石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

136 目黒不動尊の石造物 番外編 江戸川柳と目黒不動

2018-12-23 07:03:33 | 寺院

目黒不動の縁日は、28日。

江戸時代、正月、五月、九月の縁日は、特に賑わった。

お不動さん参詣の土産と云えば、粟餅、餅花、桐屋飴、と相場が決まっていて、参詣帰りの父親が

 

        粟餅屋           餅花

二つ三つつけて 餅花 子に渡し

なんてことをしていれば、世の中は太平でした。

目黒不動の周りには、花街どころか宿屋もない、だからおかみさんたちは亭主を快く送り出すのですが、参詣を終えた男衆は急に江戸への帰り道が遠く感じられる。

厭離江戸(穢土)欣求浄土は浮世の習い。

行こか戻ろか仁王門の下でうろうろしていれば、「俺に任しときねえ、悪いようにはしねうから」と

目黒から ひっきりもなく すすめこみ

おだてられ、勧められ 袖を引かれて 四つ手の中へ。

餅花が 四つ手の中へ 二つ三つ(*四つ手は、庶民用籠)

餅花と柿が四つ手に生った様
餅花をかかげて難所へさしかかり

籠に揺られて、半刻ばかりで品川へ。

あまり重くもない財布をカラッポにせずに花街を通り抜けることの難しさ、安宅関の比ではない。

前立てを目黒帰りの見て歩き

目黒不動尊では、秘仏の本尊の代わりにお前立に手を合わせる。

ここ品川花街でも、本命女郎は奥にいて、2軍、3軍の若手がお前立よろしく顔見世に出ているのです。

その気になって、暖簾をくぐろうとすると餅花がガサゴソと邪魔になる。

餅花は 承知承知と 若い衆

邪魔だからと云って捨てるわけにもゆかぬ。

若い衆に預かってもらい、朝帰りの際、返してもらう算段。

そして忘我の一夜は明け、襲うは二日酔いのうつろなけだるさ。

餅花を 下戸取り集め 持ってくる

妓楼に上がったのは、参詣仲間全員か。

なにしろ、餅花を「取り集める」のだから、一人や二人ではなさそうだ。

だが、みんなで帰れば怖くない。

餅花を肩に、粟餅をぶら下げ、朝帰りの、高い敷居をまたぐのです。

餅も 嫌いや嫌いや 二十九日(*縁日は二十八日)

畳を叩きたて どこの目黒だよ 

餅花でごまかそうとは太い奴

天網恢恢疎にして漏らさず、悪事千里を走って、万事休す。

大店なんざたまたま家が大きいから、座敷牢にしやすい部屋もある。

座敷牢 目黒の罰と 母は云ひ

 道楽息子は、不動の金縛りもさぞやとばかり、小さくうずくまって、一件落着。

 

28日の縁日ではないのに、目黒不動が賑わう日があった。

富籤の日。

江戸の三富と称されたのは、湯島天神、谷中の感応寺(現天現寺)と目黒不動尊。

官許の富籤の開札は、寺社奉行監視の下、般若心経の読経とともに始まります。

人々がかたずをのんで見守る中、係りの者が、木箱の中の木札を長い柄のキリで、エイっと突き刺す。

即座に当たり番号が読み上げられ、歓声がどつと沸くという次第。

一等は1000両と夢の世界だから、誰もが一度は手を出し、そして、敗れ去る。

十三日 富札の出る 恥ずかしさ

晦日の大掃除の十三日、外れ札がひょんなところから出てくる。

女房に嫌みの一つでも云われて、笑い話で済むようならいいが、富札一枚今の価格で1万円ー2.5万円を借金して何枚も買い、あげく全部パアとなったものは、悲惨の極みに落ちる。

富札の 引きさいてある 首くくり

首くくり 富の札など 持っている

ということになりかねない。

新年からは「東京都文京区の石碑」を始めます。

 

 

 

 

 


136 目黒不動の石造物 25 本堂裏四天王と地主神

2018-12-16 06:49:12 | 寺院

本堂裏、大日如来を取り囲むように四天王が配置されている。

仏教の守護神だが、みな武装して厳めしい。

東のガードマン持国天。

唐の武将姿で国の安泰を護るといわれる。

踏みつけているのは、邪鬼。

南の守護神・増長天。

左手に持っているのは、戟。

邪鬼が怖いというよりかわいい。

西を守るのは、広目天。

台石には「西牛貨洲」と守備範囲が刻されている。

「広目」というのは、千里眼的特殊能力のことだとか。

最後に、北の多聞天。

広目天が、視力の特殊能力者なら、多聞天は、聴力のエスパー。

釈迦の説法を良く聴くの意もあるのだとか。

四天王の一員ではなく、単独だと毘沙門天となる。

下は、大日如来に向かって右手前(東)の持国天とその左奥の大日如来。

 大日如来の真裏には、鳥居があって、「地主神」と朱文字の石碑が立っている。

「地主神」だから文字通り、目黒不動尊の境内地の守り神。

維新後の神仏分離で、寺の境内とは切り離された「地主神社」が多いが、ここでは、境内の中にある。

神仏混合のこの姿が、かっては自然だった。

石碑には「大行事権現」の文字も。

検索してみたら、比叡山の守護神の一つと判ったが、私の理解を超えるのでパス。

大日如来のある境内には、このほか、

置き灯籠

層塔が忘れられたようにあり、

この不動尊の存在もほとんどの参詣者はしらないだろう。

裏口を出て、塀沿いに右へ。

鳥居のある裏口を右に見て更に行くと、左に墓地があって、青木昆陽の墓がある。

 

 

 

 

 


136 目黒不動の石造物 24 本堂裏大日如来

2018-12-09 07:51:47 | 寺院

本堂石段のカラフルな列は、護摩焚きに向かう坊さんたち。

本堂内は撮影禁止なので、パス。

広縁を通って、時計回りに進むと、本堂真裏で巨大な大日如来銅像に出会う。

今は、みんな、ここに大日如来があることを知っているから、本堂裏へ向かうが、普通は、本堂で参拝したらそのまま立ち去るだろう。

昔は、よほどのもの好きが、本堂裏まで足を延ばして、さぞかしびっくりしたことだろうと思う。

 

大日如来の前には、灯籠が一対。

上方に、朱文字で「釈迦/阿弥陀/薬師」と刻され、下方に「寛文二壬寅年/奉建立石灯籠両基/十二月十五日/為保雲壽貞居士證大菩薩」との刻銘がある。

『郷土目黒NO40、平成8年』の「目黒不動の金石分一覧」によると、保雲壽貞の俗名など人物像は不明だが、境内3基の石造物にその名があるのだという。

 

大日如来は、総高3m85cm、座高2m81cm。

連座に銘刻があり、「本海上人、遍照院山海、本明院暁海」の3木食上人が願主となり、延宝3年(1675)、「武州江戸之住鋳物師横山藩右衛門尉政重」により、鋳造されたことが分かる。

鋳造8年後の天和3年(1683)、瀧泉寺権僧正圓山享順が、衆僧34人を従え、開眼供養をしたことも刻されている。

連座には、「目黒村/嶋村市郎兵衛」他、「為菩提」として、多数の名前が刻まれている。

大日如来に向かって左にステンレススチールの縦長説明板がある。

四段に分かれていて、上から「大日如来覆屋を建設した清水建設による設計意図、次は、二十八宿図、その下が、瀧泉寺による二十八宿図の解説。そして、最下段は、この大日如来を文化財に指定した目黒区教育委員会の説明。

まず、最上段の清水建設の設計意図。

 胎蔵界 大日如来 光背 覆屋二十八宿図 荘厳平成22年の大日如来像保存修復に続き、翌年には覆屋を復興し、光背を新設致しました。雨水や落葉等から如来像を守る覆屋は、四方から礼拝できる開放的な造りです。屋根はアルミ鋳物を採用して軽量化の上、Vプロセス鋳造法により自然な局面を持たせ内側の梁には施盤削出し鋼材溶着、金色塗装にて描写した二十八宿図が輝きます。
光背はアルミ鋳物に金箔を押し、気囲碁から光を取入れ、大いなる日輪を表現しました。
                            清水建設株式会社

屋根裏に描かれているという二十八宿図は、光の具合か、よく見えなかった。

次は、その二十八宿図。

そして、瀧泉寺による二十八宿図の説明。

大宇宙の仏である大日如来の頭上にえがかれた二十八宿図は、太陽・月・星の位置と動きを表し、生活の上では天文学、暦、占星術に古来より密接に関係します。
 西洋の星座(黄道十二星座)は、太陽の通り道(黄道)を十二か月かけて通ります。
 それに対して『二十八宿』は、月の通り道(白道)に二十八の星座を作り、月が一日に一つ、この星の宿、星宿を尋ねて天空を旅します。
 また四方は七宿ごとにまとめられ、東方青龍、北方玄武、西方白虎、南方朱雀の四神に見立てられました。
                  平成23年3月 瀧泉寺

最後に、目黒区教育委員会による大日如来の説明。

 銅造大日如来坐像
    区指定文化財(昭和59年3月31日指定)
               下目黒3-20-26
蓮華座に結跏趺坐しているこの座像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹き寄せの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躯に比べ頭部を大きく造るのは代仏像共通の特色であり、面相も体躯も衣文表現もよく整っています。
現在は露座となっていますが、『江戸名所図会』の「目黒不動堂」の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。
台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の同士僧侶の歴名が刻まれるとともに、多数の施主名と供養社名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和3年(1683)と制作者が江戸に住む鋳物師横山藩右衛門尉政重であることが分かることも貴重です。
                   平成21年3月 目黒区教育委員会
                     

 

 


136 目黒不動尊の石造物 23 八大童子ほか

2018-12-02 09:39:08 | 寺院

以前目黒不動に来た時は、シャッターなどはなく、自由に八大童子を拝観できた。

それが、シャッターにカギがかかって、通行止めとなっている。

 

でも、目黒不動尊のネット資料を読んでいて、毎月28日の縁日には、通行できることを知った。

それで、8月28日、4度目の参詣。

八大童子の山の前には、灯籠を挟むように狛犬が向かい合っている。

台石には、「畳講」がはめ込まれている。

目黒不動尊には「太子講」があって、多くの職人の信仰を集めた。

「畳講」があって、なんら不思議はない。

小山に不動明王を護るように八大童子が構えていらっしゃる。

麓には鉄柵がめぐらされていて、童子に近づくことはできない。

望遠レンズでやっと捉えた写真を以下掲載するが、〇〇チョンカメラの3倍ズームなので、上手く撮れていないがご了承ください。

説明板に従って右から。

えき童子

左手に、福徳の智慧を象徴する摩尼宝珠を、右手にはそれを守る三叉戟を持つ。(説明は、『高野山霊宝館』HPから。以下同じ)

しとく童子

眼が三つで鎧兜(よろいかぶと)を身につけ、左手には完全無欠の智恵を象徴する輪宝(りんぽう)を持ち、右手には煩悩を打ち砕くための三叉戟(さんさげき)を執る、と高野山霊宝館HPは説明するが、この童子の目は二つ。

うぐばが童子

性格と姿は暴悪であると説かれ、最も忿怒の表情を露(あら)わに表現するよう指示されている童子。髪が逆立ち、裳裾(もすそ)と共に風にひるがえっている。右手に独鈷杵を持ち、左手は金剛手(拳を固める)の形。

こんがら童子

15歳の童子姿で、頭には蓮華の冠を戴き、合掌した手には独鈷杵を持ち、天衣と袈裟で厳飾するとされます。
またその性格は小心者で従順であるとされ、童子像の穏やかで親近感のある表情にそれがあらわされています。

不動明王

一番高い場所に立っている。

あのくた童子

左手には蓮華、右手には独鈷杵を持ち、龍王に乗ると説かれます。童子像を見ますと、菩薩の姿で右足を下ろして龍に乗っています。

せいたか童子

左手に縛日羅(ばざら)(金剛杵)を、右手に金剛棒を持つとされます。また「悪性の者」であると説かれますが、これは制多伽童子が不動明王の真の心を知らない衆生に対して忿怒の心を込めて接するとされることと関係があるのかもしれません。しかし童子像は微塵も「悪性」を感じさせることはなく、颯爽として非常に理知的な印象を受けます。

えこう童子

天冠を戴き、体は黄白色で右手に金剛杵、左手に月輪(がちりん)を安(あん)じた蓮華を持つとされます。

しょうじょうびく童子

比丘とは修行僧のことで、剃髪し、衣と袈裟を身につけます。
「秘要法品」には右手に五鈷杵、左手に経巻(きょうかん)を持つと規定されています。またその面貌は若くもなく老相でもなく、青い眼で口元は上の歯が下に向かって出ているとされます。「童子」らしからぬ独特の容貌はそのためです。

 

八大童子の山の、道を挟んだ向こう側に目を引く形の石が立っている。

どうやら石碑のようで、ズームレンズで見ると「米翁之碑」と読める。

「米翁」で検索してみる。

大和国郡山の2代目藩主柳沢 信鴻(やなぎさわ のぶとき)の諡号(しごう・おくりな)とあるが、果たしてどうなのだろうか。

そのまま道なりに進むと朱色の鳥居があって、これが裏門になる。

「28日以外通行できません」との看板がある。

写真は、外から見た鳥居。

八大童子から鳥居に向かう途中、右手にあるのがデザイン性高い鬼瓦。

旧本堂の屋根にあったものだろうか。

そして、鳥居のすぐ手前左には、剣がすっくと立って、両側に2童子がお守りをしている。

一段と高いところにおわすのに、草花が生い茂って、道路から見つけにくい。

不動劔の台石にはめ込んだ黒御影には「方位除 不動劔/平成十五年五月吉日/第十一世住職遵浩代改修」と刻んである。

そして、前の石碑には「奉納/寶劔並二童子/金弐拾円」とあり、左下隅に「白金臺町 石工吉田政五郎/芝伊皿子町 石工吉田与平」と石工の名前が刻してある。