石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

13 永代橋崩落溺死者供養塔

2011-09-15 09:41:22 | 石碑

2基の石碑がある。

Aは、背後の2基の宝筐印塔の説明碑。

 A 「永代橋沈溺横死者諸亡霊塔」     海福寺(目黒区)

「永代橋沈溺横死諸亡霊塔」と刻されている。

         B               徳願寺(市川市)

Bの刻文は「文化四丁卯年八月十九日永代橋溺死精霊頓悟覚道之也」。

 共通するのは「永代橋溺死」だが、Aは目黒区の、Bは千葉県市川市の寺の門前にある。

永代橋崩落溺死者の供養塔が、なぜ、永代橋からはるか離れた場所にあるのか、それが今回のテーマだが、同時に永代橋崩落事故の惨状とその原因についても、にわか勉強で知りえたことを書き記したい。

 

現在、隅田川の車と人の併用橋は14を数え、これを「隅田川14橋」という。

このうち江戸時代からのものは、4橋だけ。

永代橋はそのひとつで、元禄11年(1698)、両国橋、新大橋についで架橋された。

鉄橋になったのは、明治30年(1897)。

日本初のトラス橋はその男性的景観が愛でられた。

しかし、関東大震災で壊れ、大正15年(1926)、震災復興事業1号として現在の橋が架けられた。

放射線状の巨大アーチは、これもまた男性的景観を有し、その豪快かつ優美な造形は人々を魅了してやまない。

   永代橋の巨大アーチ

国の重文に指定されている。

下の写真は、永代橋を隅田川東岸から撮ったもの。

右手に見える梯子状の白い橋は日本橋川にかかる豊海橋。

江戸時代の永代橋はこの豊海橋の右手から橋脚が伸びていた。

現在地点から上流に100-150メートルの地点だと言われている。

豊海橋のたもとの石碑に永井荷風の文章がある。

  豊海橋鉄橋の間から永代橋を見る

「豊海橋鉄骨の間より斜めに永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」(『断腸亭日乗』永井荷風)

永井荷風はメンバーではないが、明治末期、江東区側の橋のたもとの永代亭なるレストランが文壇サロン「パンの会」の溜まり場だった。

「パンの会」の幹事役は木下杢太郎。

雑学的知識を付け加えるならば、永代橋の設計者、復興院土木部長太田円三は杢太郎の実兄である。

 

今回の主題である「永代橋崩落」事故に話を戻そう。

崩落したのは文化4年(1807)、700人とも1500人ともいわれる確かならざる多数の人たちが溺死する大惨事だった。

文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図(江戸東京博物館所蔵)

「『わあ、橋が落ちたッ』
『危ないッ』
『押すなッ、押さないでくれえ』
 怒号も悲鳴も、はるか後方に犇めく大群衆の耳には届かない。つかえていた前が急になめらかに動きだしたのに勢いづいて、やみくもに寄せてくる。押し出された心太さながら、とめどなくこのために人が落下した。橋杭の根元は泥深い。あとからあとから落下してくる人体に、先に堕ちたものは押しつぶされ、泥に埋まって窒息したし、かろうじて泳ぎだした者も八方からからみつかれ、動きがとれなくなって共倒れに沈んだ」。(『永代橋崩落』杉本苑子)

 すべて出来事には因ってきたる原因がある。

 永代橋崩落の第一の原因は、老朽化であった。

橋が架けられたのは、元禄11年(1698)。

崩落の109年前のことである。

それまでは舟による「渡し」であった。

橋を架けないのは、江戸防御の戦略からだったが、天下泰平となって橋が架けられた。

      鍬形紹真「江戸名所之絵」(享和3)

だが、大水、洪水が相次ぎ、永代橋は破損、その修繕費に音をあげた幕府は享保4年(1719)、橋の取り払いを決める。

 架橋からわずか20年後のことであった。

橋の便利さに慣れた地元町民は大反発。

橋存続の嘆願が功を奏して、「永代橋を下付して市人の有とす」ることとなったが、当然、修繕費は町人たちの負担としてのしかかってくる。

橋銭を徴収することとなった。

「番人二人をり、笊に長き竹の柄を付たるを持て、武士、医師、出家、神主の外は、一人別に橋を渡るものより、銭二文づつ取けり。人の渡らんとするを見れば、件の笊を差し出すに、その人、銭を笊に投入れて渡りけり」(『兎園小説余録』滝沢馬琴)

幕府がすべき橋の管理を民間がやるのだから、抜本的修繕をすることなく、洪水の度ごとにその場しのぎの修理をして90年が過ぎた。

橋は疲弊しきっていたのである。

   長谷川雪旦「江戸名所図会」の永代橋

 

永代橋崩落の原因の二つ目は、降り続く雨。

8月15日の富岡八幡宮の祭礼は、雨で順延し、19日開催となった。

時は文化、文政の頃、江戸文化爛熟の時代である。

             富岡八幡宮HPより

祭礼見物の人の波は深川へ深川へとひきもきらなかった。

しかも、この年の祭礼は12年ぶりということで、人々の気持ちは高まるばかり。

4日じらされた鬱憤は爆発寸前だった。

だが、このはじける人々の気持ちを無理やり押さえつける出来事があった。

崩壊の原因、その3は一橋様のご通行。

「折から一ツ橋様(将軍家斉の父君)ご見物の為にや、御船にて御通行ありしかば、巳の時より人の往来を禁めて、橋を渡させず」(『兎園小説余録』滝川馬琴)「御船が橋の下を過ぎたところで、役人は非常線を撤した。今まで堰かれていたいらだちから老いも若きもみな半きちがいとなって橋の上を西から東へ突進した」(『永代橋墜落の椿事』矢田挿雲)

鶴岡蘆水描く両国橋だが、橋を渡る人々の風俗の感じがよくでているので。

重さと激動に耐えかねて、橋は崩れ落ちた。

「水中花がいっせいに開いたように、このとき川面には、派手やかな、さまざまな色彩がぱっと浮き上がった。落ちた人々の衣装、日傘、風呂敷包み、挟箱、あるいは黒髪、化粧もなまなましい顔や手足などが流れに呑まれ、見え隠れしながら、あがき狂いつつ拡散しはじめたのである」(『永代橋崩落』杉本苑子)

「一、十九日四ツ半時、怪我人五十人と聞へし、駕籠が一丁、日傘は沢山ながれしとなり。八つ半時八十人、夕方百八十人といへり。
 一、廿日朝、三百人余、内女八十人余、同日佃島辺にて揚げ候人、七十余人となり、いずれ両日にて四百人程と申候」(『夢の浮橋』太田南畝)

『夢の浮橋』の著者、大田南畝は、狂歌師、戯作者として有名な蜀山人その人である。

「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」。

彼はまた幕府の勘定方役人でもあり、この惨事をたまたま船の上から見ていた。

『夢の浮橋』には、惨事に関わる人間模様が列挙されている。

週刊誌の遊軍ライターやテレビの芸能リポーター顔負けの人間臭い事件記事で、身分を生かして官の内部情報をすっぱ抜く特ダネもある。

杉本苑子の『永代橋崩落』は8話の短編集だが、ネタ元は『夢の浮橋』ではないか。

同じく『夢の浮橋』から発想を得たのではないかと思われるのが、落語「永代橋」。

 

主人公は露天古着屋の太兵衛さんと同居人の小間物屋・武兵衛さん。
今日は深川八幡のお祭り。
武兵衛は太兵衛に留守番を頼み出かけてゆく。
永代橋に来かかると大変な人ごみ。
どんとぶつかって来たものがいる。
「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」
懐を確かめると紙入れがない。
すられたが後の祭。
とぼとぼと引き返す途中、ばったり出会ったのが贔屓の旦那。
旦那にご馳走になっていると表が騒がしい。
永代橋が落ちて大騒ぎだという。
すりにやられてなければ、今頃は俺もと真っ青に。
一方、太兵衛は、行ったきり帰ってこない武兵衛を心配していると
番所から武兵衛が橋から落ちて死んだので遺体を引き取りに来いとのお達し。
家を飛び出したとたん、帰って来た武兵衛とばったり。
 
「言わねえこっちゃねえ、おめえは溺れ死んだんだから一緒に遺体を引き取りに行くぞ」。
「おい、きた」と一緒に番所に乗り込んだ。
死体を前に「これはあたいじゃねえ」と言う武兵衛の背中を太兵衛がポカリ。
揉めていると役人が紙入れを突きだした。
紙入れの書付からスリを武兵衛と勘違いしていたらしい。
「早合点して背中をぶちやがってがまんならねえ。お役人様、どっちが悪いかお裁きを
「いくら言ってもお前は勝てん」
「なぜ」
「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」

 それにしても大惨事をネタに笑い飛ばすとは、懐の深い世の中だったものだ。

今、東日本大震災を落語にしたら「良識」派とやらがこぞって批判の嵐を巻き起こし、大変なことになってしまうだろう。

なにしろ「死の町」と言ったからと大臣の首が飛んでしまう世の中だ。

「住めなくなった町」を「死の町」と言ってどこが悪いのか。

むしろ被災者の真情ではないかと思うのだが。

話は横道にそれて、それまくってしまったようだ。

最初の2本の石碑、石塔に戻ろう。

Aの「永代橋沈溺横死諸亡霊塔」なる2基の宝筐印塔には、江戸の町名と町内溺死者の戒名が刻まれている。

 赤坂麻布の下には「倒○沈水信士」や「破橋投水信士」の戒名が見える。

 別な側面には「土中ヨリ掘出所 亡骨之髑髏 四十人信男 二十人信女」とある。

「永代橋崩落溺死者供養塔」が、なぜ、目黒区の「海福寺」にあるのか、その訳は東京都教育委員会の解説板に詳しい。

 

「海福寺」は深川の寺町にあった。

江戸名所図会に載っている。

境内が広い寺だったようだ。

跡地は、今、明治小学校になっている。

  江戸名所図会の「海福寺」 「海福寺」跡地の明治小学校(江東区深川2)

目黒区に「永代橋崩落溺死者供養塔」がある訳は分かりやすかった。

「海福寺」が深川から目黒に移転したからである。

だが、千葉県市川市行徳の「徳願寺」の石塔は、そんなに単純ではない。

 「徳願寺」(千葉県市川市本行徳)。右の提灯の後ろの石柱が供養塔

「徳願寺」と永代橋には何の関係も見られない。

山門に「文化四丁卯年八月十九日永代橋溺死精霊頓悟覚道之也」なる石塔が立つ由縁を記した文書も寺にはなさそうだ。

市川市歴史博物館の学芸員もその点は認めている。

かくたる理由がなければ、想像で補うしかない。

こういう想像はどうだろうか。

隅田川から海に流れ出た溺死体は、やがて行徳海岸に打ち上げられた。

現在の行徳海岸(江戸時代はもっと左手奥の方までが海だった)

その遺体を厚く葬って供養したのではないか。

残念ながら行徳海岸に死体が流れ着いた記録はないが、その可能性を示唆する記述が大田南畝の『夢の浮橋』にある。

「一、後日、房洲の浦辺へ上がりし溺死の屍二十ほど、いづれも女にて、男は一人な   らではなしといふ。

 一、佃島にても、屍八十人ほどあがりし、内男は二十ほどのよし」

 一、二三日過て、羽田沖、又は角田川油堀辺よりも死骸浮上りし由」

しかし、この仮説だと説明が難しいのが、石柱台石の「日本橋」「構中」の文字。

 なぜ「日本橋」なのか、いぶかるのは当然だが、実は、行徳には「日本橋」と刻んだ石造物がもう1基ある。

旧江戸川行徳船着き場の常夜燈に「日本橋」の文字が。

             ブログ「ベイタウン旅行倶楽部」より

日本橋の成田山講中が奉納した常夜燈である。

江戸の人たちが成田山詣でをするには、日本橋小網町から船に乗り、小名木川、中川を経て、行徳に着き、ここから陸路成田山へと向かったのでした。

嘉永年間(1848-54)には、62艙もの船が行き来していたと記録されている。

行徳と日本橋はこうして密接な関係があったのです

永代橋崩落の溺死体は行徳海岸に打ち上げられた。

地元の人たちはその遺体を手厚く葬り、「徳願寺」でその成仏を祈願した。

その噂を聞いた成田山参詣の「日本橋講中」が、江戸市民を代表して感謝の気持ちをこめて供養塔を建立した。

僕はそのように想像する。

学者ではないから気が楽だ。

自由気ままに想いを馳せる楽しみがある。


12  謎の「烏八臼(ウハッキュウ)」

2011-09-01 09:44:41 | 墓標

今年、73歳。

この歳になると物事に動じなくなる。

感受性が鈍くなってきたからだろうか。

だが、先日は驚いた。

電車で娘にばったり出くわした。

娘といっても、大学生の息子がいるおばさんなのだが。

午後1時ころ、所沢から西武線で池袋に向かっていた。

吊革につかまっている後姿が似ているので、思わず声をかけた。

声をかけられた娘も、こんなところに父親がいるとは思わないから振り向きもしない。

三度めでやっと振り返った。

「え、どうして?」

二人してその奇遇に驚きあった。

 

実は、この日の午前中、もうひとつ、偶然の出会いがあった。

来迎二十五菩薩石像を見るために、武蔵村山市の「滝の入不動」へ行った。

その帰り道、「バス停長円寺」でバスを待つ間、石仏でも見ようかと「長円寺」へ寄ってみた。

        長円寺(武蔵村山市本町3)     「烏八臼」板碑型墓標

ありきたりの曹洞宗寺院だったが、本堂裏の墓地の入り口の3基の墓標を見て驚いた。

その上部に「烏八臼」が刻まれていたからである。

 

漫然と墓地を歩いていて、「烏八臼」に出会う確率は1万分の1よりも小さいだろう。

それほど珍しい出来事なのである。

都内23区を例にとれば、各区に「烏八臼」の墓のある寺は1,2か所。

1区に5基もあれば、多い方なのだ。

1基もない区が8区もある。

「烏八臼」は「ウハッキュウ」と読む。

墓標の戒名の上に「帰真」とか「帰元」などの文字があるが、「烏八臼」も戒名の上に刻まれている。

 

罪滅成仏の功徳を与える文字記号らしいのだが、その意味合いは判然としない。

『日本石仏事典』には9種類の字義が挙げられ、「烏八臼をたずねて」(関口渉)『日本の石仏』NO

115では、なんと19種類もの字義諸説が列挙されている。

そもそもなんで「烏」と「八」と「臼」なのか不明らしいのだから、お手上げである。

「烏八臼」は室町時代から江戸時代中期の墓標で、曹洞宗寺院の墓地に多く見られる。

「烏八臼」に関する江戸期の文献もあるというのに、今に至るも意味不明というのは、不思議なことと言わなければならない。

 「烏八臼」を知ったのは、『日本石仏事典』でだった。

本編ではなく、付録の部に記載されているから、編集部も自信がなかったのだろう。

字義を特定できないのでは、無理からぬことではあるが。

それでも「へえーっ、面白いことがあるんだ」と思った記憶がある。

初めて実物に出会ったのは、今年6月、町田市の「高蔵寺地蔵堂」でだった。

 

    高蔵寺地蔵堂境内             「烏八臼」の墓碑

ガイド本『新多摩石仏散歩』で「烏八臼」の墓標があることを予め知っていたので驚きはしなかったが、「初物」だったので感慨深いものがあった。

2度目は、野田市「宗英寺」墓地で。

 

 宗英寺の「烏八臼」双式板碑型墓標

7月のことだった。

参考ガイド『石仏見学会83「野田市・関宿城下の石仏」』(日本の石仏NO132)では、「烏八臼」に言及していない。

それなのに「烏八臼」墓標と分かったのは、ブログ「お地蔵さんの石仏あれこれ日記」を見ていたから。

「あれこれ日記」のブログ氏は、『日本の石仏』の「石仏の旅」と「石仏見学会」、それに『石仏地図手帖』のコースを歩いて、石仏写真を載せるのだが、「宗英寺」では「烏八臼」の双式板碑の写真を載せてある。

そこに「烏八臼」墓標があると分かっているのに、中々、見つけられない。

あとで気がついたのだが、「高蔵寺地蔵堂」の「烏八臼」は、「烏」が旁だった。

これが「烏八臼」のフオルムだと思い込んでいたようだ。

「宗英寺」の「烏八臼」は縦型で「八臼烏」の組み合わせだったので、見逃していたらしい。

「烏」と「八「と「臼」の組み合わせは、自在に変化するのだということを初めて知った。

そのことを再確認したのは、「大円寺」(東京・文京区)でだった。

4基の墓が並んでいる。

 

  大円寺(文京区)墓地の「烏八臼」墓標

同一家系の墓標で、右から、慶長、五輪塔の次が寛文、左端が延宝に造立されている。

右端の慶長十五年の墓は、「烏八臼」墓標としては都内最古と目されているらしい。

 

  慶長十五年の「烏八臼」墓標

卍の下に縦に「八臼烏」と刻まれている。

ところが寛永と延宝の墓標の「烏八臼」は横型で「烏」が旁に変わっている。

寛文のは「旧」で延宝は「臼」になっている。

 

    寛文期の「烏八臼」        延宝期の「烏八臼」

江戸時代の初期だから、時代風潮は保守的で、先例が重視された。

ましてや墓標である。

恣意な創意工夫は忌避されたはずである。

慶長年間の先祖の墓に「八臼烏」と縦に組み合わせているものを、寛永になって、何故、横型に変えたのであろうか。

推測するのだが、「烏」、「八」、「臼」の三要素があれば、その組み合わせは自由、罪滅成仏の功徳は不変という言い伝えがあったのではないか。

「烏八臼」が不定形記号となった、これが理由である。(と、思う)

 

不定形記号だから、縦型には、「八」の他に「烏」を冠にするものと「臼」を冠にするものがある。

 

   福昌寺(渋谷区)       松林寺(杉並区)

横型では、「烏」が偏になっているのもある。

 

  円福寺(板橋区)

「八」は変わりようがないが、「烏」と「臼」は変幻自在。

いろいろなパターンが見られる。

 

「烏八臼」墓標のある寺は『日本石仏事典』、「ウハッキュウを考える」金子弘『日本の石仏』NO41ほか一連の金子氏の報告、「烏八臼をたずねて」関口渉『日本の石仏』NO115に記載されている。

僕は板橋区民だが、関口氏によれば、都内で「烏八臼」が一番多い地区は板橋区の48基だそうで、これには意表をつかれた。

都内最多寺院として挙げられた「円福寺」には何度も足を運んでいる。

見栄えのする石仏が多いから、ついつい写真を撮りに行くことになる。

たが、「烏八臼」には気付かなかった。

当時は「烏八臼」そのものを知らなかったのだから、無理もないが。

早速、写真フアイルをチェック。

上部に「烏八臼」が刻まれている石仏が確かに2,3点ある。

早速、「円福寺」に行ってみた。

無縁塔に多数の「烏八臼」を確認。

 

 円福寺(板橋区)                

石仏墓標が多いのが特徴か。

庫裏へ行って住職に訊いた。

しかし、「烏八臼については、何も分からない」という返事。

金子氏や関口氏から問い合わせの電話か手紙があったか聞いたが、そういう記憶はないとのこと。

となると、「板橋区では3か所47基」という記載内容は、板橋区のすべての墓地を歩き回った上での結論ということになる。

これはもうとんでもない労苦の産物と言うほかない。

板橋区だけではなく、東京都内は勿論、関東一円の寺院を網羅しているようだから、その調査の具体像は想像することもできない。

ところで、「烏八臼」の所在地については、ある偏った特徴があるようだ。

板橋区では、「円福寺」に44基、同じ赤塚の「上赤塚観音堂」に2基、「松月院」に1基、計47基となっている。

 

赤塚観音堂の「烏八臼」庚申塔(左) 松月院(板橋区)の「烏八臼」墓標(左)

1か所にドンと多数の「烏八臼」が存在し、周囲の2か所に1-2基ずつあるという図式は、板橋区と境界を隣り合わせの戸田市でも見られるのだ。

戸田市では、市の西部、美女木の「妙厳寺」に44基、近くの「安養寺」と「徳養寺」に1-2基ずつあって、板橋区とまったく同じ形になっている。

 

 妙厳寺(戸田市美女木)には44基の「烏八臼」

 

 徳称寺(戸田市美女)の「烏八臼」 安養院(戸田市美女木)の無縁塔

80基もある行田市の「天洲寺」に行った時も、近くの曹洞宗寺院「清善寺」にも寄って探して見た。

案の定、1基あった。

 

「烏八臼」80基の天洲寺(行田市) 清善寺(行田市)の「烏八臼」五輪塔

なぜ、こんなに濃淡があるのか、理由は不明だが、「烏八臼」そのものの全体像が謎に包まれているのだから、仕方がない。

石仏めぐりに、もう一点、注意を払うべき視点ができたようだ。

いつか、続編を書ければいいなと思っている。