石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

89 守屋貞治の石仏かけ巡り見仏記(前篇)

2014-10-16 05:41:36 | 石工

NO86,87と「越後の石工・太良兵衛の石仏」を連載した。

その中で、太良兵衛と比較する形で、高遠の守屋貞治を取り上げた。

石仏愛好家なら知らない人はいないだろうと思って、あえて説明をしなかったが、どうだったのだろうか。

つまり「守屋貞治を知らなければ、石仏愛好家として”もぐり”である」という命題は成立するか、ということになる。

名前は知っているが、作品を見たことがないのは、どうなるのか。

と、したり顔に論じる私が、実は、守屋貞治の石仏をほんの一部しか見ていないのです。

ほんの一部というのは、山梨県北杜市の海岸寺の貞治石仏のこと。

3年前、寺を訪れて、彼の技量の高さに舌を巻いたものでした。

「なんだお前は、守屋貞治の石仏をろくすっぽ見もせずに、太良兵衛を先にしたのか、順序があべこべだろう」と言われれば、返す言葉もない。

ということで、おっとり刀で高遠へ行って来ました。

これは、その「駆け巡り見仏記」です。

9月上旬、中央高速を西へ。

高遠へは、諏訪ICを降りて左の山へと進むのだが、反対側へ出て、国道20号線を上諏訪方面に向かう。

上諏訪駅の近く、小高い丘陵の中腹にある「温泉寺」に、守屋貞治の石仏が多数あるからです。

高遠へ行く前にちょっと寄り道しようというもの。

諏訪湖を眺望する温泉寺は、高島藩主諏訪家の菩提寺。

「温泉寺」という寺号がいい。

臨済宗妙心派の禅寺です。

温泉寺に守屋貞治石仏が多いのは、彼が、寺の住職・願王和尚を敬慕していたからでした。

   願王地蔵(守屋貞治作

願王和尚も又、貞治の人柄と石工としての才能を高く評価し、旅に出るたびに多くの僧侶に彼を紹介し、推薦していました。

守屋貞治作品が日本の広い範囲に今でも散見できるのは、願王和尚に負うことが大きいと云われています。

本堂の裏は山墓地。

頂上に高島藩主の廟所があり、中腹に歴代雲水の墓域がある。

その中央におわす地蔵菩薩立像は、守屋貞治作品。

貞治は『石仏菩薩細工』を残しているが、なぜかこの地蔵は記載されていないらしい。

それなのに、守屋貞治の傑作と見なされるのは、卓越した技術と気品を感得できるからでしょうか。

台石に「蔵六首座」とある。

以下は、ブログ「石を訪ねて」http://gyumei.blog87.fc2.com/blog-date-200711.htmlからの丸写しだが、「首座(しゅそ)」とは、住職に代わって雲水たちと問答をするリーダーだという。

この地蔵は、曹谷曽省という雲水の墓で、彼は願王和尚の一番弟子だった。

愛弟子の死を悲しむ和尚は、貞治に地蔵菩薩の彫像を依頼する。

曹谷曽省を良く知る貞治は、地蔵の形で首座曹谷を蘇えらせた。

だから、仏というより人間くさいお顔の地蔵なのです。

墓地から本堂へ下りてゆく。

本堂に向かって右隅に石仏群。

中でも屋根つきの地蔵菩薩が目を引く。

屋根に取り付けられたカーブミラーは、石仏を明るく浮き立たせるためのものだろう。

しかし、狙いは不発で、地蔵のお顔は暗いまま、はっきりしない。

基台の正面には「三界萬霊」。

側面に「奉納 千野忠」と刻されている。

千野忠とは、高島藩家老なのだそうだ。

造立は文政六癸未五月初二日。

貞治59歳、円熟期の作品ということになります。

円熟期は晩年期とも重なって、亡くなる前年の作品群が温泉寺にはある。

長い坂の参道の、寺に向かって右にある西国三十三所観音がそれ。

瓦屋根、白壁の細長い覆屋が3棟、重なるように並んで、1棟に11基の石仏が配置されています。

高遠の建福寺にある三十三所観音も同じ配列で、こうした形式は他では見かけないから、もしかしたら、貞治の発案ではないだろうか。

最下段の覆屋の向かって右から、一番、二番・・・と左に進み、次の覆屋では左から右へ、12番から22番までが並んでいる。

当然、最上段棟は右から左へと配列されているのだが、これが参拝者にとって、最も効率的な歩の進め方なのです。

覆屋の前面は格子戸で、格子から覗かないと石仏の全体像は見えない。

うす暗い自然光の中、陰影を残して浮き上がる石仏は、精緻にして穏やか、端正にして優美、仏を仏たらしめる精神性に満ちています。

これまで見てきた無数の石仏たちとは、明らかにレベルが異なることが見て取れます。

 

一番 青岸渡寺 如意輪観音 十一番 上醍醐寺 准胝観音

平凡な表現ですが、「他の追随を許さない」造形美であることは確かでしょう。

  

九番 興福寺 不空羂索観音  二十九番 松尾寺 馬頭観音  

石工の職業病である目の病に侵された貞治は、ついに失明し、この三十三観音も23体を彫って、あとは弟子に委ねたと記録にはあるそうです。

三十三所観音を制作する場合、一番から順にてがけるのか、そうだとすれば、二十四番からは弟子の作品となりますが、何度見ても私にはその差は分かりません。

 

 二十三番 弥勒寺 千手観音 二十四番 中山観音 十一面観音

そもそも二十三番が、貞治の作なのかどうか。

ややシャープさを欠く、と私には見えますが。

覆屋の横に建碑。

「西国三十三観音
 当山願王大和尚建立
 信州高遠守屋貞治作
  昭和四年六月 修繕 当山十三世 玄秀」

昭和4年頃、守屋貞治の名前はそれほど知られていなかったはずです。

にもかかわらず建碑に名が刻されたのは、彼が願王和尚の愛弟子であり、名工としてその技量が温泉寺では、長く、高く評価されてきたからでしょう。

 

ちょっと寄り道のつもりが長くなった。

高遠へと杖突峠を上る。

 

 

高遠の人たちは、昔、諏訪盆地へは歩いて往復していた。

杖突峠は有名な難所だった。

重い道具箱を背負う旅稼ぎ石工たちは、とりわけ難儀したに違いない。

高遠市街地の手前の集落に、貞治の生家があるのだが、下調べをしてこなかったので、通り過ぎてしまった。

「たかとほの 山裾のまち 古きまち ゆきかふ子等の うつくしき町」。

田山花袋が歌ったように、古く美しい街並みが高遠には残っている

ということは、鉄道も通らず、開発も遅れたへき地だったということです。

山がちで耕地は狭く、百姓は貧しくて、高遠藩の財政は逼迫していた。

農閑期の出稼ぎは常態で、藩もそれを半ば強制的に奨励した。

農繁期には、必ず村へ帰ることを義務付けて。

旅稼ぎの手段は、石工。

品行方正で腕のいい高遠石工の評判は上がるばかりで、長野県内はもちろん、岐阜、愛知、山梨、群馬、栃木、埼玉、東京、神奈川、静岡が彼らの出稼ぎ先だった。

 守屋貞治もそうした石工の一人だった。

しかし、いつ、どこで、誰について石工としての修行をしたのか、一切不明です。

父、孫兵衛は石工でしたから、父が師匠だったことは、多分、間違いないでしょう。

その父親は、貞治18歳の時、死亡します。

一人立ちを余儀なくされた彼のその後は、長く空白のままです。

高遠の田舎の石工の生涯なんて、分からないのが当然だろう、そう思うのが普通ですが、貞治の場合、作品記録『石仏菩薩細工』が残されていて、彼の足跡を辿ることができるのです。

しかし、独立後10年の記録はほとんど皆無。

書き残すほどの仕事をしなかったということでしょうか

仕事らしい仕事の最初は、高遠「建福寺」の六地蔵。

寛政4年、貞治28歳の時でした。

建福寺は、臨済宗妙心派の名刹で、藩主保科氏の菩提寺。

山門に至る急こう配の石段が印象的な寺です。

貞治が師と仰ぐ諏訪の温泉寺住職願王和尚と密接な関係にあり、貞治は42体もの石仏をこの寺に残しています。

貞治の六地蔵は前面格子の覆屋の中にある。

中は暗くて写真の地蔵は不鮮明なのが残念。

高遠町(伊那市に合併前の)教育委員会編纂『高遠の石仏』は、「各地蔵の相も異なり、貞治作の特徴を備えていない」と否定的です。

山田誠治(高遠石仏研究会副会長)は、「6体の両端の彫りは幼稚で、貞治作ではない。廃仏毀釈で打ち壊されたものを誰かが修復したものか」と推測する。

格子つき覆屋は、西国三十三所観音の保存と展示にも使用されています。

三十三体を3棟の覆屋に収納、展示するこの形式は、効率的でユニーク、もしや貞治のアイデアかと思うのですが、ここ建福寺に限っては大失敗。

石段の最上段左に3棟が重なるようにならんでいます。

崖地にあるから、参拝者は一段下に立って石仏を見上げることになって、結果、次のようなことが起きます。

①格子があって全体像が見えない。

②格子から覗いても暗くて像がはっきりしない。

③見上げる形になり、蓮華座ばかり大きく見えて、上半身が見えにくい。

背伸びしてレンズを格子に突っ込み、フアインダーは覗けないから、見当でシャッターを押す、と下の写真のようになる。

三十三番 十一面観音

二十九番の馬頭観音は貞治仏の中でも傑作とされる一体ですが、写真はうまく撮れません。

3棟を平地に移し、格子を全面ガラスにしてほしいものです。

同じことは、寺の西門わきの地蔵堂についてもいえる。

格子があって、中の地蔵の像容が見えにくい。

 

下の格子からのお姿はかくの如く、無残。

蓮華座の上になぜかカップ酒。

格子から手を伸ばして届く場所ではない。

誰がどうしておいたのか、不思議だ。

貞治が彫った地蔵には、佉羅陀山(からだせん)地蔵大菩薩が多いが、これもその一つ。

佉羅陀山は、須弥山の近くにある地蔵の故郷だそうで、その像容は左手に宝珠、右手は錫杖を持つ代わりに施無畏印を結んでいます。

基壇正面には、願王和尚の讃が彫ってある。

「帰命魔訶 薩宝珠雨 梵台金環
 常金地百 怪不能来  願王」

 

圧巻は、その願王和尚を地蔵菩薩に見立てた願王地蔵尊。

 願王地蔵菩薩(『高遠の石仏』より借用)

この寺で受戒会座中に倒れ、そのまま遷化した師・願王和尚を偲んで、石工守屋貞治が万感の思いを込めて彫像した渾身の傑作がこれ。

地蔵尊崇敬者の和尚のために、身体は佉羅陀山地蔵、お顔は願王和尚というお地蔵さんです。

 

三十三所観音の傍に正観音坐像。

 

横に「正観世音菩薩 守屋貞治作」の石柱がある。

石像に違和感がある。

顔だけが白っぽい。

修理したようだ。

首から上をすげ替えて、「守屋貞治作」とするのは、いかがなものか。

たとえば絵画の世界、著名画家の作品に穴が開いた、だれかが書き直して修理する、ことなどありえない。

地震か廃仏毀釈、首がなくなった理由は様々だろうが、欠けたそのままにしておくべきではないか。

元々『石仏菩薩細工』にこの正観音は載っていないという。

ならばますます「守屋貞治作」と表示するのは、問題があるように思う。

 

順序が逆になったが、山門へと延びる急な石段の両脇に立つ石仏の左は貞治作品の延命大地蔵菩薩。

彫技からして貞治作としか見えない、右の楊柳観音は貞治の弟子、渋谷藤兵衛の作品です。

建福寺の最後に「守屋貞治顕彰碑」を紹介する。

碑文は、貞治本人の直筆文。

私は読めない。

傍らの解説をそのまま載せておきます。

 高遠町にある守屋貞治作品は、48体。

うち43体は、建福寺にある。

彼の故郷でありながら高遠に貞治作品が少ないのは、施主になるだけの財力がある家がなかったからでした。

駒ケ根市に貞治作品が多いのは、その逆、スポンサーになるだけの経済的余力のある家や講が多かったからです。

残り5体のうち3体があるのは、守屋家の菩提寺桂泉寺。

石仏は、石段の中ほど両側にある。

右が准胝観音。

     准胝観音

左は延命地蔵。

いずれも貞治55歳、海岸寺での百体観音制作中、故郷に戻っての仕事です。

貞治の作品には、なぜか准胝観音が多い。

あまり見なれない石仏なので、伊那市教育委員会の説明文を転載しておく。

「准胝とは清浄の意味で、この観音は、息災・延命・求児・除病の祈願を与えるといわれる。豊かな体躯、荘厳な顔の表情、円形光背のなかに納められている一本一本の手、頭髪、蓮弁の美しさなど、その技術には目を見張るものがある。」

はるか眼下に高遠の街並みを見下ろしながら、石仏2体は、295年、この場所に佇んで来たことになる。

 海岸寺での10年間に及ぶ百体観音制作の途中、故郷高遠での仕事といえば、三峯(みぶ)川の常盤橋のがけの上に安置されている大聖不動明王も外せない。

三峯川は度々氾濫した。

困り果てた村人たちができることは、神仏に祈ることだけ。

その祈りの仏として村人に頼まれ貞治が造ったのが、この波切不動。

一時、高遠町郷土館に収容、展示されていたが、村人に病人が続出、お不動様のたたりではないかと騒ぎになり、元の場所に戻されたという。

身体に比べて顔が大きい。

下から仰ぎ見るように貞治は造ったのだから、がけの中腹に安置すべきだという意見もあるようだ。

貞治作品の最高傑作の一つ。

傑作とされる理由を伊那市教育委員会の説明文から読み取ってほしい。

 高遠を去る前に高遠歴史博物館に寄った。

高遠石工の史料があれば、見たいと思ったから。

着いて分かったのですが、なんと偶然にも「高遠石工 石仏写真展ー守屋貞七、孫兵衛、貞治ー」の特別展が開催中でした。

貞治からすれば、貞七は祖父、孫兵衛は父ということで、守屋家は三代にわたり石工を業とする家だったことをこの展覧会で初めて知りました。

祖父から父、そして貞治へと受け継がれた技術も当然あるわけで、そうした観点からの調査、研究が始まったばかりということのようです。

貞七、孫兵衛の作品は、駒ケ根市とその周辺に多いと解説されています。

翌日、貞治作品を観に駒ケ根市へ行くので、先祖の作品も視野に入れて「見仏」して回るつもり。

≪参考資料≫

◇高遠町誌(上)昭和58年

◇高遠町教委『高遠の石仏』平成7年

◇春日太郎「守屋貞治の生涯と石仏」(『別冊信濃路石仏師守屋貞治 昭和61年』所載)

◇水沼洋子「貞治仏をたずねて」(『野ざらしの芸術 井上清司写真集 昭和57年』所載)

◇小松光衛「石工守屋貞治のこと」(『史跡と美術』1978・5所載)

◇春日太郎「守屋貞治三十代を中心とした作品考」(『日本の石仏』NO11 1979秋号)

◇春日太郎「高遠の石工」(『日本の石仏』NO17 1981春号)

◇上伊那郷土研究会『高遠石工守屋家三代百年の足跡』2014

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


88 佐渡にだけ残る釘念仏供養塔

2014-10-01 05:40:16 | 石碑

釘念仏供養塔 くぎねんぶつくようとう

死後、地獄では生前の業によって、四十九本の釘が打たれる。この釘は縁者が四十九万遍念仏を唱えることによって抜けるといわれ、版画の五輪塔の四十九か所の白抜きの場所を念仏を1万遍唱えるごとに墨で塗ったり、線香で穴をあけたりする釘念仏の信仰は、日光の寂光寺の覚源上人によって始めたとされる。
しかしなぜか、釘念仏搭は佐渡に約20基見られるのみである。(中略)佐渡以外で発見されることが期待される。(芦田正) 

上は、『日本石仏図典』より「釘念仏搭」の項を転載したもの。

ポイントは、下線部。

このブログNO83、84は「佐渡に残る足尾山塔」でした。

今回は、「佐渡にだけ残る釘念仏供養塔」。

「念仏供養塔」は、念仏(南無阿弥陀仏)をどのようにして多く唱えたか、その成果を記念する石塔です。

寒念仏」や「不食念仏」は厳しい条件下での念仏修行であり、「百万遍念仏」や「融通念仏」は集団で唱えた念仏の回数の多さを誇る記念碑です。

では「釘念仏」は、どうなのか。

系統としては、後者でしょうか。

なにしろ釘1本につき1万遍、四十九万遍の念仏を唱えて成就するのですから。

 

では、「佐渡にだけ残る釘念仏供養塔」巡りへ。

なぜか、その理由は不明ですが、釘念仏供養塔は、小佐渡海岸、小木の隣、旧赤泊村に集中してあります。

1 十王堂(丸山)

畑野から多田への県道を南へ向かって下り始めるとやがて人家がポツポツ、右に平泉寺が見えてきます。

平泉寺から約300mほど下った所の脇道を左へ。

突き当たった広場が十王堂です。

広場の奥に10基ほどの石造物があり、左から4番目が、釘念仏供養塔。

正面の上部に阿弥陀三尊の種字(中央に阿弥陀、右下に観音、左下、勢至)、その下に「釘念仏二千九百八十九万遍」、さらに「遍」の両側、右に「供」、左に「養」の文字が刻されています。

裏面は「元文四己未         川内村一人
         一結講中六十一人 丸山村五十五人         
    十月初八日          多田村 五人  」

 ここで注目すべきは、講中六十一人と念仏二千九百八十九万遍の数字。

念仏回数を講中の人数で割ると見事、四十九万。

49万回、南無阿弥陀仏を唱えたことで、61人の信者が、親類縁者の死者か、あるいは自らが、死後の世界の地獄において、49本の釘を打たれる責め苦から逃れることになったわけです。

では、49万回達成にどのくらいの時間を要したのでしょうか。

「十座十万遍」という真言があるのだそうです。

私も今回初めて知ったのですが、十座十万遍というのは、25人が「南無阿弥陀仏」を400回唱える、つまり計1万遍を一座とし、午前五座、午後五座、合わせて一日で十座十万遍になるというもの。

61人が4000回唱えれば、一日の念仏回数は244000回。

これで総計29890000を割ると122.5、122日と半日を要したことになります。

農業の暇な冬にやったとしても1年によくてひと月、122日となると4年がかりの大事業だったことになります。

達成記念の供養塔を建立したくなるのも無理からぬことでしょう。

各自ばらばらに家で4000回唱え、それを足したものではなく、61人が決まった日に一堂に会して、念仏を唱えたことは、石塔の側面の「月並」の文字に読み取れます。

丸山の十王堂を出て、県道を下ってゆくと河内集落へ。

2 観音堂(松ヶ崎河内)

参道を上がってゆくと、本堂に向かって左の木蔭に釘念仏供養塔はあります。

光り輝く6月の水田をバックに黒く佇んでいる傘塔婆がそれ。

逆光と苔で刻文は判読不可能。

祝資料によれば(祝資料についてはNO82をご覧ください)刻文は下記の通り。

            結衆
(正面)  釘念仏〇散供養塔
            敬白

右側面は「當山善男女三十四人聚頭唱念弥陀宝号」

左は「元文五申年四月上旬九日立」

ちなみに34人が49万遍念仏を唱えたとすると総回数16660000回。

お疲れ様でした。

 

釘念仏というと民間信仰、庶民信仰の匂いが強い。

そして、民間信仰だと謂れがはっきりしないのが普通です。

しかし、釘念仏の謂れは極めて明瞭、その氏素性は確かなものです。

釘念仏の起源は、日光輪王寺の前身寂光寺に求められます。

旧寂光寺に伝わる『釘念仏縁起絵巻』には・・・

寂光寺の僧覚源上人がある日突然息絶えた。側近たちは荼毘の準備を始めたが、上人の体は暖かく、野辺送りできないまま十七日が過ぎた。十八日目蘇えった上人は、仮死の間見た地獄について語り始めた。大地獄百三十六、そのほか多数の小地獄を見た後、閻魔王はこう語ったという。
『汝、今ここに来るへきときにあらす、されども娑婆の群生(ぐしょう)邪見にして、地獄におつる輩いやまさりぬれば、汝に地獄の姿見せ、衆生を救わしめんためなり』とぞ。
閻魔王、又のたまわく。『底下の凡夫、貪欲、愚痴にして、悪をなすこと限りなければ、死して後四十九日のあいだ、四十九の釘をうたる。罪業の浅深に応じて、釘の長短異なり、六寸、八寸、或は一尺六寸なり、頭に三、左右の肩に二、二つの手に六、腹に二十、脇に十四、足の左右に四、合わせて四十九なり。(中略)自業自得の報ひなれば、この苦しみ除くこと、十王の方便にもかなひがたし。娑婆において、仏に供養し、僧に布施する功徳によりて、その苦しみやうやく滅すといへども、三十三年すぎざれば、此釘ぬくることなし。汝、年月、浄業を修せしことなれば、すみやかに本国に帰り、迷妄の衆生を教化して、四十九万遍の念仏を勧むべし。いかなる業深きものも、この念仏の行満ちぬれば、その苦しみを免る』と」。

そう語り終えた上人の手には、五輪塔に49の釘のある札があった。誠にありがたいことで、見る者、聞く者不思議な思いに打たれ、その札を乞い受け、念仏修行をしようと願ったので、上人は版木に刻み広く施した。

これが今もなお輪王寺三仏堂で授与されている五輪塔札です。 

生きている間にこの札を受け、自ら49万遍を修すれば、往生間違いなしとするこの信仰は、極楽へのパスポートとしての逆修そのものだったわけです。

室町時代に日光の寂光寺を中心に始まった浄土信仰の釘抜念仏は、江戸時代になると全国的な広がりを見せるようになります。

寂光寺の「釘抜念仏過去帳」によれば、その信仰圏は、関東一円はいうにおよばず、信州、奥州二本松、紀州高野山、長州長門、筑前と広く、もちろん、佐渡もその範囲に入っていました。

 

次の目的地は、山田の公会堂。

石仏めぐりを始めて7年、毎年、佐渡へ帰るたび、レンタカーで島内を駆け回っている。

石仏があるのは、主要道から分かれた小路や農道の路傍です。

当然、ほとんどが初めての土地ばかり。

次の目的地、山田の公民館も初めての場所。

地図を見ると小佐渡山脈の山腹にあるようだ。

あちこち走り回って分かったことだが、海岸からの距離だと大佐渡の集落よりも、小佐渡の海側の集落の方がずっと山深い。

大佐渡の山の標高は高いけれど、集落は山麓までしかない。

ところが小佐渡の南側は、ほぼ山の中腹あたりまで、農地があり、人家がある。

へえっ、こんなところに家が!と驚くのは南佐渡に多いのです。

腰細川沿いに山へ。

対向車が来た。

「山田公民館は?」と聞く。

答えは「とにかく、どんどん行けばいい」。

人家が途切れても、人気がなくなっても、とにかく坂道を上ってゆく。

振り返ると眼下の柿畑の向こうに海。

突然、右手に、広場が現れる。

この山地に、広場は珍しい。

広場の奥の公民館は、元はお堂だったのだろうか。

3 山田公民館(山田)

公民館の右手に10基ほどの石造物が並んでいるが、木蔭に沈んで半分も見えない。

ではと、木蔭の中に入って見る。

しかし、今度は、逆光で石塔の文字が読めない。

背後のホワイトは、空でもあるが海でもある。

条件が良ければ、越後の山脈が見えるはずです。

どうやら釘念仏供養塔は、左端の石塔であることが確認できたが、石塔にレンズを近づけ、フラッシュをたいても読めないことは変わりない。

やっと確認できたのは「釘念仏供養塔」の六文字。

造立年も施主名もない極めてシンプルな石塔は、それはそれで珍しいといわなければなりません。

 

次の目的地、 磬台山へ行くのに往生した。

地図上の道路の分岐点が、畑ばかりで目印になる施設がないから、特定できない。

訊きたくても人影はない。

困り果てていたら軽トラが上ってきた。

「磬台山への道はややこしい」と男は云う。

落胆していたら、男は車をUターン、「後ろについてこいっちゃ」。

どこをどう走ったものか、軽トラの後を追って行ったら、磬台山に着いた。

4 磬台山入口(山田三川)

人家など全くない山道のカーブ地点に9基の石造物。

文字碑だけで石仏はない。

持参資料には、3基の釘念仏供養塔があるはずだが、2基しか見当たらない。

どれも刻字が浅くて判読しにくい。

          安政三辰年  當
 奉唱釘念仏供養塔
   七月求法日 講中

          明治八亥年
寺社情報サイト釘念仏供養塔
   十月求法日

石塔群の右横に長く上に伸びる石段。

石段上り口には「磬台山大師堂」とある。

上ってゆく。

大師堂の前に、四国八十八ケ所霊場本尊模刻石仏が相対して整列している。

まだ6月で草の丈も高くないから、石仏はちゃんと見える。

しかし、盛夏ともなれば、草に埋もれて何も見えなくなってしまうだろう。

石造物だから、訪れる人がいなくなってもこうして命長らえているが、用済みになって、見向きもされないまま、所在無げに立ち並ぶ石仏群は、真昼の太陽に照らされて、寂然たる雰囲気を一層強く醸し出しているように見える。

資料に記載されている2基の釘抜供養塔は、上の写真のどれかだろうが、目を近づけても、指で触ってみても、それらしい文字の片鱗を見つけられなかった。

ここ磬台山大師堂前とその下の石段横には、計5基の釘抜念仏供養塔がある。

ここは、佐渡で釘抜念仏供養塔が最も多い場なのです。

しかし、磬台山大師堂がある山田集落では、釘念仏は行われていません。

では、釘念仏はどこで行われているか。

それは、旧赤泊村の真浦、杉野浦、柳沢、徳和浜などの集落と小木町小比叡集落だと、ー佐藤一富「釘念仏供養塔について」『佐渡史学12巻』1979年ーには書いてありますが、なにしろ35年前の話、今でも行われているのかは確認してないので、わかりません。

佐渡では、僧侶が執り行う通夜儀式の後、集落の人たちによる通夜念仏が行われます。

佐藤一富氏によれば、真浦集落の通夜念仏は

①真言はじめ
②光明真言
③光明真言おさめ
④十三仏真言
⑤十三仏御詠歌
⑥おさめ(南無遍照金剛)
⑦南無大悲遍照金剛
⑧南無大悲観世音菩薩 おさめ
⑨真言の御詠歌
⑩念仏はじめ
⑪総おさめ
⑫三十三番か八十八番の御詠歌
⑬釘念仏(南無阿弥陀仏を唱えながら大ジュズを廻す。大ジュズの数は1086)
⑭善光寺御詠歌
⑮新仏の御詠歌(男の場合は不動和讃、女なら血の池和讃、子供なら賽の河原和讃)
⑯ひきねんぶつ 

当時は、鉦や太鼓を打ちながら、音頭取りに全員が唱和しながら、4時間も通夜念仏は行われたものでした。

多分、今は、ずっと短い時間になっていることでしょう。

真浦集落の釘念仏は、本来の49万遍念仏です。

新仏を、釘を打たれる責め苦から救う願いが込められていました。

しかし、杉野浦や小比叡では、念仏ではなく、釘念仏和讃を唱和します。

和讃とは、仏、菩薩、祖師、教義などをほめたたえる賛歌。

釘念仏和讃は、地域によって少しずつ歌詞が違うのですが、ここでは小比叡集落の「釘念仏和讃」を、少し長くなりますが、転載しておきます。

先に示した寂光寺の『釘念敷設縁起絵巻』と内容は、そっくり・・・

そもそも坂東しもつけの
日光山のふもとなる
釘念仏のえんぎあり
その山寺のおん名をば
寂光院とは申すなり
ころはいつぞの事なるに
文永七年霜月の
中冬廿日のことなるに
にわかにねはんの道にいる
御弟子これを悲しみて
おん身あたたかなるうちは
七日七夜を明かしける
七日七夜と申すには
よみじかへりをなされつつ
みでし これをよろこびて
後生のほどをたずねらる
我らエンマのおんまえで
ふしぎの事をさずかりて
またこの土へ立ち帰り
薬師如来のおんまえの
四十九本の釘みれば
長さ八寸また六寸
一尺二寸と三やうあり
その釘打つも打たるるも
その身その身のとがによる
忌日忌日は多けれど
四十九日は釘の役
十悪五逆の罪びとの
こうべに五本手に六つ
胸と腹とに十四本
腰と足とに二十四本
その釘打たるるその時は
上はうちようか雲の上
下はならくの底までも
一百三十六じごく
くずるるばかりに叫びける
十王たちは御覧じて
まことに不びんとおぼしめし
声を惜しまず泣きたもう
薬師如来のおんことは
慈悲なる仏にましませば
衆生を助くるそのために
釘念仏をはじめけれ
しゃばよりめいどに供養せよ
釘念仏を唱ふれば
こうべの釘と手のくぎと
ゆりて天へと舞いあがる
釘念仏と申すれば
胸と腹との釘ゆりて
七尺底へと舞いさがる
釘念仏を申すれば
足と腰との釘ゆりて
九品の浄土へ納まれり
釘念仏を申すれば
十悪五逆の罪消えて
未来助くる南無阿弥陀仏

 

このような和讃を唱和しながら、刷り紙の五輪塔の形をした卒塔婆の周りの49の白い穴を塗りつぶし、後日、墓に納めたものだという。

 

磬台山から更に山奥へ。

横山の観音堂を目指すのだが、これが分からない。

教えてくれる人はいつもの道だから、つい、分岐してることを忘れてしまうらしい。

分岐点には、人影はない。

右へ行くのを左に進んだりするととんでもないことになる。

迷いに迷ったあげく、三辻に出た。

現在地はどこか、地図で確かめようとしていたら、草叢に石塔があるのに気付いた。

5 女神山起点路傍

それが横山観音堂の次の目的地、女神山起点だった。

資料通り、釘念仏供養塔が2基ある。

文化4年(1807)造立の石塔は、刻字が明瞭。

当所講中十九人とある。

あたりを見回しても人家はない。

当時は、集落があったのだろうか。

もう1基は、ひょろ長い自然石の下部に「奉唱釘念仏供養塔」と刻されている。

小さなお堂ともども、長年、放置されて、荒れ放題。

三辻にあるということは、人目につくようにと、ここに造立されたのだろうが、草叢に埋没して、目につきにくい。

そもそも人通りがないのだから、人目につくことはあり得ないのだけれど・・・

 釘念仏供養塔とは別に2基の石塔がある。

いずれも不動明王を祀るもの。

「奉修唱不動尊秘法十ケ座慈救呪六百十五万遍〇〇」(〇以下は埋もれて不明)

 「郷内安全」を祈念して、修験行者が不動明王の真言「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン」を615万遍唱えたということだろうか。

昭和12年造立とある。

私が生まれる前年、この地では修験者が活動し、それを信仰する人々がいたことになる。

「念仏供養塔ー釘抜念仏を中心としてー(『日本の石仏第100号』所載)」の筆者、宮島潤子氏は、佐渡に釘念仏を勧化したのは、日光と佐渡を往還していた修験や行者ではなかったか、と推測しています。

その根拠として、宮島氏は、蓮華峯寺境内に東照宮があり、釘念仏供養塔の分布範囲が同寺の寺領と重なることを挙げています。

 

6 東光寺(徳和)

 佐渡には無数の石塔がある。

中でも私が最も好きな「石塔のある風景」は、下の写真。

 石塔左奥は、徳和の東光寺。

石塔前の道は、江戸期、佐渡奉行が赤泊から相川へ向かった殿様道です。

左から、「念仏供養塔」、「光明真言供養塔」、「釘念仏供養塔」。

 

佐渡では、真言宗寺院が多く、光明真言も「ねんぶつ」と呼ぶのが普通で、いわばこの3基は、多数作善の融通念仏を共通点にしている、といっていいでしょう。

 1の十王堂(丸山)で、側面に「光明真言二十三万千八百」と刻された釘念仏供養塔を紹介しましたが、ここでは側面ではなく別の石塔になっているわけです。

以上6か所9基で、今回の「佐渡に残る釘念仏搭」の報告は終わり。

佐渡には、24基あることになっています。

残りはいずれ佐渡へ行った時、探してみるつもり。

全国的に釘念仏が流行するなか、佐渡にだけ釘念仏塔が残ったのは、多分、開発されることがなかったからでしょう。

昔からの場所に昔のままでおわす・・・しかし、拝む人もなければ、供花もありません。

邪魔な廃棄物として処理される前に、文化財に指定してほしいものだと思います。

≪参考図書≫

☐佐藤一富「釘念仏供養塔について」(『佐渡史学昭和54年8月』所載)

☐宮島潤子「念仏供養塔ー釘抜き念仏を中心にしてー」(『日本の石仏2001年冬号所載)

☐宮島潤子「日光山寂光寺釘念仏供養塔」(『石の比較文化誌』平成16年所載)