石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

89 守屋貞治の石仏かけ巡り見仏記(前篇)

2014-10-16 05:41:36 | 石工

NO86,87と「越後の石工・太良兵衛の石仏」を連載した。

その中で、太良兵衛と比較する形で、高遠の守屋貞治を取り上げた。

石仏愛好家なら知らない人はいないだろうと思って、あえて説明をしなかったが、どうだったのだろうか。

つまり「守屋貞治を知らなければ、石仏愛好家として”もぐり”である」という命題は成立するか、ということになる。

名前は知っているが、作品を見たことがないのは、どうなるのか。

と、したり顔に論じる私が、実は、守屋貞治の石仏をほんの一部しか見ていないのです。

ほんの一部というのは、山梨県北杜市の海岸寺の貞治石仏のこと。

3年前、寺を訪れて、彼の技量の高さに舌を巻いたものでした。

「なんだお前は、守屋貞治の石仏をろくすっぽ見もせずに、太良兵衛を先にしたのか、順序があべこべだろう」と言われれば、返す言葉もない。

ということで、おっとり刀で高遠へ行って来ました。

これは、その「駆け巡り見仏記」です。

9月上旬、中央高速を西へ。

高遠へは、諏訪ICを降りて左の山へと進むのだが、反対側へ出て、国道20号線を上諏訪方面に向かう。

上諏訪駅の近く、小高い丘陵の中腹にある「温泉寺」に、守屋貞治の石仏が多数あるからです。

高遠へ行く前にちょっと寄り道しようというもの。

諏訪湖を眺望する温泉寺は、高島藩主諏訪家の菩提寺。

「温泉寺」という寺号がいい。

臨済宗妙心派の禅寺です。

温泉寺に守屋貞治石仏が多いのは、彼が、寺の住職・願王和尚を敬慕していたからでした。

   願王地蔵(守屋貞治作

願王和尚も又、貞治の人柄と石工としての才能を高く評価し、旅に出るたびに多くの僧侶に彼を紹介し、推薦していました。

守屋貞治作品が日本の広い範囲に今でも散見できるのは、願王和尚に負うことが大きいと云われています。

本堂の裏は山墓地。

頂上に高島藩主の廟所があり、中腹に歴代雲水の墓域がある。

その中央におわす地蔵菩薩立像は、守屋貞治作品。

貞治は『石仏菩薩細工』を残しているが、なぜかこの地蔵は記載されていないらしい。

それなのに、守屋貞治の傑作と見なされるのは、卓越した技術と気品を感得できるからでしょうか。

台石に「蔵六首座」とある。

以下は、ブログ「石を訪ねて」http://gyumei.blog87.fc2.com/blog-date-200711.htmlからの丸写しだが、「首座(しゅそ)」とは、住職に代わって雲水たちと問答をするリーダーだという。

この地蔵は、曹谷曽省という雲水の墓で、彼は願王和尚の一番弟子だった。

愛弟子の死を悲しむ和尚は、貞治に地蔵菩薩の彫像を依頼する。

曹谷曽省を良く知る貞治は、地蔵の形で首座曹谷を蘇えらせた。

だから、仏というより人間くさいお顔の地蔵なのです。

墓地から本堂へ下りてゆく。

本堂に向かって右隅に石仏群。

中でも屋根つきの地蔵菩薩が目を引く。

屋根に取り付けられたカーブミラーは、石仏を明るく浮き立たせるためのものだろう。

しかし、狙いは不発で、地蔵のお顔は暗いまま、はっきりしない。

基台の正面には「三界萬霊」。

側面に「奉納 千野忠」と刻されている。

千野忠とは、高島藩家老なのだそうだ。

造立は文政六癸未五月初二日。

貞治59歳、円熟期の作品ということになります。

円熟期は晩年期とも重なって、亡くなる前年の作品群が温泉寺にはある。

長い坂の参道の、寺に向かって右にある西国三十三所観音がそれ。

瓦屋根、白壁の細長い覆屋が3棟、重なるように並んで、1棟に11基の石仏が配置されています。

高遠の建福寺にある三十三所観音も同じ配列で、こうした形式は他では見かけないから、もしかしたら、貞治の発案ではないだろうか。

最下段の覆屋の向かって右から、一番、二番・・・と左に進み、次の覆屋では左から右へ、12番から22番までが並んでいる。

当然、最上段棟は右から左へと配列されているのだが、これが参拝者にとって、最も効率的な歩の進め方なのです。

覆屋の前面は格子戸で、格子から覗かないと石仏の全体像は見えない。

うす暗い自然光の中、陰影を残して浮き上がる石仏は、精緻にして穏やか、端正にして優美、仏を仏たらしめる精神性に満ちています。

これまで見てきた無数の石仏たちとは、明らかにレベルが異なることが見て取れます。

 

一番 青岸渡寺 如意輪観音 十一番 上醍醐寺 准胝観音

平凡な表現ですが、「他の追随を許さない」造形美であることは確かでしょう。

  

九番 興福寺 不空羂索観音  二十九番 松尾寺 馬頭観音  

石工の職業病である目の病に侵された貞治は、ついに失明し、この三十三観音も23体を彫って、あとは弟子に委ねたと記録にはあるそうです。

三十三所観音を制作する場合、一番から順にてがけるのか、そうだとすれば、二十四番からは弟子の作品となりますが、何度見ても私にはその差は分かりません。

 

 二十三番 弥勒寺 千手観音 二十四番 中山観音 十一面観音

そもそも二十三番が、貞治の作なのかどうか。

ややシャープさを欠く、と私には見えますが。

覆屋の横に建碑。

「西国三十三観音
 当山願王大和尚建立
 信州高遠守屋貞治作
  昭和四年六月 修繕 当山十三世 玄秀」

昭和4年頃、守屋貞治の名前はそれほど知られていなかったはずです。

にもかかわらず建碑に名が刻されたのは、彼が願王和尚の愛弟子であり、名工としてその技量が温泉寺では、長く、高く評価されてきたからでしょう。

 

ちょっと寄り道のつもりが長くなった。

高遠へと杖突峠を上る。

 

 

高遠の人たちは、昔、諏訪盆地へは歩いて往復していた。

杖突峠は有名な難所だった。

重い道具箱を背負う旅稼ぎ石工たちは、とりわけ難儀したに違いない。

高遠市街地の手前の集落に、貞治の生家があるのだが、下調べをしてこなかったので、通り過ぎてしまった。

「たかとほの 山裾のまち 古きまち ゆきかふ子等の うつくしき町」。

田山花袋が歌ったように、古く美しい街並みが高遠には残っている

ということは、鉄道も通らず、開発も遅れたへき地だったということです。

山がちで耕地は狭く、百姓は貧しくて、高遠藩の財政は逼迫していた。

農閑期の出稼ぎは常態で、藩もそれを半ば強制的に奨励した。

農繁期には、必ず村へ帰ることを義務付けて。

旅稼ぎの手段は、石工。

品行方正で腕のいい高遠石工の評判は上がるばかりで、長野県内はもちろん、岐阜、愛知、山梨、群馬、栃木、埼玉、東京、神奈川、静岡が彼らの出稼ぎ先だった。

 守屋貞治もそうした石工の一人だった。

しかし、いつ、どこで、誰について石工としての修行をしたのか、一切不明です。

父、孫兵衛は石工でしたから、父が師匠だったことは、多分、間違いないでしょう。

その父親は、貞治18歳の時、死亡します。

一人立ちを余儀なくされた彼のその後は、長く空白のままです。

高遠の田舎の石工の生涯なんて、分からないのが当然だろう、そう思うのが普通ですが、貞治の場合、作品記録『石仏菩薩細工』が残されていて、彼の足跡を辿ることができるのです。

しかし、独立後10年の記録はほとんど皆無。

書き残すほどの仕事をしなかったということでしょうか

仕事らしい仕事の最初は、高遠「建福寺」の六地蔵。

寛政4年、貞治28歳の時でした。

建福寺は、臨済宗妙心派の名刹で、藩主保科氏の菩提寺。

山門に至る急こう配の石段が印象的な寺です。

貞治が師と仰ぐ諏訪の温泉寺住職願王和尚と密接な関係にあり、貞治は42体もの石仏をこの寺に残しています。

貞治の六地蔵は前面格子の覆屋の中にある。

中は暗くて写真の地蔵は不鮮明なのが残念。

高遠町(伊那市に合併前の)教育委員会編纂『高遠の石仏』は、「各地蔵の相も異なり、貞治作の特徴を備えていない」と否定的です。

山田誠治(高遠石仏研究会副会長)は、「6体の両端の彫りは幼稚で、貞治作ではない。廃仏毀釈で打ち壊されたものを誰かが修復したものか」と推測する。

格子つき覆屋は、西国三十三所観音の保存と展示にも使用されています。

三十三体を3棟の覆屋に収納、展示するこの形式は、効率的でユニーク、もしや貞治のアイデアかと思うのですが、ここ建福寺に限っては大失敗。

石段の最上段左に3棟が重なるようにならんでいます。

崖地にあるから、参拝者は一段下に立って石仏を見上げることになって、結果、次のようなことが起きます。

①格子があって全体像が見えない。

②格子から覗いても暗くて像がはっきりしない。

③見上げる形になり、蓮華座ばかり大きく見えて、上半身が見えにくい。

背伸びしてレンズを格子に突っ込み、フアインダーは覗けないから、見当でシャッターを押す、と下の写真のようになる。

三十三番 十一面観音

二十九番の馬頭観音は貞治仏の中でも傑作とされる一体ですが、写真はうまく撮れません。

3棟を平地に移し、格子を全面ガラスにしてほしいものです。

同じことは、寺の西門わきの地蔵堂についてもいえる。

格子があって、中の地蔵の像容が見えにくい。

 

下の格子からのお姿はかくの如く、無残。

蓮華座の上になぜかカップ酒。

格子から手を伸ばして届く場所ではない。

誰がどうしておいたのか、不思議だ。

貞治が彫った地蔵には、佉羅陀山(からだせん)地蔵大菩薩が多いが、これもその一つ。

佉羅陀山は、須弥山の近くにある地蔵の故郷だそうで、その像容は左手に宝珠、右手は錫杖を持つ代わりに施無畏印を結んでいます。

基壇正面には、願王和尚の讃が彫ってある。

「帰命魔訶 薩宝珠雨 梵台金環
 常金地百 怪不能来  願王」

 

圧巻は、その願王和尚を地蔵菩薩に見立てた願王地蔵尊。

 願王地蔵菩薩(『高遠の石仏』より借用)

この寺で受戒会座中に倒れ、そのまま遷化した師・願王和尚を偲んで、石工守屋貞治が万感の思いを込めて彫像した渾身の傑作がこれ。

地蔵尊崇敬者の和尚のために、身体は佉羅陀山地蔵、お顔は願王和尚というお地蔵さんです。

 

三十三所観音の傍に正観音坐像。

 

横に「正観世音菩薩 守屋貞治作」の石柱がある。

石像に違和感がある。

顔だけが白っぽい。

修理したようだ。

首から上をすげ替えて、「守屋貞治作」とするのは、いかがなものか。

たとえば絵画の世界、著名画家の作品に穴が開いた、だれかが書き直して修理する、ことなどありえない。

地震か廃仏毀釈、首がなくなった理由は様々だろうが、欠けたそのままにしておくべきではないか。

元々『石仏菩薩細工』にこの正観音は載っていないという。

ならばますます「守屋貞治作」と表示するのは、問題があるように思う。

 

順序が逆になったが、山門へと延びる急な石段の両脇に立つ石仏の左は貞治作品の延命大地蔵菩薩。

彫技からして貞治作としか見えない、右の楊柳観音は貞治の弟子、渋谷藤兵衛の作品です。

建福寺の最後に「守屋貞治顕彰碑」を紹介する。

碑文は、貞治本人の直筆文。

私は読めない。

傍らの解説をそのまま載せておきます。

 高遠町にある守屋貞治作品は、48体。

うち43体は、建福寺にある。

彼の故郷でありながら高遠に貞治作品が少ないのは、施主になるだけの財力がある家がなかったからでした。

駒ケ根市に貞治作品が多いのは、その逆、スポンサーになるだけの経済的余力のある家や講が多かったからです。

残り5体のうち3体があるのは、守屋家の菩提寺桂泉寺。

石仏は、石段の中ほど両側にある。

右が准胝観音。

     准胝観音

左は延命地蔵。

いずれも貞治55歳、海岸寺での百体観音制作中、故郷に戻っての仕事です。

貞治の作品には、なぜか准胝観音が多い。

あまり見なれない石仏なので、伊那市教育委員会の説明文を転載しておく。

「准胝とは清浄の意味で、この観音は、息災・延命・求児・除病の祈願を与えるといわれる。豊かな体躯、荘厳な顔の表情、円形光背のなかに納められている一本一本の手、頭髪、蓮弁の美しさなど、その技術には目を見張るものがある。」

はるか眼下に高遠の街並みを見下ろしながら、石仏2体は、295年、この場所に佇んで来たことになる。

 海岸寺での10年間に及ぶ百体観音制作の途中、故郷高遠での仕事といえば、三峯(みぶ)川の常盤橋のがけの上に安置されている大聖不動明王も外せない。

三峯川は度々氾濫した。

困り果てた村人たちができることは、神仏に祈ることだけ。

その祈りの仏として村人に頼まれ貞治が造ったのが、この波切不動。

一時、高遠町郷土館に収容、展示されていたが、村人に病人が続出、お不動様のたたりではないかと騒ぎになり、元の場所に戻されたという。

身体に比べて顔が大きい。

下から仰ぎ見るように貞治は造ったのだから、がけの中腹に安置すべきだという意見もあるようだ。

貞治作品の最高傑作の一つ。

傑作とされる理由を伊那市教育委員会の説明文から読み取ってほしい。

 高遠を去る前に高遠歴史博物館に寄った。

高遠石工の史料があれば、見たいと思ったから。

着いて分かったのですが、なんと偶然にも「高遠石工 石仏写真展ー守屋貞七、孫兵衛、貞治ー」の特別展が開催中でした。

貞治からすれば、貞七は祖父、孫兵衛は父ということで、守屋家は三代にわたり石工を業とする家だったことをこの展覧会で初めて知りました。

祖父から父、そして貞治へと受け継がれた技術も当然あるわけで、そうした観点からの調査、研究が始まったばかりということのようです。

貞七、孫兵衛の作品は、駒ケ根市とその周辺に多いと解説されています。

翌日、貞治作品を観に駒ケ根市へ行くので、先祖の作品も視野に入れて「見仏」して回るつもり。

≪参考資料≫

◇高遠町誌(上)昭和58年

◇高遠町教委『高遠の石仏』平成7年

◇春日太郎「守屋貞治の生涯と石仏」(『別冊信濃路石仏師守屋貞治 昭和61年』所載)

◇水沼洋子「貞治仏をたずねて」(『野ざらしの芸術 井上清司写真集 昭和57年』所載)

◇小松光衛「石工守屋貞治のこと」(『史跡と美術』1978・5所載)

◇春日太郎「守屋貞治三十代を中心とした作品考」(『日本の石仏』NO11 1979秋号)

◇春日太郎「高遠の石工」(『日本の石仏』NO17 1981春号)

◇上伊那郷土研究会『高遠石工守屋家三代百年の足跡』2014

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


87 越後の石工・太良兵衛の石仏(後)

2014-09-16 05:42:43 | 石工

夜通し降り続けた雨が上がって、旅館を出る頃は快晴だった。

ひたすら三国(さぐり)川沿いに上流へ向かう。

三国川ダムの堰堤に立つと谷筋のようすがよく分かる。

よく分かる、と言っても見えるのは、最奥の集落・清水瀬だけ。

張り出した山と山の向こうに、これから行く舞台集落が見えるが、その向こうに広がっているはずの六日町市街は見えません。

幾重にも左右から山がせり出すということは、多くの沢が流れ込むことであり、「多い」=「五十」で、五十沢(いかざわ)という地名になった。

水が豊富だからダムが建設されたのだが、なんと石も豊富な土地なのです。

堰堤からダム湖を見下ろすと、コンクリートのはずが石垣になっている。

あり余る石を使っての、流行りことばで云えば「地産地消」。

太良兵衛も石材には苦労しなかったはずです。

①石仏・石碑(野中の観音堂)

ダムから下って、新清水瀬橋を渡るとそこが野中集落。

無人野菜販売所に老女が3人。

「観音堂はどこ?」と訊くが、「知らない」とそっけない。

何度とかやり取りしていると「観音堂は知らないが、観音さんなら知ってる」ことが分かってきた。

「頭の固いばばあは嫌いだ」と心の中で悪態をつきながら「観音さん」に向かう。

30mも離れてないすぐ裏手が観音さんだった。

田んぼに向かって石造物が2列に並んでいる。

現場にいるときは知らなかったので、アップを撮ってなかったが、どうやら後列右から3番目が太良兵衛作品らしい。

しかし、アップにしたところで、文字が読めるはずもなく、無意味なような気がする。

帰りに無人野菜販売所を覗いたが、誰もいなかった。

ナスを買って、100円を籠へ。

売り手の「頭は固かった」けれど、ナスは柔らかくてうまかった。

2 二十三夜塔、蠶霊大神(舞台入口)

野中から下ってゆくと「舞台入口」の標識がある。

その少し先に4基の石塔。

3基は二十三夜塔で、1基が蠶霊大神。

二十三夜塔の真ん中は、畦地観音堂の二十三夜塔に文字が似ている。

養徳寺住職・専頂代の書ではないか。

蠶霊大神があるということは、養蚕もしていたことになる。

農地が狭いから、林業も養蚕も機織りも何でもやらなければ、生活が成り立たなかった。

石工専業の太良兵衛は珍しい存在だったことになる。

4基とも太良兵衛の作品だが、当然だろう、なにしろこの左上に彼の家があるのだから。

集落全部が小高い丘にあるから「舞台」というのだそうだ。

 墓地の背後、丘陵の集落が舞台。下を走る道路から家々は見えない。

市の有形文化財に指定されている『大福細工覚帳』は、太良兵衛の家にそのまま残されている。

本物を見たい気持ちは山々なれど、研究者でもない素人がお願いする筋合いでもなさそうなので、子孫が住む家には近寄らなかった。

前回の前篇でも書いたが、太良兵衛は石工として格段に技量が優れているわけではない。

名工で名高い、高遠の守屋貞治などと比較すべくもない。

太良兵衛に存在価値があるとすれば、多作であることとそのすべての記録を残したこと。

では『大福細工覚帳』には、どんなことが書かれていたのだろうか。

曽根原駿吉郎『太良兵衛の石仏』に太良兵衛が記録をつけだした文化6年(1849)の、最初の記録があるので、転載しておく。

当然、原本は縦書きです。

なお、〇 一両事也
   ☐ 一分事
   ▲ 一弐朱事
    ● 百文事

文化六年

1 地蔵  一  ●●     舞台    杢右衛門

1 石塔  三   
         ☐●●    畦地新田  七兵衛
1 観音  三

1 石塔  一   ●●●    京岡村   新兵衛

1 観音  一   ●●三十文  水堀    平吉 

1 石塔  一   ●●●●●   長松    五右衛門

1 石塔  二   ●●●●●●   水堀    治郎右衛門

1 石塔  一   ●●五十文  長松    三之助

1 四面石塔 一
          ☐     畦地    久右衛門
1 観音  一

1 観音  一   ●●      同村    太郎助

1 石宮  一   ●●●●●    同村    山ね

1  石塔  二
          ●●●●●●●  清水瀬   清右衛門
1 観音  一

1 石塔  一   ●●●     同村    儀兵衛

1 観音  一   寄進     舞台    長兵衛娘はる

1 石塔  一
          ●●●五十文  同村    吉右衛門
1 観音  一

1 石塔  一   ●●      新屋    太兵衛

1 石塔  一   ●●●      宮村    安佐衛門

1 石垣  一   ●●●     新屋     重兵衛

1 石塔  四
          ●●●●●●    土沢     光明院
1 二十三夜塔 一

1 石塔  二   ●●●●●●    宮村     仙五郎

1 観音  一   ●●五十文   干溝      庄右衛門

1 石塔  一    ●●●     水堀     磯右衛門

1 観音  一    ●●●七十文  畦地新田   清右衛門

1 石塔  一    ●●●     蕨野     助右衛門

1 観音  一    ●●●     一ノ又度   庄蔵

1 石塔  一
          ●●●●●    蕨野      弥右衛門
1 観音  一

1 石宮  一    ●●●●●    野中     林

1 石塔  一
           ●●●     土沢     平治郎
1 地蔵  一

1 観音  一
           ●●●●     舞台    武左エ門
1 地蔵  一

1 石塔  一    ●●●●●     野中    治右衛門

1 道祖神 一    ●●●●     蕨野     弥右衛門娘おとい

1 馬頭観音 一   ●●四十文    舞台    幸右衛門 

1 地蔵  一    ●二十文    同      与左衛門

1 石塔  一    ●八十文    蕨野     太良兵衛

1 石塔  三
           ●●●●●五十文 畦地      孫左衛門
1 観音  一

1 石塔  一     寄進    同村       徳右衛門

1 地蔵  二    ●●十文    清水瀬      松右衛門

1 石塔  一    ●●五十文   中川       利左衛門

太良兵衛が独り立ちした最初の年、制作、販売した基数58基。

1週間に1基強というハイペースです。

40年間の平均ペースは、5日で1基。

果たして独りでやっていたのか、疑問が残る。

石工の仕事は、彫るだけではなく、石材を山から切り出すことも含まれるからです。

ちなみに高遠の名工・守屋貞治の生涯制作点数は336点。

貞治の作品は大型の石仏で芸術色が強いのに対して、太良兵衛作品は小さな半肉彫りや文字塔が多い。

だから、制作しやすいということはあるにしても、生涯3000点という数字は、驚異的だといわねばなりません。

『大福細工覚帳』の特色の一つは、価格が書いてあること。

石工・太良兵衛の年収はどれほどだったのか。

因幡純雄氏の計算によれば、天保3年(1832)の制作点数52点の売り上げは、5両2分400文。(1両が4分、16朱、4000文として計算)

同じ年、塩沢全体の、塩沢縮1万6000反の売り上げは、1万1000両だったから、1反は1両に満たなかったことになる。

一人で、どのくらい織ることができるかと云うと、冬季だけだと1反、通年で3反がいいところだそうだ。

太良兵衛は、機織り人の2倍の収入があったことになります。

 

太良兵衛の墓があると聞き、寄って来た。

「先祖代々の墓」の下に屋号の「吉右衛門」。

吉右衛門は、太良兵衛の父親の名前でもあります。

太良兵衛本人の墓は、家の墓域の背後にせせこましく並ぶ5基の石造物の真ん中。

この墓地で目を引いたのは、石室の六地蔵。

雪に埋もれない配慮でしょうか。

豪雪地帯ならではの石造物です。

3 石宮、猿田彦像(宮の坂本神社)

 境内片隅に4基の石造物。

左は大小の石宮。

とりわけ小さい石宮は、まるで素人の作品みたいだが、れっきとした太良兵衛作。

裏に刻されたマークが彼の作品であることを物語っています。

「素朴な 」という形容詞は、この石宮のためのことば、と云いたいくらいです。

猿田彦像は、曽根原氏の見立て。

「役行者像ではないかと思ったが、上部に雲形が刻んであるので、すぐ猿田彦の石像と分かった。猿田彦は、天孫降臨の際天照大神を案内した神であるから、日本人にとっては、なじみ深い神であるが、石に彫ったものは、ほとんど見られない。多作の太良兵衛にしても、猿田彦像はこの一体しかつくっていない。」(『太良兵衛の石仏P188』)

4 二十三夜塔、石橋(田崎の日吉神社)

 五十沢から昔の隣村、城内地区へ。

石工としての年を経るごとに、太良兵衛の顧客範囲は広がって行った。

五百沢村外の初めての注文は、隣村の城内村からだった。

城内・田崎の日吉神社には、太良兵衛作の他に、注目すべき作品がある

上の写真で中央に位置する鳥居がその注目石造物。

曽根原氏によれば、太良兵衛の父吉右衛門の造立したものという。

曽根原氏もその出所を明示していないので、定かではないが。

父吉右衛門は、高遠の旅稼ぎ石工だった。

その腕を見込まれ、舞台の大塚家に婿入りし、地つきの石工になった。

この写真では見にくいが、鳥居の奥の石橋は、太良兵衛の作。

この石橋は人しか渡れないからそのまま残っているが、車が通れる石橋は、石工の計算以上の重量に堪えられず、折れたり、へこんだり、使用不能になってしまっているのが多い。

すっきりと洒脱、太良兵衛の持ち味か。

左の燈籠と狛犬の奥の二十三夜塔も太良兵衛作。

裏の印がその証拠。



 こんなにはっきり見えるのも珍しい。

それにしても二十三夜塔の書体は、養徳寺住職専頂代のものではないだろうか。

養徳寺前の二十三夜塔の書を、その後もあちこちで流用しているように思われる。

5 百八十八番供養塔(田崎の亀福寺)

亀福寺の本堂が、私は好きだ。

火灯窓があるので、禅寺かと思ったが真言宗寺院だった。

軒下に冬用の薪がうず高く積み重ねられている。(写真では、日陰になって見えにくい)

無数の丸い年輪は、まるでデザイン画のよう。

その亀福寺への参道わきに立つのが、百八十八番供養塔。

 

「四国、西国、坂東、秩父供養 法印泉能」と刻されている。

「台石は畦地石」と『大福細工覚帳』に書いてあるという。

江戸時代後期、経済的余力のある庶民はやたら旅に出始めた。

太良兵衛もその一人。

彼は、生涯に3度、おおきな旅をしている。

最初は、文政10年(1827)、太良兵衛38歳の時で、伊勢神宮から大峯山へ入り、大坂、京都を観光して帰国。

二度目は富士登山。

小川養徳寺の隠居坊主能寿師と富士山に登り、その後、秩父霊場を巡り、江の島、鎌倉、江戸、日光を遊山しています。齢55歳でした。

最後は、弘化4年(1847)の善光寺参り、この翌年、逝去。

太良兵衛は、旅の記録を残してはいない。

以上3度の旅は、蔵書の裏書の購入場所からの推定。

もしかしたら、もっと旅に出ているのかもしれません。

6 地蔵座像(藤原の墓地)

 広大な水田をバックにデンとお地蔵さんが座して在す。

文政3年(1820)、太良兵衛31歳の作品。

逆光で、私のカメラ技術では、顔の表情まで捉えられない。

ふっくらとした丸顔に穏やかな顔立ちは、太良兵衛に違いない。

印も見える。

太良兵衛は、地蔵を533点制作している。

二世安楽を願う人々の気持ちがいかに強かったか、その反映と云えなくもない。

ちなみに一番多いのは、如意輪観音で、731点だった。

7 二十三夜塔(下原の集会場)

 集会場の小屋の後ろに、大きな体を小さくして居心地悪そうに佇んでいる。

曽根原氏の『太良兵衛の石仏』には、四辻の一角に立っているとある。

『太良兵衛の石仏』は、1971年刊。

43年も経てば、有為転変は当然、四辻からここに移転してきたらしい。

文字はこれまた養徳寺住職泉頂代の書。

変わっているのは、上部に勢至菩薩が浮彫されていること。

元々は彩色されていたようで、朱色がかすかに残っている。

石塔の大きさから、この地での二十三夜講の賑わいが偲ばれる。

 

8 千部塔(長森の善照庵)

向こうの朱色の屋根が善照庵。

長い参道入口左に「法花千部塔」は立っています。

千部塔とは、大乗妙典(華厳経、大集経、般若経、法華経、 涅槃経)を一千部読誦した供養塔のこと。

台座の刻字は「経曰若有聞法者無一不成仏」。

太良兵衛の『大福細工覚帳』には、この塔の細工日数126日と記載されているとは、曽根原氏の言。

多作の太良兵衛にしては、手間暇がかかりすぎているようだが・・・

寺の赤い屋根が見える写真に戻ってほしい。

塔の下の花立は、太良兵衛が寄進したものだそうです。

 

以上で、太良兵衛の石仏紹介は終わり。

短い滞在時間の中で、これだけ見て回れたのは、市役所から提供された克明な資料があったからです。

改めて、南魚沼市社会教育課文化振興係の担当者にお礼申し上げます。

太良兵衛が石工として活動した江戸後期は、天災による慢性的飢饉が人々を苦しめていました。

しかし、それでも全体的には庶民の懐は緩やかに上昇し続けていました。

土葬の上に自然石を置く墓から石柱墓標や石仏墓標への移行は、庶民の経済的余裕の現れでした。

『太良兵衛の石仏と六日町の近世』の筆者、因幡純雄氏によれば、五十沢地区畦地集落の場合、太良兵衛の現役40年間に畦地からの注文は118点、畦地の戸数は30軒ですから、1軒あたり4点、つまり10年に1点は各家から注文があったことになります。

石造物の寿命を考えると、前のがなくなったから、ではなく、新たな追加注文であり、そこには庶民の豊かな台所事情と信仰心の篤さが伺えます。

こうして越後の農村の台所事情が、石造物を通して、具体的に知ることができるのも、太良兵衛が制作ノート『大福細工覚帳』を残したからでした。

六日町の産業史の貴重な史料として、「大福細工覚帳」は南魚沼市の文化財として指定され、太良兵衛の子孫・大塚家に保管されています。

原本の管理は厳重にする一方、『大福細工覚帳』の原本コピーを市立図書館で自由に閲覧できるようにしてはどうか、これは私のささやかな提案です。

自由な閲覧は、太良兵衛石仏への興味関心を広げ、研究の深度を「深める」ことになると思うからです。

 ≪参考図書≫

☐曽根原駿吉郎『太良兵衛の石仏』講談社 昭和46年

☐新潟県立歴史博物館『石仏の力』平成25年

▽駒形宏「太良兵衛の石仏を尋ね歩いて」(1)(2)

▽因幡純雄「太良兵衛の石仏と六日町の近世」

▽池内紀「かくれ里」

*▽はいずれも掲載誌失念。


86 越後の石工・太良兵衛の石仏(前)

2014-09-01 07:21:50 | 石工

前から見たいと思っていた越後の石工・太良兵衛の石仏を、8月の下旬、見てきた。

場所は、新潟県南魚沼市。

六日町から魚野川を渡り、支流の三国(さぐり)川の中、上流の五十沢(いかざわ)地区が太良兵衛の活動拠点だった。

私が太良兵衛を知ったのは、曽根原駿吉郎『太良兵衛の石仏』(講談社、昭和46年)で。

曽根原氏は、その2年前『貞治の石仏』で高遠の石工・守屋貞治を世に紹介した長野県の郷土史家です。

石工としての太良兵衛の特徴は、3点。

①生涯の制作点数約3000点という多作であること。

②その作品すべてを記録した『大福細工覚帳』が残っていること。

                   『大福細工覚帳』(『石仏の力』より転載)

そこには、石仏、石塔名、請負金額、村と施主名がきちんと記録され、金額の張るものには、簡単な図像が描かれています。

③すべての作品に太良兵衛のマーク印がついていること。

つまり、太良兵衛は、その作品が芸術的にも優品であるというような名工ではないが、今に残る石造物と克明な記録が、当時の雪国の庶民の暮らしを明らかにする証言者として貴重な存在だということになります。

太良兵衛は、寛政2年(1790)、五十沢谷舞台村の生まれ。

父、吉右衛門は高遠からの旅稼ぎ石工だったと見られている。

10代は、父の片腕として技術を身につけ、20歳で一人立ちします。

同時に『大福細工覚帳』を書き、作品に印を刻み始めます。

以後40年間、毎年、50ー100点もの石造物を造りつづけ、嘉永3年(1850)、永眠。

享年60歳でした。

これは、太良兵衛の膨大な作品のほんの一部を駆け足で見て回った、私の日記風レポートです。

 

2014年8月下旬の金曜日、越後湯沢駅をレンタカーで出発、南魚沼市立図書館で太良兵衛関係資料をコピーして、最初の目的地、八幡の野墓地に着いたのは午前11時過ぎ。

この地方の墓地は、寺にあるのではなく、屋敷墓だったり、農地の片隅の野墓地だったりして、所番地ではほとんど見つけられない。

事前に南魚沼市文化財保護係から送って貰った、太良兵衛作品の所在を明示する住宅地図が大変役に立った。

あらためて文化財保護の担当者に謝意を表します。

①釈迦如来、地蔵菩薩、六地蔵(八幡55-4の前の墓地)

ゆったりしたスペースに墓が点在している。

地蔵菩薩の背後の水田の右は魚野川。

どっしりとした安定感ある体躯に穏やかで優しいお顔、これが太良兵衛の石仏の特徴です。

個人墓だと思われるが、台石の刻文が判読できず不明。

釈迦如来坐像もほぼ地蔵像と似た感じ。

最初に出会った太良兵衛作品なので、この大きさが普通なのかと思ったが、一通り見て回ったうえで分かったのは、これは例外的に大きな作品だということ。

ほとんどは像高30-50㎝くらいの石仏と思って間違いない。

辛うじて読める釈迦如来像の台石の刻文「文政九年」から、太良兵衛37歳の時の作品と分かります。

太良兵衛の評判は、年を経るごとに広がって、17年経って魚野川の対岸から注文が来たことになります。

「九年」の右に「太」、その下にがあるように見えるが・・・

太良兵衛作品にはがあるから見分けやすいだろうと思っていたのだが、これが大誤算。

マークがはっきり分かるのはほんのわずか、大抵は、見当たらない。

墓地の脇の道路沿いに並ぶ六地蔵も太良兵衛作品と持参資料にはあります。

しかし、6体全部の背後をチェックしたが、は見つけられなかった。


 下の地図は、太良兵衛作品の分布図。

                       『石仏の力』より流用

円内数字は作品数、黒文字は集落名です。

八幡の墓地から三国川沿いに一挙に五十沢地域へ。

五十沢は、太良兵衛の故郷であり、作品数も多い地域です。

2 役行者(南魚沼市指定文化財)他(畦地の観音堂)

畦地の集落を通り過ぎると右に観音堂が見えてくる。

石段を上がると左に「観世音」、右に「多門天」(多聞天ではない)の文字碑。

 

「観世音」の前の双体道祖神は、太良兵衛の作品。

越後では道祖神は珍しい。

多作の太良兵衛も道祖神は8点しか制作していません。

柔和な顔は、太良兵衛作品であることを物語っているが、顔からは男女の違いが分からない。

女神の足元にがかすかに見えます。

「多門天」の前は、馬頭観音。

山村で馬が多かっただろう割には、馬頭観音の数は少ないようです。

広い境内の左手に大振りな石造物が並んでいる。

「二十三夜塔」は太良兵衛作。

このすきっとした書は、五十沢村唯一の寺養徳寺住職専頂代の書。

石塔背面に刻してあり、『大福細工覚帳』にも書いてある。

 

この書体の二十三夜塔は、これからしばしばお目にかかることになります。

そして、背面左下に

これほどはっきりと見えるのは、初めて。

二十三夜塔の一つおいて右は、役行者像。

 

『太良兵衛の石仏』の著者、曽根原氏はこの行者像を太良兵衛の代表作と高く評価、南魚沼市も市の指定文化財に認定しています。

目線は前方上に、中腰、衣類が靡いているのは宙を飛んでいる姿か。

その下の2体は鬼、とは曽根原氏の読み。

そう云われれば、右のには角がある。

鬼神をも駆使したという役行者伝説を表わしたものでしょうか。

最下段の碑文は、『太良兵衛の石仏』によれば、

梶山久右衛門
大塚徳右衛門
丸山清兵衛
文化十三年四月造 工

3人の施主名は、八海山の修験者かと曽根原氏は推測します。

この行者像は、太良兵衛27歳の作。

図像のヒントは、彼の蔵書『仏像図彙』から得たものではないかと思われます。

最後におまけを一つ。

太良兵衛の作品ではないが、魅力的な青面金剛像があるので載せておく。

何故か、2猿、「見ざる」がいない。

 

観音堂の石段を下りる。

道の向こうの墓地にも太良兵衛作品があると市役所から送られてきた資料には書いてある。

3 板碑型墓標と如意輪観音(畦地観音堂向かいの墓地)

墓地中央の五輪塔左側に3列、右側奥に一列墓標が並んでいます。

      五輪塔左の3列

市役所からの資料では、左側奥の右から2番目が太良兵衛作品。

下の5基がその奥列。

そして下の板碑型墓標が、右から2番目ですが、目安となるは見当たりません。

マークが見当たらないのは、右奥列右端の如意輪観音も同じ。

 

たまたま所在地を示す資料を持参していたから、太良兵衛作品と特定できたものの、そうでなければ、決して見つけられなかったはず。

この問題については、また別の場所で取り上げますが、特定マークがあるからと安易に考えて太良兵衛石仏めぐりを始めると徒労に帰すことになりかねません。

要注意です。

次の場所へ移動しようと車に戻ると雲行きが怪しい。

遠く雷の音も聞こえてきます。

4 石宮(小川の十二神社)

鳥居の横、二十三夜塔と「鎮守日吉神社」石塔の間にある石宮が太良兵衛作品。

曽根原氏によれば、この形は信州伊那地方に多くみられるものだという。

太良兵衛の父が高遠石工だったことと何か関係がありそうだ。

造った石塔類の数は1353点。

中でも石宮が146点と断然多い。

蛇足だが、その他は、無縫塔、二十三夜塔、万年塔、百番塔、念仏搭、大峯山塔、光明真言等塔、日本回国塔、百八十八ケ所塔、供養塔、自念塔、萬霊塔、石灯篭、六十六部塔、法名塔、二百万頭、法華塔、千部塔、戸隠山塔、善光寺塔など。

 

5 大日如来像、二十三夜塔、石段他(小川の養徳寺)

 朱色の屋根が印象的な真言宗養徳寺。

その参道入口に一際高くそびえるのが大日如来像。

高さ290㎝の自然石に大日如来像が半肉彫りされている。

文化11年(1814)の造立だから太良兵衛25歳、一人立ちして5年後の作品ということになります。

脇侍として左右前方に立つのは、金剛薩埵(左)と愛染明王。

  

                    金剛薩埵        愛染明王

若い石工、太良兵衛渾身の力作です。

金剛薩埵の左に立つ二十三夜塔も同時期に造られたもの。

大日如来と脇侍、二十三夜塔の4点の制作日数は50日だったことが『大福細工覚帳』から読み取れるとは、曽根原氏の言。

これらの石造物は、養徳寺42世専頂代によって建てられたが、専頂代といえば、畦地観音堂の二十三夜塔の書は彼の手になるものでした。

並べてみると確かによく似ている。

 

                観音堂の二十三夜塔

しかし、門前には、もう1基、二十三夜塔があって、こちらは太良兵衛作ではないらしい。

 参道入口左の太良兵衛作ではない二十三夜塔

専頂代の書であるような、ないような、あなたはどう見ますか。

太良兵衛と養徳寺とは深い関わり合いがあったようで、天保15年(1844)には、養徳寺の住職と連れ立って富士登山、江の島、鎌倉、日光へと旅をしている。

だから、寺には太良兵衛作品が多く残されている。

本堂へ上がる石段も太良兵衛作品。

佐渡相川の石工は、石仏などの細工師と石組み師とに分かれていたが、太良兵衛は両方を手掛けていたようだ。

土台が崩れて石段が落ち込み、上がるのには覚束ないが、古色蒼然の苔むした石段は障子戸の本堂と相まって、寂然たる山寺のムードを増幅しています。

石段の右上に並ぶ数体の石仏の一つも太良兵衛作品らしいのですが、この如意輪さまでしょうか。

柔和な丸顔がそれらしく私には見えるのですが・・・

養徳寺の背後の山は黒い雲に覆われ。雨がポツリ、ポツリ・・・

6 馬頭観音ほか(土沢の分岐点路傍)

心配していた通り雨になった。

道の分岐点、高い杉の下に石造物が5基。

うち3基は太良兵衛作品だというが、分かるだろうか。

 

  1 奉祝記念碑         2 双体道祖神

  

 3 二十三夜塔       4 馬頭観世音       5 馬頭観音像

正解は、2,3,5。

正解と云っても、市役所提供の資料では、ということですが。

雨が降ってきたが、限られた滞在時間なので、止めるわけにはゆかない。

次の目的地は、分岐点からすぐの所。

電信柱の右に見える野墓地です。

 7 石仏。石碑(土沢の野墓地)

 傘の用意がないので、濡れるに任せて墓地へ。

この地方の墓地は、大きめの「先祖代々の墓」か「萬霊塔」 を中心にして、それを囲む形で小型の石仏や文字墓標が配置されています。

石仏も石碑も、みな似通っていて、がなければ、とても太良兵衛作品だとは分からない。

問題は、その肝心なが全く見つからないこと。

しかし、持参の資料には、太良兵衛作品は●で明示してあります。

ちなみに、この「太良兵衛石仏配置見取り図」は2006年6月20日に因幡純雄氏が調査・作図したもの。

その一部を南魚沼市社会教育課文化振興係が借り受け、保存していると聞いています。

では、因幡氏は、どうして特定できたのか。

本人に訊けばわかることですが、市役所担当者の説明では、因幡氏は現在、南魚沼市に在住しておらず、連絡先も不明だというのです。

これは私の推測ですが、因幡氏は『大福細工覚帳』の記載を一点ごとに現地確認したのではないでしょうか。

下は、上の配置図の右隅部分の拡大。

そして、下は、この配置図の写真。

 因幡氏が太良兵衛作品とする右端と右から3番目の写真が下の2枚。

 

 左は文字墓、右は石仏墓標です。

白い苔のせいで文字は読めない。

読みづらいのは、苔のせいでもあるが、総じて彫りが浅いことにも原因がある。

文字どころか右の如意輪観音は、よほど目を凝らさないと浮彫仏像とはわからない。

両方とも個人の墓だから、戒名はあるはずだが、石仏墓標の場合は、戒名がないものもある(とは、地元の石材店での話)。

戒名がない墓とは信じがたいが、萬霊塔だから、死者もいろいろ、事情もいろいろ、戒名がないケースもあり得たのだろう。

墓標のこうした問題点は、ここばかりではなく、いずこも同じと思って間違いない。

ただし、萬霊塔を中心のこのスタイルは、江戸から明治にかけての古いタイプ。

現在は「〇〇家の墓」が多くなっています。

車に戻ったら、しとしと雨がバケツをひっくり返したような豪雨になった。

広島の土砂災害をもたらした雨雲が北陸から越後へのびるとの予報が当たったようだ。

あまりの凄さに写真を撮るのを忘れてしまう、そんな土砂降り。

前が見えないまま、そろそろ、のろのろと未舗装の道を進むこと10分、次の目的地に到着。

小川から三国川の左岸を上ってきて、最奥の清水瀬に着いたことになる。

垂れこめていた雨雲は去って、青空が見えてきた。

 

8 二十六夜塔、道祖神ほか(新屋の路傍の野墓地)

三国川を清水瀬橋で渡った地点から約150m、道路の左手に墓地が点在します。

太良兵衛作の石仏墓標が数点あるが、パス。

取り上げるのは、二十六夜塔。

高い2本の石柱墓標に目が行くが、見てほしいのは、皮が剥がれて裸の杉の木の前の3基。

左から愛染明王像、青面金剛像、二十六夜塔文字碑。

二十三夜塔ばかりの五十沢地区にあって、二十六夜塔とは珍しい。

右の文字碑が太良兵衛作と云われている。

二十六夜塔の主尊は愛染明王だから、半肉彫の像があっても当然だが、太良兵衛作でないのは、いささか残念。

何故こんな山奥に忽然と愛染明王が在すのか。

「愛染明王」の「染」は、「染物」の「染」に通じると、染物業者によって愛染明王は信仰されてきた。

いかにも庶民信仰らしい話です。

南魚沼市には、塩沢地区があり、塩沢縮の産地として名を馳せてきた。

染物業者も幅をきかせていたはずで、その末端の下請け仕事人がここにもいたことを、この文字碑と像塔は物語っているのです。

 

石段を上がると朱色のお堂。

その前に道路を見下ろす形で道祖神が在します。

地元の畦地石で、像が少し崩れかけているが、太良兵衛作。

上手いというより稚拙。

だが、柔らかい温かみがある。

 

再び雨が降り出した。

鳥居の先の神社が雨に遮られて見えない。

9 馬頭観音(清水瀬の十二神社)

 小川の神社も十二神社だった。

ここも十二神社。

新潟県は全国ダントツの神社数を誇る。

中でも十二神社のウエイトが大きいという。

祭神は宇気母智大神(うけもちのおおかみ)、保食神(うけもちのかみ)とも記され五穀を司どる神とされています。

神社へ向かう。

本殿に上る石段の右に11基の石造物。

石宮に混じって石仏も見えます。

そのうちの1基、馬頭観音が太良兵衛の作品(らしい)。

十二神社の前方に清水瀬の集落。

10 石仏、石碑(墓標)(清水瀬の路傍と墓地

集落へ分岐する角に石仏群があり、道の反対側に墓地がある。

本来あってしかるべき道祖神や庚申塔、馬頭観音は見られない。

どれも無縁仏のようで、戒名はあるような、ないような。

判読不能といいたいが、そもそも文字は彫ってあるのだろうか。

下の如意輪さん、どちらが太良兵衛作だと思いますか。

左と言われれば、そうかと思い、右と言われれば、なるほどと思う。(右が太良兵衛作)

つまりどっちもどっち、太良兵衛は石工として卓越した匠ではなかったのです。

彼の貴重さは、全作品の記録を残したその一点にあったといって過言ではありません。

刻字を判読できないのは、畠の中の墓地でも同じ。

太良兵衛作とされる墓標は全く判読不能で、裏にもは見当たりません。

 

石碑、石塔は刻字が読めて存在価値があるのであって、こんなに判読不能な作品は欠陥商品ではないか。

と、ついつい、批判がましくなってしまうのです。

 

時間は午後3時。

雨に濡れるのは嫌だが、もっと問題は、光量不足で満足な写真が撮れないこと。

諦めて宿の「五十沢温泉」へ。

部屋で寝転がっていたら、雨も上がって明るくなってきた。

旅館の敷地に薬師堂があるというので、ぶらり行って見た。

石仏を探すも1体もない。

石仏が目的だから、いつもはお堂に上がることはないのだが、なぜか、この日はふらりと堂内へ。

一瞬、目を疑った。

金精さまがずらりと並んでいる。

赤の腰巻を巻いたのは、女陰さまだろう。

更なる衝撃は、金精さまに書かれた文字。

「五十沢中学校第〇〇回卒業生厄年払い記念 平成〇〇年」と書いてある。

 

改めて見回すと、全部、五十沢中学校卒業生の文字が。

たまたまお堂を修理中の男に訊いてみた。

厄年の1年前、つまり数えで41歳の春、同期生が集まり、手分けして木を探し、切り、削り、彫り、塗って、1年がかりで制作、この旅館でお披露目をして、厄払いをするのだという。

彼は全国共通の風習だと思い込んでいたようで、東京なんかでは決してやらないと云ったら驚いていた。

少なくとも南魚沼市では、伝統行事らしい。

金精さまを祀る所は多々あるが、江戸、明治からのものを保存している場合が多い。

そこへゆくと、ここでは、毎年、新しいのが造られ、祀られている。

そのことだけでも稀有な事例だということができよう。

(続く)