石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

132東京の芭蕉句碑巡り-3(中央区・文京区)

2017-10-25 08:54:01 | 句碑

前回の終わり部分で、芭蕉が俳句の世界に入るようになったのと、故郷・伊賀上野を出て、漂泊に身を置くようになったのは、主君藤堂良忠との関わりに、その原因があると述べた。

ここで、芭蕉の履歴を簡単に振り返ろう。

伊賀上野時代は、記録も少なく、推定を免れないらしいが、私の場合は、全部、受け売り、どれが史実でどこが推定か、自分でも分からない。

了承の上お読みください。

 

芭蕉は、寛永21年(1644)、伊賀上野城下に松尾与左衛門の次男として生まれた。

     松尾芭蕉の生家

幼名金作。兄と姉に3人の妹がいた。

町場でありながら百姓の身分だった父は、金作が9歳の時に死亡。

19歳で藤堂藩伊賀付侍大将藤堂新七郎家に台所用人として召し抱えられた。

父死亡から用人になるまでの10年間、どこで何をしていたのか不明。

俳諧には、古典文学の知識が不可欠だが、そうした知識をどうして得たのかも分かっていないらしい。

新七郎家の嗣子良忠が俳諧好きで、俳諧仲間として、金作を重用した。

だが、その安定も主君良忠の病死でついえ去り、23歳で用人を辞める。

当時、宗房の俳号で作句活動をしていたことは記録がある。

江戸に下ったのは、寛文12年、宗房29歳のことであった。

その目的は俳諧師になることだったが、無名の田舎者としては、心細いことだったろう。

        伊賀鉄道上野駅前の芭蕉立像

京都は貞門俳壇の本拠地であり、大阪は談林派の影響下にあって、新人俳人の喰い入る余地はなかった。

だが、江戸には、これといった俳諧師がいず、町には伝統に囚われない自由闊達な空気がみなぎって、新米宗匠として、成功の可能性が高いと踏んだに違いない。

芭蕉が草鞋を脱いだのは、日本橋小田原町のスポンサーの家。

 

今は、「日本橋鮒佐」(中央区日本橋室町1-12)がある場所に、幕府御用達魚問屋「鯉屋」があり、そこの主人、杉山市兵衛(俳号杉風)の家に身を寄せた。

芭蕉は、俳号を「宗房」から「桃青」に改め、俳諧師として仕事を始める。

その意気込みが読み取れる一句を彫った句碑が「日本橋鮒佐」前に立っている。

発句也松尾桃青宿の春」。

句碑の傍らに立つ中央区教委の説明板の内容は

松尾芭蕉は、漢文12年(1672)、29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680)、37歳までの8年間、ここ小田原町(現室町1丁目)小沢太郎兵衛(大船町名主、芭蕉門人、俳号卜尺)の借家に住んでいたことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時「桃青」と称していた芭蕉は、日本橋魚市場に近い繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠として独立した。その翌年正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに読み上げたのがこの碑の句である。碑面の文字は、下里知足の自筆から模刻した。」

説明板には、「東海道名所図会」の日本橋の絵があって、その解説もされている。

日本橋を北に渡った東側に魚市場があった。河岸には魚を満載した舟が漕ぎ寄せられ、早朝から威勢のいい掛け声で賑わっていた。この絵の右側乃ち北側二筋目の通りが、芭蕉の住んでいた羅尾田早生町で、そこにも魚屋が並んでいた。芭蕉は魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていたのである」。

 

地下鉄に乗るべく「銀座三越」前の地階通路を通っていたら、壁面に長尺の絵巻が展示されていた。

小田原町と思われる街区の一画をパチリ。

 

東京には、芭蕉庵が二つ残されている。

一つは、関口芭蕉庵(文京区関口2)で、もう一つは、深川芭蕉庵(江東区常盤1)。

桃青は、日本橋に8年いて、次に深川芭蕉庵に14年もの間、身を置くことになるのだが、その間、数年間、江戸川橋の西数百メートル、駒塚橋の北詰にある関口芭蕉庵に住んでいたことがある。

それが、関口芭蕉庵で、芭蕉は、ここに住み、神田上水の大洗堰の改修工事に従事していたと伝えられている。

巷間云われる現場監督などという位の高い役職ではなく、水道の監視や手入れ、掃除などの軽労働だったと云う説もある。

俳句の宗匠だけでは、生計が成り立たなかったからだというのだが、いやいや、これは彼に商才があったからだという人もいる。

商才説は、芭蕉が上水の浚渫作業を請け負っていたことに重きをおく。

江戸に出てまもない桃青が何百人もの作業人を調達できたのは、日本橋に身を寄せたパトロンが名主で、その名主業務の帳面方を務めていたからだというのた。

関口芭蕉庵だけでもこんなに諸説紛々、芭蕉像ははっきりしないのです。

 

 地下鉄「江戸川橋」駅を出ると神田川が見える。

橋を渡って左へ曲がると江戸川公園。

公園には、神田上水の取水口大洗堰の石組みの一部が遺構として残されている。

川伝いに西へ進むと「椿山荘」があり、その隣に「関口芭蕉庵」がある。

その光景を「はせを庵 椿やま」と題して、広重が描いたのが、下の絵。

ひときわ高くそびえる松は芭蕉庵のシンボル的存在だったが、昭和30年代、枯れ朽ちてしまった。

駒塚橋から延びる急坂が「胸突坂」。

胸突き坂の上りはじめ右側に、関口芭蕉庵の入口がある。

板戸の門をくぐるとぶつかる句碑が有名なかの

古池や蛙とび込む水の音 芭蕉桃青

池の辺に句碑があるから、この句は、ここで詠まれたのかと錯覚するが、そんなことはない。

とはいえ、ではどこの池でのことかというとこれが特定できないらしい。

だからか、東京23区内だけでも「古池や・・・」の句碑は、なんと8基も存在する。

この句碑の建立事由は碑裏に刻されている。

この碑は芭蕉翁二百八十年遠忌の記念として建立したものである。碑面文字は当芭蕉庵伝来の真蹟自画賛をも穀したものである。
           昭和四十八年十月十二日 関口芭蕉庵保存会建之

園内には芭蕉の葉が太陽光線を遮るように広がり、芭蕉が詠んだ芭蕉の句も披露されている。

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
 (わび住まいに雨漏りがしている。庭の芭蕉の葉にうちつける雨音と盥に落ちる雨音とがわびしさを強めている。)

鶴の鳴くやその声芭蕉やれぬべし
 (めったに鳴かない鶴が一声鳴けば、芭蕉の葉もやぶれることだろう)  

広くもない池の端まで歩いて、さらに小路を上ると「芭蕉翁之墓」がある。

碑裏には「祖翁瀬田のはしの吟詠を以て是を建て仍てさみだれ塚と称す 寛延三年八月十二日 夕可庵門生 園露什 酒芬路」とある。

神田川を向こうに広がる田んぼを琵琶湖に見立てて、芭蕉が詠んだ

五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
(五月雨にすべてのものが霞んでいるのに、瀬田の大橋だけがくっきりと浮き上がっている)

 この句の真筆を遺骨代わりに納めて墓としたもので、この「五月雨塚」は江戸名所の一つだったという。

この「芭蕉翁之墓」の上方に、芭蕉を初め、宝井其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草らの像を祀った芭蕉堂があるのだが、立ち入り禁止で近づけなかった。

近づけても非公開だから無意味ではあるが。

この他園内には、

「二夜鳴き 一夜はさむし きりぎりす 四時庵慶紀逸」

「真ん中に 富士聳えたり国の春 喜翁松宇」の句碑がある。

巷の喧騒から離れて静かな庭園は、散策にお勧め。

しかも入園無料。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-2(足立区)

2017-10-14 12:46:42 | 句碑

千住大橋を渡り、国道4号線の日光街道を進む。

千代田線を横切ったところの信号を左折、200mほど先に千住神社がある。

◇千住神社(足立区千住宮元町24-1)

 旧千住町の総鎮守だから、境内は広い。

参道を行くと右手に自然石の句碑。

「          慶応丁卯仲秋月
      ひとの短を云事なかれ
      己の長を説くことなかれ

 ものいへば唇
   さむし
     秌の風

            はせを翁

秌は、秋の異体字。

偏と旁が左右逆になっている。

「ものいえば 唇さむし 秋の風」

通常は、「余計なことを云うと災いを招く」意だが、「人の短を云事なかれ 己の長を説く事なかれ」の原文「無道人之短(人の短を云うことなかれ)、無説己之長(己の長を説くことなかれ)、「施人慎勿念(人に施しては慎みて念ふ勿れ)、受施慎勿忘(恩を受けたらいつまでも忘れずに)」の意は「謙虚」の意が強そうだ。

これが芭蕉の座右の銘であったかどうかは、定かではないという。

それにしても何故この句がここにあるのか、社務所の人に尋ねてみた、

「矢立初めの地の近くでもあるからでしょうか」とのことだった。

 

4号線と別れて、墨堤通りを右に、源長寺から宿場の旧道に入る。

北千住駅前通りを過ぎるとサンロードと宿場通りは名前を変える。

本陣跡や高札場の石碑があって、宿場の中心地だったことが分かる。

昼飯の行列の反対側、細い小路の突き当りに鳥居が見えて、そこが探す氷川神社だった。

 

◇千住本氷川神社(足立区千住3-22)

神社に近寄ると、若者が5,6人黙って、スマホをいじっている。

どうやらレアポケモンを倒すための急造インスタント集団のようだ。

お互いに一言も会話を交わさないが、目的は一致して、共同作業に励むというなにやら怪しげな現代的光景だ。

鳥居をくぐって突き当りを右に折れると本殿がある。

突き当りは、千住七福神の大黒天を祀る社。

そして芭蕉の句碑は、この社の前にある。

「   芭蕉翁奥の細道
    旅立参百年記念

  春もやや
    けしき
     ととのふ
    月と梅 

  千住本氷川神社
  平成再建世話人会」

梅の花もほころび、それに月の朧が加わって、いっそう春めいてきた、という句意。

解説書によれば、芭蕉の絵の先生であり、俳句の弟子、許六の家で描いた絵につけた画讃の句なんだそうだ。

世話人会が、なぜ、この句を撰んだのか、その真意はまだ訊いてない。

 

宿場通りが切れても先へ進むと安養寺にぶつかる。

◇安養寺(足立区千住5-17)

石仏の多い寺。

石仏に交じって、自然石の芭蕉句碑が横たわっている。

ゆく春や
  鳥なき
  魚の目ハ泪

大橋公園や素戔雄神社の句碑でなじみの旅立ちの句。

北のはずれとはいえ、ここはまだ北千住だから、旅立ちの句があってもおかしくはないが、碑面によれば、昭和29年、岡本某氏の還暦記念に建立したものという。

わざわざ訪ねて行って、他人の還暦記念の句碑では、なにか白けてしまう。

こうしたものまで、芭蕉句碑に入れるのか、要検討。

私は、反対の票を投じたい。

「奥の細道」の旅立ちが千住宿だったから、足立区に旅立ち関連の句碑が多いのは、頷ける。

だが、その足立区に「奥の細道」とは無関係な芭蕉句碑がある。

場所は、西新井大師。

◇西新井大師(足立区西新井1-15)

西新井大師には、100基を超える石造物がある。

しかし、句碑はわずか3基。

そのうちの1基が芭蕉の句碑なのです。

 「父母の
  しきりに
   恋し
    雉子の声

この句は、芭蕉が高野山で詠んだもの。

芭蕉が高野山へ詣でた目的は、彼の主君・伊賀上野の藤堂良忠の位牌を菩提寺に納める為だった。

良忠は、俳号を蝉吟と号し、芭蕉が俳句の世界に入るようになったのは、主君の趣味に合わせたからだという。

25歳という若さで没した蝉吟の死に無常を感じた芭蕉は、それ以降、故郷を離れ、漂泊しながら、俳諧に没頭するようになった。(Wikipediaより)

裏面には、「天保十二年(1841)、芭蕉翁百五十回忌追福のため建立」とある。

なぜ、この句が選句されたのかは不明だが、西新井大師本堂の右裏手には、「高野山奥の院」なる聖地があり、高野山との関係が深いことが分かる。


        

 

 

 

 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-1(足立区・荒川区)

2017-10-05 10:24:30 | 句碑

千住大橋を北へ渡っていた。

川面から目を川岸に転ずると何やら絵が目に入ってくる。

近づいて見ると「おくのほそ道 旅立ちの地」の文字と二人の男が描かれている。

当然、男たちは、芭蕉と曽良ということになる。

◇足立区立大橋公園(足立区千住橋戸町31)

北詰の大橋公園には、「奥の細道 矢立初めの地」なる石柱が立ち、『おくのほそ道』関連の資料や地図が散見できる。

狭い公園の奥には、黒御影の石碑があり、「史跡 おくのほそ道矢立初の碑」と刻されている。

千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそそぐ
 行春や鳥啼き魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なほ進まず、人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと見送るなるべし」

傍らに「裏面もお読みください」とあるので、狭い空間に入り込む。

突っ張る腹が邪魔で、屈みにくいところを無理して読んだ内容は、「深川から舟で千住まで来た芭蕉は、このあたりで上陸、旅立って行った」というもの。

ここ千住大橋は、家康入府の4年後、文禄3年(1594)架橋された。

これによって、千住は東北地方への起点となり、品川、板橋、内藤新宿とともに江戸四宿の一つとなった。

   足立郷土博物館展示模型

宿場は多くの旅人たちで賑わった。

旅籠が多いのは想像できるが、それを上回る料理屋があったことは、あまり知られていない。

当時、長旅には、死と隣り合わせのリスクがあった。

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」。

これは、『おくのほそ道』の有名な書き出しだが、芭蕉は、すぐそのあとに「古人も多く旅に死せるあり」と書いている。

        芭蕉座像

長旅に出る旅人を、盛大な別れの宴を張って、人々は水盃を交わして見送った。

この宴を「サカオクリ(境送り)」と云い、無事帰ってきた場合は、「サカムカエ(

境迎え)で祝った。

これらの儀式は、宿場の料理屋で行われたから、必然的に料理屋の数は増えた。

『おくのほそ道』では「これを矢立の初として、行く道なほ進まず。人々は途中に立並びて、後かげの見ゆる迄はと見送るなるべし」とあるから、

見送りの人たちは、芭蕉と曽良の姿が見えなくなるまで、手を振りながら見送ったことは確かだが、その前にサカオクリの水盃をどこかの料理屋で交わしたにちがいない。

公園の隅の鉄製の階段を上り、堰堤の向こう側の川岸テラスに下りる。

さきほど橋の上から見た文と絵が大きく眼前に広がっている。

芭蕉関連と千住大橋の資料が拡大されて展示されているようだ。

川の水は鉛色で、不透明。

鮎の子の白魚送る別れかな

これは、旅立ちの句「行くはるや鳥啼き魚の目は泪」の前に予定されていた句だが、

解説書によれば、鮎の遡上は白魚に遅れること1か月後なので、芭蕉と曽良を白魚に、見送りの人たちを鮎に見立てた旅たちの句ということらしい。

推敲の上、芭蕉はこの句を採らず「行くはるや鳥啼き魚の目は泪」にしたという。

この句から、当時は、墨田川に白魚がいたことがよく分かる。

現在の川の濁り具合からは、想像もできないが。

公園を後にしながら、ふと「芭蕉の句碑巡り」はどうだろうか、と思った。

帰宅して調べたら、都内に80数基の句碑があることが分かった。

都内のみならず全国の芭蕉の句碑を網羅したサイトもある。

改めて拙いブログをUPすることには、躊躇するところが無きにしも非ずだが、俳句勉強の魅力は避けがたく、今回からテーマを「芭蕉の句碑巡り」にすることにした。

問題は、私の俳句の理解力不足。

ほとんど句意を読み取れない。

こんなことでは、句碑巡りなんてとんでもないが、解説書の助けを借りて、よちよち歩きのままスタートすることに。

早速、翌日、動き出した。

 

 ◇素戔雄神社(荒川区南千住6-60)

まずは、千住大橋に一番近い南千住の素戔雄(すさのを)神社から。

この神社には、「奥の細道首途(かどで)」なる碑がある。

建立されたのは、文政3年(1820)、「おくのほそ道」の131年後のことだった。

川向うの大橋公園の「旅立ちの碑」が平成時代のものであるのに比べれば、その文化財的価値ははるかに高い。

碑面は、下部に芭蕉の線刻画、上部に「おくのほそ道」の一文が刻まれている。

千寿といふ所より船をあがれば
 前途三千里のおもひむねにふさがりて
 まぼろしのちまたに離別の泪をそそぐ

 行くはるや鳥啼き魚の目はなみだ

 亡友巣兆子翁の小影をうつしまたわれをして翁の句を記せしむ 鵬斎老人書」

達筆でとても私の手に負えないが、資料にはこのように刻されているとある。

書を成したのは江戸後期の儒学者亀田鵬斎、彼は書の道でも第一人者と称された。

芭蕉を描いた巣兆は、谷文晁の弟子。

一流どころの書と絵を彫った群鶴もまた、当代一流の石工だった。

一流どころの石碑も読みにくいことに変わりはない。

当神社では、ご丁寧にも碑面を黒白に反転して、読みやすくしてある。

それだけではなく、変体仮名を変換してくれてある。

うれしい心配りだ。

俳句の大会も開かれるようで、境内は俳句だらけ。

絵馬もここでは、短冊代わり。

墨田川北岸の大橋公園の石碑より、ここ素戔雄神社の石碑のほうが、歴史的にも由緒正しいものであることは分かった。

が、一つだけ腑に落ちないことがある。

それは、旅立ちの碑が川の南岸の素戔雄神社にあること。

奥州へ旅立つのだから、北千住側へ舟を上がり、スタートするのが道理。

「おかしいじゃないか」、誰もが抱く疑問に、神社側はこう応える。

看板の文章を全文転写しておく。

こんにちは 松尾芭蕉です。
 深川を出て、いま千住に着きました。
 いよいよ前途三千里(奥の細道)へ出発するのですが、
 最初の一歩がなかなか出せない疑問があります。
 
(千住大橋)南詰・北詰。どちらから出発したら良いものか。
 些細なことのようですが、後世の両岸にとっては矢立初めの地として
 本家争い・論争の種にもなりかねない問題なのです。
 現実的なことでは川の通行の右左、宿場の大小なのですが、
 詩情豊かな紀行文です。旅は(他の火)で、川は生と死の境界、
 その向こう岸(彼岸)に旅立つ訳ですから・・・
 わたくし松尾芭蕉、悩み疲れました。
 すこし落ち着きたいと思います。丁度この地には、下野(しもつけ)
 大関様の下屋敷もあり、旅立ちのご挨拶を兼ね、花のお江戸との
 お別れの宴でも・・・
 では、七ケ日間ほど逗留することにします。お籠りも兼ねて。
 この間、道中笠と杖は使いませんので、ここに掛けておきます。


 修験出羽三山とも御縁の深いお天王様ご参拝のこれまた御縁。
 よろしかったらかぶってみてください。
 元禄2年(1689)弥生も末の七日の私、松尾芭蕉が何処に
 立っていたか、(千住大橋)手前南詰か?向こう北詰か?
 ぼんやりと春がすみの中から見えてきませんか。(改行原文通り)

 疑問に応えようとする神社の誠意は多とするが、説得力に欠けると残念ながら言わざるをえない。

 やはり大橋北詰から旅立ちしたとするのが自然でしょう。

荒川区の芭蕉句碑は、素戔雄神社の1基だけ。

千住大橋を渡って、再び、足立区へ。