石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

128 五百羅漢(写真ファイルから)その3

2017-05-24 09:05:09 | 羅漢

仙石原の長安寺は、紅葉の名所だが、裏山の五百羅漢も見どころの一つ。

◇長安寺(箱根・仙石原)

 寺の裏山の斜面一面に羅漢が点在している。

現代作家によるモダン羅漢もあって、像容の幅は広い。

五百羅漢シリーズの3回目にして、改めて、羅漢とは何か、を書くのには、いささか躊躇いがあるが・・・

「羅漢」は、「阿羅漢」の「阿」を省略した呼び名。

「阿羅漢」は、梵語の「アルハット」の写音で、「応具」=「供養を受けるに値するもの」の意。

小乗仏教(以下上座部仏教)では「最高の悟りを得た修行者」として、尊崇される存在。

最初の阿羅漢は、悟りを得て、仏陀となった釈尊の初転法輪(最初の説法)を受けた5人の修行者を指す。

初転法輪から入滅まで、釈尊は、40年にわたり、行く先々で説法をし、多くの弟子を育てます。

中でも有能な直弟子が十大弟子。

釈尊入滅後、経典と戒律を制定する第一結集が開かれるが、十大弟子は、その中核となって活動したメンバー。

この時、結集に参加した弟子の数は、500人。

五百羅漢は、ここから始まったといわれます。

いわば十大弟子は、釈尊教室の優等生、五百羅漢は一般卒業生ということになります。

羅漢は、難行苦行の末、煩悩を克服して、悟りの境地に至ります。

頬はこけ、痩せさらばえ、感情表現を忘れたような老爺を誰しもがイメージするに違いありません。

しかし、喜多院でも少林寺でも、そして、この長安寺でも、羅漢さんは実に表情豊か。

苦しい修行に顔をしかめている羅漢さんはいません。

それは、なぜか。

以下は、梅原猛氏の考察。

阿羅漢は、上座部仏教での理想的修行者。

しかし、大乗仏教からは、二点において批判されてきた。

上座部の羅漢たちは、あまりにも欲望を否定し、現世に否定的ではないか。

そして、彼らはあまりにも個人主義的ではないか、という批判。

自己の欲望を否定して悟りの境地を開いても、それによって世界は変わらないし、民衆の救いとは無縁ではないか、というのです。

大乗仏教では、菩薩が阿羅漢の役割を受け持つが、二重の意味で阿羅漢とは異なると梅原氏はいう。

現世否定的な阿羅漢に対し、菩薩は肯定的で、自己救済的な阿羅漢に対して、菩薩は他人救済の色彩が濃い。

かくして大乗仏教において羅漢崇拝は、退潮したかに見えた。

しかし、中国の禅宗で、老荘思想とあいまって、羅漢思想は復活することになる。

ポイントは、個性の自由。

上座部仏教の羅漢批判は、否定に執する姿勢であった。

それに対して、肯定、否定、有無に執着しないのが、大乗仏教の羅漢ということになる。

執着しない心の自由は、老荘の世俗を離れた自由の境地と結びついて、喜多院の、そして少林寺の自由奔放な羅漢さんの姿態と表情を生み出した。

上座部の羅漢さんにはない遊び心が、彼らには見てとれる。

欲望の圧力から解放されて、彼らは自由の境地に遊んでいる。(梅原武『羅漢』より要約引用)

なお、ここにもあの「胸開きらごら像」がある。

つい嬉しくなって、載せておく。

◇寺居山の五百羅漢(中津川市)

中津川市の西、中央線美乃坂本駅近くの寺居山は、山というより岩。

巨岩の上に羅漢さんが立っていらっしゃる。

その数、129体。

五百体を目指す途中だったものか、寛政年間に始まった造仏の動きは、享和年間に終わりをつげ、その後、新たに寄進された羅漢はないという。

なぜこの地に五百羅漢なのか、現地に立ってもその理由が釈然とはしない。

彫技は荒く、羅漢というには面白みに欠ける石仏群だが、岩山頂上の羅漢越しの景色は捨てがたいものがある。

◇願成就院(伊豆の国市)

「願えば、その願いが成就する寺」とは、剛毅な寺号だ。

「そうは言っても」と、どこか怯む心があるのが普通だろう。

こんな大それた寺号は、ここだけだろうと思っていたら、中尊寺の子院にも「願成就院」があるのだそうだ。

世の中は、広い。

古寺である。

本堂の仏像5躰は、運慶作で、国宝に指定されている。

古寺である。

開基は、文治5年(1189)。

鎌倉幕府初代執権北条時政が、北条家の菩提寺として建立した。

       北条時政の墓

だから、1989年には、800年祭が執り行われた。

変わっているのは、その記念事業。

「あなたの羅漢さんを造りませんか」と石彫五百羅漢造立運動を始めたのです。

今、寺の裏山には、様々な羅漢さんが立ち並んでいる。

羅漢というよりは、石造肖像。

それぞれが寄進者の近親者ばかりという生臭さ。

1体分の石材を10万円で購入、寺の境内にある作業場で備え付けの道具を使って、寄進者自らが粗削りをし、仕上げは専門家の手にゆだねるというシステム。

修行を積んだ羅漢というよりは、日本の庶民群像だが、五百羅漢には故人の近親者に酷似した顔が必ずあるというのだから、故人のレリーフを彫って、羅漢とするのもあながち間違ってはいないような気もする。

親しみやすい羅漢場であることは確かです。

 

以下の3か所の五百羅漢は、このブログでも取り上げたことがあるので、見ていただきたい。

◇長慶寺(富山市)

37 佐渡の石工の五百羅漢(富山・長慶寺)

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=13583a3b36e5620afcce79f7584a4ff1&p=8&disp=30

◇清見寺(静岡市)

 122日本石仏協会主催石仏見学会-3-(静岡市清水区興津町)

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=c90f7362b4e0e28a15a2386f34cd2f99&p=2&disp=30

 ◇竹成の五百羅漢(三重県菰野町)

124伊勢路の石仏-5(竹成の五百羅漢)

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=cdbde1691f2ceb0b08adc20a40298928&p=2&disp=30


128 五百羅漢(写真ファイルから)その2

2017-05-13 09:00:52 | 羅漢

◇日本寺(千葉県鋸南町)

 「日本寺とは、大仰な」と思うが、そう自称してもおかしくない古刹で、約1300年前、行基により開基された関東最古の勅願寺。

      日本寺本尊薬師如来

かつて、良弁、円仁、空海もこの地で修業したという道場でもある。

ロープウエイで一気に山頂へ。

見上げるばかりの摩崖仏が出迎えてくれる。

観光地でもあるから、地獄のぞきもあって、女性客の甲高い声が岩にこだましている。

標高329メートルの鋸山の南斜面が、寺の境内だから、東京湾が一望できる。

境内は、いくつかのエリアに分かれているが、頂上下は「羅漢エリア」。

五百羅漢どころか、1500躰もの羅漢さんがおわすといわれている。

喜多院や少林寺の羅漢が、高僧というよりは俗人風で、奔放な姿態であったのに比べて、ここ日本寺の羅漢さんは、真面目そのもの、ジョークも通じない堅物爺ばかり。

面白みにかけることはなはだしい。

造仏を請け負ったのは、木更津の名工大野甚五郎。

 

あの「左甚五郎」とは、別人だが、材料が木と石の違いはあれど、双方とも「甚五郎」とは愉快。

弟子27人とこの山に籠り、安永8年(1779)から寛政10年(1798)まで、20年をかけて、刻んだという。

石材は伊豆から船で運び、仕上がりごとに、天然の奇岩、洞窟に並べていった。

羅漢エリアには、弘法大師の護摩窟だ、聖徳太子の維摩窟だと名称の違うコーナーがあり、無数の羅漢がおわすが、コーナーによる像容の差異はないように思える。

首のない石仏群。

廃仏毀釈の傷跡のようだが、まったく無事なところも多く、なぜ、ここだけがこんなに被害が多いのか、その理由は不明です。

ムンクの「叫び」を彷彿とさせる貌。

 

右の,切り離された体躯がなければ、仏の顔だとは思えない。

何を叫んでいるのだろうか。

◇大円寺(東京都目黒区)

 東京23区にも五百羅漢はある。

目黒駅横の行人坂にある大円寺。

天保年間(1830-1844)刊行の『江戸名所図会』には、

寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す。此寺今は滅びたり

とある。

滅んだ原因は、火事。

しかも、江戸三大火事の一つ「行人坂大火」の火元だった。

時は「明和9年」、「めいわく」だとして、年号が安永に改号されたほどの大火だった。

火元の責任を重く見て、幕府は寺の再建を中々認めない。

やっとお許しが出たのは、78年後の嘉永元年(1848)だった。

しかし、『江戸名所図会』の「行人坂夕日丘」には、大円寺の五百羅漢が描かれている。

本文でも五百羅漢に触れている。

五百羅漢石像

明和九年三月二十八日、二十九日両日の大火に焼死せし者の迷〇を弔う志ある人此れを建立すといへり

中央に座すのは、釈迦如来だろう。

行人坂大火の犠牲者の霊を弔うため五百羅漢の造立が始まったのは、大火から10年後。

完成したのが、50年後の文政年間と思われるから、天保年間刊行の『江戸名所図会』に載っているのは、ごく自然のことといえる。

大円寺の境内に入る。

本堂左手に、半肉彫りの石仏がひな壇状にズラリと並んでいる。

壮観だが、あいにく、日差しと日陰のコントラストが激しくて、像容がはっきりしない。

柵がしてあって、中に入れない。

石仏はそんなに大きくはないから、肉眼では、一つ一つの識別は、まず、無理。

望遠レンズでもあればいいのだけれど、あんなクソ重いものは持ち歩かないので、ワンショットのアップどころか2-3体のグループショットですら撮れない。

前面に釈迦如来。

その周囲に十大弟子と十六羅漢がござる。

釈尊の長男で十大弟子、かつ十六羅漢の「らごら」の胸開き像もある。

五百羅漢全部に羅漢名と施主名が彫られているというので、一番近い羅漢名を読んでみる。

辛うじて「摩訶南尊者」と読めるが、施主名はわからない。

十六羅漢には名前はあるが、五百羅漢には個々の名前はないのかと思っていたので、ちゃんと名前があることが分かったのは、収穫。

で、その名前一覧は、どこで見ることが出来るのだろうか。

おまけを一つ。

境内にある庚申塔の三猿の性別が分かる。

 

都内に、しかも目黒区に、五百羅漢が、もう一か所、別にある。

寺の名前は、その名もスバリ「五百羅漢寺」。

像高80-90cmの羅漢群が、釈尊の説法に耳を傾けている構図の本堂は素晴らしい。

本堂に入れなかった羅漢たちは、羅漢堂に並んでいる。

寺の開基者・松雲元慶が、300年前の元禄期、独力で完成させたといわれている。

国の重文でもあり、取り上げる価値は十分にあるのだが、いかんせん、寄木の木彫像。

石像をターゲットとする本ブログの趣旨には合わないので、これ以上、触れない。

 

 

≪参考図書≫ 

◇森山隆平『羅漢の世界』柏書房 1984年

◇松山徹『石仏の旅』大陸書房 昭和54年

◇山本敏雄『写真集 羅漢』木耳者 昭和55年

◇庚申懇話会『全国、石仏を歩く』雄山閣 1990年

◇森山隆平『石仏巡礼』大陸書房 昭和54年

 

 


128 五百羅漢(写真ファイルから)その1

2017-05-01 08:55:55 | 羅漢

前回は、遠野の五百羅漢でした。

自然石に線刻された羅漢は、しかし、像が不鮮明で、もやもやとどこかすっきりしない。

五百羅漢の中には、故人となった親類縁者の誰かにそっくりな仏がいる、という言い伝えがある。

それを楽しみに来たのに、裏切られたような気がして、すっきりしないのかもしれない。

もやもやを晴らすには、はっきりした像容の羅漢さんを見るに限る。

と、いうことで、今回から数回にわけて、羅漢シリーズを送ります。

改めての取材はせず、すべて写真ファイルから取り出したもの。

私が東京在住なので、関東一円がメインです。

まずは、五百羅漢、次いで十六羅漢を。

◇喜多院(川越市)

関東で五百羅漢といえば、「あ、川越・喜多院の、」と誰もが思うに違いない。

それほど有名で、みんなのイメージを裏切らない五百羅漢です。

みんなのイメージは、素朴で庶民的、喜怒哀楽の表情豊かな老爺群だろうか。

だから、個人となった近親、縁者、知人の顔も、その中にあることになる。

イメージは、誰かの話で作られてゆく。

それが、いつ、だれの話だったかは、特定できないまま。

ここで不思議なのは、私たちの羅漢イメージには、厳しい修行で悟りを得た釈尊の高弟という定義が欠けていること。

五百体もの石仏を彫るのは容易なことではない。

単なる好々爺群を日時と費用をかけて造立しはしないだろう。

厳しい修行の上、「誰からも尊崇され、供養を受けてもよい」とお許しの出た高僧群=羅漢群だから、建立されたに違いない。

それなのに、その目的は、なぜ、庶民に伝わらなかったのか。

日本の仏教が大乗仏教であることと無関係ではなさそうで、私には、興味深いテーマです。

 

喜多院の羅漢場は、土産店の横にあって、店の脇から入る。

壁に囲まれた空間にびっしりと羅漢さんが並んで、せせこましい感じで、息をつくまもなく、観るのにすぐ疲れてしまう。

過密都市東京圏の住人たちには、この肩を寄せ合う隣との距離が、自らの住環境に似て、自然なのだろうか。

中央にひときわ高く釈迦三尊がおわす。

結跏趺坐して禅定印を結ぶ釈迦如来を真ん中に、右に白象に乗る普賢菩薩、左に獅子に座る文殊菩薩。

その前には、十大弟子と十六羅漢が13体ずついらっしゃる。

        阿難尊者

彼らは、釈尊入滅の時にお傍にいてお見送りをし、釈尊の死後、経典と戒律の制定に努めた。

         舎利弗尊者

彼らを釈尊学校の優等生とするならば、五百羅漢は、一般卒業生ということになる。

 

喜多院五百羅漢の特異性は、3点。

1、発願者が僧侶ではなく、一介の百姓だったこと。

 のち出家して僧籍を得たとはいえ、志誠は、川越在の農民だった。

2、その一介の百姓の発願に、天台の名刹喜多院が応え、造立地を提供したこと。しかも、志誠は48体
 完成した時点で病に倒れ、死亡。喜多院塔頭寺院の3人の僧が、志誠の遺志を継いで、事業を継続し
 たこと。

3、完成は、文政8年(1825)、45年の長い歳月を要したこと。 

 

自由奔放な羅漢さんの姿態も、喜多院羅漢の魅力。

とりわけ二人組の仕草が素晴らしい。

耳打ちをする、酒を注ぐ(酒は厳禁だから油という説もある)、マッサージをする・・・

儀軌にあるものなのか、石工の創作なのか、日本人好みに作られていることは確かです。

かといって、約束事は守られていることは、羅睺羅(らごら)を見れば分かる。

胸を搔っ捌いて、胸の内にある釈迦像を見せる、羅睺羅の定型像があるからです。

羅睺羅(らごら)は、釈尊の実子だといわれます。

周囲から特別視され、本人の慢心も加わって修行は難航した。

しかし、人一倍の努力で、蜜行の第一人者となった。

十大弟子でありながら、十六羅漢でもあるのは、羅睺羅(らごら)一人。

定番の胸開け像の意は「人の心には仏心がある。心をあけよ。汝の心を迷いから解放せよ。そうすれば、そこに真の仏がある」(梅原猛『羅漢』より)のだという。

五百羅漢に故人の誰かの顔を見るのも一興ではあるが、羅睺羅(らごら)を探してみるのもいい。

 何か目標があったほうが、接しやすい。

十大弟子でもあり、十六羅漢でもある羅睺羅(らごら)は、釈尊の近くにいるので、見つけやすいという利点もある。

お勧めです。

 

 ◇少林寺(埼玉県寄居町)

「少林寺(寄居町)」のファイルを開く。

09.10.04とあるから、7年前のもの。

写真を見ても記憶が戻ってこない。

写真そのものも、色が褪せてシャープさに欠けるようだ。

安物カメラだったせいか。

 

少林寺の五百羅漢が、喜多院のそれに比べて優れているのは、立地だろう。

寺の背後の低い山にジグザグに伸びる道の山側に、適当な間隔で座しながら、石仏群頂上まで並んでいる。

喜多院のようにせせこましくなく、ゆったりとしていて、いい。

夏は雑草が生い茂って、羅漢は見にくいから、来るのなら冬がいい。

常緑樹は竹くらいで、見通しは良くなるが、雰囲気が殺伐的なのが惜しい

武蔵野の冬山は、どこも同じだけれど。

少林寺は曹洞宗寺院で、開基は永正8年(1511)。

開山の和尚が果たせなかった五百羅漢造立の念願を、24世和尚が6年の歳月をかけ、天保3年(1832)に完成した。

         頂上広場に座す釈迦三尊

どこにでもある面白くもおかしくもない造立事由だが、資料を読んでいたら新説(珍説?)を披歴する本があったので、紹介する。

180年前ということは、天保年間、少林寺に海南禅海という坊主がいた。宗旨を守って独り身だったが、魔が差してか、檀家の女とねんごろになってしまった。その事実が、女の亭主の知ることとなり、さあ、大変。「このクソ坊主、たたき殺してやる」と騒動となった。和尚は罪を認め「殺されてもいいが、坊主として何かやり遂げてから死にたい。3年間で五百羅漢を作るから、それまで待ってくれないか」。
亭主の許しを得て、和尚は資金集めの托鉢に出かけた。やっと30両集まったので、麻布の石工を訪ねて五百羅漢制作を依頼するが、「30両なんてとても、とても。150両なければ、ダメ」と拒絶される。
窮地に陥った和尚は、その夜、吉原に乗り込んで、有り金の30両そっくり投げ出して、女郎を店ごと借り切った。
大広間の真ん中に素っ裸になった和尚は、ことのいきさつを女郎たちに話し、「みんな日頃の罪滅ぼしに頭のかんざしを俺にくれないか。どうせ男たちからだまし取ったものだろう」と訴えた。
大迫力の和尚の一世一代の芝居に感激した女たちはかんざしを抜いて、和尚に投げ出した。このかんざしに500両の値がついて、少林寺の五百羅漢は造立の運びとなった。間男された旦那に和尚が打ち首されたかどうかは、不明である。(松山厳『石佛の旅』より)

こうした設立事由を知って、五百羅漢を見ると、仏とは思えない、世俗にまみれた羅漢さんの姿態が、当然のように思えてきます。

    聞かざる             言わざる

         見ざる 

五百有余の羅漢群のすべては、江戸石工の手になり、船で荒川を上って、玉淀の河原に下ろされた。

檀徒の農民たちが男女を問わず、寺までの、羅漢の運搬を志願した。

羅漢像がみな小づくりなのは、人ひとりが背負って運べることを念頭に制作されているからです。

頂上広場から別の道を下りると、景色は一変、荒神碑が重なるように立ち並んでいる。

「荒神」とは、いろりや竈の火の神。

荒神碑の大半は文字碑で、「荒神」、「三宝荒神」、「千一躰」、「千荒神」などと刻されている。

道の角々には、荒神像がおわす。

いずれも三面六手の憤怒相だが、珍しい像塔が7基も一か所にあるのは貴重である。(『日本石仏図典』)

◇大法寺(長野県小県群青木村)

大法寺へは、修羅那の石仏を見た帰りに寄った。

国宝の三重塔があることは知っていたが、五百羅漢は現地で初めて知って驚いた。

参道の片側にずらりと並んでいる。

彫技はうまいとは言えないが、素朴でいい味がある。

   抱えている壺の文字は「夢」

         マッサージ

 

≪参考図書≫ 

◇森山隆平『羅漢の世界』柏書房 1984年

◇松山徹『石仏の旅』大陸書房 昭和54年

◇山本敏雄『写真集 羅漢』木耳者 昭和55年

◇庚申懇話会『全国、石仏を歩く』雄山閣 1990年

◇森山隆平『石仏巡礼』大陸書房 昭和54年