東京都戦没者霊苑は、礫川公園と中央大学理工学部の間にある。
戦前の陸軍工科学校跡地に昭和36年、建立されました。
園内はガランとただっ広く、入口の「東京都戦没者霊苑」の文字がなければ、霊苑だとは思えません。
唯一それらしきものは、広場中央にポツンと佇む銅板。
太平洋の地図に「太平洋戦争における地域別戦没者数一覧」の文字があります。
小笠原諸島の南に位置する硫黄島での戦死者は、20100と刻まれている。
これは戦闘員の96%、ほぼ全滅の激戦地だったが、アメリカ軍の負傷者数はこれを上回ったと報告されている。
苑内には、2首の御製が展示されている。
一つは、日本遺族会創立30周年に際し、詠まれた御歌。
みそとせを
へにける今日も
のこされしうからの
幸を
ただいのるなり
(「のこされしうから」は遺族の意)
そしてもう一首は、正面入口から入っての突き当りにある「民生委員・児童委員顕彰碑」に刻されています。
いそとせも
へにけるものか
このうえも
さちうすき人を
たすけよといのる
参列広場というのだそうだが、長方形の広場が東西に長く横たわり、その西側にはガラスをはめ込んだ壁が立ち、その前に人工の池がある。
背景のガラス面に滝が流れ、瀧をバックに白御影の門が立ち、門の中の黒御影に「鎮魂」の2文字。
その前に、これも水に浮かぶように黒御影が横たわり、 縦書きの碑文が刻まれています。
撰者は文化勲章受賞者山本健吉氏。
『碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声も聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。
この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、慈にこれが辞を作る。
山本健吉』
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