石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138東京都北区の石造物-6-赤羽1-3丁目

2019-11-23 09:34:30 | 石造物巡り

▽真言宗智山派・医王山宝憧院東光寺(赤羽3-4-2)

 山門は、なぜか閉じられたまま。

その山門の右手の石柱には「本尊薬師如来」。

山号が医王山であるのも、本尊との関係だからでしょう。

山門前左には、小堂があって、お地蔵さんがおわします。

山門の右手、通用門の前にあるのが、道標。

北区教育委員会による説明を転記しておきます。

宝幢院前の道標         宝幢院所在                    門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元禄五年(1740)十二月に了運という僧侶によって建立されたものです。宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国冨士道 板橋道」・「南 江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向かう冨士道へ通じていました。道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。                 平成3年3月         北区教育委員会

東西南三方向の道を示す道標の重要性とは別に、私の興味関心は、道標上部の杯状穴に。

穴を掘っても、誰にも咎められることのない道標であることが面白い。

境内へ。

閉じた山門から本堂に延びる参道両脇に石造物が並んでいる。

本堂に向かって右側には、まず、六地蔵。

その一つの台石には「寛保二年(1742)女念仏中」とあるが、お地蔵さんの顔は目鼻が溶けて、ちょっと怖い。

六地蔵の隣は「南無馬頭観世音」塔。

「馬持講中」による明治41年の造立。

その隣は、出羽三山供養塔。

向かい側にも3基あって、

信州善光寺参拝記念と

本堂落成記念塔

それに「四国西国秩父坂東百八十八所巡拝記念」塔。

 

本堂前には、弘法大師巡錫像かおわします。

庚申塔も2基あって、うち1基は、北区最古の庚申塔。

「寛保二年寛永十六年(1639)霜月十八日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と2猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところがニ猿で あるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と 信仰の結び付きを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結び付いて造立されたようです。」とは、区教委の説明。

▽真言宗智山派・広照山真頂院平等寺(赤羽3-16-3)

 環八に面して寺はある。

本堂前右にあるのが無縁墓塔。

寛文年代の墓標がある。

六地蔵の左隣には、宝篋印塔。

宝暦14年(1764)に、当寺の住職が建てたと刻されている。

小堂におわすのは、地蔵菩薩。

正徳4年(1714)造立のもの。

 

 


138 東京都北区の石造物-5-岩淵町b

2019-11-10 08:32:44 | 石造物巡り

正光寺の広い境内を歩きながら、どこか既視感がぬぐえない。

帰宅して写真を整理していて、「正光寺」というフアイルがあることに気づいた。

日付は、2010-07-16.

写真を開いてみると、寺は工事用の塀に囲まれて中に入れない。

              2010-07-16の正光寺

入れるのは、無縁仏塔の一画だけで、写真も無縁墓標だけです。

一度訪れてはいるが、中に入れず、記憶から消去されていたのでした。

あらためて調べてみると、正光寺の本堂は、昭和53年(1978)、浮浪者の不始末による火災で焼失、私が訪れた2010年は、再建の最中で、翌年の平成23年に完成しています。

▽浄土宗・天王山淵富院正光寺(岩淵町32-11)

 

山門前左に石柱が埋まっていて、「世継」と読めるのは、観音堂に祀ってある世継観音を指すのでしょう。

世継観音は、源頼朝の守本尊なんだとか。

山門前右側には、一段低い細長いくぼ地に小石が敷かれ、まるで川底のよう。

傍らの石柱には「石橋十二ケ所供養塔」とあります。

石神井川根村用水に12の石橋を架けたのを記念する石碑で、川底は石神井用水を想起させるデザインでしょう。

 山門をくぐると長い参道の向こうに大観音立像がそびえています。

明治3年、時の住職が、荒川の水害から人々を守るべく浄財を募って建立した聖観音で、高さ3丈3尺(約11m)。

参道左手の石造物群で一番手前が、ブロンズの地蔵座像。

傍らの石柱に「征清鎮台皇軍戦死追吊記念 地蔵尊」とある。

「戦死者慰霊」は多いが「追弔」は初めて。

同じくブロンズ製の六字名号塔。

そして、再び、地蔵座像。

浄土宗だからだろうか、お地蔵さんが多いようです。

石造物が過ぎると左前方に本堂、その左に観音堂が見えてきます。

建物も庭も真新しくて気持ちいい。

都内の寺院にしては、ゆったりした空間に癒されます。

本堂建築は、日本最古の会社、宮大工の金剛組が手掛けたものだとか。

庭木の手入れも行き届いています。

地蔵は地蔵でも、これは水子地蔵。

ここにもお地蔵さんがおわします。

▽薬王山瑠璃光院大満寺(岩淵町35-7)

 

 

 

 

通称岩淵不動。

山門前の古びた石柱には「行基御作/薬師如来安置」と刻されています。

薬師如来がおわすのは、当然、薬師堂です。

門前左の小ぶりなお地蔵さんは、「幸福地蔵」。

お地蔵さんが草鞋(わらじ)を持っているのは、「草鞋を履いて、いつでも救いの手を私たちに差し伸べたい」という願いの現れだとか。

山門をくぐる。

 

「山門建立記念」塔がある。

どの寺社も、〇〇建立記念がお好きなようですね。

正面が、不動堂、左が本堂。

新しい祠に青面金剛庚申塔。

造立年次は不明です。

真言宗寺院にはよくある弘法大師巡錫像。

仏足石の下には、四国八十八所霊場の砂がうめられ、

そこに立ちながら霊場の名札を一つ一つ触ることで、霊場巡拝の満願成就とするというシステム。

「全国災害犠牲者尊霊」碑もあれば、

「弘法大師一千五十年遠忌」碑もある。

 

 

 

 


138北区の石造物-5-岩淵町a

2019-11-03 07:52:17 | 石造物巡り

北区の赤羽駅周辺には、「赤羽」の下に東西南北を付けた「安易」な町名が多い。

岩淵の人たちは、8年越しの反対運動の末、伝統ある町名「岩淵」を守り抜いたのでした。

岩槻街道と岩槻宿場が「赤羽なんとか」町として表示されることに、我慢ならなかったのでしょう。

その「岩槻街道岩槻宿問屋場址之碑」が、国道122号線沿いにあります。

▽岩淵街道岩槻宿問屋場址之碑」(岩槻町26-9)

問屋場(といやば)は、宿場の要。

馬の継立と飛脚の二つの業務を行っていました。

実際には、日光街道の千住宿経由の旅人が多く、岩淵宿は閑散としていたそうですが、荒川の水運を含め、物資の流通、運搬の中継ポイントとして重要な役割を果たしていました。

▽岩淵庚申塔(岩淵町22-17)

 

 

 マンションの入口右に張り付いたように3基の石造物がおわします。

横からの写真だとよくわかるが、塀と電柱の間、狭い空間に肩身が狭そうに身を寄せている。

右の2基は、庚申塔。

右端は、上部が崩壊しつつあって、読めないが、資料によれば、

「奉造立庚申供養塔」、「寛保三癸亥歳二月吉日」とあります。

中央の庚申塔は、「「奉待庚申供養二世安楽所」「元禄六癸酉天二月廿一日」。

更に左端は、巡拝塔と道標を兼ね備えたもので、「四国、坂東、出羽三山、身延山、六阿弥陀」とあり、台座正面には「右下むら」とあるらしいが、いずれも読めない。

もはや誰からも関心を持たれることがない存在だと思うのだが、どうして、真新しい生花が供えられている。

「ふーむ」とうなったまま、しばし立ち止まっていた。1835

▽岩淵八雲神社(岩淵町22-1)

すぐ北側が荒川の堤防。

洪水に備えて、本殿は一段高い場所に立っています。

境内で最も目立つ石造物と言えば「岩淵町町名存続之碑」。

  碑文           

 昭和37年、住居表示に関する法律が制定されて以来、全国的に由緒ある町が次々に姿を消していく中で、我が岩淵町は歴史と伝統を尊重する為、極めて民主的な方法で、町民挙っての町名存続運動が8年の長きに亘って続けられ、遂にその真意が当局を動かし、昭和46年9月の区議会で、名実共に岩淵町の名が存続することになった。さて岩淵の歴史は古く、遠く古代社会より交通の要地として発達し、室町時代に宿駅制度が整備され、岩淵宿と呼ばれるようになった。然しなんといっても岩淵が宿場町として発達したのは江戸時代であり、日光街道の脇街道 つまり岩槻街道が出来てからのことである。特に将軍が日光往来にこの街道を利用したので、別名を御成街道と呼ばれた頃である。然し明治になり鉄道が発達するにつれ岩淵宿も衰退の道を歩むようになっていった。だが地方行政が発達してゆく中で、岩淵本宿として近隣町村の中心的存在となっていった。 こうした時の流れの中で、明治、大正と二回に亘り、岩淵を赤羽にしようとする行政機関の動きがあったが、その都度我が先輩は岩淵の名を守り抜いてきた。このようなことを考えるとき、心ある人は今回の町名存続運動がどのようなものであったか、ということを理解していたゞけると思い、町民の皆さんのご協力をいたゞき、この記念碑を建立することにした。                   昭和47年5月    岩淵町々名存続期成同盟

境内の一画に石造物を集めた場所があり、中でも「地金神」という聞きなれない神様が目を引く。

いかなる神なのか、ネット検索するも、不明。

 

道路を隔てて、荒川の堤防に近くに末社「水神社」があります。

舟運業者が水上交通安全を祈願する社で、かつては荒川大橋傍にありました。

下の写真は、荒川堤防の上から水神社を撮ったもの。

 

八雲神社の右隣の家の入口に小堂があるので、寄ってみます。

石仏が一体、台石に「延命地蔵」とあります。

お地蔵さんの後ろには説明板があって、これがまたすごい現世利益をうたうのです。

あまりにも幅広いご利益の数々は、以下の通り。

此の延命地蔵菩薩様は、それぞれの抜苦、与楽、私たちの為に様々なお願いを叶えて下さる有難いお方です。子育て、身体健護、闘病平癒、寿命長久、聡明智慧、財宝、衆人愛敬、交通安全、なくなった方、水子の霊の御供養と因縁、それぞれの願いをかなえてくださいます。その心にしたがって利益を戴けます。
 左の御真言を唱えてください。
 オンカァーカアーカヒサンマイエイソワカ

どんな願いであれ、この延命地蔵を拝めば、すべて叶えられる。

アールマイテイのお地蔵さんです。