持参資料によれば、碑の所在地は、小石川4丁目の東京学芸大学付属幼稚園とある。
幼稚園の入口を探して、春日通と裏道をぐるっと回ってみるが、見当たらない。
地図を見ると都立竹早高校の住所が、小石川4-2-1で 学芸大附属幼稚園と同一であることが分かる。
(地図を少し下にずらすと竹早高校がある。竹早中学校の敷地に幼稚園はあることになる)
竹早高校正門の守衛所で確認しようとしたが、あいにく守衛がいない。
通りかかった女性徒が、親切にも案内してくれた。
幼稚園は、竹早高校のフエンス下、切り立った崖下にあった。(多分、竹早高校を通らないですむ幼稚園の正門はあるのだろうが・・・)
◇杉浦重剛称好塾旧跡
杉浦重剛が自邸内に開設した称好塾は、三田の慶應義塾とならぶ有名私塾だった。
しかし、塾では学科授業はなく、塾生は各自、それぞれの学校に通っていた。
3人が机を並べる8畳は、勉強部屋でもあり、寝室でもあった。
授業がないのに入塾してくるのは、塾頭杉浦重剛の識見、人格に惹き付けられたからだという。
自由な雰囲気の中に節制があり、互いに切磋琢磨する環境は、多くの有為な人材を輩出した。
杉浦重剛は、安政2年(1855)、近江国膳所の生まれ。
明治8年東京開成学校を卒業、政府留学生として欧州留学、帰国後東京大学予備門長を務める。
大正3年(1914)には、東宮御学問所御用掛として、皇太子(昭和天皇)に倫理を進講した。
東京学芸大学付属幼稚園を出て、伝通院との間の坂道をゆるゆる下ると光円寺に着く。
◇震災殉職記念碑(小石川4-12-8光円寺)
墓地入口の手前左の奥にあるのが、「震災殉職記念碑」。
殉職したのは、博文館印刷所(共同印刷の前身)の社員41人。
墓地の向こうにに共同印刷の工場が見える。
工場の隣の寺の、工場が見える場所に、わざわざ建てられた「震災殉職記念」です。
博文館印刷所の震災エピソードのハイライトは、41人という社内殉職者の数もさることながら、崩壊した工場がわずか4か月前竣工したばかりの新工場だったこと。
その間の経緯が碑面に詳しく記されています。
震災殉難記念碑
絶大ノ惨害比類ナキ大正発亥九月一日ノ大震災ニ博文館印刷所モ亦其災ニ罹リテ新築ノ工場倒壊シ特ニ優秀ナル工員四十一ヲ亡ヘルハ真ニ痛恨ニ堪ヘザルナリ其工場ハ総テ三層八百八十坪鉄筋混擬土ヲ材トシ大正十一年二月ニ起シ設計周到監督厳密翌年五月落成ス即チポイント製版印刷工場トシ第一階ハ文選及校正部ニ充テ各部工員三百有余人ハ皆選バレテ新工場ニ入ルヲ栄トセリ図ラザリキ竣工後僅カニ数月忽チ大震災ノ為ニ全部崩壊シ幾多ノ犠牲ヲ出サントハ嗚呼是レ天ガ命カ将タ人事ノ未ダ尽サザル所アリシカ今茲ニ遭難一周年ニ臨ミ印刷所ハ追悼会ヲ催シ碑ヲ建テ殉難諸氏ノ名ヲ碑陰ニ録シテ以テ英霊ヲ慰メ兼テ記念ト為スト云爾
大正十三年九月一日
水哉 水谷善四郎撰
半峰 山口彦総 書
境内には、共同印刷による碑の解説板がある。
碑文と重複するところもあるが、転載しておく。
震災殉職記念碑
大正12年9月1日の関東大震災は、死傷者15万人余、罹災者340万人余と未曾有の大惨事であった。共同印刷株式会社の前身である博文館印刷所でも、鉄筋コンクリート3階建ての新工場と活版平台印刷工場の一部が倒壊し、不幸にも41人にのぼる多数の犠牲者を出した。
会社は犠牲者に対して深く哀悼の意を表するため、同年12月9日小石川伝通院において大追悼会を催すと共にこの惨状を後世に伝えるため翌13年9月1日に「震災殉職記念碑」を当光円寺境内に建立し、殉職者41名の氏名を碑陰に刻しその冥福を祈願した。
昭和20年5月25日、太平洋戦争の最中、米軍機B29の焼夷弾により、当社周辺は猛火を浴び当記念碑も碑石に亀裂が生じたため、昭和41年碑陰にコンクリートを塗布し補強した。この時、殉職者氏名が一部欠落しており拓本等にとることができなかったことは、誠に痛恨の極みである。
現在、ご遺族の申し出による殉職者は、ポイント校正課長小林勘六、文選工高麗愛信の両氏であり殉職者氏名を各方面にわたり調査、探求したが、六十有余年の歳月の壁は厚く手がかりを得られないでいる。殉職者氏名についてお心当たりの方は当社総務課までご連絡を賜りますようお願い申し上げます。
ここに「震災殉職記念碑」銘板の掲出にあたり、殉職者41名の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
平成3年8月 共同印刷株式会社