石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

59 石で知る江戸城(1)外濠を歩く(飯田橋ー市ヶ谷ー四谷ー赤坂)

2013-07-16 05:47:34 | 石で知る江戸城

 東京に住んでいながら、江戸城についてはほとんど知らない。

江戸城を少しでも知りたい、というのがこのブログのきっかけです。

それも石を介して。

誤解しないでほしいのですが、したり顔で断言しているからと云って、その事柄に熟知しているわけではありません。

これは個人的な勉強のまとめであって、初めて知ったことばかりなのです。

このことは、今回だけに限らず、「石仏散歩」の全ての記事について言えることなのですが。

 

江戸城シリーズを水道橋から始めるのは、格別な意味があるわけではありません。

地下鉄三田線の利用者として、それが手っとり早いからです。

地下鉄「水道橋駅」からJR「水道橋駅」へ向かう。

橋の途中に銅のレリーフがあります。

地名の由来となった水道管(懸樋)を渡す橋、水道橋を描いた江戸名所図会が浮き彫りにされています。

レリーフの、これが元絵。

神田上水は江戸最古の水道で、現在の江戸川橋付近で取水され、ここで神田川をまたいで、城中と日本橋、神田方面へと流れ込んでいました。

木製の橋の上を走る懸樋は、番屋で守られていました。

その再現模型が江戸東京博物館にあります。

模型ではない、神田上水の実物大復元石樋も、東京都水道歴史館で見ることができます。

石樋は幅1m50㎝、石垣の高さ1m50㎝。

厚さ30㎝の蓋石が被せられていました。

神田上水は家康の江戸入府とともに開削されました。

江戸城周辺では井戸を掘っても塩水で、飲料水確保が緊急課題だったからです。

水道橋駅の南は、三崎町ですが、三崎=岬、家康入府の頃はここらまで海辺でした。

当然、現在のように深い神田川はここには流れていませんでした。

神田川からのお茶の水橋は見上げるばかり。

両岸は切り立った崖のようですが、これは人工的に掘削された川なのです。

お茶の水橋、橋の下に駅のホームが見える

 神田川(左土手上は順天堂病院)

 神田川掘削の目的は、三つ。

①大雨の度、氾濫し、江戸城本丸前を水浸しにしていた平川(小石川方面から飯田橋経由で日比谷入江に流れ込んでいた)の流れを変えて、隅田川に注ぐようにする。

②平川の流れをストップすることで、大手町あたりを洪水から解放すると同時に、掘削した大量の土砂を日比谷入江の埋め立てに利用する。(現在の日本橋、大手町、日比谷など東京の中心地は、この造成工事で出現したもの)

③江戸城北側の本郷台地には外堀がない。神田川を江戸城防備のための外堀とする。

完成したのは元和6年(1620)。

工事を担当したのは、仙台藩。

江戸城を北から攻めるとすれば、それは伊達政宗しかありえなかったわけですから、神田川掘削をすることで政宗は幕府に忠誠心を示したことになります。

 

水道橋に戻って、200メートルほど上流へ。

神田川へ出っ張った所が、市兵衛河岸。

                   市兵衛河岸

河岸とは、物資輸送のために水際に作られた物揚げ場で、江戸湾や利根川から隅田川経由の荷舟がここ市兵衛河岸から神楽河岸(飯田橋)あたりまで頻繁にやってきました。

市兵衛河岸は、現在、防災時の船着き場になっていて、平常時は施錠されていて入れません。

外堀通りを飯田橋方向へ。

飯田橋ハローワークを右折すれば、すぐ小石川後楽園です。

用があるのは、庭園ではなくて、外壁。

築地塀の下の石垣が注目ポイントです。

旧都庁舎近くの鍛冶橋で発掘された外堀の石垣を再利用したもので、石に刻まれたマークは工事担当大名家の印(しるし)です。

「山」印は山崎甲斐守、右端真ん中の双葉マークは、豊後佐伯の毛利家 の刻印。

各大名家は工事範囲を決められていました。

他家と接する所も石垣ですから、直線的に分けることは不可能で、必然、石が組み合わさった形になります。

その組み合わさり、重なり合った石がどちらの藩のものか明示するのが刻印の役割でした。

それと盗難防止。

石は、各藩が伊豆から苦労して運び込んだもの。

工事現場は各藩が入り乱れていたから、印のない石はすぐ盗まれる。

採石後、その場で刻印されて、江戸に持ち込まれていました。

伊豆の採石場跡地では、各藩の刻印石材が今でも転がっています。

 

再び、外堀通りに戻って、飯田橋へ。

神田川は飯田橋交差点下を急激に右折します。

 飯田橋から右折、江戸川橋方向へ伸びる神田川

首都高の真下が川の流れだと思えばいいでしょう。

隅田川からきた荷舟は、ここで右折することなく、直進。

そこが行きどまりの牛込揚場で、飯田濠でした。

町名変更で由緒ある地名がどんどん消滅してゆく中、新宿区だけは昔の町名が残っています。

今は暗渠となり、親水公園となった飯田濠の西側は「揚場町」、東は「神楽河岸」という町名ですから、すばらしい。

 飯田濠跡の親水公園

ただし、神楽河岸の人口はゼロ、町名だけです。

親水公園を過ぎると左手にこんもりとした茂みの一角。

封鎖されていて、中にはいれません。

29年前の、文字の消えかかった説明板によれば、「昭和47年(1972)、飯田濠を埋め立てる際、濠を一部保存のため復元したが、この茂みの石垣は江戸時代のまま」だそうです。

信号「神楽坂下」を左折、飯田橋駅西口出口の手前にRAMRAへ入る橋があります。

   RAMRAへの橋

この橋から下の眺めも江戸時代と変わりません。

 

 左はJR飯田橋駅 外濠から水が       鹿鳴館秘蔵写真帖(明治元年)橋の左が牛込見附。

 流れ込んでいる

落差も水量もほぼ同じ、違うのは流れ込むのが飯田濠ではなく、暗渠だということでしょうか。

 

飯田橋といえば、巨大な石組の牛込見附は見逃せません。

「見附」は「見つける」の意。

見張り番が常駐する門のことで、江戸城三十六見附と云いますが、この場合の三十六はManyの意味です。

敵の侵入を防ぐ防御施設ですから、堅牢であることは勿論、簡単に通り抜け出来ない構造になっていました。

その構造は「枡形」門。

内枡形の概観(上から見た図)

HP「城」http://www.hat.hi-ho.ne.jp/moch/castle/castle_klg03.htmより無断借用。

四辺を石垣で枡のように囲い、直線的には通り抜けられないようになっていました。

飯田橋駅西口前の通りの両側に聳える石垣は、枡形門の相向かう2辺。

現地に立つ千代田区の説明板が分かりやすい。

オレンジ色線が江戸時代の牛込見附。

神楽坂方面から向かうと道路を塞ぐ形で石垣があったことが分かります。

下の写真でいえば、道の両側に立つ建物を繋ぐ形で石垣がそそり立っていました。

この枡形は明治35年(1902)撤去されましたが、その石垣の一部が交番の横に転がっています。

側面下部に「阿波の守」とあるのは、この枡形門を建造したのが阿波藩であったことを物語っています。

牛込見附門が建造されたのは、寛永13年(1636)。

江戸城構築の総仕上げとしての最後の天下普請でした。

阿波藩では、牛込門建造に必要な石材の切り出しに、前年の寛永12年、伊豆へ数百人の人夫を国元から送りこみ、切りだした石を江戸へ送り始めます。

普請費用の借金を京都の商人に申し込む一方、石積みの技術に長けた穴太(あのう)石工の確保に努めます。

こうした周到な準備の上、普請は寛永13年1月8日にスタート、40日と云う短期間で完成しました。

藩主蜂須賀忠英自らが現場で陣頭指揮を取るという藩をあげての一大イベントでした。

天下普請は、諸大名にとって徳川家への忠誠心を表す格好な場でした。

巧名は、普請の出来栄えにかかっていましたから、諸大名は資金と労力を惜しみなく投じました。

牛込枡形門の石の大きさ、精緻な石組に阿波藩の心意気が読みとれます。

幕府からすれば、天下普請に参加、競合させることで諸大名の財力をそぐという目的をなんなく達成したことになります。

 

外濠を右に見下ろしながら市ヶ谷方面へ土手を進みます。

この辺りは、牛込濠。

ここから、新見附濠、市ヶ谷濠、真田濠、弁慶濠と外濠は続きます。

かつては14キロありましたが、現在、外濠の長さは4キロ。

法政大学を過ぎるとまもなく市ヶ谷。

市ヶ谷にも枡形門がありましたが、その痕跡は皆無です。

しかし、意外な場所に石垣が残っています。

市ヶ谷と云えば、釣り堀。

 

 手前が釣り堀 その奥が外濠

外濠の釣り堀を駅のホームから見たことのある人は多いでしょう。

この釣り堀へ下りる道の右側の石垣は、江戸時代のままです。

注意して見るといくつもの異なった藩の刻印が見えるはずです。

 

意外な場所といえば、市ヶ谷にはもう一か所石垣が見える場所があります。

東京メトロ南北線市ヶ谷駅構内の「江戸歴史散歩コーナー」。

    江戸歴史散歩コーナー

地下鉄工事で出土した外濠の石垣を移築再現するとともに、築城工事の記録や絵図を解説とともに多数展示しています。

 

 再現された石垣 藩の刻印もある      石を切り出す際に穿たれた矢穴

巨石の運搬風景など興味深い屏風絵などもありますが、照明が暗くてよく見えないのが残念。

 石曳図屏風(箱根町指定文化財) 修羅で巨石を運んでいる

床に広がる江戸古地図の上を、女子高生がキャッキャッいいながら飛び跳ねていました。

自分たちの学校の場所を見つけたんでしょうか。

 

四谷駅に向かいます。

市ヶ谷駅を出た時は、外濠には満面の水がありました。

 

 市ヶ谷駅を出たところ 右端が市ヶ谷橋

それが四ツ谷駅に着くと、いつのまにか水はありません。

   四ツ谷駅東の橋から市ヶ谷方向を望む

もう一度、市ヶ谷駅に戻り、Uターン。

濠の水がなくなる瞬間を狙ったのですが、木の茂みが邪魔をして、撮れません。

 

 右端に緑の水面が見える            左の写真の一枚前 茶色のビルの前には
 上の茶色のビルに注目              満面の水 ビルを過ぎると水はなくなるようだ

その名も「外濠公園運動場」が見える時は、電車も濠の中を走っています。

四ツ谷駅は、すっぽりと濠に包まれた形で存在しています。

      四ツ谷駅 向こうのビルは上智大学

 四谷見附の枡形門は、皇居に向かってJR四ツ谷駅の左側の道路を塞ぐ形でありました。

 

         四谷見附門                右のドームが四ツ谷駅 左の茂みが門の石垣

その石垣の一部が、主婦会館の前に残っています。

   四谷見附枡形門の石垣

これまで、牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠と外濠沿いに西に向かってきました。

見た目では分かりませんが、それぞれの濠の水位は異なっているのです。

牛込濠が一番低く、市ヶ谷濠が一番高い水位なのです。

この地形からすると、四谷駅を含め上智大学グランドがある真田濠が市ヶ谷濠よりも高いことは当然でしょう。

(水位の高さは、牛込濠3.4m、市ヶ谷濠10.9m、真田濠19.0m)

水位が高いということは、海抜が高いということです。

この海抜が高いということから、四谷門には、江戸城内で不可欠なものを配給する重要施設が置かれていました。

城内で不可欠ななものとは、水。

ポンプがない時代、水は高い地点から低い地点へと傾斜を利用して行き渡らせていました。

標高が一番高い四谷門が、水道網の根幹だったのは、地形からして当然のことでした。

 このブログ冒頭に、懸樋を渡す水道橋のレリーフを紹介しましたが、あれは神田上水を城内に導くものでした。

しかし、やがてこの神田上水だけでは城内の水需要を賄いきれないようになります。

そこで手を付けたのが、玉川上水。

多摩川の羽村から延々約40キロの導水路を、2年の突貫工事で承応2年(1653)に完成させます。

 

 四谷大木戸跡碑 ここに水番所があった 敷地の四谷区民センター裏には玉川上水を偲ぶ水の流れがある

玉川上水は、上が開いた水路で、四谷大木戸まで到達し、そこからは木や石で造られた水道管で地下を走り、四谷に流れつきました。

 

水道本管石枡(清水谷公園)   左の石枡から上の木樋を通して水が分配されていた(東京都水道歴史館)

四谷門で水道は細かく枝分かれして城内各所に配給されてゆきます。

地中深くに網の目のように水道管が走り、要所要所で桶状に囲われた井戸があり、そこから人々は水を汲んだのです。

 井戸の仕組み(東京都水道歴史館)

 

寛永13年(1636)の天下普請は、空前絶後の規模で実施されました。

石垣築造組は62大名、外濠の掘り方組は58大名、計120家の大名が動員されています。

牛込見附を築造したのは阿波藩だったように、石垣組には中国、四国、九州の諸大名、いわゆる西国大名が、一方、掘り方組には、東北、関東、北信越の東国大名がその任に当てられました。

作業開始は寛永13年3月9日。

掘削作業は、難航しました。

掘った土の捨て場が遠いことと予想外の出水が工事の遅延と労働力の不足を招いたのです。

各藩とも急いで地元から数百人単位の応援を頼まざるをえませんでした。

天下普請の一部始終は幕府の公式記録『徳川実紀』に記録されています。

将軍家光は工事現場に何度か足を運び、褒賞を与えていますが、その数は石垣組の西国大名に多く、作業が過酷であった掘り方の東国大名にはおろそかだったと言われています。

家光の時代になっても西国大名には気づかいが必要だったことが窺えます。

 

では、四ツ谷駅から西の真田濠(真田藩が掘削した)を見て回りましょう。

地下鉄四ツ谷駅を出て、その名も「外堀」通りを迎賓館方向へ。

雑草の間から真田濠が見られます。

線路は地下鉄丸ノ内線。

その向こうに広がるのは上智大学グランドです。

突然、江戸時代が出現。

迎賓館東門は、紀州藩中屋敷の門を移築したもの。

その先の信号「紀之国坂」を左折すると真田濠が全貌を現わします。

 

  信号「紀之国坂」             南端から見た真田濠 右のビルは上智大学

これだけの広さと深さの濠を人力だけで3カ月ほどで掘り下げ、土を運び上げたのですから、驚きです。

反対側を振り返るとはるか眼下に弁慶濠が光っています。

 喰違門跡付近から弁慶濠を望む

真田濠がいかに標高が高いかがよく分かります。

このあたり、道が緩やかなカーブを描いていますが、江戸時代はここに「喰違門」(くいちがいもん)がありました。

 

     喰違門跡                     江戸時代の喰違門(『絵本江戸土産』より)

城内への直進を防ぐために普通は枡形門でしたが、ここでは土塁が左右から前後に道を塞ぐように出ていました。

 千代田区教委による説明板より

その形から「喰違」と称されるようになったのです。

 

外堀通りを下って弁慶濠へ。

赤坂見附門跡は、地下鉄「赤坂見附」からちょっと離れています。

その昔は大山通り、今は246号線の坂の途中左の茂みの中に枡形門の石垣があります。

 

 赤坂見附門 造築は寛永13年(1636)、筑前福岡藩。左の歩道橋の先の茂みの中に石垣はある。

坂の名前は「富士見坂」ですが、都内の他の富士見坂同様、富士山は見えません。

     歩道橋から西を望む

赤坂見附枡形門は弁慶濠の突き当たり、高速道路のトンネル入口の真上にあります。

 

 なぜ、坂の途中に門を構えたのでしょうか。

古地図を見ると赤坂門は、弁慶濠と溜池に挟まれた道を塞ぐ形でありました。

 では、なぜ、弁慶濠と溜池を直線的に繋がなかったのでしょうか。

その理由はこの辺りは元々湿地帯で、石垣を組むには余りにも地盤が軟弱過ぎたからだと言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


58 椀状凹みを探して日光街道を行く(3)間々田宿ー雀宮宿

2013-07-01 05:43:56 | 民間信仰

「椀状凹みを探して日光街道を行」って小山市へ。

面白いような面白くないような、落ち着かない気分。

大体、これぐらい実物をみてくれば、共通点だとかに気付くものだけれど、さっぱりその気配はない。

椀状凹みを穿った理由が分からないまま実物を探し続けることに、果たして意味はあるのだろうか。

もともと少ないブログの閲覧者数は減少する一方。

閲覧する魅力に乏しいことが、はっきりして来たようだ。

途中でやめるのは簡単だが、投げ出したからといって気分が晴れることはなさそう。

物事を途中で投げ出すことは、性分に合わないからです。

だから、このまま突っ走るだけ。

ゴールの日光まで、あと、2回、お付き合いください。

 

  ー間々田宿ー

 小山市に入って約2キロ、JR間々田駅の手前にあるのが仏光寺。

   仏光寺(小山市南乙女)

山門を入って左手の2基の十九夜塔に椀状凹みがある。

 

   仏光寺の2基の十九夜塔         

石塔は真っ黒で文字は読めない。

被写体と背景の明暗の差が激しいから仕方ない、というのは言い訳で、要するに撮るのが下手なのです。

間々田駅からの駅前通りとぶつかったら左へ。

乙女不動尊へ向かう。

地図では,泉竜寺と表示されている。

 乙女不動尊(小山市乙女)

乙女と不動明王、これほどミスマッチな名前も珍しい。

しかし、乙女は地名だから、これはこれで至極当然な名称なのです。

朱塗りの仁王門の前の宝筐印塔に椀状凹みが見られる。

 

宝筐印塔の功徳は「礼拝供養すれば八十億劫生死重罪が消滅し、災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わる」ことにある。

が、そのためには陀羅尼経を書写して塔中に納めなければならない。

穴を穿っても功徳はある、とはどこにも書いてないのだから、椀状凹みは不思議なのだ。

再び4号線に戻って北上。

左に朱塗りの山門。

 龍昌寺(小山市乙女)

龍昌寺だ。

人が大勢いて山門は通れないから、山門脇から境内に入る。

 境内で祭の蛇を作っている人たち

藁が散らばる中で人々が長い竹に藁を巻きつけている。

訊いたら、1週間先の5月5日に行われるジャガマイタ(蛇祭」の蛇を作っているとのこと。

人々の奇異な視線を背中に感じながら十九夜塔に近づくと、探していたものがあった。

 

見事な椀状凹みが穿たれている。

ジャガマイタは、間々田八幡神社の例大祭で、国の重要無形文化財に指定されている。

     パパの日記 http://knakamura.exblog.jp/12629226/より無断借用

では、と八幡神社に寄り道。

天平年間創立で日光例幣使も参拝というので、椀状凹みを期待したがどこにも見当たらない。

  間々田八幡神社(小山市間々田)

広い境内で、探し回るのに疲れてしまった。

 

日光街道に戻ると「東京から72㎞」の標識がある。

   間々田宿本陣跡(小山市間々田)

そこが間々田宿の本陣跡。

日光街道の中間地点だから間々田、という説があるそうだが、本当だろうか。

幕末期の記録では、宿の長さ1.1キロ、人口947人、旅籠50軒とあるという。

宿のはずれの道の両側に寺がある。

右の行泉寺には石造物は皆無。

  行泉寺(小山市間々田)

左の浄光院には本堂脇に10数基の石造物群がコの字型に並んでいる。

 

   浄光院(小山市間々田)

その中の1基にくっきりした椀状凹み。

他の石造物にはなくて何故この十九夜塔だけにあるのか。

推測だが、これらの石造物は元々別々の場所にあったのではないか。

道路拡張や土地開発などで移転を余儀なくされ、この寺に持ち込まれたのだろう。

場所と造立の趣旨が異なれば、椀状凹みもあったりなかったりするのは、当然だ。

浄光院の裏でも住民による蛇作りが行われていた。

浄光院から淡々とひたすら北上する。

 

 ー小山宿ー

小山市街に入る。

駅前の265号線辺りが小山宿の本陣跡らしいのだが、標識は皆無で全く見当がつかない。

では、教育委員会作成の説明板がないのかというとそんなことはない。

小山市街で最初に訪れた持宝寺の梵鐘には説明板がある。

 

梵鐘は小山市指定の文化財だからだろうが、無指定でも本陣跡くらい明示すればよかろう。

初めの印象が悪かったので、小山市での椀状凹み探しも熱が入らない。

訪れた順番に列挙しておく。

    

     持宝寺(宮本町3)                須賀神社(宮本町1)

 

  妙建寺(宮本町1)

 

妙建寺の石経供養塔の台座に穴がある。

太陽が真上から照りつけて陰影に乏しいから、凹みがあることが写真では分かりづらい。

 

   愛宕神社(宮本町1)                  常光寺(宮本町3)

 

  光照寺(城山町3)                元須賀神社(城山町2)

 

  天翁院(本郷町1)                 宝性院(本郷町2)

  興法寺(本郷町2)

小山の町を歩き回っても椀状凹みは見つからない。

もうこれが最後と心に決めた興法寺で やっと見つけた。

十九夜塔の台石に穴がぽっかり空いている。

 

駅へ向かうつもりで日光街道に出たら、道の向こうに鳥居が見える。

  愛宕神社(本郷町3)

「これが最後」とつぶやきながら、鳥居をくぐる。

これは何というものだろうか。

推測だが、多分、燈籠の基盤に、凹みがあった。

 

小山市街を離れること約1.5キロ。

次の宿場の新田宿よりは、まだ小山宿に近い地点に観音堂がある。

工事中で、シートに包まれて堂の全容は見えない。

 

    観音堂(小山市喜沢)            左の2基は十九夜塔、右端の地蔵が道標

堂の横に4基の石造物。

向かって右端の地蔵の台石には、右へ奥州海道、左へ日光海道と刻されている。

 

元々はここから約1キロ先の喜沢の追分にあった道標。

道標だから、誰からも苦情が出ないからだろうか、ぼこぼこに穴が開いている。

 

  地蔵の最下部の台座の凹み            蓮華座の凹み

 

ー新田宿ー

いつのまにか新田宿に入っていたらしい。

 国道4号線の日光街道新田宿場付近 向こうが宇都宮方向

もともと日光街道で最も小さな宿場だった。

町並みの長さわずか330m。

人口244人。

旅籠11軒。

地図では、板橋医院の道路の反対側が本陣跡。

写真では、信号左の屋根付き四脚門が本陣の門と見られている。

寺社もなく、薬師堂があるのみ。

     薬師堂(小山市羽川)

堂前の十九夜塔と雨引観音が唯一の石造物だが、椀状凹みはない。

 

小山市から下野市へ入る。

駅前の信号を右折するとJR小金井駅。

信号から3分ほどで小金井の一里塚がある。

この一里塚は国指定の史蹟。

下野市教委の説明板を載せておく。

 

ー小金井宿ー

一里塚から5分も歩けば、小金井宿。

本陣大越家の四脚門や道の反対側の白壁の見世蔵に往時の面影が残っている。

地図上では、4号線の「4」の字の辺り。

 

 本陣大越家(下野市小金井1)          見世蔵(下野市小金井1)

見世蔵の屋根にはブルーシートが懸けられているが、3.11地震で壊れたのだろうか。

寺社としては、将軍社参の際に休憩御座所だった慈眼寺と小金井宿の総鎮守金井神社がある。

 

 慈眼寺(下野市小金井1)             金井神社(下野市小金井1)

慈眼寺は将軍社参の際、昼休所に充てられたが、そのために「御社参前後三十日余寺明渡し(『日光社参覚書』)ている。

山門前には石造物がずらりと並んでいて、期待したが椀状凹みはなし。

金井神社の手水鉢に椀状凹みがあった。

 激しい凹み方で、一部は崩れている。

 

JR自治医大駅を過ぎると「下野薬師寺跡」の文字が目に入ってきた。

どうしようかと思ったが、2度と来ることはないので、行って見ることに。

 広大な敷地に整然と並ぶ回廊の跡。

      下野薬師寺の回廊跡

東大寺(奈良県)、筑紫観世音寺(福岡県)と共に天下の三戒壇であったというが、なるほど。

         六角堂

仏教が国家護持のためにあったことが分かる気がします。

周囲の安国寺、八幡宮、にも寄ってみたが、肝心の椀状凹みはどこにもなかった。

 

          安国寺                   八幡神社

再び国道4号線に戻る。

やがて道路の右側に松並木が現れる。

  松並木(下野市祇園)

現在は、JRの線路と国道の間に柵で囲われているが、かつては松並木の間を街道が通っていたに違いない。

だが、これが間違いだと後で分かった。

実は旧日光街道は4号線の西に並行する形で畑の中を走っていた。

日光街道は、4号線とくっついたり離れたり。

たまたま離れている区間だったのに気付かなかったのだが、ではこの松並木は何なのか。

 

夕顔橋というロマンチツクな地名は、国道4号と国道352号線の交差点。

交通の要所らしく、十九夜塔など9基の石造物が道路に背を向けて立っていらっしゃる。

     夕顔橋の石仏群(下野市下石橋)

みんなどこかから移転されてきたものらしく、台石はなく、コンクリートの上に直接置かれている。

椀状凹みは台石に穿たれることが多いから、台石がない状態では椀状凹みがあったかどうかは分からない。

 

夕顔橋から約2キロでJR石橋駅。

国道4号線と駅前通りが交差するあたりが石橋宿の中心地だった。

    石橋宿界隈(下野市石橋)

石橋宿は江戸から15番目の宿場。

町並みの長さ約600メートルに家が97軒、旅籠30軒があり、414人がいたと記録されています。

道路の向こう、車が2台停まっているのが脇本陣跡。

駅からの道と4号線の交差点角です。

 石橋宿脇本陣跡(下野市石橋)

石橋宿には、愛宕神社と開運寺があるがどちらにも椀状凹みはない。

 

         愛宕神社                     開運寺

ただし、開運寺で面白いものを見つけた。

手水鉢の縁に細長い凹みがある。

   すじ状の凹みがある手水鉢(開運寺)

どこかで見かけたような気がする、と思ったが、その通り。

このブログ「石仏散歩」のNO44「凹み穴のある石造物(東京・板橋区その1」の冒頭部分に出てくる蕨市の三蔵院の手水鉢とそっくりなのです。

  三蔵院(蕨市)のすじ状凹み

三蔵院の手水鉢は、次のような文脈の中で登場します。

これまで石造物の凹みは「盃状穴」と命名されてきたが、この手水鉢の凹みは「盃状」ではない。

「盃状穴」で括れないのだから、「凹み石」と呼びたいと提唱したのが、堀江清隆氏。

堀江氏は、『蕨市立歴史民俗資料館紀要』(2011.3)の「石造物に見られる凹み再考」でそのように提案し、私もその説に同調して「凹み穴」を使用することにしました。

しかし、開運寺の手水鉢を見たことで、私は見解を変えることにしました。

これは手水鉢の模様ではないかと思うのです。(その根拠を提示できないのは、なさけないのですが)

だから、NO55からは「凹み穴」ではなく「椀状凹み」を使用しています。

 

地図を少し下へ下げてほしい。

石橋駅があるのは、下野市。

そこから4号線をちょっと上がると下古山の信号があり、そこが上三川町との境界線。

だが、1キロも行かないうちに再び下野市に入り、さらに500mほどで今度は宇都宮市になる。

 

目まぐるしく行政区画が変わって、「どうなってるの?」

 

雀宮という地名がなんとなく好きだ。

江戸から16番目の宿場、雀宮宿は、JR雀宮からの駅前通りが4号線にぶつかった辺りになる。

栃木県に入ってからは、JR東北本線の西側に日光街道は走っているから、どこの宿場も駅の西に位置している。

インターネットで調べたら、宇都宮市がレンタサイクルを事業展開していることが分かった。

雀宮駅で借りて、宇都宮駅で返却もOKというので、雀宮宿と宇都宮宿は自転車で回ることに。

 

雀宮宿も他と同様、宿場の雰囲気は皆無。

本陣跡の石柱はあるものの、ガランとした駐車場で、趣はない。

それでも本陣跡を表示してあるだけ、ましというべきか。

4号線の反対側の黒塀に白壁の豪邸は、仮本陣跡。

   雀宮宿仮本陣跡

本陣と脇本陣では賄いきれない時の補佐役本陣だったが、こっちの方が往時の面影を残している。

東京から100キロきたことになる。

雀宮宿に寺社は二つ。

正光寺と雀宮神社。

 

          正光寺                   雀宮神社

双方に椀状凹みは、ない。

雀宮神社には、多くの言い伝えがあるが、いずれもロマンに彩られている。

その一つを紹介しよう。

長徳元年(995)、陸奥の守に任ぜられた藤原実方を追って来た妻の綾女が、この地で病死します。

彼女の持参していた宝珠を埋め、神としたのが、神社の始まり。

実方も赴任地の陸奥で死ぬのですが、その霊魂は雀となってこの地に飛来して来ます。

雀宮神社のこれが謂れ、ロマンチックな話です。

 

電動自転車を軽くこぎながら北上、薬師堂や菅原神社にも立ち寄るが収穫はなし。

 

   薬師堂(台新田1)              菅原神社(台新田1)

左手にスバルの工場が見えてきた。

   富士重工業栃木スバル(陽南1)

小学校からの友達がここに勤めていた。

退職後も宇都宮にいたが、数年前の夏、睡眠中に亡くなった。

熱中症によるものと説明を受けたが、今でも、不可解のまま。

軽く黙とうして通り過ぎる。

 

いつの間にか道路も歩道も広くなっている。

日光線を過ぎると道路が分岐している。

 不動前の追分 右、奥州街道 左、日光街道(不動前3)

不動堂がある三差路が不動前。

日光街道と奥州街道の、ここが追分。

日光街道は左へ。

日光街道最大の宿場、宇都宮宿はここから始まるのですが、それは次回に。