石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

81 無縁塔がある風景

2014-06-16 11:08:41 | 墓標

無縁塔とは、供養する親戚縁者がいなくなった無縁仏(むえんぼとけ)の墓標を一か所に集め、ピラミッド状にしたもの。

     遍照院(上尾市)

〇〇家の墓が基本の日本では、家制度の崩壊とともに無縁墓標が増える一方で、今や、墓の10%超が無縁墓標だとも言われています。

供養する縁者がいないということは、墓の維持管理費を支払う者がいないことになり、墓地の管理者にとっても大問題。

そもそも無縁仏とみなすことが容易ではない。

供養に来られないさまざまな事由があるわけで、勝手に無縁墓標と断定できません。

煩雑な手続きの上、無縁墓標と認定しても、廃棄物として処分することは難しい。

だから、墓地の一角に無縁墓コーナーを設置することになります。

      栄松院(文京区)

     三宝院(練馬区)

 

墓地が狭い都会では、その場所を確保するだけでも大変で、必然的に墓を積み重ねてピラミッド状にするところが少なくありません。

無縁塔は墓地の入口に設置されるケースが多いようです。

   長伝寺(さいたま市)

        天真寺(港区)

無縁仏の供養は重要な宗教儀式でもあるからですが、墓地の景観を左右するモニュメントでもあるわけで、その設置場所や形状には、管理者の工夫が垣間見えます。

今回のタイトルは「無縁塔がある風景」。

写真フアイルから無縁塔を抜出し、羅列したもので、その歴史や社会的背景を考えるものではありません。

実は、無縁塔の歴史や社会的背景も考察したかったのですが、国会図書館で探しても参考資料はほぼ皆無、断念せざるを得ませんでした。

では、無縁塔のいろいろ、をご覧ください。

      金剛院(大田区)

どこの墓地でも、最初はこうして一隅に無縁仏を並べて置いたはずです。

     大泉寺(台東区)

    T寺(鴻巣市)

 どうせ無縁仏コーナーを設置するならきちんと整理しようか、ということになる。

  慶昌院(印西市)

   経学院(練馬区)

    西光院(川口市)

江戸時代の墓には、石仏墓標と文字墓標があります。

整理すれば、大勢の墓参者に見てほしい。

石仏墓標が多くなるのは、自然の成り行きでしょう。

     願海寺(港区)

、    光明寺(台東区)

      瑞光院(新宿区)

    多聞寺(墨田区)

  観泉寺(杉並区)

文字墓標はどうなったのか、行方が気になります。

石仏墓標の三大スターは、地蔵、聖観音と如意輪観音。

腕のいい石工の彫った石仏は、墓標といえども美術品。

オブジェとして参道や境内に無縁仏を配置する寺も少なくありません。

  安養院(目黒区)

        善福寺(江戸川区)

    増林寺(江東区)

     宗周院(練馬区)

こうしたすっきりした景観の背景には、処理された無縁仏が多数あるはずです。

   K寺(品川区)

処理の仕方で立つのは、補強材としての利用。

上の写真では、土砂崩れ防止の補強材として使用されています。

しかし、処理できずに無縁仏は増えるばかり。

その余りの多さに圧倒されて、ことばを失うほどです。

 

   永安寺(世田谷区)

   聖福寺(幸手市)

  大雄寺(大田原市)

  長福寺(深谷市)

  本成寺(古河市)

増大する無縁仏を前にため息をつく住職の顔が目に浮かぶようです。

 

林立する無縁仏といえば、京都・化野の無縁仏群が有名です。

平安京創都とともに人口は急増し、同時に葬場の設置が急務とされました。

小野篁が風水で選定した葬場の一つが化野。

化野念仏寺の石碑「あだし野」には、その下に「西院の河原」とあります。

これは、「あだし野」以前、このあたりの川に亡骸を流す習慣があったことを物語っています。

その亡骸は平穏に人生を全うした人よりも、戦乱、災害など非業の死を遂げた者たちの方が多く、これら無縁の霊は一瞬にして肉体が消滅してしまったため、宿る場を失い浮遊霊となってしまいます。

怨念を抱いて憤死した場合も同様、つまり浮遊霊=怨霊となり、天変地異をもたらすものとして畏れられました。

冒頭、供養する親類縁者がいなくなった仏を無縁仏と定義しました。

しかし、これは、檀家制度が始まった江戸時代に広まった考えです。

それ以前は、無縁仏といえば、戦死、災害死などの非業の死や水子、未婚者など親よりも先に死んで供養してくれる者がいない浮遊霊を指すものでした。

非業の死を遂げた無縁仏を祀る霊場として有名なのが、東京・両国の「回向院」。

正式寺号は「諸宗山無縁寺」。

明暦の大火の死者10万8000人の冥福を祈るため、家綱の命で建立され、以降、大火、地震などの災害死、牢死、刑死、行き倒れ、人間だけでなく捨てられた犬猫も供養する無縁の寺として機能してきました。

 

話しを化野無縁仏に戻します。

周辺から掘り出された無縁仏を列にして並べたのが化野ですが、同じ掘り出された無縁仏でも、積み上げたのが、高野山奥の院の無縁塚です。

    高野山奥の院の無縁塚

奥の院は全域が墓域ですからどこを掘っても墓が出てくるといわれます。

そうして掘り出された無縁仏のうち、お地蔵さんだけを集めて積み上げたのが、高野山奥の院の無縁塚。

 多数の無縁仏を一か所に集め、展示しながら保存する手法として、ピラミッド形式を採用するのは当然のような気がしますが、最初に創出した人はエラい。

高野山の無縁塚が日本最初かどうかは不明ですが、東京周辺の無縁塔は高野山の模倣ではないかと思えてなりません。

無縁塔ピラミッドでも、文字碑だけの塔は凹凸がなくすっきりしていますが、単調であっさりした感じ。

 

  東源寺(深谷市)           安龍寺(鴻巣市)  

右の安龍寺の塔は、二段目に石仏を並べて変化をつけています。

       光園寺(文京区)

光園寺の場合は、石仏無縁塔ですが、高く積み上げないで、2塔にしています。

しかし、大抵は高く積み上げてあるのが普通。

積み上げるのなら高く、高くというのは、人の性というものでしょうか。

     祥善寺(みどり市)

積み重ねられた墓標は、約2000基。

仰ぎ見る高さです。

上尾市の遍照院の無縁塔も高い。

   遍照院(上尾市)

 

珍しく階段がある。

登ってみた。

頂上の2本の影は、地蔵菩薩立像とカメラを構える私。

無縁塔からの俯瞰写真は珍しいと云えるでしょう。

ピラミッド型無縁塔には、別なタイプがあって、それは「嵌め込み型」。

石仏墓標の光背を埋め込んで、前面だけ並べるもの。

     安養寺(武蔵野市)

 

    宝泉寺(中野区)

 

 

      自性院(江戸川区)

 

  宗清寺(中野区)

宗清寺の無縁塔のてっぺんに立つのは、地蔵菩薩ですが、ほとんどの無縁塔の塔頂には、石仏か石碑、石塔が立っています。

石仏でも何種類かある。

一番多いのは、地蔵菩薩。

≪地蔵菩薩≫

  大梅寺(小川町)

      秀明寺(大田区)

       昌福寺(野田市)

    福昌寺(印西市)

  祥禅寺(みどり市)

≪六地蔵≫

   自性院(江戸川区)

≪観音菩薩≫

  蓮華寺(匝瑳市)

  宝幢院(大田区)

  如意輪観音、真盛寺(杉並区)

  円融寺(足立区)

≪阿弥陀如来≫

 

   誓願寺(荒川区)

      福寿院(久喜市)

≪宝篋印塔≫

 

    西蔵院(台東区)

  徳願寺(市川市)

     南蔵院(足立区)

≪層塔≫

 

      西門寺(足立区)

≪五輪塔≫

       霊厳寺(江東区)

≪三界萬霊塔≫

   吸江寺(渋谷区)

   薬王寺(横浜市)

   西照寺(杉並区)

「三界萬霊」の「三界」とは、仏教でいうところの欲界、色界(物質界)、無色界(精神世界)のこと。

無縁の一切精霊を意味し「有縁無縁法界衆生」と同義です。

「法界」とは、無関係の赤の他人のことで、縁もゆかりもなく見捨てられる霊を「無縁法界」と云います。

佐渡島では、無縁仏の膳を「無縁法界さんに進ぜる」といい、無縁法界供養がお盆の重要行事になっています。

 

最後に、無縁仏墓標が多い箇所を二つ。

一つは、茨城県利根町の来見寺。

本堂に向かって左側、台地の斜面一面に無縁墓標がひな壇形式で並んでいます。

その数約1300基。

「無縁塔建立記」によれば、開山以来400年余にできた無縁仏を祀る無縁塔を建立することになり、墓相研究専門家に相談して、ひな壇形式にしたという。

並べる土地があったからひな壇にしたので、土地が狭ければ、ピラミッドになったのではないでしょうか。

 

もう一か所は、稲城市の「ありがた山」。

京王線「けいおうよみうりランド」駅から西へ3分。

「妙覚寺」の脇の坂道を登ってゆくと墓地に出ます。

その墓地をさらに上ると、頂上まで視界いっぱいに無縁仏が飛び込んできます。

 

その数、3000基とも4000基とも言われていますが、正確には分かっていません。

昭和15年から17年頃、太平洋戦争の初期に、東京駒込界隈の寺の墓地の無縁石仏をリヤカーで運んだという伝説だけが残っていて、その経緯を記録した文書はどうやら保存されていないらしいのです。

これだけの膨大な石造物を短期間に運搬するには、相当数の人数が関わったと思われるのですが、記録がないというのは、不思議でなりません。

「ありがた山」という地名も、当時、リヤカーを引きながら「ありがたや、ありがたや」と唱和していたからだともいわれていますが、これも言い伝えで、確認のしようがありません。

とにかく、「壮観」とは、まさにこの光景なり、と断じたくなる無縁仏群なのです。(未完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


53 ペットを葬り、供養する

2013-04-16 05:34:16 | 墓標

 石仏を探して、寺の墓地を歩き回っていると、時々、片隅に小さな墓標を見かけることがある。

  

    新宿区の某寺                  港区の某寺

 ペット霊園などがない頃、寺に頼みこんで作った犬猫の墓であることが多い。

犬猫と一緒なんてとんでもない、という人がいるだろうから、遠慮気味なのも当然かなと思っていたら、墓地の一角にペット専用の墓域を設けた寺にぶつかり、驚いた。

新宿区にある日蓮宗寺院の参道の片側は、、ペット用のロッカー式納骨堂が占めている。

面白いのは、それぞれのロッカーの蓋に、飼主のペットに対する思いが書き込まれていること。

どれも、心からの哀惜の念に満ちている。

 

飼主である人間の墓には、そうした言葉はどこにも見られない。

訣れの言葉を墓に書き込む習慣がないから当たり前だが、そうした習慣があったらどうだろうか。

世間の目を気にした、ありきたりの、空疎なことばの羅列になりそうな気がする。

 

キリスト教では、動物は、人間に利用されるべき存在だと規定する。

動物供養塔などはない。

あれば、偶像崇拝だと批判の対象となりかねない。

一方、仏教では「山川草木悉皆成仏」という言葉があるように、動物の霊魂も人間のそれと同じものとして供養の対象となる。

大楽寺(大田区)の石碑には「太古以来鳥獣虫魚樹木草一切之霊」と刻されている。

     大楽寺(大田区)

鉱物以外なんでもありのようだが、 筆塚や扇子塚、針塚などもあって、供養の対象が生き物とは限らない所が面白い。

  

筆塚 信光寺(北杜市)  扇塚 浅草寺(台東区)   針供養塔 浅草寺(台東区)

「鳥獣虫魚樹木草一切」をもう少し幅を狭めてみよう。

数でいえば、馬頭観音が他を圧倒している。

 

   香林寺(川越市)           常安寺(高崎市)           

覚願寺(世田谷区)に「牛馬の墓」があるが、これなどは例外的珍品に属するのではないか。

 牛馬之墓 覚願寺(世田谷区)

普通は「犬猫の墓」か「動物供養塔」。

  

 不動院(市川市)     福寿院(足立区)    真光院(江戸川区)   

「生類霊供養塔」や「畜霊供養塔」もよく見かける。

 

生類霊供養塔 恵徳寺(高崎市) 畜霊供養塔 遊行寺(藤沢市)

「鳥獣供養碑」とか「禽獣慰霊碑」と「獣」がつく石碑は、郊外の山地に多いようだ。

 

鳥獣慰霊塔 百体観音(本庄市) 畜獣慰霊塔 常福寺(青梅市)

個別の供養塔、慰霊塔となるときりがない。

ほんの一例を示しておく。

いずれも設立理由を知りたいのだが、そこまで調べていない。

すみません。

 

 鳥供養塚 西蔵院(台東区)           狸獣墓 誓願寺(荒川区)

 

 鳩塚 大雪寺(江戸川区)         蜜蜂供養塔 飯山観音(厚木市)

 

 乳牛供養塔 大悲願寺(あきるの市)     象供養 護国寺(文京区) 

 

うなぎ供養塔 妙行寺(豊島区)  魚鱗甲貝供養塔 遊行寺(藤沢市)

『どうぶつのお墓をなぜつくるのか』によれば、供養碑のある動物は46種類。

犬、猫、狐、狼、牛、馬、猪、豚、鹿、龍、鼠、狸、像、鯨、海豚、海馬、ラッコ、オットセイ、蛇、蛙、亀、スッポン、鴨、鵜、鳥、雀、鶴、白鳥、鶯、水鶏、蚕、虫、蝉、魚、鮭、鰻、河豚、鰹、鮟鱇、鮪、蟹、海老。

人間の生命や生活がいかに多くの動物たちの犠牲の上になりたっているか、改めて認識させられる。

「山川草木悉皆成仏」だから、植物の供養塔もある。

 

 花供養塔 福昌寺(渋谷区)       草木供養塔 泉龍寺(狛江市)

本筋の動物供養に話を戻そう。

供養の動機には、食用、あるいは使役の犠牲となった動物への贖罪の念が大きい。

もう一つ大きな動機がある。

哀惜の念。

個々の供養塔の数からすれば、この動機によるものが圧倒的に多い。

ペット供養は、哀惜の念によるものだからである。

しかもその数は増えるばかりだ。

少子化が叫ばれて久しいが、反比例して伸びているのが、ペットの数。

2003年には、犬猫の数が15歳未満の子供の数を初めて上回った。

犬猫1922万4000頭に対して子供の数1922万3000人。

5年後の2008年には、その差はさらに広がって、犬猫2683万頭に対し、子供の数1850万人となった。

子供の代わりにペットを飼い、子供のように慈しんで育てることになる。

家の中で飼うようになり、寝るのも一緒。

「ペットは家族の一員」だから、その死は家族の死に等しい。

犬猫の死体は、現行法では、ごみ(廃棄物)扱い。

ペットの死体処理には、4つの方法がある。

①自宅の庭に埋める
②ごみとして行政に処理してもらう
③民間業者に火葬を依頼し、遺骨を自宅で保存する。
④業者に火葬を依頼し、ペット霊園に埋葬する

埋めたくても庭がない。

しかし、家族の一員だからゴミとして出すのは忍びない。

だから必然的に④が増える。

不況下の日本にあって、ペット火葬、霊園業界は、10年前に比べ5倍も膨張する急成長産業として注目されるようになる。

そして、ペットの家族化、パートナー化は、この業界に新たな変化をもたらし始めた。

それは、人とペットの共葬墓ブーム。

「私たちと同じ墓にペットも埋葬したい」と希望する人が60%近くもいることが、2006年に行った意識調査で明らかになった。

そういえば、この1,2年、石仏を探して墓地を回っているとペットの石像がある墓に出会うようになった。

 

      K院(久喜市)                     F院(市川市)                      

 

 

     F院(市川市)               E寺(さいたま市)

 共葬墓ブームと書いたが、旧来の墓地ではその数はまだまだ少ない。

しかし、ネットで検索するとペット共葬墓は何カ所もヒットする。

全部、新しい墓地で、特に首都圏に多いようだ。

一般の霊園の一角に共葬墓区画を設ける時には、霊園の最奥に配置するなど、動物嫌いの人たちに配慮した設計になっているという。

こうした新規企画の墓地を手掛けるのは、宗教とは無関係の業者が多い。

では、なぜ、寺は指をくわえてそれを見過ごしているのか。

どうやら税金と関係があるようなのだ。

墓地の一角のペット霊園に対する課税の是非を巡る裁判で、動物供養は宗教行為ではないから課税は妥当との判決が出た。

宗教施設として非課税に慣れている寺院関係者はショックを隠しきれない。

『寺門興隆』という住職向け雑誌では、その判決の不当性を訴える特集が何度も組まれている。

民間業者と同じ事業をしながら、寺だから税制優遇を受けるのは不公平というのが、税務署の判断。

これに対して、そもそも動物供養と云う寺の宗教行為を業者がまねをして事業を始めたのであって、その事業と同じだから宗教法人本来の用ではないと決めつけるのは論理的に矛盾していると寺側は反論している。

急成長拡大ペット火葬、霊園業のおいしいところを民間業者に横取りされて、寺院側も黙ってはいられないだろう。

どのような対抗措置をとって出るのか、勝負の成り行きが楽しみだ。

 

 

 

 

 

 


39 My石仏ミス板橋

2012-09-16 05:44:21 | 墓標

今年の夏は、暑かった。

今、74歳。

ギラギラ照りつける太陽にひるんで、外出しなかった。

9月に入っても、気温は下がらない。

外出しないから、更新日が近付くけれどブログに載せる材料がない。

仕方ないから保存フアイルから材料を探すことにした。

選び出したのは、上の一枚。

石仏墓標の如意輪観音像。

私が秘かに「石仏ミス板橋」と呼んでいる美人だ。

彼女の居場所は、板橋区西台の「円福寺」。

「円福寺」は太田道灌開基の曹洞宗寺院です。

本堂に向かって左の通路わきの無縁仏群の中に彼女はいます。

                             最下段、前列右端が「ミス板橋」

身長50㎝、横幅28㎝。

耐久性に優れた小松石らしく、つい最近彫ったかのような保存状態。

まどろんでいるのか、思案中なのか、眼は閉じてはいるけれど、はちきれんばかりの若さがにじみ出ている。

ほとばしる若さを内に秘めて、その秘めた重さにじっと耐える、そんな風情があります。

柔らかいけれど、弾力ある頬。

石であることを忘れさせる皮膚感。

指で突けば、プクンと跳ね返ってきそう。

鼻筋の通った太い鼻。

意志が強そうです。

今にもしゃべりだしそうなおちょぼ口。

子どもの頃は、さぞやおしゃまでお転婆で、口をとがらせて大人をやりこめたに違いない。

なでやかな肩の線に、彼女の優しさを感じます。

頭の宝冠と額の白毫相を除けば、現代少女の彫像としても通用しそうです。

かぎりなく写実的で、かぎりなく美しく、かぎりなく安らかな・・・

大量生産品なので、類型的な像容が多い墓石仏ですが、中には造形の技を超えて見る者を魅惑する作品があります。

これは、その典型例でしょう。

 

彼女の命日は、享保19年12月18日。

江戸の石仏墓標は、元禄から享保年間にかけて、ひとつのピークを迎えます。

それは武門社会から町人経済社会へと江戸の町が変わって行くのと軌を一にするものでした。

江戸時代、墓には、身分制による厳しい不文律があった。

武家の墓は台石の上に石塔、石碑が立つ墓でしたが、町民の墓は地面に直か建ての一石墓しか許されなかったのです。

        武家の墓 大円寺(文京区)

金持ちの町民たちは考える。

一石墓で武家墓を凌ぐにはどうするか。

仏像を彫った細工墓が、かくして流行することになるのです。

 墓標仏として選ばれたのは、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、地蔵菩薩、観音菩薩など。

 釈迦如来 宗慶寺(文京区)         阿弥陀如来 西門寺(足立区)

 大日如来 円乗院(さいたま市)         地蔵菩薩 不動院(足立区) 

  聖観音菩薩 大秀寺(葛飾区)

 

女性の墓には観音さまが多いのですが、とりわけ人気があったのが如意輪観音でした。

               円福寺(板橋区)

本来、仏様は中性的であるはずですが、、如意輪観音の姿態は女性的で、そこが好まれたのでしょうか。

女性が集う十九夜塔の主尊が如意輪観音であることも同じ理由でしょう。

女性的な造形であるだけに、墓石仏は、故人の面影が偲ばれがちで、哀切感がまつわりつくことになります。

 

では、彼女はどんな女性だったのか。

戒名は「妙寥禅定尼」。

同じ無縁仏群の中に、同一石工の手になると思われる享保19年の如意輪観音像がありますが、こちらは「理音智聲信女」。

曹洞宗の戒名としては、「禅定尼」は「信女」より位が高く、江戸時代では武家か武家に出入りしていた町人で、寺に多大な寄進をした旦那とその係累に許された位号でした。

信心深いことも要件の一つ。

江戸時代の板橋地方は、天領、大名領、旗本領、寺領が複雑に入り組んでいました。

西台は、天領でした。

米と野菜畑の純農村。

西台の代官屋敷に出入りする名主かその係累が、彼女の生家だったと思われます。

 

本来、仏には眉がない。

ですから石仏からこんなことを類推するのは邪道なのですが、彼女には黒々とした眉があるように見えます。

引き眉(眉を剃る)でないということは、未婚の16,17歳の女性を意味します。

記録では、享保18年、19年と疫病が猛威をふるったとあります。

疱瘡(天然痘)にかかって死亡したのか。

あるいは麻疹(はしか)が悪化して老咳(結核)になったのでしょうか。

戒名に「寥」の文字があります。

若い娘の前に洋々とと広がっていた未来が、思いがけない病で、突然、閉じてしまう。

残された親の切なく、侘しい心が「寥」に込められているように思えます。

 

 当時、石仏墓標は全部既製品でした。

同一石工の作品と思われる2体は、顔を除いてほぼ似通っています。

「円福寺」に出入りの石屋が、たまたま亡くなった娘を知っていて、既製品の顔を彫り直した。

肖像があまりに似ているので、両親は驚いた。

私の想像は、膨らむばかりです。

美人というよりも、顔立ちのはっきりした、しゃしゃきした物言いの、17歳の名主の娘。

おきゃんで、おしゃまな小娘から脱皮したばかりの小粋で、信心深い若い女性でもあります。

私が、「石仏のミス板橋」と勝手に認定する女性像は、まとめれば、こんなところでしょうか。

 

愛嬌はこぼれてへらぬ宝也
(こぼれるばかりの愛嬌は、いくら振りまいても減ることのない娘の宝)

うちわではにくらしい程たたかれず
(夏の夕、ひやかす男をうちわでたたいて怒ってみせる娘は猫にしゃべる)

くどかれて娘は猫にものを言い
(「いやだねえ、三毛、こんな人」。恥じらいが清らかな媚態になっている)

抱いた子にたたかせてみる惚れた人
子をだけば男にものが言い安し
(面と向かっては何も言えなくても近所の子を抱いていれば気がおおきくなる、が)

借りた子に乳(ち)をさがされてちぢむなり

そうした娘にも好きな男ができる。
白状をむすめは乳母にしてもらひ
(好いた男のことなど親に話せない。お嬢様の窮状を救うのは、百戦錬磨の乳母)

そして、めでたく縁談へと。
はだかでといへば娘はをかしがり
(「支度はいらないからはだかで来て」と仲人。「はだか」という言葉に過敏に反応する若い娘の羞恥心が初々しい)

柳樽ちいさい恋はけちらかし
(柳樽は結納に贈る酒樽。あれやこれや、ままごとじみた恋もあったけれど・・・)

「石仏ミス板橋」もこうした道を歩むはずだった。だが、病がすべてを狂わせた。
死んでから親は添わせてやりたがり

今は、墓石仏として「円福寺」におわすのだが、なにしろ曹洞宗寺院だから
あいそうのわるい石碑を禅は建て
(酒気帯びで寺へ入ってはいかんと「不許葷酒入山門」の石碑が門前に立っている)

 

 円福寺山門前

 

私は今、某カルチャーセンターの「石仏めぐり」の講座を受講しています。

その講師のKさんは、日本石仏協会の古参幹部で板橋の歴史にも詳しい専門家です。

「石仏ミス板橋」の人物像のヒントを得たいと思い、時間を割いてもらいお会いしました。

Kさんは穏やかな人柄ですから、頭から拒絶するなどということはないのですが、私の求めにやんわりとNOと云うのです。

「石仏に魅せられたからと云って、抒情的な情念で石仏との交流を図ろうとする石仏愛好家が多いけれど、史実を無視したそうしたアプローチは無意味だからやめたほうがいい」。

「石仏に故人の面影を探すなんていうことは、徒労だ。大量生産の既製品の石仏に特定の個人の肖像があるはずがない」。

「あなたは、円福寺に出入りの石屋がたまたま名主の娘を知っていたからと想像するけれど、当時、この広い板橋に石屋はたった3軒しかなかった。蕨の石屋が板橋に入り込んでいたぐらいで、石屋が故人を知っていたなどと想像するのには無理がある」。

正しい意見に反論の余地はありません。

ありがたい助言に謝意を表して別れました。

にもかかわらず、このブログ「My石仏ミス板橋」を書いたのは、急きょ変更して締め切りに間に合う他のテーマが見当たらなかったからです。

だから、せめてタイトルを変えたい。

「妄想?!My石仏ミス板橋」。

 

 

川柳は『江戸川柳を楽しむ』神田忙人・朝日選書より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


12  謎の「烏八臼(ウハッキュウ)」

2011-09-01 09:44:41 | 墓標

今年、73歳。

この歳になると物事に動じなくなる。

感受性が鈍くなってきたからだろうか。

だが、先日は驚いた。

電車で娘にばったり出くわした。

娘といっても、大学生の息子がいるおばさんなのだが。

午後1時ころ、所沢から西武線で池袋に向かっていた。

吊革につかまっている後姿が似ているので、思わず声をかけた。

声をかけられた娘も、こんなところに父親がいるとは思わないから振り向きもしない。

三度めでやっと振り返った。

「え、どうして?」

二人してその奇遇に驚きあった。

 

実は、この日の午前中、もうひとつ、偶然の出会いがあった。

来迎二十五菩薩石像を見るために、武蔵村山市の「滝の入不動」へ行った。

その帰り道、「バス停長円寺」でバスを待つ間、石仏でも見ようかと「長円寺」へ寄ってみた。

        長円寺(武蔵村山市本町3)     「烏八臼」板碑型墓標

ありきたりの曹洞宗寺院だったが、本堂裏の墓地の入り口の3基の墓標を見て驚いた。

その上部に「烏八臼」が刻まれていたからである。

 

漫然と墓地を歩いていて、「烏八臼」に出会う確率は1万分の1よりも小さいだろう。

それほど珍しい出来事なのである。

都内23区を例にとれば、各区に「烏八臼」の墓のある寺は1,2か所。

1区に5基もあれば、多い方なのだ。

1基もない区が8区もある。

「烏八臼」は「ウハッキュウ」と読む。

墓標の戒名の上に「帰真」とか「帰元」などの文字があるが、「烏八臼」も戒名の上に刻まれている。

 

罪滅成仏の功徳を与える文字記号らしいのだが、その意味合いは判然としない。

『日本石仏事典』には9種類の字義が挙げられ、「烏八臼をたずねて」(関口渉)『日本の石仏』NO

115では、なんと19種類もの字義諸説が列挙されている。

そもそもなんで「烏」と「八」と「臼」なのか不明らしいのだから、お手上げである。

「烏八臼」は室町時代から江戸時代中期の墓標で、曹洞宗寺院の墓地に多く見られる。

「烏八臼」に関する江戸期の文献もあるというのに、今に至るも意味不明というのは、不思議なことと言わなければならない。

 「烏八臼」を知ったのは、『日本石仏事典』でだった。

本編ではなく、付録の部に記載されているから、編集部も自信がなかったのだろう。

字義を特定できないのでは、無理からぬことではあるが。

それでも「へえーっ、面白いことがあるんだ」と思った記憶がある。

初めて実物に出会ったのは、今年6月、町田市の「高蔵寺地蔵堂」でだった。

 

    高蔵寺地蔵堂境内             「烏八臼」の墓碑

ガイド本『新多摩石仏散歩』で「烏八臼」の墓標があることを予め知っていたので驚きはしなかったが、「初物」だったので感慨深いものがあった。

2度目は、野田市「宗英寺」墓地で。

 

 宗英寺の「烏八臼」双式板碑型墓標

7月のことだった。

参考ガイド『石仏見学会83「野田市・関宿城下の石仏」』(日本の石仏NO132)では、「烏八臼」に言及していない。

それなのに「烏八臼」墓標と分かったのは、ブログ「お地蔵さんの石仏あれこれ日記」を見ていたから。

「あれこれ日記」のブログ氏は、『日本の石仏』の「石仏の旅」と「石仏見学会」、それに『石仏地図手帖』のコースを歩いて、石仏写真を載せるのだが、「宗英寺」では「烏八臼」の双式板碑の写真を載せてある。

そこに「烏八臼」墓標があると分かっているのに、中々、見つけられない。

あとで気がついたのだが、「高蔵寺地蔵堂」の「烏八臼」は、「烏」が旁だった。

これが「烏八臼」のフオルムだと思い込んでいたようだ。

「宗英寺」の「烏八臼」は縦型で「八臼烏」の組み合わせだったので、見逃していたらしい。

「烏」と「八「と「臼」の組み合わせは、自在に変化するのだということを初めて知った。

そのことを再確認したのは、「大円寺」(東京・文京区)でだった。

4基の墓が並んでいる。

 

  大円寺(文京区)墓地の「烏八臼」墓標

同一家系の墓標で、右から、慶長、五輪塔の次が寛文、左端が延宝に造立されている。

右端の慶長十五年の墓は、「烏八臼」墓標としては都内最古と目されているらしい。

 

  慶長十五年の「烏八臼」墓標

卍の下に縦に「八臼烏」と刻まれている。

ところが寛永と延宝の墓標の「烏八臼」は横型で「烏」が旁に変わっている。

寛文のは「旧」で延宝は「臼」になっている。

 

    寛文期の「烏八臼」        延宝期の「烏八臼」

江戸時代の初期だから、時代風潮は保守的で、先例が重視された。

ましてや墓標である。

恣意な創意工夫は忌避されたはずである。

慶長年間の先祖の墓に「八臼烏」と縦に組み合わせているものを、寛永になって、何故、横型に変えたのであろうか。

推測するのだが、「烏」、「八」、「臼」の三要素があれば、その組み合わせは自由、罪滅成仏の功徳は不変という言い伝えがあったのではないか。

「烏八臼」が不定形記号となった、これが理由である。(と、思う)

 

不定形記号だから、縦型には、「八」の他に「烏」を冠にするものと「臼」を冠にするものがある。

 

   福昌寺(渋谷区)       松林寺(杉並区)

横型では、「烏」が偏になっているのもある。

 

  円福寺(板橋区)

「八」は変わりようがないが、「烏」と「臼」は変幻自在。

いろいろなパターンが見られる。

 

「烏八臼」墓標のある寺は『日本石仏事典』、「ウハッキュウを考える」金子弘『日本の石仏』NO41ほか一連の金子氏の報告、「烏八臼をたずねて」関口渉『日本の石仏』NO115に記載されている。

僕は板橋区民だが、関口氏によれば、都内で「烏八臼」が一番多い地区は板橋区の48基だそうで、これには意表をつかれた。

都内最多寺院として挙げられた「円福寺」には何度も足を運んでいる。

見栄えのする石仏が多いから、ついつい写真を撮りに行くことになる。

たが、「烏八臼」には気付かなかった。

当時は「烏八臼」そのものを知らなかったのだから、無理もないが。

早速、写真フアイルをチェック。

上部に「烏八臼」が刻まれている石仏が確かに2,3点ある。

早速、「円福寺」に行ってみた。

無縁塔に多数の「烏八臼」を確認。

 

 円福寺(板橋区)                

石仏墓標が多いのが特徴か。

庫裏へ行って住職に訊いた。

しかし、「烏八臼については、何も分からない」という返事。

金子氏や関口氏から問い合わせの電話か手紙があったか聞いたが、そういう記憶はないとのこと。

となると、「板橋区では3か所47基」という記載内容は、板橋区のすべての墓地を歩き回った上での結論ということになる。

これはもうとんでもない労苦の産物と言うほかない。

板橋区だけではなく、東京都内は勿論、関東一円の寺院を網羅しているようだから、その調査の具体像は想像することもできない。

ところで、「烏八臼」の所在地については、ある偏った特徴があるようだ。

板橋区では、「円福寺」に44基、同じ赤塚の「上赤塚観音堂」に2基、「松月院」に1基、計47基となっている。

 

赤塚観音堂の「烏八臼」庚申塔(左) 松月院(板橋区)の「烏八臼」墓標(左)

1か所にドンと多数の「烏八臼」が存在し、周囲の2か所に1-2基ずつあるという図式は、板橋区と境界を隣り合わせの戸田市でも見られるのだ。

戸田市では、市の西部、美女木の「妙厳寺」に44基、近くの「安養寺」と「徳養寺」に1-2基ずつあって、板橋区とまったく同じ形になっている。

 

 妙厳寺(戸田市美女木)には44基の「烏八臼」

 

 徳称寺(戸田市美女)の「烏八臼」 安養院(戸田市美女木)の無縁塔

80基もある行田市の「天洲寺」に行った時も、近くの曹洞宗寺院「清善寺」にも寄って探して見た。

案の定、1基あった。

 

「烏八臼」80基の天洲寺(行田市) 清善寺(行田市)の「烏八臼」五輪塔

なぜ、こんなに濃淡があるのか、理由は不明だが、「烏八臼」そのものの全体像が謎に包まれているのだから、仕方がない。

石仏めぐりに、もう一点、注意を払うべき視点ができたようだ。

いつか、続編を書ければいいなと思っている。