石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

101 石で知る江戸城(三)ー内濠を一周するー

2015-04-16 05:44:41 | 石で知る江戸城

田安門から皇居西側を回って桜田門までのコースは、桜満開の4月第1週、大勢の花見客に混じっての散策となった。

止まることもままならない人ごみで、散策とはいえそうもなかったが・・・。

花見客が入らない写真を撮ることが難しい。

地下鉄「九段坂下駅」を出ると、左に田安門がある。

寛永13年(1636)建造の、江戸城で最も古い門。

国の重要文化財です。

門を入った北の丸公園の西側は、吉宗の次男が興した田安家の敷地でした。

田安門両側の石垣の石は濃淡があり美しい。

桜越しの内濠は一年で最も美しい景色です。

行列に並んで進むとすぐ見えるのが、「常灯明台」。

明治4年(1871)、靖国神社正面、つまり現在地点の道路の向こう側に建てられたもの。

上部が洋風なのは、当時の西洋かぶれの現れだそうです。

建設時は、東京湾を航行する船の灯台の役割を果たしていたというから、隔世の感があります。

続いて銅像が、2基。

手前が品川弥次郎子爵、奥が大山巌公爵像だが、興味がないので、パス。

子爵と公爵、どっちが「おえらいさん」なのかも知らない。

右手に靖国神社を見ながら、行列に従って左の千鳥ヶ淵遊歩道へ。

インド大使館では「さくらフエスティバル」中。

インドの物産とグルメで賑わっていた。

閉鎖的な大使館としては、珍しくオープンなイベント。

千鳥ヶ淵の幅は広い。

北の丸側は石垣ではなく土塁だが、これだけ濠が広く、土塁が高ければ、要塞として十分だろう。

手前に首都高、その奥に濠と北の丸が見えると千鳥ヶ淵も南のはずれ。

お濠の上の高速道路を、江戸城の景色を台無しにするものと見るか、新旧の対比鋭い、いかにも現代東京らしい光景と見るか、議論が分かれそう。

今は、内堀通りから北の丸へと代官通りが伸びているが、昔は千鳥ヶ淵と半蔵濠とは繋がっていた。

代官通りから半蔵門までの遊歩道は、幅が広がって人通りもややゆったりしている。

公園の幅があるから花見のブルーシートが多い。

会社の花見だろうか、場所取りの男が一人ぽつねんと座っている。

中国人観光客がシャッターを切っている。

現代日本を表わす格好の被写体、なかなかのセンスだと感心した。

ところどころに石碑がある。

近寄って見たら「第一東京市立中学校発祥之地」とある。

帰宅して調べたら、九段高校の前身で大正年間ここにあったのだとか。

他にもいくつか公共施設の跡地表示がある。

半蔵門は、天皇家の通行門。

「半蔵」の名は、この門を警固した服部半蔵に由来したもの。

甲州街道の始点でもあります。

下の写真は、半蔵濠から半蔵門の土橋を見たもの。

水面からの高さがかなりのものであることが分かります。

防御の観点からすると必要な高さだったのでしょう。

半蔵門で桜並木は終わり。

歩道はジョギングの人が通り過ぎるだけに。

春色の土手の緑とお濠のブルーが相まってとても都心とは思えない光景が広がる。

このあたりは、江戸城構築の際、谷筋だったものをそのまま利用したものだとか。

土手下の水面近くに一本の柳。

歩道際の説明板によれば、「柳の井戸」で、江戸時代、通行人ののどを潤す湧水として有名でした。

浮世絵に描かれた名水の井戸は、この「柳の井戸」の、道路をはさんで反対側にもある。

「桜の井戸」。

加藤清正の屋敷で清正が掘ったというのだが、殿様が井戸を掘るものか。

その後井伊家の屋敷となったので、井伊大老はこの井戸のそばを通り、桜田門へ向かう途中襲われたことになります。

「桜の井戸」から右手に国会議事堂を見ながら、長い横断歩道を2度渡るとそこが地下鉄「桜田門駅」。

膝痛の私としては、これだけ歩くのが精いっぱい。

2番出口からホームへ。

今日は、これでお終いとします。

 

1週間後、「桜田門駅」3番出口を上る。

出た所が、桜田門の真ん前。

振り返ると桜田通が伸びているが、日本橋が起点になる前は、桜田門が東海道の起点だった。

桜田門は江戸城の城門のなかでも大きい方だが、高麗門そのものは間口が狭い。

高麗門から中を覗くと右に巨大な渡櫓(わたりやぐら)が見える。

門の上の黒っぽい帯状のものは、銃眼。

高麗門を入った侵入者は、ここから一斉射撃されることになる。

井伊大老もここまで逃げ延びれば、一命をとりとめたに違いない。

高麗門があり、渡櫓があるから枡形門なのだが、風変わりなのは、高麗門の正面に石垣がないこと。

石垣は、桜田濠の向こう、西の丸にある。

敵が高麗門を入っても、はるか向こうの高みから攻撃をすればいいわけで、石垣の必要がないのです。

桜田門の石垣は美しい。

 江戸城石垣の大半は伊豆の安山岩だが、ここには花崗岩も使用されてて、石のグラデーションが見事。

田安門といい勝負です。

 

渡櫓をくぐり、直進すると内堀通りにぶつかる。

そこに「特別史跡江戸城跡」の看板。

史跡でも「特別史跡」となると別格。

全国でわずか61か所しかない。

東京都では、3か所、江戸城の他は、浜離宮、小石川後楽園だけです。

内堀通りを右折するとすぐに祝田橋。

         祝田橋

祝田橋のネーミングは、明治39年(1906)、日露戦争の勝利を祝う凱旋パレードのために造られたから。

ちなみに祝田橋の西側、桜田門を望む濠は凱旋濠です。

       凱旋濠

歴史にちなんで濠の名前をつけるのなら、祝田橋の東側は日比谷濠だが、その突当りには第一生命ビルがあるのだから、「GHQ濠」とか「マッカーサー濠」とでもすればいいのに。

「凱旋濠」に対抗して「敗戦濠」でもいいかも。

        日比谷濠(マッカーサー濠?)      

 晴海通りを銀座方向に進む。

左は日比谷濠で、右は日比谷公園。

日比谷公園には外濠の跡があるが、それについては、NO62「石で知る江戸城②外濠を歩く」で触れたので、ここでは取り上げない。

ここは、外濠と内濠が最も近接していた地点だった。

日比谷交差点でお濠沿いに北へ進む。

右に帝国劇場を見ながら行くと馬場先門跡。

今は標柱があるのみ。

門の奥に馬場があったから馬場先門。

写真を見れば分かるように現在は濠がここで切れているが、江戸時代は橋が架かっていた。

日露戦争後に橋が埋められ、枡形門も撤去された。

千代田区観光協会のブログでは「日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出たため、明治39年(1906)に枡形は撤去されました。現在は石垣の一部だけ残っています。」と書かれている。

 

馬場先濠沿いに北に進むと行幸通りにぶつかる。

東方向を見ると正面に小さく東京駅。

はるか向こうの様に見えるがわずか300mに過ぎない。

道路の短さに比べ、横幅が73mと広いのは、中央に天皇が行幸の際に通行する専用道路が走っているから。

わずか300mの道路だが、レッキとした都道で、正式名称は「東京都道404号皇居前東京停車場線」。

濠に面して立つコンクリートの建築物は、何だろうか。

行幸通りが関東大震災後に造られたことを考慮すると、守衛所、と断じてよさそうだ。

それぞれのお濠に1羽か2羽の白鳥がいる。

飛べない様に翼を切ってある、と聞いたことがある。

 

行幸通りを過ぎると和田倉橋はすぐそこ。

和田倉の「倉」は、江戸城建設の際、物資の貯蔵倉庫があったから。

日本橋へとつながる道三堀の起点でもあった。

橋は、木橋。

江戸城内濠に架かる橋としては、平川橋とこの和田倉門橋が今に残る木橋です。

江戸時代の雰囲気が出ています。

橋を渡ると枡形門。

建物はないが、石垣の配置でそれと分かる。

枡形門には珍しく左サイドの渡櫓をくぐるとそこに和田倉噴水公園。

今上天皇ご成婚記念に造られたもの。

木蔭に人影が3人。

喫煙所だった。

外国人旅行者が日本に来て驚くスポットの一つが喫煙所だという。

外国人でも主として中国人かも知れないが。

 

和田倉濠は、日本生命ビルに沿って左折している。

ビルとお濠の間に道はないので、日比谷通りを北上する。

次の交差点を左折するが、この道は日本橋や茅場町を通り永代橋へつながる永代通り。

左折した突当りが大手門になる。

 大手門からの光景。手前が内堀通り、縦に伸びるのが永代通り。

いわずもがな、江戸城正面だから、大手門。

諸大名の登城口だったから、混雑した。

殿の下城を待つ家来ども相手の屋台も出ていたらしい。

大手門の内側は、現在、皇居東御苑として開放されている。

城内石垣も一見に値するが、今回は内濠編なのでパス、回を改めて紹介する。

大手門の南側は桔梗濠、北は大手濠と分かれている。

 

       桔梗濠               大手濠       

凱旋濠、日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠と皇居外苑を取り巻く形の濠は、パレスホテルと内堀通りに遮断されて、ジ・エンド。

内堀通りの向こうは、桜田濠、二重橋濠、蛤濠とつながる桔梗濠になっている。

 

大手濠沿いに北へ。

三井物産ビル、東京消防庁、気象庁とかなりの距離を歩く。

所々、県の花のタイルがある。

散り遅れた桜の下で写真を撮っている人たちがいると思ったら、小さな緑地公園だった。

桜をバックに銅像が立っている。

和気清麻呂像。

ネット検索によれば、勤王の忠臣で、昭和16年(1941)ここに建立されたとのこと。

清麿像の前のイチョウは、表皮がはがれ、木肌がむき出しになっている。

樹齢150歳、関東大震災の火災の中唯一生き延びた「震災イチョウ」だとのこと。

緑地公園を出て、前方を見やると横たわっているのが、パレスサイドビル。

次の目的地、平川門は毎日新聞が入るパレスサイドビルの前にある。

 

和田倉門と同じように、平川門も木橋。

銅製の擬宝珠(ぎぼし)には、「寛永元年甲子八月吉日 長谷川越後守」と刻されています。

平川門の構造を文章で伝えることは難しい。

写真でなら分かりやすいものだが、写真でも分かりにくい。

上の写真は、平川橋から西の竹橋方向を望んだもの。

左手の石垣が平川門から竹橋に向かって伸びている。

石垣の向こうは城内と誰もが思う、それが落とし穴。

帯曲輪(おびくるわ)という幅の狭い城郭が平川濠を斜めに竹橋まで横切っているので、帯曲輪の向こう側も濠なのです。

パレスサイドビル9階のレストランから見下ろすと全体の情景が分かるのだが、生憎、日曜日で閉店。

案内図で全体図を把握してください。

 

平川橋を渡る。

普通は、高麗門が正面にあるのに、ここでは橋を渡って右に門がある。

門を入ると右にあるはずの渡櫓が左にあるのも珍しい。

渡櫓の右端にも門があるが、これが有名な不浄門。

平川門の構造を複雑にしたのが、この不浄門です。

不浄というのは、城内の糞尿をこの門から出していたから。

余計なことを付け加えれば、当時、糞尿は畑の肥やしとして有用でした。

死人や罪人もこの不浄門から出されたから、浅野内匠頭や絵島もここを通ったことになります。

渡櫓をくぐって右を振り返ると濠があって帯曲輪が見える。

  右のこんもりした茂みが帯曲輪、奥が竹橋、左の石垣は江戸城石垣

ここで初めて、平川濠の中に帯曲輪が通っていることが分かります。

 

 平川門を出て、竹橋方向へ。

 橋のたもとに枝を広げた樹木がある。

その枝の下に、江戸城石垣用石材が三個積み重ねられている。

上の石には刻文がある。

「太田道灌公追慕之碑」と題して、顕彰文が一面を覆うが、注目すべきは次の1行。

「この石材は江戸城虎之門枡形の遺材にして、道灌公当時のものにはあらざるも、因縁深きものにして特に本碑材に選定することとせり」。

 

平川橋から竹橋は指呼の間。

竹製の橋だったから、竹橋と云う説が有力。

白鳥が何かをつついている。

何かと思ったら、死んだ鮒だった。

つついて遊んでいるのであって、食べるのではない。

1mはある鯉も見かけた。

竹橋から平川濠を振り返る。

正面奥に平川橋。

その右に枡形門。

右の石垣が帯曲輪。

このあたりは、外堀(日本橋川)が内堀に最も近接している場所。

外堀の一ツ橋門を敵が突破すれば、そこは内堀、本丸はすぐそこです。

敵の攻撃が本丸に直接及ばない様に、帯曲輪(細長い城郭)を濠の中に設けた、そう解説する向きもあります。

 

竹橋を過ぎると途端に人通りが少なくなる。

ジョガーは皆、北の丸公園へと消えてゆくようだ。

清水門は内濠にかかる門の中で、最も観光客が少ないのではないか。

私も初めて訪れた。

内堀通りから清水門への道は、土橋。

左は清水濠。

右は、牛が淵濠。

牛が淵濠の土塁の上に武道館の屋根が顔をのぞかせている。

高麗門と渡櫓の枡形門のスケールが大きくて、ゆったりしている。

       手前の扉が高麗門、右奥が渡櫓

なにより素晴らしいのが、渡櫓をくぐってUターンする形の雁木坂。

江戸時代そのままの石段だそうで、歴史がにじみ出ている。

雁木坂を上がると左にベンチサイト。

清水門が一望できる絶景ポイント、お勧めです。

 雁木坂の上から北の丸公園に入り、武道館の前を通って、田安門へ向かうこともできるが、今回のテーマは「内濠一周」なので、来た道をもとへ戻り、内堀通りへ出る。

ここから九段坂下交差点までは、ビルに遮られて濠は見えない。

        九段会館

交差点を左折、昭和館のベランダホールから内濠が一望できる。

土塁の下に石垣を組むスタイルは「腰巻石垣」というのだそうだ。

いいネーミングだが、腰巻を知らない日本人も多いようだから、そのうち注釈がつくようになるのだろうか。

濠の突当りの上に白壁がチラリと見えるのが、田安門。

これで江戸城内濠一周は、ゴール。

約8キロ弱か。

このシリース名は「石で知る江戸城」。

だが、石造物があまりにも少なく、タイトルを偽ったようで気が引ける。

次回は、江戸城内跡地へ入ります。

 

私のネタ本は、黒田涼『江戸城を歩く』。

殆ど丸写し、盗作の誹りを免れない。

黒田さん、ごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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100 石仏のある風景

2015-04-01 05:47:58 | 石仏めぐり

ブログ「石仏散歩」、やっと100回になった。

月2回の更新だから、丸4年経ったことになる。

石仏巡りそのものはブログ開始前からやっていたが、それも古希前後からのことで、通算、7年ほどか。

年々、足腰が弱くなってきている。

最近では、1万3000歩を超えると膝通がひどくて歩けなくなってしまう。

石仏巡りの場所も限定的にならざるを得ない。

もっと若いころ、せめて60代から石仏巡りを始めていたならなあと、つい一人ごつていたりする。

 

最近、こんなことがあった。

春の彼岸、供花でカラフルな寺の墓地を歩いていて、ふと足が止まった。

ある家の墓域に大振りな立像石仏が4体。

                      正受院(北区)

右端の阿弥陀如来の足元に視線が走る。

猿が3匹うずくまっている。

近寄って、刻字に庚申の二文字を確認する。

阿弥陀如来を主尊とする庚申塔は珍しいが、それ以上に珍しいのは、場所が個人の墓域であること。

本来、庚申塔は村や集落の辻々に立てられていた。

それが開発で行き場を失い、寺の門前や境内に移された。

しかし、寺の墓地に移されることは、まず、ない。

庚申塔は墓標ではないからです。

更に、集団的な講により造立された庚申塔が、個人の墓域にあるというのも不可解です。

 

何を言いたいかと云うと、7年間で、私自身、随分変化したということを言いたいのです。

7年前だったら、これが阿弥陀如来であることを判らなかった。

地蔵と観音の区別すらできなかった。

庚申塔など、見たことも聞いたこともなかった。

石仏について全くの無知でした。

上述の体験を珍しいことと受け止めることなどありえなかったのです。

4年にわたる100回のブログは、石仏に無知な70歳の男が見聞と知識を少しずつ広げてゆくプロセスの記録だったことになります。

今回は、ある時、ある場所での「石仏のある風景」アラカルト。

私の「思い出のアルバム」であり、成長記録でもあります。

 

私の石仏開眼は、佐渡八十八ケ所めぐりがきっかけでした。

ガン再発を懸念しながら、故郷佐渡をもっと知りたいと念じ、選んだのが佐渡遍路。

選択は正解でした。

知らなかった佐渡に数えきれないほど出会い、故郷の人と自然を満喫しました。

同時に佐渡札所巡りは、知らなかった石仏との出会いの場でもありました。

佐渡は地蔵の島と云われます。

              梨の木地蔵(佐渡市豊田)

いたるところにお地蔵さんがおわします。

賽の河原であの世の安寧を願い、代かき地蔵に農作業の手伝いを頼み、目洗い地蔵で眼病を治す・・・あの世でも、この世でも、あらゆるものに姿を変えて、あらゆる願いを叶えてあげる(これを「能化」というのだとは後で知りましたが)、お地蔵さんは、まるでスーパーマンみたいだなと思ったものです。

 

帰宅して、東京の石仏も見てみたいな思いました。

初めて手にしたのが、佐久間阿佐緒『東京の石仏』。

今になって思えば、これが恐ろしく偏った本だった。

石仏墓標を、可愛いとか美しいとかでしか評価しない。

とりあげる石仏も観音さまだけ。

それも如意輪観音ばかり。

 

     円福寺(板橋区西台)   

お地蔵さんや阿弥陀さんなど目もくれないのです。

たとえば、こんな感じ。

ちょっと長いが引用する。

「この造仏は、仏像とか美人画とかいう既成の概念にまったくとらわれず、いま、目の前にいるかわいらしい少女の姿、表情に、彫る者自身が、身も心も完全にのめりこんで、美しさを含むその若やかでなよよかな少女のにおいに、惑溺し尽くした果てのように思えてならない。
浮世絵美人画の嗜好は石仏にも伝播しないはずはないのだが、浮世絵の妖奇な幻想味ではなく、石仏においては、童子童女のかれんで、しかも未熟な美しさに美の極限を求めるものであり、それは維新の動乱を迎える前の、退廃的な、しかしそれなりに洗練されたふるえるような時代感覚だったのである」

佐久間氏には『江戸石仏散歩』なる著作もあるが、内容はまったく同じ。

石仏初心者の私が、佐久間式に「刷り込まれ」たとしてもおかしくはないでしょう。

もともと、野の仏の風情に惹かれて、大抵の人は石仏の世界に入ります。

石仏の像容が問題であって、民俗学や歴史学の視点など初めから持ちうるはずもありません。

だから佐久間式石仏鑑賞は、初心者の私に恰好なお手本でした。

佐久間氏の影響は、このブログの「NO3蝶観音」、「NO19アイーン観音」、「NO39My石仏ミス板橋」に色濃く反映されています。

とりわけ「My石仏ミス板橋」は、日本石仏協会の古参理事であるK氏に、その手法を厳しく戒められたことで、印象深い作品です。

「39 My石仏ミス板橋」http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=d5c117a3e324a4662fc41af6a5d11be6&p=3&disp=30

 

修那羅山に行ったのは、5年前の夏。

念願を果たして満足はしたが、もう一度行って見たいと思い続けている。

期待違わずヘンテコな場所で、そのヘンテコさは満喫したものの、見落としたヘンテコさもかなりあるように思えてならない。

どんな具合にヘンテコなのか。

こんな風にです。

      修那羅山早宮神社(長野県筑北村)

神像でもなく、仏像でもない。

場所柄何かの祈願石像らしいのだが、ヘンテコリンで分からない。

今回は一か所一枚の写真で、と進めてきたが、ここだけはそうは行きそうにない。

一例をもって他を類推することが不可能なほど、ヘンテコさは個別的で独特。

こうしたヘンテコなのが山を埋め尽くしているーそれが修那羅山なのです。

 修那羅山と云い続けてきたが、正確には修那羅山安宮神社。

安宮神社は、姥捨山の南、7キロの地点にある。

 開山者は、修那羅大天武という修験行者。

 

寛政7年(1795)生まれで、没年は明治5年(1872)、78歳でした。

折しもこの年、明治政府は神仏分離令を発布、修験道を禁止した。

山麓の人々の崇敬を一身に集めた大天武の死は、同時にシャーマンが活躍できた時代の終焉でもあったのです。

       修那羅大天武

神社に残る「修那羅大天武一代記」によれば、

大天武は、子供の頃すでに「聡明顯悟にして他の群童と異なり」村人は彼を神童と呼んだ。

「岩窟を観れば猿のごとくよじ登り、終日結跏趺坐して経文を唱えていた」から、村人は「役行者の再来か天狗の子孫ならんか」と驚嘆した。

「衣は寒中と雖も単衣、木の実、草の葉を食す木食の行を修し、野に臥し、山に寝ぬるを常として」各地で修行を重ね、再び、故郷へ帰ってくる。

これを聞きつけた里人たちは、「崖上で結跏趺坐する大天武に参詣し、加持祈祷を請ふ者多く、殊に其霊験の著しきより、人呼びて大天狗と称せるに至る」。

彼の行法は仙人法と呼ばれ、神道の祝詞、仏教の経文と山岳修験の呪文を混ぜ合わせたもの。

人々の願いは、多種多様。

大天武はそのすべてを受け入れ、祈祷した。

その霊験著しく、ムカデの怨霊を払い、足なえを立たせ、雨を降らせ、虫歯も眼病も治した、と伝えられている。

人々の願いの多様性は、境内に群立する石造物に現れている。

ネコは養蚕の大敵、ネズミ除けの神。

狼は秩父三峯権現のお使いで、猪や鹿の害を防ぐと信じられた。

子供を咥える、これは狐だろうか。

文字が読めない。

情けない。

金銭の神も在す。

借金の催促を遅らせて、と頼む「催促金神」があれば、「ツキ当神」なるギャンブルの神もある。

 

最も多いのは、治病の神様。

「明王薬師」、「眼大楽大神」は眼病。

「頭神」、「腹神」は頭痛と腹痛の神だろう。

「痰護明神」は喘息だろうが、「足八幡」は何か、膝関節痛に効きそうだ。

「五臓大日如来」に五臓六腑の健全なることを祈り、「一粒万倍神」の薬効があれば、すべてこれ息災。

 

 

修那羅山の神々の使命は、民衆の現世利益に応えること。

教義の正当性や論理性などくそ食らえ。

密教の主尊大日如来もここでは形無しです。

「イワシの頭も信心から」、「信ずる者は救われる」。

願いかなって、寄進された奇態な石像約230点、それにほぼ同数の文字碑、文字塔が神社を取り巻いています。

明治5年の修験道禁止令発令に呼応するかのように、大天武は死んだと先述したが、実は、修那羅山の石造物建立の最盛期は明治30年代でした。

中央政府の御威光は、ここ信州の山奥までは届かなかったのか、民衆のふてぶてしさがそれを無視したのか、いずれにせよ、信州には80を超える修那羅講が健在で、大勢が参拝するとともにこのヘンテコな民間信仰のメッカを支えてきたのでした。

「ヘンテコな」と書き始めて、修那羅山石仏をさらっと紹介するつもりだったが、長くて重くなった。

書き換えたいのだが、面倒なのでこのままにしておく。

 

東のヘンテコな石像が修那羅山石造物群とするなら、西のヘンテコリンは羅漢寺(加西市)の羅漢群か。

 両者の共通点は「へたうま」。

「ぶすかわ(ぶすだがかわいい)」があるのだから「へたおも(へただがおもろい)」とした方がいいかもしれない。

広くない境内に、びっしりと細長い石仏が立ち並んでいる。

                羅漢寺(兵庫県加西市)

石仏というには奇態な石像群は、一様に方形の石の上の部分だけを頭として丸彫りし、躰の部分は方形のまま、手指は線彫してある。

特徴は、目。

ざっくりと彫りこんだ切れ長な目は、その深い陰影が哀しみを湛えている。

五百羅漢といいつつも、実数は400位らしい。

もちろん一つとして同じ表情はないのだが、一つだけ共通点があって、それは微笑んでいないこと。

五百羅漢に笑い顔がないのはここだけだろう。

当然制作意図はあるのだろうが、制作者、制作年代ともに不明で、知りようがない。

五百羅漢といえば、釈迦の高弟。

どこかにお釈迦さまがいらっしゃるはずなのだが、石仏巡りの経験の浅い私は探しもしなかった。

探してもこの奇天烈石像群では、見分けられたかどうか。

五百羅漢に混じって、来迎二十五菩薩もおわす、と資料にはある。

「えっ、そんなものあったの」と慌ててフアイルを探してみる。

              阿弥陀如来と二十五菩薩

どうやらそれらしい写真があるが、当時は、二十五菩薩のことなど知りもしなかった。

奥の日の当たっているのが阿弥陀如来、と今では分かるが・・・

五百羅漢と違って、阿弥陀如来と二十五菩薩はありきたりの石仏なのが、面白い。

五百羅漢を観終わっての私の感想を一言で云うと「偏執狂」。

何か怖い妖気が漂っていた。

 

「石仏のある風景」で、外せない写真がある。

秩父観音霊場第三十二番法性寺奥の院の観音さま。

山の上の突き出た巨大岩そのものが奥の院で、その先端に観音様が立っていらっしゃる。

秩父の山中で観音菩薩に私が何を感得したのか、そして、現世利益を本誓とする観音さまが、無信心な私にどのような救済を与えてくださったかは、ブログを見ていただきたい。

「秩父札所を歩くー終わりに08.11.30」

http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/08/blog-post_19.html

「秩父札所を歩く―第三十二番 般若山法性寺(曹洞宗)08.11.22」

 http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/08/blog-post_1243.html

 

東京で石仏巡りをしていると、寛文、元禄、享保、文化、文政などと江戸の時代区分がすんなり頭に入るようになる。

大半が江戸期か明治の造立だから当然なことです。

京都や奈良へ行くとそうはいかない。

中世の年号などなじみが薄いからだが、磨滅して文字がないものも多い。

文字はなくても、苔に覆われ傾いた石仏は、それ自体古さをにじませていて、寺の境内の隅、あるいは路傍に佇むそうした石仏群が、ことのほか、私は好きなようです。

下の写真は、京都府木津川市当尾の浄瑠璃寺から岩船寺への道、その路傍の無縁塚。

浄瑠璃寺の九品往生の阿弥陀如来や点在する磨崖仏も悪くないが、私の軍配はこの半ば棄てられた石仏群に上がる。

二尊仏は、観音と地蔵か。

この世とあの世の安寧の願いが込められている。

願いは叶えられたのだろうか。

それにしてもコケの帽子がオシャレだ。

下は、同じ地蔵と観音だが、とても同じには見えない。

 

          高野山参道の地蔵(左)と観音(右)

このピカソ風石仏がどこにあるかというと、なんと高野山参道。

弘法大師のお膝元だから、さぞ儀軌にうるさいのかと思うのだが、どっこい、そんなことはない。

ピカソもたじたじの御面相のオンパレードなのです。

 

中世無縁仏の保存ということでは、世界遺産・元興寺が一頭地抜きんでている。

国宝瑠璃殿と宝物殿の間に整然と並ぶ石仏、石塔2500基は、地下から掘り出され、あるいは周辺から集められたもの。

              元興寺(奈良市)の浮図田

4区画の浮図田に分けて、きちんと保護、保存されている。

浮図(ふと)を辞書で引く。

「①仏陀のこと ②[(ストーパの意)石塔」とある。

日本最初の寺院らしい用語だ。

ところで、元興寺のHPを見ていて、面白い記事を発見した。

『元興寺の盃状石』http://www.gangoji.or.jp/tera/jap/link/link.html

「盃状石」とは、石造物の表面に盃状のくぼみを持つもの。

私は「凹み穴」とか「椀状凹み」と称して、板橋区内と日光街道の寺社、堂、祠、墓地を探して回り、ブログにアップしたことがある。

44 凹み穴のある石造物(東京・板橋区その1)http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=0ce43de9227393b5421eb0d968bf2e02&p=3&disp=30

45 凹み穴のある石造物(東京・板橋区その2)http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=fc04a9b8709f4d996b82f3d8443e2fb4&p=3&disp=30

55 椀状凹みを探して日光街道を行く①日本橋ー杉戸宿http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=2407158064cb1d896350455749ba9642&p=2&disp=30

以下、56,58,60と日光街道編3本あり。

その気になって探すと、盃状石はどこでも見つかるようだ。

多分、関西にもあるだろうとは思っていた。

しかし、奈良時代の講堂基礎石にも盃状石があるなんて、実に意想外。

正直、驚いた。

世界遺産であり、国宝、重文を多数擁する古寺元興寺のHPで、盃状石についての記事があることも衝撃的だった。

頭が柔らかい管理者がいるからでしょう。

古い無縁仏を大事に保存する姿勢にも相通ずるものがあるように思えます。

 

これが石仏の範疇に入るか否かは議論のある所でしょうが、記憶に残る一枚。

長岡市栃尾地区の音子(おんご)神社の珍棒地蔵。

いや、地蔵さまも大変ですなあ。

探していたものがこんな巨大だとは知らず、真ん前の道路で通りがかりの御婦人に「ちょんぼ地蔵はどこですか」と訊いた。

無言で、肩越しに傘でその方向を指して、振り向きもせず立ち去っ彼女の素っ気なさだけが記憶に残るのだが、考えてみれば、この前まで案内されてもちょっと困ったに違いない。

 

ブログ「石仏散歩」100回目ということで、「石仏のある風景」を思い出すまま、だらだらと書いてきた。

こんな調子だと途切れることなく続きそうなので、これでお終いに。

最近、テーマ設定に苦しんでいる。

「どこそこの石仏めぐり」が出だしたのは、その表れ。

できるだけテーマ主義を貫きたいのだが、どこまでやれるだろうか。

マイナーな「石仏」をとりあげるブログなのに、毎日120-150人が訪問してくれている。

寺社名で検索し、このブログにたどり着いて、ついでに他の記事も一つ二つ覗いてみる、というような人が多いようだ。

常連は100人くらいだろうか。

101回からも引き続き、よろしくお付き合いください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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