石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

135徳本行者と名号塔⑨花押と道歌

2018-06-24 08:36:37 | 六字名号塔

六字名号塔には、普通、六字の下に、サインと花押がある。

徳本名号塔のサインは、縦に読みやすく「徳本」。

その下の花押は、〇に十字を切ったような形です。

この花押について、徳本本人は「鬼殺す心は丸く田のなかに南無阿弥陀仏と浮かぶ月影」の歌が元歌だと説明していると云われています。

これは、鬼の字の冠の部分の田を丸くし、下部の脚を心に変えて、田の中に入れたもの。

澄み切った心で称名する様子を表していると『平塚の石仏』は、解説しています。

「鬼殺す・・・」の歌もそうですが、市井にあって、阿弥陀仏の信仰を分かりやすく教えるのに、徳本行者は、歌を多用しました。

説法において、あるいは画讃として、生涯詠った道歌(道徳歌)は、約1500首。

その平易で直截な内容は、単刀直入に庶民の心に迫り、教化の力となりました。

その道歌の全ては、阿弥陀仏賛歌であり、念仏賛歌でした。

舟はかじ 扇は要 往生は 南無阿弥陀仏と決定(けつじょう)の心

三心も4修も五念も 南無阿弥陀仏 申斗りて 往生ハする

唯申せ よろづの罪は ふかくとも 南無阿弥陀仏に かつ罪はなし

 行者にとって阿弥陀仏は、絶対的存在で、阿弥陀仏を慕い、ひたすら声高にその御名を唱えるのでした。

物知るも 知らずも俱に 隔てなく 救ひ玉ふや 南無阿ミた仏

一筋に 南無阿ミた仏を 唱れば 十方法界 ミだのふところ

阿弥陀仏憧憬の念は、阿弥陀仏を恋人に見立てる恋歌にもなります。

長閑なる 霞の衣 春ハ着て 思ひハ阿ミた 恋は極楽

阿ミた阿ミたと 恋する身にハ 胸に仏の たえまハなひそ

恋人の阿ミたに 惚れてそやされて 連て行そよ そへつ極楽へ 

 「恋人の阿弥陀」なんて、まさに徳本行者の独壇場。

他のどんな上人や祖師たちも想像もつかないこの独特表現は、庶民の心にぐっと刺さって、化益に役立つのでした。

大衆受けするとなれば、卑猥な表現もいとわないのが、徳本流。

徳本が産れ故郷を御尋か 臍の下なる ししか谷なり

念仏は雪隠に居心持 綱にすかりて 息つめはよい

阿弥陀仏を讃え、念仏を勧めるとはいえ、まじめなものばかりではない。

我は只 阿ミた阿ミたと こふれ共 弥陀は唖かよ 物言てくれぬ

無理な事 絵仏木像ハ物いはぬ ただまうさんせ 阿ミた仏々

「弥陀は唖かよ」などという表現は、大衆のハートを射抜き、日課念仏へと人々を導いたのでした。

念仏は 南無阿弥陀ぶと 申さんせ 夫が本願 ほんの念仏

口さきで あミた仏々いへハよい 心なくして いはれるものか

阿弥陀仏賛歌ばかりではく、人の道を教え諭す歌もある。

我か事を云われて 腹が立ならハ 我人言を言ふな語るな

八百の 虚言を上手に並へても 誠壱ツに叶ハさりけり

身ハ軽く 勤ハ堅く 気ハゆるく 食細くして 身こそ安けれ

こうした道歌を、徳本行者は、説法の流れと趣旨に併せて、即興で詠ってみせた。

寺の住職と云えば、輿に乗る人というイメージの時代、雪隠まで比喩に用いて、俗に徹した徳本行者の説法は、とにかく大人気。

どっと笑いの輪が生じて、阿弥陀様を崇め、念仏に誘う説法の場だとは思えない砕けた雰囲気に会場は包まれていました。

≪参考図書≫

◇平塚市博物館『平塚の石仏』平成26年

◇中野尅子『徳本行者』増上寺出版 1978

◇岡村庄造「名号塔の知識⑤徳本弟子および類似名号書体 『日本の石仏』NO137 2011

◇戸松啓真ほか『徳本行者全集』全6巻 山喜坊仏書林 昭和50年ー55年


135 徳本行者と名号塔ー⑧徳本と佐渡

2018-06-17 17:02:49 | 六字名号塔

プロフイールにあるように、私の故郷は、佐渡。

加齢とともに望郷の念は募るばかりで「佐渡」の二文字を目にすると、すぐそこにズームインしてしまいます。

文化13年の徳本行者の信州・上州化益(けやく=人々を教え導いて仏道に入らせること)の旅の記録『応請摂化日鑑』をパラパラとめくっていたら、「佐渡大安寺」が目に飛び込んできた。

文化13年6月12日、信州〇〇に滞在、いつものように近郷近在からのご請待の願いの返事、途切れることのない信者たちへの対応の一部始終が記録される中、

佐渡大安寺へ本仏申上、唐紙壱枚之名号被下候、大安寺歓喜踊躍三拝して頂戴、即剋念仏講中取立百壱人、講中出来即名面帳差出

 佐渡相川の大安寺は、初代佐渡奉行・大久保長安の創建で、浄土宗。

相川の港を一望する一等地の斜面に立つ巨刹です。

寺の檀徒が結集して、講を組み、かねてから徳本名号札授与を願い出ていたものが認められた。

「歓喜踊躍三拝して頂戴」に、はるばる佐渡から来て、願いが叶った歓びが手に取るようにわかります。

更に徳本行者が信州から越中富山に足を延ばした8月19日、今度は「佐州」の文字が・・・

佐州羽田町若林忠三右衛門、村田七兵衛母さの、清右衛門右三人信州より富山江、相廻り当地迄罷出御待申上、

徳本行者は事前に請待の願いのあった者しか会わなかった。

当然面会を拒絶された佐渡の信者たちは、徳本行者の後を追って、富山まで来て、先回りして宿泊地で行者の到着を待っていた。

徳本行者も彼らの熱意にほだされて、会うことにする。

佐渡相川忠右衛門、同所七兵衛母さの、貰金水さらし、葛粉一袋ツ々御供養、今度三人之者御高髪剃願申上願出候、清右衛門共三人六万称相願、

三人はそろって、日課念仏6万遍の実践を行者に誓うのでした。

さらに

佐州河原田浄念寺講中名号を相願、

これは事前に文書で願い出ていた為か、その場で

忠三右衛門へ相渡ス

と名号が手渡されます。

そして5日後、糸魚川で徳本行者と別れて、一行は佐渡へと旅立ちます。

佐渡相川忠三右衛門江三人取名を相渡ス、難有之旨御請申上る、

七兵衛母明日之出立無覚束旨申聞候

 

写真フアイルで浄念寺(佐渡河原田)を探す。

あった。

山門入口の右手に徳本名号塔が立っている。

浄念寺は天正年間、木食弾誓上人がほんの一時期、修行していた寺でした。

佐渡からの4人は、そのことを徳本行者に話しただろうか。

木食弾誓を心の師と仰ぐ徳本行者にとって、弾誓の足跡が遺る場所は聖地であり、一度は訪れてみたい場所だったに違いないからです。

大安寺の講中に与えた名号を彫った石塔は、今、大安寺にはありません。

しかし、相川の水金遊郭跡地の先にある元専修寺境内に残る名号塔が、ほぼ唐紙一枚に相当する大きさで、信州で授与された名号札を彫ったものと思われます。

大安寺の関係者に与えられたものが、なぜ、遊郭跡地にあるのか、理由は不明ですが・・・

念仏の島佐渡には、六字名号塔が数多くありますが、徳本名号塔はこの2基だけ。

(と、断定は軽率ですが)

偶然その来歴が分かって、嬉しいことです。

≪続く≫

 

 

 


135 徳本行者と名号塔ー⑦平塚市の場合その4-

2018-06-10 12:10:21 | 六字名号塔

今年の桜は、早かった。

しかし、金目観音へ行った3月19日、寺の前を流れる金目川両岸の桜は、まだ、開花していなかった。

金目観音は、坂東三十三観音の第7番札所なので、以前、参詣したことがある。

徳本名号塔が2基、金目観音にあると資料で知り、写真フアイルを探すも、見つからない。

写真を撮るのは、被写体に関心があるからで、徳本行者について全く無知だった8年前の私が徳本名号塔にレンズを向けることがなかったのは、至極、当然のことです。

223cmの自然石の中央に南無阿弥陀仏と刻んだ徳本名号塔は、観音堂の左手、広いコンクリートの台座の上にゆったりと立っています。

その真裏の石柱は、前回紹介した徳本上人百回忌供養塔。

立派な徳本名号塔と百回忌供養塔が、ここ金目観音にあるのは、大会(おおがい)念仏西組の、初め念仏の寺だったからです

持参資料には、寺にお願いすれば、大会念仏の諸道具を見せてもらえる、とある。

社務所でその旨お願いする。

応対してくれたご婦人の答えは、しかし、「道具は、ここにはありません」。

徳本行者座像、六字名号掛け軸。鉦、太鼓などの諸道具は、西組のどこかへ運ばれたまま行方不明だというのです。

 

それならば、と西組「しまい念仏」の寺、土屋の大乗院へ。

 

西組は、初大会(はつおおがい)を金目観音で行い、北金目、真田、大根、本町落合など在家の家々を月ごとに回って、1年の最後の「しまい念仏」を大乗院で行った。

         大乗院(土屋)

戦前には、200名を超える講員がいたが、今はほぼ絶滅。

大乗院だけで、細々と念仏をあげるだけになっています。

お彼岸で多忙な住職に訪問の意図を告げると、諸道具は保管してあるとの返事。

快く見せてくれた。

真新しい本堂の左廊下の突き当りに、徳本行者が座しておわします。

天蓋に隠れてお顔は見えにくい。

住職が抱えてきた箱には、掛け軸が何本か入っている。

50代位だろうか、住職が、その意味をご存じない掛け軸もある。

大会念仏も年に1回、本堂でささやかに行うだけで、最盛期のことは知らないという。

徳本行者を描いた絵のある掛け軸もある。

これは、大会念仏の幟。

「大正拾五寅年吉日 中郡西組講中」とある。

十三仏の掛け軸も。

「道具は行方不明」と金目観音のご婦人が云った、その道具一式がこれ。

はじめ念仏の寺が、しまい念仏の寺に電話一本かけさえすれば、道具のありかは確かめられたのに。

それさえもなされなかったというのは、大会念仏は無関心のまま放置されて、すっかり過去の遺物となってしまった、とことになります。

≪続く≫

 

 

 


135 徳本行者と名号塔ー⑦平塚市の場合その3-

2018-06-03 05:42:29 | 六字名号塔

平塚には、徳本念仏講ではあるが、平塚にしかない「大会(おおがい)念仏」という独特な念仏講がありました。

「大会念仏」は、平塚地区を東西南北4つの地区に分け、それぞれの地域で盛大に行われてきました。

宗源寺は、「大会念仏」仲組の中核寺院として知られています。

④宗源寺(纏)

寺の山門横に徳本名号塔。

大会念仏仲組の拠点寺ですから、当然でしょう。

仲組には、徳延村を中心に30か村が組織化されていました。

毎年、1月19日に宗源寺で「初念仏」を行い、徳本行者の座像と念仏諸道具を大八車に載せて、次の村に向かいました。

  大会念仏の徳本行者座像(宗源寺)

こうして次々と村を回って、10月19日に宗源寺で「しまい念仏」を執り行って、大会念仏1年の行事を終了します。

   徳本講ではない念仏講の諸道具(平塚市博物館)

 

昭和50年代まで行われていた大会念仏も、次第に衰退し、今では、1月の初念仏だけが、ひっそりと行われるだけです。

宗源寺の徳本名号塔の注目点は、碑裏の刻字。

「五十回遠忌」と刻まれています。

平塚市には、この他、百回忌供養塔が、金目観音にあります。

このブログ「徳本行者と名号塔」の1回目は「江戸の流行神」でした。

徳本人気は、その騒がれ方が異常で、江戸の流行(はやり)神と云って差支えないと私は、断言しました。

そして、流行神には、「はやれば、すたる」という特徴があって、人気がかげるのも急速であることも付け加えておきました。

「五十回忌」や「百回忌」の供養塔があるということは、徳本行者は、流行神などではないということになります。

一過性の流行どころか、徳本念仏信仰は、地域に浸透し、長い生命力を持ち続けていたことを2基の供養塔は証明していると言っていいでしょう。

徳本人気は流行現象だったと決めつけたことは誤りであった、とお詫びして訂正しなければなりません。

 

宗源寺の墓地にも、2基の徳本名号墓塔があります。

吉沢家の墓域にくっつくように立つ墓は、一つは称善、もう1基は香雲の墓石。

二人とも、徳本行者の弟子です。

称善は、前回のバス停横三叉路に立つ巨大名号塔の願主として、刻されていますが、大会念仏の組織化に助力し、徳本名号塔の造立を積極的に勧めたことで知られています。

徳本行者の説教を聞いて感激した称善は、弟子入りを願うも徳本に聞き入れられませんでした。

自らの熱心さを示すため、男根を切り落として、再び、願い出たという熱血漢。

どれほどの高弟だったかというと、小石川一行院で行われた徳本行者七回忌の法会に、相模の代表として参列を許される、それほどの高弟だったと云われています。

≪続く≫