京阪電車を終点の坂本駅で降りる。
坂本は、これで2度目。
前回は、大津市在住の高校時代の親友が案内してくれた。
今回、彼の案内はない。
脳梗塞で倒れ、搬送先の病院で死亡、その通夜式参列のため大津へ来たのだった。
夜の葬儀まで時間がある。
坂本の町をぶらり歩いてみることにした。
時おり出くわす石仏に手を合わせ、般若心経を唱えるのが、自分なりの供養のあり方だと思い、そのつもりで歩き出す。
坂本とは、どんな町か。
坂本観光協会のパンフレットの書き出しは、こんな具合です。
「坂本は三塔十六谷、三千坊と云われる権勢をふるった比叡山延暦寺の台所を預かる町として栄え、琵琶湖に面した下坂本港が開け、都への交通の中継地となっていたため多くの物資が坂本へ集められ、一大商業地としても繁栄しました」
坂本駅前の道路は、日吉馬場。
日吉大社の参道です。
駅改札を出ると正面に「世界文化遺産比叡山延暦寺」の文字。
その上に「石積みの門前町坂本」の文字も。
穴太(あのう)衆が築いた石積み(石垣)が街の各所に展開して、坂本の石造物といえば、石積みと云って過言ではない。
司馬遼太郎も『街道をゆく・叡山の諸道』の中で、「坂本の町にあっては石垣の美しさを堪能すべきだが、さらにはこの技術の伝統を背負った近江の穴太(あのう)衆への敬意をわすれるべきではない」と書いた。
坂本観光協会の観光マップ
心して見て回ろう。
日吉馬場を上る。
100mも行かない右側にあるのが、生源寺。
伝教大師最澄生誕の地がセールスポイント。
当然、産湯を使った井戸もあります。
境内の片隅に、まるで忘れ去られたように石仏群がある。
多分、中世のものだろう。
とろけたようになって、顔、形はその輪郭だけがうっすらと残っている。
鎌倉を除いた関東では、余り見かけないが、近畿地方ではこればっかり。
生源寺前の信号を左折、日吉馬場の東側へ進む。
どっしりと風格のある建物だなと思ったら、蕎麦屋だった。
ぶっかけそばを注文する。
建物の格式に「ぶっかけ」は似合わない気がするが、まあまあの味だった。
道の両側の家の軒先に暑気払いの工夫がみられる。
東京郊外の造成団地では決してみられない、由緒ある町ならではの光景。
塀の上に三猿がいる。
石屋の製品置場の外壁だから、さだめし商品サンプルというべきか。
今気が付いたのだが、この日、半日歩いて、坂本では三猿つきの庚申塔に出会わなかった。
作り道を右折して、道幅の広い坂道へ。
地図では「権現馬場」となっている。
山門に「延命地蔵尊」の石柱があって、中に坐している地蔵が見える。
権現馬場を上ってゆくと右手に長い石垣が伸びている。
うっかり「石垣」としたが、「石垣」は「石積み」とは違う。
何が違うかと云うと「石積みの裏にこぶし大の裏込め石を入れて、排水対策をしてある」のが「石垣」。
しかし、裏込め石を入れてあるか、ないか、私には判らないので以下、全部、石積みとします。
この東西に長い石積みの先は、坂本で最大規模の滋賀院門跡の石積みに連なっている。
滋賀院には、天台座主(住職)が常住して延暦寺運営の中枢がおかれていた。
一方、門跡とは、皇族や摂関家などの子弟が出家して相承される寺院をいい、天台座主職には親王などが就任することが多く、滋賀院門跡と呼ばれていた。
滋賀院が門跡寺院である証拠みたいな石造物が、滋賀院門跡の背後にある慈眼堂にある。
慈眼堂は、家康、秀忠、家光三代にわたり宗教顧問を務めた慈眼大師天海大僧正を祀る廟。
天海は、信長の比叡山焼き討ちで荒野と帰した坂本の町の復興に尽力し、滋賀院を建立した。
慈眼堂の墓域には、後水尾天皇、後陽成天皇を供養する石造九重塔が並んでいる。
後水尾天皇供養塔 後陽成天皇供養塔
後水尾天皇は「滋賀院」と命名され、後陽成天皇は御所の一部を滋賀院の建物にすべく下賜されたと云われている。
中央の宝塔は、桓武天皇供養塔。
桓武天皇の勅命で最澄は比叡山延暦寺を開山した。
中央におわす十分な理由がある宝塔供養塔なのです。
無縫塔には「慈眼大師塔」と刻され、
その右隣は、東照大権現供養塔です。
面白いのは、墓域右端の3基の石造物。
左から、清少納言、和泉式部、紫式部ですが、この3人と同時代の比叡山の僧侶と云えば、往生要集を著した恵心僧都源信。
『源氏物語』に「そのころ、横川に、なにがしの僧都とかいひて、いと尊き人すみけり」と紫式部が書いた僧都のモデルは源信だったというもの。
末法の時代を生きる人々を、口称念仏という誰にでもできる易しい行為で極楽に誘う僧侶として、紫式部は源信を描いたのでした。
墓域を見下ろすように並ぶ13体の阿弥陀如来坐像も見逃せない。
同じ大きさ、同じ造容のこの阿弥陀如来坐像は、観音寺城城主・佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため鵜川の地に46体建立したものを、江戸時代初期、天海僧正が内13基をこの地に移したもの。
慈眼堂は、石仏愛好家には見逃せない場所ということになる。
慈眼堂の墓地を西へ抜けると林の中の小道に出る。
真っ直ぐ行くとケーブル坂本駅。
右へ曲がって権現川を渡る。
両側が石積みの、いかにも坂本らしいムードの道が伸びている。
道路には「穴太衆積み」のプレートが嵌め込まれている。
穴太衆のルーツは朝鮮半島にあると云われている。
同じく渡来氏族の最澄の依頼に応じて、比叡山延暦寺の堂塔建設に従事しながら、彼らは石積みに特化した石工集団となっていく。
だが、1571年、織田信長の焼き打ちで転機が訪れる。
焼け残った石垣の堅固さが信長の目に留まり、安土城の石垣造りに駆り出されたことで、一地方の職人集団だった穴太衆が世に出たというのです。
この安土城築城きっかけ説には異論もあるが、秀吉の大阪城、家康の江戸城を初め、関ヶ原以降の城普請ブームの主役の一翼を穴太衆が担ったことは否めない。
両側が石積みの道を歩いてゆくと日吉大社参道の日吉馬場にぶつかる。
ぶつかったら右へ下るとそこが里坊旧白毫院の「芙蓉園」。
穴太衆積の洞窟があることで有名です。
穴太の石積みは、野面(のづら)積みといって、自然石を巧みに組み合わせた手法です。
人工的に加工した石材を使用する「切り込みはぎ」や「打ち込みはぎ」に比べると自然石だけて積み上げるところに特徴がある。
大石と大石の間に小石を詰め込む野面積は、一見、粗雑にみえるが、崩れにくく堅牢。
野面積みの技法の奥義は口伝としてしか伝えられていないが、「石の声を聴き、石の持って行って欲しい所へ持って行け」というのが、その真髄だと云われている。
日吉馬場を横切って西側の旧竹林院へ。
この竹林院も里坊でした。
坂本には約50の里坊がある。
里坊は、山坊の対語。
山坊は、比叡山の僧侶が仏道修行する場を意味する。
対して里坊は、その修行の厳しさに堪えられなくなった老僧や病弱の僧徒が隠居保養するための場所を意味します。
里坊の多くは、穴太衆積みの端正な石垣によって造成されている。
ここ旧竹林院の山門の佇まいには、風格や気品があります。
国名勝指定の庭園には、地形を巧みに利用した滝組と築山を配し、しっとりとした風情を醸し出している。
「心を落ち着けて景色を観ることで悟りの境地に達する」という仏教の教えに沿って作られた、とは坂本観光協会のパンフレッドの文章。
それなら山坊での厳しい修行など不必要となりはしないか。
旧竹林院を出て、左へ進むと正面に止観院。
止観院は、坂本里坊の総元締めともいうべき存在で、坂本全体の行政を執り行い、延暦寺領の年貢徴収を掌り、御白洲もあって、司法権限まで有していた。
写真は止観院前(左が止観院)。
マンホールと電柱に目をつぶれば、往時そのままの光景といっていい。
こういう景色が坂本では随所に見られます。
この疎水沿いに上流に向かって100m、日吉三橋の一つ、二宮橋が見えてくる。
日吉は、勿論、日吉大社のこと。
広大なその境内地を流れる大宮川に3本の橋が架かっている。
いずれも穴太衆の手になる橋で、3本とも国の重文。
寄進者は豊臣秀吉、という説が強い。
幼名が日吉丸だったから、日吉大社に親近感があった。
いや、信長に猿よばわりされ続けたから、神の使いが猿の日吉大社に惹かれた。
どちらがウソで、どちらがホントか。
橋はまるで木橋みたい。
緩やかなアーチはとても石造物だとは思えない。
二宮橋の上流の大宮橋はもっと手が込んでいる。
欄間細工は木製品そのものの様。
橋の袂の説明板の一部を引用しておく。
「大宮橋は、西本宮(大宮)へ向かう参道の大宮川にかかる花崗岩[かこうがん]製の石造反橋[そりはし]ですが、木造橋の形式をそのまま用いています。
幅五・〇メートル、長一三・九メートルで、川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、貫[ぬき]でつなぎ、その上に三列の桁[けた]をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡しています。
両側に格座間[こうざま]を彫り抜いた高欄[こうらん]をつけるなど、日吉三橋のうちでも最も手が込んでおり、豪壮雄大な構造の、代表的な石造桁橋です。」
「青かへでの 三橋の茶屋に おり着きぬ 井泉水」
3つ前の写真に戻って、二宮橋の先、一番奥が日吉大社東本宮。
日吉大社は、大山咋(おおやまくい)神を祀る東本宮と大己貴(おおなむち)神を祀る西本宮からなる。
広い境内には、燈籠を除いてみるべき石造物はないので、パスしてもいいが、日本屈指の神社なので、少しばかり(受け売りでにわか仕込みの)説明をしておきます。
日吉大社が琵琶湖西岸のローカル神から全国規模のスーパー神社になったのは、「山王さん」のおかげでした。
山王さんとは、山王権現のこと。
最澄は比叡山延暦寺を開山するにあたり、日吉大社の大山咋神と大己貴神の2神を寺の鎮守神とした。
仏や菩薩が仮の姿で神(権現)となるという考えから、日吉大社の神は「山王権現」とされた。
天台宗寺院には、山王さんこと山王権現が鎮守として設けられたから、宗派の伸長拡大とともに山王さんも全国にひろがって行った。
現在、山王さんの数は3800社。
その総本社が、ここ日吉大社なのです。
東本宮の参道に注連縄を張った岩がある。
猿岩だそうだ。
日吉大社の神の使いは猿。
「神猿」と書いて「まさる」と読む。
神猿は魔除けの神だから「魔が去る」で「まさる」なのだそうだ。
同時に「勝る」でもあって、勝ち運、必勝を叶えてくれるという
自然石で石造物ではないが、そのこじつけの妙に感心して紹介しておく。
ところで西本宮参道には、「神猿」の看板の下に生きた猿がいる。
檻の中で元気なくしょぼんとした情けない姿は、とても神の使いとは思えない。。
言葉あそびは、脳内プレイに止めておいた方がよさそうだ。
これだけの大社なのに、句碑もなければ、顕彰碑もない。
燈籠も少ない。
一つだけあった。
西大社門前の宝塔。説明板がないから、由来は分からない。
日吉大社を後にして、もと来た道を戻る。
日吉馬場の西側歩道を下る。
左に石積みの上に白壁の、右に疎水が流れる、坂本らしい雰囲気ある道がまっすぐに伸びている。
日吉馬場から白砂の枯山水が流れ落ちているのは、律院の山門。
左右両側の石垣がどっしりと堅固、まるで武家の門のようだ。
山門を入っても白砂の流れは続いている。
その流れに沿って奥に進むと境内が広がっている。
その意外な広さに誰もが驚くだろう。
すっくと立つ銅像は、叡南(えいなみ)祖賢和尚。
終戦直後、比叡山の千日回峰行を満行した伝説的和尚。
人手に渡ろうとしていた里坊を、律院として復活させた。
風格ある層塔があるかと思えば、
変哲もない石仏群もある。
だけど、台石に頭が乗っている、これは一体何なのだろうか。
日吉馬場を下り、鳥居の先を左折、寺町へ向かう。
石垣の向こうに寺の大屋根。
両側に聳える石垣の石の量に圧倒される。
辻堂がある。
多分、地蔵だろう、よくわからない石仏が鎮座している。
信心深い街で、四辻だけでなく、道の片隅に、石積みの一部に穴をあけて、小堂がいくつもある。
下は、京阪坂本駅前の風景。
短時間の坂本石仏巡りは、これで終了。
石仏というより、石積み・石垣巡りだった。
翌日、比叡山を回ったので、合わせて1本にまとめるつもりだったが、容量オーバーになりそうなので、2本に分割することにする。
従って、坂本分は、これで終わり。
坂本には、この他、千躰地蔵尊や
明智光秀の菩提寺西教寺などがある。
西教寺は来迎二十五菩薩群像など、石仏の宝庫だが、今回は時間がなくカット。
カットせざるを得ないのは、高校時代の友人のお通夜に参列するため。
前回、西教寺へは、彼に案内されて行ったのに、と心が沈み込む。
友人の死は、少年時代を回想させ、感慨もひとしお、孤独な夜だった。