石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

109 比叡山延暦寺の門前町坂本の石造物

2015-08-16 06:04:58 | 石仏めぐり

京阪電車を終点の坂本駅で降りる。

坂本は、これで2度目。

前回は、大津市在住の高校時代の親友が案内してくれた。

今回、彼の案内はない。

脳梗塞で倒れ、搬送先の病院で死亡、その通夜式参列のため大津へ来たのだった。

夜の葬儀まで時間がある。

坂本の町をぶらり歩いてみることにした。

時おり出くわす石仏に手を合わせ、般若心経を唱えるのが、自分なりの供養のあり方だと思い、そのつもりで歩き出す。

 坂本とは、どんな町か。

坂本観光協会のパンフレットの書き出しは、こんな具合です。

坂本は三塔十六谷、三千坊と云われる権勢をふるった比叡山延暦寺の台所を預かる町として栄え、琵琶湖に面した下坂本港が開け、都への交通の中継地となっていたため多くの物資が坂本へ集められ、一大商業地としても繁栄しました

坂本駅前の道路は、日吉馬場。

日吉大社の参道です。

駅改札を出ると正面に「世界文化遺産比叡山延暦寺」の文字。

その上に「石積みの門前町坂本」の文字も。

穴太(あのう)衆が築いた石積み(石垣)が街の各所に展開して、坂本の石造物といえば、石積みと云って過言ではない。

司馬遼太郎も『街道をゆく・叡山の諸道』の中で、「坂本の町にあっては石垣の美しさを堪能すべきだが、さらにはこの技術の伝統を背負った近江の穴太(あのう)衆への敬意をわすれるべきではない」と書いた。

                                  坂本観光協会の観光マップ

心して見て回ろう。

日吉馬場を上る。

100mも行かない右側にあるのが、生源寺。

伝教大師最澄生誕の地がセールスポイント。

当然、産湯を使った井戸もあります。

境内の片隅に、まるで忘れ去られたように石仏群がある。

多分、中世のものだろう。

とろけたようになって、顔、形はその輪郭だけがうっすらと残っている。

鎌倉を除いた関東では、余り見かけないが、近畿地方ではこればっかり。

生源寺前の信号を左折、日吉馬場の東側へ進む。

どっしりと風格のある建物だなと思ったら、蕎麦屋だった。

ぶっかけそばを注文する。

建物の格式に「ぶっかけ」は似合わない気がするが、まあまあの味だった。

道の両側の家の軒先に暑気払いの工夫がみられる。

東京郊外の造成団地では決してみられない、由緒ある町ならではの光景。

塀の上に三猿がいる。

石屋の製品置場の外壁だから、さだめし商品サンプルというべきか。

今気が付いたのだが、この日、半日歩いて、坂本では三猿つきの庚申塔に出会わなかった。

作り道を右折して、道幅の広い坂道へ。

地図では「権現馬場」となっている。

山門に「延命地蔵尊」の石柱があって、中に坐している地蔵が見える。

 権現馬場を上ってゆくと右手に長い石垣が伸びている。

うっかり「石垣」としたが、「石垣」は「石積み」とは違う。

何が違うかと云うと「石積みの裏にこぶし大の裏込め石を入れて、排水対策をしてある」のが「石垣」。

しかし、裏込め石を入れてあるか、ないか、私には判らないので以下、全部、石積みとします。

この東西に長い石積みの先は、坂本で最大規模の滋賀院門跡の石積みに連なっている。

滋賀院には、天台座主(住職)が常住して延暦寺運営の中枢がおかれていた。

一方、門跡とは、皇族や摂関家などの子弟が出家して相承される寺院をいい、天台座主職には親王などが就任することが多く、滋賀院門跡と呼ばれていた。

滋賀院が門跡寺院である証拠みたいな石造物が、滋賀院門跡の背後にある慈眼堂にある。

慈眼堂は、家康、秀忠、家光三代にわたり宗教顧問を務めた慈眼大師天海大僧正を祀る廟。

天海は、信長の比叡山焼き討ちで荒野と帰した坂本の町の復興に尽力し、滋賀院を建立した。

慈眼堂の墓域には、後水尾天皇、後陽成天皇を供養する石造九重塔が並んでいる。

 

  後水尾天皇供養塔          後陽成天皇供養塔

後水尾天皇は「滋賀院」と命名され、後陽成天皇は御所の一部を滋賀院の建物にすべく下賜されたと云われている。

中央の宝塔は、桓武天皇供養塔。

桓武天皇の勅命で最澄は比叡山延暦寺を開山した。

中央におわす十分な理由がある宝塔供養塔なのです。 

無縫塔には「慈眼大師塔」と刻され、

その右隣は、東照大権現供養塔です。

面白いのは、墓域右端の3基の石造物。

左から、清少納言、和泉式部、紫式部ですが、この3人と同時代の比叡山の僧侶と云えば、往生要集を著した恵心僧都源信。

『源氏物語』に「そのころ、横川に、なにがしの僧都とかいひて、いと尊き人すみけり」と紫式部が書いた僧都のモデルは源信だったというもの。

末法の時代を生きる人々を、口称念仏という誰にでもできる易しい行為で極楽に誘う僧侶として、紫式部は源信を描いたのでした。

墓域を見下ろすように並ぶ13体の阿弥陀如来坐像も見逃せない。

同じ大きさ、同じ造容のこの阿弥陀如来坐像は、観音寺城城主・佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため鵜川の地に46体建立したものを、江戸時代初期、天海僧正が内13基をこの地に移したもの。

 

慈眼堂は、石仏愛好家には見逃せない場所ということになる。

慈眼堂の墓地を西へ抜けると林の中の小道に出る。

真っ直ぐ行くとケーブル坂本駅。

右へ曲がって権現川を渡る。

両側が石積みの、いかにも坂本らしいムードの道が伸びている。

道路には「穴太衆積み」のプレートが嵌め込まれている。

穴太衆のルーツは朝鮮半島にあると云われている。

同じく渡来氏族の最澄の依頼に応じて、比叡山延暦寺の堂塔建設に従事しながら、彼らは石積みに特化した石工集団となっていく。

だが、1571年、織田信長の焼き打ちで転機が訪れる。

焼け残った石垣の堅固さが信長の目に留まり、安土城の石垣造りに駆り出されたことで、一地方の職人集団だった穴太衆が世に出たというのです。

この安土城築城きっかけ説には異論もあるが、秀吉の大阪城、家康の江戸城を初め、関ヶ原以降の城普請ブームの主役の一翼を穴太衆が担ったことは否めない。

両側が石積みの道を歩いてゆくと日吉大社参道の日吉馬場にぶつかる。

ぶつかったら右へ下るとそこが里坊旧白毫院の「芙蓉園」。

穴太衆積の洞窟があることで有名です。

穴太の石積みは、野面(のづら)積みといって、自然石を巧みに組み合わせた手法です。

人工的に加工した石材を使用する「切り込みはぎ」や「打ち込みはぎ」に比べると自然石だけて積み上げるところに特徴がある。

大石と大石の間に小石を詰め込む野面積は、一見、粗雑にみえるが、崩れにくく堅牢。

野面積みの技法の奥義は口伝としてしか伝えられていないが、「石の声を聴き、石の持って行って欲しい所へ持って行け」というのが、その真髄だと云われている。

 日吉馬場を横切って西側の旧竹林院へ。

この竹林院も里坊でした。

坂本には約50の里坊がある。

里坊は、山坊の対語。

山坊は、比叡山の僧侶が仏道修行する場を意味する。

対して里坊は、その修行の厳しさに堪えられなくなった老僧や病弱の僧徒が隠居保養するための場所を意味します。

里坊の多くは、穴太衆積みの端正な石垣によって造成されている。

ここ旧竹林院の山門の佇まいには、風格や気品があります。

国名勝指定の庭園には、地形を巧みに利用した滝組と築山を配し、しっとりとした風情を醸し出している。

「心を落ち着けて景色を観ることで悟りの境地に達する」という仏教の教えに沿って作られた、とは坂本観光協会のパンフレッドの文章。

それなら山坊での厳しい修行など不必要となりはしないか。 

旧竹林院を出て、左へ進むと正面に止観院。

止観院は、坂本里坊の総元締めともいうべき存在で、坂本全体の行政を執り行い、延暦寺領の年貢徴収を掌り、御白洲もあって、司法権限まで有していた。

写真は止観院前(左が止観院)。

マンホールと電柱に目をつぶれば、往時そのままの光景といっていい。

こういう景色が坂本では随所に見られます。

この疎水沿いに上流に向かって100m、日吉三橋の一つ、二宮橋が見えてくる。

日吉は、勿論、日吉大社のこと。

広大なその境内地を流れる大宮川に3本の橋が架かっている。

いずれも穴太衆の手になる橋で、3本とも国の重文。

寄進者は豊臣秀吉、という説が強い。

幼名が日吉丸だったから、日吉大社に親近感があった。

いや、信長に猿よばわりされ続けたから、神の使いが猿の日吉大社に惹かれた。

どちらがウソで、どちらがホントか。

橋はまるで木橋みたい。

緩やかなアーチはとても石造物だとは思えない。

二宮橋の上流の大宮橋はもっと手が込んでいる。

欄間細工は木製品そのものの様。

橋の袂の説明板の一部を引用しておく。

大宮橋は、西本宮(大宮)へ向かう参道の大宮川にかかる花崗岩[かこうがん]製の石造反橋[そりはし]ですが、木造橋の形式をそのまま用いています。
幅五・〇メートル、長一三・九メートルで、川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、貫[ぬき]でつなぎ、その上に三列の桁[けた]をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡しています。
両側に格座間[こうざま]を彫り抜いた高欄[こうらん]をつけるなど、日吉三橋のうちでも最も手が込んでおり、豪壮雄大な構造の、代表的な石造桁橋です。」

 

「青かへでの 三橋の茶屋に おり着きぬ 井泉水」

3つ前の写真に戻って、二宮橋の先、一番奥が日吉大社東本宮。

日吉大社は、大山咋(おおやまくい)神を祀る東本宮と大己貴(おおなむち)神を祀る西本宮からなる。

広い境内には、燈籠を除いてみるべき石造物はないので、パスしてもいいが、日本屈指の神社なので、少しばかり(受け売りでにわか仕込みの)説明をしておきます。

日吉大社が琵琶湖西岸のローカル神から全国規模のスーパー神社になったのは、「山王さん」のおかげでした。

山王さんとは、山王権現のこと。

最澄は比叡山延暦寺を開山するにあたり、日吉大社の大山咋神と大己貴神の2神を寺の鎮守神とした。

仏や菩薩が仮の姿で神(権現)となるという考えから、日吉大社の神は「山王権現」とされた。

天台宗寺院には、山王さんこと山王権現が鎮守として設けられたから、宗派の伸長拡大とともに山王さんも全国にひろがって行った。

現在、山王さんの数は3800社。

その総本社が、ここ日吉大社なのです。

東本宮の参道に注連縄を張った岩がある。

猿岩だそうだ。

日吉大社の神の使いは猿。

「神猿」と書いて「まさる」と読む。

神猿は魔除けの神だから「魔が去る」で「まさる」なのだそうだ。

同時に「勝る」でもあって、勝ち運、必勝を叶えてくれるという

自然石で石造物ではないが、そのこじつけの妙に感心して紹介しておく。

 ところで西本宮参道には、「神猿」の看板の下に生きた猿がいる。

檻の中で元気なくしょぼんとした情けない姿は、とても神の使いとは思えない。。

言葉あそびは、脳内プレイに止めておいた方がよさそうだ。

これだけの大社なのに、句碑もなければ、顕彰碑もない。

燈籠も少ない。

一つだけあった。

西大社門前の宝塔。説明板がないから、由来は分からない。

 

日吉大社を後にして、もと来た道を戻る。

日吉馬場の西側歩道を下る。

左に石積みの上に白壁の、右に疎水が流れる、坂本らしい雰囲気ある道がまっすぐに伸びている。

日吉馬場から白砂の枯山水が流れ落ちているのは、律院の山門。

左右両側の石垣がどっしりと堅固、まるで武家の門のようだ。

山門を入っても白砂の流れは続いている。

その流れに沿って奥に進むと境内が広がっている。

その意外な広さに誰もが驚くだろう。

すっくと立つ銅像は、叡南(えいなみ)祖賢和尚。

終戦直後、比叡山の千日回峰行を満行した伝説的和尚。

人手に渡ろうとしていた里坊を、律院として復活させた。

風格ある層塔があるかと思えば、

変哲もない石仏群もある。

だけど、台石に頭が乗っている、これは一体何なのだろうか。

 日吉馬場を下り、鳥居の先を左折、寺町へ向かう。

 

 石垣の向こうに寺の大屋根。

両側に聳える石垣の石の量に圧倒される。

辻堂がある。

多分、地蔵だろう、よくわからない石仏が鎮座している。

信心深い街で、四辻だけでなく、道の片隅に、石積みの一部に穴をあけて、小堂がいくつもある。

下は、京阪坂本駅前の風景。

短時間の坂本石仏巡りは、これで終了。

石仏というより、石積み・石垣巡りだった。

翌日、比叡山を回ったので、合わせて1本にまとめるつもりだったが、容量オーバーになりそうなので、2本に分割することにする。

従って、坂本分は、これで終わり。

坂本には、この他、千躰地蔵尊や

明智光秀の菩提寺西教寺などがある。

西教寺は来迎二十五菩薩群像など、石仏の宝庫だが、今回は時間がなくカット。

カットせざるを得ないのは、高校時代の友人のお通夜に参列するため。

前回、西教寺へは、彼に案内されて行ったのに、と心が沈み込む。

友人の死は、少年時代を回想させ、感慨もひとしお、孤独な夜だった。

 

 

 

 


108 佐渡の義民碑(下)-天保の一揆ー

2015-08-01 05:43:05 | 石碑

佐渡の天保の一揆は、別名、善兵衛騒動と呼ばれます。

 義民中川善兵衛肖像(『近世の羽茂』より)

それほど義民中川善兵衛が、主人公として際立った一揆でした。

羽茂の気比神社に立つ「中川善兵衛追遠碑」は、明治16年の建立。

撰者円山葆(しげる)こと円山溟北は、明治期の佐渡教育会の父と呼ばれた学者。

天保の一揆の時は、江戸で遊学中でしたが、善兵衛と同時代人、碑文の撰者として最適格者だと云えるでしょう。

碑文は、1176字の長文の漢文。

善兵衛を中心に天保の一揆を詳述しています。

今回は、この「中川善兵衛追遠碑」(の書き下し文)をベースに天保の一揆を振り返ります。

天保之初。海内大飢。吾州最甚。飢餓載路。(天保の初め、海内大いに飢え、吾が州最も甚だし。飢餓路に載(み)つ。)」

すべて事件には、その前兆があり、前史がある。

江戸三大飢饉の一つ、天保の飢饉は、天保4年(1833)から6年間、東北地方を襲った。

           凶荒図録より

餓死者が相次ぎ、米価は上がり、各地で一揆や打ち毀しが頻発した。

佐渡も例外ではない。

例外ではないどころか、どこよりも早く、文政12年(1829)には、凶作がはじまっていた。

天保になっても凶作は続き、佐渡奉行所は年貢米を蔵からだして飢える島民に支給します。

これは幕府の意向に反することだったが、民生を安定させる選択肢が他になかったのです。

米価の変動は激しく、莫大な利益を手にした米屋は、値下げ要求に耳を貸さず庶民の怨みを買った。

是の歳将軍新たに立ち、使を天下に分ちて、民の疾苦を問はしむ。使番木下内記等実に北国を巡視す。上山田村の民中川善兵衛之を聞き、蹶起して曰く、吾将に請ふ所有らんとすと」(以下書き下し文で)

天保9年(1838)、将軍となった徳川家慶は全国に巡見使を派遣する。

巡見使は、諸国の百姓の意見を聞くことが役目で「百姓共訴訟の事も候はば、少しも差控えず、訴状を以て申し出 候ように」(巡見先触れの御書付け)と苦情を申し出ることが推奨された。

  HP島根県「巡見使道」より借用

だから中川善兵衛が巡見使に訴状を提出しようとしたのは自然の成り行きでした。

中川善兵衛は羽茂・上山田村の若名主で34歳。

彼は、村山村の神職豊後や畑野村四郎左衛門と相談の上、3月から4月にかけて新穂村や畑野村で場所を変えながら秘密の会合を開き、訴状の内容を協議し、最終的に200か村の調印をまとめます。

ここでちょっと寄り道。

これまで佐渡の義民史というと、舟崎文庫の『佐渡一国騒動記』が底本でした。伊藤治一『佐渡義民伝』や小松辰蔵『佐渡の義民』、田中圭一『天領佐渡』も『佐渡一国騒動記』をベースにしています。しかし、「『佐渡一国騒動記』は軍記本で講談と大差なく真実とは程遠い」と批判する向きが出てきます。『近世の羽茂ー羽茂町史第3巻』がそれ。
『近世羽茂』の執筆者が参考にしたのは、『幕府評定所記録』。取り調べでの善兵衛の発言の記録を重視しようとするものです。
200か村の調印をまとめるまでの会合日時と場所も両者では微妙に異なります。
         佐渡一国騒動記       幕府評定所記録
最初の会合   3月8日 新穂山王社     3月15日 八幡村八幡社
二度目の会合  4月12日 瓜生屋大日坊   3月18日 加茂明神
三度目の会合  4月16日 横山村蔵王権現  3月21日 瓜生屋大日堂
四度目の会合  4月17日 後山村本光寺   3月25日 横山村蔵王権現
願書提出場所       新穂村          和泉村     (『近世の羽茂』P741より)

どちらかが捏造したとしても、片方を参考にしたのではないか、それほど 違うようでいて、よく似ている。両者の差異は、江戸での評定所取り調べまで続きます。しかもややこしいのは、このブログのベースにした円山溟北撰「中川善兵衛追遠碑」の内容も、この両者と異なります。石碑なので字数が制限され、省略部分があるにせよ、独自の内容もあって 捨てがたい。私には、どれが史実に即しているか判断する能力はないので、既定方針通り、「追遠碑」をベースにして進めてゆきます。   

訴状は18か条からなり、三つに大別されます。

その第一は、税の二重課税の廃止。

例えば(第1条)五斗入り一俵で年貢を納める時、百石につき四石の口米(年貢米納入時に目減りした分を補う付加税)を別納させるのはは二重課税だ、など。

その二は、広恵倉の廃止。(注1)

その三は、奉行所が握っている許認可権を廃止して、他国出しの商売を自由にさせろという要求。

その四は、役人の不正。相変わらず賄賂が横行していると具体例を挙げる。

『佐渡義民伝』や『佐渡の義民』では、巡見使に訴状を手渡すことが、奉行所の役人の妨害で、いかに困難だったか記述されているが、「追遠碑」ではすんなり受け取ってもらえたようです。

   北陸街道巡見使行列復元(出雲崎市)

使者曰く、越訴は事重し、吾の専断するを得るの所に非ず。今姑(しばら)く封書を受けん。」

「明日相川の宿舎にきてくれ。いくつか質問もあるから」と云われ、善兵衛は相川へ行きます。しかし、門番は巡見使に取りつがない。取りつがないどころか、役人たちは善兵衛を逮捕しようとします。

善兵衛曰く、公未だ情を知らざるのみ、さきに上使、封を受く而して令して使館に来たれと曰う、公焉んぞこれを阻むことを得んと

この間、巡見使は相川を出発して小木に向かっていた。やっと逮捕を免れた善兵衛は、小木へと巡見使をおいかけます。善兵衛に従って宿舎の門外に集まった百姓たち300人余を、役人たちは道路の両側をふさいで、閉じ込めてしまう。

黎明、使者、隙を窺ひ、将に船に上がらんとす。善兵衛纜(ともづな)をとりて命を請ふ。纜絶へ、沙に伏して号泣す。舟行くこと飛ぶが如し。幕政は凡そ訴ふる者を聴かず」。

「幕政凡訴者不聴」に撰者の怒りが込められている。

上使の裏切りに落胆し、号泣する善兵衛をさらに追い詰める出来事が・・・

役人が善兵衛を逮捕して相川に押送したのです。

善兵衛逮捕の報は島全体にあっという間に広がり、八幡野に集まった島民はおよそ1万人(『佐渡の義民』では7万)。

興奮した群衆は、相川に八幡野の情勢を通報した八幡村の名主の家を打ち毀します。

皆謂ふ火を放ちて獄を毀し、善兵衛を奪ひ、贓吏を殺戮せよと。郡吏、正房(佐渡奉行鳥居正房)に説きて曰く、愚民蠢動す、是れ小事に非ず、姑(しばら)く善兵衛を出して之を紓(と)くに如かずと、乃ち放ち出だす

釈放されて来た善兵衛に、八幡野では歓喜の声がこだまする。

誰ともなく、「奉行所と結託して利益をむさぼり、善兵衛逮捕に協力した小木の問屋は許せない」と声が上がる。

「そうだ、やっちまえ」、賛同する声が四方から飛び交う。

善兵衛手を揮(ふ)って曰く、是れ乱民なり、敢て行くべからず」。

「手荒な事をすれば願い筋への差しさわりになる。是非止めてほしい」と善兵衛はみんなに懇願する。

しかし、興奮した群衆は善兵衛の頼みにも耳を貸そうとしない。

「お前様には迷惑はかけないから」と一斉に小木にむけて駆け出した。

遂に隊を結びて四散し、民屋を発(あば)き、使館を毀ち、勢い極めて猖獗す」。

暴徒が向かったのは、大別して3種類。

小木問屋衆と米商人それに一揆に対しての非協力者。

打ち毀された小木の問屋は9軒。

奉行所に取り入り利益をむさぼるばかりか、善兵衛上訴を妨害し、逮捕に協力的だったから、まず一番に狙われた。

HP 八戸市博物館より借用

各村々の米屋も襲撃された。

相次ぐ飢饉での米価高騰は彼らに莫大な利益をもたらした。

前浜から羽茂の7か村9軒の米屋がやられた。

佐渡の天保の一揆が、前の寛延、明和の一揆と違うのは、打ち毀しをともなったことにある。

寛延や明和の一揆は、寛延の越訴、明和の強訴とした方がいいかもしれない。

折しも暴風での高波を避け、小木港に避難していた船300艘。

打ち毀しの惨状を目の当たりにした船頭は、逃げるようにシケの海に漕ぎ出していきます。

佐渡の一揆は、こうして港々に伝わり、かくして「変、江戸に聞こゆ」。

前年、大坂での大塩平八郎の乱は、記憶に新しい。

事件の拡大を怖れた幕府は、篠山佐渡奉行を帰任させるにあたり、高田藩兵500人を同行させ、鎮圧にかかる。

是に於て、善兵衛再び逮捕に就く。並びに其の党六人、皆獄に下る

善兵衛とともに逮捕されたのは、村山村の神職・宮岡豊後、上山田村・助左衛門、畑本郷村・四郎左衛門、同・李左衛門、加茂村・半左衛門の5人。

己亥 江戸に押送す。獄に在ること七日にして、七人皆痩死す。嗚呼 奇怪なるかな」(*宮岡豊後は相川で獄中死)

翌天保10年、裁判を江戸評定所に移すことになり、一同は4月3日、伝馬町に入牢した。

 牢屋敷跡地の大安楽寺(小伝馬町)

打ち毀し各所のリーダー12人を含め、百姓18人は4月15日に伝馬町から品川溜りに移され、1週間を経ずしてほぼ全員が病死する。

病死というのは評定所の記録で、「奇怪なる」この連続変死は、巷間、毒殺によるものと云われている。

寛延の一揆では2人、明和の一揆では1人だった義民の犠牲者は、天保の一揆で、一挙に19人を数えた。

しかし、天保11年(1842)、新任佐渡奉行川路聖謨が言い渡した判決では、獄門は善兵衛、死罪は宮岡豊後の2人だけ。

残りは遠島から所払いまで軽重さまざまなれど、その判決を生きて受けた者は一人としていなかった。

役人側は、奉行鳥井正房が御役御免になった。

奉行正房免に坐す。余は皆無罪と云ふ。甚だしき乎」。

そして、撰者・円山溟北は、かく悼む。

善兵衛身を以て国に殉(したが)ひ、反って煽動者の誤まる所と為り、徒らに獄中に死す。悲しいかな善兵衛の死、今を距ること殆ど五十年。民の思慕、猶ほ昨日の如し」。

以上、天保の一揆の顛末記は終わり。

参考図書によって、日時と場所、人物がいろいろと食い違い、どれが真実に近いか判断不可能。

今回ベースにした「中川善兵衛追遠碑」の記述も信頼できるかどうかわからない。

そのつもりで読んでいただきたい。

食い違いは細部にあって、大筋では差異は少ない。

だからストーリーは、大体こんなものでしょう。

事件の流れにばかりとらわれて肝心の石碑、石塔をないがしろにしてきた感があるので、話をもとに戻そう。

天保の一揆関連の石碑といえば、中川善兵衛、法名光明院普観長善居士につきるでしょう。

彼の墓は、上山田村の通称「善兵衛平」にある。

覆い屋の下にある供養塔は、天保の一揆から50年後の明治20年に建立された。

中央に、光明院普観長善居士(善兵衛)、右に源保只正(宮岡豊後)、左に指月院稱国茂雄居士(大倉助左衛門)が刻されている。

大倉助左衛門は上山田の人。

訴状を清書しただけなのに、品川溜で「病死」した。

この善兵衛平には、寛延と明和の義民碑もある。

 

中央に、明和一揆の権大僧都法印憲盛、右に忍誉蓮心居士(太郎右衛門)、左に釈涼敬(椎泊村・弥次右衛門)と寛延の犠牲者二人の供養塔。

天保の一揆の3年前、天保6年建立だから、善兵衛は施主の中心メンバーだったのではないか。

5年後、自ら同じ運命をたどることになろうとは、つゆ思わずに・・・

寛延の太郎右衛門、明和の遍照坊智専、天保の中川善兵衛の3人だと、中央は遍照坊智専が占めるケースが最も多い。

時代順で2番目だからでもあるが、百姓の身代わりになった犠牲者のイメージが強いからだろうか。

寛延の一揆では、義民それぞれの顕彰碑が村にあるが、明和の一揆では、法印憲盛、天保の一揆では、善兵衛の石碑ばかりで、他の義民の供養塔はほとんど見かけない。

天保の一揆では、加茂村の後藤半左衛門の供養碑が例外的な存在。

加茂歌代の開発センターは、その昔、お堂だったのでしょう。

センター前には10数基の石碑が並んでいる

が、玉垣で囲われ、ひときわ手厚く保護されているのが、半左衛門供養塔。

右から2番目、玉垣の中におわすのが「一国義民後藤半左衛門殿碑」

半左衛門の人となりを『佐渡の義民』は次のように述べている。

少し長いが引用しておきます。

 「半左衛門に加茂郡一国惣代を依頼すべく訪問した善兵衛は、大小を腰にさして武士に変装、わざと麦畑を踏みつけて歩いた。これを見た半左衛門は『そこを通るは犬か猫か』と叱咤した。『侍に向かって犬猫とは無礼千万』と善兵衛が云うと「百姓が汗水流して作った麦を踏みあるくのは、犬猫同然ではないか」と答えた。『しからば道の草をなぜ刈らぬ。道は道らしくするものだ』との悪罵には『去年からの不作で百姓は生きてゆくのがやっと。道の手入れなどやっていられない。侍の癖に百姓の難儀を知らぬのか、まぬけめ』と怒鳴り返した。善兵衛は感激しながらも『不届きもの、覚悟せよ』と刀に手をかける。少しも恐れることなく『勝手にせよ』とあぐらをかく半左衛門に『半左衛門殿、失礼した』と身分を明かし陳謝して、一国惣代になってくれるよう心から頼んだ」。

江戸の牢中で「病死」した時、半左衛門61歳。死後告げられた罪名は遠島だった。

法名、一以貫通居士。

 

佐渡の一揆を、(上)寛延の一揆、(中)明和の一揆、(下)天保の一揆と3回に分けて見てきた。

栗野江・城が平の一国義民殿に祀られている義民は、23人。(慶長の一揆は外して)

しかし、何度も言うが、寛延の一揆を例外として、明和、天保の一揆では、法印憲盛と善兵衛以外の義民供養塔は極めて少ない。

では、彼らの名前や戒名はどこにもないかというとそんなことはないのです。

義民合同供養塔とも言うべき石塔にその名が刻されています。

合同とはいえ23人全員ではなく、その人数と人選はバラバラで、村や建立年によって異なっている。

写真フアイルにある義民合同供養塔を並べておきます。

刻されているのは誰なのか、肝心の法名が判読できない碑面が多いので、ここに書き出すつもりだが、縦書きの碑文を横書きにするのは、なんとなく座りが悪い。

そこで、祝勇吉さんの労作『佐渡島内石仏・石塔集大成』から祝さん作成の手書き碑面を写真にして載せておきます。

碑文の右側のフリガナは、祝さんがつけたもの。

〇常信寺(東二宮)

 

 

平屋の民家風で見逃すところだった。

背後の墓地で寺だと分かった。

左端に顔を出しているのが、佐渡最高峰の金北山。

ここらあたりが金北山が見える西の限界地点か。

義民合同供養塔を探すが、見つからない。

無住だから訊きたくても人がいない。

困り果てていたら、なんのことはない、墓地の入口に放置されていた。

合同供養塔というので「大きい」と思い込んでいたのが、災いした。

70㎝くらいの自然石で、白いコケがスポットライトのように見える。

 

 参考のために、一国義民殿に祀られている義民26人の名前と法名一覧を載せておく。

 

◆慶長の義民(慶長8年(1603

新穂村 半次郎
北方村 豊四郎
羽茂村 勘兵衛(臼井氏)

◆寛延の義民 寛延2年(1749

A-1 辰巳村 太郎右衛門(本間氏) 「忍誉蓮心居士」宝暦2-7-18
A-2 椎泊村 弥次右衛門(緒方氏) 「釈涼敬」宝暦2-7-18
A-3 椎泊村 七左エ門(本間氏)
A-4 川茂村 弥曽右衛門(風間氏)
A-5 吉岡村 七郎左エ門(永井氏) 「真密院浄戒法子」明和2-4-5
A-6 新保村 佐久右衛門(本間氏) 「浄覚俊明庵主」宝暦9-10-15
A-8 泉村 九兵衛(久保氏) 「即應浄心沙弥」安永8-6-14

◆明和の義民 明和4年(1767

B-1 長谷村 智専(遍照坊) 「権大僧都法院憲盛」明和7-3-21
B-2 畑野村 文左エ門(熊谷氏)
B-3 畑野村 藤右衛門(本間氏)
B-4 畑野村 六郎右衛門
B-5 小倉村 重左エ門(中村氏)
B-6 小倉村 重次郎(中村氏)
B-7 後山村 助左エ門(羽二生氏)
B-8 舟代村 五郎右衛門(後藤氏)
B-9 瓜生屋村 仲右衛門(本間氏)

◆天保の義民 天保9年(1838

C-1 上山田村 善兵衛(中川氏) 「光明院普観長善居士」天保10-4-23
C-2 上山田村 助左エ門(大倉氏)「指月院稱国茂雄居士」
C-3 村山村 豊後(宮岡氏) 「源保忠正」天保10-2-24
C-4 畑野村 四郎左衛門(後藤氏) 「一国院園観居士」天保10-4-24
C-5 畑野村 李左衛門(中川氏) 「本有院光栄居士」天保10-5-3
C-6 加茂村 半左衛門(後藤氏) 「一以貫通居士」天保10-8-17

 

 〇地蔵堂(河崎)

 

 

晃照寺への坂入口の群碑の中に義民合同供養碑がある。

碑面に8人の法名、台石に8人の名前が刻されている。

  

〇大光寺(豊田)

 

 

境内にも墓地にもない。

諦めて車に乗ろうとしたら、目の前にあった。

寺からちょっと離れて、道に面して、囲いの中に堂々と立っている。

上段横に右から「一国義民」、その下2段上下に7人ずつ14人。

上段中央は、法印憲盛、下段中央は中川善兵衛。

〇地蔵院(滝平)

 

 

地蔵院の石仏群は、いい。

参道石段入口に立つ2本の石柱に坐す十一面観音(左)と地蔵(右)が素晴らしい。

その左に並ぶ石仏群の中に私の大好きな3猿庚申塔がある。

義民合同供養塔もこの石仏群の中にある。

上段に4人、下段に各霊位の両脇に5人ずつ10人、計14柱の法名が読める。

上段の指月院稱国英雄居士は、上山田村の大倉助左衛門。

太郎兵衛よりも椎泊村の弥次右衛門が上位にあるのも珍しい。

どんな理由があるのだろうか。

 〇阿弥陀堂(山寺)

 

 

石碑、石塔を探し求める旅は、私にとって新しい佐渡との出会いの旅でもあります。

車で随分あちらこちら走り回った気がするが、佐渡は奥深い。

まだまだ、初めての土地にぶつかったりします。

山寺もその一つ。

赤泊から東光寺に向かう旧殿様道にあるのだが、今は県道65号真野赤泊線ばかり利用するから、つい初めての道になってしまう。

東光寺から海岸に向けてどんどん下ってゆく。

どこかで訊かないと赤泊に行ってしまうぞ、と車を停める。

運よく、向こうから人が歩いて来る。

「阿弥陀堂はどこですか」と訊いたら「ついてこいっちゃ」。

なんと阿弥陀堂は、運のいいことに、その人の家の後ろにあったのです。

阿弥陀堂への道の右側に宝篋印塔と並んでこれまた大きな供養塔。

最上段に「佐渡 殉国 義民 追慕 之碑」と右から縦書きで2文字ずつ5行。

その下に片岡太郎右衛門と椎泊弥次右衛門、中央に遍照坊智専、左に中川善兵衛の4人の名前。

 

大きい碑なのに4人だけなのは、その下にそれぞれの略歴があるから。

ちなみに、中川善兵衛の略歴は下記の通り。

「天保ノ変災我州最モ甚シク餓死スル者多シ 上山田村善兵衛意ヲ決シ同志ト計リ宝暦以来ノ時弊十八ケ条ヲ具し幕吏ニ訴フ 遂ニ捕ヘラレテ江戸ニ押送リセラレ天保十年四月二十三日獄に死ス」

「明42年9月建設 山寺郷中外有志者」とあり、珍しく石工名が刻まれている。

「石工 大字滝平 和泉幸吉」

〇養禅寺(赤泊・新保)

 

 

山寺から南へ走り出す。

すぐ海岸線に出る。

右折して小木方向へ。

新保の養禅寺にも義民合同供養塔がある。

上段に3人、中段6人、下段5人の計14人の法名が刻されている。

 

上段は、右から善兵衛、遍照坊智専、椎泊村弥次右衛門の3人。

太郎右衛門ではなく、弥次右衛門であるのが、珍しい。

珍しいと云えば、碑面の右側「天下泰平」の下の「昆虫退散」。

虫供養百万遍念仏を思い出させる4文字です。

そういえばこの地域は今でも百万遍念仏が行われているようです。

供養塔の前に広がっているのは、越佐海峡。

佐渡とはいえ国中ばかり回っていると島であることを忘れてしまう。

久しぶりの海に島であることを再確認。

 

(注1)広恵倉(こうえそう)は、佐渡奉行所の地役人田中従太郎の建白により設置された。その目的は、①米価が安い時米を買い置き、高い時売って得た利益で貧民を救済する。広恵倉設立のため、百姓も一石52文の出金をする。②とめどなく進行する窮乏化を防ぐには、他国品を買うばかりで、増大する一方の金銀の流出をストップしなければならない。そのためには、他国との交易が不可欠だが、他国商品を特定商人に買わせることによって、他国商人の横暴を抑え、他国商品販売の主導権を佐渡側に奪回しなければならない。

広恵倉は、ほんの初期の間、田中従太郎の理想通りに機能し、運営されるが、やがて島民の期待を裏切るようになる。文政11年(1828)の不作に、奉行所は、広恵倉の米を買って年貢を納めるよう、百姓を指導する。広恵倉があることが、年貢納入を強制することとなった。悪いことに、広恵倉に売った時は、1俵5斗2升入りだったものが、払い米の1俵は4斗6升でしかなかった。百姓たちが怒るのも無理はない。

また、特定商人に他国との交易権を認めたことは、自由に商売することを妨げることになり、不平不満が続出する。

天保一国騒動の判決で、幕府評定所は、二重課税については認めなかったが、広恵倉についてはその機能停止を命じた。以降、広恵倉は、公的金貸し機関と堕して行く。島の商品流通は混迷を深め、他国に販売する商品の規格は崩れ、値段は下落した。佐渡の商品は信用を失い、他国で売れにくくなった。島民の生活は、困窮の度合いを深めていくことになる。(田中圭一『天領佐渡』より丸ごと流用)

 

 

≪参考図書≫

〇『近世の羽茂―羽茂町史第3巻ー』羽茂町 平成5年

〇祝勇吉『佐渡島内石仏・石塔など集大成(義民碑編)』昭和63年

〇山本修之助『佐渡碑文集』佐渡叢書刊行会 昭和53年

〇田中圭一『天領佐渡(1)』刀水書房 1985

〇伊藤治一『佐渡義民伝』佐渡農事協会 昭和13年

〇小松辰蔵『佐渡の義民』佐渡観光社 昭和42年

〇北見喜宇作『課税の変遷と佐渡義民始末』金沢村教育会 昭和13年