石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

77 4月8日は花まつり!石仏で知る釈迦の生涯

2014-04-16 05:48:28 | 石仏

まず、クイズを2題。

基本的な問題で、易しいはずです。

①お釈迦さまが最も好んで唱えたお経は、何か。

②お釈迦さまが最も拝んだ仏像は、何か。

     釈迦如来坐像(「聖衆来迎寺」大津市

同年輩の友人何人かに同じ質問をしてみた。

答えは、そろって、「分からない」。

改めて云うまでもなく、①お釈迦さまが唱えたお経はなく、②拝んだ仏像はない、が正解です。

お経は、お釈迦さまが説いた言葉を弟子たちが書いたものであり、初期仏像はお釈迦さまのお姿でした。

いずれもお釈迦さまが入滅後のことです。

存命中のお釈迦さまが、存在しないお経を唱え、存在しない仏像に手を合わせることはありうるはずがありません。

云われてみれば、至極当たり前のことなのに、友人たちは、なぜ、答えられなかったのか。

大乗仏教の日本では、あまりにも多くの仏像が存在していて、しかもお釈迦さまは必ずしも最上位にランクされていません。

その他大勢の one of themであることも珍しくないのです。

仏像といえば、お釈迦さましかない、小乗仏教の国とは大変な違いです。

友人たちが答えに迷うのも無理からぬことでした。

そうした日本の仏教界にあっても、お釈迦さまが主役のお祭りが宗派を問わず行われる日かあります。

4月8日の花祭り、お釈迦さまの誕生を祝う誕生会です。

天下天上を指す釈迦像を花で飾った花御堂におさめて、甘茶をかける風習が昔から行われてきました。

 

4月8日(火)、家の近くのお寺へ行ってみました。

毎朝、ラジオ体操に行く途中の「文殊院」(板橋区仲宿)は、山門に「花まつり」の朱文字。

本堂前の花御堂には、甘茶の中に誕生釈迦仏がお立ちになっています。

特筆すべきは、寺のおもてなし。

「ご自由にお持ちください」と花苗が置いてある。

ありがたく、1鉢、頂いて帰りました。

 

つづいて、「南蔵院」(板橋区蓮沼町)へ。

満開のしだれ桜に紅白幕。

花祭りのムード横溢の境内です。

花御堂の脇に立て看板。

ネエネエ、なんで甘茶をお釈迦さまにそそぐの?
 お釈迦さまのお誕生をお祝いして、天の龍王神が甘い雨を降らせたからよ。
 過去、現在、未来のいのちのために、3度、お釈迦さまの頭から甘茶をそそいでお  祝いください」。

今から約2500年前、北インドのカビラ城主の妃麻耶夫人は、白象がお腹に入る夢を見て、懐妊します。

しばらく後、ルンビニー園で無憂樹の枝に彼女が手を伸ばしたとき、右手の脇からお釈迦さまが生まれました。

お釈迦さまは、生まれるとすぐ、7歩あゆみ、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と云いました。

天地が感動し、甘露が降り、蓮弁が舞い、音楽が響いたと伝えられています。

お釈迦様の誕生の7日後、母の麻耶夫人は亡くなります。

花御堂はルンビニー園を、右手をあげたお姿は「天上天下唯我独尊」と云いながら歩く誕生したばかりのお釈迦さまを表しています。

 

「長徳寺」(板橋区中原町)は、森閑として人気(ひとけ)がない。

満開の桜の濃いピンクが、花御堂の甘茶に映っている。

「甘茶ご希望の方は受付まで」とあるので、インタホーンを押す。

甘茶のティーバッグがこの寺のもてなしでした。

 

花祭りでの釈迦仏は、いつもは保管されて人目にふれませんが、一年中境内におわす誕生釈迦立像もあります。

 

  普門院(所沢市)          徳満寺(利根町)

誕生のお姿があれば、入滅時のお姿もあります。

  東光院(印西市

    正覚院(八千代市)

最後の息を引き取ったのは、クシナガラの沙羅双樹の下、釈迦80歳の2月8日のことでした。

       福性寺(北区)

   徳満寺(利根町)

徳満寺の寝釈迦の参道の向こう側には、釈迦誕生仏が立っています。

釈迦の生と死を対照的に見せているわけです。

 

こうした涅槃像だけからは分からないのですが、お釈迦さまの周りには別れを悲しむ多くの弟子たちと動物がいることが、レリーフには描かれています。

      多門院(世田谷区)

上のレリーフは「天竺渡来石彫涅槃図」。

インド政府の協力で、奈良の壺坂寺に建立された大仏伝図(高さ3m、延長50m)のミニチュア。

写真の撮り方が下手で、判然としませんが、レリーフの上段は涅槃図。

下段の右は、四門出游、左は苦行の図が二つ並んでいます。

四門出遊は、出家の為、城を脱出するコ゛ータマ・シッタルーダ(釈迦)。

王子として何不自由なく暮していたシッタルーダは、19歳で結婚、一子をもうけます。

しかし、王子の心の中の無常感は増大するばかり。

城の外へ出たことがなかったシッタルーダは、ある日、西の門から出て、老衰した老人に出会って、老いを知り、南門では病人と出会って、病苦を知り、東門では葬列に出会って、死を知ることになります。

人間の老病死を初めて目にして、シッタルーダは動揺しますが、北の門で出会った修行者の姿に感動して、自ら苦行することを決意します。

そしてついに、従者一人をつれて愛馬に乗り、城を脱出したのでした。

 

シッタルーダは乞食となり、隣の国マガタ国で断食を主とした苦行を始めます。

四門出遊の丸彫り石像にはまだ出会っていませんが、苦行像はあります。

 

 善勝寺(前橋市)         玉林寺(あきるの市)

石彫にしやすい像容だからでしょうか。

肉体を痛めつける苦行は6年続きましたが、心の満足は得られず、苦行を止めてブッダガヤに移り、菩提樹の下で禅定(心静かに人間本来の姿を瞑想すること)に入ります。

苦行を止めたシッタルーダを堕落したとみなして、苦行を共にしてきた5人の修行者は彼のもとを立ち去ります。

 西光院(川口市)

瞑想するシッタルーダを悪魔が誘惑、悟りの成就を妨害します。

弓矢と刀の悪漢や誘惑する美女こそ、彼の心の中の、欲望、嫉妬、葛藤でした。

降魔成道像の特徴は、右手を地面に下げる降魔印。

 

瞑想すること6年後の12月8日、明けの明星輝くとき、シッタルーダはついに悟りを得て、仏陀となります。

この時、シッタルーダ35歳。

仏典では、これ以前を菩薩、以降を如来として区別しています。

釈尊が得た悟りの内容は難しくて、俗人に理解できるとは思えず、彼は悟りを人に説くつもりはありませんでした。

しかし、「是非に」と天界の代表・梵天の要請を受けて、釈尊は初めて説法を行います。

最初の聞き手は、苦行を止めたシッタルーダから立ち去った5人。

5人は、釈尊の、最初の弟子となります。

レリーフの右下に5人の姿が描かれています。

最初の説法をするお姿は、初転法輪像と云います。

「法輪」とは、説法のこと。

「初転」とは、最初の意。

 初転法輪像の印相は、説法印です。

 悟りを得てから45年、80歳で入滅するまで、釈尊はインド各地で教えを説きました。

その時の印相は、施無畏印、与願印。

「畏れなくていいですよ、願をかなえてあげますよ」という釈尊の気持ちを表した印相だといわれています。

この施無畏印、与願印の釈迦像が石仏としては、最も多いものと思われます。

 徳満寺(利根町)

 滝の入不動(武蔵村山市)

一か所でお釈迦さまの生涯を、石仏で見るなら、川口市戸塚の西光寺がお勧め。

彼の生涯の重要場面を表す6体の石像が境内に並んでいます。

まず生涯を簡単に記す釈尊伝。

その横に立っているのは、修行者として城を脱出したばかりのシッタルーダでしょうか。

西光寺の年若い住職に訊いたのですが、「分からない」とのことでした。

 

     誕生釈迦仏

      出家苦行像

     降魔成道像

     初転法輪像

  最初の説法を聞く5人の随行修行者たち

 初転法輪像の向こうに涅槃像(逆光で黒く、像容は分からない。すみません)

           涅槃像

≪参考図書≫

○日本石仏協会『石仏探訪必携ハンドブック』2004

○犬飼康裕「石仏で見る釈迦の生涯」『日本の石仏』NO136 2010年冬号

◇「お釈迦様・釈迦牟尼仏について」http://www.ueda.ne.jp/~houzenji/sub46.html

 

 

 

 

 

 

 


76 図録!普門寺(本庄市)の四十九院本尊石仏

2014-04-01 07:17:56 | 石仏

無知ゆえに宝の山にいて、それとは知らず過ごすことがある。

足利市の行道山の石仏群の只中で私が体験したのは、まさにそのことでした。

行道山は、寝釈迦が横たわる山として有名です。

足利市街を一望できる絶景地に、お釈迦さまは横たわっています。

絶景地ということは、険しい山地の上ということ。

重量のある石仏がおわす場所としては、あまりにも予想外で、それだけに寝釈迦さまは、来訪者にインパクトを与えます。

私は、若杉慧氏の『石仏の運命』でその存在を知りました。

<阿波野青畝氏の句に「一の字に遠目に涅槃したまへる」といふのがあり、山本健吉氏は註して、「寝釈迦像であるからもちろん目を閉ぢているが、心なしか薄目をあけて、遠い海岸を望んでいるやうでもある」と。
ここは足利市郊外行道山山頂。松風を子守唄に赤ちゃんがねんねしている。両足先をチョンと揃えたところも可憐である。「為華獄蓮芳童女」の銘はすこしいかめしすぎるようだ。享保四年。像と臺とを一石に掘り出したものだが、それがこんにちのマットレスの寝臺のやうに見える。ここから北関東平野一望。
「涅槃」とは煩悩の炎を吹き消すの意だが、そんなもので胸を燃やさぬうちに早世した童女に思はれる>。若杉慧『石仏の運命』より

現地へ行って分かったことは、寝釈迦の周りには、数十基もの石仏が散在していること。

そのどれもが、私には初めて見るものばかり。、

よく見ると仏名を刻んだ石仏もありますが、その仏名は見聞きしたことがなく、なじみがありません。

だから、適当に10体ほど撮って、お終いにしたのですが、これが大失敗でした。

これらの石仏群が、四十九院本尊石仏だと知ったのは、大分、後になってのことです。

その時も「四十九院」についてまったく知識がなく、興味がないので、聞き流していました。

「大失敗だった」と悟ったのは、つい、最近のこと。

この四十九院本尊石仏は、全国でも珍しい石仏で、ここ行道山と埼玉県本庄市の普門寺というお寺にあるだけということが分かったのです。

日本で2か所にしかない宝物のような石仏!

予め知っていれば、もっと丹念に撮影したものを、と悔やまれます。

心臓疾患を抱える私が、行道山へ再度登る可能性があるとは思えないからです。

 

多分、みなさんもご存じないでしょうから、ここで四十九院早わかり講座。

四十九院とは、兜率天(とそつてん)の内院にある四十九の宮殿のこと。

兜率天は、弥勒菩薩の住む弥勒浄土のことです。

御存じのように、弥勒菩薩は釈迦入滅の56億7000万年後、兜率天から地上に降りて釈迦に代わって衆生を救済するとされている未来仏。

末法思想が横行した平安時代後期、弥勒信仰が広がります。

弥勒信仰の普及とともに、死者が弥勒浄土に生まれ変わるように人々が願うようになるのは、自然の成り行きでした。

では、具体的にどうしたか。

①死者を埋葬した場所に4本の柱を立て、柱と柱の間を板塔婆が柵状に並ぶ正方形の区画を作る。

②並べる板塔婆の数は、兜率天の内院の四十九院にちなんで49本。

③それを入口のある正面に6本、左右側面に14本ずつ、背面に15本、計49本並べる。

④板塔婆には四十九院それぞれの院名と種子を書き、一番から順に決められた通りに並べる。

要するに兜率天のミニチュアを作って、死後の安寧を祈願したわけです。

この手法は日本中に広がりました。

中でも高野山奥の院の大名家の墓は、巨大な石柱塔婆の四十九院廟として有名です。

正応2年(1653)の裏書のある『高野山絵図』には、「これより奥の院、左右に四十九院石塔数多く」とあることから、ブームになっていたことが分かる。

現在でも20基が残っています。

 庶民レベルでは、埋葬地上に49本の板塔婆で囲む「ラントウ」やその板塔婆に屋根をのせる「シズクヤ」が広くとり行われてきました。

これらは木製四十九院。

石造物としては、石堂墓石の外壁に49本の卒塔婆を陽刻・線刻した四十九院塔が北関東一円で見られます。

 天龍寺(本庄市旧児玉町)

 

 49本の塔婆が刻まれている

こうした葬送施設としてではない四十九院建造物もある。

私の故郷・佐渡には、建物の周りを49本の卒塔婆で囲む四十九院垣堂があります。

    管明寺(佐渡市新穂)

塔婆の並べ方は、正面6本、左右14本、背面15本としきたり通り。

塔婆に囲まれてお地蔵さんが座しておわします。

 

 

兜率天には、中央の弥勒菩薩を取り囲むように48の宮殿(内院)がありますが、それぞれの院にはしかるべき仏、菩薩がいらっしゃいます。

中には、阿弥陀如来や大日如来もいらっしゃるのですが、弥勒浄土になぜ阿弥陀様がいるのか、摩訶不思議な仏教ワールドというしかありません。

行道山の寝釈迦は、この四十九院本尊の一つでした。

 

院名は、「説法利他院」。

そこにお釈迦様が横たわっているのです。

周囲の石仏も、全部、四十九院本尊ですが、残念なのは、49基揃っていないこと。

不揃いの原因は、石質のもろさによる崩壊と崖からの落下。

刻銘によれば、造立は享保2-4年(1717-1719)、地元足利に四十九院講があったのではないかと中上敬一氏は推測しています。

行道山四十九院本尊石仏は、49体揃っていない。

では、もう一か所の普門寺の石仏はどうなのか。

普門寺のある本庄市旧美里町へ行ってきました。

本堂左わきに整然と一列に49体の石仏が並んでいます。

寝釈迦の台石に「元文四巳未天四月三日」と造立年が刻されていますが、49基全部一緒の造立年なのか、ばらばらなのかは分かりません。

造立から280年近く経たというのに、保存状態が良く、像容と刻文ははっきりとしています。

総ての石仏には、院名、本尊名、戒名、年号、造立者名が刻まれていて、その半数以上に「覚龍」の文字。

この四十九院石仏造立を指導した僧侶の名前でしょうか。

では本邦初公開、普門寺四十九院本尊石仏全図録(*1,2体の写真はあるが、49体全部は初めてではないでしょうか)。

と、おおげさな書き様ですが、これほど有益性に乏しい図録も珍しい。

このブログの読者の誰一人として、「待ち望んでいた」人はいないはずです。

だから、以下、早送りしてご覧ください。

 

石仏群に向かって左から順番にならべてあります。

『釈浄土二蔵義』の四十九院の順序と石仏の順序は無関係なので、要注意。

 

 

左から1番目

第18番 

 三説真実院 覚龍
 善見尊者
     松寿弘春信士

左から2番目

 第21番

 灌頂道場院   覚龍
 金剛菩薩
      開敷蓮盛大姉

 

左から3番目

 第22番

 説法利他院 関口喜左衛門父
 釈迦説法
     深修道観居士

 

左から4番目

 第19番

展明十悪院 覚龍
世親菩薩
   道生信士
   妙香信士 持田左之丞

 

左から5番目

 第6番

 彼但三昧院 □□□□
 転法輪菩薩
    久室恵繁大師

 

左から6番目

 第25番

 法華三昧院 中嶋利兵衛
 多宝仏
  智光院 観連覚翁居士

 

左から7番目

 第9番

鎮国方等院 繁室道昌信士
仏頂尊勝仏 持田松之丞
         □□妙蓮信女

 

左から8番目

 第23番

 常行説法院 関口利左衛門母 
 文殊大士
     明宥智□大師

 

左から9番目

 第24番

 金剛修法院 覚龍 光山智立信士
 大日如来
     □峯□□信女

 

左から10番目

 第17番

 恒修菩薩院 覚龍 
 善財童子
     観心童女

 

左から11番目

 第12番

 多聞天王院 覚龍 映月妙喜信女
 毘沙門天王 法□宥□信女
    妙春信女 □空□信女

 

左から12番目

 第11番

 少欲知足院 亮然淡月信女
 戒波羅蜜菩薩
      芳妙寿信女

 

左から13番目

 

 

 第16番

 常念不動院 
 阿閦如来 覚龍

 

左から14番目

 第13番

 地蔵十輪院 亀蓮
 地蔵菩薩
      貞蓮

 

左から15番目

 

 第14番 

 常念普賢院 覚龍
 普賢菩薩

 

左から16番目

 第15番

精進修行院 覚龍
精進波羅蜜

 

 左から17番目

 第1番

 恒説華厳院 
 毘盧遮那仏

 

左から18番目

 第7番

修習慈悲院 
多羅尊菩薩

 

 

左から19番目

 第5番

念仏三昧院
    大密寺法山閣大和尚 
大勢至菩薩
     小川五丞エ門

 

 左から20番目

 第2番

 守護国土院 
 無量力菩薩

 

 左から21番目

 第4番

般若不断院 
般若力菩薩

 

左から22番目

 第3番

 覆護衆生院 本西法師 
 仏眼本尊 道春信士
     持田八之丞 覚龍

 

左から23番目

 第8番

 常念七仏院 
 毘婆戸仏 京御堂
     菩提院大僧正頼通

 

 

 左から24番目

 第41番

     常越 秀円
     妙参 妙春
 唯学伝法院 
 藷経論蔵
     法印覚性 覚龍

 

左から25番目

 

  第10番

       法印秀誉 覚龍(縦書き)
 常念常楽院 釈迦涅槃(右から左へ横書き) 
       法印重誉(縦書き)

 

 

左から26番目

 第29番

 弥勒説法院 法印玄智 
 弥勒大士 法印久誉 覚龍

 

左から27番目

 第27番

 求聞持蔵院 中嶋利兵衛
 阿難尊者
     真□明覚大姉

 

左から28番目

 第28番

 四大天王院 □□□信女
 梵天王 智密良照信女
         覚龍


 

 

 左から29番目

 第33番 

 平等忍辱院 諏□賓宣法尼
 忍辱波羅蜜菩薩 芳袖蓮貞尼
             覚龍

 

左から30番目

 第36番

 理正天王院 覚龍
 焔魔大王

 

左から31番目

 第31番

 金剛吉祥院 持田松左丞問母 
              覚龍
 吉祥菩薩
     栄雪妙寿信女

 

 左から32番目

 第37番

      松誉貞林法尼
           覚龍
 檀度利益院 
 檀波羅蜜菩薩
       唯法密来信女

 

 

左から33番

 第30番

     持田□□□□父
 施薬悲田院
 薬王菩薩
    空誉清信士
        覚龍 

 

左から34番目

 第38番

 因明修学院 
 竜樹菩薩

 

左から35番目

 第39番

観虚空蔵院 小林権□□父
          覚龍 
虚空蔵菩薩
    雪山安清信士

左から36番目

 第40番

 招提救護員 小林□□□母
 魔訶カ迦葉 順誉妙光信女

 

 

左から37番目

 第42番目

常念惣持院 覚龍
不動明王

 

左から38番目

 第43番

 理観薬師院 覚龍
 
薬師如来
     
小林弥平次
      たて

 

左から39番目

 第45番

 供養三宝院 秋月道詠□□村 
 金剛手菩薩
     薬散道保
        晴雲妙光
           覚龍

 

 

 左から40番目

 第44番

 伴行衆生院 覚龍
 金剛力士 辨良是観法□

 

 左から41番目

 第46番

 労他修福院 □福妙蓮法女
 賓頭盧尊者
  妙蓮信女 覚龍

 

 左から42番目

 第47番

 不二浄名院 妙光
 浄名居士
   妙雲 浄住 覚龍

 

左から43番目

 第48番

 常行如意院 
 禅波羅蜜菩薩 □貴□雷王等菩薩
        至法界平等一如

 

左から44番目

 第49番

 常行律儀院 小栗□□□□
 釈迦牟尼如来
     元文四巳未四月三日
          法印覚龍

 

 左から45番目

 第35番

 安養浄土院 道雪 覚龍
       了春法尼 
 阿弥陀如来
    恵天 栄心法尼

 

 左から46番目

 第32番

 念観文殊院 覚龍
 文殊師利菩薩
        覚雲

 

 

 左から47番目

 第26番

恒念観音院 中□□□□ 
聖観世音菩薩
   真光院観月直雨
          大姉

 

 

左から48番目

 第34番

 造像図書院 
 修補仏像 
  心運栄寿信女 覚龍

 

 

 左から49番目(最後列)

 第20番

如来密蔵院 高橋八之丞 
大日如来
    春誉妙繁信女

 

≪参考図書≫

中上敬一「四十九院の石仏」『日本の石仏NO57』1991年春号

○中上敬一「石祠型四十九院塔の源流」『日本の石仏NO128』2008年冬号

○金子智一「高崎市周辺における近世石堂・四十九院塔について」『高崎市史研究NO19』2004年

◇長澤利明「葬送施設としての四十九院」『民俗の散歩道12』より   
    http://www11.ocn.ne.jp/~oinari/sub7-12.html