石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

117 東京都板橋区の馬頭観音(4)ー高島平、赤塚、徳丸エリアー

2015-12-29 06:50:50 | 馬頭観音

こんなことがあろうとは、信じられない思い。

板橋、志村、常盤台エリアと馬頭観音巡りをしてきて、最後に高島平から赤塚、徳丸エリアに移ろうと資料をチェック。

なんと馬頭観音がないのです。

 庚申塔や地蔵、観音さまは他地域と同じほどあるのに、なぜか、馬頭観音だけ見当たらない。

蓮根と赤塚に1基ずつ、わずか2基しかありません。

他地域に比べ面積は広く、純農村地帯で、農馬の数も多かったはずなのに、不思議なことです。

◇蓮根馬頭観音堂(蓮根2-28)

堂々たるお堂。

馬頭観音をお祀りするお堂としては、都内最大、これを凌ぐお堂はないでしょう。

扉は施錠されていて、ガラス戸の桟ごしにしか拝めないが、像高137㎝の雄大な尊像は見て取れる。

ところどころ剥がれ、くずれてはいるが、原型は十分保っています。

造立元禄十一年(1698)は、板橋区最古の馬頭観音。

扉に馬頭観音の真言が掛かっている。

「おん あみりと どはん ばうん はった そわか」。

お堂の横の「馬頭観音縁起」からその一部を抜粋しておく。

当観音は通称『田の観音』といい、本尊は牛馬を保護するという馬頭観世音菩薩である。開基は、元禄十一年(1698)二月、貞閑大法師により現在地にまつられた。通称は、当時、この一帯が田園であったことによる。農作業の往復時、あるいは荷駄の運搬途次、牛馬を連れて参拝する往時の人々の姿が偲ばれる。
当時は、雨露を凌ぐお堂等などはなかったが、利生あらたかなる観世音菩薩として信真の人々が十八日の縁日には村々より牛馬の手綱を握りしめる人々が列をなし緒方より集い、観音堂は更に隆祥する」。

ここは、昔、中山道の一路西の農道でしたが、江戸稼ぎの馬の往来は多かったものと思われます。

宿場の馬を描いた絵図としては、広重の『江戸名所百景ー四ツ谷新宿内藤』が有名。

新宿内藤を往き来する馬の数4000頭と云われ、宿場は馬糞だらけでした。

当然、板橋宿も同じ。

今は、赤塚にある東京大仏の乗蓮寺は、江戸時代、板橋宿にありました。

その乗蓮寺前を描いた江戸名所図会では、江戸に向かう馬と江戸市中から帰る馬が描かれています。

江戸に向かう馬の背には練馬大根が、江戸からの帰り馬の背には肥樽があります。

    右が江戸市中に向かう馬、左が帰る馬

当時、糞尿は大切な肥料でした。

農業生産物だけではなく、物資輸送の大半は馬に頼っていた時代、馬は農家の財産であり、それだけに大切にされ、死後は、馬頭観音として供養されてきました。

戸田の渡し舟に馬。対岸にも渡しを待つ2頭が見える。

それだけに馬が多かったに違いない赤塚、徳丸地帯に馬頭観音がないことが解せません。

◇松月院(赤塚8-4)

松月院の参道左は幼稚園だが、その幼稚園の壁をぶち抜いて馬頭観音がおわす。

本来いらっしゃった場所を変えないよう、建物を変形にして対処したものと思われる。

蓮根の観音堂は大きくて立派だが、ここは別な意味で、見事な小堂です。

像容は三面の憤怒相。

台石に「赤塚中」とある。

赤塚村の、馬の供養塔だろうか。

 

これで、赤塚、徳丸、高島平エリアは終わり。

最後に、「志村エリア」に入れるのを忘れた1基を付け加えておきます。

◇路傍(西台2-4)

この馬頭観音を見たときは、驚いた。

200年の時空を超えて、まるで昨日完成したばかりであるかのような新しさなのです。

彩色の朱色も鮮明で、お勧めの一躯。

わざわざ訪ねてゆく価値があります。

多分、造立とともにお堂に安置されて、風雨に打たれることがなかったのでしょう。

講中の面倒見の良さがあったこともプラスでした。

「馬頭観世音世話人会」という講は、近隣9軒がメンバー。

なんと今でも毎年、11月17日に講を行っているのです。

近くの円福寺の住職がお経をあげ、持ち寄った酒肴を飲食して散会する短時間のイベントですが、庚申講ならともかく馬頭観音念仏講が現在も行われていることに驚きを感ぜざるを得ません。

馬頭観音は、道標も兼ねています。

「寛政二庚戌季二月
  正面 門前谷念仏講中
 台 南祢りま道
  右側面 東戸田渡し道 武州豊嶋郡西台村
 左側面 西 吹あげ道 北方 はやせ道」

 

≪参考図書≫

〇『いたばしの石造文化財その四 石仏』平成7年

〇いたばしまち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』平成14年

〇いたばしまち博友の会『続平成の遊暦雑記』平成24年

〇板橋区郷土資料館『特別展 板橋と馬』(図録)平成26年

 

 


117 東京都板橋区の馬頭観音(3)ー常盤台エリアー

2015-12-26 07:11:36 | 馬頭観音

◇路傍(上板橋2-53)

三叉路の道のど真ん中にでんと観音堂が立っている。

車の往来に邪魔になるからと、よくぞ撤去されなかったものだと感心する。

道路の左側は、練馬区。

ここは板橋の西のはずれ。

旧川越街道の下練馬宿から北に入った三叉路で、お堂の中の馬頭観音2基は、いずれも道標を兼ねています。

馬頭観音碑の前に2頭の馬型がある。

身体は農耕馬だが、駆けているようだ。

奥の石碑の右側は、文化十二年(1815)造立で、右側面に「戸田渡しみち」と刻されています。

左は、陰刻の「馬頭観音」文字塔。

右側面に「右いたばし道」、左側面に「左戸田道」とあると資料には載っています。

 

◇路傍(常盤台3-14)

立派な小堂。

馬頭観音は、長年、野ざらしされていたらしい。

像容が崩れている。

元々は常盤台3-1の前野道の角にあったという。

 

 ◇個人敷地内(南常盤台1-26-5河原家)

工事用トラックのミラーの下に見えるのが馬頭観音。

家の改築に合わせて、石仏も造像し直したらしく、真新しい。

持参した『板橋の史跡を訪ねる』(平成14年版)では、「像陽は完全に風化し、右側に『天保八酉八月十七日』左に『河原善右衛門』の文字がかろうじて読める」とある。

同じ資料によれば、加賀藩の死んだ馬の供養に建てられたもので、かつては環七通りに面していたという。

◇個人敷地内(南常盤台2-36 大村家

新しいと云えば、大村家脇の馬頭観音の祠も新しい。

とは云ってもこれは4年前の写真。

祠は新しくても、中の馬頭観音は昔のまま。

明治24年造立の文字碑です。

◇路傍(東山町37)

こちらは、珍しく軍馬の供養塔。

昭和18年(1943)、国策に従い手放した愛馬の霊供養のため、飼主の新井金太郎氏が建てたものです。

◇長命寺(東山町48)

飼い馬の像容は概ね温和な表情と決まっているが、そうでなければ、儀軌とおりの憤怒相であることが普通です。

この像は、寺の境内にあるので、多分、個人の馬の墓ではないでしょう。

にもかかわらず、とびきり柔和な像容。

頭上に「馬」の文字がなければ、馬頭観音とは思えません。

好事家の議論の対象となる一躯です。

◇安養院(東新町2-30)

 安養院は、板橋区きっての名刹。

紅葉が美しいので、これは、おまけカット。

台地の墓地入口に村中から持ち込まれた石造物が群を成している。

持参資料には、馬頭観音は8基あることになっているが、3基しか見当たらない。

納得がいかないまま、3基を紹介します。

造立、安永五年(1776)。

正面に「天下泰平 国土安全」とある。

天下国家のことを託されては、馬頭観音も大変だなあ。

文化元年(1804)造立。

願主に3人の名前がある。

馬と3人の関係が気になる。

自然石に3面の馬頭尊。

嘉永六年(1853)、小野沢権右衛門によって建てられた。

頭でっかちでバランスは悪いが、見ごたえある馬頭観音です。

◇上板橋宿場馬つなぎ場跡(大山町57)

馬頭観音に直接は関係ないが、宿場の馬つなぎ場跡があるので、紹介する。

今は、近隣界隈の人たちから篤い信仰を寄せられている「お福地蔵」は、江戸時代、上板橋宿の馬つなぎ場でした。

◇路傍(大谷口1-16

2基の石塔が打ち捨てられたようにひっそりと肩を寄せ合っている。

ブルーのごみネットの右端下にあるのが、それ。

左が馬頭観音だが、右は何か。

「右あらいやくし道」と彫られているので、道標を兼ねているのは分かるが、板橋教委『石仏』にも載っていないので、不明。

それにしても扱いのずさんさが目立つ。

でも、廃棄されないで存続していることを喜ばなければならないのかもしれない。

◇個人屋敷内(向原1 M家)

M家の屋敷内にあるので、撮影許可をいただこうとインタホーンを押すが、応答がない。

玄関の脇に馬頭観音がおわすので、パチリ。

無許可なので躊躇しながら掲載します。

ごめんなさい。

M家の飼い馬の供養塔ということです。

 

 

 


117東京都板橋区の馬頭観音(2)ー志村エリアー

2015-12-23 07:57:40 | 馬頭観音

◆個人敷地内(宮本町55 古屋野方)

稲荷通りの化粧品店の自宅玄関の脇におわす。

昭和20年4月13日の板橋空襲で破損、辛うじて「馬頭観世音」の「馬」と「世」が読み取れる。

 

 ◆路傍(清水町40)

個人所有。

ブロック塀をわざわざ凹ませて石碑を安置してある。

昭和16年(1941)造立というから、家に馬がいたことを知っている家人がいて、懇ろに供養しているのだろうか。

◆長徳寺(大原町40)

天保11年(1840)の造立。

一面八臂は珍しい。

台石に「金百五十疋 高橋甚兵衛 金百疋 繁田太良八」とある。

石工への支払い金だろうか。

百疋は、1両の4分の1.

今の価格にするのは無意味らしいが、あえてするなら250疋で6万円強か。

長徳寺には、もう1基馬頭観音がおわして、こちらは文字塔。

板橋区には、文字馬頭観音は29基あるが、22基は明治以降のもの。

7基が江戸時代造立のものだが、これは中でも2番目に古い。

像塔全盛時代に文字だけにするのは、勇気を要したのではないだろうか。

◆常楽院(前野町4-20)

光線の都合で判りにくいが、馬頭観音本来の憤怒の形相。

愛馬の供養のための像塔は、穏やかな顔が多いのに憤怒なのは個人の馬の供養塔ではないのだろうか。

常楽院の門前には、何十基もの無縁仏がならんでいます。

ただ1基の馬頭観音が境内におわすのには、それなりの事由がありそうだが、はて?

享保11年というと板橋区で2番目に古い造立となります。

◆延命寺(中台3-22)

二石六地蔵と六地蔵立像に挟まれて、文字馬頭観音が立っている。

どこか別の場所にあったものが、何らかの理由でここに持ち込まれたのだろう。

いつも思うのだが、人間の墓と馬の墓を同列に扱うことに違和感はないのだろうか。

馬頭観音は、聖観音や如意輪観音と同格なのだからと言われれば、そのようにも思うし。

◆路傍(前野町6-44)

前野中央通りを東へ。

前野小学校角を左折してすぐの分岐路に、馬頭観音はある。

真新しい。

それもその筈、平成15年に新しくしたばかり。

左側面に「明治二十九年七月 水村家農馬の墓」とある。

古い石塔が背後にあるが、文字は判読不能。

「農馬の墓」は新しく書き足したもののように思われます。

◆二股の地蔵尊(中台1-48)

志村から中台の台上を通り、下練馬宿へ行く大山道にある。

地蔵が入っている覆屋の左に庚申塔と並んで馬頭観音がおわす。

その昔は、家は一軒もなく、畑の中にポツンとお地蔵さんと馬頭さんが立っていたのに違いない。

馬頭観音は、「左江戸道」と道標を兼ねている。

隣の庚申塔には「ふじ大山練馬道」「南いたばし前野道」と彫られている。

◆京徳観音堂(西台3-53)

本堂に向かって左に石仏群がある。

板橋区には珍しい武家の墓や14世紀、南北朝時代の宝篋印塔などがせせこましく立っている。

いずれも区の文化財です。

野ざらしのそうした文化財の傍らに赤い屋根の小屋に収まっているのが、馬頭観音。

大正10年、西台村の小原傳左衛門と荒井三喜蔵の二人が愛馬の共同供養塔を建てる時、捨て去られたような古い石造物などは眼中になかったのでしょう。

京徳観音堂の名物石段を下りて右へ50mほど。

覆屋に立派な庚申塔と並んで小ぶりだが、彫りのいい馬頭観音がおわします。

文化15年、荻野万吉により建立されたもの。

路傍(志村2-3)

国道17号線から交番左へ進む道が旧中山道。

急な下り坂にさしかかる所に「清水坂」の標識。

その10m先に馬頭観音がおわす。

造立は、大正15年(1926)。

市川さんという家の飼い馬の供養塔です。

 

 

 

 


117 東京都板橋区の馬頭観音(1)ー板橋エリアー

2015-12-20 08:14:20 | 馬頭観音

今回(2015年12月後半)は、板橋区の馬頭観音を巡ります。

区内の馬頭観音の数は、約60基。

個人所有で、屋敷内にあるものもあって、全部はもちろん回れませんが・・・

板橋区が無料配布している「いたばしまちあるきマップ」に従って「板橋エリア」、「常盤台エリア」、「志村エリア」、「「赤塚・高島平エリア」の地区ごとに分けて紹介してゆきます。

参考資料は『板橋と馬』。

去年、板橋区立郷土資料館が行った特別展「板橋と馬」のカタログですが、資料写真なども借用します。

それと、板橋区教委『板橋の石造文化財その四 石仏』も。

では、まず、「板橋エリア」から。

◆東光寺(板橋4-13)

どこの寺でも、寺の境内にある馬頭観音の大半は、区画整理や開発によって行き場を失ったもの、と考えてよさそうです。

 『石仏』によれば、これは板橋駅踏切横にあったものだとか。

造立年は不明ですが、文字馬頭観音の大半は明治以降ですから、多分これも同じではないでしょうか。

東光寺にはもう1基あって、こちらは昭和2年造立。

どこにあったものかは判りません。

昭和2年は、まだまだ輸送力のかなりの部分を馬が担っている時代でした。

 

◆路傍(板橋2-58)

享保19年造立の板橋で4番目に古い馬頭観音。

その頃は、ここは往来の激しい通りでした。

「板橋間道」(別名高田道)と旧川越街道とが交差する四辻だったからです。

下は、5年前の写真。

祠の場所だけ、フエンスの外側になっている。

フエンスが出来る前は、馬頭観音をないがしろにする工事関係者糾弾の立て看板があったように記憶する。

そうした地元の人たちの「過激な」行動がなければ、この馬頭観音は廃棄処分されていたかも知れない。

馬頭観音を廃棄しながら、日本の近代都市は拡大してきたのです。 

と、ここまで書いて所用で池袋へ出かけた。

健康のため歩いて。

区役所を過ぎて、ふと四辻の馬頭観音を思い出していつもの場所に寄って見た。

ところが、見当たらないのです。

あきらめて池袋に向かったのですが、どうしても納得がいかない。

再び戻って、今度は探す範囲を広げました。

すると、ありました。

かってあった場所から100mほど東、道路と道路の間、フエンスで囲まれた安全な場所に移されていました。

供花が新しいから商店街の人たちがお参りを欠かさないのでしょう。

◆遍照寺(仲宿40)

板橋と馬と云えば、宿場の継立馬を外すわけにはいかないでしょう。

遍照寺は、その継立馬のつなぎ場でした。

境内に立つ板橋区教委の説明板の一部を紹介します。

境内は、宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬がつながれていた。境内に祀られる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである」

遍照寺は、現在、本堂の新築準備中で、石仏群の場所も移動している。

馬頭観音は4基もある。

馬つなぎ場だったから4基も、と思わせるが、宿場に関係するのは1基だけ、3基は明治のもの。

寛政十年ものの正面には、「天下泰平 国土安全」に「宿内安全」があるのが、いかにも宿場らしい。

台石には「当宿 平尾 馬持中」とある。

板橋宿は、上宿、仲宿、平尾宿に分かれていた。

平尾の地名は、今、「平尾交番」に残るだけ。

石造物としては、日曜寺の石柱とこの馬頭観音に「平尾」があるだけで、貴重品なのです。

文字碑3基のうち、大正2年造立のものは「鹿毛馬 瀬川 外斃馬」と刻されています。

馬頭観音の文字もありません。

瀬川という馬の墓標でしょうか。

馬頭観音と書いてはあるものの、飼い馬の墓であるケースは非常に多いのですが、馬の名前だけの墓標は極めて珍しいと云えます。

なお、説明板の駅馬模型というのは、下の写真。

        板橋区立郷土資料館『板橋と馬』より

遍照寺に保存されていましたが、今では、区立郷土資料館に移されています。

ここで『板橋と馬』から「街道における馬」の一部を転載しておきます。

慶長7年(1602)に中山道で伝馬制が定められ、板橋宿の常備人馬は寛永15年(1638)に50人50疋となりました。伝馬制に伴い、周辺地域も助郷として、人馬の供給の手助けをしております。助郷とは、交通量が多く人馬の支給が困難になった場合に、近隣の村々に出役させることです。そして、街道を行き交う馬には、運ぶ荷物の重さなどで本馬・乗掛・軽尻と呼び名が異なりました。本馬は、人は載せず荷物だけを運び、重さは40貫(1貫=約3キロ)まで、乗掛は、人を一人載せて荷物は20貫、軽尻は、人一人に手荷物5貫目まででした。このように積載重量が規定されていたため、馬が運送している荷物が過重でないかを取り締まる役が設置されます。それが貫目改所です。中山道内では、板橋宿と洗馬宿の2か所に設置され、通行する馬に載せた荷物の重さを検問しました

◆智清寺(大和町37)

本堂に向かって左の石仏群の中にある。

右側面に「祠堂 金三円 建主 鈴木岩次郎」とあるから、どこかで祠に入っていたらしい。

金三円というから、明治以降の造立と見て、差し支えなさそう。

路傍(仲町32 金子方)

金子家の生垣の一部に覆屋をおき、中に馬頭観音を安置している。

砂岩だからか、崩れ方が激しいが、顔が三面あることだけは分かるので、辛うじて馬頭観音だと推測できます。

 


97 想い出の馬頭観音(写真フアイルから)

2015-02-16 07:04:05 | 馬頭観音

足が痛む。

外は寒い。

出かけたいが、その元気がなく、今回も写真フアイルから。

石仏で好きなのは、馬頭観音。

人間の墓標より、想像をかき立てられる事が多い。

飼主の愛情が如実に分かる墓が少なくない。

 

 

   愛馬を線彫りした馬頭観音碑(那須町)

自分の子よりも愛馬の死が悲しかったのではないか、そう思わせる墓もある。

記憶に残る馬頭観音をフアイルから取り出してみた。

 

我が家から最も至近距離にあるのは、遍照寺(板橋区仲宿40-7)の馬頭観音。

 

   遍照寺は本堂新築工事がスタートして、境内がスッキリ

参道脇に石仏が数基、庚申塔と馬頭観音です。

 

ここに馬頭観音があるのは、江戸時代、遍照寺が宿場の馬つなぎ場だったからです。

板橋宿では、人足50人と馬50頭が、常時、確保されていました。

注目すべきは左から2番目の黒っぽい石碑。

「鹿毛馬 瀬川」と刻されています。

 

大正年間の造立で、歴史的価値はありませんが、馬の名前が彫られた墓は珍しい。

競走馬として登録されるサラブレッド新馬は、毎年、数千頭になります。

その頂点に立つのが、ダービー馬。

その栄誉は計り知れないものがありますが、ダービー優勝馬でも墓があるのは、ごくわずか。

殆どは馬肉として消費されてしまいます。

こうしたことを考えれば「鹿毛馬 瀬川」の希少価値が分かろうというもの。

左に小さく「外斃馬」とあるから、仕事中どこかほかの場所で行き倒れたのかも知れません。

どんな馬だったのか、興味が湧きます。

 

長徳寺(板橋区大原町40-7)には、馬頭観音庚申塔があります。

宝永3年(1706)造立の一面八手の青面金剛。

刻文は「奉造立馬頭明王庚申講中」。

馬頭観音ではなく、明王であるのが面白い。

世話人として板橋権右衛門他23人の名前が彫られています。

この頃にはもう板橋家が権勢をふるっていたのですね。

 

 

長命寺(板橋区東山町48-5)石仏は、頭に「馬」の文字があるから馬頭観音とされていますが、像容からそれとは思えません。

好事家があれこれ論評するのですが、馬頭観音であるような、ないような・・・。

 

同じ長命寺でもこちらは練馬区の長命寺(練馬区高野台3-10-3)。

「東高野山」という山号でも分かるように、関東有数の霊場で、石仏の宝庫でもあります。

馬頭観音立像も逸品。

 再び板橋区へ戻ろう。

区内には現在、53基の馬頭観音がある。

寺社に25基、路傍に28基。

寺社にあるのもその大半は路傍にあったものです。

排ガスを浴び、ほこりまみれで誰からも見向きもされない路傍の馬頭観音があるなかで、大事に保護されている石仏もあります。

板橋区蓮根2-28の馬頭観音堂は、コンクリート造りの立派なお堂。

本尊の顔正面、化仏と両目、鼻がつぶれているのは、東京大震災で頭から倒れたため。

この馬頭観音が開基した元禄11年(1698)当時、この辺りは一面の田んぼか水草生い茂る沼地でした。

堂はなく、雨ざらしの石仏は、道路標識であり、馬方と馬の格好の休憩場所だったはずです。

 

きちんと保存してあるということでは、西台2-4の馬頭観音は特筆もの。

寛政2年(1790)造立だから225年経っているのに、まるで昨日できたばかりのような感じ。

朱色に線が彩色されていることが、分かります。

台石正面に「南祢りま道」、右「戸田わたし道」、左「西 吹きあげ道 北方 はやせ道」と彫られ、道標でもあるから、野ざらし状態の期間があった筈なのに、そうしたことを微塵も感じさせない綺麗さ。

11月17日に、毎年、集落の11軒が集まり、祭を行うというので行って見た。

メーンイベントの坊主の読経の後は、お堂の周りで酒を立ち飲みして雑談するだけ。

それぞれの農家から馬がいなくなって、70年。

東京23区で今でも馬頭観音祭が行われていることは、驚きだった。

もう1点、この馬頭観音には特徴がある。

三面だということ。

板橋区内53基の馬頭観音で三面は、たった2基。

ここの他は、松月院の三面馬頭観音だけです。

馬頭観音は、松月院が経営する幼稚園の壁に組み込まれたお堂の中に坐しています。

 幼稚園の建物中央の凹んだ所が馬頭観音堂。

恐らく元々参道に面したこの場所にお堂があり、お堂の位置を変えずに、取り込んだ形で、幼稚園が建設されたのでしょう。

大寺ならではの配慮が感じ取れます。

 

川越街道の東側は板橋区と思いがちですが、東武練馬駅と川越街道に挟まれた一帯は練馬区。

旧川越街道が走る北町1に珍しい馬頭観音堂があります。

なんと三叉路の道路のど真ん中に観音堂。

馬頭観世音の朱色の幟が、車が通るたびにはためいています。

堂の中を覗くと、馬頭観音の前に馬の模型が2体。

馬型のある馬頭観音堂は他に知らない。

ちなみに「練馬」という地名は、馬を「訓」する場所だったからとする説があるとか。

 

東上線に乗って埼玉県へ。

富士見市渡戸2-5の観音堂にある馬頭観音が素晴らしい。

元禄3年の造立。

像容も異彩を放つが、建立時期も極めて初期、掘り出し物でます。

伝統的しきたりと横並び思想の只中にあって、どうしてこのような自由な発想ができるのだろうか。

ほのぼのと心温かくなる作品。

施主の馬に対する愛情がにじみ出ています。

私の、思い出に残る馬頭観音、ダントツのNO1です。

正統派優品としては、香林寺と誠徳寺の馬頭観音が該当します。

いずれも三面八手の像容です。

 

 香林寺(東松山市宮鼻144)  聖徳寺(越谷市北川崎18)

変わり種は、杉戸町宝性院の道標馬頭観音と観音堂の石祠馬頭観音。

   宝性院(埼玉県杉戸町杉戸1-5-6)

宝性院は日光街道に面しています。

今は境内にありますが、昔は門前に立って、旅人の案内役を果たしていました。

石祠庚申塔があるのだから、馬頭観音石祠があってもおかしくない。

   観音堂(埼玉県杉戸町126

それにしても珍品です。

川越市の本応寺墓地には、馬頭観音石仏ばかりがひな壇状に並んだ一角があります。

        本応寺(川越市石原町玉42)

中に1基、彩色の朱色が残った石仏がある。

元は、みんなこんな色をしていたのでしょうか。

境内ならともかく墓地に馬頭観音が、しかも集団であるのは珍しい。

最初からここにあったのではなく、廃棄される運命の石仏を市内各所から集めたものでしょう。

もともとは、下の写真の様に路傍に在していたはずです。

           鴻巣市宮地の路傍

 それが道路の拡張、農地の宅地化など都市t化の進行とともに居場所が失われてゆきます。

路傍の馬頭観音、そして行き場を失った石仏の集積場としての墓地は、当然、群馬県にもあります。

   路傍の馬頭観音(群馬県甘楽町)

 大興寺(前橋市)の墓地。この一角は全部無縁馬頭観音碑。

群馬県の馬頭観音といえば、桐生市黒保根にある十二山神社の一対の石碑を思い出す。

両方とも下に馬を描き、その上に文字が刻んである。

     左「汝是畜生発菩提心」         右「鬼畜人天皆是大日」                  

 車で走行中、路傍に石仏群があるのに出会います。

           群馬県川場村の路傍の石仏群

そうした石仏群に出会ったら、小さいのが馬頭観音だと思って間違いありません。

大きい石仏は費用がかかる。

だから小型の石仏にしたのですが、それでも施主のお百姓さんは頑張っているのです。

よく見ると文字碑はほとんどない。

文字碑の方が安上がりで済むのに、そうしなかったのは、馬に対する愛情が深かったむからでしょう。

沼田市の三光院境内の馬頭観音のような巨大丸彫り石仏は、施主は個人ではなく、講や馬持中など集団であるのが、普通です。

 講中で造ったこうした大型馬頭観音は、時代的には初期(江戸時代半ば)のものが多く、建立目的も持ち馬の無病息災を祈願するものでした。

江戸時代後半から明治、大正にかけての個人造立馬頭観音碑が、馬の墓標であったのと、意味が違います。

 

続いて長野県。

大きな自然石に「庚申」や「大黒」、「二十三夜」などと彫りこんだ石塔群が集落の辻ごとにおわします。

しかし、「馬頭観音」や「馬頭尊」の巨大文字石碑はありません。

庚申塔が巨大な文字碑であるのに対し、馬頭観音は小さい像塔ばかりです。

 

下は、松本から東へ、扉温泉までの入山辺に双体道祖神探しに行った時、通りかかった峠の石仏群。

ずらっと並んだ馬頭観音に混じって牛頭観音があります。

 

ガイド本には、耳の上に角があるから牛だと書いてあるのですが・・・

もう1基、「牛頭」の文字のある石碑を松本市の西の郊外で見つけました。

    浄雲寺(松本市取出934)

白いコケに覆われて判読しにくいのですが、右に「牛頭大日如来」、左に「念仏供養塔」と書かれています。

大日如来は、牛の守護神ですから、これは馬ではなく、牛の供養塔でしょう。

周りは馬頭観音ばかり、なんとなく肩身が狭く居心地が悪そうです。

 

次は、辰野町から諏訪市へ抜ける国道で出会った馬乗り馬頭観音。

馬乗り馬頭観音については、このブログでも後で取り上げますが、千葉県に固有な像容。

長野県にあるのは極めて珍しいので、載せておきます。

しかし、像容にどこか違和感がある。

持ち物が違うような気がしてならない。

馬に乗る像容としては、勝軍地蔵がある。

右手に錫杖、左手に宝珠と『日本石仏図典』にはあるが、これは逆。

お分かりの方教えてください。

 

 馬頭観音が並ぶ景色として私が最も好きなのは、塩原市洗馬(せま)の馬頭さんの列。

水田の地崩れ防止の石垣の上、人の視線の高さで馬頭観音が並んでいます。

この道は、それぞれの馬が、生前、荷駄を載せ、馬車を引いて行き交った道。

村のあちこちばらばらにあった石仏をここに集め、馬の気持ちになって配置した、集落の人たちの暖かい気持ちがたまりません。

この形式は洗馬だけのものと思っていたが、去年、駒ケ根市でも同じような展示配列を見かけた。

もしかしたら、どこにでもあるありふれた保存・展示形式なのかもしれない。

 

長野県で馬といえば、木曽馬。

木曽福島から開田高原へ。

かつて一大馬産地であった痕跡は各所にあるが、その典型は馬頭観音群。

どこの集落にも石仏の塊を見ることができます。

木曽馬は、どの農家でも飼っていたが、その馬は彼らの所有馬ではなかった。

馬の所有者は木曽福島の商人たちで「馬地主」と呼ばれ、飼主は「馬小作」と呼ばれた。

仔馬の売却代金は折半。

馬は農家の一大財産で、大切に育てられ、死ねば馬頭観音碑となって、懇ろに供養されました。

開田高原から北の日和田高原は、現在の行政区域は岐阜県高山市だが、木曽馬の商圏や文化圏は木曽福島に属していた。

集落で建立した馬頭観音像は、大型の優品が多い。

下村の祭場には、一対の立像石仏がある。

台石に「大慈」と刻された石仏は観世音菩薩だが、「大悲」は馬頭観音。

 

      観世音菩薩             馬頭観音

憤怒相ではなく慈悲相。

おとなしい木曽馬に憤怒相は似合わないからか。

 

馬産地ではどこにも「血取場」があった。

文字通り馬の血を取り出すことで、馬が健康体になるといわれ、春先の恒例行事でした。

村の馬全部が集まる場所で、死ねば馬頭観音碑となって石仏群に加わった。

驚きは背後の山にも膨大な馬頭観音石仏がおわすこと。

開田高原から日和田高原にかけては、庚申塔や如意輪観音、道祖神などはほぼ皆無。

圧倒的に馬頭観音オンリーの世界なのです。

圧巻は裏山中腹の馬頭観音三尊像。

中央に馬頭観音、左は高王白衣観音、右は釈迦如来。

安政6年(1859)、馬頭観音が建立され、60年後に白衣観音と釈迦如来が両脇に添えられたが、こうした三尊形式は儀軌にはないそうで、その意味する所は不明です。

日和田集落は、限界集落。

人がいなくなり、家がなくなっても、石の墓は残る。

そうした墓に見なれない一石三尊の石仏があった。

中央の神像の両脇に地蔵と馬頭観音という見たことがない組み合わせ。

五穀豊穣を神に祈り、地蔵に家族の、馬頭観音に馬の、二世安楽を託す馬農家が離農しなければならない背景に何があったのだろうか。

日和田に電燈が点いたのは、戦後8年の昭和28年だった。

明るくなった夜に馬農家が歓声を上げていたこの頃、危機が静かに迫っていた。

牛の数が、馬よりも多くなりつつあった。

モータライゼーションと牛肉の消費拡大が、牛馬の飼育数逆転をもたらす要因だった。

その記念碑ともいうべき石碑が立っている。

馬頭観音と牛頭天王を併記した石碑の造立年は、昭和59年(1984)。

かくして木曽馬の産地から馬がいなくなり、馬頭観音ばかりが残った。

中でも馬頭の頭上に小馬頭を戴いた馬頭観音は、木曽地方独特の像容として愛されています。

頭上に二つの首があれば、その農家では、その年、3頭の馬が死ぬという悲劇があったことを物語っています。

 

その容がほのぼのとしていればいるほど、その裏に潜む深刻な事態を見逃してしまいそうです。

 

人の思考や行動は、場所が変わっても似たり寄ったり。

多頭馬頭観音は、那須地方にも見られます。

長野県から一気に栃木県へ移りますが、その前にちょっと寄り道。

山梨県北杜市の海岸寺。

ここには、高遠の名工・守屋貞治の馬頭観音があります。

同じ北杜市の旧須玉町には、一石二馬頭尊があります。

 

ちょっと見、双体道祖神のようですが、頭上の化仏で馬頭観音と分かります。

山梨県だけにある珍しい形式です。

次に東京都。

板橋区から埼玉県に移動してしまったので、他の23区と多摩地区から。

まずは、佳品2作。

 

    慈願寺(中野区)            大円寺(杉並区)

馬を彫ったものも何基かあるが、そのうち2基を載せておく。

  猿江神社(江東区)(撮影してきたが、条件が悪くてきちんと撮れない。これは、栗田直次

  『石造馬のり馬頭観音』より借用)

  深大寺 (調布市)

 東京から一気に栃木県へ。

那須の手前、矢板市あたりから路傍に馬頭観音群が目につくようになる。

矢板市郷土博物館には、市内各所から集められた石仏群があり、その中に「寒念仏供養塔」と刻まれた馬頭観音がある。

寒念仏は、僧侶の専修念仏として始まった。

寒の入りから30日間、山野で行う厳しい修行で、後に一般庶民にも広がった。

文字碑が多く、このような刻像は少ない。

とりわけ馬頭尊寒念仏搭は、希少です。

 

下は、午年の年賀状に使用した写真。

   箒根神社前(那須塩原市)の馬頭観音群

かつて自分たちが行き来した道に面して馬頭観音が立っている。

運搬の主役を車に譲り渡して久しい。

その車の往来をじっと見続ける「馬」たち。

車が通り過ぎた後、静寂が一瞬深まる、そんな気配のする光景です。

 

長野県から栃木県に一足飛びで来たのは、多頭馬頭観音が那須にもあるからでした。

詳しいことは、NO54「那須の多頭馬頭観音」を見てもらうことにして、ここでは1頭から13頭までを順番に並べます。

 

 

 

  双頭馬頭観音。                        右は、双体馬頭尊。

   

    3頭                        4頭                  5頭

 

             7頭                                 7馬

 

      8頭 

栗田直次郎『石造馬のり馬頭観音』には、長久寺の9頭馬頭観音が最多頭馬頭観音として載っているが、探しても見当たらない。

代わりに10頭と12頭馬頭観音を見つけた。

   

    10頭                              12頭

場所は、すべて那須市。

那須の馬は荷役ではなく、軍馬用として飼われていた。

それにしても一度に10頭とか12頭が死んだら、その打撃は計り知れない。

倒産に追い込まれるケースもあったに違いない。

 どんなに経済的に苦しくても、彼らは馬の墓を建て、供養した。

人として立派だ、と素直に思う。

 

最後に、千葉県。

千葉県の馬頭観音といえば、もちろん馬のり馬頭観音でしょう。

馬頭観音が、なぜか、馬にまたがっている、その特異な像容に魅せられてフアンも多いようです。

全国262基の馬のり馬頭観音のうち242基は千葉県にあるそうで、千葉県固有の石仏といっていいでしょう。

面白いのは、千葉県でも東西で像容が違うこと。

銚子市などの東総の馬のり馬頭観音は、一面二臂の慈悲相。

       路傍(銚子市)

木更津市などの県西部の上総地方では、三面多碑の憤怒相なのです。

  路傍(木更津市)

では、中央部はこの両者が混在しているのか、というとNO。

中央は七里法華といって、地蔵や観音、庚申塔などの石仏が皆無の真空地帯。

もちろん馬のり馬頭観音もありません。

詳しくは、NO72「千葉県の馬乗り馬頭観音」をご覧ください。

他に、馬頭観音に関係する分類としては、文字碑のいろいろもあります。

「馬力神」、「生馬大神」、「馬大神」、「牛馬頭観音」、「勝善社」、「白馬大士」、「畜馬大神」、「生駒大神」、「駒形霊王」など多種多様。

「軍馬慰霊塔」と併せて、詳しくは、当ブログNO54「那須の多頭馬頭観音」を御覧下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


72 千葉県の馬乗り馬頭観音

2014-02-01 07:30:32 | 馬頭観音

木更津市大寺椿橋近くの馬乗り馬頭観音

この馬頭観音はおかしい。

そう感じたあなたは、まっとうです。

「おかしい」には両義あって、一つは「面白い」。

もう一つは、「変だ」。

「変だ」から「面白い」のだが、何が変なのか。

馬頭観音が馬に乗っているからです。

だから、俗称、馬乗り馬頭観音。

仏教本来の儀軌にはない名前と像容で、「変わっ」ている。

この石仏がおわす地域が限定的なので、初めてお目にかかる人が多く、そのユニークな造形に驚き、やがてみんなの顔がほころぶのです。

確認されている馬乗り馬頭観音は、現在262基。

そのうち242基は千葉県に偏在しています。(町田茂『房総の馬頭観音』より)

馬乗り馬頭観音は千葉県固有の石仏と言っていいでしょう。

「変」で「面白い」ものは、是非、見てみたい。

かねてからの念願を果たすことにしました。

全部はとても無理なので、目標は1割の26基。

それを、1月23日-24日、2日間の予定で回ります。

持参した参考資料は、服部重蔵『東総の石仏』と町田茂「馬乗り馬頭観音菩薩」それに栗田直次郎『馬のり馬頭観音』。

いずれも特徴的な石仏を10点くらいずつあげているので、それらを観て回ることに。

馬乗り馬頭観音は、昭和55年(1980)、服部重蔵氏が『日本の石仏』に「東総の馬乗馬頭観音」を発表したことで世に知られました。

下図は、記事の中の分布図。

 

  

千葉県東部の東総地帯に偏在していることが分かります。

当時は、馬乗り馬頭観音は、東総固有の石仏と考えられていました。

その後、千葉県西側の上総地方でも馬乗り馬頭観音が相次いで見つかって、今では下図のような分布状況です。

「上総地方の馬乗り馬頭観音」より借用

東に続いて西にもあったのだから、県中央にもあるのだろうか。

その可能性は皆無。

千葉県中央部は、七里法華といって、地蔵や聖観音、庚申塔などの石仏がまったくない地帯。

当然、馬乗り馬頭観音もありません。

東と西では○と●の違いがありますが、○は1面2臂の慈悲相、●は3面多臂の憤怒相。

東西で像容がまるで異なっています。

服部氏が東総の馬乗り馬頭観音を見出したので、その紹介は東総から上総へ進むのが普通ですが、私はその逆、西から東へと向かいました。

今回も長い前置きになりました。

では、「変」で「ユニーク」な馬乗り馬頭観音の紹介です。

1、市原市不入斗

持参した資料のどれも馬乗り馬頭観音所在地の住所が載っていない。

集落名や字だったりする。

「不入斗」だから「ふ○○」をナビで探すが見当たらない。

「いりやまず」と読むのだという。

分からないわけだ。

最初からつまずいて、イヤーな感じ。

朝の遮光が木の葉に遮られて、像が見にくい。

三面六臂の慈悲相。

上総は憤怒相と分類したばかりなのに、これはまずい。

慈悲相の中でも、ことさら女性的なやさしいお顔。

優しい顔に似合わない太い足で、マッチ棒のような足の馬にまたがっています。

動物愛護協会からクレームが来そうな像容です。

馬頭観音の真言碑が横にある。

珍しい。

隣の石仏は馬頭観音で、これは、その真言だと説明があればもっとよかった。

 

市原市には、県内最古と2番目の馬乗り馬頭観音があると資料にはある。

最古は市原市国吉、2番目が菊間と表示されているが、地図を見てすぐあきらめた。

国吉も菊間も広いのです。

今は真冬だから、農地に人がいない。

やっと見つけても、石仏を知っている人はごくわずか。

その人の家の近くにあっても知らない人が多い。

一日中探し回れば見つかるかもしれないが、2日間で26基の石仏を探し回るのだから、1基にそれほど時間をかけられない。

寺社や公共の建物ならナビで検索できるので、袖ヶ浦市神納2区のコミュニティセンターへ急ぐ。

旧町営住宅の中だと書いてある。

目的地に着いた。

コミュニティセンターもある。

しかし、馬乗り馬頭観音は見当たらない。

70-80歳台の住民に訊いても知らないという。

たまたま通りかかった区長も首を横に振る。

この人なら知ってるかもしれないと郷土史家や元教師の学識者の家をわざわざ案内してくれるが、あいにく全員留守。

写真があるのに誰も知らない。

まるで狐につままれた感じ。

「分かったら連絡しますよ」という親切な区長に、私の住所を手渡して、袖ヶ浦市を後にした。

翌日、千葉県から帰宅したら、区長からの速達が届いていた。

中に写真が数葉。

探していた石仏は「神納2区」ではなく、「神納1区」のコミュニティセンターにあったそうで、写真を撮って送ってくれたもの。

親切さに頭が下がる。

ありがとうございます。

2 袖ヶ浦市神納1区コミュニテイセンター

区長から送られてきた写真は、三面六臂の跨坐像。

馬の体は横向きで左前足の膝下が折れ込んで、駆けている様子が巧みに表現されています。

馬乗り馬頭観音は儀軌にはないから、石工の想像と創造力によるところが大きい。

でも凡庸な石工は誰かのマネをしがちで、これほど躍動感のあるオリジナル作品は稀有だといえるでしょう。

 

3 袖ヶ浦市大鳥居 勝蔵院前

 

今は、寺の入口にぽつんとおわすが、元々は桑畑脇の馬捨て場にあったものという。

馬の血取場や爪切り場など馬が集まる場所に、馬頭観音はよく建てられていた。

像容は、写真では分かりにくいが、三面八臂。

細身の割には大きな膝当てをしているので、馬とのバランスがやや悪い。

 

袖ヶ浦市から木更津市へ。 

住所のある資料はないものかと、木更津市役所の教育委員会文化財担当者を訪ねる。

市指定の文化財以外は分からない、市立図書館の郷土史コーナーへ行って見ればとの答え。

 郷土史コーナーで見つけました。

町田茂『房総の馬乗り馬頭観音』には、住所はないものの、地図がついているのです。

必要箇所をコピーし終わったら午後1時。

撮影可能な午後3時半までには、2時間半しかない。

県内最大の馬乗り馬頭観音へと急ぐ。

大寺という地区を目指して走っていたら「馬頭観音」の看板に気付いた。

ちょっと寄り道のつもりで小櫃川の土手を走って行くと大きな石塔がある。

なんとそれが目的の、県内最大の馬乗り馬頭観音だったのです。

4 木更津市大寺椿橋付近

台石込の高さ173㎝。

堂々たる石仏、石塔です。

(像容は、冒頭の1を参照。よりアップになっています)

寛政8年(1797)造立だから300年以上経っているが、保存状態はいい。

良質な石材を使用しているからです。

千葉県産の石材は砂岩が多く、彫りやすいが、崩れやすい。

東総の馬乗り馬頭観音がおしなべて、崩壊が進んでいるのは、千葉の石を使用しているからです。

東総と上総の石材の違いは、舟運の違いにあります。

上総の方が、東総に比べて、江戸からの舟運が便利なことはいうまでもありません。

写真の様に、この石仏は小櫃川に面しています。

東京湾を横切って上総へ運ばれた石は、川舟でここまで運ばれてきた。

江戸城城郭の巨大な石を伊豆から舟で運んだことに比べれば、これほどの石材を運ぶのは容易なことだったに違いありません。

台石の裏に、「石工新平」と彫ってあります。

町田茂氏によれば、新平は木更津の石工だとか。

この川岸に雨露をしのぐ小屋を建て、ここで彫り上げたのでしょうか。

施主の若者中からは、上総一の大きなやつを、と頼まれ、石工のテンションは一段と上がった筈です。

5 木更津市上望田 長徳寺

  

 大きすぎる馬頭冠ばかり目につくが、注目すべきは馬。

右前脚をひょいとあげて、首を下げている。

草を食む仕草のようだ。

儀軌(お手本)のない石仏の面白さが、ここにはある。

石工の想像力は満点だが、創造力は及第点に満たない。

冠の大きさが全体のバランスを損なっている、と私には見える。

造立、天保13年(1842)、天保の改革のさなか、房総では佐倉で大火があった。

6 木更津市請西 祥雲寺 

特徴のある馬乗り馬頭観音だから取り上げたわけではない。。

所在地が寺なので、探しやすかったから寄っただけ。

上総地方の典型的馬乗り馬頭観音。

上総にしては、石材が房総石で劣化が激しい。

馬の頭の両脇のタニシ状のものは、膝と足を覆う行縢(むかばき)。

私は初めて知ったのだが、中世の騎馬の必需品で足先まですっぽりカバーするものらしい。

 

7 木更津市矢那 暁星国際中・高校付近の路傍

安山岩に彫られた堂々たる馬乗り馬頭観音。

馬の背中に観音が結跏趺坐しています。

非現実的なこのスタイルは県内でもごくわずか。

非現実的というのは、この格好では不安定で馬から落ちること必至だから。

仏の坐し方に結跏趺坐があるから採用したまでのことでしょう。

馬乗り馬頭観音を世に知らしめた服部氏は、この趺坐型が馬乗り馬頭観音の元祖ではないかとみていました。

しかし、この服部説は疑問があると町田氏は反論します。

この点については、後ほど東総地方の趺坐型馬乗り馬頭観音の所で触れることにします。

この像はダム建設に伴い現在地に移されたもので、もともとは巡礼道にありました。

だから道標を兼ねていて、右側面は「東 此方ちは寺道」と刻されています。

ちなみに左側面には「南 高蔵六丁」とあり、坂東三十番札所高倉観音まで650mの地点にあったことが分かります。

8 君津市西原西川橋から北に向かった東側田んぼの縁

 

またもや愚痴からです。

 冬の夕陽の斜めからの光が強くて、景色は白く飛んでいるが、石塔の先が西川橋。

橋の際と書いてあるので何度も橋を往復して探してみた。

橋の両側の民家にも行って住民に尋ねてもみた。

6人目くらいか、「もしかしたらあれかな」と口ごもりながら教えてくれたのがこの場所。

橋の方からは暗く沈んで見えない。

それにしても、ここが「橋のそば」とは不正確、不親切な記述ではないか。

馬の前足も後ろ足も宙に浮いている。

尻尾は垂れずに後ろに靡いている。

まさに天駆ける馬。

馬が振り返るかのように首を曲げている構図がいい。

観音も遥か地上を見下ろしているような・・・

三面八臂の上総型馬乗り馬頭観音の優品。

文化元年(1804)造立。

冬の陽はつるべ落とし。

急いで次のポイントに向かうが、うろうろと探し回っているうちに暗くなって断念。

13基の目標が、達成できたのは8基だけ。

 

明けて1月24日。

快晴。

早朝、木更津市のホテルを出発、千葉市経由で千葉東金道路を東へと走る。

終点の横芝光で降りて国道を西へと向かう。

もうちょっとで七里法華、石仏不在地帯に入る。

この日最初の目的地点は、増福寺。

寺院だからすぐ見つかるだろうと思っていたが、どっこい、そうは問屋が卸さない。

ナビにも地図にも名前がないのだ。

営業を開始したばかりのJAに飛び込んで訊いてみたら、分かった。

集落の中を右左折し、寺に着く。

9 横芝光町木戸台 増福寺

時間が止まったかのようなムードの中に寺はあった。

無住のようで人の気配はない。

山門をくぐった右手に馬乗り馬頭観音はある。

隣に覆屋がある。

覗いてみたら馬頭観音の文字碑が立っていた。

文字碑を風雨から防ぎ、像塔を雨ざらしにする理由とは何なのだろう。

改めて像容を確かめる。

1面2臂の怒髪憤怒跨坐型。

1面2臂が、昨日までの3面多臂の上総タイプと決定的に違う点だ。

宝冠をかぶらず、髪が逆巻いているのが東総スタイル。

まるでバナナのようだ。

同じ千葉県で、同じ馬乗り馬頭観音という名称でもこんなに違う、そこが面白い。

観音の体を囲むテープ状のものは、天衣。

小品だが佳品です。

 再び国道126号線に出て東へ。

隣は匝瑳市。

たまたま学生時代の友人がいるので、「そうさ市」と読めるけれど、なんの縁もなければ、とても読めそうにない。

実は、3年前の1月、この友人の案内で匝瑳市内の馬乗り馬頭観音を見て回ったことがあるのです。

見たのは、7か所9基。

印象に残る2か所を掲載しておきます。

10 匝瑳市八日市場ホ2573 西光寺

西光寺には、馬乗り馬頭観音は3基ある。

参道入口の「不開葷酒入山門」の結界石に、倒れないように馬乗り馬頭観音が立てかけられています。

門前の道は、かつて米倉と松山の往還道だったから、街道筋に建てられたその場所がたまたま参道入口だったのではないか。

そう町田茂氏は推測します。

もう2基は墓地入口に放置された石仏群に交じって横たわっています。

中の1基は、典型的な東総スタイル。

馬口印を結ぶ両腕に天衣を巻き付け、観音と馬のバランスがとれた逸品。

バナナ髪も健在です。

側面は土に埋まって読めないが、八日市場市史によれば「寛政八辰六月立」と刻まれているそうです。

今回は短時間で多くの馬乗り馬頭観音を見て回るため、対象は、保管の行き届いた優品が多い。

しかし、とんでもない山の中や、藪をこいで行かなければならない場所の馬乗り馬頭観音は、倒れたまま、放置されているはずです。

人が通らなくなったそうした場所の石仏が放置されるのは無理からぬことでしょう。

しかし、寺院の境内に放置石仏を見るのは、いささか哀しい。

これは3年前のことであって、今はきちんと保存されているのかもしれません。

友人に確認してもらうつもりです。

なお、余計な付け足しをすれば、前回の「六地蔵考」で俗人顔の六地蔵として紹介したのは、ここ西光寺の六地蔵でした。

 西光寺の六地蔵のうちの1体

 

 11 匝瑳市八日市場イ2333 東栄寺

本堂右横の石仏群の中に馬乗り馬頭観音が1基ある。

笠つきの馬乗り馬頭観音とは珍しい。

砂岩だからか、風化が激しい。

この石仏が印象に残っているのは、側面に「大正七年四月七日 丸福馬車一同」と刻してあるからです。

丸福馬車が乗合馬車だったか、荷物運搬馬車会社だったかは不明ですが、像の馬の胸元に鈴がかけられていることを見ると乗合馬車だった可能性が高いと思われます。

八日市場村に乗合馬車が開通したのは、明治21年。

八日市場-東金間を午前と午後一日2往復、運賃は八日市場より横芝まで10銭、成東まで23銭、東金まで28銭でした。(東海新報、明治21年6月13日)

現在の国道126号線ができるのは明治22年。

乗合馬車はその前年に開通したのですが、「馬車、人力の往復繁きより道路非常に破損して大いに運輸の不便をきたせし」(東海新報、明治23年8月7日)状態だったらしい。

銚子生まれの国木田独歩が帰省する時、千葉から東金まで歩き、東金で一泊、翌朝、馬車で八日市場に向かい、そこから銚子まで再び歩いた。

到着したのは午後5時だった、という記録がある。(千葉県史明治編)

 

12 旭市旧干潟町入野131 

 平成の大合併でなじみの名前の市町村が消えた。

資料には昔の町村名で載っている。

合併後の新市名を知らないと、ナビで検索もできずにあわてることになる。

旧干潟町に入った。

現在は旭市。

旧町名には、歴史的ないわれが込められていた。

それは、目的の馬乗り馬頭観音の背景を目の当たりにすることで感じ取れます。

広大な水田をバックにやや大振りの馬乗り馬頭観音がおわします。

背景の広大な農地は、いわゆる「干潟八万石」。

旭市、匝瑳市、東庄町に広がる5100ヘクタールもの農地は、寛文10年(1670)、干拓により海から農地に姿を変えたもの。

今でも掘ると貝が出てくるそうです。

だから干潟町だったのに、とこれは、よそ者の感傷ですが。

像は、馬の脚が太く、どっしりと安定しています。

昔はここが馬の爪切り場だったから、近隣の馬はみんなここに集まってきた。

台石に、入野村、新町村、琴田村、鎌藪村とある。

近隣4村共同の建立石碑というわけ。

干拓するにも、干拓後の水田維持にも膨大な「馬力」が投入されたことは、想像に難くない。

供養塔建立の立地として最高の場所だったのではなかろうか。

 

12 旭市旧海上町見広大坂

坂道は、馬にとって難所だった。

いったん止まった馬は、なかなか次の一歩を踏み出そうとはしない。

馬も人も往生した。

馬頭観音は、だから、坂道に立っていることが多い。

この大坂も急坂だ。

その途中、水が滴っている崖を掘って、馬乗り馬頭観音が安置されています。

1面2臂の憤怒相。

よく見ると目が3つある。

顔は、かなり怖そうだ。

馬まで怖そうなのは、ご愛嬌か。

馬というより狐みたいだが、これは東総の特徴なのです。

馬頭観音の隣に不動明王。

その隣に県の文化財に指定されている双体道祖神がおわすのだが、顔が削りとられ無残な有様。

写真を載せるのもためらわれるので、カット。

 

13 旭市旧海上町大間手 共同墓地

 墓地の入口、右は六地蔵、左は月待塔などの諸仏がならんでいる。

左の石仏群の右端に馬乗り馬頭観音がおわす。

と、ここで普通は、像容の特徴を述べるのだが、ここではバックが気になってそれどころではない。

土がこんもりと盛り上がって、供花がさしてある。

墓石は見当たらない。

どうやら盛り土は墓のようだが、初めて見たので確信が持てない。

後日、旭市海上支所に電話して聞いてみた。

墓石がない家は、火葬後、骨壺を盛り土に埋めるのだという。

この土の山のそれぞれが、各家の墓なのだそうだ。

 

14 旭市旧海上町松ケ谷王子井戸坂上

 

 写真では、車の右手の暗い道が王子井戸坂。

その上り口に3体の馬乗り馬頭観音がおわす。

ガードレールに囲われている。

難所を乗り切って、馬も人も一休み。

馬の首からは、汗が滴っている。

「よくがんばったな」と馬子が馬の首を撫でて愛しんだりしていたのではないか。

3体の紹介は、右の方から。

14

1面六臂は、東総では珍しい。

馬の体が楕円で不細工。

天明2年(1782)建立。

15

三体の真ん中。

乗馬姿勢がいい。

宝冠に馬頭が見える。

馬がなんとなく埴輪風だ。

10月吉日とはあるが、造立年はない。

16

左端。

東総には珍しい三面八臂だが、もっと珍しいのは三面がすべて正面を向いていること。

昭和3年建立だから、石工の感覚が新しくなっていたからか。

少なくとも昭和3年には、この坂を馬が荷車を曳いて行き来していたことになる。

 上が3体まとめての写真。

後ろにガードレール、前に鎖と不粋なこと甚だしい。

それよりもっとがっかりしたのは、後ろの雑木の茂み。

下の写真は栗田直次郎氏の『石造馬乗り馬頭観音』に載っているもの。

 

 本は1992年の刊行だから、22年前は干潟八万石が背景に広がって見えていたことになる。

石仏を建立し設置した人たちも、この景色があるからこの場所を選んだのではないか。

後ろの雑木を切り払ってほしい。

市役所の文化財担当者の奮起を促したい。

 

時計を見ると12時。

あと3時間しかない。

本来は、旧飯岡町から銚子市を回りたいのだが、とてもそんな余裕はないので、そのまま東庄町に向かう。

 

 17 東庄町笹川イ967 妙幢院

 寺に着いて境内を見回すが見つからない。

通りかかった住職のご家族の女性に訊いて分かった。

本堂の真ん前に保存されていた。

馬頭観音が本堂の真ん前にあるとは思いもしなかったので、見つからないわけだ。

珍しい趺坐型。

おだやかに馬口印をきっている。

蓮華座に坐しているのだが、馬が小さくて押しつぶされそう。

一見水牛に坐しているように見える。

安永9年(1780)と古いのに状態はいい。

 

18 香取市旧山田町川上永信43 川上区民センター

 区民センター前庭の端に、十九夜塔や聖観音などと並んで馬乗り馬頭観音がおわす。

馬の顔が大きく、安定感がある。

しかし、鈍重で馬というよりも牛のようだ。

観音の顔は風化してノッペラボー。

天衣が両足から靡いています。

19 同所

なぜか、個人の墓所に人間の墓標と並んでいる。

馬は農家にとって動く財産で、家族同様の愛情を注がれた馬は多いが、墓所も一緒というのは珍しい。

資料ではもう1基あることになっているが、見当たらない。

栗田氏と町田氏の資料にも食い違いがあり、現場は更に両資料とも異なる。

平成14年のセンター改築工事の時に、いろいろと動かしたものと思われる。

20 香取市鳩山リョウケ502 鳩山構造改善センター

 生活改善センターだとか地区集会所、コミュニティセンターなどは、寺社跡が多い。

ここには円満寺という寺があった。

石仏が寄せ集まっている一区画があり、その中に馬乗り馬頭観音がおわす。

彩色されていたようで、朱色が少し残っている。

バランスもよく、彫りもいいのに、馬の目が三角なのが惜しい。

それにしても、こうした奥まった場所の馬乗り馬頭観音を、初めて探し出した服部重蔵さんはすごい。

敬服して、ただただ、頭が下がる。

21 香取市旧山田町新里米の下

集落の入口の道路脇に馬頭観音文字碑などとともに、丁寧に安置されている。

NO17妙幢寺の像容と同じ、馬上趺坐型です。

造立年も安永9年(1780)のこちらが10月、向こうが11月。

全体的なフオルムと雰囲気が酷似しているので、同一石工ではないかと思われる。

馬乗り馬頭観音を初めて世に広めた服部重蔵氏は、総ての馬乗り馬頭観音のモデルは香取市旧山田町の観音寺の木像本尊だと述べている。

この本尊は秘仏で、秘仏にそっくりな石造趺坐馬頭観音が境内にあるというので、行って見たかったが、到着が16時すぎになりそうなので、断念せざるを得なかった。

観音寺境内の馬上趺坐馬頭観音(栗田直次郎『石造馬のり馬頭観音』より

なお、この服部説に町田茂氏は、観音寺モデルより造立年がもっと古いものがあるからと否定的です。

 

目標とした26基は達成できなかったが、千葉県の馬のり馬頭観音の大体の傾向はつかめたように思う。

東総と上総では、像容がまるで異なっていた。

方や、1面2臂、慈愛相。

方や、3面多碑憤怒相。

七里法華のため、その差が画然と分かるのが面白い。

どっちかがどっちかへ影響を与えたと考えるのには、無理があるようだ。

それぞれが自然発生的に生じ、広がったのではなかろうか。

馬頭観音が馬に騎乗しているからびっくりするが、考えてみれば、普賢菩薩は象に、文殊菩薩は獅子の背に趺坐している。

馬頭観音が馬に乗るのは、民間信仰としては、ごく自然な発想で驚くに値しないのかもしれない。

 

地域的特色のある石仏めぐりは、楽しい。

次はどこの何を見て回ろうか。

思案するのも、また、楽しいのです。

 

≪参考図書≫

○栗田直次郎『石造馬のり馬頭観音』1992

○町田茂『房総の馬のり馬頭観音』平成16年

○服部重蔵『東総の石仏』1988

○立原啓三、町田茂「上総地方の馬乗り馬頭観音」『日本の石仏』NO76 1995

 

 

 

 

 

 


54 那須の多頭馬頭観音

2013-05-01 05:43:11 | 馬頭観音

情報化社会下の現代人の不幸は、何を見ても驚かないことだろう。

事前に写真やビデオで見ているから、現場では初めて見る気がしない。

でも、去年の秋、木曽の開田高原ではびっくりした。

頭が二つも、三つもある馬頭観音を、初めて見たからです。

  

                    木曽町開田高原の多頭馬頭観音

頭が三つと云っても儀軌にある三面馬頭観音ではなく、観音様の頭の上に馬の首が並ぶもの。

帰宅してから調べてみたら、開田高原の多頭馬頭観音は有名で、知らなかったのが不思議なくらいでした。

この時、同時に知ったのは、同じ多頭馬頭観音が那須地方にもあると云う事。

ならば行って見なくては、と4月中旬、車で出かけた。

東北自動車道を矢板ICで降りる。

矢板から那須まで一般道を走り、どこから多頭馬頭観音が出始めるのかを確認したい為。

まず、向かったのが矢板市上伊佐野にある矢板市郷土資料館。

    矢板市郷土資料館

ここで『矢板の石仏と塔碑(矢板市教育委員会)』を購入。

開いて見て、郷土資料館の敷地にも石仏があることを知る。

早速、行って見る。

昔の塩原への街道に面した土手に石仏群がある。

廿三夜塔や庚申塔に交じって、半数は馬頭観音。

文字塔と像塔の割合は、半分ずつくらい。

文字塔には「牡馬頭観世音、牝馬頭観世音」と刻した碑があり、像塔には寒念仏供養塔を兼ねたものがある。

 

「牡馬頭観世音 牝馬頭観世音」       寒念仏供養塔の馬頭観音

文字塔でも像塔でも、施主名と像立年月はきちんと銘記されているが、肝心の多頭馬頭観音はなし。

 

64基もの馬頭観音が一か所にあると聞き、平野集落へ。

集落の入り口の道路際の広場に馬頭観音が一列に整列している。

         矢板市平野東野の馬頭観音群

大半は文字塔で「馬頭観音」か「馬頭尊」。

像塔は64基中、わずか5基を数えるのみ。

1基「牛頭尊」があり、異彩を放っている。

昭和51年10月という設立念時は、64基中最も新しい。

解説板によると、この道は塩原、会津への道筋で、木材運搬に馬たちは従事していたらしい。

昭和50年代にはトラック輸送が主流となり、馬は皆無となって、飼育されるのは牛だけになっていたはずである。

この道筋には、何カ所もこうした馬頭観音群があるというので、進んで見る。

500mも行かない場所に、それはあった。

二股分岐点に20基ほどの馬頭観音群。

          矢板市平野上坪

中央の像塔の他は全部文字塔ばかり。

当然、多頭馬頭観音はありません。

 

ここらで馬頭観音について復習をしておこう。

馬頭観世音菩薩は、仏教における六観音の一つ。

六道のうち畜生道に配されるので、馬の無病息災を祈願し、死馬を供養する仏とされるが、本来は人間の守護仏で、儀軌の三面憤怒身はその呪力の強力なることの表現だとされています。

しかし、石仏としては、こうした憤怒馬頭観音像はごく少数で、温和な慈悲菩薩相馬頭観音が圧倒的に多いのです。

 

 三面忿怒馬頭観音 大円寺(杉並区)   慈悲菩薩相馬頭観音 岩屋堂観音(本庄市)                

これは、近世以降、馬が農耕や運搬に重要な存在となると、日本古来からの作神としての馬信仰が仏教本来の教義から逸脱した民間信仰としての馬頭観音信仰へと発展したことを表しています。

石仏として像立され始めるのは、近世中期。

死馬の墓標として造立されるようになります。

場所は、馬捨て場、血取り場、峠や山道、村はずれの追分など。

初期は像塔が多いが、次第に文字塔に移り変わってゆく。

ピークは明治時代。

大正、昭和になっても造立されるが、昭和も30年代の車時代到来と同時に馬が激減、馬頭観音造立も皆無となる。

開発ブームとともに邪魔者となった石仏は、一か所に集められることに。

こうした石仏群としては、馬頭観音が圧倒的に多い。

ちなみに矢板市では、地蔵208、十九夜塔82、庚申塔74基に対して馬頭観音363基とダントツの一位。

 

矢板市から県道30号線を走り、那須塩原市に入る。

那須塩原市に入ってすぐ左の嶽山箒根神社へ。

神社前に馬頭観音群がある。

  

            嶽山箒根神社前(那須塩原市)

きちんと整列した石仏の前には、道路。

道路の向こうには水田が広がり、右手奥には集落が見える。

生前、どの馬もこの道を行き来していたのではないか。

石仏群の横に、ひときわ大きな石碑。

「愛馬之碑」とある。

さらにその横にちょっと離れて庚申塔が1基。

像塔と文字塔が半分ずつくらいか。

文字塔には、「馬力神」や「先馬代々馬頭尊」がある。

「馬力神」は、力強い馬を讃えて神の字を贈ったものという。

「馬頭観世音」、「馬頭尊」以外のこうした文字塔については、後でまとめて表示します。 

ここまで目的とする多頭馬頭観音は見かけない。

 

午後1時過ぎ、ポツンと佇む蕎麦屋で昼食。

勘定をしながら「ここはどこか?」と訊く。

「高林」という地名を耳にしながら車を走らせたら、左手に石碑があるのに気付いてストップ。

馬小屋でもあったのだろうか、それらしき広がりの奥に2基の石碑が立っている。

近づいて見たら、探していた三頭馬頭観音だった。

 

馬頭観音だから、馬頭を頭上に頂くのは当然だが、普通は一馬頭のみ。

複数の馬頭を乗せるのは、事故か病気で一度に2頭も3頭も亡くした場合だと言われている。

ほのぼのしたデザインの蔭に飼主の悲痛な思いが込められているのです。

 

この後のことは思い出したくもない。

馬頭観音群があるという場所を2,3か所探すも見つけられない。

標識がない上に、訊きたいけれど人影は見当たらないからまったくのお手上げ。

気が付いたらいつの間にか、那須町へ入り込んでいた。

偶然見つけた馬頭観音を撮っていたらお年寄りが来て、立ち話。

 

自分の家の馬頭観音だが、明治のころのことで、馬の死因は分からないとのこと。

「ここへ行けば馬頭観音が沢山あるよ」と親切に教えてくれた。

言われたとおりに?行って見るが、行きつけない。

右左折を一本間違うととんでもない方向に行ってしまう。

茫漠たる荒野の中で途方に暮れて、この日は終わり。

雨が降り出した。

弱り目にたたり目とは、このことか。

 かつての馬の放牧場。場所がどこか、まったく不明

 

翌朝、5時半起床。

ペンションの朝食は8時半からだというので、車で出かける。

目的地は、小深堀地区。

石仏愛好家の間では、「馬頭観音通り」で知られる名所。

道路際に馬頭観音が群れを成しているから、昨日のようなことはなくすぐ分かるはずと思っていたが、その通りだった。

最初の群は、火の見櫓の下に20基ほどが雑然と座していらっしゃった。

         那須町小深掘

 20基のうち8基が多頭馬頭観音で、内訳は3馬頭が5基、5馬頭が2基、7馬頭が1基。

細長い自然石に草書体で「馬頭観世音」と刻し、上に3馬頭を配する優雅な石碑がある。

5馬頭の1基は、慶応4年造立で、7馬頭は文久2年とある。

 

何があったのだろう。

全財産を失う悲劇から馬主は立ち直れたのだろうか。

文字碑にも面白いのがある。

「馬頭観世音」の併記は、2馬頭と同意義ということだろう。馬頭観音群の前は牧場で、柵で囲ってある。

 柵の向こうは馬房のようだが、馬の代わりに車が入っていた。

 

次の群は100メートルも離れてなく、あった。

駆けあがりの裾に煤けた感じで一列に並んでいる。

 

       那須町小深堀

向こうに鯉のぼりが見える。

マンションのベランダから垂れ下がっている鯉のぼりを見慣れた目には、広大な屋敷にへんぽんと翻る姿は鯉のぼりのイメージそのもの。

 単頭馬から7頭馬まであるが、7頭馬頭観音は「馬」の文字が7個並ぶというユニークなもの。

 「馬」を頭にした7頭馬頭観音

 ここにも「馬頭観音」併記の文字塔がある。

 

 草書体馬頭観音併記の墓標

変わっているのは双体馬頭観音があること。

 

      双体馬頭観音

双頭馬頭観音ではなく、双体にしたのは何故だろう。

横並び思想が強い水田単作地帯に比べて、馬農家には個性の強い施主がいたようだ。

馬への愛情の強さを競い合った結果の表現に思える。

線彫りの馬もいる。

     線彫り馬の馬頭観音

風雨に晒されてすっかり色が落ちてしまっているけれど、元は鮮やかな朱色だったはずである。

晴天を祈願して朱色に塗ったと伝えられている。

これが黒だと雨を祈願するのだそうだ。

簡単な線画のようだが、躍動感溢れる佳品だ。

像塔は江戸期の造立が多く、文字塔は明治以降が多いが、ここの文字塔には馬の名前を彫ったものが散見できる。

 

これも馬主の愛情表現なのです。

 

小深堀から大深堀へ。

桜の古木があり、その下に22基の馬頭観音がいらっしゃる。

 

           那須町大深堀

念仏塔と庚申塔がひと際大きく、馬頭観音は小さいのばかり。

黒っぽいのは、野焼きの痕。

22基の内訳は、単頭2、双頭5,3頭7、4頭1,5頭6、馬の浮彫1。

文字塔はない。

いかにも那須の馬頭観音群らしい。

単頭の1基は、朱色がまだ少し残っている。

元はみんな朱色だった。

華やかだったにちがいない。

5頭の頭の配置がそれぞれ異なるのも面白い。

  

 

他と同じようにしようという配慮はないようだ。

むしろ他と違う独自色を模索しているかに見える。

唯一の馬の浮彫は、種付馬。

「種馬幸雲號」と名刻されている。

 種馬だから別格扱いなのだろう。

石工は似せるのに苦労したに違いない。

 上手くはないが、躍動感がある。

 

地図に「生駒神社」があるので、探しさがして行って見る。

長い参道の曲がり角に馬頭観音碑が5基。

  石碑の右の道路の奥が神社

「馬」文字頭もある。

本殿周りにはもっとたくさんあるかと期待していたが、何もない。

    生駒神社(那須町小深堀)

最盛期には馬を連れて参拝したのだろう、それらしい広場がポカンと広がっていた。

 

ペンションに戻り、朝食を食べる。

9時、さて、どこに行こうか。

昨日、行き着けなかった場所をもう一度トライすることにして、教えてくれた老人の家を尋ねる。

道筋を再確認して慎重に雑木林の中を進む。

人家は一軒もない。

こんな所に馬頭観音群があるのだろうかといぶかり始めていたら、あった。

道路際の広場に面して、32基の馬頭観音がひっそりと佇んでいた。

   馬頭観音群(那須町高久乙のどこか)

文字塔はたった1基、大半は像塔です。

単頭5、双頭4、3頭10、4頭2、5頭8、不明1(上部破損で)、文字塔1。

なぜか聖観音立像が1体いらっしゃる。

 

     聖観音           

馬というよりは、ネズミに見える石碑もある。

倒れたり、苔が生えたりしてはいないのは、定期的に管理する人がいるからだろう。

 

念願果たせて大満足。

集落まで下りて、農作業中の人に話を聞く。

戦前は軍馬の放牧場が近くにあり、各農家でも数頭の馬を飼っていたとのこと。

朝、放牧場まで連れて行って放し、夕方、連れ戻すのだが、利口な馬はさっさと家に帰って来ていたそうだ。

那須地方は火山灰土で地味が悪く、今は農業技術の躍進で田畑も開墾されているが、戦前は放牧場としてしか価値がなかった。

農家にとっては馬の飼育だけが現金収入の唯一の手段だったわけです。

馬は大切な財産で、大切に飼育し、死ねば石碑を建てて供養したので、馬頭観音碑は増えるばかり。

だから、馬頭観音群はあちこちにある、というので、一か所教えてもらう。

今回も途中で道を誤ったようだ。

何キロも走りまわって、馬頭観音群にぶつかったが多分、教えてもらった群ではないだろう。

三差路の角、畑をバックに松並木の下に整然と並んでいた。

  馬頭観音群(那須町高久乙)

ここの特徴は、5頭以上の多頭馬頭観音が多いこと。

なんと10馬頭や12馬頭馬頭観音がおわす。

 

   10頭馬頭観音             12頭馬頭観音

馬頭観音1万5000基を調査した栗田直次郎『馬と石造馬頭観音』でも、9頭馬頭観音を珍しいと紹介しているのだから、これは新発見か。

ここにも「牛頭観世音」が見える。

    牛頭観世音

昭和54年造立だから、この中では最も新しい。

世の中は広い。

像塔の「牛頭観音」もある。

私が見たのは、長野県松本市山辺。

    角のある牛頭観音(松本市山辺)

耳が4つある変わった馬頭観音だと思っていたら、上の二つは耳ではなく、角だとのこと。

だから、馬ではなく、牛だというのだが、石工がへたくそで牛に見えないのが惜しい。

横道にそれたついでに言うと、「豚頭観音」があるということで、所沢まで出かけたことがある。

探しても見当たらない。

畑の区画整理で邪魔になり、2か月前廃棄したということだった。

「豚頭観音」は、他にもあるようだが、まだ確認していない。

 

那須の多頭馬頭観音を見たいという願望は、これで果たせたことになる。

まだ探せばいくらでもあるだろうが、私はこれで大満足。

那須町役場で教育委員会発行の『那須の石仏』でも入手して帰るつもりで、役場のある黒田原を目指す。

途中、道路際に石仏群があるので、急停車。

  道路際の馬頭観音群(那須町寺個丙)

全部、馬頭観音で、7「馬」文字馬頭観音も7頭馬頭観音もある。

 

   7馬馬頭観音                 7頭馬頭観音

これが昨日だったら興奮しただろうが、今日は落ち着いたもの。

我ながら感情の起伏の激しさに驚いてしまう。

この場所は、神社の跡地なのだろうか。

少し奥まった場所に笹と縄で囲われて、馬頭観音が2基おわす。

 黒田原に着いたが、役場に直行せず「長久寺」へ。

   長久寺(那須町豊原甲)

資料では馬頭観音群があると書いてある。

山門を入って右に石仏が列を成している。

夜待塔や庚申塔、地蔵などもあるが、馬頭観音が圧倒的に多い。

先に挙げた栗田直次郎『馬と石像馬頭観音』で紹介されていた9頭馬頭観音がある。

 

 9頭馬頭観音            彩色馬頭観音

色彩馬頭観音がきれいだ。

昔は、みんなこんなに色鮮やかに立っていらっしゃった筈である。

こちらは 川越市で見かけた彩色馬頭観音。

 彩色馬頭観音(川越市)

土地は変われども、朱色は同じようだ。

石仏群の一番奥にひと際大きく聳えるのは「産馬大神」。

墓標として使われる「馬頭観音」や「馬頭尊」に対して、馬を神として敬う言葉がある。

「産馬大神」もその一つで、財産である仔馬の安産を祈願する神。

那須塩原市の嶽山箒根神社前の馬頭観音群の中にあった「馬力神」も馬を神としている。

    馬力神(那須塩原市)

「馬力神」はあちこちでよく見かける神だ。

 

  馬力神(大田原市)     馬力神(太子町)

那須町高久乙にあるのは「 生駒大神」。

矢板市玉田の生駒神社が本宮で、生駒講が各地にあり、代参する風習があった。

 生駒大神(那須町)

「生馬大神」があるのは、佐野市田沼町。

 生馬大神(佐野市)

 太子町には「生馬大神」から「生」を取った「馬大神」と、「大」を取った「生馬神」がある。

 

 馬大神(太子町)       生馬大神(太子町)

いずれも個人ではなく、地域の人たちが集まって造立するもの。

「勝善神」もよく見かける。

   勝善神(矢板市)

名馬の誕生を祈願するもので、岩手県水沢の駒が岳にある駒形神社が本宮。

勝善(しょうぜん)は蒼前(そうぜん)のなまり。

蒼前とは、膝から下が白い葦毛の馬のこと。

葦毛の馬は八歳になると白馬になると信じられ、名馬誕生を祈願した。(中島昭『おおひらの野仏』より)

「馬頭大士」の「大士」は、仏、菩薩の尊称だから、「馬頭観音菩薩」の意。

 馬頭大士(高崎市倉淵町)

「馬櫪尊」の馬櫪は、馬の飼い葉桶を指す。

 馬櫪神(那須町高瀬) はっきりしないが『芦野の石仏』にはそう書いてある。

この他、「馬頭大神」、「白馬大士」、「駒形霊王」、「駒形大明神」等など多種多様な表現がある。(栗田直次郎『馬と石像馬頭観音』より)

 回り道をした。

長久寺から那須町役場へ。

教育委員会を尋ねたが、石仏のことは芦野の「那須歴史探訪館」で訊いてほしいとのこと。

再び芦野へと車を走らせる。

「那須歴史探訪館」は総ガラス張りの超モダンな建物。

    那須町歴史探訪館

歴史探訪館が出版した『芦野の石造物』はあるのだが、個々の石造物の場所が記載されていない。

場所を明記すると文化財が盗難に遭う恐れがあるので、あえて書いてないのだと説明を受けた。

興味ある石造物がいくつかあるのだが、場所が分からないのでは探しようがない。

仕方なく、寺まわりをすることに。

最初に訪れた「三光寺」の駐車場に石碑が3本立っていた。

中が「生馬大神」、向かって右が「征馬大神」。

「征馬大神」には、昭和13年、軍馬として徴用された91頭の馬名と飼主の名が刻まれている。

昭和13年は、私の生まれた年だから、75年前のことになる。

軍馬に関する石碑も多いので、ここで少し紹介しておく。

昭和13年は、日中戦争が始まっていた。

私の家から近くのお寺には、「日支事変軍用馬」の供養塔がある。

       寿徳寺(北区)

変わっているのは、馬だけではなく、「頭鳩犬戦傷病亡」と彫ってあること。

「軍馬之碑」や「出征軍馬忠霊碑」なと゛戦争を特定しないものは良く見かけるが、「日露戦役軍馬之霊」と限定するのは珍しい。

  西林寺(佐野市)

塩尻市の観音堂には、日清、日露両戦役で戦死した軍馬供養の「征清軍馬之碑」と「征露戦死軍馬碑」とがある。

 

 征清軍馬之碑 (塩尻市)                征露戦死軍馬碑(塩尻市)

厚木市の飯山観音には「為農耕馬出征軍馬供養」と刻した石碑がある。

 

     飯山観音(厚木市

農耕にともに汗を流した愛馬が軍馬として徴用され戦死した、そのことを悼む供養塔だが、設立者は北海道根室国野付郡別海村の個人。

北海道の人がなぜ厚木市の寺に供養塔を建てたのか、その理由は分からない。

この他、軍馬供養塔としては、「軍馬忠霊之碑」、「軍馬霊祭碑」、「軍馬之供養塔」、「軍馬慰霊碑」、「軍馬碑」、「愛馬碑」などが各地に散見される。

これで、那須の多頭馬頭観音巡りと馬頭観音の異称、軍馬供養塔のあれこれについての報告を終える。

多頭馬頭観音めぐりが大雑把で、いい加減過ぎた。

反省しています。

 

最後に一言。

私が好きな馬の石碑が2基ある。

一つは、埼玉県富士見市の観音堂境内に立つ馬頭観音供養塔。

  観音堂(富士見市)

稚拙ながら飼主の愛馬心が迸っている像塔です。

六地蔵のとなりに小さな板碑と並んで、元禄から300年間、村の移り変わりを見てきたことになります。

もう一つは、馬方に手綱を引かれる馬。

   猿江稲荷神社(江東区)

馬方と馬、二石が一体となって意味を成す素晴らしい作品で、江東区猿江の「猿江稲荷神社」におわします。

写真の手前にコップなど邪魔なものがあるのは、カギが掛っていてどけることが出来ないから。

以前は境内に野ざらしで立っていたのだが、今回行って見たら、小詞の中に安置されていた。

この写真は、狭い桟の間から撮ったもので、陰影がなく、文字も像もはっきりしない。

貴重な文化財であることは理解しているが、これは少し過保護ではないか。

馬頭観音碑は野仏であるからいい。

盗難を恐れるのなら、レプリカでも仕方ない。

野ざらしに戻してほしいと思うのです。