石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138東京都北区の石造物-11b-豊島2丁目の続き

2020-01-26 09:23:32 | 石造物巡り

西福寺の続き。

仁王門をくぐる。

仁王の裏には、雷神と

風神がおわします。

本堂に向かって左に3基の石造物。

左の銅製観音立像の台座には「彩帆観音」の文字。

サイパンと読むのだそうです。

先の戦争で多数の戦死者を出した南太平洋諸島を歴訪した住職が建てた観音様。

傍らに手書きの趣意書があるので、転載しておきます。

私は一昨年の十二月下旬、戦争を知らない学徒代表ら拾名を伴い、第二次世界大戦で数多くの戦死者を出した南太平洋上に浮かぶミクロネシア諸島激戦の跡を歴訪した。特に日本人全員玉砕の悲しい思い出を残したサイパン島においては、懇親平等の仏教精神に則り、サイパン政庁長官と互にメッセージを交換して親善友好を深めると共に、自ら導師となって慰霊祭を執行し、国境を越えて現地人に多大な感銘を与えたが、その際旧日本軍参謀本部跡の洞窟内から、血に染まった土砂や遺骨を収集して帰国した。今回機縁熟するところとなり、塔内に遺骨を埋葬してこれを建立したわが国唯一のものである。願くは亡き英霊が現世に回向して観音菩薩の慈悲を仰ぎ世界平和国歌興隆萬民豊楽のために、無限の御加護あらんことを祈念して建立の賦とする。

      昭和48年9月  當山立 小松原賢誉 合掌    

中央は歌碑。

平秩東作こと鈴木光村(紀州神社神主)の狂歌で、江戸時代末期の作品。

「いかばかり かすみのころも おほきくて ふじの山をも袖にいれけむ」

                                      (北区教委『北区の歌碑句碑』より)

右端は、水子地蔵。

何門というのだろうか。

また門があって、閉まっている。

石碑には「関東六阿弥陀元木第一番霊場」とあります。

中国風獅子の狛犬が一対。

そして延命地蔵尊座像、銅製です。

本堂に向かうべく、中門を右へ。

極彩色の阿弥陀様が仰ぎ見る高さに在します。

六阿弥陀一番の、行基作阿弥陀如来は、戦災で焼失、昭和58年、高さ4m85cmと同じ高さに再建したものだそうです。

大仏の前、墓地入口に庚申塔が1基。

四面塔の正面と左右面の下部に三猿が一匹ずつおわすという変わった庚申塔。

寛文十一年(1672)造立です。

大仏の右下には、地蔵立像と

 

銅製層塔。

古い寺だから、板碑もあります。

こうして大仏右側をぐるっと回って本堂前へ。

本堂左側は、ミニ六阿弥陀。

阿弥陀如来立像を中心に6基の阿弥陀座像を配し、「石清水阿弥陀」の石塔が立っています。

石清水阿弥陀の傍らに、ひっそりとおわすのは、合掌地蔵。

中門扉の格子越しに 見る仁王門です。

 山門から仁王門までの参道脇にある地蔵立像を見落としので、追加しておきます。

台石の「地蔵尊/以大慈/若聞各号/不随黒闇」は延命地蔵経の一節だとか。

 

 

 

                      

     

 


138東京都北区の石造物-11a-豊島2丁目

2020-01-19 14:55:51 | 石造物巡り

▽豊島庚申塔馬頭観音堂(豊島2-5-5)

 

 立派なお堂に3基の石造物がおわす。

資料によれば、板碑型庚申塔と青面金剛庚申塔があることになっている。

板碑型庚申塔は特定できるが、文字は読めない。

青面金剛は2基のうちどちらか特定できない。

戦災で二つに折れ、熱で像容が崩れてしまっている。

像容は無残だが、信仰は篤く、今でもお祭りがおこなわれているようだ。

「豊年庚申馬頭観音様の大祭を十一月四日(月)に行います」との垂れ幕が掛かっている。

「えっ!馬頭観音庚申塔なの?」と驚いて、もう一度、しげしげと石仏を見るが、馬頭観音の特徴をどこにも見出すことはできなかった。

 

▽真言宗豊山派・三緑山無量寿院西福寺(豊島2-14-1)

 西福寺の本尊阿弥陀如来は、行基の作と言われ、六阿弥陀巡りの第一番として、江戸時代、寺は栄えました。

同じ行基作と伝えられる阿弥陀様を祀る五つの寺を巡るコースは、六阿弥陀巡りとして人気を博していました。

第一番西福寺、以下、恵明寺、無量寺、与楽寺、常楽寺、常光寺と全行程30キロの行程です。

行基が同じ木から六体の阿弥陀造を削り出す経緯については、各寺に似通った伝説が残されていますが、『新編武蔵風土記稿』の「西福寺」の項では、六阿弥陀伝説は「もとより妄誕にして信用すべきにあらざれど、当寺のみにあらず残る五ヶ所共に、少しの異聞はあれど皆縁起などありて、世人の口碑に伝る所なれば、その略を記しおきぬ。」、第二番の「阿弥陀堂」の項には「かゝる杜撰の寺伝、取べきにあらず。<中略>かれを取り是を附会し、又行基菩薩の名を仮りてかゝる妄説を作りしものなるべし。」とあり、伝説の内容は作り話であると断じている。(WEB「気ままに街道歩き-江戸六阿弥陀ーより)

 

山門前には、「身代わり地蔵」の幟がはためいています。

中のお地蔵さんには、千羽鶴が幾重にも掛けられている。

この身代わり地蔵のいわれが変わっている。

「昔、藤原氏に姫がいて、双六が強かった。その噂を耳にした旅の若者が勝負を挑んだ。負けたら裸になるという約束で戦い、姫は負けた。見知らぬ若者の前で裸になるわけにもゆかず、進退窮まった姫の前に、上半身裸のお地蔵様が現れ、姫の身代わりとなって、彼女の危機を救ってくれた」。

身代わり地蔵は、多々あれど、裸になった身代わり地蔵は珍しい。

山門を入って左にお地蔵さん。

「祈帰り道も交通安全」とあります。

その隣、彼岸花の中に立つ墓は「円顕妙楽信女霊位」。

通称「お馬塚」と呼ばれています。

お馬は、土佐の高知で評判の美女。

民謡「よさこい節」で、「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た」のかんざしを受け取った、彼女がその張本人でした。

坊さんとお馬は駆け落ちしますが、捕らえられ晒しものにされた上、処払いとなります。

坊さんと別れたお馬は、上京し、西福寺前の大工と結婚、明治36年、66歳の生涯を閉じます。

昭和47年、西福寺の過去帳から数奇な運命に生きたお馬のことが判明、新たに石碑を建立して菩提を弔ったのでした。

仁王門までの参道両側にも石造物が並んでいます。

先ず右側には、「戦災復興大願成就記念」塔。

そしてその次の地蔵菩薩の台石には「寛政三年/奉六十六部供養」とあります。

六地蔵の台石には、 の文字。

よく見るではないが、どちらでも意味に違いはないとのこと。

仏教での「吉祥」を意味するのか、どこかの家紋なのか、ちょっと気になります。

左側にも何基か並んでいますが、此処で取り上げるのは2基だけ

いずれも「三界万霊 六道(りくどう)四聖(ししょう)」と刻されています。

先ずは地蔵菩薩坐像。

台石中央に「南無三界万霊 六道四聖」。

そして、隣の、これまた上にお地蔵さんを戴く石塔には、中央に「南無阿弥陀仏」、右に「三界万霊、左に「六道四聖」と読めます。(次回に続く)

 

 

 

 

 

 


138東京都北区の石造物-10-志茂4丁目

2020-01-12 09:54:20 | 石造物巡り

▽志茂熊野神社(志茂4-19-1)

 とにかく参道が長い。

鳥居は、享和4年造立の石鳥居。

神木の梛の木は、南国に自生する樹木で、伊豆半島が北限と言われ、東京で生育するのは奇跡だそうだ。

溶岩の上の狛犬は、真っ白で新しい。

平成11年に作りなおされたばかり。

岩の中腹にいる子獅子と対を成している。

本殿右奥の古めかしい神社の前には、

「大山阿夫利神社」の石碑が立っているが、

このほか、浅間神社、大六天神社、十二社神社が合祀されている。

境内は広いのに石造物は少ない。

唯一大きな石碑は「日露戦役記念碑」。

本殿左には、水神社もある。

熊野神社と他の末社はすべて、南面しているが、水神社だけは、荒川に向いて北面している。

昔は、荒川の渡し場にあったもので、渡しがなくなって、ここに移されてきた。

▽真言宗智山派・帰命山阿弥陀院西蓮寺(志茂4-30-4)

 山門前右に石仏群。

六地蔵と地蔵4基だが、地蔵の内2基は庚申塔。

元禄15年(1702年)

享保5年(1720)

六地蔵の脇におわすのは、馬頭観音庚申塔。

宝暦7年(1957)

山門は閉じられていて、入れない。

通用門に向かうが、ここにも六地蔵がおわす。

本堂は改修中のようで、工事用テントで覆われている。

西蓮寺といえば、なんといっても板碑群だろう。

本堂内に2基、墓地に1基、本堂前に8基が並んでいる。

中でも最大の板碑は「弘安九年(1285)正月晦日阿弥陀一尊種子」。

区内2番目の古さだが、惜しむらくは、上部が欠けていること。

もともとこの寺にあったものとどこかから移されてきたものと混在しているようです。

墓地の1基は、歴代住職の墓域にある。

主尊に大日如来の真言と大日経の偈を刻んだもので、文明12年(1480)9月28日の銘がある。

 ▽庚申堂(志茂4-30-11)

西蓮寺を出て、右へ進むと丁字路の右にお堂がある。

「庚申堂」の提灯が下がっている。

西蓮寺の境外仏堂で、寺が管理しているので、きちんと整備されている。

庚申塔の写真を撮ろうと思うが、扉があかない。

格子の間にレンズを突っ込んで撮った写真が下のもの。

痩せてまるで骸骨のように悲惨な有様なのは、功徳があった場合、塩を奉納する習慣があったから。

塩によって像容が崩れた石仏は各所にある。

▽橋戸子育て地蔵堂(志茂4-43-2)

 東十条の地蔵堂二つもそうだったが、ここ橋戸子育て地蔵堂も商店街の管理下にある。

手入れが行き届いていて、気持ちいい。

お堂の中のお地蔵さんの説明文があるので、添付しておく。

右から2番目が子育て地蔵か。

元禄13年(1700)造立の庚申塔。

珍しいのは、その隣の庚申塔。

大日如来の化身と言われる大霊権現を主尊とするものだが、同じものが他にあるとは思えない。


138東京都北区の石造物9-神谷3(自性院、専福寺)

2020-01-05 07:53:19 | 石造物巡り

▽自性院の庚申塔群(神谷3-45-1)

自性院は環七に面している。

しかし、墨田川を渡る新神谷橋の上り始めの左側にあって、車からは見えない。

        右の陸橋が環七

私は、たまたま自転車で通りかかって、庚申塔群があるのに気づいた。

もう10年になるだろうか。

山門前に6基、境内参道中ほどに3基がまとめられて並んでいる。

特徴と言えば、如意輪観音を主尊とする庚申塔が3基もあること。

都内でもここだけにしかない稀有な事例です。

まずは、門前の6基を左から紹介してゆこう。

     

 

    武州豊嶋郡
青面金剛 奉供養
     貞享四天
     神谷村敬白

 

 

     二世安楽処    豊嶋郡
如意輪観音像         同女
 元禄三庚午天十一月廿一日 十四人
              神谷村

 

              武州豊嶋郡
  寛文十一年亥十月吉日     敬白
青面金剛像
  奉供養庚申待之処    道行十二人

自性院の庚申塔群では、これが最も古い。

 

   奉供養庚申待二世安楽處
地蔵菩薩像
 武列豊嶋郡神谷村 延宝六戌午十一月吉日

 

  奉供養庚申為二世円満
聖観音像
  元禄八亥年  六日

 

  武州豊嶋郡神谷村願主
           同行
奉供養庚申現当二世安楽所(板碑型)
           敬白 八人
  元禄元戌辰天十月十五日

大ぶりな6基の反対側に、小型の文字庚申塔が1基ポツンとあります。

 

 庚申塔 文久三初癸亥十月

 

細長い境内の奥に本堂。

そのほぼ中間あたりにも数基の石造物が。

   武州豊嶋郡神谷村同女廿三人
奉造立庚申二世安楽処 如意輪観音像
    延宝八年九月二十八日

 

   奉供養宇信現当二世安楽処
   元禄四辛未歳     同女
如意輪観音像       十六人
   十一月廿一日    敬白
   武州戸嶋郡神谷村 

 

   元禄九丙子歳
         安楽 敬
奉供養庚申現当二世
         之所 白
   二月廿一日
        同行十一人 

 左端の地蔵菩薩像は、個人の墓標。

如意輪観音庚申塔の造立年時が、十一月二十一日なのは、月待講の二十一夜講と関係がありそうです。

二十一夜講では、女性たちが如意輪観音の掛け軸をかけて念仏をあげ、会食雑談するもので、刻銘に「同女」とあり、「二十一日」なので、庚申信仰と月待信仰が合体したものとみられます。

▽真言宗智山派・神谷山専福寺(神谷3-32-11)

 

参道の両側が墓域。

大日如来と如意輪観音の2ショット墓標。

夫婦だろうか。

六地蔵堂のとなりには

これまた、地蔵菩薩の庚申塔がおわす。

 

 

▽柏木神社(神谷3-55-5)

神谷村の鎮守。

元は墨田川河畔にあったという。

広い境内に石造物は少ない。

定番の狛犬新旧2対の他は

日露戦役記念碑と

出羽三山参拝記念碑くらいか。