2月の半ば、陽がさして風がなく、冬にしては暖かい昼過ぎ、池袋西口、川越街道に面した寺の参道を歩いていた。
長い参道が山門へと続く。
山門をくぐる。
参道はそのまま真っ直ぐ本堂前を横切り、右折して墓地へと誘う。
ふと、背後にハイヒールの音がした。
振り向いてみる訳にも行かず、目的の無縁塔に向かう。
無縁塔に着く。
カメラを取り出して撮影の準備に取り掛かる。
ハイヒールの音がしなくなったことに気がついて、振り返った。
参道を挟んで、無縁塔の反対側に水子地蔵がある。
その前に若い女がしゃがんで、合掌していた。
川越街道の向こうに法務局がある。
だから弁護士事務所や司法書士事務所が多い地区だが、そのどこかのOLだろうか。
外食を終えたその足で、寺に来たものらしい。
ハイヒールでしゃがむという不安定の姿勢ながら、身じろぎもせず、合掌は長く続いた。
池袋西口の寺の水子地蔵
若い女性が墓地で手を合わせるシーンを見るのは、初めてだった。
強烈な印象として脳裏に焼き付いた。
その夜、酒の席でそのシーンを語った。
「自分の都合で生まれるべき命を闇に葬ったことの罪の意識はぬぐい切れないんだろうな。せめて成仏してほしいと願うんだよ、彼女は」。
こう言ったら、「それは違う」と友人に真っ向から反論された。
「水子の祟りが及ばないように願っていただけだよ」。
罪の意識など皆無、祟りがないように祈る自分勝手な女だというのだ。
「水子の成仏」を祈る。
「水子の霊が祟らない」ように祈る。
どっちが正しいのだろうか。
実は二つとも正しい。
歴史的な背景が、それぞれにある。
「一重組んでは父の為、二重組んでは母の為・・・」。
河原地蔵和讃の旋律は、日本人の胸に重く沈みこむ。
夭折した子供は、親不孝と見なされ、地獄に墜ちる。
三途の川で子供たちは親不孝を詫びながら石を積んでは塔にする。
その塔を鬼が来てけ散らかす。
逃げまどう子供たち。
その子供たちに救いの手を差し伸べるのが地蔵菩薩だった。
賽の河原(佐渡)
その「河原地蔵和讃」にこんな一節がある。
「二つや三つや四つ五つ十にも足らぬ子供らが・・・」。
これは引用ミスでも、書き間違えでもない。
最初から、「一つ」はないのだ。
古来、わが国では水子の墓はなかった。
人として認められなかった、からではない。
人として認めたくなかった、からである。
「今回は生んであげられなかったけれど、次の機会には必ず」と親は水子の遺体を床下に埋めた。
成仏してしまっては、生まれ変われなくなってしまう。
だから、あえて、墓をつくらない。
お経も上げない。
水子と一歳児の霊は、従って三途の川に行くことはなかった。
河原地蔵和讃に「一つ」が欠けている、これが理由である。
その昔、水子・間引きは地域社会の公認行為だった。
家族の生存を図るための必要悪だったからである。
なにしろ天変地異が相次いだ。
11世紀から16世紀の500年間、
旱魃は166回、長雨は325回にのぼった。
そのたびに凶作となり、人々は飢餓に瀕した。
この構図は、江戸時代になっても、変わらない。
水子・間引きは人口減をもたらす。
人口減は労働力減を意味し、生産力の低下を招いて、幕藩体制の根幹を揺るがすことになる。
幕府が水子・間引き禁止令を出すのは、必然の成り行きだった。
水子は殺人、と脅かした。
この段階で、水子は初めてその人格を認められ、成仏できることになる。
しかし、肝心の貧困を放置して、水子・間引きを禁じても効果はなかった。
どうしたか。
倫理、道徳に訴えた、のである。
「怨霊の祟り、終に家断絶し、後生は地獄の責めを受くべし」(『子孫繁盛記』)。
巷に出回る草紙が、繰り返し、怨霊の祟りを強調し続けた。
水子地蔵の前で合掌する二通りの意味は、こうして成立したのであった。
このあたりの筋書きは富岡邦子氏「地獄と水子供養」(『日本の石仏』NO54)の受け売りだが、妊娠中絶が社会的事件として注目され始めるのは、1948年の優生保護法の成立以降である。
折しも伝統的地域社会が崩壊し、核家族化が進行しつつあった。
中絶理由が「貧困」よりも「快適な生活水準の維持」に変質してきた。
性の自由化、性の解放も中絶の増加に拍車をかける。
中絶の激増は、水子供養の需要を喚起する。
需要があれば、供給が応える。
水子供養が仏教の教義のなかでどうなのかはさておき、水子地蔵を造立する寺が増える。
理屈はどうにでもつく。
商売が優先するのだ。
浄土真宗寺院以外の、ほとんどの宗派の寺に水子地蔵が立つことになった。
大体が立像で、左手に赤子を抱え、足元にも子供が2,3人寄り添っている像容が多い。。
西蔵院(台東区)
水子地蔵の周りには、三等身の幼児体型の小型地蔵が並び、オモチャや人形が置かれて、カラフルな風車が回っていたりする。
粟島堂(兵庫県加西市) 大聖寺(埼玉県小川町)
意外なことに古刹にも水子地蔵はある。
書写山円教寺(姫路市) 慈照院長谷寺(鎌倉市)
最たる例は、増上寺。
本堂に向かって右に小型地蔵が列をなしている。
黒々とした歴史的建造物とカラフルな地蔵群のコントラントが撮影意欲を喚起するようで、外国人観光客の撮影スポットとなっている。
しかし、徳川将軍家の菩提寺であることを思うと、この風車つき地蔵群は重厚な雰囲気を損なってはいないか。
いや、あれは子育て地蔵で水子地蔵ではないと言うかもしれないが、乳幼児死亡率が世界1低い日本では、もはや子育て地蔵でもあるまい。
誰もがあれは水子地蔵だと思っているに違いない。
そして、徳川家の菩提寺になぜ水子地蔵があるのか理解に苦しむことになる。
三縁山広度院増上寺(港区)
水子地蔵といえば、埼玉県小鹿野町にある紫雲山地蔵寺を抜かすわけには行かないだろう。
秩父観音霊場31番札所観音院への途中、道の両側の山頂まで、全山、地蔵と風車で埋め尽くされる様は異観であり、壮観である。
紫雲山地蔵寺(埼玉県小鹿野町)
霊観の強い人には、無数の怨嗟のつぶやきが聞こえるのではないだろうか。
この小鹿野の地蔵寺は、1971年の創立だが、同様に水子地蔵の大半は、昭和、平成に造立された。
もちろん、例外もある。
両国の回向院には、寛政5年の水子塚がある。
正式山号が「諸宗山無縁寺回向院」。
だから、なんでもありなのだ。
回向院の水子塚(墨田区)
地震、火災、洪水、津波の被災者はもとより刑死者、牢病死者に至る不幸な死者という死者を一手に引き受けてた寺だから、幕府が禁止令を出している水子の霊もちゃんと弔ってくれる。
水子の親が誰かが分かる石仏もある。
秩父観音霊場第四番札所の金昌寺は、石仏の寺として有名である。
境内から後背の山まで石仏で埋まっている。
石仏の寺金昌寺(秩父市)
中に寄進者の名前が彫られた石仏がある。
この地蔵の左側面の文字は「紀様奥女中」。
「紀」とは「紀州」のこと。
不義の子を孕み、間引きせざるを得なかった紀州江戸屋敷の奥女中が、我が子の成仏を祈って寄進したものという。
石仏は、ほとんどの現代人に見向きもされない。
観音も庚申塔も、みんな「お地蔵さん」になってしまっている。
わずかに石仏愛好家たちが暖かい目を注いでいるのだが、水子地蔵は、そうした彼らからも見放されているようだ。
石仏写真展で水子地蔵が被写体の作品にお目にかかることは、まず、ない。
季刊雑誌「日本の石仏」で水子地蔵がとり上げられたのは、創刊以来35年間、たったの一度だけ。
専門家であればあるほど、無視する傾向があるようだ。
歴史が浅いことが原因のひとつ。
寺の商売気が透けて見えることも嫌気を増す。
水子となった霊たちに落ち度はないだけに、よってたかっての、この冷たい扱いには義憤を感ずる、と締めると格好いいのだが、水子地蔵の前を素通りするのは自分も同じで、つい、口ごもってしまう。
みんなが無視するなら、ちょっと水子地蔵に目を向けてみようかと、これは少数派であることを愉しむ自分なりの趣向なのです。
このブログを書いている最中、八王子の寺のある家の墓地で、水子の墓に出会った。
一家の墓域の片隅にお地蔵さん。
地蔵の足下の台石には「心善水子 香雪水子」とある。
「ああ、こうして弔う人もいるんだ」と心温まる思いがした。