と呼んでいる。

豊穣の作神として信仰し、往時より秋の農作物の取り入れ後、吉日を選び、この塚の清掃を行い、収穫した品々を供え五穀豊穣の御礼とまた来る年の豊作を祈願のお祭りをするのが慣例となっている。

昭和四十七年度施行の県道改修工事のため下の庚申塚は道路用地となった為の人達が同年十一月二十三日現在の上の庚申塚内に移転安置した。之を記念するため之を建てる。

昭和四十八年七月吉日栃久保松葉建之」

他所に比べ、比較的保存状態が良くて、倒れずに立ったままのものが多い。

庚申年である大正9年と昭和55年の庚申塔がある。

  大正9年の庚申塔                  昭和55年の庚申塔

庚申信仰が、今もこの地には生きている証左といえようか。

 

⑩岩鼻庚申塔群(63基)

県道201号線沿いでは、最奥に位置するのが岩鼻庚申塔群。 

道路の端からそそり立つ岩山の麓から上に散在している。

町史には63基と記載されているが、実際には20基が精々。

山頂まで上ったわけではないので、不確かな断定だが。

「一万庚申供養塔」がある。

珍しい。

初めて見た。

造立者は松島儀佐衛門。

同一人物による「千庚申塔」もあると町史にはあるが、見当たらない。

もしかすると下の写真の庚申塔だろうか。

「千」ではなく、「十」にしか私には見えないが。

しかし、「十庚申」はあるのだろうか。

「千庚申」と「万庚申」、町史執筆者は次のように推理する。

かけた願がかなったのでお礼に「千庚申」を造立し、さらにかけた大願が20年後に成就したので、感謝の気持ちを込めて「一万庚申供養塔」を建てたのではないか、と。

「千庚申」、「万庚申」などの数庚申の新しい解釈が、ここには展開されている。

 

路傍(佐野市作原)

県道を市街地へ戻る。

路傍に数体の石造物が見える。

車を止めてカメラを取り出す。

降りだした雨で碑面が濡れて字が読みにくいのだが、なんと「千五百庚申」が2基もある。

数を増せばご利益が増えるだろう、そう期待するのなら、「二千」にしたり、「三千」にしたりはするだろうが、「千五百」と彫るだろうか。

数が中途半端な感じがする。

しかし、千五百基の庚申塔を参拝して来た記念としての「千五百」は十分にありうるように思える。

数庚申は参拝した基数説が、ますます有力になってくる。

 

⑪片峰庚申塔群(61基)

 県道201号線を引き返し、桐生田沼線に入る。

山形字片峰、道路から3,400メートル北へ入った林の中に庚申塔群がある。

道路のすぐそばだと言うのに「熊が出没」の注意書き。

庚申塔群は、コンクリートの細長い土台に整然と植え込まれている。

16の庚申塔群の中で最もきちんと保存されていて、これなら散逸する恐れはない。

庚申塔群前面に石碑。

地元の青木伸氏の奉仕工事で完成したものと書かれている。

平成十八年造立の庚申塔がある。

保存工事をしたのが平成18年。

工事完成に合わせて青木氏が寄進したものではなかろうか。

 

⑫庚申山庚申塔群(1244基)

なんと名前が庚申山なのだ。

庚申塚は知っているが、庚申山は初めて。

麓から250mの頂上まで、絶え間なく庚申塔が「ある」。

その数1244基。

立っているのはまれで、大半は、横たわり、逆さまになり、裏返しになり、埋もれ、転がり落ち無残な姿を晒している。

                            庚申の文字が逆さまになっている

その大半は「庚申」と刻んだ川原石。

20ー30㎝程の滑らかで平べったい小石で、「庚申塔」というよりは「庚申石」と呼んだ方が似つかわしい。

頂上に近づくにつれ、傾斜は急になり、木の枝に掴まってからだを持ち上げないと登れないようになる。

山頂付近には、川原石ではない、きちんとした文字塔や像塔が多い。

      庚申山山頂の庚申塔群

 佐野市の隣、足利市の『足利の庚申塔』では、足利市内の庚申塔はその94%が山間部にあるという事実を踏まえて、これは庚申さまが山神さまと結びついたからではないかと推理しています。

山のある地域では山神さまの信仰は篤く、春に里に下りてきて秋に山に帰るまでの間は「作神・田の神」として信仰されるのですが、これが庚申さまと結びついたため、庚申塔の造立が増えたのではないか、というのです。

その一例として挙げられているのは、足利市の三和湯の沢にある青面金剛像の願文。

「奉修庚申供息所」と刻されている。

これは庚申さまが山神さまと同様に山から下る際、或いは、山へ帰る折に休憩する場を村人が提供していたことを意味しているのではないかと執筆者は読む。

しかし、この山神さまのイメージはあくまでも山の麓であって、山の上ではない。

では、庚申山山頂の庚申塔はどう解釈すべきだろうか。

愛宕山庚申塔群の場合は、頂上に愛宕神社がある。

鏡岩庚申塔群の場合は、鏡岩という神として崇められる岩があった。

だが、庚申山の頂上にはそうした依るべきものは何もない。

なぜ、お百姓さんたちは、こぞって庚申「石」を山に運び込んだのか。

『足利の庚申塔』の執筆者に電話で訊いてみた。

結論から言うと「分からない」。

庚申塔だけではないが、昔のことは分かっていることより、分からないことの方が多い、ということだけは分かっているのです。

庚申山では、「二千庚申」と「五千庚申」が見つかった。

          二千庚申                  五千庚申塔

町史では、「三千」「四千」「六千」もあると書いてあるのだが、見つけられなかった。

他に線彫り青面金剛像も。

線彫りなので像が分かりにくいが、日月をいただき、右の3手で斧、宝剣、矢を、左手に宝輪、弓、ショケラを持って、邪鬼を足で押えている。

「奉造立一百体」と彫られている。

町史は、普通の庚申塔百基分の労力を要したものと解釈している。

 

 

 

⑬栗木内庚申塔群(160基)

 庚申塔群だからといって、一目でその場所が分かる所は少ない。

栗木内庚申塔群も分からず、農作業をしている人に訊いた。

作業をやめてわざわざご丁寧にも入り口まで案内してくれたが、その途中の話では、年に1回、集落の人たちが酒肴を持ち寄って祭をするほかは庚申待ちなどはしないとのこと。

集落の人たちが刈り込んだのだろう、道のような空間が山頂へと伸びている。

入り口から50mくらいの灌木地帯には比較的大きな自然石庚申塔ばかり。

埋もれて文字が見えないものも多い。

千庚申もある。

灌木地帯を過ぎると杉林。

とたんに小さな石ばかりになって、列をなしている。

杉林の中に祠。

弘法大師が座している。

周りには猿田彦大神が5基立っていた。

町史によれば、造立者名のあるものは160基中12基。

全部、地元の人たちだという。

 

路傍の千庚申

次の目的地⑬大塚神社へと向かう。

道中、路傍に庚申塔があれば、車を止めて写真を撮る。

なんとなく立ち止った3か所夫々に数庚申があった。

         寺山墓地入口                        百庚申供養

       上宿                          千庚申が2基

  彦間神社の千庚申           

 

 ⑭須花庚申塔群(206基)

66号線から足利街道に入る。

峠越えをして足利へ抜ける道である。

足利街道に入るとすぐ「須花」というバス停がある。

バス停の先、右前方の山の杉林でない、日当たりのいい丘全体に庚申塔が散在している。

上り口に数基の庚申塔。

中に田沼地区で最も古い寛文5年(1665)の板碑型庚申塔がある。

  寛文5年(1665)の庚申塔          約3mの巨石庚申塔

その右後方には約3mの巨岩庚申塔。

庚申塔の右側面に「大網出現石」と彫られている。

他所から持ち込んだものではなく、この村の石だということが自慢のようだ。。

蛇行しながら頂上へ伸びる道には、庚申塔がきちんと並んでいる。

千庚申もある。

見慣れない文字碑。

調べてみたら、篆書に金文が混じった「青面金剛」と判明。

学のある人物がいたようだ。

驚いたのが平成5年造立の庚申塔。

庚申信仰は、まだまだ健在なのです。

 

⑮大塚神社庚申塔群(191基)

下の写真の石段が神社への参道。

荒れ放題で、全体の印象は、極めて「無残」。

意識的に散らかしてもこんなに酷い状態は作り出せないだろう。

「百庚申」や「千庚申」がごろごろ転がっている。

寄進した者たちの祈りは叶えられたのだろうか。

 

素朴で熱烈な祈りの心が、こうした惨状のまま放置されてしまうのが、石造物の短所かもしれない。

神道思想に基づく庚申塔もある。

「庚申」の下に「道者大日霊貴道也」「教者猿田彦大神」の二神名が刻まれている。

この大塚神社庚申塔群の大半は、嘉永2年造立のものだが、その理由については分からないのだという。

 

⑯寺沢薬師堂庚申塔群(23基)

旧田沼町の中でもどんづまりの飛駒地区。

もうすぐ先は桐生市という場所に寺沢薬師堂はある。 

堂は見捨てられたようにポツンと佇んでいる。

雨戸が一枚外れたまま、風に吹かれてゆらゆら揺れていた。

石仏や庚申塔は堂前に廃棄されたように横たわっている。

庚申塔は23基あるはずだが、5基あるかどうか。

それでも「百庚申」や「千庚申」がある。

 これで、佐野市田沼地区(旧田沼町)の16カ所の庚申塔群をめぐり終えたことになる。

どこの場でも、とにかくその数の多さに圧倒された。

江戸時代後半、この辺りは熱狂的庚申信仰の只中にあったと思われる。

願い事は、二世安楽であり、商売繁盛であり、五穀豊穣であり、種々様々であった。

素材は川原石。

庚申塔というには余りにも小さく、お粗末なものばかりである。

でもそれだからこそ、逆に、庶民の切なる祈りがひしひしと感じられる気がするのです。

ひとつ気になるのは、保存に向けて公共の手が及んでないこと。

全部は無理にしても、せめて「庚申山庚申塔群」の保存くらいは、市が進めてほしい。

その前に市指定文化財の認定が必要になるのだが。

身近にありすぎて、その貴重さに気付かないのだろうか。

いや、庚申塔群の場所を尋ねても地元の人の大半が知らなかったことを思うと、こうした文化財の存在が周知されていないというのが実情のようだ。

 

 

 

 


28 日本一庚申塔の多い町ー佐野市田沼地区ー(前篇)

2012-04-01 05:54:02 | 庚申塔

自分でつけておいて、こういういい方はおかしいが、「日本一庚申塔の多い町ー佐野市田沼地区ー」というタイトルには問題がある。

まず、「日本一」かどうか怪しい。

確証がなく、間違っている可能性が高い。

「佐野市田沼地区」というのは、2005年、佐野市と合併するまでの「栃木県安蘇郡田沼町」のことである。

愛宕山から旧田沼町を臨む

旧田沼町の『田沼町史資料編1』によれば、旧田沼町の庚申塔の数は約3500基。

人口は約28000人だから、町民8人で1基の庚申塔という計算になる。

平成の大合併で行政区域の広い市が増えた。

庚申塔の絶対数が、3500基を超える所はあるかもしれないが、対人口比0.125、8人に1基という割合は、日本一ではないか(これも推論でしかないのだが)。

8人に1基だから旧田沼町を行けば、いたるところ庚申塔だらけと思ってしまうが、そんなことはない。

路傍に馬頭観音と肩を寄せ合っていたり、寺の山門脇にお地蔵さんと並んでいたり、他の町と変わった点はないのです。

では、3500基の庚申塔はどこにあるのか。

その大半は、山の上や林の中に群立しているのです。

『田沼町史第2巻資料編1(1981)』では、こうした群立地点を16カ所指定、地図に明記しています。

上の地図は、旧田沼町の一部だが、赤丸は庚申塔の所在地、青の四角は群立地を指す。

四角の大小は、群立する庚申塔の数の多少を表している。

ちなみに左の大きな四角、12番には、なんと1244基(1981年当時)もの庚申塔があるのです。

で、今回の趣旨は、この16カ所の庚申塔群立地をすべて尋ねてみようというもの。

 

町史と地図を持って、いざ、スタート。

①愛宕山庚申塔群(123基)田沼町

       愛宕神社参道

愛宕山庚申塔群は、365段もの石段を上がった愛宕神社西側に点在している。

大きな石の庚申塔は残っているが、小さなものは姿を隠している。。

枯れ草に見え隠れする小石は、みんな庚申塔。

掘り起こせば、どれにも「庚申」の文字がある。

こうして頭を出して見えるものはまだいい。

地面の下に埋もれているものが多い。

造立年が分かるものが51基。

そのうち47基が万延元年となっている。

     万延元年の庚申塔

明治44年編纂の『田沼郷土史』によれば、「万延元年に愛宕山頂で古墳が発掘され、人骨や武器が多数出土した。その時一緒に出た石灰岩を用いて庚申塔100基を建てた」とある。

ちなみに万延元年は1860年で、庚申年。

江戸も後期で、庚申信仰が最盛期の頃だった。

庚申塔100基建立の背景には、「百庚申」の思想があったと思われる。

百庚申というのは、1か所に百の庚申塔を建てること。

      海上宮(銚子市)の百庚申   

     市杵嶋神社(前橋市)の百庚申

                                

もともと庚申塔の造塔そのものが諸願成就の手段であったから、100という多数の庚申塔を建立すれば、願いはさらに達成されやすいだろうという庶民の計算がそこに透けて見える。

だが、「百庚申」でもなさそうなのだ。

なぜなら「千庚申」と彫られたものがいくつもあるからです。

   しめ縄に隠れて「千」の文字               寄り添っている右も千庚申

実は、「百庚申」には①一カ所に百の庚申塔を建てる、②一石に百の庚申の文字を刻む、③一石に「百庚申」と刻む、の三種類がある。

「千庚申」は、一カ所に千の庚申塔を建てる例はさすがにないが、千個の文字を一石に刻むものは佐野市の隣、足利市にある。

  徳蔵寺の千庚申(足利市)

だが、99.99%は一石に「千庚申」と彫ったもの。

安逸というか怠惰というか、人はこうまでして楽して利益を得ようとするものかと呆れるほどである。

単に「庚申」と彫った庚申塔と「千庚申」と彫ったものとどっちがよりご利益があったのか、設立者それぞれに訊いてみたいものだ。

このあと旧田沼町庚申塔群に「千庚申」が続々と登場する。

しつこくて、くどくなるので、ほどほどにしておきたいが、珍しいものなのでついついとり上げてしまうことになりそうだ。

 

②籠山庚申塔群(100基)戸奈良町

籠山を探すのに苦労した。

旧田沼町役場へ行って聞いた。

あいにくの日曜日で守衛が3人詳細地図をめくって探してくれたが、分からない。

この辺りと見当をつけたところで年配の男の人に聞く。

「鹿島神社の奥さんに訊けばいいよ。多分、こう行くんだと思うけれど」。

鹿島神社では、ご婦人が草むしりをしていた。

訊けばいいものを「多分、こう行く」方向へ車を走らせる。

道が狭くなり、車を止めて山の中へ。

行けども行けども庚申塔は姿を現さない。

「熊出没」の看板が出てくる始末。

あきらめて引き返し、神社の奥さんに訊く。

「そこですよ」とすぐ後ろの小高い丘を指す。

 中央の小高い丘が籠山

籠山への入り口に青面金剛。

籠山庚申塔群100基のうちただ1基の像塔。

しかも100基の中で最も古い享和8年の造立です。

小道の両側に伏せている石がゴロゴロ横たわっている。

全部、庚申塔。

「庚申」の文字が見えないものも、裏返せば文字が見える。

立っている庚申塔の方がずっと少ない。

誰も顧みなくなって何十年が経つのだろうか。

ここでも頂上の一番奥まった場所に大きな「千庚申」が立っている。

山を下りると民家の裏に出る。

そこに4基の石造物。

馬頭観音や庚申塔とともに、これは何というべきか。

四角い石の一面に「庚申」の文字が12個ほど彫られている。

庚申塔の一部だったものだろうが、完成形はいかなるものか想像できない。

この家の人に訊いてみたかったが、若い夫婦は裏の籠山に庚申塔が沢山あることも知らないようなので、質問するのをやめてしまった。

 

 ③岩崎八幡宮庚申塔群(55基)岩崎町

キツネにつままれたような気がした。

八幡宮の鳥居の脇に4基の庚申塔があるだけで、残りの51基はどこにもない。

        岩崎八幡宮 

                      

           鳥居脇の庚申塔

境内の裏山にも入り込んで見たが、ひとつも見つけられない。

氏子代表に訊いてみた。

そもそも55基もあったことを知らないという。

「町史にそう書いてある。30年前にはあったはずだ。いつ整理したのだろうか」。

そう聞いても、知らないものは答えようがない。

結局、分からないまま放置してある。

 

④鏡岩庚申塔群(344基)長谷場町

鏡岩への道が狭くなって、車は通れなくなった。

最も山際の家へ行く。

「亀山」という表札がかかっている。

60代の男の人が出てきた。

「鏡岩へ行きたい」と告げると地図を書いてくれた。

書きながら「上へ行くと道はないよ。それに傾斜がきつい。片道1時間はかかるな」とブツブツ。

地図に従って歩いて行く。

15分ほどで鏡岩入口に到着。

            鏡岩入口

石組の上に庚申塔が3基もたれ合っている。

亀山さんの話では、毎年2月、ここで10軒の者が集まって酒宴を開くのだそうだ。

2月の酒宴以外、庚申講の集まりはないという。

杉林が続く。

道はないが、ところどころに転がっているなめらかな石は庚申塔だから、それを道筋にして上って行く。

杉林を出ると、とたんに傾斜がきつくなる。

木の枝をつかんで体をずり上げる。

一歩よじ登っては休み、休んでは這いつくばって登る。

傾斜が急な写真を撮ったつもりでいたが、そういう感じには撮れていない。

山の写真は難しい。

もはや地図は意味をなくしている。

 真ん中の霧がかかっている山の下に鏡岩がある

どこを上っているのか、あと鏡岩までどれだけあるのか、そういうことも分からないまま、急な山道を上がるのがつらくなって、このまま折り返そうかと思った時、ラジオの音が聞こえた。

亀山さんの携帯ラジオだった。

地図を渡したものの心配になって、追いかけて来てくれたのだと言う。

  崖の上から声をかけてくれる亀山さん

亀山さんに励まされながら、鏡岩にやっとたどり着いた。

出発して1時間を優に越えていた。

鏡岩は、まるで砥石で研いだような滑らかな一枚岩。

その昔、人々はこの岩をご神体として崇めたはずである。

鏡岩周辺には角柱塔の庚申塔が多い。

町史史料によれば、天鈿女尊(あまてらすおおみかみ)と猿田彦尊の文字の上に夫々の像が彫られている庚申塔があるはずだが、石の表面が剥がれおちてしまってよく分からない。

剥がれおちた一部を元に戻してみる。

「猿田彦尊」の文字の部分だった。

自然石の庚申塔も数多い。

中には庚申の文字が彫られていないものもある。

石に庚申と彫るのでも金がかかる。

貧しいが庚申塔を寄進して祈りたい。

どうしたか。

庚申と墨書した石をここへ持ち込んだ。

墨はたちまち消え去り、石だけが残った。

町史執筆者は、こう推測するのだが、同感である。

猿田彦像があることから分かるのだが、この鏡岩周辺の庚申塔はみな江戸時代後期のものばかりである。

庚申塔は江戸時代初期には講中や村の安全を祈ったものだったが、江戸時代も後期になると個人の神として、しかもオールマイティの神として信仰されるようになる。

百姓にとっては、豊作をもたらす作神であり、商人にとっては商売繁盛の神であり、漁師には豊漁の神であった。

悪疫を防ぎ、病気を治す長生きの神でもあって、人々は二世安楽を庚申さまに祈ったものだった。

今や土に戻りつつある無数の小石には、そうした人々の切ない願望が込められているのです。

 

帰りの下り道は、また大変だった。

前夜の雨で土が濡れていて滑りやすい。

落ち葉がズルっと動くと体勢を立て直す間もなく、そのまま滑り落ちる。

デブだから加速がついて止まらない。

ジーパンは泥だらけとなった。

杉の木の幹が泥で汚れている。

僕がこすりつけたのではない。

犯人はイノシシ。

泥の高さでイノシシの大きさが分かると亀山さんは云う。

これは中の上くらいらしい。

 

⑤大六天庚申塔群(84基)長谷場町 

県道わきの小高い岩山一帯に庚申塔が並んでいる。

きちんと整理されている所もある。

誰かが、埋もれていた庚申塔を掘り起こして、並べたらしい。

まわりには掘り起こした跡が点々とある。

並んでいる庚申塔の数はせいぜい40基。

1981年には81基あったわけだから、半分は埋まってしまったことになる。

それともこの掘り起こした跡は、盗掘の跡なのだろうか。

川原石に彫った文字庚申塔を盗む人はいないように思うのだが。

 

⑥稲村観音堂庚申塔群(56基)白岩町

県道横の赤い屋根の隣が稲村観音堂。

車列は釣り人たちのもの。

道路に沿って流れる小戸川のヤマメ漁の解禁日だった。

観音堂の裏山に庚申塔が点在している。

      稲村観音堂

荒れ放題の庚申塔群の一つ。

他所に比べて比較的大きな自然石の庚申塔が多い。

千庚申は2基あったが、百庚申が見当たらない。

珍しいと言うべきか、青面金剛像がある。

 

⑦下出庚申塔群(18基)白岩町

 ここにも釣り人の車の列。

車列と岩山の間の狭い空間にお地蔵さんと庚申塔。

 

町史によれば18基あるはずの庚申塔は、2基しか見えない。

「庚申塔群」と名付けるには寂しい限りだ。

一つには「天明八年 奉尊拝百庚申」と刻されている。

「奉尊拝」だから「百基の庚申塔を参拝した記念にこの塔を奉納する」ことになる。

欲ボケで数字を多く書いたわけではないようだ。

実は、このあと巡る庚申塔群からは、「二千」、「五千」、「一万」の数字のついた庚申塔が見つかっている。

数が多ければご利益も多いだろうという欲深根性なら、みんな「一万」にしただろう。

書くだけなのだから「百万」があったっておかしくない。

そうではなく、「千」であるるのは、実際に千基の庚申塔を拝む行為があったからではないか、そう思えてならない。

「天明八年」造立の庚申塔だが、庚申年ではない時では「天明年間」が58基と最も多い。(『田沼町史資料編』)

天明の大飢饉で農村地帯は疲弊しきっていた。

「神にもすがる思い」の神が、庚申さまだったことになる。

 もう1基は石塔の頭だけが見える。

横に右から庚申の2文字。

その下に山が三つ書いてある。

この庚申塔が全身を現していた頃、見た人の記憶では、この山形の下に「庚申」の文字が縦に、ランダムに28個か29個彫られているとのこと。

珍品なのに地面に埋もれているのは、惜しい。

珍品と言えば、下出庚申塔群にあると町史に載っている下の写真の庚申塔も見当たらない。

 残念なことだ。

 

⑧細尾沢入口庚申塔群(129基)作原

作原太鼓橋の手前を左へ。

左に農家がある。

若い男がいたので訊く。

「庚申さま?そういえば、おじいちゃんがあそこにあるって言ってたな」と道を挟んだすぐ向こうの林を指す。(写真では赤い橋の右の林)

昼なお暗き林の中に石が傾き、横たわり、乱雑に散らばっている。

16の田沼町庚申塔群で最も見向きもされず、抛っておかれた庚申塔群だろう。

青面金剛を表す種子を冠するものが多い。

青面金剛塔もあれば、青面金剛像もある。

千庚申は5基あるはずだが、3基しか見当たらなかった。

寛政十二年と記念するものがある。

寛政十二年(1800)は庚申年で、旧田沼町では、造立年が判明している庚申塔では59基と万延元年に次いで多い庚申塔である。

庚申塔にまじって素朴な石仏がおわす。

この地は通称「十二御前の墓」と言われるのだそうだが、十二御前というのは源義家の奥州征伐にからむ伝説に登場する姫。

その姫にちなむ「夜ばい地蔵」だと町史には書いてあるが、分かったような分からないような・・・

目鼻はなく、顔立ちは分からないが、優しく微笑んでいるような味わいのある石仏です。

これで16カ所の旧田沼町庚申塔群の半分を紹介した。

後編は、4月16日にアップの予定です。

 

 

 

 

 

 


1帝釈天三猴

2011-04-10 22:20:23 | 庚申塔

4月10日は、僕の誕生日。

73歳になった。

老化は、肉体的機能の衰えに顕著にあらわれる。

出来て当たり前のことが出来なくなる。

壁に手をつけてないとズボンが穿けない。

尿意が我慢できない。

つい、漏らしてしまう。

心の分野でも変化が生じている。

集中力が持続しない。

すぐ飽きてしまう。

それでも、肉体の変化ほど、精神は変わっていないように思える。

 自分がそう思ってるだけで、他人にどう映っているかは分からないが。

でも、ひとつだけ明らかに変わったことがある。

石仏めぐりだ。

石仏に興味を抱くなんて、60代まで、考えられなかった。

だから、大きな変化である。

もともと宗教に無関心だった。

親鸞が浄土真宗の始祖であることは、受験の知識として知ってはいた。

しかし、それが我が家の宗派であるとは、母の葬儀の時まで知らなかった。

石仏は、どれも、「お地蔵さん」だとばかり思い込んでいた。

それが、ガンを患ったことで、少し変わった。

古稀を目前にしてのことである。

変化の具体例は、「八十八ケ所巡り」をしたことか。

僕の故郷は佐渡が島だが、島には、四国霊場を模した「佐渡八十八ケ所」がある。

春先に無事退院し、6月と10月、2回、島を隈なく回った。

信仰心が急に芽生えたわけではない。

子供のころ佐渡にはいたが、行ったことのない場所ばかりで、佐渡を知るよすがとしての霊場巡りだった。

結果として、知らなかった佐渡を多く知りえた。

副産物もあった。

石仏に気がついたことである。

佐渡は、地蔵の島といってもいい。

それほど石仏地蔵に満ちている。

数多い石仏の中で、一点、惚れ込んだ地蔵があった。

モナリザの微笑みが「謎の微笑み」なら、このお地蔵さんの微笑みは「癒しの微笑み」と言えようか。

人々の苦悩を一切引き受けて、なおかつ、微笑を絶やさない。

無限の包容力で暖かく包み込んでくれる安心感がそこにはある。

雪に埋もれ、雨に打たれ、陽に焼かれる。

劣悪な環境に身を置きながら、微笑みを絶やさず合掌して立ちつくすその姿には、本堂の奥に鎮座するご本尊には感じ取れない、「ありがたさ」がにじみ出ている。

この出会いがあって、僕は一挙に石仏フアンになった。

あることに興味を持てば、本を読んで知識を得ようとする。

誰もがそうするように、僕も石仏の本を買ってきた。

その中に、若杉慧氏の本があった。

若杉氏の住居は練馬区にあったから、とり上げる石仏は必然的に練馬区の石仏が多くなる。

隣の板橋区の石仏もしばしば登場した。

僕は板橋の住民だから、彼を魅了してやまない石仏に会いに行くのは、簡単なことだった。

こうして、まず、板橋の石仏めぐりが始まった。

この頃、読んだ本には、佐久間阿佐緒氏の著作も何冊かあった。

佐久間氏の関心事は、江戸の石仏墓標。

石仏墓標だから、地蔵と聖観音、如意輪観音がメインのターゲットとなる。

これは、石仏初心者には分かりいい素材だった。

仏像の造形が見慣れたものだったからである。

墓地に入り込んでは、手当たりしだい写真を撮りまくった。

無縁塔があれば、大喜び。

数が稼げるからである。

撮った写真は、場所(主として寺、時に神社や路傍)、像容、制作年代別に分類した。

去年(2010年)、回った寺社966、撮った枚数は2万5000枚となった。

撮っているうちに気付いたことがある。

墓地と境内の石仏には、違いがあるのだ。

庚申塔は、境内にはあるが、墓地にはない。

境内にある如意輪観音は、十九夜塔の主尊であって、墓標ではない。

そうしたことは、撮影の現場を多摩地区、埼玉、千葉、神奈川など23区外に求めることで、より鮮明になった。

都内には少なくなった庚申塔や夜待塔が、近郷にはまだまだ多く残っているからである。

石仏フアンと言いながら、僕は、青面金剛の庚申塔を敬遠してきたきらいがある。

まず、その像容が見慣れないものだった。

庚申待ちという人々の営みも、なかなか想像できない。

だから、ついつい青面金剛にレンズを向けなくなる。

ましてや、文字塔などは論外だった。

しかし、23区外に足を延ばすとそんなことは言っていられなくなる。

圧倒的数量の前に、個人的趣向など吹き飛んでしまうのだ。

最初は、庚申塔1種類の分類が、青面金剛と猿田彦に分かれ、そこに夫々の文字碑も加わるのは時間の問題だった。

すぐに、青面金剛は、2手、4手、6手、8手に分類され、青面金剛以外の主尊、阿弥陀如来や地蔵菩薩から石祠や宝筐印塔に至る種々雑多の主尊別分類も必要になる。

下部の猿も1猿から3猿まで区分される。

夜待塔の分類にも同じ試行錯誤があった。

地蔵の微笑が素敵だからと始まった石仏めぐりは、こうしてなにやら、複雑な事態に陥ることになった。

ここで、今日のタイトル「帝釈天三猴」に話を持っていこう。

今年(2011年)は桜の開花が遅れて、東京では、おととい満開となった。

石神井川の桜並木を王子方向に向かうと谷津大観音が座している。

東京大仏に匹敵する巨大観音だが、地元の人しか知らない無名の観音さまである。

桜と観音様を撮りたかったのだが、真横の桜が枯れていて、さえない写真になった。

この大観音を所有する寺は「寿徳寺」。

100メートルも離れていない場所にある。

確認したいこともあって、寺に寄ってみる。

確認したいことというのは、地蔵を主尊とする庚申塔があると聞いたからである。

2年前に「寿徳寺」の石仏写真は撮ってある。

分類仕訳を確認してみたが、地蔵は何体かあるが、庚申塔に分類されているものはない。

しかし、当時は、庚申塔への関心は薄く、また知識もなかったので、見逃した可能性が高い。

境内に入り、左手の無縁仏コーナーへ向かう。

墓標にしては大きな地蔵立像が目に入ってきた。

目線をパンダウン。

三猿がいる。

庚申塔に間違いなかった。

 

この地蔵庚申塔から最も離れた所に「帝釈天三猴」の石碑があった。

「猴」が猿の異字であることは知っていたから、もしかしたら、これも庚申塔かと思った。

家に帰り『日本石仏事典』を開く。

推測は正しかった。

帝釈天は、庚申塔の主尊であり、「帝釈天王」、「帝釈尊天」などの文字碑は広く分布するとある。

何が言いたいかというと、「石仏散歩」と題してはみても、僕の石仏知識はこの程度のことだということである。

撮影に出かけるたびに不明な像容、読めない文字にぶつかって、それを調べるのが一苦労。

調べても分からないことの方が多い。

無知の間違いをいくつも重ねたブログになりそうだ。

それを気にしていたら、一行も書けないことになる。

間違いを指摘し、訂正してくれる奇特な御仁の出現を待つばかりなのである。