石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-18-消防組松島彦八翁寿蔵碑(向ヶ丘2-1-10西教寺)

2019-04-28 10:26:14 | 石碑

道の向こう側は、東大農学部という場所に西教寺はある。

 

   この写真は、東大農学部の塀を背に撮ったもの

本堂前に2基の石碑が立っている。

左は「坊主亀」、

右は「消防組松島彦八翁寿蔵碑」。

どうやら「加賀鳶」(江戸時代、加賀藩前田家が江戸藩邸で召し抱えておいた鳶職人で編成した火消し。装束が美麗で、大藩召し抱えの特権意識を持ち、一般の町火消しとの間で争いが多かった。-コトバンク-)の人物にまつわる石碑のようで、私にはまったく手に負えないので、参考資料『文京の碑1997・文京ふるさと歴史館友の会』の解説文をそのまま借用しておきます。

「消防組坊主頭」の碑は、1873年(明治5年)5月松島彦八が実父時川亀吉のために建立したもである。

 時川亀吉は通称を坊主頭といい、長年加賀鳶をやった人でその勇みぶりは、放牛舎桃林の『東京侠客伝』にも登場する。

「消防組松島彦八翁寿蔵碑」(寿蔵とは、生前に自分で作っておく墓の意)は、「坊主亀」のすぐ右隣に建てられているもので、右横に「明治40年11月建之」とあり、下の台石には「第四区一番組、五番組」と彫られている。

 松島彦八は、幼くして加賀鳶家お抱えの鳶、松島家の養子となった。1858年(安政5)年鳶人足、1863(文久3)年纏持ち、消防第四大区第一組小頭より組頭を務め、江戸っ子気質の権化、加賀鳶最後の人といわれながら、1927(大正元)年10月28日死去した。

 有名な加賀鳶と町鳶の喧嘩については、町火消頭取から奉行所に出された申し立て訴状に、次のように記されている。

「当正月十に日、上野御山内出火之節、尾張様へ加州様お抱え鳶之者有之、右取扱いに私共立入内済相整、先月二十三日私和談仲直の手合をいたし候処、其節仲人共口上申演立腹、翌二十四日朝、た組頭取彦八、松太郎、れ組同平治郎、つ組同斧次郎、右同人共宅相こわし歩行候に付、な組人足共も騒立、加州様お抱え鳶五人之者宅打こわし候儀に付、本郷湯島辺十八町若い者共取扱に立入、双方相こわし、諸道具箱膳和談掛合罷在候内、加州様お抱え鳶二十二人お暇出候間云々」

 事件は、上野山内火災の折、加賀鳶と尾張火消の出入りで、尾州家人足六人を斬り捨てたことが発端となって、町鳶の喧嘩に発展していったが、加賀方の仲介役として彦八以下四名が入り、騒ぎが収まった。

 この時、時川亀吉が頭を丸めて(坊主になり)仲裁に入り、和解が無事成立した。こうして役所からご褒美を戴いたので、これを記念してこの碑を建てたという説もある

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑-17-田口卯吉・上田敏居住地碑(西片2-19-4)

2019-04-21 07:37:03 | 石碑

◇鼎軒 柳村居住跡碑(西片2-〇〇-〇)

番地は判っているが、なかなか目的地に行きつけない。

静かな住宅街で、人影はないし、各家に番地表示は必ずしもないから、特定することが難しい。

近所の人に訊いても、多分、「ああ、あの家の」と応えられる人はいないのではないか。

何しろ目的の碑は、個人宅の庭にあり、碑文が「鼎軒 柳村居住之地碑」、鼎軒と聞いてすぐ分かる人が、そんなに多くいるとは思えない。

そういう私も「鼎軒」を知らない。

このブログは、私の勉強の為にやっているので、知らない人物は教材として歓迎するが、碑に接する「熱意」が低くなるのは仕方ない。

今回は、碑が個人の庭にあり、シャッター越しに見ただけだから尚更である。

「鼎軒 柳村居住之地」の鼎軒と柳村とは、二人の人物、田口卯吉と上田敏の号なのだそうだ。

どうせどこかから二人の人物像を引用するのだから、前回に続き、参考資料『文京の碑』から丸写しにしておきます。

 田口卯吉は、少年時代に下谷生駒の木村龍二宅に寄寓し、その隣に住んでいた幕臣の洋学者乙骨太郎に可愛がられた。乙骨太郎の孫が上田敏である。

 今度は西片町の田口卯吉がその恩で、上田敏を寄寓させた。当時、西片町には学者が多く住んでいて、田口邸は西洋館形式の建物2棟で目立っていたという。

〇田口卯吉(1855-1905)(安政2-明治38) 本名は鉉(げん)、卯吉は通称、鼎軒と号した。

1855(安政2)年に目白台徒士屋敷(日本女子大寄宿舎の地)で旗本徒士の次男として生まれた。

 最初は医学を志したが、1872(明治5)年、10月に大蔵省翻訳局付属学校に進み、経済学を学んだ。一方、彼は東京証券取引所理事、両毛鉄道社長などをして、事業経営に携わり、また東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員(1894-1905)としても活躍した。

 政治家として〇鳴社の発起人となり、板垣退助率いる自由党に近かったが入党せず、進歩党に加わり、1898年には中立的立場をとった。

 他方。我が国における最初の経済雑誌である『東京経済雑誌』を創刊し主宰した。自由主義経済の論陣を張り、政治や史論にまで及んだ。歴史雑誌『史海』を発行、『日本開化少史』は有名である。

〇上田敏(1874-1916)(明治7-大正5)

 第一高等中学校入学と同時に、田口卯吉邸に寄寓。平田禿木を通じて『文学界』の同人となり、東京帝国大学英文科に入学後は『帝国文学』の創刊に参画、小泉八雲自任の後、夏目漱石とともに東京帝国大学の教師となる。

 明治38年、主として『明星』に発表したフランス象徴派直訳詩集である『海音潮』は有名である。また明治42年1月2日の石川啄木の日記によると西片町の上田邸に訪れていることが記されている。

 エピソードとしては、学生時代、観劇を好み軍人の絵を描くことが好きだったことがあげられる。


137文京区の石碑ー16-句碑2基(東京大学構内)

2019-04-14 07:59:48 | 石碑

東大構内の石碑として、句碑が2基リストアップされているのは、意外だった。

学問の世界での功労者の顕彰碑があるだろうと思ってはいたが、まさか句碑だとは。

句碑の俳人は、山口青邨と水田秋桜子。

俳句は門外漢だが、名前くらいは知っている。

◇山口青邨句碑

山口青邨の句碑は、山上会館裏手にあると資料にはある。

山上会館の受付で所在地を訊く。

応対してくれた60代半ばの男性職員は、「そんな句碑は見たことがない」とそっけない。

仕方ないから、会館をぐるっと一回りしようと、三四郎池方向の階段を下りたら、目の前に石碑が2基立っている。

なんとそれが目的の句碑だった。

何十年も山上会館に勤務していて、こんなすぐ近くにある句碑を知らないというのは、どうしたことか。

とても信じられない。

「銀杏散る まっただ中に 法科あり」

山口青邨は、この句を

「法科はもちろん建物であるが、伝統ある法科を象徴させている。『まっただ中に』によって、さかんな落ち葉のさまもわかるだろうと思う」と自ら解説している。

この「伝統ある法科」に歯向かったのが、山本健吉氏。

「東大法科の『光栄ある伝統』など私は思ってもみないことだ。軍閥とともに日本を破滅に追い込んだ官僚の大量養成所として、国民にはいい記憶ばかりでもないのである。」(山本健吉『底本現代俳句』P232)

そして、山本氏の句評は、「さて、銀杏は東大の名物である。『まっただ中に』とずばりと直線的に言い切ったことは、法科という近代建築物の印象によく映発し合っている。単純で印象明快である」。

山口青邨の句碑と並んで、一回り小ぶりな句碑が立っている。

平成9年(1997)刊行の持参資料には掲載されてないから、それ以降建立されたものだろう。

「銀杏散る 万巻の書の 頁より 有馬朗人」

有馬朗人は、山口門下で、東大総長、文部大臣を務めた原子核物理学者。

俳句結社『天為』を主催している。

山口青邨は、東大工学部の教授だった。

俳句なんだから文学部関係者が多いのかと、私などは単純に思ってしまうのだが、東大俳句会出身で、私などが知っている俳人は、理系、中でも医学部関係者が多いようだ。

その中の一人水原秋桜子の句碑が、医学部図書館のそばにある。

◇水原秋櫻子句碑

御殿山グランドと医学部図書館の間の崖地の下の一画に数基の石碑が間隔をおいて並んでいる。

そのうちの1基が水原秋櫻子の句碑。

大きな自然石の上部を円形に滑らかにして、そこに

「胸像を ぬらす日本の 花の雨」

と彫ってある。

「胸像って、誰の?」と問う人は、ここではいないだろう。

句碑の右手に、二人の西洋人の胸像が並び、左がベルツ、右にスクリーバと名前が記されている。

二人とも、明治の初め、お雇い外国人として来日し、日本の近代医学の基礎を築き、その発展に寄与したドイツ人医師。

東大医学部卒業の水原秋櫻子は、二人の恩恵を身近に感じたようで、何句かの句作がある。

君によりて日本医学の花ひらく

胸像はとわに日本の秋日和

秋空にかがやく歴史六百年

菊匂う国に大医の名をとどむ

生誕の夜の寒星を仰ぐべし

百年前君が仰ぎし夏の富士

 


137 文京区の石碑-15-石川啄木歌碑(本郷6-10-12)

2019-04-07 18:44:07 | 石碑

◇石川啄木歌碑(本郷6-10-12)

歌碑があるかつての大栄館跡地のマンションは、本郷台地の西端にあって、マンションから西を向くと急坂を人々が前傾姿勢で上るのが見える。

マンション前に、歌碑がある。

「石川啄木由縁の宿
 東海の小島の
 磯の白砂に
 我泣きぬれて
 蟹とたわむる」

 少し前の写真には、この歌碑の傍に、文京区教育委員会による説明板があったようだが、今は見当たらない。

石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別館跡
        
(東京都文京区本郷6-10-12 太栄館)

 石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館(オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
 赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
 ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
 東京朝日新聞の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ38ノ9)の喜之床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
 蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
                     昭和56年 文京区教育委員会
                 
父のごと秋はいかめし 母のごと秋はなつかし 家持たぬ児に
                    (明治41年9月14日作・蓋平館で)

石川啄木がここ大栄館(蓋平館)にいたのは、明治41年(1908)から明治42年、22,23歳の頃だった。

大栄館は、新築したばかりで、木の香も匂う崖上の西向きのへやから、富士山が見えるのを喜んだという。

彼は、1年ちょっとの間、3度の引っ越しをしているが、家賃を払えず、滞納したからだった。

引っ越し先がいずれも本郷界隈だったのは、金銭的援助をしてくれた金田一京助ら友人が本郷にいたためと思われる。

今や「啄木学」なる学問があるそうで、その研究によれば、啄木の借金は、今の金にして、約1400万円になるのだとか。

わずか3,4年の借金としては多額だが、その大半は、遊郭通いで消えたと云われている。

朝日新聞に勤めながらも生活苦から逃れられなかったのは、病気がちだったからでもあるが、夜の浅草通いにも原因があったようだ。