石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

121御霊神社(前橋市元総社町)千庚申の無惨-2-

2016-04-28 05:48:18 | 庚申塔

一石百庚申などの多文字庚申塔9基を含む千庚申(実際は、262基)を有する前橋市の御霊神社が、市の区画整理事業ですっかり様変わり、鬱蒼とした森と立ち並ぶ庚申塔群が姿を消したことは、前回、報告した。

262基の庚申塔は、廃棄されずに保存されているから、完全復元は無理としても、何らかの形で、新しい境内にもどされる可能性が高い。

一石百庚申塔が9基も一か所にあるのは、極めて稀有なケース。

折角前橋まで行ったので、乱雑に置かれた石塔群から、多文字塔だけを選んで、紹介します。

写真だけは私が撮ったものだが、紹介文と拓本は『野仏ー第33集ー』の「群馬県前橋市元総社町の千庚申」(縣敏夫)からの引用と借用です。(引用部分は青色文字に)

 

前回も掲載したが、御霊神社千庚申の配置図は下図の通り。

まず、配置図の下部を見てほしい。

参道入口で、左側の一番手前に「五霊社/千庚申/入口」の道標が立っていた。

道標から2mおいた所には「奉造立千庚申供養」の總供養塔があった。

いずれも見当たらないだろうと思っていたが、運良く発見することができた。

肝心の一石百庚申塔6基は、配置図上部の要石「庚申」の下に右、左と三段に配置されている。

2番は、隷書の「青面金剛尊」を主銘として、それを取り囲むように「庚申」百文字が配置されている。

裏面に「萬延元年庚申三月庚申日/遺幻大順拝書」とある。

「大順」は、要石の書を書いた法橋智則の号

配置図3番、4番は見当たらないので、拓本だけを載せておく。

3番。

篆書の「青面金剛王」を主銘に、その周辺を篆書、隷書、行書、楷書の「庚申」が取り囲んでいる。

上部左右に瑞雲に乗る日月を配す。

4番。

「6基の百文字塔の中では、特徴のない平凡な塔」と筆者の縣さんは断じている。

 5番は、1番に乗りかかるように仰向けになっている。

主銘の「青面王」は隷書で、「王」の横棒が4本なのは、変化を持たせるためとは、縣さんの言。

背面の供養者筆頭に「長尾雅楽丸」とあるのは、当千庚申の主催者神徳院智常の長男です。

 

6番は、主銘の「猿田彦大神」を、百種類の書体で悉く違った「庚申」が取り囲んでいる。

主銘を揮毫したのは、吉田神道の棟梁卜部氏による「神祇管領上長」を称した、最高の正二位で卜部朝臣江延。(意味不明のまま書き写すのもしんどい)

一方、碑面の百文字を異なる書体で書いた米山高柳有孚は、藤岡市下栗須の代々名主の家に生まれ、名を為七と称した

彼は、安政5年(1858)に47歳で没しているので、この百文字はあらかじめ書き残しておいたものを、なくなってから2年後に造立したことになる

下部には、枠の中に一石齋暉貞の筆になる、御幣を担ぐ猿と二鶏が浮き彫りにされている

7番は、枠の中に「青面王」と横書きにし、その下にさらに枠を設けて「庚申」百文字を配する。

これで、百庚申塔(正確には、主銘を入れて百一庚申塔)は終わり。

この他に五十庚申塔が3基ある。

いずれも朱線で囲われた百庚申塔群の下、左右両側10基の中にある。

青面金剛の種子(ウーン)を主銘とする五十庚申塔。

背面に「庚申年二月満徳日」とあるが、庚申日を萬徳日とする例は珍しい

以下2基も五十庚申塔だが、縣さんは「特徴のない塔」と冷たい。

254基もあるから変わり種もいくつかあるが、裏返しになって見つけられない。

書体の変わり種が2基並んでいるので。これだけを載せておく。

左は、篆書で「庚申」、右は、草書で「青面金剛尊王」と刻されているのだそうだ。

 

鬱蒼とした神社の森の暗がりに250基もの庚申塔が整然と並び、百庚申塔群がその中央を占める壮観な光景を期待して前橋まで行ったのに、様変わりした境内と粗大ごみのように置かれた千庚申を見て、ショックを受けた。

なぜか、むしゃくしゃして気分が晴れないまま、ブログに書いてきたが、誰もこんな庚申塔のことなんか見向きもしないだろうな、何をやっているんだ、俺は、と情けない思いがよぎる。

3,4年後、元気だったら、どのように復元されたのか、見にゆくつもり。

ブログを続けていれば、その模様を報告します。

参考資料に頼りすぎなのは、いつものことだが、今回は、縣さんの『前橋市元総社町の千庚申』におんぶにだっこ、まるで盗作のようになった。

改めてお詫びをし、お礼申しあげます。

 


121御霊神社(前橋市元総社町)千庚申の無惨-1-

2016-04-23 05:51:32 | 庚申塔

『野仏』という冊子がある。

「多摩石仏の会」が年1回刊行する機関誌です。

なかなかハイレベルな内容で、私などは、半分も理解できない記事もある。

その『野仏』第33集に「群馬県前橋市元総社町の千庚申」が載っている。

元総社町にある御霊(ごれい)神社の千庚申、実際には254基の文字庚申塔全部の碑文を紹介する記事。

肝心な碑文は、拓本を添付する念の入れようで、その労力、いかばかりかと感服するばかり。

労力ばかりではなく、筆者の知力もすごい。

碑文を揮毫した書家から書体まで、その考察は及んでいる。

254基の大半は、「庚申」、「庚申塔」、「猿田彦」、「青面金剛」などの単文字塔だが、9基だけは多文字塔、いわゆる一石百庚申塔なのです。(正確には、百一文字塔が6基、五十一文字塔が3基の、計9基)

一石百庚申塔を見るのは初めてではないが、9基も一か所にあるのは、見たことがない。

254基もの庚申塔が群立する光景と合わせて、一石百庚申塔群を見てみたい、と『野仏』を持って、2月上旬、前橋に向かった。

電車の中で御霊神社を検索、写真で拝殿の雰囲気をつかむ。

『野仏』の記事にも「塔の造立場所は光線に乏しく」とあるから、かなり鬱蒼とした森の中にあることが予想される。

駅前でレンタカーを借りる。

赤城おろしが冷たい。

「著名な総社神社裏手の交差点より、北方に二つの森が見え、左が御霊神社」とあるが、現地に近づいても森は見えない。

やがて、「目的地に到着しました」とナビ。

車を降りる。

農地ではない空地が広がっている。

トラクターやトラックの轍が縦横に走り、伐ったばかりの大木の切り株があちこちに見える。

通りがかりの人に訊いたら、確かにここが御霊神社で、市の区画整理事業で、境内の森は全部伐採されたとのこと。

そういえば、小さな祠が小高い場所にある。

「御霊神社」の扁額が見える。

鬱蒼とした森の中の神社をイメージしていたので、これが探していた「御霊神社」だとは、気付かなかったのも無理はない。

傍らに「御霊神社と長尾氏由緒」の看板がある。

長文の末尾に、千庚申の由来が書いてある。

境内の千庚申は殿小路町阿弥陀寺町の世話人によって万延元年庚申年に祭礼ができる様万延元年以前三年から石屋に依頼して元総社村中、大友村、石倉村全戸から一体ずつの庚申塔の寄付を仰ぎ・・・」。

千庚申の由来は分かった、が、肝心の庚申塔群はどうしたのだろうか。

それらしきものは、1基もない。

歩き回って探してみる。

境内右横の住宅の向こう側の空き地に、あった。

あったが、それは無残な状態だった。

遠くからの見た目では、石ばかりの廃棄物置き場に見える。

保存されている感じがしない。

区画整理が終わって、千庚申を復元するのなら、一基ずつ番号を打ってあるはずだが、そうした形跡はない。

復元と言っても以前の配置に戻すのではないのだろうか。

御霊神社の創設家は長尾家、と持参資料にはある。

神社の隣の家の表札は「長尾」なので、声をかけてみた。

応対してくれた女性は、「市役所で訊いて」という。

 

帰宅して、前橋市役所に電話で聞いてみた。

「御霊神社の千庚申」と言ったら、交換手は、文化財保護係につないだ。

だが、担当者は御霊神社の千庚申については全く知らないと云う。

「市の指定文化財ならばともかく、それ以外の文化財となると手が回らなくて・・・」。

一石百庚申塔が9基もある祀所は、日本中で御霊神社しかない。

日本で唯一という条件でも指定されないと云うのは、何故なのか。

個人所有の文化財については、役所は関知しないという建前は分かるが、市内の文化財の成り行きに無関心というのは、文化財「保護」の観点からすると理解に苦しむ。

千庚申は復元されるのか、されないのか、されるとしたらその時期は?

今度は、区画整理の係へ電話をする。

    前橋市役所

「市内で一番低い土地なので、嵩上げしなければならない。それがいつになるのか、数年先のことで、いつは云えない。千庚申については、担当してないので、分からない」との返答。

千庚申が廃棄物として処理されることはなさそうだが、以前と同じように復元されることもなさそうだ。

これで今回のブログの趣旨は、書き終えた。

これで終わりにしてもいいのだが、目的の一石百庚申について、見える範囲で確認したことを、若干、付け足しておく。

刻文とその意味合いは、「元総社町の千庚申」の受け売りであることは、言うまでもない。

まずは、配置図から。

千庚申の祀地は、長尾家の屋敷西隣地に位置する御霊神社の参道と約180坪の樹木に覆われた広い場所を占めている。しかも百数十年前の造立当時の遺構を変えずに保存されている貴重な存在である」。(『野仏第33集』の「元総社町の千庚申」より。以下、青文字は、同じ)

配置図が小さくて分かりにくいが、右下が入口、参道突当りが御霊神社、一石百庚申塔群は、その左の朱線で囲った場所にある。

全体を囲うように単文字庚申塔が立ち並び、その奥まった一角を多文字塔が占めるという構図。

6基の一石百庚申塔は、朱線の中にあると書いたが、よく見ると7基ある。

これは、全体の要石の①が、「庚申」の単文字塔であるからです。

保存場所では、注連縄が掛けられて、その優位性を誇示しているが、前の石塔に邪魔されて全体像を見ることはできない。

 「庚申」の文字の左脇に「遺幻法橋智則書」の銘がある。

法橋智則は、前橋市・長見寺十一代侍従。文化元年生まれだから、万延元年は56歳。京都で修行をつみ、顕密をきわめ、法橋守権少都となり、聖護院法親王の薬草を務めた構想だった。

この千庚申のうち無銘の塔のほとんどは、智則の筆によるものと思われる。

今は切り離されてしまって特定できないが、台石は、この地より西北約1㎞の上野国分寺跡の基礎石を運んできたものと云う。

以下、多文字塔を、見つけられた範囲で紹介してゆくが、それは次回から。

≪続く≫

 

 

 

 

 

 


120 宝仙寺の石造物(7)墓地参道その3

2016-04-19 05:49:42 | 寺院

◇二十日大師石塔

塔身正面

     高野山清浄心院
 ア(梵字)       (二十日大師)
     二十日大師真像寫

二十日大師を『日本石仏事典』、『日本石仏図典』で探すも見当たらず。

『宝仙寺の金石文』の説明をそのまま書き写しておく。

高野山清浄心院は奥の院一の橋手前にある高野山山内寺院の一つで、二十日大師はこの寺に安置されている弘法大師像。像高80㎝、幅90㎝の座像で椅子を伴っていない。弘法大師は 承和2年(835)、3月21日の入定前日に御手づから自身の形を刻み、その背の上に『微雲管』と記された。

そして、弟子たちに『我は明21日に入定し未来56億余年の後、弥勒菩薩成道の時に出定すべし。其の中間には此の微雲管より千萬無量の化身を出現し、普く世界を照見して一切衆生を教訓する』と云い残されたという。後の人々は、この像を二十日に刻まれたので二十日大師と呼び、尊拝したという」。 (『宝仙寺の金石文』より)

◇石仏群 

 

墓地参道も下の方までくると参道に面した前列は、四国八十八ケ所石塔がずらりと並んでいるが、その後ろは、半分土に埋もれた石仏墓標が群立している。

如意輪観音が大半だが、大日如来や聖観音もおわす。

    左は大日如来

一番後列には、石塔の上部を欠いて、弘法大師だけとなった四国八十八ケ所石塔が並んでいる。

自然に壊れたというよりも故意に上部を切り取ったように見えるが、その理由は分からない。

明治の廃仏稀釈で石仏を断裁した地域はいくつかあるが、では、宝仙寺に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたかどうか、は不明。

多分、そんなことはなかったと思われるが、となると、では、なぜ、石塔を切ったのだろうか。

土に深く埋められて顔だけの石仏は写真の被写体になりやすい。

どこか不憫さがあるからだろう。

見た目は不憫だが、埋まっているから地震には強い。

全身を晒していた石仏は、ひっくり返って背中を見せているのが多い。

◇二十六夜塔

墓域を囲むように四国八十八ケ所石塔が立ち並んでいる。

中央奥に無縁塔。

お彼岸だからか、花が供えられている。

無縁塔の背後に、なぜか、二十六夜塔が立っている。

元々、寺にあるものではない。

どこかから来たものらしいが、どこかは分からない。

二十六夜待ちは、旧暦26日の夜に行われる月待行事。

本尊の愛染明王の「愛染」が藍染めに通じるからと染物業者の信仰が篤い。

この塔の造立年、慶安元年(1648)は、全国の二十六夜塔のなかで最古。(『日本石仏図典』より)

日本最古の石塔なら中野区の指定文化財であってもいいのに。

 ◇衛門三郎縁起石碑

衛門三郎は、四国遍路の開祖とも元祖とも言われる男。

なにしろ初めて四国を遍路した男なのです。

その衛門三郎の縁起を刻した石碑がこれ

四国八十八ケ所石塔が立ち並ぶ宝仙寺にふさわしい石碑です。

衛門三郎については、Wikipediaを引用すればいいのだが、折角、碑文があるので、長文になるが書き写しておく。

傳ひいう伊豫國波穴郡/
荏原の庄の住人衛門三郎ハ餘財を
積て富盛也と/いへとも性質慳貧
邪欲にして他に施与する事を欲せ
ず大師/彼の貪欲を祈伏せんか為
に修行者の容を現し彼か宿下に/
幾度となく施を乞ん事を求む然れ
とも貪欲邪心にして施す/事なし
剰訇り叱りて大師所持の鉄鉢を打
砕きけるに鉢は/
忽ち八つに分か

れて八葉の佛と化して光を放て虚
空ニ飛去りぬ/大師も消て他処と
もなく去り給へハ如何なる強悪の
輩も少しハ恐怖の思をなし/けるに追々禍ひ来て八人の子息日々
に失ひ家族愁悩む事多かりける折柄二郎前の/修行者の
大師なる事を識知して志を改発心して多の家財を拂ひ
仏閣に喜捨して一所不在の身となりて大師ニ値
遇せんと八十八ケ所/遍路する事廿一度然れ共重罪の/尽くさる
や/
大師に/逢ふこと/を得す/期に至り逆/遍路して/此所ニ/来
る今此焼山寺登り三里下り五里の難所にして三毒五欲を/焼尽の
霊場と云仍而焼山寺と号して爰に於て/三郎か罪業藎るにや下向の道
にて俄ニ悶絶す大師彼か千辛万苦の修行を哀愁して/顕現して
告てのたまハく汝往年吾鉢を砕きし見知る
や否やと問せ給へハ三郎蘇生して/双眼に
涙を流し懺悔礼拝す今汝か業報既に尽て命
終せんとす末世に望みあらハ叶ひ/得させ
ん我に告よと衛門三郎感涙して曰願くは後
生一国の主たらんことを乞ふ大師/憐ミを
たれ小石を広ひ加持し授けれハ眠か如く命
終す其後年を経て国司河野左衛門介息誕生す/
三歳の時南方に向て南無遍照金剛と唱て/于今其石納て
五十一番霊場伊豫國/[   ]即神変加持の致す所也侘せす
んハあるべからず/由緒あら増を/于滋写[   ]
石碑の下部は、大師にひざまずく衛門三郎を線刻したもの。

同じ構図の銅像が、阿波・焼山寺近くの丈杉庵(じょうしんあん)にある。

 

 

 


120 宝仙寺の石造物(6)墓地参道その2

2016-04-16 05:06:54 | 寺院

◇四国八十八ケ所五十四番石塔

五十四番札所は伊豫の国延命寺。

上部の五輪塔風空輪と蓮華座がユニークだが、『宝仙寺の金石文』は五十一番石塔と上部が入れ替わっていると指摘している。

施主長谷川仙之助の住所は、筋違外旅籠町。

昌平橋の北、現在の信号・神田明神下あたりか。

◇弘法大師御詠歌石碑

正面上部は、昌川正清画の大師修行図の陽刻。

下部に御詠歌。

「ワか執行/四国ハかり/と/おもふなよ/ひひ/日本を/めぐり/こそ/すれ」

◇地蔵菩薩坐像

四国八十八ケ所石塔に混じってぽつんと地蔵菩薩が座している。

台座4面に男女12人の戒名が刻されているから、墓標だろう。

◇修行大師像

「弘法大師」の文字碑の隣に丸彫りの遍路姿。

歩き疲れて一休みの感が強いが、修行中の大師像だそうだ。

◇四面石幢

大師修行像の背後に四面幢。

四面の仏像と造立趣旨が異なっている。

正面は、薬師如来で供養塔。

右面は阿弥陀如来で墓標。

左面は、薬師如来で逆修塔。

裏面も逆修で聖観音。

天和元年造立。

◇庚申塔

宝仙寺に3基ある庚申塔の1基。

上部に五輪塔の空風火輪部分をのせる異形庚申塔。

中野村中宿講中が設立者だから、寺から近い宿場にあったものと思われる。

上部の五輪塔部分は三城目石、塔身は小松石、五輪塔部分をどこかから持ってきて、のせたものらしい。

墓地参道に面してもう1基庚申塔がある。

正面、三猿の上は、びっしりと漢文が刻されている。

庚申の趣旨が内容だとのこと。

一面漢文の庚申塔はあまり見かけない気がする。

元々は、塔の山公園にあったものという。


120 宝仙寺の石造物(5)墓地参道その1

2016-04-13 05:44:55 | 寺院

今回から墓地南側参道沿いの石造物を取り上げる。

参道は長く石造物も多いので、数回に分けて掲載の予定。

六地蔵のおわす墓地入口ではなく、御影堂横の細い道を入り、右に折れ、下ってゆくと右手に石造物群が見えてくる。

   御影堂角を右折した所

   下った先に石造物群

◇四国八十八ケ所霊場代参供養塔

[塔身正面]

四国八十八ケ所霊場
二千百名代参供養塔
   寶仙寺大師堂堂守
        安田寛明

安田寛明氏は、宝仙寺大師堂の堂守を務めながら、生涯にわたり四国遍路の教化に尽力した人。

四国五十番札所愛媛県の繁多寺には、「御四国八十八ケ所霊場拝壱萬人誓願成就記念碑」がある。

本塔は安田氏の活動の一端を示すもので、2400人の代参(遍路したくてもできない人のために代わりに遍路し参拝すること)を行った記念塔。

二つおいてもう1基安田氏の代参供養塔がある。

こちらは大正9年9月21日造立。

代参者数は2750人。

2750冊の納経帳はどのようにして持ち歩いたのだろうか。

出立は、大正9年4月27日、帰京したのは6月27日だからまる2か月かけて回ったことになる。

大正9年だから、現地までは汽車で行ったと思われるが、それにしては2か月と長い。

もしかしたら東京から歩いていったものか。

納経帳の記帳を一冊15秒としても、2750冊だと11時間超もかかる。

2-3人で対応しても数時間の大仕事。

この始末に時間がかかったのだろうか。

◇四国八十八ケ所三十四番石塔
◇四国八十八ケ所四十五番石塔
◇四国八十八ケ所四十六番石塔

上の写真は、右から34,45,46番石塔。

角柱の上部に番と寺号、御詠歌を彫り、下部に弘法大師を浮き彫りにするこのスタイルが一番多い。

何か特記すべきことがなければ、以下、省略します。

塔の山からここへ移す時に、きちんとした配置図にしたがって設置しなかった。

たまたま45番と46番が隣り合わせているが、これは偶然。

てんでばらばらに置かれているので、番号順に参拝したいと思ったら大変なことになる。

左の四十六番石塔正面は、梵字のア・バン・ウーン。

左右側面に、番号、本尊、寺号、御詠歌、造立年が刻まれている。

◇四国八十八ケ所三番石塔

角柱石塔は面白みに欠けるから省略するとなると、必然的に取り上げるのは、自然石塔ということになる。

この三番石塔は上部を欠いて全体像は不明だが、奉納、制作者が夫婦であることが面白い。

下部の修行大師の線刻画は、石川まさ清画。

書は、その妻石川その子。

自然石塔は浮彫よりも線彫が多いのだが、惜しむらくは見えにくい事。

『宝仙寺の金石文』では、拓本を載せているので、流用しておきます。

この墓地参道に立つ四国八十八ケ所二十番石塔の大師線刻画も「正清謹画」となっている。

うっかりしていたが、三重塔裏の顕彰碑の1基は、石川正清の顕彰碑だった。

正面の書は、弟子に請われて書いた本人の筆によるもの。

「玉磨かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」。

裏面碑文によれば、正清は八幡太郎義家の血統をつぎ、代々紀伊家に仕えてきた人物。耳順なれども壮健で、弓道、槍術は免許皆伝、画は狩野派に属して養貞齋昌川の名を有し、書では龍淵堂〇谷と号して門人1000人余を有していた。

碑文の最後の2行は

人を教えて倦さるの忝きをおもひ二行の書と畧画を乞て年来先生の藝にあそひ給ふ難有を朽セぬ石に彫して其厚徳を仰くにこそ」

ネットで検索してもヒットしないが、幕末、かなり名の知られた文武両道の人だったようだ。

 

 


120宝仙寺の石造物(4)

2016-04-10 05:49:13 | 寺町

今回は三重塔裏、墓地入口の石造物群から。

◇六地蔵菩薩立像

春のお彼岸で供花も新しく、六地蔵が浮き立って見える。

6体の内3体は制作年が不明だが、他の3体が寛政年間とあるので、同時期だろうと推測されている。

6体いずれも頭部が原初のものと違う可能性があるという。

右から4番目の弁尼地蔵だけは、裏面の刻文が読める。

     願主覚道寒念佛同行中
   寛保四甲子年
   奉修造六地蔵之内三躰
   二月廿四日
        井施入助成男女各敬白

六地蔵それぞれに線香立が置かれているが、原初からの線香立は一番右端のものと『宝仙寺の金石文』は断言している。

となると、他は、どこか別の場所にあったものを流用したものということになる。

◇引導地蔵尊座像

三重塔裏の石造物群の白眉は、なんといってもこの引導地蔵だろう。

台石こみで230㎝の高さ、ゆったりとおおらかに坐していらっしゃる。

引導地蔵については、その由来が光背背面に刻してあるので、少し長いが書き写しておく。

高野山引導地蔵尊ハ弘法大師▢に代て/末世の衆生を引導し玉へとて承和二年三月/十九日此刻まれり 高祖入定の御時おくの院へ/移らせ玉ふを此▢▢為
▢▢ミ▢くしをめくらし/見送らせ玉へ▢乃御願なり左に古り引導/地蔵尊と称し奉り山中の▢俗しに葬送の/▢▢を此尊の御前に留め御▢▢▢あつからん/定式とする▢▢て此尊像を拝し奉る▢▢▢喜/▢な▢御願▢▢▢▢写して▢▢刻ミ有縁の輩に/布施し今▢▢石に彫り▢此に安置し奉り/一見▢▢の男女▢▢▢

要約すると、弘法大師が自分の代わりに末世の衆生を引導するようにと、入定の二日前の承和2年(835)三月十九日に刻まれた地蔵尊という意味。

ちなみに「引導」とは、「迷っている衆生を導いて仏道に入らせること」。

「引導を渡す」のは、「死者の霊が迷わず浄土へ行けるように導師の僧がお経を唱えること」。

それにしても弘法大師はえらい。

お地蔵さんを自分の身代わりにしてしまうのだから。

この引導地蔵尊は、第三十六世祐厳が、自らの逆修と弟子祐雅、卍端の追善を兼ねて建立したもの。

光背から台石上下にびっしりと刻字されているのは、三人の経歴。

◇弘法大師一千年御遠忌供養塔
◇弘法大師一千五十年御遠忌供養塔

弘法大師御遠忌供養塔が並んで立っている。

御遠忌とは、真言宗寺院で50年ごとに行われる弘法大師の法要。

一千年御遠忌は、天保4年(1833)に行われた。

一千五十年という中途半端な年数は、50年ごとの儀式だから。

1883年は、明治16年ということになる。

一千年塔の裏側には、「ア・ビ。ラ。ウン。ケン」と大日如来の真言が刻まれているが、撮影を失念したので写真はない。

 


120 宝仙寺の石造物(3)

2016-04-07 05:49:18 | 寺院

本堂西側石造物群の続き。

◇八十八大師虚空蔵菩薩塔

四国巡礼を望みながらも経済、健康上の問題でできない人の為、小規模な写し霊場が各地に造立された。

八十八体の大師像を石刻し、これを八十八霊場になぞらえる写しは珍しくないが、一塔に八十八大師を刻むのは、極めて珍しい。

珍品中の珍品と言えよう。

方形の台石を小さい順に積み上げ、一面に下から、8体、6体、5体、3体と22体の弘法大師を刻み、計88体とするもの。

上に坐すのは、虚空蔵菩薩だが、下段の刻文とそぐわず、最初からここにおわしたのかどうか、再検討を要すると『宝仙寺の金石文』は指摘している。

下段の刻文は「南無薬師/諸病なかれと/願ひつつ」

「参れる/人は/おほくぼの寺」。

これは四国霊場八十八番大窪寺の御詠歌だが、大窪寺の本尊は薬師如来なので、虚空蔵菩薩が座しているのはおかしいということらしい。

なお、中野区教委の『中野区の石仏』では、虚空蔵菩薩ではなく、不動明王として掲載されている。

宝仙寺は真言宗寺院なのに、大日如来や不動明王像は皆無で、全山弘法大師だらけ、まるで大師信仰の寺といわんばかりだが、その中でもこの八十八大師塔の大師偏重ぶりは突出していると言えそうです。

◇宝篋印塔

宝仙寺には宝篋印塔は4基ある。

うち最大のものは、裏林にあることになっているが、拝見したいとの申し入れを拒否されたので、写真はない。

本堂西の宝篋印塔は墓標。

台石裏に「寛政八丙辰歳 法印暁鎫 八月廿二日」とあるので、宝仙寺過去帳で調べたら、同名の住侶が同日に入滅していることが確認されたという。

上部の五輪塔空風輪と笠部は、別の所のものを積み上げたもの。

◇四国八十八ケ所五十八番石塔

宝仙寺石造物の特徴は、四国霊場塔の多さ。

だが全部そろってはいない。

八十八ケ所中、残念ながら十七ケ所が欠けている。

その昔は、今は区立十中の校庭になっている塔の山とその参道に群列していたという。

最も多いのは、角柱型で正面下部に大師像を彫るものだが、自然石を利用したものもある。

ここにある2基は、自然石の代表作。

正面上部は

        第▢▢番
       伊豫國仙遊寺寫
      本尊
(キリーク)千手観▢音
       たちより▢
        作禮[ ]
         やすミ

正面下部は

     発願主             つつ 六字を唱へ
   大  伊豫屋藤右衛▢           きゃ▢を
      以下13人の名前(省略)        よ▢▢し
     元治元甲子年
        七月建之
        南花拝書

左側面には

   京橋太刀賣
   石工藤兵衛

四国五十八番伊豫国仙遊寺(作礼山千光院・千手観音)の石塔。

御詠歌は「立ち寄りて作礼の堂に休みつつ六字を唱え経を読むべし」。

下部空洞は、祠。

丸彫り弘法大師が座していたものと思われます。

◇四国八十八ケ所七十一番石塔

これもはた趣ある自然石。

よくこんな石を見つけるものだと感心する。

祠内には、弘法大師と銘した石がある。

裏面に「石工 宮亀年」と刻されている。

宮亀年は、名工として名を馳せていた石工の一人。

(本堂左の石造物群はこれで終わり。)

 


120 宝仙寺の石造物(2)

2016-04-04 05:32:38 | 寺院

御影堂から本堂左手の空地へ。

大振りな石造物が10基ほど並んでいる。

宝仙寺の石造物でもえりすぐりの傑作集です。

◇聖徳太子孝養像

一番手前の聖徳太子孝養像は、昭和19年(1944)、東京土木建築組合によって建造された。

昭和19年といえば、太平洋戦争終盤、造立理由が裏面に刻されている。

大東亜戦争勃発シ、其進展ニ伴フ国家ノ要請ニ基キ企業整備ノ為昭和十九年三月本組合ヲ解散スルニ當リ記念トシテ太子ノ尊像ヲ建築シ・・・

もともと、大工、左官、鍛冶職などの太子講は、一月、八月の祭日に集まり、太子の掛け軸を拝した後、賃金の協定や申し合わせを行ってきた。

この講中が造立するのが太子像塔で、年齢別に何種類かの像容がある中で、太子16歳の時の、孝養像が建てられることが多い。(『日本石仏図典』より)

◇新四国霊場三千人講中供養塔

新四国霊場は、遠隔地のため遍路が出来ない人達の為に設けた四国八十八ケ所を模した霊場。

御府内八十八ケ所のように地域内霊場と一か所に88基の模刻石塔を立てる、二通りがある。

宝仙寺の新四国霊場は、いわずもがな後者、一か所で参拝して回り、遍路をしたと同等の功徳を得ようというもの。

この塔は、新四国霊場建設の記念碑で、賛同者1000人余りの名前が四段の台石にびっしりと刻まれていた。

刻まれていた、と過去形なのは、『宝仙寺の金石文(平成19年)』には写真もあるのに、4基の台石は今はどこにも見当たらないから。

この石塔の下に大きな台石が四段あることをイメージしてみてください。

造立年は文久2年(1862)だが、境内の四国八十八ケ所石塔の大半が文久元年と2年であることから、講中3000人が新四国霊場建設に関わったものと思われる。

 

◇高野山中野代参講記念碑

 

昭和5年(1930)、当山五十世富田住職が高野山への代参を行った記念碑。

代参とは、いまでは聞きなれない言葉だが、「参拝に行けない人に代わり、参拝を代行すること」。

この場合は、中野代参講の講員152名の代表として富田住職が代参したことを意味する。

四国遍路の代参は現在でも行われているようで、ちなみにネットでは、四国遍路と高野山奥の院を代参し、御朱印を戴いた納経帳を渡す一式が298000円となっています。

改めて碑面を見てみよう。

高さ187㎝の仙台石の正面に「南無大師遍照金剛」。

書は、代表代参をした富田住職の筆になるもの。

裏面8段に、152名の講員名が刻まれている。

他の寺院では見かけない代参記念碑が、宝仙寺には計3基もある。

≪続く≫


120 宝仙寺の石造物(1))

2016-04-01 05:11:49 | 寺院

幼稚園を経営する寺は多いが、小、中、高、そして大学まで有するのは、都内では宝仙寺くらいではないか。

        宝仙学園本部

中野区中央の宝仙寺へ行けば分かるが、とにかく寺域は広い。

戦前は、山手通りの向こう、区立第十中学校までが寺域だったという。

 

広さばかりでなく寺暦も、東京の寺にしては古い。

開創は、寛治年間(1086-94)、源義家によるものと伝えられている。

真言宗豊山派で本尊は不動明王。

寛政7年(1795)の記録では、末寺32ケ寺を有する、とある。

大寺なのです。

石仏に関心を持つようになって、宝仙寺には2,3度足を運んだ。

墓地の一隅に膨大な石造物群があるのは見ていたが、その大半は四国八十八ケ所石塔なので写真を何枚か撮って、終わりにしていた。

肝心の刻文が読めないから、興味の持ちようがない。

線彫が薄いせいもあるが、私の教養の低さにも原因がある。

だから宝仙寺の石造物の撮影に再訪することになろうとは、夢にも思わなかった。

きっかけは、中野区の図書館で、偶然目にした一冊の本にあった。

「宮野純光『宝仙寺の金石文』仏教と文化社、平成19年」がそれ。

宝仙寺の石造物413点、鋳造品42点を写真つきで刻文全文を掲載しています。

石造物413点は、都内の寺としては浅草寺、練馬の長命寺を凌ぐ数ではなかろうか。

四国八十八ケ所石塔が多いことが、宝仙寺の石造物の特徴であることは先述したが、真言宗寺院であるにもかかわらず、大日如来や不動明王といった定番石仏がないことも特徴として挙げられる。

大寺院の境内に付き物の、歌碑や句碑は皆無、顕彰碑が3基あるのみ。

413点も石造物があるのに、庚申塔はわずか3基というのも、珍しい。

と、いうようなことを念頭に寺へ。

春の彼岸で墓参者が多く、墓地は供花で色彩にあふれていた。

もうお判りでしょうが、これから紹介する石造物の内容は、感想を除いて、全部、『宝仙寺の金石文』の受け売りです。

◇臼塚

山門を入って、左前方、三重塔手前にある。

石臼塚は、他所の寺にはない、宝仙寺オリジナルの石造物として知られている。

現在の住職の祖父、第五十世富田こう純師によって築かれた。

中野区商店街連合会が建てた「石臼由来」がある。

中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ、製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山第五十世富田住職が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した」。

石臼塚には、挽臼74個、搗臼96個が使われていて、中には住職の故郷信州から持ち込まれたものもあるという。

◇国章石灯籠

本堂前右に石灯籠が1基ぽつんとある。

年代は不明だが、明治以降のものか。

笠部に菊と桐の半分ずつを合わせた紋が彫られている。

菊桐御紋は、国章。

なぜ、宝仙寺にあるのだろうか。

◇日輪弘法大師標柱

御影堂の前に「日輪弘法大師」の標柱。

「日輪」の「輪」の車偏を頭に寝かせて冠とし、「輪」と読ませるのが、面白い。

右側面「御府内八十八箇所十二番阿波國焼山寺之寫」

左側面「文化▢一年甲戌四月明王山寶仙寺常真言堂三世祐峯和南」

当寺が、御府内十二番札所であることが分かる。