まず、クイズを2題。
基本的な問題で、易しいはずです。
①お釈迦さまが最も好んで唱えたお経は、何か。
②お釈迦さまが最も拝んだ仏像は、何か。
釈迦如来坐像(「聖衆来迎寺」大津市)
同年輩の友人何人かに同じ質問をしてみた。
答えは、そろって、「分からない」。
改めて云うまでもなく、①お釈迦さまが唱えたお経はなく、②拝んだ仏像はない、が正解です。
お経は、お釈迦さまが説いた言葉を弟子たちが書いたものであり、初期仏像はお釈迦さまのお姿でした。
いずれもお釈迦さまが入滅後のことです。
存命中のお釈迦さまが、存在しないお経を唱え、存在しない仏像に手を合わせることはありうるはずがありません。
云われてみれば、至極当たり前のことなのに、友人たちは、なぜ、答えられなかったのか。
大乗仏教の日本では、あまりにも多くの仏像が存在していて、しかもお釈迦さまは必ずしも最上位にランクされていません。
その他大勢の one of themであることも珍しくないのです。
仏像といえば、お釈迦さましかない、小乗仏教の国とは大変な違いです。
友人たちが答えに迷うのも無理からぬことでした。
そうした日本の仏教界にあっても、お釈迦さまが主役のお祭りが宗派を問わず行われる日かあります。
4月8日の花祭り、お釈迦さまの誕生を祝う誕生会です。
天下天上を指す釈迦像を花で飾った花御堂におさめて、甘茶をかける風習が昔から行われてきました。
4月8日(火)、家の近くのお寺へ行ってみました。
毎朝、ラジオ体操に行く途中の「文殊院」(板橋区仲宿)は、山門に「花まつり」の朱文字。
本堂前の花御堂には、甘茶の中に誕生釈迦仏がお立ちになっています。
特筆すべきは、寺のおもてなし。
「ご自由にお持ちください」と花苗が置いてある。
ありがたく、1鉢、頂いて帰りました。
つづいて、「南蔵院」(板橋区蓮沼町)へ。
満開のしだれ桜に紅白幕。
花祭りのムード横溢の境内です。
花御堂の脇に立て看板。
「ネエネエ、なんで甘茶をお釈迦さまにそそぐの?
お釈迦さまのお誕生をお祝いして、天の龍王神が甘い雨を降らせたからよ。
過去、現在、未来のいのちのために、3度、お釈迦さまの頭から甘茶をそそいでお 祝いください」。
今から約2500年前、北インドのカビラ城主の妃麻耶夫人は、白象がお腹に入る夢を見て、懐妊します。
しばらく後、ルンビニー園で無憂樹の枝に彼女が手を伸ばしたとき、右手の脇からお釈迦さまが生まれました。
お釈迦さまは、生まれるとすぐ、7歩あゆみ、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と云いました。
天地が感動し、甘露が降り、蓮弁が舞い、音楽が響いたと伝えられています。
お釈迦様の誕生の7日後、母の麻耶夫人は亡くなります。
花御堂はルンビニー園を、右手をあげたお姿は「天上天下唯我独尊」と云いながら歩く誕生したばかりのお釈迦さまを表しています。
「長徳寺」(板橋区中原町)は、森閑として人気(ひとけ)がない。
満開の桜の濃いピンクが、花御堂の甘茶に映っている。
「甘茶ご希望の方は受付まで」とあるので、インタホーンを押す。
甘茶のティーバッグがこの寺のもてなしでした。
花祭りでの釈迦仏は、いつもは保管されて人目にふれませんが、一年中境内におわす誕生釈迦立像もあります。
普門院(所沢市) 徳満寺(利根町)
誕生のお姿があれば、入滅時のお姿もあります。
東光院(印西市)
正覚院(八千代市)
最後の息を引き取ったのは、クシナガラの沙羅双樹の下、釈迦80歳の2月8日のことでした。
福性寺(北区)
徳満寺(利根町)
徳満寺の寝釈迦の参道の向こう側には、釈迦誕生仏が立っています。
釈迦の生と死を対照的に見せているわけです。
こうした涅槃像だけからは分からないのですが、お釈迦さまの周りには別れを悲しむ多くの弟子たちと動物がいることが、レリーフには描かれています。
多門院(世田谷区)
上のレリーフは「天竺渡来石彫涅槃図」。
インド政府の協力で、奈良の壺坂寺に建立された大仏伝図(高さ3m、延長50m)のミニチュア。
写真の撮り方が下手で、判然としませんが、レリーフの上段は涅槃図。
下段の右は、四門出游、左は苦行の図が二つ並んでいます。
四門出遊は、出家の為、城を脱出するコ゛ータマ・シッタルーダ(釈迦)。
王子として何不自由なく暮していたシッタルーダは、19歳で結婚、一子をもうけます。
しかし、王子の心の中の無常感は増大するばかり。
城の外へ出たことがなかったシッタルーダは、ある日、西の門から出て、老衰した老人に出会って、老いを知り、南門では病人と出会って、病苦を知り、東門では葬列に出会って、死を知ることになります。
人間の老病死を初めて目にして、シッタルーダは動揺しますが、北の門で出会った修行者の姿に感動して、自ら苦行することを決意します。
そしてついに、従者一人をつれて愛馬に乗り、城を脱出したのでした。
シッタルーダは乞食となり、隣の国マガタ国で断食を主とした苦行を始めます。
四門出遊の丸彫り石像にはまだ出会っていませんが、苦行像はあります。
善勝寺(前橋市) 玉林寺(あきるの市)
石彫にしやすい像容だからでしょうか。
肉体を痛めつける苦行は6年続きましたが、心の満足は得られず、苦行を止めてブッダガヤに移り、菩提樹の下で禅定(心静かに人間本来の姿を瞑想すること)に入ります。
苦行を止めたシッタルーダを堕落したとみなして、苦行を共にしてきた5人の修行者は彼のもとを立ち去ります。
西光院(川口市)
瞑想するシッタルーダを悪魔が誘惑、悟りの成就を妨害します。
弓矢と刀の悪漢や誘惑する美女こそ、彼の心の中の、欲望、嫉妬、葛藤でした。
降魔成道像の特徴は、右手を地面に下げる降魔印。
瞑想すること6年後の12月8日、明けの明星輝くとき、シッタルーダはついに悟りを得て、仏陀となります。
この時、シッタルーダ35歳。
仏典では、これ以前を菩薩、以降を如来として区別しています。
釈尊が得た悟りの内容は難しくて、俗人に理解できるとは思えず、彼は悟りを人に説くつもりはありませんでした。
しかし、「是非に」と天界の代表・梵天の要請を受けて、釈尊は初めて説法を行います。
最初の聞き手は、苦行を止めたシッタルーダから立ち去った5人。
5人は、釈尊の、最初の弟子となります。
レリーフの右下に5人の姿が描かれています。
最初の説法をするお姿は、初転法輪像と云います。
「法輪」とは、説法のこと。
「初転」とは、最初の意。
初転法輪像の印相は、説法印です。
悟りを得てから45年、80歳で入滅するまで、釈尊はインド各地で教えを説きました。
その時の印相は、施無畏印、与願印。
「畏れなくていいですよ、願をかなえてあげますよ」という釈尊の気持ちを表した印相だといわれています。
この施無畏印、与願印の釈迦像が石仏としては、最も多いものと思われます。
徳満寺(利根町)
滝の入不動(武蔵村山市)
一か所でお釈迦さまの生涯を、石仏で見るなら、川口市戸塚の西光寺がお勧め。
彼の生涯の重要場面を表す6体の石像が境内に並んでいます。
まず生涯を簡単に記す釈尊伝。
その横に立っているのは、修行者として城を脱出したばかりのシッタルーダでしょうか。
西光寺の年若い住職に訊いたのですが、「分からない」とのことでした。
誕生釈迦仏
出家苦行像
降魔成道像
初転法輪像
最初の説法を聞く5人の随行修行者たち
初転法輪像の向こうに涅槃像(逆光で黒く、像容は分からない。すみません)
涅槃像
≪参考図書≫
○日本石仏協会『石仏探訪必携ハンドブック』2004
○犬飼康裕「石仏で見る釈迦の生涯」『日本の石仏』NO136 2010年冬号
◇「お釈迦様・釈迦牟尼仏について」http://www.ueda.ne.jp/~houzenji/sub46.html