石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

23 坂東三十三観音札所と石造物(その2)

2012-01-09 11:20:00 | 札所めぐり

第十二番 華林山 慈恩寺 (天台宗) 埼玉県岩槻市

「慈恩寺」の寺号は、開基者慈覚大師が入唐して学んだ長安の「大慈恩寺」にちなんで付けられたという。。

       華林山 慈恩寺

「大慈恩寺」の周囲の景色と岩槻のこのあたりの風景が似ていることも寺号を決める要因だったと言われている。

「そうかなあ、似てるかなあ」。

極めてオープンな寺で境内にはどこからでも入れてしまう。

今でも境内は結構広いが、元禄期、境内の広さはなんと13万坪も。

そこに66もの塔頭があった。

その最盛期のころの石仏が、本堂の左手、墓地入り口の無縁塔に座している。

 第十三番 金龍山浅草寺 (聖観音宗) 東京都台東区

「浅草寺」はパス。

「22 浅草寺の石碑と石仏」を参照されたい。

第十四番 瑞応山弘明寺 (高野山真言宗) 神奈川県横浜市

高円寺」、「豪徳寺」、「護国寺」、「泉岳寺」、「明治神宮前」と寺社の名前の駅は少なくないが、「弘明寺」ほど改札から境内が近い駅はないだろう。

     京浜急行「弘明寺駅」

もともとは寺の境内だったところに駅ができたのだから、近くて当たり前。

とはいってもそれは近道のことで、正式の参道からだと遠回りになる。

   仁王門                身代わり地蔵

石段の途中に身代わり地蔵。

しかし、銅像だからパス。

石段を上って右手に、力石に似た石が囲いの中にある。

       七つ石

「七つ石」と呼ばれる霊石だと言う。

石造物とは言い難いが、石であることは確かなので、とり上げることにする。

立て看板の説明によれば、インド人の善無為三蔵法師が書写した陀羅尼を七つの石とともに埋めて、この地を霊域とした。

その後、この地を通りかかった行基がその霊域を感得して、寺を開基したのだという。

福石と刻みがある石もあり、吉事を招く霊石として今なお信仰を集めているらしい。

 

第十六番 白岩山長谷寺 (金峯山修験本宗) 高崎市白岩町

車で行く人は、みんな、駐車場から道路を渡って本堂へ向かう。

参道を歩いて行く人は、ごくわずか。

その参道わきに石仏、石碑、石塔が並んでいる。

その中に「寒念仏供養」塔がある。

明和5年と刻まれている。

「寒念仏」は、寒の入りから明けまでの30日間、酷寒の中、山野で行う厳しい修行で、もともとは僧侶たちの専修念仏だったが、やがて一般庶民も加わるようになる。

春や秋の気候温暖の季節の念仏行よりも功徳が大きいと信じられていた。

江戸市中を鉦をたたき、念仏を唱えながら歩く白衣の寒念仏は、風物詩として季語にもなっていると『日本石仏事典』には書いてある。

その俳句を探してみた。

「細道になり行く声や寒念仏」 蕪村

「寒念仏さては貴殿でありしよな」 一茶

「又一人走り加はる寒念仏」 虚子

「施主多き祇園小路や寒念仏」 名和三幹竹

「鎌倉はすぐ寝しづまり寒念仏」 松本たかし

「寒念仏一礼深くして去りぬ」 森田桃村

もう1基、念仏供養塔がある。

「念仏供養四億百万遍」。

百万遍念仏とは「南無阿弥陀仏」を百万回唱える念仏行事。

ひとりで百万回唱える修行もあるが、四億回となると融通念仏によるものだったと思われる。

一日100回念仏を唱えるのを日課念仏といい、これを100人が100日つづければ、百万遍になる。

これをもっと効率よくするために千八十顆の大数珠を大勢で念仏を唱和しながら操りまわすもので、千の相乗でたちまち億百万遍になるのです。

こうしたことが流行る背景には、念仏の数が多いほど功徳は相乗されるという思想があったからでした。

 

第十六番 五徳山水沢寺 (天台宗) 渋川市伊香保町

駐車場から境内に下りて行ったが、本来は仁王門から石段を上がってくる。

  境内から山門を見下ろす

坂東三十三観音霊場のなかでも、ことさら好きな寺の一つ。

雰囲気がいい。

落ち着いた朱色の本堂と地蔵堂に歴史の古さがにじみ出ている。

       本堂の向こうに六地蔵堂

駐車場から行くと最初に目に入る石仏は、十二支の守り本尊群。

      十二支護り本尊

ついつい自分の守り本尊を確認してみたくなるようで、参拝の線香の煙が絶えない。

石造物としては、元三慈恵大師の護符も面白い。

天台宗中興の祖・良源上人は、疫病が流行った年、自らの姿を骨ばかりの鬼に変え、その姿をお札に刷って家々の戸口に貼るよう弟子たちに命じ、疫病を退散させた。

自ら鬼となって魔物と戦うので、「降魔大師」と称された。

本尊の十一面千手観音は秘仏。

境内の崖下におわす2体の十一面千手観音との対面をお勧めする。

石仏としてなかなかの彫技なのです。

 

第十七番 出流山満願寺 (真言宗智山派) 栃木市出流町

 「満願寺」には、朝8時に着いた。

どうやら一番乗りらしく、駐車場に車はなかった。

石垣に覆屋があり、中に石仏が見える。

幸先がいい。

「これは期待できそうだ」と思ったが、その通りだった。

石造物に満ちている。

本堂脇に十三重の層塔と苔むした宝筐印塔。

奥の院に向かう。

石仏、墓標が並んでいるが、苔むしたものが多い。

苔は緑色で、まるで薄い衣をはおっているかのようだ。

大日如来は、放射能除けの防護マスクをかぶっているみたいだ。

 

 

15分ほど歩くと滝にぶつかる。

「満願寺」は、日光を開山した勝道上人が開基した。

その為、修験者はここで滝行し、日光入峯の準備をしたのだという。

左に目をやると舞台造りの奥の院拝殿。

標高は低い山だけれど、深山幽谷の趣をただよわせて、魅力的な札所なのです。

  

 

  第十八番 日光山中禅寺 (天台宗) 日光市

 第十八番「中禅寺」が結願寺となった。

理由は簡単、遠いのでついつい敬遠したからである。

思い切って腰を上げたのが、10月下旬。

中禅寺湖は紅葉の盛りだった。

「中禅寺」の別名は立木観音。

桂の立木を彫って作りだした十一面千手観音が本尊だが、そのお顔が素晴らしい。

撮影禁止なので写真はないが、穏やかに微笑む表情は見飽きない。

灯篭を支える邪鬼がいい。

江戸時代初期の宝珠地蔵は商売繁盛のお地蔵さまとして今なお参拝者が絶えないという。

肝心の宝珠が涎かけで見えないので、あげてみる。

黄金色の立派な宝珠で、即、納得。

 

 

 

 

 

 

 


22 浅草寺の石碑と石仏

2012-01-02 16:28:56 | 寺院

平成24年元旦。

初詣は「浅草寺」に行った。

 

工事用のシートが取り払われ、朱色の本堂が新春の陽光に照り映えていた。

激動の1年が終わり、「今年こそは」と合掌する手にも力がこもる。

 

日本中の名所、旧跡で、こと石碑、石仏などの石造物に限れば、その数の多さは「浅草寺」が断トツの一位ではなかろうか。

おそらく100を超える石造物があるだろう。

数が多すぎて、全部紹介するわけにはいかない。

取捨選択するのだが、その選択に苦情がもたらされることはなさそうだから、気が楽だ。

「浅草寺」へ行ったことがない人はいないだろうが、石碑、石仏を記憶に残す人は少ないと思うからである。

初詣客でにぎわう雷門。

みんな大提灯と仁王にはカメラを向けるが、すぐ傍の石柱には、目もくれない。

    2012年元旦の雷門     石柱「金龍山浅草寺」

石柱正面には「金龍山浅草寺」、左脇に「坂東札所第十三番」、右に「江戸札所第一番」と彫られている。

「江戸自慢十三番がこれくらい」という川柳がある

坂東札所と言ってもピンとこない人が多いようなので説明すると、「浅草寺」は、坂東三十三カ所の第十三番札所なのです。

坂東札所の一番は、鎌倉の「杉本寺」。

行ってみると分かるが、この寺が小さい。

これが江戸ッ子にとって癪の種。

十三番でも江戸ではこんなにでっかいんだぞ、とつい自慢したくなる。

一番でなければ腹の虫がおさまらないから、江戸札所を作って、「浅草寺」を一番にする、見栄っ張りな江戸っ子のやりそうなことです。

宝蔵門まで仲見世が続くが、その昔は参道の両側には「浅草寺」の子院が並んでいた。

文化年間の『浅草寺志』によれば、境内の神仏の末社は百数十を数え、叶えられない願いはない、現世利益の神仏のデパートだったと記されている。

 「宝蔵門」を左へ。

      宝蔵門         迷子しるべ石 

 江戸末期に建てられ、 東京大空襲で倒壊した「迷子しるべ石」が再建されています。

石柱の両側面に「志らする方」、「たづぬる方」とあり、迷子の特徴を書いた紙を張り付けた。

人出の多い「浅草寺」ならではの石造物です。

            

今度は反対側、「宝蔵門」に向かって右へ。

まず、ぶつかるのが「平和地蔵尊」。

「昭和20年3月10日の大空襲には、この付近一帯は横死者の屍が山となし、その血潮は川となって流れた」と刻文されている。

「平和地蔵」の左後方に「母子地蔵尊」。

第二次大戦末期、満州を逃避行中死亡した約20万人を悼む供養仏。

観光客がざわめいていて忘れがちだが、「平和地蔵」や「母子地蔵」は、ここが霊域であることを再確認させてくれる。

「母子地蔵」の前に大きな阿弥陀如来立像。

承応3年とあるから江戸石仏としても初期のものと言えるだろう。

この阿弥陀さんの後方が、小高い丘で「弁天山」。

弁天堂に向かって右手に鐘楼がある。

         弁天堂と鐘楼

「花の雲 鐘は上野か浅草か」。

芭蕉の住んでいた深川では、「時の鐘」は聞こえるが、上野か浅草か、方角は分からなかったと見える。

ちなみに江戸時代、時の鐘は8カ所にあり、その撞役は世襲でした。

「花の雲」と読む、芭蕉の句がもう1句ある。

「くわんおんの いらかみやりつ 花の雲 はせを」

句碑があるが、まるきり読めない。

芭蕉らしき男がうっすらと見えるだけ。

弁天堂の主尊は、いわずもがな弁財天。

だから、芸能関係の碑が多い。

まずは、扇塚。

   扇塚                   扇を入れる石箱

日本舞踊で使用した扇を供養する塚で、傍らに扇を入れる扇入れが立っている。

すぐ近くの「浅草神社」にも、扇塚と扇入れがある。

流派が違うからだろうか。

 

「都々逸塚」がある。

        都々逸塚

「都々逸塚」にしては、石碑が生真面目な表情だ。

僕は、昭和13年生まれ。

都々逸を楽しむには、遅れてきた生まれで、73年間、無縁だった。

だから、古典作品を読むだけなのだが、これが面白い。

「惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ」

「赤い顔してお酒を飲んで 今朝の勘定で青くなる」

「色はよけれど深山の紅葉 あきという字が気にかかる」

「うちの亭主と炬燵の柱 なくてならぬがあって邪魔」

「可愛いお方に謎かけられて 解かざあなるまいしゅすの帯」

「君は吉野の千本桜 色気よけれど気が多い」

「こうしてこうすりゃこうなるものと 知りつつこうしてこうなった」

 遅れてきたと言えば、添田唖蝉坊もそうだ。

息子の添田知道が建てた石碑が「都々逸塚」の横にある。

        添田唖蝉坊の碑 

名前は知っているが、何者なのかさっぱり分からない。

Wikipediaで調べてみる。

社会風刺をこめた自作自演の演歌師として、明治、大正時代に活躍した人物だった。

代表作「のんき節」が鋭い。

「二本ある腕は 一本しかないが キンシクンショが胸にある
 名誉だ名誉だ 日本一だ 桃から生まれた桃太郎だ あノンキだね」

「ギインへんなもの 二千円もらふて 晝は日比谷で ただガヤガヤと
 わけのわからぬ 寝言を並べ 夜はコソコソ烏森 あノンキだね」

「膨張する膨張する 国力が膨張する 資本家の横暴が膨張する
 おれの嬶(かかあ)のお腹が膨張する いよいよ貧乏が膨張する あノンキだね」

「ああ金の世」もすごい。

「ああ 金の世や 金の世や。地獄の沙汰も金次第。
 笑うも金よ なくも金。一も二も金、三も金。
  親子の仲を割くも金。夫婦の縁を切るも金。
 極悪非道と謗ろうが、我利我利亡者と謗ろうが
 痛くも痒くもあるものか 金になりさえすればよい
 人の難儀や迷惑に 遠慮していちゃ身が持たぬ」

時代背景を考えれば、その歌詞は信じられない程尖鋭的である。

 

「二天門」は、「浅草寺」の栄光を体現している。

「二天門」がかつては「随身門」であったことは、門の前の浄水盤が教えてくれる。

浄水盤には「金龍山隋身門前」と刻してある。 

          二天門                 浄水盤

実は、「浅草寺」には日光と同じように「東照宮」があった。

境内にいち早くその遷座が許されたのは、幕府の寺に対する信任の厚さを物語っていて、それは栄光の歴史の1ページだった。

隋身門は「東照宮」参詣のための門であった。

残念ながら、2度の火災で「東照宮」は焼失し、再建は許されず、この二天門だけが残った。

二天門を潜り、右へ回ると「浅草神社」。

通称「三社さま」である。

鳥居の右側に句碑3本。

   浅草神社              鳥居脇の句碑コーナー

まずは、粧(よそおい)太夫の歌碑。

「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれゆく船をしぞ思ふ」

歌は「古今和歌集」所収のもので、この碑は書に意味があるのだそうだ。

「粧太夫」は吉原の遊女で、書をよくし、亀田鵬斎から蕊雲(ずいうん)という名をもらった教養人と解説にあるが、亀田鵬斎を知らないのだから、どうしようもない。

「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」 久保田万太郎(1889-1963)

「生きるということむずかしき夜寒かな」 川口松太郎(1899-1985)

 

本殿に向かって左にも句碑群がある。

「女房も同じ氏子や除夜詣」         「雷は田町をよけて鳴りわたる」
       中村吉衛門(1886-1954)          花柳寿輔(1807-1903)

 「翁の文字まだ身にそはず衣がえ」
             二代目市川猿之助(1888-1963)

二代目猿之助の家は、浅草田圃のど真ん中で、周囲に農家もなく、メダカをすくい、トンボを追いかけていたというから今の浅草からは想像もできない光景だったらしい。

今も言問通りから千束通りに入ると「猿之助横町」があるが、そこに立つ句碑「ここに住し役者ありけり春のまち」は、二代目の作である。

 「浅草神社」の本殿右脇を行くと「被官稲荷」。

幕末の町火消し組頭、新門辰五郎が、京都の伏見稲荷に祈願したら妻の病気が治ったので、祭神をここに勧請した社として知られている。

社のあちこちに「新門」の文字が見える。

火消しの美学は「粋」だろうが、これが「粋」というものなのだろうか。

神殿の前の狭い通路を左に行くと「浅草神社」の真裏に出る。

銀杏の巨木が立ち並び、その根元に4基の石碑が立っている。

普通の観光客はまず来ない場所だろう。

石碑の主人公の名前は、竹本津賀太夫、菅沼定敬、並木五瓶といずれもなじみが薄い。

3基飛ばして、左端の「机塚」だけとり上げようか。

     山東京伝の机塚碑

「山東京伝」は、江戸時代のベストセラー作家であり、画家。

商売人としての宣伝技術にも長けていて、総合マルチクリエーターとでもいおうか。

図抜けた才能の持ち主だったようだ。

「山東京伝」は筆名。

「江戸城紅葉゛山゛の゛東゛住む゛京゛屋の‘伝゛蔵」の意。

浮世絵師としてデビューしたが、絵も文も自作の洒落本が出す度にベストセラーとなって、一躍スター作家に躍り出た。

本の舞台は吉原遊郭だが、実生活でも吉原に入り浸り、二度の結婚の相手は二人とも遊女だった。

この机塚は、京伝愛用の机を埋めた標。

9歳の時、寺小屋入りに際して親が買い与えた机で、100部を超える作品すべては、この机で産み出されたという。

 

言問通りへの出口を右に見て進むと本堂裏の石仏、石塔群が見えてくる。

植え込みの中に石仏や宝筐印塔が並ぶ。

特に左端の宝筐印塔が素晴らしい。

これほど大きくてデコラティブな宝筐印塔は、滅多にお目にかかれない。

そして、本堂裏で最も人目を引くのは、市川団十郎の「暫」像。

     市川団十郎「暫」像

歌舞伎十八番の一つ「暫」の鎌倉権五郎の、荒事の本質を見事に表現したのは、彫刻家、新海竹太郎、題字、中村不折、撰文、森鴎外の豪華トリオ。

石造物ではなく、銅像なので、これ以上は触れない。

 

「暫」を後にすると前方に赤い幟が林立している。

「銭塚地蔵尊」とある。

地蔵堂の中には六地蔵の本尊がおわすはずだが、よく見えない。

本尊の謂れは、まさに「銭塚」なのです。

「兵庫県有馬の女が庭先から寛永通宝の入った壺を掘り当てた。しかし、働かないで金銭を手にするのは人の道に外れていると思い、再び壺を土中に埋めた。この心がけが一家に繁栄をもたらしたので、その壺の上にお地蔵さんを祀った。その分身がこの銭塚地蔵の本尊なのである」。

地蔵堂の前に白い石の塊。

     カンカン地蔵

原型を想像したくてもできないほど形が崩れているが、立て看板には「カンカン地蔵」とある。

なんでもこのお地蔵さんを削り取って財布になすりつけておくとお金が溜まるのだという。

ご利益があったら塩をお供えするのだそうだ。

地蔵堂の横には、江戸石仏の佳品が何体かあるのだが、カギがかかっていて入れない。

「浅草寺」境内を時計と反対回りに歩いて来て、最後に本堂の西側に到着。

築山のあちこちに石仏、石碑が点在している。

まず目につくのは、大きな板碑。

    西仏の板碑

高さ2m。

関東板碑としても大きい部類に入る。

鎌倉時代に西仏という男が妻子の後生安楽を願って建てたと言われています。

その後ろの石橋(しゃっきょう)は、都内最古の石橋。

「浅草寺」境内の東照宮参詣のための橋で元和4年(1618)に造立された。

日光への社参の代わりに参詣に来た諸大名は数知れず。

皆が皆、支院で支度を整えてからこの橋を渡ったはずである。

この神橋は、現在は文化財保護のため使用禁止されている。

築山の窪みに地蔵いろいろ。

日限地蔵  めぐみ地蔵  出世地蔵  商徳地蔵  子育て地蔵    

 「浅草寺」境内、浅草公園内の石彫り地蔵は、20余基あると言われている。

みんな現世利益のお地蔵さんばかり。

「浅草寺」らしい取り揃え方だと言えるだろう。

地蔵といえば、忘れてはならないのが、「六地蔵石幢」。

       六地蔵石幢

室町時代のものと言われているらしいが、定かではない。

 

 本堂西側には、これらの他、「淡島堂」や奥山と呼ばれる区域があり、特に奥山には、宗因、芭蕉、其角の「三匠の句碑」や喜劇人塚や活動弁士碑があり、紹介したいのだが、ブログの容量が限界に来ているので、ここらで終わりとしたい。

最後に写真を1枚。

亀趺(きふ)に乗った顕彰碑。

趺とは石碑の台座のことで、方形ではなく、亀の台座を亀趺(きふ)という。

中国では貴族以上に建立が許されたといわれ、中国をまねた日本でも高位高官の墓や顕彰碑に見られるが、その数は極めて少なく、都内では寛永寺、弘福寺(墨田区)、品川寺(品川区)、麟祥院(文京区)などでしか見られない。

台座が亀趺であることは確かだが、その上の碑文が読めず、誰を顕彰するものか私には分からない。

情けないこと甚だしい。