石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

132東京の芭蕉句碑巡り-12(品川区、大田区、世田谷区、中野区、練馬区)

2018-01-25 15:59:53 | 句碑

東京には坂が多い。

ユニークな坂名もあって、「暗闇坂」などはその最たるもの。

残念なのは、いくつか「暗闇坂」があることで、ここは、京急鮫洲駅前の旧仙台坂の「暗闇坂」。

更に事態を複雑にしているのは、仙台坂は二つあり、しかも新旧があるという念の入れよう。

この旧仙台坂の暗闇坂の左に、芭蕉句碑がある泊船寺がある。

◇臨済宗・泊船寺(品川区東大井4)

山門脇に品川教委による区指定文化財の説明板が2基。

寺宝の芭蕉と服部嵐雪、宝井其角の座像を説明してある。

本堂左の大きな自然石の句碑が芭蕉のそれ。

いかめしき 音やあられの 檜笠

天保14年(1843)の造立。

碑裏には「芭蕉百五拾回忌建之」と刻され、協賛百余人の俳人名が並んでいる。

境内には、句碑が数基あるが、もう1基あるはずの芭蕉句碑が見当たらない。

そんなに広くもない境内を探し回るが発見できず、庫裡の呼び鈴を押す。

なんと庫裡の玄関わきの「芭蕉像安置」碑が、探す句碑だった。

裏面に句があるので、見つけられないのも無理はない。

旅人と 我名よばれん 初しぐれ

解説書によれば、貞享4年(1687)10月11日、『笈の小文』の旅に出る芭蕉の選別会の席上詠まれた句。

碑面の「芭蕉像安置」は、芭蕉百回忌の寛政5年(1793)、泊船寺に芭蕉堂を建て、その堂内に、深川芭蕉庵の柳で刻んだ芭蕉像を安置したことを記念するもの。

芭蕉像には「いつかまた 此木も朽ちん 秋の風」が添えられていたという。

「芭蕉像安置」碑の反対側には、芭蕉賞賛碑がある。

「はせをの前に芭蕉なく
     芭蕉の後にはせをなし
 芭蕉大なるかなはせをの葉」

◇区立児童公園(大田区多摩川2)

 住宅地のど真ん中、滑り台やブランコがある児童公園の片隅にフエンスに囲われた一画があり、2基の石碑がある。

大きい石碑は、明治天皇御製歌碑。

芭蕉の句碑は、その右にややこじんまりと佇んでいる。

梅香に のっと日の出る 山路かな

 行って見はしなかったが、ここから多摩川までは、3-400m。

なんでこの句がここに?と思う。

その疑問に答えるプレートがあった。

その昔、ここらあたりは梅林として有名で、花見客が押し寄せたのだという。

広さ2000坪、300本の梅の木が咲き競いあっていたらしい。

それにしても、芭蕉句碑に似合わない雰囲気だ。

とりあえず、ま、ここに置いておくか、というような投げやりな感じが漂っている。

民間企業の工場敷地に立っていたものを、ここに移転したのだとか。

廃棄されずにこうして保存されていることはうれしいのだが・・・

◇真言宗・真福寺(世田谷区用賀4)

山門の朱色が鮮やか。

地元では「赤門寺」と呼ばれているのだとか。

開基者は、用賀村の開拓者飯田図書。

永禄年間と推定されている。

芭蕉句碑は、六地蔵の左隣にある。

みちの辺の 槿(むくげ)は馬に 喰はれけり

傍らに説明板がある。

芭蕉句碑
江戸時代後期、用賀村大山道沿いで手広く醤油業を営んでいた商人
鈴木六之助(俳号天由)が建立した句碑
道の辺の木槿は馬に喰われけり
松尾芭蕉が貞享元年(1684)秋、
野ざらし紀行の旅に出て、大井川近くで
詠んだ句。        恭靖

帰途、山門前の長い参道と駅に向かう道との角に「杯状穴」を発見。

「盃状穴」については「凹み穴」と云ったり「椀状凹み」と云ったりして、このブログのNO44,45.55,56,58でも扱っている。ご覧ください。

◇日蓮宗・蓮華寺(中野区江古田1)

 

 中野駅から延びる中野通りが、新青梅街道にぶつかる所に、蓮華寺の石段がある。

日蓮宗寺院にしては、石造物が多い。

芭蕉句碑は、本堂に向かって左の植え込みの中にある。

松の木を挟んで、右に「芭蕉翁」の小碑。

左に1,5mの自然石に句が刻み込まれている。

初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり

私が両親の故郷佐渡へ疎開したのは、昭和20年(1945)3月。

そのまま島の小学校へ入学した。

物資不足で、一クラスに2,3足割り当てのゴム長は、いつも抽選だった。

雨天時の農作業には、蓑を着用した。

蓑を実用した、最後の世代ではなかろうか。

「小蓑」からこんなことが、頭をよぎる。

芭蕉句碑の左、石柵と鉄扉に囲われて、井桁の上の球形は、哲学者井上円了の墓。

蓮華寺の斜め前の哲学堂公園は、東洋大学の創始者井上円了が哲学者養成のために、開設したもの。

 

◇真言宗・南蔵院(練馬区中村1)

 延文2年(1357)中興というから660年の寺歴を有する都内でも古い寺の一つ。

参道を進むと長屋門があり、

その先の鐘楼門は、練馬区の指定文化財。

 

芭蕉句碑は、その鐘楼門の右手、薬師堂の前の石造物群に交じってある。

魚鳥の 心は知らず 年の暮

解説書からの引用。

『方丈記』に「魚は水に飽かず、いをにあらざればその心を知らず。とりは林をねがふ、鳥にあらざればその心を知らず」とあるに拠った句。
魚や鳥ではないから、魚や鳥の楽しみは分からないが、自分は閑居自在の生活に悠々と年忘れの会を楽しんでいる。他人にはこの楽しみはわかるまいの意。

境内の石造物は、どこか外部から持ち込まれたものも多い。

道標などはその最たるもので、「左にはぞうしがや 高田道」、「右に長命寺 福蔵院」とある。

その長命寺が、次の目的地。

◇真言宗・長命寺(練馬区高野台3)

 

 私が石仏巡りを始めたのは、9年前。

若杉慧氏の著作にインスパイアーされ、本に載っている石仏を見て回ったのが、きっかけだった。

若杉氏は練馬区に居住していて、取り上げる石仏は、練馬区や板橋区のものが多かった。

長命寺の石仏を知ったのも、若杉氏の文章だった。

おそらく石仏巡りとして、一番最初に訪れた寺ではなかろうか。

「東の高野山」というのだそうだ。

境内は石仏であふれている。

 

一つの寺で、こんなに石仏が多い寺は、そんなになさそうに思える。

多いだけでなく、珍しい石仏も多い。

               十三仏

 

芭蕉句碑は、「本堂(不動堂)の左前にある。

普通あまり石造物が立つ場所ではないから、一等地と云えるかもしれない。

父母の しきりにこひし 雉子の聲

貞享5年(1688)3月、高野山で詠んだ句。

解説書によれば、『枇杷園随筆』に

 

御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに佇みて、此処はおほくの人のかたみの集まれるところにして、わが先祖の遺髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつれと」

と、その時の感慨を述べているのだそうだ。

「雉子の聲」は、行基菩薩の「山鳥のほろほろと鳴く聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」を踏まえたもの、というから、「なるほど。そうなんだ。へえー」とひたすら関心するばかり。

芭蕉にとって23年ぶりの高野山詣でだった。

芭蕉を俳諧の世界に誘った主君藤堂蝉吟の位牌を納めに高野山に来たことがあった。

当時は、俳諧師になりたい野望はあるものの、芭蕉は、伊賀上野の、俳諧好きの無名な若者にすぎなかった。

それが、23年後、押しも押されぬ宗匠としての参詣。

芭蕉には感慨深いものがあったに違いない。

 

これで「東京の芭蕉句碑巡り」を終える。

正確には「東京23区の芭蕉句碑」とすべきだった。

多摩地区にも約20基を超える芭蕉句碑があるのだが、最近、車の運転に自信がなくなり、多摩地区の句碑巡りはあきらめざるを得なかった。

所在地を資料から転載しておく。

◇ひょろひょろとなお露けしやをみなへし
        (国分寺市西恋ケ窪1-27 熊野神社)
◇象潟や雨に西施がねむの花
        (調布市深大寺元町5-15 深大寺延命観音)
◇しばらくは花の上なる月夜かな
        (日野市百草560 百草園)
◇春もややけしきととのふ月と梅
        (同上)
◇名月にふもとの霧や田のくもり
        (日野市高幡733 高幡不動尊)
◇蝶の飛ばかり野中の日かげ哉
        (八王子市新町5 永福稲荷)
◇西行の草履もかかれ松の露
        (八王子市寺町72 長心寺)
◇先祝へ梅を心の冬こもり
        (八王子市北野町550-1 北野天満宮)
◇ひばりより上にやすらふとおけかな
        (八王子市裏高尾町957 浅川老人ホーム清明園)
◇しばらくは花の上なる月夜かな
        (八王子市下恩方町246 三叉路ロータリー)
◇先たのむ椎の木もあり夏木立
        (八王子市鑓水80 永泉寺)
◇旅人と我が名呼ばれん初しぐれ
        (町田市成瀬5038路傍)
◇此のあたり目に見ゆるものは皆涼し
        (稲城市大丸233 但馬稲荷)
◇名月に麓のきりや田のくもり
        (稲城市東長沼2117 常楽寺)
◇暫くは花の上なる月夜かな
        (羽村市川崎2-8 宗禅寺)
◇春もややけしきととのふ月と梅
        (福生市福生1081 福生神明社)
◇玉川の水におぼれそをみなへし
         (青梅市滝ノ上町1316 常保寺)
◇梅か香にのっと日の出る山路かな
        (青梅市天ケ瀬1032 金剛寺)
◇行春に和歌の浦にて追付たり
        (青梅市本町220 金刀比羅神社)
◇梅が香にのっと日の出る山路哉
        (青梅市梅郷 吉野街道路傍)
◇やまなかや菊は手折らじ湯の匂ひ
                       (奥多摩町原5 奥多摩水と緑のふれあい館敷地内)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-11(港区・中央区)

2018-01-15 08:32:20 | 句碑

 渋谷駅から銀座線で「表参道駅」へ。

目指す善光寺は駅北側すぐの所にある。

◇浄土宗・善光寺(港区北青山3)

善光寺は、信州長野の善光寺別院。

 

尼寺だそうだ。

江戸川柳の「青山は馬に曳かれて善光寺」は、この寺のこと。

「牛に曳かれて善光寺参り」のもじりであることは言うまでもない。

門前は馬や馬車が激しく往来する八王子街道だった。

広い境内の左側に石造物がかたまってある。

句碑があるとすれば、このあたりだが、探してもない。

墓地の入口まで入ってみたが、いくらなんでも墓地にはありそうもないので、Uターン。

では、どこにあるのか。

墓地入口の家に人の気配がする。

思い切って尋ねたら、親切に案内してくれた。

本堂の左、竹塀に囲われた一画があり、格子戸をくぐると庫裡だろうか、瀟洒な家屋と庭園がある。

 

句碑は、その家の玄関前にあった。

山路きて なにやらゆかし すみれ草

この寺とは無関係の句。

貞享2年(1685)、江戸に帰る芭蕉が、東海道の山科から大津へ向かう山道で詠んだものとされている。

案内してくれたご婦人に、句碑建立の理由を尋ねようと振り向いたら、写真を撮っている間に姿を消していた。

 

次の「海蔵寺」も北青山、青山通りを東へ歩く。

「外苑前駅」一つ手前の外苑西通りを左折すると右に海蔵寺はある。

◇黄檗宗・海蔵寺(港区北青山2)

朱色の山門が異彩を放っている。

句碑は、山門をくぐって左にある。

夏来ても ただ一つ葉の 一葉かな」

「一葉」は、葉がたった一枚のシダ類の名前。

句碑の左に少しばかり植えてある。

(夏が来て草木は茂るのに、一葉だけは相変わらず一枚だけの葉だなあ)

よく見ると新旧2基の句碑が重なるように立っている。

古い方には上部に斜めに亀裂が入っている。

二つに割れたので建て直したのだろうか。

句碑の左には、区指定の庚申塔があるが、寛政年間の建立で、これといって特徴はないようだ。

港区には、もう1基、増上寺裏の宝珠院にもある。

◇浄土宗・宝珠院(港区芝公園4)

 増上寺の伽藍の一つだったという。

だからか増上寺の境内を通って行ける。

                 増上寺 

宝珠院を見下ろす坂の紅葉が美しい。

本尊は弁財天。

港区の七福神の一つで、朱色の幟がはためいている。

句碑は、半ば埋もれた形で、目立たなく控えめに塀際にある。

古池や 蛙飛こむ 水の音

あちらこちらにある有名句で、注釈は無用だろう。

碑裏には、「文化十年(1813)」とあるが、造立者と建立事由は不明。

実は、持参資料にはもう1基、

あれほどの 雲を起こすや 雨蛙

があることになっている。

しかし、見当たらない。

たまたま境内を掃除中の人たちがいるので、そのリーダーらしき人に訊いたが分からないという。

広い境内でもないので、見つからないということは、存在しないということだろう。

本尊が弁財天だからか、立派な蛇の石像がある。

宝珠院の面白いところは、蛇だけにとどまらず、蛙となめくじもいて、これを「三すくみ」として紹介していること。

解説板がある。

これは「ヘビがカエルを食べる。カエルがナメクジを食べる。ナメクジがヘビを溶かす。」という三すくみを意味しています。物事が動かなくなる。総じて、平和を願うお寺の願いが表現されています。

「三すくみ」が平和の意とは知らなかった。

こじつけのようでもあるが・・・

◇浄土真宗・築地本願寺(中央区築地3)

 築地本願寺は、工事の真っ最中だった。

インフォメーションセンターを建築中で、本堂前の左側は高い工事用塀で仕切られている。

境内に入る。

境内は装いを一新して、広い境内の、新大橋通りに面した一角は石碑、石仏等の石造物コーナーになっている。

 芭蕉句碑があるとすれば、ここだと思うが、それらしき石造物はない。

寺の関係者とおぼしき男性に訊く。

「以前は本堂に向かって左の茂みの中にありましたが、今は工事中で・・・」

「工事が終われば、前の場所に戻るんですか」

「さあ、分かりません。うちのお偉いさんは、文化財的なことに無関心ですから」

11月半ば過ぎ、築地本願寺のインフオメーションセンターの工事が終わったとのテレビニュースを観た。

飛んで行って句碑を探したが、やはりない。

広報の担当者に電話したら

「もう句碑はありません。寺と直接関係はないものなので、工事をきっかけに廃棄しました」。

廃棄された句碑の写真をネットから無断転載しておく。

春もやや けしきととのふ 月と梅」

向島百花園、龍厳禅寺にも同じ句碑があったかに記憶する。

◇浄土真宗・法重寺(中央区築地3)

法重寺の住所が築地本願寺と同じなのは、法重寺が築地本願寺の子院だから。

築地本願寺の南通用門の脇にある。

壁面の「法重寺」の文字がなければ、寺とは気づかない、そんな建物です。

句碑は寺の西南の角、道路に面したいい場所を占めているのだが、なにせ、植え込みの勢いが強くて、碑の三分の二は葉っぱに覆われて句の全体は読めない。

大津絵の 筆のはじめは 何仏

右手で草を押さえつけ、左手でシャッターを押したのが、下の写真。

「筆のはじめ」は「書初め」のこと。

大津絵は、大津の追分名物の土産絵で、「鬼の念仏」、「藤娘」などとともに弥陀三尊、十三仏などの仏画も多く描かれた。

正月三が日は、仏様にはノータッチという習俗があったそうで、だから「初仕事の四日、書初めに大津絵の絵師が描くのは何仏だろう」と解説書にはある。

この句は、大津に滞在して新年を迎えた芭蕉が、四日に詠んだもの。

句の前書きに「三日口閉じて、題正月四日」とある。

更に「俳諧は万事作り過ぎたるは道に叶わず、其形之まま又は我心之儘を作りたるを能きと存候」と前書きは続く(らしい)。(碑では全く読めないが、資料によれば)

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-10(新宿区・渋谷区)

2018-01-05 10:33:23 | 句碑

久しぶりに花園神社へ。

赤テントとかゴールデン街と聞くと花園神社を想い出す。

40年も50年も前のことです。

◇花園神社(新宿区新宿5)

花園神社には、芭蕉の句碑が2基あることになっている。

威徳稲荷の横にあるらしいのだが、両脇はトタン小屋の建設中で、音が騒々しく、句碑を読むなどという雰囲気ではない。

雰囲気だけではなく、トタン板が遮蔽して、1基は辛うじて読めるが、もう1基は左の一行が見えるだけ。

祭まで1か月もあるというのに、酉の市の準備が始まっていたのです。

パイプの支柱が何本も立っていて、無粋なムードの句碑は、

春なれや 名もなき山の 朝かすみ はせを

前書きに「南良(なら)ごえ」とある(のだそうだ)ように、貞享2年(1685)、伊勢から奈良に出る途中、名もなき山に薄霞がかかって、おもわず、春だなあと詠嘆した句(と解説にある)。

碑裏には、28人の句がびっしりと並んでいる(らしい)が、裏には回り込めないので、写真はない。

もう1基は、元々は「春なれや・・」の句碑の向かい側にあったのだが、今はすぐ灯籠を挟んで右側に立っている。

と、言っても句の下五でそれと判るだけで、句碑の全体は隠れて見えない。

蓬莱に きかばや伊勢の 初たより はせを

元禄7年(1694)元旦に深川芭蕉庵で詠んだ句。

元禄7年といえば、芭蕉の没年。

そう思えば、感慨もひとしおです。

「蓬莱」とは、三方に歯朶、海老、栗などを盛って、蓬莱山に見立てた正月の飾り物。

その蓬莱に伊勢神宮の神々しい正月の儀式を想い出し、伊勢からの初便りが待ち遠しいと読んだもの(という)。

建立したのは「内藤新宿惣旅籠中」。

花園神社は、内藤新宿の総鎮守でした。

花園神社から明治通りを北上、「東新宿駅」で大江戸線に乗り、「牛込柳町駅」で下車、地上に出たすぐ横が次の目的地。

◇日蓮宗・瑞光寺(新宿区原町2)

 

 本堂の前、右の植え込みの中に句碑はある。

百年((ももとせ)の 景色を庭の 落ち葉かな

 誰がいつ、何のために建てたのか、不明の句碑だとか。

でも、芭蕉がいつ、どこで詠んだかわ分かっている。

元禄4年(1691)10月、江戸に戻る途中、芭蕉は寝滋賀県彦根市の明照寺(めんじょうじ)を訪れた。

住職の李由が芭蕉の門弟だったからです。

寺の庭には落ち葉が降り積もり、その光景に、百年もの長い年月を感じて詠んだ句。

明照寺の当時のままという庭には、芭蕉の形見の檜笠を埋めた笠塚はあるが、肝心の句碑はなく、なぜか、新宿の瑞光寺にポツンと立っている、のです。

新宿区の次は渋谷区。

渋谷駅から300mのすぐ近くに芭蕉句碑がある。

◇御嶽神社(渋谷区渋1)

 

55年前、宮益坂は私の通勤路だった。

でも、御嶽神社は記憶にない。

奥まった上方にあったからだろうか。

坂に面して急な長い石段があって、上がると正面に本殿。

高いマンションビルに押しつぶされそうに建っている。

狛犬は、日本犬だとか。珍しい。

芭蕉句碑は、社務所の左の狭い空き地にある。

眼にかかる 時や殊更 さ月不二

豊島区の学習院大学にも同じ句碑があった。

「箱根の関を越えて」、詠んだ句で、「殊更」というのは、五月の雨の季節であきらめていたのに、思いがけない晴れ間で嬉しいことの強調(だそうです)。

宮益坂は「富士見坂」とも呼ばれ、富士山が良く見えた。

ちなみに都内の富士見坂は、23か所。

特に御嶽神社の境内からの眺望は良かった。

富士山を詠んだ句碑の建立地として最適地と建立されたのも当然か。

今では四方をビルに囲まれて、どっちが富士山かその方角さえも分からないことになっている。

 

渋谷駅近くの句碑としては、もう1か所ある。

◇金王八幡神社(渋谷区渋谷3)

 

訪れた日は、秋祭りの前日。

街角にテントが張られ、町会の人たちが準備に大わらわ。

神社の周囲も屋台の店が店開きで慌ただしい雰囲気だった。

広い境内で句碑を探すのは大変そうなので、社務所に直行。

「そこにあります」。

社務所のすぐそば、本殿の右に句碑はあった。

しばらくは 花のうえなる 月夜かな

社務所に戻って句碑建立の事由を尋ねた。

「江戸時代から名木として有名な金王桜があるからでしょう」。

見れば、句碑を包み込むように桜の枝が広がっている。

長州緋桜という種類で、一枝に一重と八重が混在する珍しい桜だとか。

渋谷区の指定天然記念物だそうだ。

桜満開の写真を無断借用して載せておきます。

 渋谷区には、もう1基、芭蕉句碑がある。

荘厳寺がある渋谷区本町は、都庁舎の西、新宿区と中野区に挟まれて、「エッ、ここが渋谷区なの?」とついつぶやいてしまう、そんな場所である。

◇真言宗・荘厳寺(渋谷区本町2)

 

「荘厳寺」(しょうごんじ)は、私にとって懐かしい名前です。

私は8年前に石仏に興味を抱き始めるのだが、その初期のガイダンスの役目を果たしたのが、佐久間阿佐緒『江戸の石仏』、『東京の石仏』だった。

そして、その両方に「荘厳寺」の石仏がしばしば登場する。

ちなみに『東京の石仏』の1ページ目は、荘厳寺の聖観音像の写真です。

山門横に解説板がある。

 

墓地への通路の左側に、俳人松尾芭蕉の

暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履

という句を刻んだ碑があることなどから、江戸時代には市中からこのあたりまで、人の往来がかなりあったと思われます。 渋谷区教育委員会

真言宗寺院らしく、境内には石造物が沢山ある。

庫裡の横に墓地への入口がある。

そんなに広くもない入口を何度か探し回るも句碑は見当たらない。

たまたま庫裡の裏口が開いていて、中に人の気配があるので、聞いてみた。

「解説板の書き方が間違っていてすみません」とわざわざ案内してくれたのは、本堂右手の植え込み。

容のいい自然石の句碑が立っている。

「暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履」

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-9(文京区・豊島区)

2017-12-25 09:32:36 | 句碑

芭蕉の経歴を辿る中で、関口芭蕉庵に触れた。(このシリーズ第3回)

関口芭蕉庵は、文京区にあるから、文京区の芭蕉句碑を取り上げたことになるが、そこから江東区の芭蕉庵へ移ってしまった。

再び、文京区へと入る。

 ◇浄土宗・昌清寺(文京区本郷1)

 

現在、2017年11月中旬。

サウジアラビアでは、多数の王子が身柄を拘束されたというニュースが流れている。

現国王の王子の権力安定のための手段と云われるが、こうした権力者同志の陰謀策略は、いつの時代、どこの社会でもあった。

昌清寺は、その権力闘争の犠牲者の菩提を弔うために開基された。

犠牲者の名は、駿河大納言忠長。

忠長は、三代将軍家光の弟で、幼名を国千代と云った。

父の二代秀忠や母お江(淀君の妹)が兄竹千代(家光))より寵愛したので、心配した竹千代の乳母お福(春日局)は、駿府の家康に直訴、竹千代が世継ぎとなった。

国千代は元服して忠長と称し、19歳で駿河55万国の城主となり、駿河大納言と呼ばれた。

だが後ろ盾の母お江の死後、「家康の孫」としての行き過ぎた言動に、家光の怒りを買い、領地没収の上、高崎城にお預けの身となる。

 

寛永10年、忠長自害、享年28歳。(この項、『江戸の芭蕉を歩く』から引用)

忠長の正室・お昌の方(織田信良の娘・久姫といい信長のひ孫)は夫の菩提のために、当寺を建立。公儀を配慮して忠長の乳母きよ(清)を開基であると披露、お昌の方とお清の二人の名前をとって、昌清寺と称するようになった。

句碑は、道路に面した駐車場の隅にある。

桜狩り きとくや日々に 五里六里

碑の傍らに説明板が立っている。

 花見塚 芭蕉の句碑
 江戸時代の『茗荷集』(文政五年)や『茗荷図会』(文政九年)に「花見塚本郷元町昌清寺にあり 寛政八年(1796)如月十二日靖彦これを建つ」とある。
 句碑には松尾芭蕉が貞享五年(1688)に吉野で詠んだ俳句「桜狩り きとくや日々に 五里六里」が刻まれている。
往時の句碑は存在しないが、現在の句碑は昭和59年に『茗荷図会』の花見塚模写図にならって復元再建されたものである。

寛政8年の碑陰には

「行かふハ 皆我友ぞ 桜狩り狩」 

「雲と嶺 雲と聳へつ 山桜」

の2句が刻されていたという。

昌清寺は、本郷台地の西南にあって、西へ急坂を下りると後楽園。

谷底の後楽園から更に西へ上ると伝通院となる。

次の目的地「慈眼院」は、伝通院の手前にある。

◇浄土宗・慈眼院(文京区小石川3)

 

うっそうとした境内には、数多くの石造物がある。

大樹があり、その横に句碑がある。

戸田権夫亭にて

一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川

小石川の戸田権太夫亭の句会で詠んだ句。

延宝5年(1677)の作とみられている。

句碑の設立は、大正7年(1918)10月12日。

芭蕉堂同人公雄翁滝沢氏を筆頭とする42人の発起人の氏名が彫られている。

芭蕉句碑の隣の

「月かけに しのぶや声の なき蛙」

は、発起人瀧澤公雄氏の句碑。

「声なき蛙」は、伝通院七不思議のひとつ、「鳴かない蛙」のことだそうだ。

石段がある。

石段を下ると稲荷神社があるが、その名は「沢蔵司稲荷」。

「沢蔵司稲荷」には、面白い伝説がある。

文京区教育委員会の紹介文を載せておく。

 

慈眼院・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり) 小石川3-17-12

伝通院の学寮(栴檀林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和六年(1620)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。

「そもそも 余は千代田城の内の稲荷大名神ある。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう。」

と告げて、暁の雲にかくれたという。(「江戸名所図会」「江戸志」)

そこで、伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。

「東京名所図会」には、「東裏の崖下に狐棲(狐のすむ)の洞穴あり」とある。今も霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥に洞穴があって稲荷が祭られている。

伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来たときは、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は、沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。

また、すぐ前の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。

  沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り (古川柳)

            文京区教育委員会 昭和56年9月

沢蔵司が通ったという蕎麦屋は今もあって、私も食べてみたが、「名物に・・・」のたぐいであったことを報告しておきます。

◇清土鬼子母神(文京区目白台2)

 

鬼子母神といえば、雑司ヶ谷鬼子母神だとばかり思いこんでいた。

その雑司ヶ谷鬼子母神の近くに別の鬼子母神があるとは。

謂われによれば、雑司ヶ谷鬼子母神堂の本尊がこの地で出土したのだという。

入口右に「鬼子母尊神出現所」の石碑が立っている。

出土した鬼子母神像を清めた三角形井戸・星の井は、今も境内にあり、その井戸の前に芭蕉句碑がある。

芭蕉庵桃青
 此道に 出て涼しさよ 松の月」

側面に「文化九年(1812)壬申九月」とある。

境内には、吉祥天も在して、女性に縁の深い霊所です。

 清土鬼子母神の西がわは、豊島区雑司ヶ谷。

その西隣の目白にある学習院大学に、芭蕉の句碑がある。

◇学習院大学(豊島区目白1)

 

孫が大学の馬術部に所属していたので、構内に鬱蒼とした林の崖地があることは知っていた。

馬場と厩舎は、崖下にあったからです。

その林の西側、人通りがない寂しい場所に句碑はある。

目にかかる 時や殊更 五月富士

傍らの解説プレートは

芭蕉句碑・富士見茶屋跡

目にかかる 時や殊更 五月茶屋

江戸時代、眺望に優れたこの地は富士見台と呼ばれていた。ここには富士見茶屋(別名珍々亭)があって、多くの風流人が訪れた。
初代歌川広重の連作「富士三十六景」の一つ「雑司ヶ谷不二見茶屋」は、ここからの風景を描いたものといわれている。句碑に刻まれているのは松尾芭蕉の句で、文化7年(1810)、雑司ヶ谷の俳人金子直徳によって、富士見茶屋の傍らに建てられた。

解説を読む限り、この句は富士見茶屋で詠んだもののように思われる。

が、実際は、箱根を越えて、富士山が一望できる場所で詠んだ句らしい。

同じ句碑が渋谷の御嶽神社にもある。

高台にあって富士見に格好の場所、が共通点。

かつての富士見坂も今では、木々が立ちはだかって、富士山を見ることはできない。

その方向だけ伐採してくれればと思うが、多分、ビル群で富士山は見えないのではないか。

目白駅から山手線に乗り、3つ目の巣鴨で下車。

◇真言宗・真性寺(豊島区巣鴨3-21)

 

「おばあちゃんの原宿」は、巣鴨の地蔵通りにある。

地蔵通りの地蔵は、「とげぬき地蔵」と呼ばれる高岩寺の延命地蔵だと思われているが、本来は、地蔵通りの入口左側にある真性寺の「江戸六地蔵」のことだった。

その江戸六地蔵の前の植え込みの中に芭蕉の句碑がある。

題杉風萩   芭蕉翁

 志ら露も こぼれぬ萩の うねり哉

句碑は、寛政5年(1793)、採茶庵梅人らが建てたもの。

寛政5年は、芭蕉百回忌に当たる。

建て主に「採茶庵梅人」の名があるが、この句は、深川仙台掘川海辺橋たもとの採茶庵で詠まれた。

採茶庵は、「おくのほそ道」への旅立ちの場所として有名です。

深川で詠んだ句が、なぜ、巣鴨にあるのかは不明だが、当時、巣鴨は萩の名所だったからだという説がある。

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-8(台東区・江戸川区)

2017-12-15 10:44:01 | 句碑

花の雲 鐘は上野か 浅草か

有名な句だから、知ってはいたが、芭蕉の句だとは。

深川で聞く鐘の音は、はて、上野だろうか、浅草だろうか、という内容だが、実際には、鐘の音はちゃんと聞き分けられたのだそうだ。

上野の鐘は、上野公園にある。

朝夕6時と正午に、今でも、鳴らしている(という)。

江戸時代には、上野と浅草の他、本所横川町、芝切通、市谷八幡、目白不動、赤坂圓通寺、四谷天竜寺の鐘が一斉に時を告げていた。

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の句碑は、だが、上野公園にはない。

上野駅前の商店街(アメ横?)にある。

句碑建立に当たり、できるだけ大勢の人の目に触れた方がいいと選定された場所だが、いささか場違いで、碑に目をくれる人は少ない。

姿のいい自然石に、俳人加藤秋邨の書で「花の雲 鐘は上野か浅草か」の銅板がはめ込まれている。

裏面にも、同じ加藤秋邨の詩が刻まれている。

「花の雲を洩れてくる鐘の音から
 芭蕉は風雅の世界を呼び覚ました
 鐘は上野か浅草か
 今この花の雲を洩れてくる鐘の音から
 街を行く人々は 何を呼び覚ますのだろうか
 それは 明日のしずかに近づいてくる跫音」

一方、浅草の鐘は、もちろん、浅草寺にある。

◇聖観世音宗・浅草寺(台東区浅草2)

 

 本堂に向かって右手前の弁天山に鐘楼はある。

この鐘は、5代将軍綱吉の時代に改鋳され、その際、鐘の音色をよくするためにと黄金200枚が鋳込まれた(そうだが、本当だろうか)。

鐘楼に向かう石段の脇に句碑はある。

が、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」ではない。

くわんおんの いらかみやりつ 花の雲

観音といえば、浅草寺。

深川の芭蕉庵からは、約3キロほどの近さ、浅草寺の大屋根は見えたに違いない。

で、肝心の「鐘は上野か浅草か」の句碑は、本堂西側の奥山公園にある。

 

ただし、芭蕉の「鐘は上野か浅草か」を真ん中に、右に西山宗因、左に宝井其角の句を併刻した、通称「三匠句碑」。

なかむとて 花にもいたし 顎農骨(あごのほね)
                                                            宗因
花の雲 鐘は上野か 浅草か
                     芭蕉
ゆく水や 何にととまる のりの味
                     其角

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」は、貞享4年(1687)の句。

「くわんをんの いらかみやりつ 花の雲」はその前年に詠まれている。

花といえば川向こうの花で、向島の桜は詠んでいないようだ。

浅草には、もう1基あって、それが「宮戸座跡」となっている。

◇宮戸座跡(台東区浅草3)

地図を片手にたどり着いた先は、料亭「婦志多」。

その門の脇に石碑が立っていて「宮戸座跡跡之碑」と刻されている。

碑の側面に「宮戸座」の説明がある。

宮戸座は、明治29年(1896)9月開場、座名は隅田川の古稱”宮戸川”にちなんだ。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)11月この地に再建。昭和12年(1937)2月廃座。ここの舞台で修業しのち名優になった人々は多い。東京の代表的小芝居だった 大歌舞伎に対し規模小さな芝居を小芝居と呼んだ。
 昭和53年(1978)6月24日 台東区教育委員会

 探し求めた芭蕉の句碑は、料亭の塀左端にある。

自然石にはめ込んだ石版に

象潟の 雨に西施が ねぶの花

「西施」とは、中国の美女だそうだが、中国の古典にうとい私には、手に負えない。

ただ、象潟が東北の地名であることは分かる。

では,何故、象潟の句がここ浅草にあるのか、その疑問は、道の反対側の説明板を読んで分かった。

 松尾芭蕉象潟の句碑
 江戸時代に現秋田県本荘藩主であった六郷公が、この浅草に下屋敷を構えたとき、その下屋敷付近の町に、六郷公地元の景勝地「象潟九十九島」にちなみ、「象潟町」と名付けました。
 このことにより、平成5年(1993)7月22日に秋田県象潟町と台東区馬道地区町会連合会との間で「姉妹地」の盟約が締結されました。そして、今年が締結10年目にあたり、江戸開府400年目でもあります。
 江戸文化の偉大なる俳聖「松尾芭蕉」が旅した「おくのほそ道」で秋田県象潟を訪れ、雨に煙る九十九島、八十八潟の絶景を中国の美女「西施」の憂いに満ちた姿と重ね合わせた素晴らしい句を残しております。
 象潟や 雨に西施が ねぶの花
 当浅草象潟地域と秋田県象潟町との強い「姉妹地」の関係は永久のものであり、末永い交流により相互の発展に寄与するとともに、江戸文化の復興とその継承を図るため、この句を石碑として浅草の地に建立したものです。
 平成15年(2003)7月20日
 台東区 馬道地区町会連合会 秋田県象潟町

 台東区には、もう1基ある。

◇熱田神社(台東区今戸2)

 

 

そう広くもない境内を2回回ったが、句碑は見つからない。

宮司に訊いてみようかと思っていたら、あった。

稲荷神社前の草木の茂みにすっぽり隠れてしまっている。

草木をかき分け、押さえつけていないと、句も読めない。

古池や 蛙とびこむ 水の音

今回、芭蕉の句碑めぐりをしているが、これほど手入れがされず放置しっ放しの句碑もめずらしい。

しかも、一番多い「古池や・・・」の句碑だから、なんとなくがっかり。

弘化3年(1846)建立だが、誰が何のために建てたのかは一切不明という。

これで、台東区内の芭蕉句碑は終わり。

次は、隣の江戸川区へ。

◇熊野神社(江戸川区江戸川5)

 

 都営新宿線「一之江」駅から、新中川沿いに南下、堤防を見上げるような低みに熊野神社はある。

折しも秋の交通安全週間で、町会の人たちが神社前のテントに詰め掛けているが、1分間に1台、車は通るだろうか。

道路から石段を下りて境内へ。

左手に芭蕉句碑はある。

茶水汲む おくまんだしや 松の花

 「おくまん」とは、熊野神社のこと。

神社の前は急流で、流れを和らげるために、「出し杭」が打たれていた。

「おくまんだし」とは、だから「熊野神社前の出し杭」のこと。

出し杭で和らいだ清い水は、江戸城中の茶の湯や野田の醤油に利用されていた(という)。

今の川からは、とても信じられない話ではあるが。

この句は、芭蕉の句かどうか、疑いがあるようだ。

「言い伝えでは」とか「伝説では」とか、の前置きがいつもついて回るところを見ると、芭蕉の句でない可能性が高そうだ。

◇香取神社(江戸川区中央4)

香取神社は、江戸川区役所の近く。

小松川村の総鎮守だったとか、風格がある。

小松菜の産地らしく「小松菜産土神」の大きな石碑が立っている。

 

芭蕉の句碑は、鳥居をくぐって左にある。

「秋に添て 行かはや末は 小松川

同じ句碑が江東区大島の大島稲荷神社にあった。

大島神社は、小名木川に面してあるから、深川から舟でくる芭蕉の句があっても当然だが、香取神社にあるのはなぜかと思ったら、江戸川区教育委員会の説明文を読んで分かった。

昔この辺一帯が芦原で船が自由に往来できた頃、その中に浮かぶ道ヶ島という小高い島に、下総の香取大神宮より経津主命の分霊を祀ったのが、香取神社勧請の由緒といわれる。当時国府台間々の入江から、武蔵国上野の台地に向かう船は、この神社の森を船路の目安としたので、間々井宮と称したと伝えられている。

行って見なかったので、不確かだが、神社の東には、親水公園があるという。

この辺りは、船で行き来するのが、自然の土地だったようだ。


132東京の芭蕉句碑巡り-7(墨田区)

2017-12-06 08:41:09 | 句碑

約70年間、東京暮らしだが、行ったことがない場所は結構多い。

旧安田庭園もその一つ。

名前だけは知っていたが、どこにあるのかさえ知らなかった。

両国駅から徒歩3分という立地にもかかわらず、園内は街の喧騒とは無縁。

ありきたりな言葉だが「タイムトリップ」したような「都会のオアシス」です。

□旧安田庭園(墨田区横網1)

 

 芭蕉句碑を探してそんなに広くもない庭園を2度回った。

持参資料には「園内駒止神社先」とある。

駒止稲荷神社はすぐ分かった。

だが、「先」が分からない。

神社は広い空き地の一画にある。

社の正面は、心字池。

正面が「先」でなければ、どこを指すのか。

探し回って、やっと見つけた。

「立ち入り禁止」の築山頂上近くにポツンとあった。

解説板もなく、おそらく通りがかりの人は誰もこれが芭蕉の句碑だとは気づかないだろう。

みの虫の 音をききにこよ 草の庵

 以下は、解説書からの受け売り。

ミノムシは鳴かないが、清少納言は「ちちよ ちちよ」と鳴くと書いている。ミノムシの鳴き声を聞きに私の草庵に来ませんか、という芭蕉から門弟たちに対するお誘いの句。

側面に「享和三発亥(1803)」とある。

◇臨済宗・要津寺(墨田区千歳町2)

 

 

 句碑だとか記念碑、顕彰碑は、どちらかというと本人の死後建立されることが多い。

このブログの「芭蕉句碑巡り」も、これまでは、「おくのほそ道」旅立ちの千住や芭蕉庵のあった深川など芭蕉が活動していた場所だったから、芭蕉当人とかかわりの深い石碑が多かった。

しかし、句碑の大半は、時代と場所を越えて、芭蕉本人とは無関係の場合が多い。

要津寺には、芭蕉関連の石碑が多いが、寺と芭蕉とはまったく関係がない。

芭蕉没後100年、弟子や弟子の弟子たちが、寺の前に芭蕉庵を再建したことが、事の発端だった。

その間の事情を、墨田区教育委員会は次のように説明している。

雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島嶺蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより、当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には、蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養墓や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。
 平成10年(1998)3月 墨田区教育委員会 」

よく言えば、モダンな、一風変わった本堂に向かって右手に、芭蕉関連の石碑群がある。

だが、草木が生い茂って、全部は見えない。

囲いの中に入ることも考えたが、寺の関係者が腕組みをしてみているので、諦める。

見える限りのものを左から挙げると、まず、「前雪中庵嵐雪居士、後雪中庵吏登居士」墓碑。

その右隣りに、青い自然石の句碑、

ふる池や 蛙飛込む 水の音

安永2年(1773)、10月12日の芭蕉祁忌に、建立された。

碑裏に「雪は古池に和清水音をつくし、月の一燈花の清香もをのづからなる此翁の徳光をあふぐのみ」と刻まれている(と資料にはある)。

書は、当時の能書家三井親和。

芭蕉記念館の「古池や・・・」の句碑は、これの模写したものと云われている。

更に右にあるのが「芭蕉翁俤塚」。

「俤塚」は、雪中庵三世大島蓼太が宝暦13年の芭蕉忌に、芭蕉の母の絵を納めて建立した。

「俤塚」の右は、その大島蓼太の句碑、

碑((いしぶみ)に 花百とせの 蔦植む 雪中庵蓼太

がある。

碑裏上部に「芭蕉翁百回忌発句塚碑」と刻されている。

この碑を建てた天明2年(1782)、蓼太は75歳。

百回忌の86歳までは生きていられないと、11年繰り上げて百回忌を営んだ。

実際、蓼太はこの5年後、80歳で死去しているから、彼の読みは当たったことになる。

それにしても一門の門弟たちの芭蕉愛のなんと篤いことか。

神格化も当然の成り行きだろう。

 

墨田区役所を過ぎて、向島へ。

三囲神社は句碑や歌碑が林立しているが、なぜか芭蕉の句碑はない。

しかし、芭蕉の高弟・宝井其角の雨乞いの句碑がある。

「此御神に雨乞いする人々に代りて

 遊(ゆ)ふだ地や 田を見巡りの神ならば 晋其角

 元禄6年(1693)は旱魃の年だった。

そのさなかの6月、三囲神社を参拝した其角は、雨乞いの儀式に遭遇する。

其角は、雨が降り、「豊かな」実りが来ることを祈って、「ゆたか」の三字を折り込んだ句を神前に奉納した。

それが「遊ふだ地や・・・」の句で、奉納するや、たちまち雨が降りだしたという伝説がある。

寄り道をした。

目的の長命寺は、三囲神社から4,500m。

句碑、歌碑だらけの境内で、ひときわ目立つのが、芭蕉句碑。

いざさらば 雪見にころぶ 所まで

(さあ、雪見に行こう。どこかで転ぶかもしれないけれど)

解説書によると、初案は「いざ出む ゆきみにころぶ 所まで」で、次に「いざ行かむ」となり、さらに手を入れて「いざさらば」になったのだそうだ。

『江戸の芭蕉を歩く』の著者・工藤寛正氏は、「芭蕉句碑は全国でで3500基を超えるが、この句碑は十指に入るといっていい」と絶賛している。

◇向島百花園(東京都墨田区東向島3)

「江戸時代の文人墨客の協力を得て開いた、今に残る江戸の花園」と公園のパンフレットは謳っている。

文人墨客と云うだけあって、園内には29基もの句碑が立っている。

その中でも芭蕉の句碑は、入口を入ったすぐの、一番目立つ場所にある。

春もやや けしきととのふ 月と梅

天保9年(1836)の建立で、裏面に11人の建立者の名がある。

句は、元禄6年(1693)に詠まれた画賛の一句で、場所を特定していないので、あちこちにこの句碑はある。(『江戸の芭蕉を歩く』より)より)

向島百花園には、芭蕉の句碑が2基あって、もう一基は「御成座敷」に向かって左にある。

「御成座敷」とは、十一代将軍家斉の来援記念に建てられた建物。

こにゃくの 斜(さ)しみも些し うめの花

元禄6年(1693)、去来の妹に死を弔うために、蒟蒻のさしみをすこしばかりと梅の花を供えて冥福を祈った句と云われている。

折しも萩の開花時期で、百花園名物「萩のトンネル」が見事だった。


132東京の芭蕉句碑巡り-6(江東区ー3)

2017-11-25 08:59:21 | 句碑

江東区三好の寺町は、寺が密集して壮観だ。

その寺町にも芭蕉句碑があるというので、勢至院を訪ねる。

◇浄土宗・勢至院(江東区三好1-4)

草の戸も 住かわる代ぞ 雛の家

この句碑があることになっているが、どこにも見当たらない。

狭い境内で、あれば見逃すことはなさそう。

仕方なく呼び鈴を押す。

出てきた住職は「寺を改築した時撤去しました。先代の個人的趣味で造立したもので、文化財的な価値はありません」と云う。

 

次に富岡八幡宮へ。

境内が広いので、自分で探すのは大変だと思い、社務所に直行。

巫女さんがいろいろ調べてくれるが、分からない。

「なんていう句ですか」と聞かれたので、持参資料を見せたら「あ、これはここではありません」と云う。

よく見たら「富賀岡八幡宮」とある。

目の錯覚というか思い込みというか、「富岡八幡宮」だとばかり決め込んでいた。

「富賀岡八幡宮」という似通った神社があることを知らなかったからだが、文字をひと固まりでとらえるから、「富賀岡八幡宮」を「富岡八幡宮」とつい思い込んでしまう。

その「富賀岡八幡宮」へ。

◇富賀岡八幡宮(江東区南砂7)

富賀岡八幡宮界隈を「元八幡」と呼ぶのは、富岡八幡宮の祭神「八幡像」は当宮から運ばれたことによる。

創建時、社前は海が広がっていた。

江戸期も海を臨む絶景地として有名だった。

 

芭蕉句碑は、本殿前左、狛犬横の茂みの中にある。

目にかかる 雲やしばしの 渡り鳥

元禄7年(1694)と云えば、芭蕉没年ですが、この年、関西で詠んだ句とされている。

渡り鳥が群れをなして雲がなびくように流れ飛ぶ光景は、海に面するこの神社に相応しいと選句されたのだろうか。

碑裏には「文化二乙丑年(1805)初秋建立」の横に9人の名が連記されている。

本殿の裏地には、富士塚がある。

数多い富士講の石碑に往時の富士信仰の熱狂が感じ取れる。

熱狂といえば、並んで横たわる力石からも、男たちの歓声が聞こえてきそうだ。

渡り鳥の雲、富士塚、力石、すべては過去の遺物となって、わびしい空気が漂う。

 

 亀戸行きのバスに乗り、バス停大島5丁目で下車。

バス停から来た方向を振り返ると小名木川にかかる橋が小山のように盛り上がっている。

橋の下は電車が通っているかのようだが、下は川。

この辺りは海抜0m地帯で、川が地面より高い。

その小名木川に面してあるのが、大島稲荷神社。

◇大島稲荷神社(東京都江東区大島5)

 

大島稲荷神社には、芭蕉句碑が2基ある。

右手に矢立と筆、左手には巻紙を持つ芭蕉座像を挟んで、左右に一句ずつ。

まず向かって左の句碑は、

自然石の上部に「女木塚(おなぎづか)」と大書、その下に

秋に添うて 行(ゆか)ばや末は 小松川

と刻されているが、ほとんど句は読み取れない。

此の句にまつわる経緯が、後方の「たてかん」に書いてある。

女木塚の裏に其日庵社中造立とありますが年代(不)詳。この句は大坂へ旅立つ二年前の元禄5年(1692)芭蕉50歳の時奥の細道に旅立ちする前の句でありまして芭蕉は深川から舟で川下りをして神社の前を流れる小名木川に舟を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中舟を留て当神社に立寄り参拝を致しまして境内のこの森の中で川の流れを眺めながらその際詠んだのがこの句であります。
秋に添うて 行はや末は 小松川」

かなりの悪文だが、誰もそのことを指摘しなかったと見える。

地位の高い人だから言いにくかったのだろうか。

そして、芭蕉像の右には、新しい句碑。

「 松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑

 五月雨を あつめて早いし 最上川

       大島稲荷神社 平成元年九月十九日
          第六代宮司 佐竹良子建之」

この句碑は、芭蕉座像と同時に建立されたが、なぜ、この地に最上川の句なのか、選定理由は明らかではない。

境内にイノシシがいる。

十二支の亥だろうが、珍しいのでパチリ。

 

バスの終点亀戸駅から今度は歩いて「亀戸天神」へ。

◇亀戸天神社(東京都江東区亀戸3)

亀戸天神には、石碑が100基ほどもあるという。

芭蕉句碑を探すのに手こずるかと案じたが、藤棚の下に難なく見つかった。

しばらくは 花の上なる 月夜哉

「満開の桜の上に月が顔を見せている。月と花。やがて月は西に落ちて、この組み合わせは見れなくなってしまう」。

句碑は、亀戸天神の祭神菅原道真9百年祭御忌に、神社近辺に住む芭蕉門下の雪中庵関係者が芭蕉150回忌を合わせて建立したもの。

だから芭蕉の句の下には、芭蕉の高弟で雪中庵一世服部嵐雪、二世桜井利登、三世大島蓼太の句が、裏面には、四世雪中庵完来、夜雪庵晋成、葎雪午心の句が刻まれている。

この句碑は、第二次大戦中行方不明となったが、昭和50年代、藤棚の下の土中から掘り起こされた。

持参資料には、亀戸天神には、もう1基、

春もやや 景色ととのふ 月と梅

があることになっている。

二度境内を回ったが見当たらないので、社務所へ。

応対してくれた禰宜は、『亀戸天神社境内石碑案内』を開いて調べてくれるが、分からない。

神社が知らない句碑があるなんて、そんなことがあるのだろうか。


 

 

 地図では長寿禅寺の右側が、亀戸天神(なぜか神社名がない)。

亀戸天神を出て、長寿禅寺の壁沿いに西へ向かうと横十間川にぶつかる。

右折して数百メートルで、次の目的地「龍眼寺(萩寺)」に着く。

 北西にスカイツリーが見える。

◇天台宗・龍眼寺(東京都江東区亀戸3)

 左右の門柱には「慈雲山」、「龍眼寺」とあり、その両袖兵には黒石板がはめ込まれている。

右側には、

濡れて行(ゆく) 人もおかしや 雨の萩

 と芭蕉の句が刻まれ、左の板には、当寺の由来が記されている。

龍眼寺が「萩寺」と呼ばれるようになったのは、元禄6年(1693)、その時の住職元珍和尚が各地から萩数十種を選んで、庭園に植えたことによる。

その後、訪れる文人雅客引きも切らず、東都名所となって久しい。

私が訪れたのは9月下旬だったが、折しも満開の萩が咲き乱れていた。

しかし、そこは萩、満開といっても楚々として控えめ。

その萩に埋もれて芭蕉の句碑が1基ある。

濡れて行 人もをかしや 雨の萩

門柱脇の句と同じだが、こちらは「おかしや」ではなく「をかしや」。

この句は、萩寺で詠んだ句ではない。

「おくのほそ道」の途中、加賀国(石川県))小松に滞在中、雨中の句会で詠んだものと云われ、「萩の名所」ということで、この地に建てられたものとみられる。

建立は明和5年(1768)だから、都内の芭蕉句碑のなかでは最古。

風雅な庭園には歌人、俳人の石碑が散在する。

 

「月や秋 あきや夜にして 十五日  螺舎一堂 」

 

「萩寺の萩おもしろし 
    つゆの身の
      おくつきどころ
    こことさだめむ  落合直文」

 

「槇の空 秋押し移り ゐたりけり  石田波郷

 たかむなの 疾迅わが背 こす日かな  石塚友二」

「聞きしより来て見や
 □野の染付はいふもさらなり
   萩のにしき手よ川めの 千載庵仲成」

境内には、ほかに万治2年(1659)、江東区最古で指定有形文化財の三猿庚申塔もある。 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-5(江東区ー2)

2017-11-15 18:34:29 | 句碑

前回の「芭蕉庵史跡展望庭園」は、芭蕉記念館の分館だった。

本館は、ここから北へ3,4分の所にある。

◇芭蕉記念館(江東区常盤1-6)

銅板葺きの屋根は、俳人笠に見立てたものと聞いたので、それが分かる写真を撮りたいが、引きの距離が短すぎてちゃんと撮れない。

館内の撮影は禁止。

抗議するつもりはないが、石の蛙まで撮影禁止なのは、解せない。

撮ったら悪影響がある、とでも言うのだろうか。

仕方ないから、カメラは専ら狭い庭園の句碑に向けられる。

 庭に入るとすぐ左に自然石の句碑。

草の戸に 住み替わる代ぞ ひなの家

「住める方は人に譲り」、「おくのほそ道」へと旅立つ前に、芭蕉が詠んだ句。

芭蕉の命日の昭和59年10月12日に建てられた。

揮ごうは、その当時の江東区長。

狭い庭に道しるべがあり、「左 芭蕉庵」とある。

左の石段を上ると昔の芭蕉庵を模した小さな庵があって

中に芭蕉の石の座像。

なぜか栗がイガに包まれたまま置かれていた。

その小庵の前に立つのが、

ふる池や 蛙飛びこむ 水の音

要津寺に残る江戸中期の書家三井親和の書を模写し、昭和30年6月、芭蕉稲荷神社に建立したものを、昭和56年、この地に移したのだとか。

持参資料によれば、庭内にもう1基「川上とこの川しもや月の友」があるはずだが、見当たらない。

館内に戻り、受付の人に訊いて分かった。

模造芭蕉庵の右奥、塀に寄りかかるようにある小碑がそれだった。

これまでの2基がそれ相応の大きさだったので、てっきり同じ大きさのものと思い込んでいたので、見逃していた。

昭和31年、芭蕉庵復旧の際に建てられ、昭和56年4月、ここに移された。

芭蕉祈念館別館史跡展望庭園入口の句碑と同じだが、芭蕉句碑の重複は避けられないようだ。

「古池や・・・」は、都内23区で8基もある。

 

芭蕉は「蕉風俳諧」で多くの人たちに多大な影響を与えた。

逆に、芭蕉自身が影響を受けた人といえば、仏頂禅師があげられる。

師は常陸・鹿島の根本寺の住職だった。

               根本寺(茨城県鹿嶋市)

根本寺の寺領をめぐり鹿島神宮といさかいが起り、幕府の裁定を仰ぐべく、折しも江戸に滞在していた。

その滞在先の臨川寺が、芭蕉庵から近く、仏頂禅師に心酔した芭蕉は、毎日のように参禅し、教えを請うたと云われている。

禅の教えが、芭蕉の精神と作句にどのような影響を与えたのか、それは私の能力を超えることで知りえないが、「遁世」とか「漂泊」とか、芭蕉について回る言葉は、禅的なものと無縁ではなかろうと思う。

 ◇臨済宗・臨川寺(江東区清澄3)

 

清澄通りに面してある臨川寺は、芭蕉寺と呼ばれたが、震災と空襲の2度の災害で、芭蕉に関わる寺宝を焼失、今は狭い庭地に模刻の「芭蕉由緒の碑」と「墨直しの碑」を残すのみ。

句碑はない。

「芭蕉由緒の碑文」の原文は

仰此臨川寺は昔仏頂禅師東都に錫をとどめ給ひし旧跡也、その頃はせを翁ここの深川に世を遁れて朝暮に往来ありし参禅の道場也とぞ。しかるに翁先立ちて卒し賜ひければ、禅師みずから筆を染てその位牌を立置れたる因縁を以て、わが玄武先師延享のはじめ洛東双林寺の墨なわしを移して年々三月その会式を営み、且梅花仏の鑑塔を造立して東国に伝燈をかかげ賜ひしその発願の趣意を石に勤して、永く成巧の朽ざらん事を更に誌すものならんや

 芭蕉は、深川で14年間暮らしていた。

だから、都内23区の中で、芭蕉句碑の数は、江東区が断然多い。

以下、ランダムに句碑を見てゆこう。

◇曹洞宗・長慶寺(江東区森下2-22)

 

資料によれば

「世にふるも さらに宗祇の やどり哉」

の句碑があるはずだが、「芭蕉翁桃青居士」の墓らしきものがあるだけで、句碑はない。

何処にあるのか住職に訊こうと庫裡の戸を開けたら、秋の彼岸の墓参の檀徒でごったがえしている。

あわただしく小走りに通り過ぎる法衣の男に声をかけたら住職だった。

「確かに昔はあったのですが、震災や戦災で失くなってしまったんです」とのこと。

昔の写真が、柵に掛けられている。

「芭蕉翁桃青居士」の墓石が所々欠け落ちているのが分かる。

どうやら句碑は、当初からなかったらしい。

芭蕉の歯と真筆の「世にふるも さらに宗祇の やどり哉」の短冊をこの墓に埋めたのだそうだ。

隣に其角や嵐雪の碑もあったらしいが、いずれも被災して消失してしまったという。

 地下鉄「森下駅」から「清澄白河駅」へ。

駅を出るとすぐそばに清澄庭園がある。

◇清澄庭園(清澄3-3)

 

今は都立庭園だが、前身は岩崎家、その前は紀伊国屋文左衛門の邸地だった。

全国の庭石があることでも有名で、佐渡出身の私としては、佐渡の赤玉石があるか気にかかる。

ちゃんとあった。

芭蕉の句碑は、庭園の奥の芝生広場にある。

高さ1メートル、幅2メートルの巨大な、ゆったりした自然石に

古池や 蛙飛びこむ水の音 はせを

と刻されている。

解説パネルがある。

当庭園より北北西400メートル程の所に深川芭蕉庵跡があります。松尾芭蕉は、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで、門人杉山杉風の生簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享3年(1685)の春、詠まれています。
この碑は、昭和9年に其角堂九代目晋水湖という神田生まれの俳人が建てたものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願いをしてこの地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあるというわけではありません。」

 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の石碑は、深川江戸資料館にもある。

◇深川江戸資料館(東京都江東区白河1)

 

 

深川の長屋の再現コーナーの一角にポツンと句碑がある。

解説パネルによれば、割烹「はせ甚」が寄託したもので、刻銘がないので、制作年代や製作理由は不明だが、彫りの形からかなり古いものと見受けられるとのこと。

 再び、仙台堀川沿いの採茶庵に戻る。

ここから南岸の川沿いの道は、清澄橋まて俳句散歩道になっている。

句は、もちろん、芭蕉の句。

10mおきに18句が並んでいる。

さくらの咲く頃は、素敵だろう。


132東京の芭蕉句碑巡り-4(江東区の1)

2017-11-05 09:32:36 | 句碑

「東京の芭蕉句碑巡り」の第1回は、芭蕉が「おくのほそ道」に旅立った千住大橋を中心としたものだった。

元禄2年(1689)3月27日(新暦では5月16日)朝、新しい草鞋を履いて芭蕉が出たのは、深川の仙台掘川に架かる海辺橋南詰の採茶庵でした。

◇採茶庵(江東区深川1-9)

採茶庵は、スポンサーでもあり門人でもある杉風(さんぷう)の別荘。

今、採茶庵の前には、草鞋を履き終えて、「よしっ」と立ち上がる前の、そんな芭蕉の姿があります。

住み慣れた芭蕉庵でないのは、長旅を覚悟して芭蕉庵を手放したからです。

「月日は百代の過客にして・・・」の「おくのほそ道」の書き出しの後半は

「(前略))もも引きの破れをつづり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まず)心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに

 草の戸も 住替る代ぞ ひなの家」

と、芭蕉本人が、そのあたりの事情に触れている。

家を譲り受けた家族には、女の子がいたことが、この句から察せられる。

 

では、その「ひなの家」になった芭蕉庵へ。

地下鉄の「清澄白川駅」を出て、清住橋通りを西へ。

交差する通りを右へ曲がると万年橋。

広重の亀の下に富士山が見える絵は、この橋からの景色です。

橋を渡って左折すると、すぐに「芭蕉稲荷大明神」の幟が見える。

◇芭蕉庵跡(江東区常盤1-3)

そこが芭蕉庵跡と云われている。

(*「芭蕉稲荷神社」は、芭蕉庵跡地に祀る稲荷神社の意。芭蕉はご神体ではない。しかし、江戸後期、芭蕉の神格化は進み、芭蕉を神と祀る社が出現する。神号は「花本大明神。富岡八幡宮にある祖霊社では、10月12日に例祭が執り行われている)

芭蕉に関する情報はあふれるほどあって、取捨選択に困るほど。

現地に立つ江東区教委の説明板が簡にして要を得ているので、転載しておく。

俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、まだここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。
しかし、当初が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。(芭蕉遺蹟保存会掲示より)

この説明板で触れていないポイントの一つは、日本橋からなぜこの地に移って来たかという理由。

それは今なお不明のままです。

日本橋のように、経済的にゆとりのある町人がいるから、俳諧の宗匠は成り立っているのに、場末も場末、人通りもないこの地に移り住んで、芭蕉は勝算があったのだろうか。

言葉遊びの俳諧を人生の機微をうたう芸術にまで高めた「蕉風」は、この芭蕉庵での14年間に確立された。

だから作句上の環境を求めての移転だったことも考えられるが、それは経済的な裏付けがあって成り立つことである。

芭蕉には、だが、勝算があったように見える。

日本橋時代より門人の数は減ったが、深川まで通ってくるのは、心酔者ばかりだった。

米が少なくなれば、誰かが補充しておいてくれた。

米ばかりではない、2度にわたり、芭蕉庵を再築したのも門人たちだった。

 

三次にわたる芭蕉庵の変化をその時代の句とともに紹介したパネルが、芭蕉庵跡から100mも離れていない、「芭蕉記念館 分館史跡展望庭園」入口にある。

◇芭蕉記念館分館史跡展望庭園(江東区常盤1-1)

少し長いが転載しておきます。

深川芭蕉庵
 ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝8年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の送った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄7年(1694)にいたる15年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。
 第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝8年(1680)冬から、天和2年(1682)暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ3年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
   櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙
   芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
   氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
 天和3年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、53名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが2つ、茶碗が10個と菜刀1枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。『野ざらし紀行』『鹿島詣』『』笈の小文』の旅はここから旅立った。
   古池や蛙とびこむ水の音
   華の雲鐘は上野か浅草か
   蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
 元禄2年(1689)『おくのほそ道』の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄5年(1692)5月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の赴きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。
   名月や門に指し来る潮頭
   川上とこの川下や月の友
   秋に添うて行かばや末は小松川
 芭蕉庵の所在地は、元禄10年(1697)松平遠江守の屋敷となり、翌元禄11年(1698)には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。
 平成7年(1995)4月 江東区

このパネルの横に句碑が1基。

 

深川の末 五本松といふ所に船を
 さして

 川上と この川下や 月の友  」  

小名木川の五本松で、川面に浮かぶ月を見ているが、川上の友人も同じ月を見ているだろうか

 

この句碑を左に見ながら、石段を上る。

墨田川の対岸からの光景を描いた絵図がパネルで重なりながら展示され、その奥に芭蕉が座している。

芭蕉の目線の先には、墨田川が流れ、左手の小名木川と合流している。

左を見れば清洲橋が、右を向けば新大橋が見える。

          清州橋

景色として、これ以上はない絶景地。

          新大橋方向

芭蕉がいた頃は見えた富士山が見えないのが残念だが。

芭蕉座像の背後には、芭蕉庵を描いた絵と文章のパネルが整然と展示されている。

いささか専門的過ぎて、重箱の隅をつつく感無きにしも非ずだが、ここでしか読めないものもあり、全部、掲載しておく。

ただし、野ざらしのパネルの再撮なので、絵は甚だ品質が悪い。

 

蕉庵再興集

明和8年(1771)に、大島蓼太が、芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興した。その記念集『芭蕉庵再興集』所載の図である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀った。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄松斎長喜。
(学習院大学蔵)
芭蕉文集
安永2年(1773)に、小林風徳が編集出版した『芭蕉文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には、筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く『句餞別』の編者でもある。
 芭蕉翁絵詞伝
蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環として芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に仕立て義仲寺に奉納した。その絵を吉田偃武に縮写させ、寛政5年(1793)に刊行した。図はその一齣で葭垣・枝折戸をめぐらした草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。笠は竹の骨に紙を貼り重ね、渋を塗り漆をかけて仕上げる。

 深川八貧図

蝶夢編の『芭蕉翁絵詞伝』の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄元年(1688)12月17日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠・依水・泥芹・夕菊・友五・曽良・路通の七人が芭蕉庵に集まり、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で「米買に雪の袋や投頭巾」と詠んだ。絵はその場面を描いている。(義仲寺蔵)
埋木(うもれぎ)の花
明和8年に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから55年後の文政9年(1826)に、平一貞がその著『埋木の花』に実見記録したもの。「古池や」の句碑は安永2年(1773)に深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和の筆。現在芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑はその模刻である。
 俳諧悟影法師
天保8年(1837)に鶏鳴舎一貫が著した『俳諧悟影法師』の巻頭に載せる図である。画者渓斎は浮世絵師池田英泉である。構図は小林風徳編『芭蕉文集』所載の図とそっくりだが、描線ははるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである
芭蕉翁略伝
天保14年(1843)は芭蕉百五十回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻窓湖中は編年体の芭蕉伝記『芭蕉翁略伝』を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化2年(1845)に刊行した。本図はその挿絵で、茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である。

  俳人百家撰

江戸の緑亭川柳が安政2年(1855)に刊行した『俳人百家撰』に掲載する図である。絵は天保5~7年に刊行された『江戸名所図会』所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が「古池や」の句を詠んだ古池が、松平遠江守の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。
深川芭蕉庵
雑誌『ホトトギス』明治42年1月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応2年(1866)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は19世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。
 

 芭蕉庵は、3度建て替えられた。

だが、共通しているのは、あばら家と芭蕉の木。

どのくらいのあばら家だったか、二世市川団十郎の『老の楽』によれば、

「桃青深川のはせお庵、へっつい二つ、茶わん十を、菜切包丁一枚ありて、台所の柱にふくべを懸けてあり、」

ふくべはコメ入れで、無くなりそうになると弟子たちが補充した。

雪の朝 独り干鮭を 噛得たり

 

 

 

 

 

 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-3(中央区・文京区)

2017-10-25 08:54:01 | 句碑

前回の終わり部分で、芭蕉が俳句の世界に入るようになったのと、故郷・伊賀上野を出て、漂泊に身を置くようになったのは、主君藤堂良忠との関わりに、その原因があると述べた。

ここで、芭蕉の履歴を簡単に振り返ろう。

伊賀上野時代は、記録も少なく、推定を免れないらしいが、私の場合は、全部、受け売り、どれが史実でどこが推定か、自分でも分からない。

了承の上お読みください。

 

芭蕉は、寛永21年(1644)、伊賀上野城下に松尾与左衛門の次男として生まれた。

     松尾芭蕉の生家

幼名金作。兄と姉に3人の妹がいた。

町場でありながら百姓の身分だった父は、金作が9歳の時に死亡。

19歳で藤堂藩伊賀付侍大将藤堂新七郎家に台所用人として召し抱えられた。

父死亡から用人になるまでの10年間、どこで何をしていたのか不明。

俳諧には、古典文学の知識が不可欠だが、そうした知識をどうして得たのかも分かっていないらしい。

新七郎家の嗣子良忠が俳諧好きで、俳諧仲間として、金作を重用した。

だが、その安定も主君良忠の病死でついえ去り、23歳で用人を辞める。

当時、宗房の俳号で作句活動をしていたことは記録がある。

江戸に下ったのは、寛文12年、宗房29歳のことであった。

その目的は俳諧師になることだったが、無名の田舎者としては、心細いことだったろう。

        伊賀鉄道上野駅前の芭蕉立像

京都は貞門俳壇の本拠地であり、大阪は談林派の影響下にあって、新人俳人の喰い入る余地はなかった。

だが、江戸には、これといった俳諧師がいず、町には伝統に囚われない自由闊達な空気がみなぎって、新米宗匠として、成功の可能性が高いと踏んだに違いない。

芭蕉が草鞋を脱いだのは、日本橋小田原町のスポンサーの家。

 

今は、「日本橋鮒佐」(中央区日本橋室町1-12)がある場所に、幕府御用達魚問屋「鯉屋」があり、そこの主人、杉山市兵衛(俳号杉風)の家に身を寄せた。

芭蕉は、俳号を「宗房」から「桃青」に改め、俳諧師として仕事を始める。

その意気込みが読み取れる一句を彫った句碑が「日本橋鮒佐」前に立っている。

発句也松尾桃青宿の春」。

句碑の傍らに立つ中央区教委の説明板の内容は

松尾芭蕉は、漢文12年(1672)、29歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝8年(1680)、37歳までの8年間、ここ小田原町(現室町1丁目)小沢太郎兵衛(大船町名主、芭蕉門人、俳号卜尺)の借家に住んでいたことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時「桃青」と称していた芭蕉は、日本橋魚市場に近い繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝6年には俳諧宗匠として独立した。その翌年正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに読み上げたのがこの碑の句である。碑面の文字は、下里知足の自筆から模刻した。」

説明板には、「東海道名所図会」の日本橋の絵があって、その解説もされている。

日本橋を北に渡った東側に魚市場があった。河岸には魚を満載した舟が漕ぎ寄せられ、早朝から威勢のいい掛け声で賑わっていた。この絵の右側乃ち北側二筋目の通りが、芭蕉の住んでいた羅尾田早生町で、そこにも魚屋が並んでいた。芭蕉は魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていたのである」。

 

地下鉄に乗るべく「銀座三越」前の地階通路を通っていたら、壁面に長尺の絵巻が展示されていた。

小田原町と思われる街区の一画をパチリ。

 

東京には、芭蕉庵が二つ残されている。

一つは、関口芭蕉庵(文京区関口2)で、もう一つは、深川芭蕉庵(江東区常盤1)。

桃青は、日本橋に8年いて、次に深川芭蕉庵に14年もの間、身を置くことになるのだが、その間、数年間、江戸川橋の西数百メートル、駒塚橋の北詰にある関口芭蕉庵に住んでいたことがある。

それが、関口芭蕉庵で、芭蕉は、ここに住み、神田上水の大洗堰の改修工事に従事していたと伝えられている。

巷間云われる現場監督などという位の高い役職ではなく、水道の監視や手入れ、掃除などの軽労働だったと云う説もある。

俳句の宗匠だけでは、生計が成り立たなかったからだというのだが、いやいや、これは彼に商才があったからだという人もいる。

商才説は、芭蕉が上水の浚渫作業を請け負っていたことに重きをおく。

江戸に出てまもない桃青が何百人もの作業人を調達できたのは、日本橋に身を寄せたパトロンが名主で、その名主業務の帳面方を務めていたからだというのた。

関口芭蕉庵だけでもこんなに諸説紛々、芭蕉像ははっきりしないのです。

 

 地下鉄「江戸川橋」駅を出ると神田川が見える。

橋を渡って左へ曲がると江戸川公園。

公園には、神田上水の取水口大洗堰の石組みの一部が遺構として残されている。

川伝いに西へ進むと「椿山荘」があり、その隣に「関口芭蕉庵」がある。

その光景を「はせを庵 椿やま」と題して、広重が描いたのが、下の絵。

ひときわ高くそびえる松は芭蕉庵のシンボル的存在だったが、昭和30年代、枯れ朽ちてしまった。

駒塚橋から延びる急坂が「胸突坂」。

胸突き坂の上りはじめ右側に、関口芭蕉庵の入口がある。

板戸の門をくぐるとぶつかる句碑が有名なかの

古池や蛙とび込む水の音 芭蕉桃青

池の辺に句碑があるから、この句は、ここで詠まれたのかと錯覚するが、そんなことはない。

とはいえ、ではどこの池でのことかというとこれが特定できないらしい。

だからか、東京23区内だけでも「古池や・・・」の句碑は、なんと8基も存在する。

この句碑の建立事由は碑裏に刻されている。

この碑は芭蕉翁二百八十年遠忌の記念として建立したものである。碑面文字は当芭蕉庵伝来の真蹟自画賛をも穀したものである。
           昭和四十八年十月十二日 関口芭蕉庵保存会建之

園内には芭蕉の葉が太陽光線を遮るように広がり、芭蕉が詠んだ芭蕉の句も披露されている。

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
 (わび住まいに雨漏りがしている。庭の芭蕉の葉にうちつける雨音と盥に落ちる雨音とがわびしさを強めている。)

鶴の鳴くやその声芭蕉やれぬべし
 (めったに鳴かない鶴が一声鳴けば、芭蕉の葉もやぶれることだろう)  

広くもない池の端まで歩いて、さらに小路を上ると「芭蕉翁之墓」がある。

碑裏には「祖翁瀬田のはしの吟詠を以て是を建て仍てさみだれ塚と称す 寛延三年八月十二日 夕可庵門生 園露什 酒芬路」とある。

神田川を向こうに広がる田んぼを琵琶湖に見立てて、芭蕉が詠んだ

五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
(五月雨にすべてのものが霞んでいるのに、瀬田の大橋だけがくっきりと浮き上がっている)

 この句の真筆を遺骨代わりに納めて墓としたもので、この「五月雨塚」は江戸名所の一つだったという。

この「芭蕉翁之墓」の上方に、芭蕉を初め、宝井其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草らの像を祀った芭蕉堂があるのだが、立ち入り禁止で近づけなかった。

近づけても非公開だから無意味ではあるが。

この他園内には、

「二夜鳴き 一夜はさむし きりぎりす 四時庵慶紀逸」

「真ん中に 富士聳えたり国の春 喜翁松宇」の句碑がある。

巷の喧騒から離れて静かな庭園は、散策にお勧め。

しかも入園無料。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-2(足立区)

2017-10-14 12:46:42 | 句碑

千住大橋を渡り、国道4号線の日光街道を進む。

千代田線を横切ったところの信号を左折、200mほど先に千住神社がある。

◇千住神社(足立区千住宮元町24-1)

 旧千住町の総鎮守だから、境内は広い。

参道を行くと右手に自然石の句碑。

「          慶応丁卯仲秋月
      ひとの短を云事なかれ
      己の長を説くことなかれ

 ものいへば唇
   さむし
     秌の風

            はせを翁

秌は、秋の異体字。

偏と旁が左右逆になっている。

「ものいえば 唇さむし 秋の風」

通常は、「余計なことを云うと災いを招く」意だが、「人の短を云事なかれ 己の長を説く事なかれ」の原文「無道人之短(人の短を云うことなかれ)、無説己之長(己の長を説くことなかれ)、「施人慎勿念(人に施しては慎みて念ふ勿れ)、受施慎勿忘(恩を受けたらいつまでも忘れずに)」の意は「謙虚」の意が強そうだ。

これが芭蕉の座右の銘であったかどうかは、定かではないという。

それにしても何故この句がここにあるのか、社務所の人に尋ねてみた、

「矢立初めの地の近くでもあるからでしょうか」とのことだった。

 

4号線と別れて、墨堤通りを右に、源長寺から宿場の旧道に入る。

北千住駅前通りを過ぎるとサンロードと宿場通りは名前を変える。

本陣跡や高札場の石碑があって、宿場の中心地だったことが分かる。

昼飯の行列の反対側、細い小路の突き当りに鳥居が見えて、そこが探す氷川神社だった。

 

◇千住本氷川神社(足立区千住3-22)

神社に近寄ると、若者が5,6人黙って、スマホをいじっている。

どうやらレアポケモンを倒すための急造インスタント集団のようだ。

お互いに一言も会話を交わさないが、目的は一致して、共同作業に励むというなにやら怪しげな現代的光景だ。

鳥居をくぐって突き当りを右に折れると本殿がある。

突き当りは、千住七福神の大黒天を祀る社。

そして芭蕉の句碑は、この社の前にある。

「   芭蕉翁奥の細道
    旅立参百年記念

  春もやや
    けしき
     ととのふ
    月と梅 

  千住本氷川神社
  平成再建世話人会」

梅の花もほころび、それに月の朧が加わって、いっそう春めいてきた、という句意。

解説書によれば、芭蕉の絵の先生であり、俳句の弟子、許六の家で描いた絵につけた画讃の句なんだそうだ。

世話人会が、なぜ、この句を撰んだのか、その真意はまだ訊いてない。

 

宿場通りが切れても先へ進むと安養寺にぶつかる。

◇安養寺(足立区千住5-17)

石仏の多い寺。

石仏に交じって、自然石の芭蕉句碑が横たわっている。

ゆく春や
  鳥なき
  魚の目ハ泪

大橋公園や素戔雄神社の句碑でなじみの旅立ちの句。

北のはずれとはいえ、ここはまだ北千住だから、旅立ちの句があってもおかしくはないが、碑面によれば、昭和29年、岡本某氏の還暦記念に建立したものという。

わざわざ訪ねて行って、他人の還暦記念の句碑では、なにか白けてしまう。

こうしたものまで、芭蕉句碑に入れるのか、要検討。

私は、反対の票を投じたい。

「奥の細道」の旅立ちが千住宿だったから、足立区に旅立ち関連の句碑が多いのは、頷ける。

だが、その足立区に「奥の細道」とは無関係な芭蕉句碑がある。

場所は、西新井大師。

◇西新井大師(足立区西新井1-15)

西新井大師には、100基を超える石造物がある。

しかし、句碑はわずか3基。

そのうちの1基が芭蕉の句碑なのです。

 「父母の
  しきりに
   恋し
    雉子の声

この句は、芭蕉が高野山で詠んだもの。

芭蕉が高野山へ詣でた目的は、彼の主君・伊賀上野の藤堂良忠の位牌を菩提寺に納める為だった。

良忠は、俳号を蝉吟と号し、芭蕉が俳句の世界に入るようになったのは、主君の趣味に合わせたからだという。

25歳という若さで没した蝉吟の死に無常を感じた芭蕉は、それ以降、故郷を離れ、漂泊しながら、俳諧に没頭するようになった。(Wikipediaより)

裏面には、「天保十二年(1841)、芭蕉翁百五十回忌追福のため建立」とある。

なぜ、この句が選句されたのかは不明だが、西新井大師本堂の右裏手には、「高野山奥の院」なる聖地があり、高野山との関係が深いことが分かる。


        

 

 

 

 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-1(足立区・荒川区)

2017-10-05 10:24:30 | 句碑

千住大橋を北へ渡っていた。

川面から目を川岸に転ずると何やら絵が目に入ってくる。

近づいて見ると「おくのほそ道 旅立ちの地」の文字と二人の男が描かれている。

当然、男たちは、芭蕉と曽良ということになる。

◇足立区立大橋公園(足立区千住橋戸町31)

北詰の大橋公園には、「奥の細道 矢立初めの地」なる石柱が立ち、『おくのほそ道』関連の資料や地図が散見できる。

狭い公園の奥には、黒御影の石碑があり、「史跡 おくのほそ道矢立初の碑」と刻されている。

千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそそぐ
 行春や鳥啼き魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なほ進まず、人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆる迄はと見送るなるべし」

傍らに「裏面もお読みください」とあるので、狭い空間に入り込む。

突っ張る腹が邪魔で、屈みにくいところを無理して読んだ内容は、「深川から舟で千住まで来た芭蕉は、このあたりで上陸、旅立って行った」というもの。

ここ千住大橋は、家康入府の4年後、文禄3年(1594)架橋された。

これによって、千住は東北地方への起点となり、品川、板橋、内藤新宿とともに江戸四宿の一つとなった。

   足立郷土博物館展示模型

宿場は多くの旅人たちで賑わった。

旅籠が多いのは想像できるが、それを上回る料理屋があったことは、あまり知られていない。

当時、長旅には、死と隣り合わせのリスクがあった。

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」。

これは、『おくのほそ道』の有名な書き出しだが、芭蕉は、すぐそのあとに「古人も多く旅に死せるあり」と書いている。

        芭蕉座像

長旅に出る旅人を、盛大な別れの宴を張って、人々は水盃を交わして見送った。

この宴を「サカオクリ(境送り)」と云い、無事帰ってきた場合は、「サカムカエ(

境迎え)で祝った。

これらの儀式は、宿場の料理屋で行われたから、必然的に料理屋の数は増えた。

『おくのほそ道』では「これを矢立の初として、行く道なほ進まず。人々は途中に立並びて、後かげの見ゆる迄はと見送るなるべし」とあるから、

見送りの人たちは、芭蕉と曽良の姿が見えなくなるまで、手を振りながら見送ったことは確かだが、その前にサカオクリの水盃をどこかの料理屋で交わしたにちがいない。

公園の隅の鉄製の階段を上り、堰堤の向こう側の川岸テラスに下りる。

さきほど橋の上から見た文と絵が大きく眼前に広がっている。

芭蕉関連と千住大橋の資料が拡大されて展示されているようだ。

川の水は鉛色で、不透明。

鮎の子の白魚送る別れかな

これは、旅立ちの句「行くはるや鳥啼き魚の目は泪」の前に予定されていた句だが、

解説書によれば、鮎の遡上は白魚に遅れること1か月後なので、芭蕉と曽良を白魚に、見送りの人たちを鮎に見立てた旅たちの句ということらしい。

推敲の上、芭蕉はこの句を採らず「行くはるや鳥啼き魚の目は泪」にしたという。

この句から、当時は、墨田川に白魚がいたことがよく分かる。

現在の川の濁り具合からは、想像もできないが。

公園を後にしながら、ふと「芭蕉の句碑巡り」はどうだろうか、と思った。

帰宅して調べたら、都内に80数基の句碑があることが分かった。

都内のみならず全国の芭蕉の句碑を網羅したサイトもある。

改めて拙いブログをUPすることには、躊躇するところが無きにしも非ずだが、俳句勉強の魅力は避けがたく、今回からテーマを「芭蕉の句碑巡り」にすることにした。

問題は、私の俳句の理解力不足。

ほとんど句意を読み取れない。

こんなことでは、句碑巡りなんてとんでもないが、解説書の助けを借りて、よちよち歩きのままスタートすることに。

早速、翌日、動き出した。

 

 ◇素戔雄神社(荒川区南千住6-60)

まずは、千住大橋に一番近い南千住の素戔雄(すさのを)神社から。

この神社には、「奥の細道首途(かどで)」なる碑がある。

建立されたのは、文政3年(1820)、「おくのほそ道」の131年後のことだった。

川向うの大橋公園の「旅立ちの碑」が平成時代のものであるのに比べれば、その文化財的価値ははるかに高い。

碑面は、下部に芭蕉の線刻画、上部に「おくのほそ道」の一文が刻まれている。

千寿といふ所より船をあがれば
 前途三千里のおもひむねにふさがりて
 まぼろしのちまたに離別の泪をそそぐ

 行くはるや鳥啼き魚の目はなみだ

 亡友巣兆子翁の小影をうつしまたわれをして翁の句を記せしむ 鵬斎老人書」

達筆でとても私の手に負えないが、資料にはこのように刻されているとある。

書を成したのは江戸後期の儒学者亀田鵬斎、彼は書の道でも第一人者と称された。

芭蕉を描いた巣兆は、谷文晁の弟子。

一流どころの書と絵を彫った群鶴もまた、当代一流の石工だった。

一流どころの石碑も読みにくいことに変わりはない。

当神社では、ご丁寧にも碑面を黒白に反転して、読みやすくしてある。

それだけではなく、変体仮名を変換してくれてある。

うれしい心配りだ。

俳句の大会も開かれるようで、境内は俳句だらけ。

絵馬もここでは、短冊代わり。

墨田川北岸の大橋公園の石碑より、ここ素戔雄神社の石碑のほうが、歴史的にも由緒正しいものであることは分かった。

が、一つだけ腑に落ちないことがある。

それは、旅立ちの碑が川の南岸の素戔雄神社にあること。

奥州へ旅立つのだから、北千住側へ舟を上がり、スタートするのが道理。

「おかしいじゃないか」、誰もが抱く疑問に、神社側はこう応える。

看板の文章を全文転写しておく。

こんにちは 松尾芭蕉です。
 深川を出て、いま千住に着きました。
 いよいよ前途三千里(奥の細道)へ出発するのですが、
 最初の一歩がなかなか出せない疑問があります。
 
(千住大橋)南詰・北詰。どちらから出発したら良いものか。
 些細なことのようですが、後世の両岸にとっては矢立初めの地として
 本家争い・論争の種にもなりかねない問題なのです。
 現実的なことでは川の通行の右左、宿場の大小なのですが、
 詩情豊かな紀行文です。旅は(他の火)で、川は生と死の境界、
 その向こう岸(彼岸)に旅立つ訳ですから・・・
 わたくし松尾芭蕉、悩み疲れました。
 すこし落ち着きたいと思います。丁度この地には、下野(しもつけ)
 大関様の下屋敷もあり、旅立ちのご挨拶を兼ね、花のお江戸との
 お別れの宴でも・・・
 では、七ケ日間ほど逗留することにします。お籠りも兼ねて。
 この間、道中笠と杖は使いませんので、ここに掛けておきます。


 修験出羽三山とも御縁の深いお天王様ご参拝のこれまた御縁。
 よろしかったらかぶってみてください。
 元禄2年(1689)弥生も末の七日の私、松尾芭蕉が何処に
 立っていたか、(千住大橋)手前南詰か?向こう北詰か?
 ぼんやりと春がすみの中から見えてきませんか。(改行原文通り)

 疑問に応えようとする神社の誠意は多とするが、説得力に欠けると残念ながら言わざるをえない。

 やはり大橋北詰から旅立ちしたとするのが自然でしょう。

荒川区の芭蕉句碑は、素戔雄神社の1基だけ。

千住大橋を渡って、再び、足立区へ。