石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

85 シリーズ東京の寺町ー(5)台東区西浅草1~3

2014-08-16 05:32:42 | 寺町

上野と浅草を結ぶ道路、浅草通りの北側には、東上野、松が谷、西浅草、南側には、元浅草、寿町と寺町が続いています。

これらの寺町は、浅草通りを中心に、北は言問通り、南は蔵前通り、東側の国際通り、西側の清洲橋通りに囲まれた碁盤目状の区域にあります。

寺院の数140余カ寺、その数と密集度は都内随一と云えるでしょう。

この界隈が新寺町と呼ばれるのは、明暦の大火(1657)の後、湯島や神田の寺院が移転してきたからでした。

浅草通りの南側には仏具店が軒を並べ、寺町として独特の雰囲気を醸し出しています。

寺の数も多く、1回ではとても消化しきれません。

何回かに分けることになる1回目は、西浅草1から西浅草3の寺を巡ります。

 地図で右に縦に伸びるのが、国際通り、左が、かっぱ橋道具街通り、下を横切る浅草通りに囲まれて、西浅草はあります。

西浅草寺町の特徴は、寺院の大半が、本山東本願寺の塔頭、子院であること。

浄土真宗寺院には、石碑、石仏は期待できません。

有名人の墓めぐりがメインになりそうですが、ちょっと心配なのは、寺院のビル化とともに墓地が本堂の背後の目につかない場所に配置されて、探墓しにくくなっていること。

上の地図をちょっと上にずらしてください。

地下鉄田原町駅を出て、国際通りを北へ。

二つ目のブロック奥に清光寺があります。

1浄土宗・清光寺(西浅草1-8-19)

清光寺は浄土宗ですから、東本願寺の塔頭ではありません。

本堂前に、長谷川一夫の顕彰碑。

ファンが建てたものだというが、墓は谷中霊園にある。

なぜ、顕彰碑が清光寺にあるのか。

寺の説明では、檀家だったからというのだが、理解しにくい。

その隣の円柱型石塔は、歌舞伎文字勘定流の岡崎勘六の墓。

正面に「先祖代々」、右に「諦岸了覚信士」。

後ろがすぐ塀なので、カメラが入る余地がなく、撮影できないのですが、「有がたや心の雲の晴れわたり只一筋に向ふ極楽 南無阿弥陀仏」と刻されていると資料にはあります。

台石の「堺町 岡崎屋 勘六」に芝居文字の感じがあります。

ビジュアル化の徹底で文字の伝達機能が損なわれ、読めない芝居文字ですが、読めないものを読むのが好事家だそうで、何をかいわんや。

清光寺のブロックの角を左に曲がると、本山東本願寺の参道。

道の突当りが東本願寺。

道の両脇に子院が並びます。

これからいくつかは、寺号と写真のみ。

2真宗大谷派・敬覚寺(西浅草1-8-2)

 

3 真宗大谷派・運行寺(西浅草1-7-12)

 

 4 真宗大谷派・光円寺(西浅草1-7-11)

 

 

 5 真宗大谷派・専勝寺(西浅草1-8-4)

 

本堂脇に珍しく墓地がある。

他の寺にもあるのだが、見えないだけ。

6 真宗東本願寺派・緑専寺(西浅草1-8-5)

 

寺院らしきところがまったくない。

7 真宗東本願寺派・真福寺(西浅草1-6-13)

 

8 真宗東本願寺派・善龍寺(西浅草1-9-2)

 

9 真宗大谷派・来応寺(西浅草1-6-12)

 

10 真宗大谷派・園照寺(西浅草1-9-3)

 

 東京の寺町シリーズはこれで5回目だが、こんなに何も書くことがないのは、初めて。

境内にあるのは車だけ、石造物は皆無。

墓地は、あるのかないのか、それすら分からない。

ビル寺院は近寄りがたく、まるで要塞のようなのです。

地図をほんの少し下げてください。

そのまま進むと本山東本願寺へ着きますが、入らずに左折。

宗恩寺、通覚寺と二つの寺がならんでいます。

11 真宗大谷派・宗恩寺(西浅草1-6-7)

狭い境内に自然石の石碑。

達筆で「念仏成仏」。

書いたのは、当山24世住職、織田得能。

彼は、この寺の蔵に閉じこもって『仏教大辞典』 を執筆した、と門前の、台東区教育委員会制作の説明板には書いてあります。

12 真宗大谷派・通覚寺(西浅草1-6-6)

通覚寺から浅草通りへ向かい、最初の角を左折すると左に西光寺。

13 真宗大谷派・西光寺(西浅草1-6-2)

池波正太郎の墓を参りたいとお寺に断わって、ビルの通路を通って、墓地へ。

台石に「池波」とあるだけで、探すのにやや手間取った。

池波正太郎の小説は『鬼平犯科帳』などを『オール読物』などの小説雑誌で読んではいたものの、単行本が本棚に並ぶことはない、その程度の読者です。

小説よりは、むしろ、エッセーを好んで読んでいたような気がします。

蕎麦、てんぷら、どぜう、エッセーに触発されて行っては見たものの、長い行列とせわしない接客に幻滅を感じた店もありました。

 14 真宗大谷派・等光寺(西浅草1-6-1)

西光寺の隣の等光寺には、石川啄木の碑がある。

兄が等光寺の住職だった土岐善麿の善意の計らいで、啄木の母、啄木、長女と次女の葬儀は等光寺で営まれました

碑歌は「浅草の夜のにぎはいに
    まぎれ入り
    まぎれ出て来し 淋しき心」 (『一握の砂』 第一章「我を愛する歌」より) 

妻子を置いて、函館から単身上京した啄木は膨大な借金を抱えていた。

朝日新聞の校正係として月給25円の安定収入を得ても、すぐ家族を呼び寄せることはありませんでした。

母と妻との不和がうっとうしい。

作品がなかなか世に認められないいらだちもあった。

前借した金を持って出かけたのは、浅草の人ごみでした。

人のいないところへ行きたいという希望が、このごろ、時々予の心をそそのかす。人に見られる気遣いのない所に、自分の身体を自分の思うままに休めてみたい。予はこの考えを忘れんがために、時々人の沢山いる所へ行く。しかし、そこにも満足は得られない。」

満足を求めて啄木が向かった先は、浅草12階下の私娼窟でした。

時としては、すぐ鼻の先に強い髪の香を嗅ぐ時もあり、暖かい手を握っている時もある。しかしその時は予の心が財布の中の勘定をしている時だ。否、いかにして誰から金を借りようかと考えている時だ! 暖かい手を握り、強い髪の香を嗅ぐと、ただ手を握るばかりでなく、柔らかな、暖かな、真っ白な身体を抱きたくなる。それを遂げずに帰って来る時の寂しい心持ち! ただに性欲の満足を得られなかったばかりの寂しさではない。自分の欲するものはすべて得ることができぬという深い、恐ろしい失望だ。」(明治42年4月10日のローマ字日記)

「浅草の夜のにぎはいに
   まぎれ入り
    まぎれ出て来し 淋しき心」

貧窮のまま、函館から家族を呼び寄せます。

だが、生後間もない長男の死という悲運に見舞われる。

やがて、啄木をはじめ、妻、母が相次いで結核を罹病。

母の葬儀を等光寺で営んだ1か月後、啄木本人もこの世を去ります。

明治45年4月13日、27歳の若さでした。

彼の葬儀も、ここ、等光寺で行わました。

岩手県渋民村の生家は寺でしたが、売り払ってしまっていたため、故郷での葬儀は挙げられなかったのです。

この碑は、啄木生誕70周年に友人金田一京助らの手によって建設された、と碑の傍らの解説板にはある。

 下の地図、西光寺の右の卍が等光寺。

 

 等光寺の前が長敬寺です。

15 真宗大谷派・長敬寺(西浅草1-2-7)

一見、料亭かと思った。

すっきりとした粋な佇まいに寺を思わせるものはない。

いろんな寺を見てきたが、長敬寺は、ビル寺を除いて、「寺らしくない寺」NO1。

長敬寺から浅草通りへ向かうと元龍寺がある。(地図をほんの少し拡大してみてください)

16 真宗大谷派・願龍寺(西浅草1-2-16)

墓地入口に左に「山田宗徧居士 茶徳碑」があります。

宗徧(1627-1708)は江戸初期の茶人。

千利休の孫宗旦の門に入り千家を譲りを受け、不審庵、今日庵を継ぎます。

70歳の時、江戸に進出、本所に構えた四方庵が、江戸千家流茶の湯の礎となります。(と、説明版(台東区教委)にある)

さらに墓地奥に「柳河春三の墓」がある。

 

ネットで調べてはみたが、境内にある解説板が一番詳しいので、全文、転載しておきます。

柳河春三は、天保3年(1832)名古屋生まれ。神童の誉れ高く天才ぶりを発揮、さまざまな逸話を残している。25歳で江戸に出た彼は、医を業とし、蘭学はもとより英、仏、和、漢など11ケ語に精通し、著訳書も医学、薬学、理学をはじめ、書画・詩歌・戯作に至るまで多方面にわたり、40余の別名を巧みに使った。
幕末維新における希世の知識人で、非凡の才能を駆使して外国文明の導入と普及に努め、多大の業績を挙げた。安政4年(1857)日本初の体系的西洋初等数学書「用算用法」を著す。
また、慶応3年(1867)これも日本初の雑誌「西洋雑誌」を刊行、国語教科書の先駆「うひまなび」を編集、翌年「中外新聞」を創刊し、日本最初の新聞発行人として知られている。明治3年(1870)2月20日、37歳で没、当眼龍寺に葬られる。 名古屋在住 中村祐猿識す

 願龍寺を出て、浅草通りを西へ。

右手に「浅草本願寺」の巨大石塔。

まっすぐに伸びる参道の向こうに東京本願寺の威容が横たわっています。

参道両脇には2階建て木造家屋が並び、昭和の匂いを漂わせています。

東本願寺に向かって左に善照寺。

16 真宗東本願寺派・善照寺(西浅草1-4-15)

狭い参道の奥に本堂。

本堂の右脇に墓地への道。

墓地入口の手前を右に曲がると都指定の旧跡、清水浜臣の墓があります。

は清水浜臣を知らない。

ネットで調べたら恰好なサイトがあった。

「やまとうた」http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html

清水浜臣の経歴と作品紹介を転載しておきます。(無断転用です。すみません)

 

清水浜臣 安永5-文政7(1776-1824)号 泊洦舎(ささなみのや)

江戸飯田町の町医者の家に生まれ、家業を継ぐ。通称、元長(玄長とも)。若くして村田春海に入門し、和歌と古学を学んだ。千蔭・春海亡き後江戸派を代表する歌人となる。門弟には前田夏蔭・岡本保孝(況斎)・岸本由豆流などがいる。土佐の鹿持雅澄とは書簡によって親しく交流した。諸侯から招かれることも多く、松平定信の寵遇も得た。上野不忍池の西に住み、自邸を泊洦舎(ささなみのや)と称した。文政七年(1824)八月十七日、没。四十九歳。
編著に、近世歌人の長歌を集成した『近葉菅根集』、随筆『泊洦舎筆話』などがある。没後、養子の光房が家集『泊洦舎集』を編んだ。以下『泊洦舎集(ささなみのやしゅう)』より3首を抜萃。

小山田にすだく蛙(かはづ)の声のうちに小雨ふりきぬ春の夕暮

【通釈】山の田に集まっている蛙の声の響きのうちに、小雨が降り出した。春の夕暮れ――。

むらさめのこの夕暮はかならずと思ひしことよ初ほととぎす

【通釈】驟雨の降るこの夕暮には、必ず鳴くと思ったことだよ、今年初めてのほととぎすよ。

みそぎせしあと川柳一葉ちり二葉流れて秋風ぞ吹く

【通釈】夏越(なごし)の御秡(みそぎ)をしたあとのあと川の柳が一葉散り、二葉流れて――秋風が吹いているのだ。

参道を挟んで、善照寺の反対側にも寺があります。

看板に「徳本寺」。

17 真宗東本願寺派・徳本寺(西浅草1-8-11)

でも、裏口のようなので、グルっと回って、正面へ。

墓域には、江戸城内で田沼意次の子意知(おきとも)を切り付け、切腹を命じられた「世直し大明神」こと旗本の佐野善左衛門政言(まさこと)と江戸中期の画家宋紫石の墓があるというが、寺にことわってまで入る気がせず、断念。

18 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺(西浅草1-5-5)

 恥を晒せば、我が家の宗派が浄土真宗と知ったのは、両親の葬儀の時でした。

墓もなく、それまで仏事らしい仏事をしたことがなかったせいでもあります。

宗教に無関心だったからかもしれません。

更に言えば、浄土真宗ではあるものの、西なのか、東なのか、我が家はどちらに所属しているのか、今でも知りません。

今回、西浅草の寺町を書くにあたって、何点かの資料を参考にしましたが、本によって「浅草本願寺」、「東京本願寺」、「本山東本願寺」と名称が異なるのに面喰いました。

子院も東本願寺派もあれば、大谷派もある。

何が何だか分からないので、ネット検索。

私にとって一番わかりよかったのが、Yahoo知恵袋のベストアンサー。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1253254262

明暦の大火で神田明神下から移転するにあたって、幕府から移転先として示されたのは築地と浅草だったそうで、もし築地を選んでいれば、東西本願寺が軒を並べて、内部抗争の愚が形として見られたのに、とこれはつまらない「たら、れば」でした。

これで西浅草1の寺まわりは終わり。

本山東本願寺と西光院の間の道を北へ。

かっぱ橋本通りを過ぎて、西浅草3に入ると、天獄院が見えます。

19 浄土宗・天獄院(西浅草3-14-1)

本山東本願寺の子院ではない、ということは浄土真宗寺院ではない寺が17か寺ぶりに出現。

都指定の旧跡として江戸後期の儒者細井平洲の墓があるらしいが、鉄門扉に怯んで退散。

「天獄」は「地獄」の対語だろうが、辞書には「天国」しか載っていない。

造語なのだろうか。

 20 時宗・日輪寺(西浅草3-15-6)

持参したガイド本には「将門塚がある」と書いてある。

探してもそれらしいものは見当たらない。

「南無阿弥陀仏」の六字名号塔があるばかり。

だが、実はこの名号塔が将門塚と深い関係があったのです。

その関係を書くと字数を要するので、次のサイトをお読みください。

「日本伝承大観(日輪寺)」http://www.japanmystery.com/tokyo/masakado9.html

 21曹洞宗・満龍寺(西浅草3-27-22)

国際通りに面して広大な境内が広がっています。

境内に入るとすぐ左側に石造物群。

西浅草寺町を巡って初めての庚申塔も。

本堂に進むと元は寛永寺にあった石灯籠があります。

「文恭院殿」だから11代家斉の墓前に奉納されたもの。

真宗寺院ばかり巡ってきて、石碑、石塔を見かけなかったので、うれしい。

 22 日蓮宗・寿仙院(西浅草3-28-1)

23 曹洞宗・本然寺(西浅草3-25-3)

 境内に「お菊稲荷」がある。

番町皿屋敷のあのお菊さんに関わる稲荷だというが、どうか。

 

これで「西浅草寺町」は終わり。

読み返してみて、面白くない。

真宗寺院ばかりだからだろう。

面白くないからといって、やめるわけにもゆかず、このまま掲載。

次回、松が谷編を、乞うご期待。

 

 

 


84 さいたま市北部に残る不食(無食)供養塔

2014-08-01 06:46:21 | 石碑

前回は「佐渡に残る足尾山塔」だった。

今回は、それとそっくりのタイトル「さいたま市北部に残る不食(ふじき)供養塔」。

だが、正確には「さいたま市北部だけに残る不食供養塔」なのです。

少なくとも関東地方以北では、さいたま市以外にはみられない。

どうやら私は、希少価値のあるものに執着する性癖があるようです。

①路傍(さいたま市見沼区新堤40七里東幼稚園の東側三叉路)

碑は、石段を3段上がった高さに、柵に囲われてある。

残念ながら、碑文は、彫りが浅くて、ほとんど読めない。

上部に日輪、その下に「奉造立不食供養」と刻まれている、と持参資料にはある。

以下、碑文はすべて、資料からの転写です。

向かって右側面に「元禄十六発未二月十五日、
            
新堤村施主長嶋八郎右衛門」とある。

これだけは辛うじて読める。

左側面は読めないが、資料から転写しておく。

「原夫於是長嶋氏之先祖在全嶋居士者預為免没後之□報発誓願/毎月當不食日一日一夜不怠精進勇猛而奉唱和無量壽佛之宝號/□歳既久判溌散成就之辰於此地築高墳彫刻支堤一躯奉供養三/宝仲精儀且三日三夜施行往来貴賤合也全嶋五世之孫改□建立/宝塔一臺希因茲刹那消滅塵労弾指□成種智同證阿耨菩提者矣」

不食念仏については、よく分かっていないらしいが、これによれば、一日一夜、食べずに念仏を唱える修行だったことが伺える。

私は、断食道場で1週間の断食をした経験があるが、さほど過酷だとは思わなかった。

ましてや24時間の不食、これで修行と云えるのか、いささか腑に落ちない。

と、書いて慙愧にたえないのは、時代背景を無視していること。

先日、テレビで100歳を超える老人のアンケート調査を見た。

「これまで食べたもので一番うまかったのは?」

3位がカレーライス、2位がチョコレート。

1位は、何と「白米」。

育ちざかりに、彼らはコメのごはんを腹いっぱい食べられなかった。

ましてや、江戸時代、粗食ではあるが三食絶つことは、飽食世代の私の理解を超えるものがあるようだ。

石碑の後ろに、さいたま市教育委員会制作の解説版がある。

以下全文。

「不食供養塔は、大宮市内では、大変、数の少ない石造物の一つです。不食供養という民間信仰は、毎月特定の日に何も食せず、3年3か月間にわたり念仏を唱える修行をするというものです。この不食供養塔は、江戸時代中頃の元禄16年(1704)に新堤村の長嶋八郎右衛門が信仰の成就を記念して造立したものです。信仰の詳しい内容は分かっていませんが、食を絶っての信仰があったことは確かなようです。市内では、西部地区の三橋や清河寺で同様な信仰があったことが知られています。
東西の道は、大宮と岩槻を結ぶ昔からの道で、国道16号が開通するまでの主要道路であり、見沼代用水東縁の半縄河岸や岩槻の町との行き来には必ず利用した道です。南は七里小学校前を過ぎて日光御成道に合流し、浦和市大門や鳩ヶ谷方面に続いています」

 道路は、大宮ー岩槻を結ぶ旧岩槻街道。

道の向こう電柱脇の道を入って約10mに不食供養塔がある。

 解説板によれば、月に一度、3年3か月続けるというから計39回、不食念仏をして、この供養塔を建立したことになる。

 どうせなら岩槻街道に面して建てればいいのに。

 どんな理由があるのだろうか。

②地蔵堂(さいたま市大宮区三橋1)

「三橋1丁目自治会館」の背後に地蔵堂はある。

この自治会館も、元は寺かお堂だったのではなかろうか。

工事の人たちがお堂の前で昼食中で、中途半端なアングルになったが、正面が地蔵堂、右が自治会館、不食供養塔は入ってすぐ右、門柱の脇に月待の如意輪観音と並んである。

石塔の右上部分が欠けている。

持参の資料写真には、接着しなおした跡があるが、また、剥がれたようだ。

資料「青木忠雄『埼玉県大宮の不食・無食供養塔』(『史跡と美術』NO451)は、1975年刊。

40年もの間、変化があって当たり前。

欠けた部分を探したが、見当たらなかった。

欠けた部分の上部には、大日如来の種子大日如来(金剛界),バン(バーン)があり、右には「奉造立不食供養」と刻されていたはずです。

左には「正徳元辛卯年霜月吉日」。

下部に、9名の男の名前。

この不食供養塔を造立した講のメンバーで、中央の「念心」はリーダーの僧侶ではないかと青木氏は推測しています。

 

これまで、1はさいたま市北東部、2はさいたま市北央部にあった。

3以降は、さいたま市北西部に固まっている。

さいたま市の旧大宮市、その北部に、なぜか、不食供養塔は「密集」しているのです。

 

3、清河寺(さいたま市清河寺)

山門をくぐって右に丸彫り地蔵と六地蔵に挟まれて、無食供養塔はある。

主尊は、地蔵菩薩立造。

舟形光背に半肉彫に浮彫されている。

隠刻文が読みにくいが、「無食供養仏武州足立郡」とあるらしい。

「不食」ではなく、「無食」だが、意味する所は同じ、「食べずに」念仏に励むこと。

講中45人によって、元文6年(1741)正月吉日に建立された。 

 

清河寺から南へ。

指扇(さしおうぎ)という雅な地名に入る。

川越線の「西大宮駅」の西約200mに大木戸薬師堂がある。

4、大木戸薬師堂(さいたま市西区指扇)

 薬師堂の左に墓地。

その一角に墓標ではない石造物群の一画がある。

蓮台に乗った大日如来が塔の上半分に坐すのが、無食供養塔。

蓮台の下中央に「奉造立大日如来石像毎月一日無食修行三年三月成就所」。

無食念仏とは、毎月1回、丸一日食物を口にしないで念仏を唱える修行を3年3か月続けることだということが分かる。

造立は元禄13年(1700)11月吉日。

十誉是心という僧侶を願主として、女性ばかりの施主名が30人近く刻されている。

「おみつ、おゆう、おみや、おたけ、おたつ、おくら、おつる・・・」

〇〇子が一人もいない。

下に「子」がつく代わりに、上に「お」がついている。

最近は〇〇子が少なくなった。

流行の波が昔に戻っているということか。

隣の如意輪観音が十九夜講の講中の造立なので、十九夜講とは別な、女性だけの不食念仏講があったものと思われる。

 薬師堂の右は地区の集会場だろうか。

殺伐とした建物が、ドテッと横たわっている。

前の道路が狭くて、全景が収まらない。

2枚に分けた2枚目の右端に六地蔵があるのが分かる。

六地蔵は、普通、墓地の入口におわすものだが、ここでは何故か、墓地と反対側にポツンと六地蔵だけが在す。

そして、この六地蔵が、無食念仏供養塔なのです。

しかし、涎かけが何枚もかかっていて、像容と刻字が分からない。

仕方なく、涎かけを外す。

 

 刻銘は2体が同銘、別文で4体が同銘と分かれている。

2体同銘の銘文は、地蔵立像の右に「寛保三癸亥八月吉日大木戸村壹村」

左に「無食供養 施主廿二人」。

そして、4体同銘の刻文は、地蔵の右に「大木戸村壹村」、

左に「無食供養 施主廿二人」と刻されている。

 

薬師堂を後にして川越線を渡る。

人にきいて、聞いて、訊いて、やっとたどり着いたのが、

5、華蔵寺墓地(さいたま市西区指扇3529-2)

「華蔵寺はどこですか」。

訊いた人、皆「そんな寺は知らない」。

知らないのも当然、ないのです。

私が利用するgoo地図には、卍華蔵寺とあるので、あるものと思い込んでいた。

 

 

広い空き地の一角に墓地。

寺の境内だったかもしれない、そんな広さの空き地。

ある家の墓の横に、ポツンと所在無げに無食供養塔がおわす。

高さ1m15cm、舟形光背に地蔵菩薩立像が浮彫されている。

 

設立は、延享元甲子(1744)八月吉日。

施主として、個人名はなく、「大西村、増永村」とあるから、無食念仏講があったのではないか。

「大西村、増永村」は指扇村内の隣り合った組である、と青木資料にはある。

『新編武蔵風土記』には、華蔵院は天台宗となっている。

 石仏地蔵としては、きわめてありふれた像容で、誰もが目を留めて刻文を読むことはないだろうから、これが極めて珍しい「無食念仏供養塔」だとは気がつかないだろう。

市の指定文化財の価値はありそうだが、いかがなものか。

6、神宮寺墓地(さいたま市西区指扇赤羽根)

 指扇に赤羽根というバス停がある。

さして広くない赤羽根の神宮寺墓地だから、すぐ見つかるものと楽観視していた。

とんでもないことで、何軒か訊いて回ったが、誰も知らない。

交番でも調べてもらった。

地域を巡察している巡査も、そうした墓地は見たことがないという。

訊いて回る家を昔からの地元の農家に限定することにした。

5軒目の御主人に反応があった。

知ってはいるようなのだが、私の目的が何なのか、警戒して口が重い。

石仏めぐりを趣味とする者が、世の中にはいることを初めて知ったようで、納得。

35度の真夏の日差しの中、現地まで案内してくれた。

住宅に囲まれたような畑の奥に7基の石造物が並んでいる。

これでは、巡察の巡査も地元の人たちも分からないのも無理はない。

一番左が、目的の無食念仏供養塔。

その右は「大乗妙典一千部供養塔」。

この2基は、神宮寺という寺の境内にあったのではないか。

後の5基は無縫塔を含めて墓標だから、神宮寺の墓地にあったものと思われる。

それにしても墓地跡にしては、墓の数が少ないのは何故か、不思議だ。

改めて、無食念仏供養塔を見てみよう。

基台基礎請花に117㎝の丸彫り地蔵。

基礎台石正面中央に「無食供養」。

その右に「寛延元戌辰」

左に「神宮寺 講中二十五人」とある。

 これで、さいたま市北部に残る不食(無食)供養塔を全部紹介したことになる。

7基のうち、4基はすべて指扇地区にあり、4基とも地蔵を本尊とするのが興味深い。

青木氏によれば、江戸時代、指扇村は、大木戸、台、増永、大西、赤羽、下郷、五味貝戸の7組で形成されていたが、下郷、五味貝戸を除き各組から無食供養塔があることから、地域的流行があったのではないかと指摘している。

 

≪参考資料≫

〇青木忠雄『埼玉県大宮の不食・無食供養塔』(『史跡と美術』第451号・昭和50.1所載)
 参考というよりも丸写しです。