石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

130 上野公園の石造物(9)

2017-09-25 08:48:27 | 公園

前回に引き続き「不忍池弁天島の石造物」。

今回は、弁天堂に向かって左側の石碑群から。

一番手前は「芭蕉翁」碑。

正面に「芭蕉翁」とあるだけで、裏にも側面にも何ら文字がない。

いつ、だれが、何の目的で、という肝心なことが不明。

ざっとネット検索してみたが、その辺を明らかにしたサイトはなかった。

(*ブログ「北杜市ふるさと歴史文学資料館山口素堂資料室『江戸の芭蕉句碑集茗荷』に次のような記述があった。

以上三十七基中、現存のもの十九基か散えられる。都内現存のものと対照しつつ、それぞれ地域的にその現状と由来とを記述案内しよう。なおここで付記しておきたいことかある。それは「芭蕉塚」と「芭蕉句碑」とこの両者をはっきり区別すべきことである。「芭蕉塚」というのは、原則として、芭蕉歿後五十年回忌のころまでの間に、門人その他直接芭蕉

に親しくし、崇敬した人たちの手で、何か形見の品を碑下に埋め営んだ追悼の塚であって、それには概ね句が刻まれていない。「芭蕉句碑」となると、そうした陰墓のようなものからはなれて、句を刻むことを主眼とした文学碑形式に変化したものである。建設年月からいっても「芭蕉塚」以後となる。両者は建碑の目的からもその性格からも異なったものであるのである。」
 
 
「芭蕉塚」ではなく、「芭蕉翁」だが、句がないところから、「芭蕉塚」と同種ではなかろうか。

その右隣が、「ふぐ供養碑」。

石柱の囲いの中に供養碑と建立趣旨碑が立っている。

供養碑の上には、トラフグが泳いでいて、ひと目で「ふぐ供養碑」と分かる。

供養碑には「岸信介謹書」とある。

ふぐといえば、山口県下関。

山口県は岸氏の地元だから、当然か。

先月、たまたま御殿場の岸邸に行った。

安倍晋三は岸信介の孫になるが、子供の頃からこうした環境にあれば、「庶民的感覚」にうとくなるのも必然か。

横道にそれた。

建立趣旨を転写しておく。

 世俗に「ふぐは喰いたし命は惜しし」という文句がありますが昔は相当多くの中毒死者を出したものであります。私共ふぐ料理業者はこの天下の珍味のふぐを安心して都民の皆様に料理して提供したい念願から昭和5年ふぐ料理連盟を結成し古来秘密にされていた調理法も講習会などを開催してふぐの毒素を除去する調理法を組合員に公開、完全調理したふぐは安心であることを世人に認識せしめたのであります。
大東亜戦争のおり、食糧難のため東京都に於いて雑炊食堂開始にあたり当連盟は率先之に加わり各漁場は今迄廃業していたふぐを中央市場に出荷するよう要請、完全除毒したふぐの雑炊を一般都民の方々に供し食糧難のいったんに寄与したのであります。斯くしてふぐの需要は年々増加の一途を辿り中毒者は極限されてきたのであります。昭和24年東京都衛生局より当連盟に対しふぐ調理試験実施について協力方を要請せられ連盟は社会公共福祉のため全幅の信頼をもってこれが実現を図り努力を続けた結果今日では東京都のふぐ中毒者は皆無になった次第であります。私共はこの天与の玉饌として天分を果たした幾千万のふぐの霊に満腔の感謝をささげ今後絶対安心してふぐを召し上がられることょ祈念し茲に別記会員有志の協力によってふぐ供養塔を建立した所以であります。
            昭和40年9月 東京ふぐ料理連盟 宮崎昇識なんで

なんでこんな内容の石碑が建つのか、書き写しながらばかばかしくなってくる。

その右隣りは初代杵屋六翁の碑。

石碑は、2基あるが、正面の碑は私には読めないうえに資料がなく、不明。

 

初代杵屋六翁の顕彰碑か。

傍らの石碑は、六翁の歌碑。

多るまねば どなたもよしや 綱よりも
 ほそき 三筋の 糸の世渡り  六翁
            明治28年建立

人物検索によれば、杵屋六翁(1779-1855)は、長唄三味線の作曲、演奏の両方に長じ、長唄中興の祖と云われる、とある。

私は、長唄と小唄、端唄の区別がつかない。

三味線についても全く無知。

歌舞伎も知らない。

日本人として半端なのです。

だからこの碑も次の「八橋検校顕彰碑」もサラッと表面をなでるだけ。

 黒御影の「八橋検校顕彰碑」は、三面鏡の如く造られている。

正面に「八橋検校顕彰碑」とあり、右に八橋検校史伝、左に頌辞の長文を刻む異形の石碑です。

顕彰碑の前の小碑「六段塚」は、琴の名曲「六段の調べ」にちなむものと思われる。

八橋検校顕彰碑の隣には、なぜか地蔵。

そしてその右側にあるのが、扇塚。

正面には

扇塚
 ああ佳き人かおも影を
 志のばざらめや不忍の
 池のばほとりに香を焚き
 かたみの阿ふぎ納めつつ
       佐藤春夫」

更に、背面には

「初代花柳寿美三周忌に当たりて門下および知友相謀り、故人初髷五歳より齢五十二に至る舞踏生涯四十五年間に使用せる遺愛の舞扇を筐中に納め塚を建て供食し以て追善の情を遣りぬ。

発揮人 六代目尾上菊五郎 二世花柳寿輔 花柳章太郎 竹内金太郎 辻二郎 花柳寿輔門下生 二代目花柳寿美
                昭和二十四年二月八日の建碑」

「いと塚」の背面には、前田青邨画伯の撰文が刻されている。

荻江完家露章は三弦の名手としてその名かくれなし。そのいとみちを伝うるもの相より七回の忌を修し、ゆかり深きこの地に碑を建て、ありし日の奇を偲ぶよすがとす」

日本舞踏だ、三弦だと私の知らない世界の碑が続いて、ノーコメント。

隣の五輪塔は、貞享年間造立であることは分かるが、詳細は不明。

 

「東京自動車三十年」碑は、読む気が起らず、パス。

弁天島に建碑するには誰の許可を要するのだろうか。

それとも寄付金の多寡にでもよるものなんだろうか。

次の「真友の碑」は英文。

「上田・ボーン賞」といえば、日本のジャーナリストなら知らない人はいない賞だが、その上田碩三(電通社長))とマイルス・ボーンUPI副社長が東京湾の突風で亡くなったことを悼み、併せて二人が国際的通信網の確立に寄与したことを讃える記念碑。

 AS A SYMBOL OF MUTUAL RESPCT AND JAPANESE-AMERICAN INTERDEPENDENCE
     COMMEMORATED HERE ARE
SEKIZO UYEDA (1886~1949)
   PRESIDENT OF NIPPON DEMPO TSUSHINSHA (DENTSU)
                    AND
MILES W.VAUGHN (1891~1949)
   VICE PRESIDENT OF UNITED PRESS (U.P.I)

WHOSE TRUE FRIENDSHIP LIVES ON FOREVER THOUGH THEY PERISHED TOGETHER IN A TOKYO BAY SQUALL AFTER HAVING ACCOMPLISHED THEIR HISTORIC MISSION IN ESTABLISHING AN INDEPENDENT NETWORK FOR THE FREE FLOW OF WORLD NEWS AMID GLOBAL TIDES OF BIAS

 

以上で弁天堂に向かって左側と弁天堂左横の石造物は終わり。

これからは、弁天堂裏の石造物です。

まずは、「筆塚」。

石碑の下半分が剥落している。

無事な上部は「靄崖山人得筆塚之銘」と読める。

靄崖は画家で、文晁の弟子なんだそうだ。

この碑は、嘉永3年1850)に建てられた。

その隣の石塔には「上豊調理師会」とだけあって、はて?これは何だろうと思ったのだが、その次の「包丁塚」の設立者の名称だった。

包丁塚には設立趣意はなく、背面には、上豊調理師会の会員の名前がずらり並ぶだけ。

その隣の「鳥塚」は、弁天島最大の石碑。

書は、当時の都知事、東龍太郎。

隣の石碑には、設立趣意が刻されている。

 その碑文の一部。

都内の食鳥肉の販売業者が、生活の糧であり、また子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めんがため、浄財を集めてこの聖域に建立した云々。

朱色の鉄枠に囲まれて、これも朱色の祠があるが、錠が掛かっている上、説明看板もないので、正体は不明。

ただ、右側に小柄な石塔があって、「辨才天」と彫られている。

弁天堂と池の間の広場にも石碑が2基あって、そのうちの1基には「幕末之剣豪櫛淵

虚仲軒之碑」とある。

「剣豪の碑」なんて、初めて見た。

ネット検索していたら、本人の肖像画があったので、コピーしておく。

画家は伊藤若冲と伝えられているのだとか、そっちの方に興味がある。

不忍池に突き出たようなのは、「聖天島」。

鳥居や社、何基かの石造物があるが、錠が下りていて入れない。

木々の茂みでよく見えないのだが、等身大の金精様がおわす。

これは裏側から見た図だが、表側はお地蔵さんになっている。

今は柵と錠があって近寄れないが、かつてはOKだった。

当時の写真があるはずで、探したが見当たらない。

 

弁天堂の裏から表へ。

弁天堂に向かって右には、大黒天。

石碑が何点かあるようだが、近寄れない。

大黒天に向かって右には「魚塚」。

全国水産小売組合が昭和51年(1996)設立したもの。

以上で、「上野公園の石造物」は終わり。不忍池から不忍通りへ出る手前にある石碑は「龍門橋」碑。

不忍池の土手には、蓮見橋、中橋、月見橋、龍門橋と4つの橋が架かっていた。

4橋とも、昭和の初期には姿を消した。

今はこの「龍門橋」の碑で昔をしのぶのみ。

不忍通りを池の端方向へ向かって最初の信号下には「雪見橋」碑がある。

欠けている上、地面に半分埋まっていて、「雪見橋」だとはわかりにくい。

それでもないよりはいい。

通行人の誰一人として、気づく人はいないようだが、ひっそりとその使命を果たし続けている。


130 上野公園の石造物(8)

2017-09-15 18:54:43 | 公園

「上野公園の石造物」、最終回の今回は、不忍池。

弁天島は、上野公園の中で、とりわけ石碑、石塔が多い。

弁天島に建碑するのは、名所を訪れる多くの人の目を意識してのことで、その目的は今もなお、成立している。

惜しむらくは、外国人が多く、彼らは石碑など見向きもしないこと。

しかし、見向きもしないのは、日本人も同じ。

立ち止まって読む人はほとんどいない。

特に漢文碑は敬遠されるようだ。

江戸時代であれ、明治時代であれ、施主をはじめ建碑の関係者は、碑文が白文でも市井の人に読解されうると考えていたはずである。

彼らに誤算があったとすれば、日本人の国語の読解力の低下がこれほど急速に進むとは思わなかったことだろう。

まるで第三者的な云いようで忸怩たるものがあるが、かく云う私も「読めない」一人。

白文など、まず、読む気が起らない。

もう一つの問題は、顕彰碑の当の「偉人」についての知識がないこと。

その「偉人」の名前を聞いたことも見たこともなければ、碑文を読む気にもならないのは当然だろう。

自らの無知を棚に上げて言い訳するようで、情けないが、これは、私だけではなく、現代人に共通した問題点だと思う。

であるならば、弁天島の白文の顕彰碑を取り上げても無意味だということになる。

ごもっともではあるが、では、白文を読み下し文にしたらどうか。

私には読み下す能力はないので、図書館で資料から探し出してみた。

と、いうことで弁天島の石碑、石塔の巻、スタート。

丁度池の蓮の開花時期で、カメラを向ける人が多い。

橋を渡って弁天島にわたると左右に石造物群が並んでいるのが、見える。

本堂に向かって右側の石碑群に向かう。

順番では2番目になるのだが、まずは「不忍池由来記」から。

由来は裏面に刻されている。

不忍池は忍ヶ丘に連なって都心随一の山水美を誇るばかりでなく、江戸以来相次いで大火大地震大戦などの災禍が起こるたびに避難の場所としても都民に慕われてきた。
大昔の武蔵野に深く食い込んでいた東京湾の入り江がたまたま一部だけ取り残されて、西暦紀元前数世紀ごろからこの池となり13世紀以来今の名で呼ばれるようになった。
1625年江戸幕府が、西の霊場比叡山に対照させて東叡山寛永寺を営むや、開祖慈眼大師天海大僧正はこの池を琵琶湖に見立て、竹生島なぞらえて新島を築かせ弁天堂を建てた。
この景観は江戸名所図絵の圧巻とされたが、20世紀に入ってからは博覧会場、競馬場に利用されて湖畔はますます賑わった。
1943年終戦後の激動期には、池の一部に稲が植えられ不忍田圃の異名がついた。
続いて全面干潟の知識を野球場新設の猛運動などに脅かされたが、上野観光連盟の前身鐘声会や地元有志が、郷土愛に燃え私財を投じて疾走した結果、昔ながらの風致を確保出来たばかりではなく、その上新たに水上音楽堂が設けられ、毎夏の納涼大会に興趣を増した。
なお、1964年アジア最初のオリンピックを結に周辺の文化諸施設も一段と整備され、探勝の外人客が、西独ハンブルグの都心を飾る名勝アルスター湖を連想して激賞するほど、著しく近代化された。

漢文ではないので、転載の必要はないのだが、とりあえず「不忍池」についての知識を得ておくのも有意義かと思って。

「不忍池由来碑」の手前は、「中根半僊(せん)碑」

私は知らないので、ネット検索してみた。

「半僊は、越後高田藩の医師。明治時代に活躍した書家でもあり、不忍池近くに居住していたことから、弁天島に碑を建てることになった」。

全文漢文で、本来なら書き下し文にすべきところだが、そこまでする必要はないと思い、取りやめ。

幕末から明治にかけての、医師であり、書家であることを知れば十分ではないか。

その左隣は「めがね之碑」。

碑の上部センターに丸眼鏡が刻されている。

「徳川家康使用」の日本最初の眼鏡と記されている。

眼鏡がはるかに海を越え、わが日本に渡来したのは、四百二十余年のことであります。文化の発達につれてめがねの需要も増え、文化、政治経済に貢献した役割は誠に大なるものがあります。その間業界先覚者の研鑽努力により今日の発展を見るに至ったことを回想、明治百年を記念してその功績を顕彰し慈眼大師ゆかりの地上野不忍池畔にその碑を建立し感謝の念を新たにするものであります。」

慈眼大師が家康にめがねを紹介したのだろうか。

多分「慈眼」の眼が眼鏡と関係があるから、選んだものと思われる。

なんとも薄弱な建立地理由だ。

 

その左隣の歌碑と「利行碑」は、一対で成立するもの。

歌碑は、長谷川「利行」の歌。

人知れず 朽ちも果つべき身一つの
 いまがいとほし 涙拭わず
 己が身の影もとどめず 水すまし
 川の流れを 光りてすべる 

日本のゴッホとうたわれた長谷川利行は、昭和15年(1940)、三河島駅近くで行倒れ、板橋の養育院に収容された。

この年の10月、利行は胃癌で亡くなるのだが、生前、病院から友人に出したハガキが残っている。これが哀しい。

「養育院第五病室ニ胃癌ノ手術デ居リマス。午前中ニ一度ミニ来テ下サイ。詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ何時デモヨロシイノデス。(至急来テクレナイト死亡スル。動けナイノデス)。市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。何カ見学ニナルデシャウ。氷サトウ、ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テクダサイ。オ願ヒシマス。何カ甘イ菓子一折クダサイ。死別トシテ」。

ネットには利行の絵も多くアップされている。

うち1点を転載しておく。

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上記の石碑群は、碑面を読むのが、いかにも容易そうだが、実は、露店のテントの後方にあって、接近するのは難しい。

下の写真で白テントの後方に石碑群はある。

本堂に向かって右側の石碑は見終わったので、今度は、左だが、その前に本堂前の琵琶碑を見てみたい。

本堂へ上る階段左、1メートルの石台の上に、高さ2メートルの青銅製琵琶碑が、本堂の軒に接っせんばかりにそびえている。

正面には「献納銅像琵琶干不忍池弁財天女詞縁由」と刻され、台座に「琴三講(山岡鉄舟筆)」とある。

背面は「第二世田中久重鋳造、岡三慶撰文、今井桃門書」と読める。

碑文は、以下の通り。(漢文を読み下し文にしてある)

夫れおもんみれば、大弁天女王菩薩は、一切の智恵、技術、威神等を具足したまい、諸人の請求するところ、しかもみな成就せしむ。あるいは智慧を求むる者には聡明ならしめ、弁財を求むる者には爽利ならしむ。災厄にかかるものには消殄(けしほろぼす)せしむ。貧窮を愁える者には財福を与え、芸術を求むる者には精巧ならしむ。位官をねがう者には尊貴ならしめ、名称を求むる者には帰響せしむ。出離を求むる者には解脱を得しめ、また諸看属を聞持すれば天妓楽を奏す。その所信に来詣すれば常に擁護せらる。ここに某等、父祖の世業に従い、音曲器、常に天女の恩力を蒙ること久し。つとに同業者と協力し、一面の琵琶を祠前に鋳造し、もって天女の洪恩に報ぜんと欲す。今すでに成る。幸いにこれを接受したまい、某同業者および同信者、子孫縄々、家門繁栄、福履円美、しこうして諸災なく、横(かたわら)共に無上正等菩薩を成ぜんことを、至祷、敬って白(もう)す
        明治十九年九月発願 琴三講社 正四位山岡鉄太郎 謹書」

弁財天は技芸の神とは聞いていたが、これほどあらゆる願いを成就させてくれるものとは知らなかった。 

 

 

 


130上野公園の石造物(7)

2017-09-05 08:53:27 | 公園

今回は、寛永寺根本中堂の石造物。

根本中堂は、比叡山の本堂のことだとぱかり思っていた。

寛永寺の本堂も根本中堂だと知って、寛永寺を東の比叡山にしたい天海僧正の気持ちがこういうところにも表れているんだ納得。

もともと博物館前の大噴水辺りにおわしたが、上野戦争で被災消滅、十数年後、現在地に、川越喜多院の本地堂(講堂)を移築して根本中堂としたという。

 

さほど大きくもなく、実に質素な造りで、徳川家の菩提寺という感じがしない。

それとは知らず、前を通り過ぎる人も多いのではなかろうか。

石造物は、山門を入って、右側に纏められている。

先ず目に入るのは、鐘楼。

石造物ではないが、少し触れる。

鐘銘に「厳有院殿 御宝前」とあるように、元々四代将軍家綱の霊廟にあったもの。

明治12年、川越東照宮から講堂が移築され、根本中堂が建立された時、徳川宗家から寄贈された。

厳有院霊廟は、東京大空襲で焼失したので、ここに移されなかったら、現存していなかったことになる。

鐘楼の奥、壁際に六地蔵があるが、銘はなく、由緒は不明。

その左隣の地蔵3体のうち、右2体は、寛永寺裏手の浄名院八万四千體地蔵の内の2体。

中央の大きい立像には「八万四千體之内/第五千七百番」とある。

 

本家の浄名院の石仏群は、石が柔らかいせいか、崩れ落ちているものが多い。

この地蔵は、そうした心配もなく、保存状態は完璧。

石仏巡りをしていると浄名院の八万四千体地蔵に思わぬところで出会うことがある。

去年は、三重県津市の寺で出会った。

八万四千体地蔵の左隣の大きな瓦は、かつての根本中堂の鬼瓦。

高さ248㎝、横幅325cmと説明板にある。

鬼瓦の隣は、聖観音立像。

まるで丸彫りのように、彫りが深い。

柔らかい微笑みが素晴らしい。

像の右に「当山学頭第四世贈大僧正慈海」とあり、左に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三十世」とある。

この墓は、もと上野公園陵雲院墓地にあったが、都の文化会館建設のため、昭和32年、現在地に移された。

慈海僧正は、学僧として有名で、著書多数。

川越喜多院、上野陵雲院、比叡山西塔を兼務執行していたと資料にはある。

 

慈海僧正の墓の前には、尾形乾山の墓と顕彰碑がある。

しかし、これは写し。本物ではない。

尾形乾山は、光琳の弟。

画の他、書、茶道にも通じ、陶芸も能くした、いわば天才。

京都で作陶生活をしていたが、正徳年間、(1711-1716)寛永寺住職となる輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に移り、入谷に窯を開いた。

寛保3年(1743)死去、81歳だった。

墓は下谷坂本の善養寺に設けられたが、上野駅建設のため善養寺が西巣鴨に移転することになり、(以下は顕彰碑の文面より)

明治四十四年、鉄道上野駅拡張の事あり。善養寺一帯取り払われ、寺は西巣鴨に移され、寺内所在の乾山の墓も移さるることとなりしを、(中略))寛永寺の旧地に両石(墓と顕彰碑)をさながらに写して打ち立てここも亦乾山縁故の地たることを後昆に伝うるものなり

墓には、乾山の辞世の句が彫られている。

放逸無慙八十一年一口呑却沙界大千
 うきこともうれしき折も過ぬれば
 ただ阿けくれの夢ばかりなる
          雲海深省居士

昨日(7月21日)、今年初めてセミの声を聞いた。

他に先んじて、土中から現れたセミの抜け殻が、墓にしっかりしがみついている。

時流に先んじて異端だった男の墓に相応しい光景です。

 

左隅の石碑は「了翁僧都道行碑」。

私は了翁僧都を知らなかったが、石碑が亀趺(きふ)に乗っていることから、教育や福祉に尽力した大物文化人であろうことは推測できる。

中国では、古来、亀は万年の命として尊重された。

石碑もこれを亀の上にのせれば、未来永遠に崩れることなく存立するものと考えられた。

亀趺(きふ)が普及した、これが理由です。

中国では、亀趺に乗る行状碑の対象人物は貴族以上に限定されていた。

その決まりは、日本にも持ち込まれ、了翁僧都の顕彰碑が亀趺に乗っているのは、当然のことです。

しかし、この地が寛永寺境内であることを考えると疑問がわいてくる。

歴代徳川将軍の墓や顕彰碑は、亀趺に乗っていて当然なのに、亀趺碑は皆無、1基もありません。

徳川家でも水戸家の墓地には、亀趺が林立しているそうですから、なぜ、寛永寺と増上寺の霊廟に亀趺がないのか、ナゾです。(当ブログ「NO35亀趺」をご覧ください)

了翁僧都をWikipediaで検索、あきれるほどの偉人であることを確認したが、碑文からも一部その人となりを引用しておく。

その白(白衣=俗人)を脱して沙門となりしより、即ち大乗の心を発し、菩薩の行を行ず。戒律を精持し、威義を失せず。風をくらい、露に宿る。己をもって憂えず、ただ仏法の大いに世に興らず、而して世の僧俗にして尽く仏祖の大法をそらんずること能わざるを憂う。すなわち武陵の東叡山に乞いて勧学講院をはじむ。正中に経蔵を築き、以て三蔵の聖教を貯う。・・・・」

亀趺の隣に僧形の座像がおわす。

説明が何もないけれど、了翁僧都その人ではないか。(社務所で確認したらその通りとの返事)

 中央の平べったく高い石碑は「上野戦争碑記」。

上野戦争を彰義隊の立場で回顧したもの。

明治7年に建立計画が成立し実施に移す直前、新政府により中止命令が出て頓挫したものを、明治45年にそっくり建立し直したという曰く付きの碑。

全文白文の長文だが、読み下し文にした資料があるので、転載しておきます。

慶応4年(1868)、戊申正月、伏見の変(起る)。前大将徳川公(慶喜)江戸に帰り、罪を上野(東叡山寛永寺子院大慈院)に待つ。この時に当たって城中(江戸城)紛糾し、議論沸騰す。
老成者いわく、すでに罪を皇室に得、今又兵を出だして担ぎ戦うは是れ其の罪を重ねるなり。恭順して詔命を待つに若かずと。少年の者は皆いわく、今日謂うところの詔命(天皇の命令)は宸衷(陛下の御心)出づるにあらず。乃ち是れ二三幕臣の為すところ(なり)焉んぞ主家の為に冤を雪ぎ、後(後継者))を立つるを請はざるや。苟も命を得ずんば乃ち死あるのみと。悲憤激烈言々人を動かす。余も亦之に賛(成)し、同志諸氏と四谷円応寺に會して謀議す。既にして浅草本願寺に移り、遂に上野東叡山に屯し、将に請う所あらんとす。衆、余をして隊名を撰ぶばしむ。余曰く、大義を彰明するはこの一挙に在り。彰義となさんと欲す。皆曰く善しと。
是において四方より来会するもの日一日よりも多し。十二隊を得。曰く遊激、曰く歩兵、曰く猶興、曰く純忠、いわく臥竜、曰く旭、みな幕府の士なり。曰く萬字、関宿の藩士、曰く浩気、小浜の藩士、曰く高勝、高崎の藩士、曰く水心、結城の藩士なり。首領を立て約束を申べ、分かれて山中の寺坊に屯す。
この時に当たって官軍すでに江戸城にあり。命を伝えて解散せしむ。使者三たび反り、竟に聴かず。
前大将軍水戸に移る。因って輪王寺宮法親王、(公現法親王、後の北白川宮能久親王)
奉じて益々素志を達せんと欲す。官軍その屈強すべからざるを知るや遂に攻撃の議に決す。
初め寛永(年)中、徳川氏、根本中堂を上野に建て、寛永寺と称す。輪王寺宮世々これを管(領)す。金碧熒煌、観美を窮極す。吉祥閣その前に屹立す。環らすに三十六坊を以てし、比叡山に擬し、因って東叡山と称す。地勢爽塏(そうがい)西、不忍池に臨み、東南は下谷に接し、西北は根岸、三河島の諸村に連なる。而して埤堞(ひちょう)の據って(よって)以て守るべきなし。
乃ち急に市民を募集し、木石を運び、塁を築き柵を植う。市民、争って来たり役に就く。巨砲を山王台に置き、以て東南に備う。
山門すべて八、南を黒門と云い、広小路を控う。我が隊、歩兵万字の二隊を率いて守る。東を真黒門と云い、車坂門と云い、屏風坂門と云い、坂本門と云う。この間一帯、丘を負いて市に面す。我が隊、純忠、猶興、遊撃の諸隊(にて)守る。別派の一隊、分かって啓運、養玉の二寺に陣す。西を穴稲荷門と云い、神木、浩気の二隊(にて)守る。清水門と云い、谷中門と云うは、歩兵、臥竜、旭、松石の諸隊(にて)守る。部署既に定まる。乃ち市民に命じ避去せしむ。
去る五月十五日未明、官軍来たり襲う。初め我が兵、山中にあるもの三千余人、事、倉卒(にわかに)出づるをもって、外にあるものは途梗(道路がふさがる)して入ること能わず。また怯恇(きょきょう)遁走するものあり。その留まって拒ぐ(ふせぐ)もの、僅かに千人なるべし。急に命を諸隊に伝え、各々その処を守らしむ。
鹿児島、熊本藩の兵、呼噪 (こそう=さけびさわぐ)して広小路より進み、先ず南門を攻む。我が兵、銃を叢め斉しく発す。官軍辟易す。たまたま、鳥取藩兵の湯島台にあるもの,火を天神別当喜見院に放ち、不忍池の南に沿いて来たり二藩と合し、兵勢漸く加わる。我が山王台の兵、巨砲を発してこれを拒ぐ。少しして火、二か所に起り、煙焔天に張る。津藩の兵、竹町より進むもの、山下の酒楼に登り、簾を埤(ひく)めて狙撃す。我が兵、裡てこれを走らす。
時まさに梅雨、泥濘膝を没す。市民、荷擔して亡(に)ぐ。〇仆困頓、号泣、路に盈つ。而して来りて我を助くるものも亦少なからず。
萩、岡山、大村、佐土原、津、名古屋(等の)六藩の兵、本郷より進んで西門を攻め、先づ我が兵の根津の祠に屯するものを撃ち、突進して直ちに三崎に至る。この地、丘阪高低、道路狭隘、加うるに霖潦(長雨)をもってし、踏趄(行きなやむ)進むこと能わず。我が兵、高きに據り、縦に撃ち、北(に)ぐるを追うて薮下に至り、伏兵に遭いて潰ゆ。根津の南に水戸、富山、高田の藩邸あり。池を隔て、東叡山と相対す。差が、岡山、熊本、佐土原、津、名古屋の諸藩の兵これに據り遥に銃砲を放つ。また一隊を遣わし舟を泛べて水を渡り、来たって穴の稲荷門に逼る。我が兵、善く柜ぐ。徳島、鹿児島、岡山、新発田、津、彦根の諸藩の兵来たり東門を攻む。我が兵、最も少なし。啓運寺の兵、邉え撃ちてこれを走らす。北(に)ぐるを追うて御徒町に至る。官兵、反(そり)戦う。我が兵、且つ戦い、且つ退く。養玉院の兵出て゛て援けてこれを挟撃し、官兵、敗走す。この時に当たって東西南の諸門、皆囲いを受く、我が兵、奮闘す。一人百人に当たらざるはなし。その最も激しき者を南門の戦いとなす。晨(あさ)より午に迄(いた)り、勝敗いまだ決せず。未牌(午後二時)津の藩兵の南門を攻むる者、遷(めぐ)つて山下に出で、肉薄して乱射す。我が兵稍阻む。官兵、勝に乗じて将に南門に入らんとす。我が兵、撃ちてこれを走らす。而して鹿児島、佐賀、鳥取の藩兵、代わって進み、攻撃甚だ急なり。我が兵、死傷相い踵(つ)ぐ。新黒門初めて守りを失う。諸門ついに敗る。是において官兵、三面より斉しく入り、山(東叡山)を奪いて火を放つ。
余、初め難問にありて拒ぎ戦う。敗るるに及んで隊士百人と退いて中堂の前に至る。殊死(死を決して)して戦う。たまたま、火、堂宇に及ぶ。吉祥閣むまた黒煙、猛火の中にあり。天地ために震い、山河ために動く。而して官兵充塞(ふさがる)してまた拒ぐべからず。すなわち走って法親王に謁せんと欲す。親王既に遁(のが)る。之に跡して三河島に至り、ついに追いおよぶ。王、納衣草履、唯一僧のみ従う。余等伏して生死相従わんことを請う。侍僧の曰く、王、将に会津に赴かんとす。卿等去って後図(のちのはかりごと)をなせと、衆みな涙をふるって散ず。
後、一、二年、海内すでに定まる。諸の罪を得るもの赦されて故郷に帰る。余も亦万死を出でて一生を得、当時を回顧して深概に堪えざるものあり。よってその顛末を録することかくの如し。
  明治七年申戌五月
        幕府の遺臣阿部弘蔵撰 清蘇州費廷桂書

 

 

 

 

 

 

 

 


130上野公園の石造物(6)

2017-08-27 06:39:06 | 公園

輪王寺は、国立東京博物館の東隣にある。

山門を入る。

「輪王寺」よりも「両大師」の表示が圧倒的に多い。

「両大師」は、「輪王寺」の俗称。

本堂である開山堂に、寛永寺開山の慈眼大師(天海)と比叡山中興の慈恵大師(良源・元三大師)を併せ祀っていることから「両大師」と称されている。

本堂が新しいのは、平成元年(1989)の火災で焼失したものを平成5年(1993)に再建したから。

全焼したのだから、大ニュースだったはずだが、私の記憶にはない。

50歳になったばかりで、仏教とか寺院にまるで無関心だったからだろう。

境内を歩くのは外国人ばかりで、日本人の姿はない。

いかにも今(2017年)の上野らしい光景ではある。

開山堂に向かって右にあるのは、阿弥陀堂。

阿弥陀如来の脇侍は、お地蔵さんと虚空蔵菩薩。

阿弥陀堂に対面するように覆い屋があって、石仏地蔵が2体おわす。

その隣の銅塔は、法華塔。

本堂前の青銅灯籠は、大猷院(家光)霊廟に奉献されたもの。

本堂に向かって右へ行く小径を行くと「輪王殿」なる会館へ出るが、その小径の右側に井戸と鐘楼がある。

井戸は石柱で蓋をされていて、中を覗けないが、刻字は読み取ることができる。

謹みて
 東叡開山の廟前に
 追孝の善縁に擬す
 夫れ漢水の潔きは仏心清浄の徳を表し
 法雲の勧頂は妙法を断たざらしむ
 時正保二年辛酉十月二日 弟子晃海

 晃海は、天海の弟子で、天海没後東叡山の元老として活躍した僧という。

 上野公園での井戸といえば、清水堂の「清水観音の井戸」が有名だが、上野の山には、数多くの井戸があった。

埋立地の江戸の町は、水の苦労が絶えなかった。

そうした中で、上野山だけは、水に恵まれた場所だった。

寛永寺敷地内には、いくつもの井戸マークがあり、各将軍の霊廟前にも必ず井戸があったといわれている。

東照宮には2か所、ほかに点在する茶店にも、商売上、つるべ井戸が不可欠だった。

 井戸の奥の鐘は、慈眼大師天海大僧正を師と仰ぐ家光公が奉献したもの。

本堂と輪王殿のしきりにある木戸は、下谷にあった幸田露伴邸から移築したもの。

露伴の代表作『五重塔』の主人公「のっそり十兵衛」は、寛永寺根本中堂を手掛けた大工の棟梁がモデルだったといわれている。(台東区教委の説明板より)

輪王殿前の門は、寛永寺旧本坊表門、国指定の重要文化財です。

江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、「東叡山の山王である」輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は3500坪(約1.5ヘクタール)という壮大なものであったが、慶応4年(1868)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。これはその焼け残った表門である。明治11年、帝国博物館が開館すると、正面として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。


門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく藥医門である。なお、門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦争の激しさがうかがえる。」(台東区教育委員会)

 輪王寺(両大師)の裏手は、寛永寺子院が立ち並んでいる。

 

 地図を上下に動かして見てください。

輪王寺(両大師)は、下部にある。

           現龍院

            等覚院

            覚成院

           修禅院

           春性院

            泉龍院

            吉祥院

            福聚院

          東漸院

           元光院

     林光院

           寒松院

寒松院は、伊勢津藩主藤堂高虎の戒名「寒松院殿道賢高山権大僧都」からとったもの。

藤堂家の屋敷は、今の動物園と東照宮にあったが、東照宮建立にあたり、屋敷を献上、東照宮の別当として寒松院を建てた。

このブログ「上野公園の石造物(5)」では、上野動物園内にある藤堂家の墓所の五輪塔群について触れている。

法名寒松院に関しては、家康を慕う高虎の心情が読み取れる有名な逸話がある。

元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。Wikipediaより。

 

 

            真如院

            見明院

             本覚院

本覚院には、延岡藩主でキリシタン大名の有馬直純の供養塔がある。

本覚院は、江戸期には山王台にあって、当時はこの供養塔の周りには12基ものキリシタン地蔵があったという。

現在地へ移る際、そのうち10基は、国立博物館に預けたことになっているそうだが、博物館の所蔵リストには見当たらず、行方不明。

境内の地蔵といえば、下の写真のお地蔵さんしかないが、これがキリシタン地蔵なのだろうか。

 本覚院の道を挟んで反対側には、寛永寺子院の墓地が広がっている。

施錠されていて、入れないので、こんなことを書いても無意味だが、中に家光に殉死した4人の大名の墓がある。

大名の家来の家来まで殉死したのだとか、太平の世と云われる家光の時代としては珍しい事件だったのではないか。

戦乱の世を生き抜いてきた藤堂高虎は、自分の死に殉ずる希望者が家臣に数十人もいることに愕然としたという。

わずかな年代の違いだが、家康の時代と家光の時代とでは、様変わりしていたことが分かる。

これら殉死者の墓がこの地にあるのは、家光の霊廟が上野にあるからなのだが、日光の大猷院殿の傍らにも4人の名を刻んだ石碑があるという。

 

墓域前の石塔「悲しみの東京大空襲」は、落語家・林家三平の妻、海老名香葉子さんが2005年に建立したもの。

毎年3月9日には、大勢が参加して、慰霊供養が行われている。(当ブログ「NO61東京大空襲関連の石仏・石碑」http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=237c42fed0294113e6ca8fd6e56ffd4b&p=7&disp=30をご覧ください。

 ここから上野駅方向に向かい、輪王寺角を右折、国立東京博物館へ。

石造物ではないが、2、3紹介しておきたいものがある。

一つは、ジエンナー像。

正門を入って右へ50mに立つ青銅像。

大日本私立衛生会が明治36年に建立したもので、なんと「種痘医祖善那君像」と刻されている。

台座の銘文も、いかにも明治調。

是に種痘医善那君の像をつくる。君は英国の人、良医を以て名あり。特に時に痘瘡の世に禍いするを患ひ、牛の痘種法を創む。西暦千七百九十八年に至り、初めて之を世に公けにす。その方流、各国に伝はり、五十余年を経て、我が長崎に入る。実に嘉永二年なり。遂に遍く海内に布く。さきに代日本立衛生会、君が像を鋳て以て徳を表はさんと謀る。朝野の人士、翕然として賛助す。東京美術学校に託して鋳造す。今ここに明治三十七年六月、官のゆるしを得てこれを帝室博物館の側に建つ。ああ民寿の域を躋(のば)す恵沢、すなわち記し以て後に告ぐ。 大日本私立衛生会 献納」

 文面が格調高く、激しいものだけに、忘れ去られたかのように、ポツンと所在なさげに立つ像のわびしさはひとしおです。

東洋館への道の両側には、石造物もある。

18-19世紀の、朝鮮の「文官」と「羊」。

場所が分かりにくいが、資料館裏手の校倉もお勧め。

日本最小の校倉で、鎌倉時代の遺構。

奈良の十輪院にあったが、寺が衰えて修理が出来なくなり、明治15年(1882)、ここに移したもの。

本来は大般若経六百巻の収蔵庫で、内部には、釈迦、十六善神、四天王の壁画がある。

床下はめ込み石に線刻されているのは、十六善神。

最後に、小泉八雲胸像。

立っているのは、子ども図書館の前だが、子ども図書館はかつては帝国図書館だったから、当を得ているというべきだろう。

胸像の上に幼児7人が壺を囲んでいるが、子ども図書館とは無関係。

正面には「小泉八雲先生」と刻し、左右側面には「文は尽す人情の美」、「筆は開く皇国の華」とある。

背面の書は、市河三喜の手になるものだが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、東大英文科の初代教授だった。

ちなみに二代目教授は、夏目漱石。


130上野公園の石造物(5)

2017-08-15 08:59:47 | 公園

右に上野大仏、左に時の鐘を見て進む。

突き当りを右折すると眼前に巨大な灯籠が現れる。

「お化け灯籠」です。

高さ約7m、胴回り3.6m。

大きいから「お化け灯籠」というのだが、いや、実際にお化けが出るのだという説もある。

落語家の三遊亭金馬が『うえの春秋』で紹介している説で、落語家らしい語り口を損なわないために、原文をそのまま引き写しておきます。

その頃徳川家へおべっかを使うには、十万石以上の大名でないと石灯籠は納められない。この佐久間さん(佐久間大善享平朝臣勝之)はわずか1万八千石。「そんな民主主義に反する事のあるべきや」と無理をして、その人たちより特別大きいものを納めたので、切腹仰せつけられ、有難くお受けして相果てたが、地獄へ行ってつくづく考えると有り難くない。夜な夜なこの灯籠の影へ化けて出て、通る人をポン引きのような手まねぎをしたので一名「お化け灯籠」。(須賀利夫『うえの春秋』P360)

 

お化け灯籠から左に目を移すと「上野東照宮」の大鳥居が目に入る。

「上野東照宮」は、寛永4年(1627)、藤堂高虎が僧天海と相談して、庶民が参詣できる権現さまをとこの地に創設した。

この大鳥居は、厩橋(高崎)藩主酒井雅楽頭源朝臣忠世が寛永10年に寄進したものだが、左の柱の背面に「奉再建之 享保十九年(1734) 酒井雅楽頭源朝臣忠知」の文字がある。

100年後に大鳥居はなぜ再建されたのか、大河原久弥『上野繁盛史』では、「故あって一時地中に埋められ、再び元の位置に建てられた」としか書いてなく、その理由は不明のままです。

ここで再び登場するのが、三遊亭金馬師匠。

なんと、鳥居は島流しになっていたというのです。

4月17日が東照宮のご命日で、代々の将軍がお成りになった。霊廟の入口の鳥居が十年間佐渡へ島流しになった問題の鳥居で、将軍お成りの前日、この鳥居のツカが落ちた。何か謀反があるのではないかと石屋を取り調べたが証拠はなく、無罪。ではこの鳥居が悪いというので遠島にされ、寛永十年に許されて元のところへ戻ってきた。鳥居を納めた人は、落語「三味線栗毛」で有名な「酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)」。ウタが乗る馬だからと持ち馬を三味線栗毛と名付けた。洒落た殿様である」。須賀利夫『うえの春秋』P360)

私の田舎は佐渡だが、東照宮の鳥居が流されてきた、なんて聞いたことがない。

果たしてそうした史実はあったのだろうか。

 

今回のタイトルは「上野公園の石造物」だが、石造物が沢山あるわけでもなく、石造物以外のものも取り上げてきた。

タイトルに偽りあり、でいささか後ろめたいが、ここ上野東照宮に限っては、胸を張って威張っていられる。

なにしろ石灯籠が280基もあるからです。

この280基もの石灯籠は、三代将軍家光が本殿を造営替えした慶安4年(1651)、全国の大名から寄進されたもの。

竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名、奉納年月日が刻されている。

石灯籠の火袋が黒ずんでいるのは、関東大震災で落ちた火袋を、避難民がかまど代わりにして煮炊きしたからだといわれている。

上野戦争や東京大空襲の戦禍を免れているので、火災の跡でないことは確か。

 

竈代わり説は、信ぴょう性が高そうだ。

石灯籠280基のうち、25基は元々大阪建国寺にあったもの。

大阪に幕府の睨みをきかせるために、天満に東照宮が建てられ、その別当として、建国寺が設けられます。

幕末、徳川嫌いの大阪人により、東照宮と建国寺はめちゃくちゃに荒らされるのですが、その事態に胸を痛めていた有志が石灯籠100基のうち25基を上野東照宮に送ってきたのでした。

池の端からの石段を上がっての参道左に建つ「重建石灯」碑にその経緯が刻されている。

 

石造物ではないが、青銅灯籠も50基ほどある。

奉献は、石灯籠と同じ東照宮社殿落慶の日、慶安4年4月17日。

灯籠だから照明用と思うが、神事、法会を執行するときの浄火を目的とするもの。

上から、宝珠、笠、火袋、中台、竿、基壇と重なっている。

青銅灯籠奉献者は以下の25人。

徳川頼宣(紀州)、徳川頼房(水戸)、徳川光義(尾州)、伊達忠宗(仙台)、松平光通(越前)、池田光仲(因州)、浅野光晟(芸州)、松平民部大輔(防長二州)、藤堂高次(伊勢)、森長継(美作)、細川六麿(肥後)、保科正之(会津)、黒田忠之(筑前)、池田光政(備前)、井伊直孝(近江)、前田利家(加賀)、松平直政(出雲)、松平光長(越後)、島津光久(薩摩)、佐竹義隆(出羽)、蜂須賀忠英(阿波)、有馬忠頼(築後)、上杉実勝(奥州)、松平忠義(土佐)、鍋島勝茂(肥前)

一人、一対で計50基になる。

基壇の獅子が鋳物師によって異なり、面白い。

 

本殿前に絵馬が重なるようにかけられている。

英語あり、ドイツ語あり、中国語あり、国際色豊かだが、日本の神様だからか、外国人も日本語で書く人が多い。

日本語で書いたからからと云って「日本の女子と付き合えるように」という台湾人の願いを権現様は聞き届けてくれるとは思えないが。

 

 参道の行き止まり、本殿前の右側に句碑が3基。

川柳もあるようだ。

手前から

乱世を汲まむ 汲む友あまたあり 三柳

盃を挙げて 天下は廻りもち 周魚

富貴には 遠し年々 牡丹見る 鉄之介

句碑の後ろは、動物園で、五重塔がそびえている。

五重塔は、国の重要文化財。

寛永16年(1639)に建立され、上野戦争、関東大震災、東京大空襲の災禍にもあわず、、江戸初期の建築様式を今に伝えています。

東照宮所属の五重塔は、明治の神仏分離令で破壊される運命にあったものを、当時の宮司の機転で、寛永寺所属として申請、取り壊しを免れます。(現地説明板より)

下の写真は、動物園に入って、撮ったもの。

動物園に五重塔があるとは知らなかった。

知らないといえば、動物園には、この地に下屋敷があり、上野東照宮の別当寒松寺を創建した藤堂竹虎の墓があることは、ほとんど知られていない。

戦争中餓死した動物の慰霊塔の背後にめぐらされた柵の上にちらっと見える五輪塔がそれ。

柵の間から見るとその数の多さに驚く。

周囲が賑やかなだけに、隔離され、忘れられた遺跡の孤立感が際立っている。

動物園を出て、東進すると右手の空き地奥に「グラント将軍植樹碑」がある。

アメリカ大統領を辞めたばかりのグラント将軍は、明治12年(1879)来日した。

ここ上野公園での歓迎会で、将軍は、ローソン檜を、夫人は泰山木を記念に植えた。

約140年後、2本の記念樹は大木となっているというが、植物に無知、無関心の私には、どれがその記念樹なのか、特定できない。

グラント将軍植樹碑を背に北上、大噴水の左の木陰に説明板があって、「寛永寺根本中堂跡」と読める。

江戸時代、言上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。いま噴水池のある一体を、俗に「竹の台」と呼ぶ。

そこには回廊がめぐらされ、勅額門を入ると根本中堂が建っていた。根本中堂は寛永寺の中核的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安してあった。(中略)

中堂前両側には、比叡山延暦寺中堂から根分けの竹が植えられ、「竹の台」と呼ばれた。慶応4年(1868)、5月15日、彰義隊の戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。(台東区教育委員会)」

木立に一人、老人がポツネンと座している。

浮浪者だろうか。

1990年代、この辺りはブルーテントが密集していたのを想い出す。

問題が多発するから行政はテント村を排除したのだが、私はブルーシート村のある上野公園が好きだ。 

 

ボードワン博士像と刻されているが、ボードウインが正しいらしい。

上野公園生みの親としてられている。

上野戦争で荒廃しきった上野山に大学病院建設計画が持ち上がり、現地視察に来たオランダ軍医のボードウイン博士は、病院よりも公園建設を熱心に勧めた。

いまは、イケメンの青年像だが、11年前建て替えられる前は、中年の外国人像だった。

この中年男性は、ボードウイン博士の弟で、建像に用いられた写真が間違っていたのだという。

この話を聞いて、私が不思議でならないのは、「誰がその間違いにきづいたのだろうか」という疑問。

そして、150年前の人物像が兄弟の取り間違えだからと分かって、銅像を建て直す人たちがいることにも驚く。

 

 

 


130上野公園の石造物(4)

2017-08-05 14:04:59 | 公園

近年、外国人観光客は増える一方だが、彼らの人気スポットの一つが京都の伏見稲荷。

朱色の千本鳥居が強烈な異国情緒を放つらしい。

稲荷神社は全国に展開していて、中にはミニ千本鳥居がある神社もある。

上野公園の花園稲荷神社もその一つ。

千本鳥居ならぬ「百本鳥居」があって、カメラを構える外国人が後を絶たない。

最近は「パワースポット」なる言葉が流行っている。

この花園稲荷は縁結びのパワースポットとして、特に未婚の女性に人気が高いのだそうだ。

絵馬が掛かっている。

定番の「〇〇さんと結婚できますように」が多いが、「運命の人、小泉進次郎さんと結婚できますように」と書いた絵馬がある。

政治家は、大変だな、ってつくづく思う。

英語や中国語、ハングルの絵馬が、外国人観光客の増加を反映している。

神社本殿の前に通路が伸び、その左に鳥居が見える。

鉄柵の扉があるが、中へ入れそうなので、入ってみる。

突き当りの壁に「穴稲荷」の説明板がある。

正しくは忍岡稲荷と云い花園稲荷の旧跡である。左奥のお社は、寛永の初め天海が寛永寺を草創の際に忍ケ岡の狐の住処を失った事をあわれみ一洞を造りその上に祠を建てて祀ったものと云われている

突き当りの祠が説明された穴稲荷のようだ。

この穴稲荷の洞窟には、もう1か所横穴が掘られていて、ここが奥の院。

鉄柵でふさがれて、中を覗いても暗くて何も見えないが、資料によると石碑が1基、収められているという。

非公開なので誰も見ることはできないのだが、幸い資料が手元にあるので、転載しておく。

東叡山中、西岸の池の辺、昔、一祠あり、伝えて曰く、稲荷神宮と。ただその跡あり。宮社廃絶す。予、霊夢により、まさに再興せんとしていわく、すなわち巌窟の中に、新たに金銅の神体を納め、かつ宮祠を造り、もつて当山の擁護に擬す。霊神に祈りていわく
天下清平 仏法安寧
諸願如意 永劫妙霊
時承応甲午三年(1654)仲冬十一月吉日  権僧正法印晃海」 (原文は漢文)
               古宇田亮宣『上野公園およびその周辺の諸銘碑』より

     穴稲荷の中から外を見た風景

花園稲荷神社を出て左へ。

「精養軒」にぶつかるが、そのレストランに向かって左の崖上に「時の鐘」がある。

「花の雲 鐘は上野か浅草か」芭蕉

芭蕉の有名な句の、「上野」の鐘はまさにこの鐘を指す。

実は「上野の鐘」は二つあって、もう一つは寛永寺本堂前にあった。

こちらは法要用の鐘で、幕末の上野戦争で寛永寺が砲火に包まれた時、焼失した。

時の鐘は、2時間おきに時報を告げていたが、今は、朝夕6時と正午の三回、昔ながらの音を響かせている。

鐘の銘は

東叡山大銅鍾
 天明七丁未歳八月(1787)
 一切衆生 悉有仏性
 如来常在 無有変易

経文は涅槃経から撰んだ2句。

鐘に近寄れないので、経文や菊花紋の写真はない。

 

上野公園に大仏があることを知らない人が多い。

しかもその大仏の売り文句は、「顔をなでることができる」。

大仏といえば、誰もが、奈良や鎌倉の大仏を思い浮かべることだろうから、「顔をなでられるって、どういうこと?」といぶかるに違いない。

行ってみれば分かるが、大仏の顔だけがある。

かつてこの地は、越後村上藩主の屋敷だった。

寛永寺草創の直後、藩主は屋敷内に大仏を建立する。

火災や地震で何度も倒壊したが、その都度再建されてきた。

しかし、関東大震災で首が落下した際は、資金が集まらず再建されなかった。

そうこうするうちに昭和15年(1940年)、胴体部分が軍需金属として軍に供出されることになり、結果として、大仏は頭だけを残すことになった。

売店を覗く、と「合格祈願」のお守りだらけ。

「もうこれ以上、落ちることはない」からと、受験生に人気が高いのだそうだが、私には、浪人にしか祈願資格がないように思える。

「もうこれ以上落ちることはない」ということは、一度以上落ちた人の言葉だから。

 

大仏からの戻り路、お地蔵さんが立っている。

上野公園で唯一のお地蔵さんではないか。

地蔵の背面にも台石にも文字は見られないので、由緒は不明だが、対面の宝篋印塔は、対照的に文字があふれている。

関良雪という新人深い画家の懇願を受けて、彼の死後、この地に宝篋印塔を建て、陀羅尼を安置した経緯が刻されている。

資金提供者に関良雪の妻浄因の名前がある。

 珍しいのではないか。

 

 

 

 

 

 


130上野公園の石造物(3)

2017-07-25 11:56:38 | 公園

 

清水観音堂から東へ。

漢文がびっしり彫り込まれた石碑が2基、その右に朝鮮服の男性の線刻画がある。

石碑の前に「王仁博士の墓」の標柱。

私は、王仁博士を知らないので、以下はWikipediaからの引用です。

 「王仁(わに、生没年不詳)は、百済から日本に渡来し、千字文論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である[1]。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した中国人であるとされ、この場合姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解があるが、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する。」。

同じWikipediaによれば、王仁は、韓国では「日本に進んだ文化を伝えた韓国人」と教えられている、という。

顕彰碑の周囲に屯していた観光客に記念写真のシャッターを押してくれるよう頼まれたが、そういえば、言葉は韓国語だった。

韓国人の上野の観光ガイドには、王仁顕彰碑は観光スポットに入っているのだろう。

日本人が王仁を知らな過ぎることに、ショックを覚える韓国人も多いという報道もある。

 

さらに東寄りにあるのが、「慈眼大師毛髪塔」。

中央の高い円柱には「帰命東叡開山慈眼大師 贈大僧正法印大和尚位」。

毛髪は、この円柱の真後ろの五輪塔火部に収められているという。

文字からしても、収めてあるのは慈眼大師の毛髪だと思うのだが、坊主の毛髪など存在するのか、不思議でならない。

ネット検索で「慈眼大師」の画像を探したら、こんな写真があった。

毛髪などとんでもないことになる。

では、「慈眼大師毛髪塔」はどう解釈するのだろうか。

一説では、毛髪はやんごとなきお方のもので、それを慈眼大師が大切に収め、保存したというもの。

慈眼大師天海にとってやんごとないお人といえば、家康、秀忠、家光になるが、その誰かは特定できないらしい。

「坊主の毛髪なんておかしいだろう」、そんな素朴な疑問から発したいちゃもんみたいなもんで、その真相にはあまり興味がないから、これでジエンド。

ここでいったんバック、「上野恩賜公園」の標石まで戻る。

先ほどは、右手の幅広い石段を上ったが、今度は左の道を行くことに。

元々は石段はなく、崖地だった。

だから上野公園への入口は、左の道だけだったことになる。

道の左端に腰掛けるに丁度いい石が並んでいると思ったら、手形群だった。

なんでも国民栄誉賞受賞者の手形ばかりだそうで、全部で12人分。

ただし、うち2人は手形ではない。

二人というのは、植村直巳と吉田正。

手形は、受賞順に並んでいる。

      王貞治

       古賀政男

 

長谷川一夫

 

植村直己

       山下泰裕

       衣笠祥雄

       美空ひばり

       千代の富士

       藤山一郎

       服部良一

       渥美清

        吉田正

       高橋尚子

2000年受賞の高橋尚子までの12人の手形とサインが並んでいるが、なぜか長谷川一夫、長谷川町子、黒澤明がない。

なお、これ以降、遠藤実ら8人と1団体が受賞している。

 

左に手形群を観ながら進むと大きな石碑にぶつかる。

一めんの花は碁盤の上野山
 黒門前にかかる白雲 蜀山人」とある。

蜀山人は、別号、太田南畝。幕臣だったが、狂歌をよくし、漢学・国学にも通じる博識家。江戸文人の典型と称される。

碑の傍らの台東区教委の説明板には
江戸時代、上野は桜の名所だった。昭和13年、寛永寺総門の黒門跡にその桜と黒門を詠みこんだ蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷土食豊かな建碑といっていい、と書かれている。

蜀山人紹介と建碑事由が裏面に刻されているので、転写しておく。筆者は、山田孝雄氏

「蜀山人本名は大田直次郎幕府の徒士なり。名は覃字は子耜、号は南畝、又杏花園、四方赤良、蜀山人、桜山人の号あり。文政6年没す。寿75。人となり孝友能吏の誉あり。心事括淡才俊に学博く文を能くし詩藻沸くが如し。狂歌は余技に止むれど天明調の牛耳を執り古今独歩と称さるる。上野の花を賛せる此歌は蓋し立圃の文に基く所あらむ。古典保存会幹事七条愷翁多年此花と生を共にし縁きわめて深し。近時この自筆の詠を得て大いに悦び之を石に寿し黒門の址に建て以て記念とせんを翼ふ。当局其心を嘉して之を聴す。皆一に此花を愛するによる。 昭和13年4月」

 蜀山人碑を通り過ぎると、すぐ右側に清水観音堂が見える。

草木に覆われて下半分は見えないが、立っている石碑は「黒門の由来」碑。

黒門は東叡山寛永寺の総門として寛永二年(1625)創建されたが、門前の上野広小路一帯が江戸でも指折りの繁華街となり、門名に因む町名まで生まれたため、東叡山八門中もっとも著名となった。明暦、元禄、享保、明和の大火ごとに類焼しては再建された。明治維新史に有名な黒門口の激戦(1868)ではこの門に拠る徳川方の彰義隊めがけて官軍の砲火が集中された。昭和39年(1964)住居表示により広小路一帯が上野一乃至七丁目と改称された結果、黒門に因む町名は全部消滅し、かつ五代目黒門の腐朽も著しくなったので、(中略)遺跡に近い当所にこの六代目黒門を建てた。桧材の肌に点々とみられる凹みは、96年前の激戦の際、旧黒門に印された弾痕を忠実に模刻したものである。
          昭和39年秋 上野黒門復元委員会 委員長 長野浩市謹著
 

昭和39年に復元して建てた黒門は、今はない。

復元黒門用と思われる基礎石が「黒門の由来」碑下にあるだけ。

石碑では「五代目黒門の腐朽が著しくなったので」ここに「六代目黒門を建てた」とあって、五代目黒門の所在には触れていない。

素直に読めば、五体目黒門はこの地にあったように感じるが、実は、五代目黒門は、荒川区の円通寺に今もある。

      円通寺に保存されている黒門

五代目黒門は、上野戦争の弾痕生々しい本物を移築したもの。

その本物黒門が現存するというのに、昭和39年建造、53年前の六代目黒門がないというのはなぜか。

              写真は『上野繁盛史』より

写真を見る限り、しっかり再建されているように見える。

では、どうしてここになくなったのか。

どこに移築されているのか。

台東区教育委員会に問い合わせて判明したのは、昭和39年再建の比較的新しいものであるにもかかわらず、老朽化が著しく、取り壊した、というものだった。

 

 

 

 

 


130 上野公園の石造物(2)

2017-07-15 05:58:36 | 公園

◇清水観音堂

清水観音堂について、私の知識は皆無。

以下は、説明版の丸写しです。

清水観音堂(国指定重要文化財) 台東区上野公園1番29号

清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永八年(1631)に創建した。当初現在地より100メートル余り北方の摺鉢山上にあったが、元禄7年(1694)、この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は桁行5間、梁間4間、単層入母屋造り、木瓦葺、とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な光景である。

下が、歌川広重が描いた「上野清水堂不忍ノ池」。

現在は、浮世絵のような懸崖造りではないので、下からの光景はややイメージが違う。

しかし、舞台からの眺望は一部往時のまま生きている。

真下にまっすぐ伸びる道は、不忍池弁天堂への参道。

一見弁天堂だと見えづらいのは、両側の樹木で湖面が見えないため。

写真の左、輪っかになった松の木枝は、広重の絵にもある。

静物ではなく、生物の姿で江戸時代の文化を伝えるのは、希少事例ではないか。

 近年老朽化が目立ち、平成2年より全面的な解体・修復工事を実施、平成8年5月に完成した。この間、移築年代を元禄9年とする定説をくつがえす元禄7年の胸札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。
 本尊は千手観音座像で、京都清水寺より奉安したみの。秘仏で平常は厨子内に安置するが毎年2月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。
 脇本陣の子育観音は、子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰を集め、願い事が成就した際には、身代わりの人形を奉納する。毎年9月25日には奉納された人形を供養する行事がある。                    平成10年3月 台東区教育委員会

堂裏にある「人形供養碑」は、説明板にあるように、願いがかなって奉納された人形群を秋のお彼岸の終わり、荼毘に付し、回向供養するその記念碑。

人形供養碑の背後にある灯籠は、寛永寺灯籠。

寛永寺の徳川家霊廟の周囲には、全国諸藩主から寄進された灯籠が林立していた。

いろいろな事由で、寄進灯籠は放出され、上野の山にはわずかしか残っていないが、そのうちの数基が清水観音堂境内に立っている。

下の灯籠の「常憲院殿」は、五代綱吉公の「戒名」。

また、下の「浚明院殿」は、十代家治の戒名です。

ほかに4人の徳川将軍が眠り、それぞれの寄進灯籠がある。

清水観音堂裏には、句碑が3基ある。

1基は「秋色桜」の句碑。

つるべ井戸があり、その傍らに句碑がある。

「秋色」は、江戸時代の女流俳人・菊后亭秋色を指す。

石碑には、彼女が詠んだ句とともに、その句が人口に膾炙した経緯が刻されている。

石碑の中央にやや大きめに

井戸はたの 桜あふなし 酒の酔

そしてその句の右下に

「此句菊后亭秋色の書とす。その筆致却って野菊庵秋色に似たり。真偽宜しく後者に俟つべきなり。 狩野享吉識」

さらに句の左には

「上野清水観音堂のうしろ、井の端に桜あり。元禄の昔、小網町菓子屋の娘お秋といふ者、十三歳の頃、花見に来り、この桜を見て井戸はたの句を詠み、この句輪王寺宮の御聴に達し、特に御感あらせられし由、人口に膾炙す。秋色桜の名を得たり。お秋は俳諧を其角に学び、菊后亭秋色と号し、享保十年四月十九日享年五十余にしてみまかりぬ。されと秋色桜世々植え継がれて流風邪余韻今に匂へり。茲に聊かその由緒を石に寿して樹側に建つ。
                       昭和十五年十月 聴鶯荘主人 建之

私が清水堂を訪れたのは4月の末、残念ながら花は散っていた。

ネットで見つけた「秋色桜」の写真を載せておきます。

2基目は、秋色桜碑からちょっと離れて立つ「翠影句碑」。

自然石に「鶴の檻 さくら吹雪の 中にあり 翠影」と刻されている。

傍らの説明板によれば、松本翠影(1891-1978)は、千葉県出身の俳人。話芸にも秀で、その方面での活躍も顕著。郷里流山には「まつかさのからからと秋気澄みにけり」の句碑がある。この碑は、昭和42年、喜寿を祝して知友が建立したもの

更にもう1基は、清水堂の道路を挟んで反対側の柵の中にあって、近寄れないが、柵越しに

惜春賦 寒心斎」と読める。

花三日 みころはきのふ 阿喜みやげ

説明板がないので、「寒心斎」が何者かは不明。

 

 

 

 


130 上野公園の石造物(1)

2017-07-05 08:08:00 | 公園

私が東京の大学に入学したのは、昭和33年(1958年)。

新幹線が走るずっと前で、いつも新潟駅始発の夜行列車で上京した。

田舎と東京の文化の落差は大きくて、東京に入るには、ある種の緊張感を強いられた。

上野駅のホームに降り立つときは、「よしっ」と心に叫んで、スイッチを切り替えたものだった。

井沢八郎は、『ああ、上野駅』で「上野は、おいらの心の駅だ」と歌ったが、確かに、私にとっても上野駅は、人生と時代を回想させる特別な駅として、存在するように思える。

が、駅に隣接する上野公園には、そうした特別な感慨はない。

知っているのは、動物園や博物館、美術館への通り道としての上野公園で、ましてや記憶に残る園内の石造物は皆無といっていい。

ま、公園内の石造物は、大抵そんなもので、私にとっての上野公園が例外というわけではないのだが。

で、今回は「上野公園の石造物」。

いつものは、公園口改札から公園に入るのだが、今回は改まって正面入口から。

上野駅の正面玄関を出て、右へ。

私が上京したころ、この辺りは映画館が並んでいた。

山下の映画館の中に入ると、お年寄りとあんちゃん連とホステスたちの姿しかない。おれもとうとうゆくところまで行ったな、とおもった。世に容れられない人たちが薄暗がりのなかで、画面に喰い入っている。おれは世に容れられないのではない、世を容れなかったのだと思いなおしてみても、二十年も前の山下の映画館の午前は敗残した人々の逃避場であった。(吉本隆明)

 

公園へ上る石段横に見慣れない石碑がある。

真新しい。

樽の上に、金色のあひるが羽を広げて立っている。

その樽には「羽のある いいわけほどは あひるとぶ 木綿」と川柳が刻されている。

そして土台の瀟洒な石碑には「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地 柳多留250年実行委員会」とある。

傍らの解説版を読む。

明和2年(1765)、呉陵軒可有が、川柳の原点ともいうべき誹風柳多留を刊行、これにより川柳は、十七音独立文芸として確立されることになるが、その版元・星運堂がこの地にあったので、ここを文芸川柳発祥の地とする、というもの。

なお、「羽のある いいわけほどは あひるとぶ」の「木綿」は、創始者呉陵軒可有の号です。

 正面入口中央に四角い石の囲い、その中に卵形の御影石が横たわり「上野恩賜公園」とある。

「恩賜」の読みも意味も分かるが、自分の言葉として使ったことはない。

小学校1年生の8月に終戦、戦後民主主義の申し子的な子供時代だったから、天皇的なるものとはまったく無縁で、「恩賜」も死語同様だった。

寛永寺境内が上野公園になるのは明治6年(1873)だが、天皇、皇后を迎えての開園式は、明治9年(1876)だった。

その前年、彰義隊墓所の建設が許可され、寛永寺が上野山内へ復帰するなど、徳川ゆかりのものが明治政府によって陽の目を見ることになったばかり。

明治政府がみずからの権力に自信を持ち始めたことがうかがえる。

天皇、皇后をお迎えしての開園式だったからその時に恩賜されたのだとばかり思っていたが、恩賜公園になったのは、関東大震災の翌年、大正13年(1924)のことという。

 

その「恩賜公園」に、なぜか、カエルの噴水。

右を向くと「忠魂碑」がある。

恩賜公園には、カエルの噴水より忠魂碑が似つかわしい。

書は、乃木希典というからいうことはない。

背面に、日露戦争での戦死、病死者200名の名前が彫られているらしいが、柵を越えてまで確認することもないと思い、正面から撮影しただけ。

厳重に鉄柵で縛られてなんとなく痛々しい。

縛らないと瓦解するのだろうか。

そのまま進むと広い石段がある。

最下段の右側には、古い石柱。

灯籠台のようだ。

セメントで穴埋め、修繕されているのは、どうやら弾痕らしい。

彰義隊と官軍との上野戦争の戦禍なのか、それとも太平洋戦争時の機銃痕か。

平和ボケの頭では、当時の惨状を想像することもできない。

石段を上がると右方に西郷さんの銅像。

身長に比して頭が大きいのは、下から見上げた時の遠近法を考慮したものと言われているらしいが、下から撮った写真でも大きいのだから、「ほんとかいな」。

連れている薩摩犬は、もう純血種はいないのだそうだ。

西南戦争の城山決戦で戦死した西郷は、後に官位をはく奪されたが、生前の肩書は陸軍大将だった。

官軍は、自らの大将と戦ったことになる。

本来は軍服姿の銅像を建立する予定だったが、賊軍の将=朝敵のイメージぬぐいがたく、反対が多く、浴衣姿となった、との解説がある。

銅像の下に白文がある。

以下は、その読み下し文。

西郷隆盛君の偉功は、人の耳目にあり、賛述するを須いず。前年勅して特に正三位を追贈せらる。天思優渥、衆、感激せざるはなし。故吉井友実、同志と謀り、銅像を鋳る。以て追慕の情を表す。朝旨金を賜う、以て費とす。資を捐し、この挙を賛するもの二万五千余人なり。明治二十六年、工を起こし、三十年に至りて竣る。乃ちこれを上野山王台に建て、事由を記して以て後に伝う

白文は、現代人には難しいからだろうか、銅像の傍らに「西郷隆盛と銅像の由来」と題する分かりやすい説明文を刻した石碑がある。

内容はほぼ白文と同じなので、案内は省略させていただく。

実は、西郷隆盛は、彰義隊と官軍とのいわゆる上野戦争の時、最も激戦を繰り広げた黒門攻めを指揮していた。

銅像の場所が正に激戦地だった。

彰義隊の墓が、西郷さんの銅像のすぐ後ろにあるのも、むべなるかな。

上野戦争では、彰義隊約200人が戦死した。

遺骸の処理を官が拒んだため、上野の山は死臭に包まれたという。

官に憚る賊軍の墓であることは、「戦死之墓」とだけ書かれた墓石が物語っている。

山岡鉄舟も、彰義隊の字句を書くのを明治新政府に遠慮せざるを得なかった空気があった。

「戦死之墓」に向かって左に「彰義隊墓表の来由」と書かれた石碑がある。

びっしり刻まれた文字はきちんと判読できるが、立ち読みするには、いかんせん、長すぎる。

2000字弱の全文を転載するので、興味がおありならば、お読みください。

夫れ皇国時運の沿革を観るに、昔、天網紐を解き、相家権を執り、保平の乱、政権部門に遷りてより、徳川公の治世実に二百有余年、四民此沢に浴せざるものなし。然り而して時運循環終に嘉永六年中、北亜米利加合衆国の使節、相州浦賀に渡来するや以降、世間紛擾、尊王攘夷の士四方に起こり、殺気天を覆ひ、〇風地を捲き、人心恟々其堵に安んぜず。茲に於て徳川将軍宇内の形成を洞察せられ、方今、外国交際日々頻繁に及ぶに就いては政権一途に出でざれば皇国の綱紀相立ち難しと従来の旧習を改め、東照公爾来兵馬の大権を一朝に廃棄し乃ち政権を朝廷に帰させられ広く天下の衆議を尽し聖断を仰ぎ、上下同心協力共に国家を富岳の安きに置き宸襟を安んじ奉る可しとの宏遠の深慮より断然此議を奉聞せられたるに朝廷聞召され外夷一条は衆議を尽し其外諸侯の進退は両役取扱い自余の義は召の諸侯上京迄の処、支配地市中取締等先ず是迄の通りと仰せ出されたり。然り而して慶応四年正月三日、徳川将軍召に依り上京の先途、豈図らん突然鳥羽伏見の変起り、尋で東征の師下ると聞くや実に憂憤戦を主となす者あり、和を主となす者あり、両議紛々鼎座密議を凝らし、偏に君家の寃雪がずんば止まず、所謂辱かしめられば臣死するの時なりと寝食を忘れ日夜焦慮実に慨然に堪えざるに我君固より時世を深く鑑みられ、万民の為に畏れ多くも過失を一身に受けせられ、只管恭順を旨とせられ、一般に令して曰く、東征の師来るも必ず謹んで此れを迎ふべし、若し然らずして抗するものあらば尚我身に刃をさすものなりと説き万石以上の者の役は悉く免じ其以下と雖も近畿関西に知行あるものは聊か懸念なく速やかに上京し帰順の大義を尽すべしと布告し、又或いは暇を請うものは不本意ながら其意に任ずべしと厚く示されたり。而して大城を出でられ東台に屏居せらるるに至る。嗚呼臣子の分として之を如何にせんや。然れども君命の重き復之を如何とも為す能はざるを以て該命を遵奉し斯に同志の士相謀り即ち彰義隊名の認可を得て浅草東本願寺へ会合し死を盟ひ飽くまで君家朝敵の汚名を雪がんものと哀訴の議起る。然るに我君猶水戸表へ退かるる趣に付、随従の議を請願したるに容れられず而して千住駅本陣に於いて懇篤の命を蒙り、以て輪王寺宮殿下を始め奉り、上野山内一般の護衛を謹而奉仕せよとの儀に付、命を奉じ更に東台に移り屯集したるものとなり。而して夜、大総督府より輪王寺宮殿下を始め徳川家累代の宗廟、勅額、宝器等守衛の段、まことに精忠に思召され、なお勉励いたすべしとの感状を賜はりたり。是より先、各藩士中に我々と同感の士漸次集り来りて我付属隊となるもの多く。随てその勢ひ益々熾なるに因り、図らざりき遂に嫌疑を蒙り、畏れ多くも天然に触れたる趣を以て追討の不幸に逢へり。実に慶応四年五月十五日昧爽、突然官軍の攻撃を蒙れり。蓋し大小の侯伯、都て二十八藩、其の勢凡そ二万八戦人なりと。夫れ素より衆寡当るべからざるは論を俟たざるのみならず、業己に事斯に究り剰へ自然君命に悖り、国賊の叛命を蒙りたりしを今や如何せん。然りと雖も素心確固として動からざる所以のものは蓋し他なし。元来君命に乖き叨りに錦旗に抗するものにあらざるは勿論なれども己に此期に臨み、豈順逆正邪を議論するの暇あらんや。夫れ然り乃ち武門の本意、忠と義と以て一死あるのみ。親王を補翼し禦戦す。而して親王、当山を避け、会津若松城へ成らせらるるに付、各〇従す。此時砲弾の下に斃るるもの是れ皆善く武門武士の道を尽したるものなりと謂可し。故に官又特別を以て其遺骸を悉く此の所に埋められたり。爾来王政維新の洪業全く成り、益々開明の域に進むに際り、爰に墓碑建設の聴許を得るに至る。茲に於いて一朝王師に抗したるものなりとは雖も、然れども時に洵に止むを得ず、骨を柳営墳墓の地に留めたるものなり。豈敢て其弧忠を憐み、其義列を称せざるものあらんや。夫れ誠に然りとす。然るが故に旧薩洲候を始め其他の諸君より墓碑建設費の内として多少寄付せられたるも工事発起者の為には大事業なりしに該工事央にして種々の障碍起り頗る困難なりしを当時小石川白山前日蓮宗大乗寺住職目今大本山池上本門寺貫主権大僧正鶏渓日舜上人の大慈善を以て大いに是を補助せられたるにより此碑全く成る。爾来年年歳歳に参拝者多きを加ふるに至る。便ち一視同仁、天恩の厚き、諸君の賛助に由ると雖も慈愛深きにあらざるよりは安んぞ能く此に至らんや依って恭しく地価の忠魂を聊か慰せんが為に併せて参拝諸君の参考に併せんと欲し謹而是を識す。
 明治十五年五月建、旧彰義隊分隊天王寺詰組頭小川漳椙太事、当墓碑発起担当者静岡県士族小川興郷謹白

 上野公園は、関東大震災や東京大空襲で大きく様相を変えるが、この西郷さんと彰義隊の墓界隈も例外ではない。

関東大震災では20万人の被災者が上野公園に押し掛けた。

西郷さんの銅像は、尋ね人の張り紙で一杯になったといわれている。

第二次大戦中、西郷さんと彰義隊の墓の間は高射砲陣地となり、防空壕が掘られていた。

防空壕は清水堂の下にもあって、掘り返せば、昔のまま、出現するのではないかという人もいるらしい。