石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑ー5-東京都戦没者鎮魂の碑(春日1-14-7)

2019-01-28 08:32:07 | 石碑

 

東京都戦没者霊苑は、礫川公園と中央大学理工学部の間にある。

戦前の陸軍工科学校跡地に昭和36年、建立されました。

園内はガランとただっ広く、入口の「東京都戦没者霊苑」の文字がなければ、霊苑だとは思えません。

唯一それらしきものは、広場中央にポツンと佇む銅板。

太平洋の地図に「太平洋戦争における地域別戦没者数一覧」の文字があります。

小笠原諸島の南に位置する硫黄島での戦死者は、20100と刻まれている。

これは戦闘員の96%、ほぼ全滅の激戦地だったが、アメリカ軍の負傷者数はこれを上回ったと報告されている。

苑内には、2首の御製が展示されている。

一つは、日本遺族会創立30周年に際し、詠まれた御歌。

みそとせを
 へにける今日も
  のこされしうからの
        幸を
    ただいのるなり 

(「のこされしうから」は遺族の意)

そしてもう一首は、正面入口から入っての突き当りにある「民生委員・児童委員顕彰碑」に刻されています。

いそとせも
 へにけるものか
    このうえも
  さちうすき人を
    たすけよといのる

参列広場というのだそうだが、長方形の広場が東西に長く横たわり、その西側にはガラスをはめ込んだ壁が立ち、その前に人工の池がある。

背景のガラス面に滝が流れ、瀧をバックに白御影の門が立ち、門の中の黒御影に「鎮魂」の2文字。

 

その前に、これも水に浮かぶように黒御影が横たわり、 縦書きの碑文が刻まれています。

撰者は文化勲章受賞者山本健吉氏。

『碑文

あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声も聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。
この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、慈にこれが辞を作る。
                                 山本健吉』

 


137 文京区の石碑-4-礫川公園と諸工伝習所跡記念碑

2019-01-20 15:01:22 | 石碑

東京に70年いるのだが、礫川公園は初めて。

 公園入口とは反対側からの写真。左のビルが文京区役所。下記の2本の木は、写真では右側にある。

公園の北側は、小石川2丁目。

「礫川」は、「小石川」の意だから「小石川公園」であってもいい。

道路の向こう、東側に文京区役所がそびえている。

公園の左手に2本の樹木が枝を伸ばしていて、それぞれに説明板がある。

左の木は、はぜの木で、向ヶ丘のサトウハチロー家の庭にあった。

童謡「小さい秋みつけた」は、この木を眺めて作詞されたという。

 

私が訪れたのは、11月初旬のことで、まだ紅葉には早かったのが、心残り。

右の木は、ハンカチの木で、作家幸田文の家にあったものという。

 

由緒のある樹木を公園に移して保存する、区役所仕事としては粋な計らいではないかと感心するのです。

公園の出口、春日通りに面して立っているのは、春日局像。

像がピカピカで真新しいのは、平成9年に造立されたばかりだから。

NHKの大河ドラマ「春日局」放映を記念してのものという。

ここは「春日1丁目」で、前を走る道は、春日通り。

銅像設立場所としてこれ以上の適地はないでしょう。

石碑の上部に刻された和歌は、彼女辞世の歌。

 

西に入る 月をいざない 法を得て
今日ぞ 火宅を のがれぬるかな

(西の方へ没してゆく月を心にとどめ 仏の道に入って 今日こそ 煩悩の多いこの世からのがれることができる)

礫川公園は段丘の突端で、入口から坂や階段を上ってゆくようになっている。

石段を上がるとその奥が、都戦没者霊苑。

霊苑の仕切りに沿って南へ行くと、片隅にひっそりとたたずむのは、「諸工伝習所記念碑」。

◇諸工伝習所跡記念碑

「伝習所」という表記が物語っているが、これは、明治初め、この地に設けられた陸軍の兵器製造技術教育の跡地。

後に陸軍砲兵工廠となります。

砲兵工廠の敷地は、元の水戸藩の屋敷跡。

現在の東京ドーム、小石川庭園、文京区役所、礫川公園、都戦没者霊苑、中央大学を含む広大な軍用地でした。

 

ところが関東大震災で壊滅的打撃を受け、九州小倉へ移転を余儀なくされます。

碑は、幾何学模様の組み合わせ、兵器製造の教育機関らしい趣向に満ちています。

碑文は、左に「諸工伝習所跡記念碑」、右に「陸軍砲兵工科学校、陸軍校歌学校跡」とあります。

碑裏の碑文は、

ここは近代陸軍技術教育発祥の地である
明治五年七月十五日政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルポン氏を招聘しここに諸工伝習所を創立してから第二次大戦終結までその名は陸軍砲兵工科学校 陸軍工科学校 陸軍兵器学校とかわったが七十三年たゆることなく陸軍技術の教育がつづけられた
本年は諸工伝習所創立百周年に当たるものでその教育を受けた有志がここに碑を建て先達の歩みに思いをいたすものである
        昭和四十七年七月十五日 諸侯伝習所跡記念碑建設委員会 

 

 


137 文京区の石碑-3-お茶の水貝塚碑と神田上水石樋由来碑

2019-01-13 06:29:33 | 石碑

◇お茶の水貝塚碑(湯島3-1東京医科歯科大学)

 

碑というものは、碑文が読まれてなんぼ、のものですが、このお茶の水貝塚碑は、読もうにも読めない、碑としての役割を喪失した碑です。

碑があるのは、東京医科歯科大学正門入口右側の一画。

右側の門柱と白い案内板の間に「お茶の水貝塚碑」はあるのですが、石垣の上には鉄柵がめぐらされ、しかも石垣を上がるすべもないので、碑には近づけません。

下の写真はカメラのズーム機能を使ってのもので、裸眼で読むのは無理でしょう。

唯一、碑の全体を確認できるのは、右側エレベーターの中から。

以下の、碑裏の碑文は『文京の碑』からの転載です。

「昭和27年8月 地下鉄お茶の水駅の築造にあたり、この付近から多数の貝殻にまじり縄文時代の土器、石器、獣骨などが発掘され、ここが先史時代の遺構であることが確認された。池袋、お茶の水地下鉄開通10周年を記念してこれを建てる。
                          昭和39年1月

この地点の標高は、約15m。  

現在では想像しにくいが、先史時代は海がここまで入りこんでいたことがわかります。

大学敷地は、江戸時代幕府の役人の住居地でもあって、先史時代の貝塚の上に江戸時代の住居跡があるという特異な場所となっています。

お茶の水貝塚の出土品の写真を探すも見つけられず、文京区の文化財担当者に問い合わせしたが、出土品の保存場所は分からないとのことでした。

 

 

◇神田上水石樋由来碑(本郷2-7-1本郷給水公苑)

この見事なバラ園は、入場無料。

都心の一等地。

建物の屋上。

どれもが意外なこのバラ園は、都の本郷給水施設(文京区本郷2-7)の上部に作られています。

 

洋風庭園に50種400株のバラが咲きみだれる、知る人ぞ知る隠れた名所。

和風庭園の一画に横たわる石垣の掘割は、江戸時代の神田上水の石樋の再現。

石樋をバックに石碑が2基立っています。

一つは、自然石に「神田上水石樋」。

その横に黒御影で「神田上水石樋の由来」。

逆光での黒御影の刻字は、ほとんど判読不能。

苦心の上読んで分かったことは、碑文は作家杉本苑子氏によるものらしい。

お役所仕事としては、異質な石碑ということになる。

神田上水石樋の由来
神田上水は天正18年すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。この上水は井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中掛樋で神田川を渡して神田・日本橋方面へ給水していました。日本における最初の上水道といわれ、その後明治34年近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮らしに大きな役割を果たしてきたのです。ここに見られる石樋は昭和62年文京区本郷1丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。平成210月 杉本苑子誌(碑文)

 ◇芭蕉句碑「花見塚」(本郷1-8-3昌清寺)

 

「桜狩り きとくや
 日々に 五里六里」

この句碑は寛政6年(1796)、芭蕉百回忌に建てられたが、現在碑は昭和59年、当寺住職によって再建されたもの。

この碑には、去年の秋、一度訪れている。

「東京の芭蕉句碑巡り-9」https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=017b3a0e2b66d7ab3542fa819c52dd44&p=3&disp=30

に句碑と寺の歴史については書いてある。

同じことを書くのも気が進まないので、今回は、カット。

上記ブログをお読みください。

 

      


137 文京区の石碑-2-孔子銅像建立の記と道標昌平坂

2019-01-05 08:18:41 | 石碑

 ◇孔子銅像建立の記碑

斯文館の西側に3枚の碑文が並んでいる。

そのうちの1枚は、これも「孔子銅像建立記」。

転載しておきます。

 

 

 孔子銅像建立記

 

湯島聖堂ハ元禄ノ創建以来ホボ三百年ヲ経タリ 江戸時代ハ固ヨリ明治大正昭和三代に亘リ毎歳孔子祭祀ノ典礼ヲ挙行シテ止ムコトナク我ガ国文教ノ中心トシテ綿々以テ今日ニ及ブ
峉春中華民国台北ライオンズクラブ会員聖堂参拝ヲ機トシ孔子銅像一基建立ノ議アリ本会ハ文部省文化庁初メ関係方面ト協議ノ上欣然コレヲ受納スルニ決セリ 本像は像高十五呎重量一噸半 蓋シ巨大ナルコト世界第一ニシテソノ鋳造製作ノ経緯ハ別掲ノ中華民国国際獅子会蔡馨發秘書長ノ碑記に詳ラカナリ

 


抑々今次ノ大戦ニヨリ桑滄ノ変ニ遭遇シ東京都民ニシテ猶コノ聖堂ノ存在ヲ知ラザル者漸ク少ナカラズ 世乱レ時危ク道義将地ニ墜チントス コノ秋ニ当リ萬世ノ師表タル夫子ノ忠恕ノ道ヲ紹述シ温故知新ヨク仁義ヲ天下ニ明ラカニスルハ是レ正ニ現下ノ急務ト謂フベシ 本銅像寄贈ノ趣旨亦蓋シ此ニアリ 茲ニ敬ンデ台北獅子会蔡馨發秘書長周宏基会長亜東関係協会馬樹禮中日代表初メ中華民国ノ関係各位及ビ我ガ国本像建設委員会ノ灘尾弘吉植村甲午郎等諸彦並ニ本事業ノ関係者ニ対シテ深甚ナル謝意ヲ表スルモノナリ 
石ニ勒シテ後日ニ傳ヘ以テ斯文未ダ喪ヒザルヲ示サントスト云爾
昭和五十年十一月三日 文化節 財団法人斯文会会長 徳川宗敬撰
                      理事 麓保孝書

 ◇古跡昌平坂道標
湯島聖堂正面口の右角に小さな道標があって「古跡昌平坂」と読める。

 小さいので、気づかない人が多いのではないか。 

 聖堂の東の壁に沿って南北に延びる坂道が゛「古跡昌平坂」。

 別名「団子坂」というのは、急坂で団子のように転げ落ちるから。

 区界でもあって、道の向こう側は千代田区。

 実は、湯島聖堂の前、神田川に沿って下る道もかつては昌平坂と呼ばれていた。

 

 

同じ名前の坂道が別々にあるのは不思議ですが、上野からここに聖堂を移転させたとき、幕府は聖堂の周りの坂を全部「昌平坂」にするとお触れをだしたというのです。

 今は、聖堂の前、南側の道は「相生坂」と呼ばれています。

 文京区教委の説明板に「相生坂(昌平坂)」とあるのは、「団子坂の昌平坂と区別してこちらは相生坂と呼ぶ」という意味。

 もう一つ、知ったかぶりを言うと「相生坂」は固有名詞ではありません。

 神田川対岸に並行する「淡路坂」と対の形で「相生坂」と呼ばれるのです。

 

                        淡路坂

 

   

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑-1-孔子銅像建立の記(湯島聖堂)

2019-01-01 08:19:24 | 石碑

 

 新年おめでとうございます。

 

このブログ作成には、いつも何らかの参考資料があります。

資料で知った場所を訪れ、資料にあるのと同じ写真を撮って、UPするのですから、いわば資料をなぞるだけ、無駄な行為です。

でも、意義があるとするならば、それは私にとっては、勉強になるから。

今回の参考資料は『文京の碑』。

文京区教育委員会生涯学習部社会教育課が1997年に発行したもので、著者は「文京ふるさと歴史館友の会・地域調査石碑研究グループ」。

去年の4月ー6月に書いた「徳本行者と名号塔」シリーズのメインの資料は、平塚市博物館刊行の『平塚の石仏』でした。

調査、執筆したのは地元有志の「石仏を調べる会」。

地元を知り尽くした人たちが、33年間かけて調べあげた石造物は3058基。

他所者の「学者・専門家」など望むべくもない精緻な調査です。

そうした意味で、今回の「文京の碑」も地元の人でないと見落としがちな隠れた石碑を取り上げている可能性が高く、期待が高まります。

では、早速、文京区の南東の端、お茶の水界隈から。

◇孔子銅像建立の記(湯島聖堂)

湯島聖堂に来ると、ふと口ずさむのは、さだまさしの「檸檬」。

「♯ あの日湯島聖堂の白い階段に腰掛けて・・・」

腰掛ける白い階段は、聖橋門から降りる階段なのか、

大成殿へ上る石段なのか、どちらだろうか。

石段を上ると正面に大成殿(孔子廟)。

聖堂は、寛永9年(1632)、林羅山が上野忍ケ岡の邸内に建てたのが始まりで、元禄3年(1690)、綱吉により、現在地に移転した。

聖堂を「大成殿」と命名し、扁額を書したのは、綱吉だったといわれます。

寛政年間には、「昌平坂学問所」となり、教学の中心として、活況を呈します。

明治維新後、この地に文部省が置かれ、師範学校、博物館、図書館が設置されたのは、ここが教学の中心地だったからでした。

茗荷谷にある「お茶の水女子大」は、発祥地の地名を校名にしているのです。

大成殿を出て、正門方向へ。

丁度、敷地の中ほどあたりに巨大な孔子像が立っている。

高さ15尺(約5メートル)、世界一の孔子像だとか。

年(1975)、台北市ライオンズクラブから贈られたもので、銅像前に建立由来碑があります。

孔子銅像建立ノ碑

 孔子ハ約二千五百年前ノ春秋時代ノ魯ノ國ノ人デアル 幼ニシテ父ヲ喪ヒ下級官吏ヨリ身ヲ起シ國王定公ニ用ヒラレ大夫トシテ國政ニ参與シテ十數年大イニ治績ヲ擧ゲタガ後ニ意見ガ合ハズ退任シ門弟ト共ニ諸國ヲ周遊シテ容レラレズ晩年故郷ニ歸リ人ノ人タル所以ノ道ヲ説イテ七十餘歳デ逝去シタ ソノ子孫ハ治亂興亡ヲ經テモ相傳ヘテ直系七十七代孔徳成ニ至ツテ居テソノ孔子廟ト孔家歴代ノ墳墓ハ山東省ノ曲阜ニ今猶嚴然トシテ存シテ居ル 孔子ノ言行録デアル論語ハ今日ても廣ク世界中ニ讀マレテヰル カクノ如キハ他ニ比類ガナイ 今ヤ洋ノ東西ヲ問ハズ人類ガ擧ゲテ混迷ニ陥ル時ニ萬世ノ師表タル孔子ノ忠恕ノ道ヲ傳ヘ仁義ノ徳ヲ明ラカニスルノハ喫緊ノコトデアリマタ吾人ノ責務デアル

コノ孔子ノ銅像ハ昭和四十九年臺北城中らいおんずくらぶ周宏基會長等ガ湯島聖堂ニ参拝シ元禄以来三百年ノ由緒アル史跡ニ感銘ヲ受ケ國立臺灣師範大學開明徳教授ニ依嘱製作シ寄贈シタモノデ唐ノ呉道子ノ筆ト傳ヘル孔子畫像ヲ基調トシテ鋳造シ昭和五十年十一月三日文化節ニ建立シタ丈高十五尺重量ニ噸ノ世界最大ノ孔子像デアル茲ニ聊カ建立ノ由來ヲ記シ世ニ傳ヘル

  昭和五十七年十月先儒祭ノ日

            財團法人 斯文會

建立由来記碑を覆うように枝を広げている大木は、「楷の木」。

中国曲阜にある孔子の墓所にある木で、別名孔子木というのだそうだ。

枝や葉が生整然としているので、楷書の語源となったと解説板には書いてあります。