一石百庚申などの多文字庚申塔9基を含む千庚申(実際は、262基)を有する前橋市の御霊神社が、市の区画整理事業ですっかり様変わり、鬱蒼とした森と立ち並ぶ庚申塔群が姿を消したことは、前回、報告した。
262基の庚申塔は、廃棄されずに保存されているから、完全復元は無理としても、何らかの形で、新しい境内にもどされる可能性が高い。
一石百庚申塔が9基も一か所にあるのは、極めて稀有なケース。
折角前橋まで行ったので、乱雑に置かれた石塔群から、多文字塔だけを選んで、紹介します。
写真だけは私が撮ったものだが、紹介文と拓本は『野仏ー第33集ー』の「群馬県前橋市元総社町の千庚申」(縣敏夫)からの引用と借用です。(引用部分は青色文字に)
前回も掲載したが、御霊神社千庚申の配置図は下図の通り。
まず、配置図の下部を見てほしい。
参道入口で、左側の一番手前に「五霊社/千庚申/入口」の道標が立っていた。
道標から2mおいた所には「奉造立千庚申供養」の總供養塔があった。
いずれも見当たらないだろうと思っていたが、運良く発見することができた。
肝心の一石百庚申塔6基は、配置図上部の要石「庚申」の下に右、左と三段に配置されている。
2番は、隷書の「青面金剛尊」を主銘として、それを取り囲むように「庚申」百文字が配置されている。
裏面に「萬延元年庚申三月庚申日/遺幻大順拝書」とある。
「大順」は、要石の書を書いた法橋智則の号。
配置図3番、4番は見当たらないので、拓本だけを載せておく。
3番。
篆書の「青面金剛王」を主銘に、その周辺を篆書、隷書、行書、楷書の「庚申」が取り囲んでいる。
上部左右に瑞雲に乗る日月を配す。
4番。
「6基の百文字塔の中では、特徴のない平凡な塔」と筆者の縣さんは断じている。
5番は、1番に乗りかかるように仰向けになっている。
主銘の「青面王」は隷書で、「王」の横棒が4本なのは、変化を持たせるためとは、縣さんの言。
背面の供養者筆頭に「長尾雅楽丸」とあるのは、当千庚申の主催者神徳院智常の長男です。
6番は、主銘の「猿田彦大神」を、百種類の書体で悉く違った「庚申」が取り囲んでいる。
主銘を揮毫したのは、吉田神道の棟梁卜部氏による「神祇管領上長」を称した、最高の正二位で卜部朝臣江延。(意味不明のまま書き写すのもしんどい)
一方、碑面の百文字を異なる書体で書いた米山高柳有孚は、藤岡市下栗須の代々名主の家に生まれ、名を為七と称した。
彼は、安政5年(1858)に47歳で没しているので、この百文字はあらかじめ書き残しておいたものを、なくなってから2年後に造立したことになる。
下部には、枠の中に一石齋暉貞の筆になる、御幣を担ぐ猿と二鶏が浮き彫りにされている。
7番は、枠の中に「青面王」と横書きにし、その下にさらに枠を設けて「庚申」百文字を配する。
これで、百庚申塔(正確には、主銘を入れて百一庚申塔)は終わり。
この他に五十庚申塔が3基ある。
いずれも朱線で囲われた百庚申塔群の下、左右両側10基の中にある。
青面金剛の種子(ウーン)を主銘とする五十庚申塔。
背面に「庚申年二月満徳日」とあるが、庚申日を萬徳日とする例は珍しい。
以下2基も五十庚申塔だが、縣さんは「特徴のない塔」と冷たい。
254基もあるから変わり種もいくつかあるが、裏返しになって見つけられない。
書体の変わり種が2基並んでいるので。これだけを載せておく。
左は、篆書で「庚申」、右は、草書で「青面金剛尊王」と刻されているのだそうだ。
鬱蒼とした神社の森の暗がりに250基もの庚申塔が整然と並び、百庚申塔群がその中央を占める壮観な光景を期待して前橋まで行ったのに、様変わりした境内と粗大ごみのように置かれた千庚申を見て、ショックを受けた。
なぜか、むしゃくしゃして気分が晴れないまま、ブログに書いてきたが、誰もこんな庚申塔のことなんか見向きもしないだろうな、何をやっているんだ、俺は、と情けない思いがよぎる。
3,4年後、元気だったら、どのように復元されたのか、見にゆくつもり。
ブログを続けていれば、その模様を報告します。
参考資料に頼りすぎなのは、いつものことだが、今回は、縣さんの『前橋市元総社町の千庚申』におんぶにだっこ、まるで盗作のようになった。
改めてお詫びをし、お礼申しあげます。