石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

48 シリーズ東京の寺町(3)ー中野区上高田ー

2013-01-22 09:38:24 | 寺町

地下鉄東西線落合駅を出て、早稲田通りを中野方向へ。

そこが、もう、上高田の寺町。

道の右側に八つの寺が行儀よく並んでいます。

いずれも明治39年から42年にかけて、浅草、牛込、赤坂などから移転してきたもの。

 

 

地図を左にスクロール、落合駅から二つ目の信号が新宿との区界。

その三差路に、六字名号塔がある。

 

 区界の交差点、左のビルは東京愛犬専門学校       南無阿弥陀仏名号塔

西国坂東秩父百番供養塔を兼ねた「南無阿弥陀仏」の文字塔。

「寛政十二年(1800)庚申八月吉日」と刻まれている。

又、地図を左にスクロール。

寺町の東端、正見寺は、この六字名号塔から西へ3分もかからない。

 早稲田通り。道の向こうに正見寺

浄土真宗本願寺派正見寺(上高田1-1-10)

境内に入る。


             正見寺

石造物が皆無だから、真宗寺院だとすぐに分かる。

唯一の彫像、親鸞聖人銅像を見上げながら墓地へ。


 墓地入り口に立つ親鸞銅像

江戸三美人の一人、笠森お仙の墓があるはずだが、一部ガイド誌によれば、子孫の要望で墓は非公開ということなので、探すのをあきらめた。

鈴木春信の浮世絵を代わりに載せておく。

墓地には、京都大学西田幾多郎門下の哲学者三木清の墓もある。

三木家の墓の左側面に「真実院釋清心」の法名。

 三木家之墓

「真実院」が学者らしくて、いい。

三木清は1945年9月26日、豊多摩刑務所で死亡した。

太平洋戦争が終わって1カ月も経つのに、思想犯が投獄されていることに進駐軍は驚き、急いで治安維持法を撤廃したという。

 

曹洞宗青原寺(上高田1-2-3

5日前に雪が降った。

山門を入ると雪だるまが迎えてくれた。

             青原寺

本堂左から墓域へ。

左手には、寺町の墓域が西へ延びている。

  青原寺墓地から西方向を望む。左手高台に寺が並ぶ。

台地の上にあるから上高田。

寺の境内は台地の上に、墓地はスロープに配置されている。

境内1000坪、墓域1000坪。

青原寺が北青山からこの地に移転して来たのは、明治42年。

周囲は見渡す限りの畑だったから、8か寺が並ぶ風景は壮観だったに違いない。

この地域が住宅地になるのは、関東大震災後、昭和に入ってからのことです。

 

墓域中央にひときわ大きな笠塔婆。

 子爵脇坂家累代家族之墓

笠の下に家紋の「違い輪」がくっきり。

正面に「子爵脇坂家累代家族之墓」とあり、三面に64霊の法名が刻まれている珍しい家族墓標。

墓地の奥隅に無縁仏群のコーナーがある。

そこに見事な一石六地蔵がおわす。

青原寺には、当然、六地蔵はいらっしゃる。

新しくて、なんの変哲もない六地蔵で、これなら無縁仏群の一石六地蔵の方が格段にいいのにと、つい、批判がましくなってしまう。

 

 

浄土真宗大谷派源通寺(上高田1-2-7

 源通寺に河竹黙阿弥の墓があるのは、他の寺と同じように都心から移転してきたから。

            源通寺

源通寺は明治41年、東上野から移って来た。

墓域に入るとすぐ左に河竹黙阿弥の墓。

   河竹家の墓        吉村家の墓

左が河竹家、右が吉村家。

誰もが左が黙阿弥の墓と思うだろうが、実は、右の吉村家の墓に黙阿弥は眠っている。

通称は、吉村新七。

長く二世河竹新七を名乗り、黙阿弥は晩年の号。

墓前に花立も香炉もないのは、「一枚の木の葉で水を手向けてくれればいい」という黙阿弥の質素な考えからだと子孫による説明板にはある。

しかし、道楽の末、親から勘当され、遊蕩三昧だったとの記録もある。

 墓地手前右に初代河竹新七の墓がある。

      河竹新七墓

血縁はないが、名前を貰った報恩として、黙阿弥が義理堅く建てたものという。(解説板)

 

浄土真宗大谷派高徳寺

高徳寺は、、明治41年、浅草からここに移転して来た。

         高徳寺

高徳寺といえば、新井白石。

白石とその妻、それに一族の墓がずらりと並んでいる。

 

  新井白石一族の墓列 奥に白石夫妻の墓           左、白石  右、妻

父が浪人したため、苦学力行した。

『折りたく柴の記』に、9歳の冬を回顧した文章がある。

行書、草書の字を晝3000字、夜1000字を書きだすことを日課としていた白石は、夜、眠気に襲われた時、水をかぶって、眠気を払った。

水二桶づゝ、かの竹縁に汲(くみ)おかせて、いたくねぶりの催しぬれば、衣(ころも)ぬぎすてて、まづ一桶の水をかゝりて、衣うちきて習ふに、初(はじめ)ひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程経ぬれば、身あたゝかになりて、またまたねぶくなりぬれば、又水をかゝる事さきの事のごとくす。」

本堂裏にひと際高い墓がある。

 

表は「加藤家之墓」。

裏に回ると「長門裕之 南田洋子 建之」の文字。

墓誌には、長門の父沢村国太郎とその妻で女優のマキノ智子の名前がある。

ちなみに国太郎の弟は加藤大介、妹は沢村貞子です。

    加藤家の墓誌

江戸時代の人の墓ばかり回っていると、同時代人の墓はホッとする。

いろんなイメージが噴出して立ち去りがたくなります。

南田洋子は平成21年に亡くなったが、晩年は痴ほう症を患っていた。

夫裕之が痴呆の妻洋子を看病するテレビドキュメントは、胸をつくものがあった。

ほぼ同年代の二人だが、佐渡が島の少年には別世界の二人だった。

「十代の性典」など観ることなどとんでもない。

観ることが不良だった。

彼我の差は厖大だったが、あのドキュメントを観ながら、同じ地平に立って、同じ壁にぶつかっている戦友だとやっと感ずることが出来た気がした。

共通の敵は、「老い」である。

 

臨済宗龍興寺(上高田 1-2-12)

禅宗だから、境内に石仏がある。

 

         龍興寺                          不動明王

まず目につくのが、不動明王の浮彫り立像(寛文12年)。

本堂西側の墓地入り口には、地輪の三面に2体ずつの六地蔵五輪塔が2基。

 童女二人の六地蔵五輪塔墓標

右は、宝永4年(1707)、左は、宝永6年(1709)の年銘がある。

本堂真裏に大きな墓。

 柳沢吉保の側室(綱吉の愛妾)染子の墓

正面に「霊樹院殿月光寿心大姉」と刻されている。

五代将軍綱吉に重用され、大老にまでなった柳沢吉保の側室染子の墓です。

右側面に「施主甲斐少将吉保」の文字が読める。

これは、妾に対するものではなく、君主に対する書き方である、と断定するのは、『江戸・大名の墓を歩く』の著者・河原芳嗣氏。

河原氏によれば、「染子は、吉保にとって己が妾というより、あくまで大切に預かりしていた主君の愛妾だった」。

「染子は二男二女を生むが、その父のすべては綱吉であったと言われる」とも書いている。

墓域の隅に1基の地蔵菩薩。

 吉保、染子の娘幸子の墓

「早逝桃園素仙童女霊位」とある。

これだけは吉保と染子の子どもと言われる、夭折した娘・幸子の墓です。

 

綱吉は、中野区とは深い関わりがある。

綱吉の「生類憐みの令」は有名だが、保護された犬の囲い屋敷が中野区にあった。

現在の中野区役所を中心に30万坪、100ヘクタールの広さに8万頭を超える犬が囲われていたといわれています。

                   中野区役所の犬の群像

犬の養育費は、1頭当たり奉公人一人の俸給とほぼ同額で、何頭も養育する者は高給取りだった。

だから綱吉亡き後、生類憐みの令が廃されると、養育費の返還が求められ、48年にわたって返し続けたという逸話がある。

 

臨済宗松源寺(上高田1-27-3)

寺史によれば、麹町に開山、江戸城拡張に伴い牛込に移り、さらに明治39年現在地に移転して来たという。

 

            松源寺

江戸城拡張の為移転した寺は、江戸でも比較的古い方になる。

門前に猿の石像。

「昔、境内に猿をつなぎ置きたりとて・・・」(『江戸名所図会』)「さる寺」というらしい。

聖観音が2基、境内と墓地入り口にある。

 

境内の聖観音(寛文12年)  墓地の聖観音(元禄6年)

松源寺は宇都宮戸田家の菩提寺だから、戸田家の墓があるが、なじみがないのでパス。

墓地にある宝筐印塔をなにげなく見たら、台石に「元和元年」の文字。

 

      右の宝筐印塔の台石に「元和元年」の年銘

元和の年銘のある石造物は、東京では、滅多にお目にかかれない。

貴重品なのです。

 

曹洞宗宗清寺(上高田1-27-6)

 門前の石柱下部に「通称なが寺又たつ寺と云」とある。

       宗清寺山門と石柱

山門の天井に龍が描かれているから「たつ寺」と呼ぶのだとか。

墓地入口に、現代石造彫刻家長岡和慶氏作の六地蔵石幢。

 

 六地蔵石幢(長岡和慶作)                  無縁塔

その奥にピサの斜塔のような無縁塔がある。

前面下の阿弥陀如来には、「烏八臼」のマーク。

 

  阿弥陀如来石仏           烏八臼のマーク

半年ぶりに「烏八臼」に出会ったことになる。

(このブログ「石仏散歩」のカテゴリー「墓標」の中から「12 謎の烏八臼(ウハッキュウ)」)http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=f2cc6b4f647adf4f93183e423cb0ab6d

 

曹洞宗保善寺(上高田1-32-2)

牛込通寺町から明治39年にこの地に移転して来た。

    左、保善寺           右、宗清寺

門前に獅子像。

「獅子寺」とある。

三大将軍家光から獅子に似た犬を贈られた。

だから「しし寺」というのだそうだ。

幼稚園を経営している。

子どもたちの甲高い声を耳にしながら墓地へ。

紅い幟がはためいているので、近づいて見たら「こどもしあわせ地蔵尊」だった。

 

               こどもしあわせ地蔵尊

いかにも幼稚園のある寺らしいお地蔵さんである。

幼稚園に接している無縁仏群のなかに、丈余の地蔵菩薩。

 寛文6年(1668)造立の地蔵菩薩

「有縁無縁三界万霊」と刻されている。

寛文6年造立。

寛文年間の石仏の石材は、江戸城城壁の残材が多いと言われている。

大ぶりでゆったりした石仏が、寛文石仏の特徴といえようか。

 

 曹洞宗天徳院(上高田1-31-4)

 天徳院という寺は、金沢、高野山とここ上高田の三カ所にある。

      天徳院(上高田1-31-4)

天徳院は加賀藩三代目藩主前田利常の夫人で、二代目将軍秀忠の次女。

三か寺とも、夫人の菩提をとむらって院号を寺号にしている。

墓地入り口に六地蔵。

      六地蔵(明暦元年)

全体に黒っぽいのは、火災にあった為。

明暦元年(1655)造立と刻されているから、2年後の江戸時代最大の大火、明暦の大火に遭っていることになる。

その頃、寺は神楽坂の赤城神社隣にあった。

松源寺には元和年間の宝筐印塔があったが、ここには寛永の地蔵がおわす。

 寛永16年造立の地蔵菩薩立像

地蔵の右横に「願以功徳普及於一切我等衆生皆共成仏道」の見慣れた一行。

無縁仏群の中に「梶川与惣兵衛」の墓標がある。

 

    笠付石柱が梶川家先祖代々之墓      側面に梶川与惣兵衛の文字

元禄14年(1701)、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ時、浅野内匠頭を抱きとめたのが、梶川与惣兵衛だった。

子孫が墓参することもなく、墓は無縁墓となったが、その伝説だけは生き続けている。

天徳院の資料を読んでいたら、鈴木正三が当寺に寄留していたという一行に出会った。

どこかで見たことのある名前だが、思い出せない。

放置しておいたら、今朝、歯を磨いている時に思い出した。

歯磨きとは、何の関係もないのだけれど。

鈴木正三は武士をやめて坊主になった変人。

家康の家臣で関ヶ原で武勲をあげている。

40歳の時、自らの意思で剃髪、坊主になったが、彼の意思を汲んで武士廃業を許した秀忠も偉い。

 

鈴木正三を知るきっかけは、1基の石碑だった。

去年の春、伊豆へ旅行した。

伊豆長岡の「真珠院」で、風変わりな石碑を目にした。

「大強精進勇猛仏」と刻してある。

好奇心が刺激されて、調べてみた。

鈴木正三が広めた七文字であることが分かった。

彼の生涯の口癖は「どんな職業であろうとその道に精進すれば、それが仏道。不動明王のように猛々しく剛直につき進め」。

70歳になった時「大強勇猛精進仏」なる仏の名前があることを知り、長年の自分の考えそのものだと感激し、以後、この仏名を広めることに力を入れた のだという。

天徳院に寄留はしたが、それは70歳以前だったからだろうか、寺に「大強精進勇猛仏」の石碑はない。

実は、上高田寺町は2か所ある。

今回、とり上げたのは、早稲田通り沿いの上高田1丁目寺町の8か寺。

ここから北へ、400~500m行った上高田4丁目にも6か寺が固まってある。

 

 こちらの寺町では、万昌院功運寺がメイン。

 曹洞宗万昌院功運寺(上高田4-14-1)

大正3年(1914)、牛込から来た万昌院と大正11年、三田から移転して来た功運寺が合併して万昌院功運寺となった。

山門を入ると左に石仏群。

 

天衣をはためかす如意輪観音が見事です。

広大な墓域には有名人の墓が点在するが、案内板があるので、容易にたどり着ける。

まずは、浮世絵師歌川豊国の墓。(写真、手前の墓)

          歌川豊国の墓

正面中央に初代豊国、右に三世、左に四世の戒名が彫られている。

歌川豊国の墓のすぐ傍に赤穂浪士に討ち取られた十七代上野介義央の墓がある。

      吉良上野介の墓(左端の宝筐印塔)

墓前に「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」があり、痛ましい。

 

作家・林芙美子の墓もある。

墓石の文字は、葬儀委員長を務めた川端康成の筆になるもの。

墓地は、林芙美子の自宅から500mも離れていない。

生前に用意しておいた墓だろうか。

「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」。

色紙を頼まれると好んでこう書いたと言われている。

万昌院隣が、曹洞宗宝泉寺(上高田4-13-1)

 

 曹洞宗宝泉寺                 板倉重昌の五輪塔

墓域最大の五輪塔は、島原の乱で幕府軍の総指揮を執り、戦死した板倉重昌の墓。

 浄土宗願正寺(上高田4-10-1)

願正寺の境内には、墓参に訪れた二人のアメリカ人が植樹した松とハナミズキがある。

        願正寺

二人のアメリカ人とは、モーリス駐日大使とダグラス・マッカーサー二世駐日大使。

二人がお参りしたのは、万延元年(1860)、ワシントンで日米修好通商条約を批准した遣米大使・新見正興の墓。

   新見豊前守正興の墓(左)

往きは太平洋を、復りは大西洋からインド洋を回って帰国、世界一周をした初の日本人だったが、折からの攘夷のムードの中で、折角の見聞を役立てることはなかった。

他に、境妙寺、金剛寺、神足寺がある。

   天台宗境妙寺(4-9-3)

 曹洞宗金剛寺(上高田4-9-8)

 

  真宗大谷派神足寺(上高田4-11-1)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


47 聖語 真言宗(智山派)寺院編

2013-01-16 07:54:40 | 寺院

去年3月、撮影予定が雨で中止となり、代わりに保存写真フアイルから素材を集めて、ブログを作成した。

題して「27 聖語(浄土宗寺院編)」。(カテゴリーで寺院をクリック、その下部に)

今回も事情は同じ。

予定のテーマが仕上げられない。

フアイルから聖語を集めた。

ただし、今回は真言宗(智山派)寺院の聖語。

浄土宗寺院の聖語との違いが分からない。

あるのだろうか。

 石仏とは無縁なテーマで、すみません。

でも、それぞれ味わいある言葉ばかりです。

    円乗院(さいたま市)


「糸で
つながる
数珠の玉
手と手を
つなごう
平和の輪」

  観音寺(八王子市)

「心なき言葉は

 人を苦しめ

 心よりの言葉は

 人を救う」

             金剛寺(世田谷区)

「どうでもいいという

 人間からは

 なにも生まれてはこない

 そういう生き方からは

 なにも授かりはしない」

        真蔵院(春日部市) 

「何か

 足りない?

 じゃあ

 そこに

 真剣味という

 ひと味を

 足そう」

 

           大正院(本庄市)

「皆ともに

 祈り祈られ

 みちのくの

 被災の彼の地に

 光よ来たれ」

 

       大満寺(北区)

「道」

「心豊かな人生を

 送る為に

 自分自身の

 善いところ

 悪いところを

 知る。

 ありのままの

 自分を知る。現住」

           東覚寺(江東区)

 「願う心

 他にふりむけて

 爽やかな今」

     東光院(大田区)

「悪事を己に向かえ

 好事を他に与え

 己を忘れて他を利するは

 慈悲の極みなり」

    東光院(大田区)

「人は

 見えても

 自分は

 見えない」

         南蔵院(足立区)

「”こだわらない心”

 が長寿に通じる」

            福善寺(匝瑳市)

「我が身を

 立てんと

 せば

 まず

 人を立てよ

 当山 執事」

          遍照院(上尾市)

「己で限界

 を決めない

 限りの無い

 点を目指す」

           宝晃院(西東京市)

「あの人いい人

 この人悪い人

 誰が決めたの

 境目はどこ」

        宝珠院(大田区)

「仏とは大いなるいのち

 仏の慈悲につつまれて

 あなたもわたしも

 生かされて生きる」

              宝生院(港区)

「もの置けば

 そこに

 生まれる

 秋の蔭」

 (高浜虚子)

          宝蓮寺(江東区)  

「強い心がないと

 生きていくのがむずかしい

 しかし

 暖かい心がないと

 幸せにはなれない」

 

         宝幢寺(志木市)

 「時を待て

 焦りは

 心の

 ロスタイム」

 

            龍光寺(江東区)

「花無心招蝶
 (はなはむしんにしてちょうをまねき)

蝶無心尋花
 (ちょうはむしんにしてはなをたずねる)」

 

早稲田通りの馬場下町交差点を北へ行けば早大正門があり、南へ行けば早大文学部にぶつかる。

その馬場下町交差点角の龍泉院の掲示板が面白い。

びっしりと文字が書き込まれた模造紙が4枚、圧倒的な文字数の多さはいかにも大学町の寺に似つかわしい。

                 龍泉院(新宿区)と掲示板の聖語を読む人 

 少し長いが書き写しておく。

智慧はあらゆる人びとの心をうるおす

「金沢の郊外に専称寺という浄土真宗の寺の前坊守(さきのぼうもり)で高光かちよさんがいらっしゃいます。

そのお話の中でよく出るのが、次のような体験談です。

上京してタクシーに乗ったら、その運転手がぶっきらぼうで、ろくにものも言わない。行く先を告げても返事もしない。そしてポツリ『お客なんてのは私らには荷物並みなんだ』という。一瞬、『なんてことを』とカチンときたけど、一息ついて『なるほど荷物並みか』と受け止めて『運転手さん、この荷物、大分古くってこわれそうだから、気をつけて運んでね』と、答えた、と。

返事もないまま、しばらくしてその運転手が、会社への不満を話しかけてくるんだそうです。車を降りるとき『あんた大分血の気の多い人みたいね。気を付けてね』というと『お客さん、あんたも帰り気を付けてね』と答えて、ドアを閉めたそうです。かちよさん、『嬉しかったです』と仰る。人間、何時なんどき、どんなレッテルを張られることやら解らぬけれども、何をいわれても『なるほど』と、そのままに受け止める。これが如来さまより賜った智慧でしょう。

 『智慧海のごとし』という仏語は、かちよさんが出された本の題名です。海は何が流れてこようが一切拒みません。そして一切を包んで溶かしこみ、一味にしてしまいます。この仏の智慧に身を置く時、周りの人たちみんなが、それに同化感応してしまいます。この運転手さんみたいに。」(1枚目)

 

「中川精子さんは、三重県松坂市の中学校の先生です。お寺で、いつも聞法(もんぽう)しています。受持ちの生徒の中にヤンチャ者のツッパリがいます。彼が他のクラスの生徒をなぐった。担任としてなぐられた子の家、謝りにいかされる。ツッパリが『何も先生が行かんでいいやんか』と口をとがらす。

『いや、先生がな、いたらんばっかりにあんたらになぐり合いさせてしもたんや、ごめんしてな』と精子先生けっして高姿勢にでない。聞法の成果、仏の智慧がそうさせるのです。と、『先生、ごめんして。また先生を謝りにいかせんならんようにしてしもて。おれ、つらいんや』とツッパリの子がしおらしく先生に謝る。ところが、こちらが高飛車に叱ったり、怒ったりすると『そやけど・・・』と開き直って、口答えするという。

校内で何か事件が起きると『お前らの中にやった者がおりはせんか』と疑ってかかると子どもらが無言で『先生、その姿勢まちごうとるぞ』と審問してくれます。指導者は高いところから下りて、みんなと掃除するとか、だれかに仕事を頼んで一緒にするとか、肌で触れあえば、子どもたちは何でも話してくれます。構えると対話は消えます。教壇の上から、何を問うても答えがないのに、仕事してもらって、『ありがとな。たすかったわ。そいで、こんなことあったみたいやな』と問うと『あ、それ、あいつがやりよったんや。でもあいつな、悪いことした、もうやらん、というとったよ』と返ってくるんです。と、先生は述懐してくれました。

チエと表記する語に二通りあります。一つは知恵。これ、今、学校で教わるチエ。もう一つは昔から仏教で使われる難しい字の智慧。こだわるわけではないけれど、この二つを使い分けます。」(2枚目)

 

「知恵は人間の知恵、人知。それは自己容認、自己増強、拡大を目指す。子どもの頃から家庭や学校で学んできた学問知識、人生のテクニック、世渡りの才覚といったもの。

それに対し、智慧とは仏智。これは仏法を学ぶことではじめて教わるもの。人間のともすれば知識万能、技術至上に走る独りよがり、思い上がりを否定し、道理随順に帰らしめる、深いものを見る目のこと。知恵は外向き、智慧は内向き、ともいっていい。また人知はどこまでも自己肯定に立ち、それに対し仏智は、私に自己否定を迫ります。

高光かちよさんとタクシー運転手の場合、荷物といわれて一瞬『何を』とカチンとくる。これが知恵の領分、一息ついて『それもそうかも』とそのまま受けるのが智慧の働き。『この私に向かって失礼な・・・』と自己肯定に立ったのが、『荷物でいいではないか』とひるがえされ(否定)れば、相手もろもろ世界は変わる。中川先生が先生顔し、先生風吹かせて高い所からものいう。これが知恵、生徒と通じ合えない。『先生が至らんでごめんしてな』と詫びる所に下りると『僕もつらいんや。ごめんして』と向こうも謝ってくれる。

仏の智慧は、あらゆる人びとの心をうるおし、光を与え、人びとにこの世の意味、盛衰、因果の道理を明らかに知らせる。まことに仏の智慧によってのみ人びとはよくこの世のことを知る。という経典の言葉は、実際の生活の中でこんな形で、人を潤すのではないでしょうか。仏智こそ世間の潤滑油です。

私の娘も中学の先生をしていて、中川先生と同じような体験を語ってくれたことがありました。中学にもなると放課後、教室の掃除をいくら呼びかけても、なかなかしてくれないのだそうです。まだ学校出たての若い未熟な女先生ですから、余計云うこときかない。」(3枚目)

 「ベテランの先生だと『こらっ、やらんか』と叱るけれど、そんな器量はありません。だから情けないけれど、教師の私がほうきや雑巾もって掃除するの。すると二三人の生徒が手伝ってくれる。一緒に掃除しながらいろいろ話し合う。『先生、あの子、近頃おかしいでしょ。どうしてか、わかる?お母さんに新しいお父さんが来て、苗字が変わったのを隠しているのよ』とか、いろんな消息を聞かせてくれる。教壇から向き合っていては解らない情報が仕込める、と。

ある組の、担任もさじを投げるような番町の女生徒が問題を起こして職員室へ呼ばれた時、『長谷(娘の婚家の姓)となら話す』というので、ベテラン先生が驚いたという。『あなた、あんな生徒に信任があるのね。すごい隅に置けないわ』と。娘は『私は未熟者で不出来な教師だと自認してやっている。他の先生みたいな大きな顔していない。できないんだから。それがかえってああした番長たちに信頼されているらしいの。その他に理由が考えられない。それで私つくづく思ったのは、家にいる頃、お父さんがよく仏法の話を聞かしてくれたけど、本当にその通りだなって、家を出て、社会で仕事して、その事を改めて知らされた』と報告してくれたことがありました。」

これから どこをあるかう 雨がふりだした 山頭火(4枚目)

この掲示板の文章は、2012年7月25日のものです。

実は龍泉院の「聖語」が長文であることに気付いたのは、2010年の秋のことでした。

真言宗智山派寺院の聖語をまとめるに際して、2010年のものをそのまま記載してもよかったのですが、今でも同じように長文なのか、確かめたくて7月25日に行って来たものです。

模造紙4枚にびっしりと文字が並ぶ、同じスタイルで掲示板は立っていました。

文章の内容は、一昨年のとは、変わっています。

お寺で確認したら、月に一回ずつ、新しくしているということでした。

折角ですので、一昨年の分も掲載しておきます。

 

自分自身の無常を知る

「諸行無常」という言葉は、聖徳太子の昔から、日本人のあいだで知られている古い言葉と考えられます。法隆寺にある「玉虫の厨子」は、日本の木である檜で造られているそうですが、その下半部の台の側面に画かれた絵のテーマが「施身聞偈」という物語で、その中に「諸行無常」が出てきます。

むかし、雪山にひとりの修行者があった。木の実を食とし、長いあいだ座禅をしていたが、悟れる人に出会うこともなく、真実の言葉を聞く縁もなかった。この修行者を試みようとして、帝釈天は姿をかえて、おそろしい鬼の姿をした羅刹(悪鬼の一種、通力により人を魅し、また食らうという)となって、修行者に近づき、古い言葉の前半を口ずさんだ。「諸行は無常なり。これ生滅の法なり」。この言葉を聞いた修行者はよろこびにふるえた。「そうであった。わかりはじめたぞ」(1枚目)

 思わず立ちあがって、まわりを探した。「今の言葉は誰が云ったのだろうか」。見えるのは、恐ろしい羅刹の姿だけであった。「まさかこの羅刹が云うはずはあるまいが。火中の蓮華ということであろうか。私は今無知である。この羅刹はいつか仏から聞いているかもしれない」と思いなおして、羅刹に話しかけた。「良い言葉を聞かせてもらった。そのつづきを聞かせてほしい」。

羅刹は答えた。「だめだ、私は長いあいだ、食べるものがなくて、イライラし、思わず云っただけだ」。
「そう言わないで、どうか私の為にさっきの続きを教えてほしい。あれで全部でないはずだ。聞かせてもらったら一生あなたの弟子になってもいい」。
「お前さんは、賢こそうだが、自分のことばかり考えて、私の空腹のことは考えてくれないな」。
「いや、どうも。あなたの食べたいものはなんだね」(2枚目)

 「驚いてはいかんぜ。私の食べ物はただ一つ。暖かい生の人間の肉だよ。飲み物は人間の生き血だ」。
「よろしい。残りの言葉を聞かせてくれるなら、この私の体をあげよう。いつかは死ぬ身だ」。
「そうですかい。でも残りの言葉は、たった八字だよ。それでも命を捨てるかい」。
「かまわない。死ぬ命を捨てて、死なぬ命をもらうことができれば、」。
「その覚悟があるのならよく聞くがよい。つづきを云おう」。
修行者はよろこんで、持っていた鹿皮を羅刹の前に敷いた。
「和上よ、どうか敷いてください」。
羅刹は云った。
「生滅、滅し巳(おわ)りて、寂滅を楽となす。さあ、お前さんは望み通り聞いたのだから、今度は私が命をもらう番だよ」。
「ちょっと待ってください」。
「なに、今さら待てとは何だい」。(3枚目)

 「いや、そうではない。この尊い言葉はなんとしてものちの人に残したい。子の石、この木、この道に今の言葉を刻んで残したい。私は死んでもきっと誰かが発見してくれるだろう」。
「よろしい、待とう」。
偈文を書き残した修行者は、高い木の上に上った。
「木よ、聞いてくれ。私は法の為、一切の人びとの為に今から体を捨てるのだ」と身を投じた。その時羅刹は帝釈天に姿を変えて、修行者を受け止め、地上に下ろした。このありさまを知った諸天は「ああ、よかった。この修行者こそ本当の菩薩だ。すべての人を助けようとしている。無明の黒闇の中において大きな燈(あかり)となるお方だ」と喜んだ。

この物語が示すように「諸行無常」を知ることは、真実の生き方の出発点です。世間や社会の無常ならば、新聞やテレビのニュースを見るだけで解りますが、私自身の無常を知る為には、自己を見つめる落ち着いた心が与えられねば不可能なようです。聞法によって自己を知り、凡ての人が幸福になれる本当の楽しみを得ようではありませんか。最後までお読み戴いて有難うございました。(4枚目)

 

今回、ブログにあげることになり、1月11日、龍泉院へ行って来た。

長文の聖語はなく、御守り授与の正月用告知があるのみ。

フアンとしては、ちょっと寂しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


46 賀春!西新井大師の石造物

2013-01-01 14:58:55 | 寺院

明けましておめでとうございます。

新春の初詣は、西新井大師へ。


                  2013年元旦10時30分撮影

去年は、初詣に行った浅草寺の石造物が年明け1回目の記事でした。

だから、今年の1回目は、西新井大師の石造物です。

正月は人出が多いので、石造物は、去年の暮れに撮影済み。

西新井大師は通称で、正式寺名は「五智山遍照院総持寺」。

弘法大師を本尊とする真言宗豊山派の寺院です。

山門を入るとすぐ左の祠の中におわすのが塩地蔵、別名いぼとり地蔵といって、ここの塩を塗るといぼがころりと取れる、というのが謳い文句。


           塩地蔵堂

霊験あれば塩を倍返しするのは、どこの塩地蔵にも見られる習い。

師走の塩地蔵の足元に塩がないのは、無垢で新年を迎えるための装いだろう。

 

   2012.12.14撮影         2012.04.27撮影

ちなみに右は、去年、4月に撮影した塩地蔵。

現代塩地蔵の怪は、塩を供える信者の姿を見ることがないのに、大量の塩があること。

「東京とその周辺の塩地蔵図鑑(1)、(2)」(*カテゴリーで地蔵菩薩を選択、プルダウン)で24カ所の塩地蔵を回ったが、塩を供える人に一度も出会わなかった。

もしかしたら、お寺が?と思うのは、ゲスの勘ぐりだろうか。

塩地蔵の対面にあるのが「厄除弘法大師」碑。

 厄除弘法大師碑(文政9年・1826)

ここでクイズ。

「関東の3大厄除け大師はどことどこ?」

「佐野、川崎、西新井」と答えたあなたは、立派な現代人です。

宣伝、広告に見事に乗せられているから。

自らを「関東三大師」とうたう佐野厄除け大師の宣伝が行き届いているからだが、通常、大師といえば、弘法大師を指し、佐野厄除け大師の本尊は元三(がんさん)大師なので、弘法大師を祀る西新井、川崎大師と一緒にはなりません。

混乱の元は、括り方。

本来、厄除けを本業とする元三大師を祀る川越、青柳、佐野大師を「関東三大厄除け大師」と括ればスッキリするのですが、弘法大師を祀る西新井、川崎、観福寺大師堂が「三大厄除け大師」とうたっていたため、元三大師を祀る方が「三大師」を呼称するようになったからです。

ややこしくて、頭が痛くなるので、これでクイズは終わり。

しかし、では、なぜ、西新井大師は「厄除け」をうたうようになったのだろうか。

その答えは、「厄除弘法大師」碑の隣の「西新井総持寺碑記」にあります。

 

 西新井総持寺碑記(天保7年・1836)    上部タイトル(右から2字ずつ縦に西新井総持寺碑記)

「天長三年大師巡行諸州為衆生説法遂来経此地」(天長三年、大師諸州を巡行し衆生の為に説法し、遂に来たりて此の地を経)偶憩一松樹下忽見十一面観世音現干枝上」(偶(たまたま)一松樹の下に憩ひ、忽として十一面観世音の枝上に現はるを見る)「謂大師曰爾応遇厄難爾命殆危矣宜謹祈祷焉」(大師に謂ひて曰く、爾(なんじ)応(まさ)に 厄難に遇ふべし。爾の命殆ど危ふし。宜しく謹みて祈祷すべしと

この十一面観世音のお告げを受け取った大師は、一刀三礼、十一面観音の尊像を刻み、その残材で自らの像をも作って、これを枯れ井戸に投じ、一切の厄災はこの像が万民に代わって負うべく祈願した。

奇跡は起きた。

碑文の一部

「方此時遠近病難災害頻行人民詣寺祈之無不応」(此の時に方(あた)り、遠近に病難、災害頻行す。人民寺に詣でて之に祈る。応へざるなし

これが、「厄除弘法大師」の由縁ですが、この碑の建立年が天保7年(1836)であることを考えると、「厄除け」の言葉の重みが一層増します。

なぜなら、天保4,5,6年は、3年連続の全国的大飢饉、餓死者続出で、天から降る厄災を払うのに人々は神仏に祈るしかなかったのです。

この天災に、幕府の無策という人災が事態をさらに悪化させた。

財政破綻に窮した幕府は、貨幣改鋳の一時逃れを繰り返し、それがインフレに拍車をかけた。

3.11東日本大地震と政権交代で希望を担った政府の無策があいまっての現代日本の混迷と、どこか似通っていると言えなくもない。

不幸中の幸いは、どじょう宰相は、将軍家斉ではなかったこと。

能天気、あほ馬鹿将軍家斉は、世の窮状をよそに多数の妾と悦楽に耽り、50人もの子をなしたのですから。

話が横道にそれた。

この「西新井総持寺碑記」の撰文は、松本子邦という文化人ですが、その松本子邦の人となりを讃える碑が「持寺碑記」の先にあります。

  松本子邦寿石(嘉永3年・1850)

碑文とその碑文の作者の石碑が並ぶのは、珍しい。

「松本子邦寿石碑」によれば、その人となりは「親に孝に、友に篤し。読書を好み、書万巻を購ひ、別業に庫づくりして以て貯ふ。窮生に貸して之を読ましむ」。

どうやら個人図書館を開放していた人物らしい。

「松本子邦寿石碑」の奥に鐘楼がある。

 

傍らに英語の解説文。

鐘楼は石造物ではないが、数奇な運命をたどったもののようで、とり上げておく。

「During the World War Ⅱ、it was offered to the Japanese Army,and its whereabouts was not known.Later it was learned that,shortly after the end of the war,the bell had been sent to Pasadena,California,on bord the US cruiser Pasadena and hung in Pasadena City Hall」

戦勝記念品として、アメリカのパサデイナ市庁に飾られていた鐘が、昭和30年(1955)、日米親善の絆として西新井大師に返還された、めでたしめでたしというお話。

めでたい話には余話が付き物。

寺に鐘楼がなくては困ると云う事で、実は昭和27年、新しい鐘が鋳造されたばかりだった。

その鐘は、どうなったのだろうか。

ただ、鐘楼奉納記念碑が立つのみです。

梵鐘奉納記念碑(昭和27年・1952)

奉納したのは、「三郡送(おくり)大師講」。

「送り大師講」とは、四国八十八ケ所霊場を模したミニ霊場を大師の絵や像を持ちながら回る集団のことで、回るのが北足立、南足立、南埼玉の3郡に設置された新四国霊場なので、「三郡送大師講」。

西新井大師には、数え切れないほどの大師講とその奉納品がありますが、それについては、改めて後述します。

 

 鐘楼から 蓮池をはさんだ参道脇に立つのが、「延命地蔵尊」だが、石仏ではないので、パス。


   50が延命地蔵、55が庚申塔

「延命地蔵尊」と参道を挟んで反対側にも石造物群がある。

その中に西新井大師境内唯一の庚申塔がある。


 境内唯一の庚申塔

設置理由を知りたいところだが、その造立年すら不明の?に包まれた庚申塔なのです。

西新井大師は祈願寺なので、檀家は少ない。

それでも墓地はある。

高い塀に囲われて、墓は見えないようになっている。

正面が大師堂。その背後、白壁の向こうが墓地。

入り口は、庚申塔の近く。

施錠されていないので中に入ってみた。

墓地奥に歴代住職の墓域。

 歴代住職の墓域。中央五輪塔は中興三十二世秀円大僧都の墓(文政8年・1825)

歴史ある寺にしては数が少ないのは、住職の多くが昇任転出したからだという。

西新井大師総持寺が、出世寺と云われる由縁です。

僧侶墓域の一角に見事な彫りの阿弥陀様。

     説法印阿弥陀如来座像

胸元の両手は、説法印。

大きな蓮華座と反花の上に、おだやかに、かつ凛として座していらっしゃる。

大寺ならではの佳作と言えるでしょう。

もう1基珍しい墓石がある。

五輪法界真言の梵字を図案化した五輪塔墓標

梵字を左右対称に図案化し、五輪塔に見立てた墓石。

私は初めて見た。

この僧侶墓域の塀の向こうにあるのが、三匝堂、通称さざえ堂。

   三匝堂(さざえ堂)

さざえ貝のように階段をぐるぐる回りながら上る仏堂で、都内ではこのお堂だけになった。

四国八十八ケ所の本尊摸刻が祀ってあります。

その横にあるのが、加持水井。

 

     加持水井                   神田蝋燭講寄進

弘法大師が自らの像を刻み、これを枯れ井戸に投じて万民の厄除けを祈願した故事は前述したが、この話には続編がある。

枯れ井戸に投じた大師の自像は、ある日、突然飛び出して、枯れ井戸からはこんこんと清水が湧きだしたというもの。

その井戸が、この加持水井です。

ここで、再びクイズ。

「西新井大師に対する東新井大師がある。○か×か」

答えは、×。

寺の西しく湧きでた戸のあるお大師さんだから、西新井大師なのです。

大師が関わる清水だから、いわば聖水。

信者は飲んだのだろうか。

『遊歴雑記』(文化2年・1829)には、こう書かれている。

「此大師堂の西に加持水と号せるありて、井戸屋形を作り小茶椀弍ツ三ツ並べてあるにぞ。参詣の徒、目を洗ふあり、飲人もありけり。ただし此加持水の色、白赤く濁りて中々服しがたし」

境内には、賽の河原もある。


左、加持水堂、右、加持水井、奥が賽の河原の水子地蔵堂

加持水井に相対して大きな覆い屋があり、奥にひときわ高い地蔵。

その前には無数の小さな石仏地蔵が所せましと並んでいる。

      水子供養の賽の河原

夭折した子どもは親不孝の罪で地獄に堕ちる。

地獄の賽の河原で子どもたちは、親不孝を詫びながら石を積んでは塔にする。

その塔を鬼が来ては、蹴散らかす。

逃げ回る子どもたちに救いの手を差し伸べるのが、地蔵菩薩だと信じられてきた。

 真新しい塔婆が並んでいる

観光資源と堕した増上寺の水子地蔵群に比べれば、このお堂には宗教的雰囲気が濃厚で、好感が持てる。

賽の河原の隣が、本堂に次いで重要な不動堂。

その不動堂の前を、右手に本堂を見ながら行くと弘法大師立像がある。

 

台石に「東京千住睦」の文字。

寄進した講名です。

そこを左折すると石碑群にぶつかります。

これら全ては、各種講中の碑。

講とは、大師講のことで、弘法大師を奉賛する信者の集団。

職能集団だったり、地域集団だったりします。

西新井大師の境内には、各講中により寄進された建造物、石造物が多数ある。

下の写真、3基の石造物は「木魚講」と銘記されているが、真ん中の灯籠は境内の石造物で最も古いもの。

寛文9年(1669)造立とされている。

歴史のある寺なのに、最古の石造物が寛文年間というのは意外だが、この頃から講があったことが分かります。

境内にある講名のある石造物を時代順に列記しておく。

全部、写真があるのですが、掲載すると記事の容量を超えるので、2基のみにします。

1 木魚講燈籠 寛文9年(1669)
2 西新井弘法大師道(道標) 安永6年(1777)
3 宝筐印塔(浅草真心講中) 寛政元年(1889)
4 百八十八ケ所供養塔(奥之院御橋講) 文政12年(1829)
5 厄除弘法大師一千年忌供養塔(千住掃部宿講) 天保5年(1834)
6 毛塚(火消し組合谷組) 明治6年(1873)
7 東京大栄講碑 明治40年(1907)
8 戦没者供養塔(魚河岸明治講) 明治40年(1907)
9 鐘楼大修繕記念碑(東京鉄仲講) 明治40年(1907)
10 西新井弘法大師(月参講他) 明治42年(1909)
11 五老井宗雄句碑(巴蓮) 大正4年(1915)
12 廿二日護摩講記念碑(護摩講)大正11年(1922)
13 納札塚(東都納札会) 大正11年(1922)
14 下谷木魚講碑 昭和3年(1928)
15 奥之院道標(海講) 昭和4年(1929)
16 高野明神開帳祈念碑(大師念仏講) 昭和4年(1929)
17 弘法大師立像(千住睦講) 昭和4年(1929)
18 弘法大師千百年大遠忌碑(大和講) 昭和9年(1934)
19 奥之院清浄並池畔改修之碑(両河講) 同上
20 弘法大師千百年大遠忌記念碑(念仏講) 同上
21 弘法大師千百年大遠忌記念碑(三郡送大師講)同上
22 弘法大師千百年記念碑(千住念仏講)同上
23 弘法大師千百年遠忌記念碑(東京真心講)同上

 
  千住念仏講              東京真心講
24 両河講代々講元碑 昭和16年(1941)
25 梵鐘奉納記念碑(三郡送大師講)昭和27年(1952)
26 本堂落慶記念碑(大師出入睦会) 昭和47年(1972)
27 木遣塚(木遣睦北声会) 昭和50年(1975)
28 おくのいん道碑(海講)年不詳
29 奥院・石橋敷石女人堂建築・開帳・護摩供養記念碑(海講)年不詳
30 西神田木魚講碑 年不詳
31 御府内八十八箇所巡礼記念碑(南無大遍照金剛十八日講)年不詳
32 加持水井井戸枠(蝋燭講)年不詳

西新井大師発展の契機は、天保5年(1834)の大師一千年大遠忌でした。

記念事業として本堂が改築され、今日の大伽藍の原形ができたのです。


        江戸名所絵図(西新井大師)天保5年(1834)

時代は、江戸町人文化の爛熟期。

ご開帳、縁日の度ごとに参詣者は増大し、門前町は賑わいを増していった。

関東一円から参詣に来る大師講を迎える料理茶屋には、なじみの大師講の名入り暖簾がはためいて、呼び込みの甲高い声が繁華の喧騒に輪をかけていた。

寄進を競い合った講とは別に、個人の大檀那の存在も見逃せない。


   北斎「弘法大師修法図」

北斎が寺に籠って書き上げた「弘法大師修法図」のスポンサーは、江戸の高級料亭八百善の栗山善四郎であり、

大師一千年遠忌記念に建てられた三匝堂(さざえ堂)もまた、江戸の町民伊勢屋彦兵衛の寄進によるものでした。

池の中の弁天さまを見ながら石橋を渡ると、本堂裏の霊域に入る。

 
    きよめ橋                           弁天堂

鬱蒼とした木立に覆われて薄暗い。

小詞、小堂が並んでいる。

手前が、権現堂。

           権現堂

寺の開山にあたり、山内地鎮のために祀られた。

その隣が如意輪堂。

 
       左 如意輪堂     右 奥の院

如意輪観音をお参りするのは断トツに女性が多い。

だから別名「女人堂」と呼ばれている。


   如意輪観音

女人堂の次が奥の院。


            奥の院

高野山奥の院の代拝所としての聖地だが、残念なことに薄汚く、霊域としての清冽さに欠けている。

建物は古くても、清潔にして峻厳な霊域としての維持、管理は不可能ではないだろう。

少なくとも千社札など厳禁にすべきではないか。

奥の院の右横の小道を入ると無縁墓標群がある。


        無縁仏群

中で目を引くのは、阿弥陀三尊像。

間隔をあけることなく、びっしりと並べられていて、前の石仏が邪魔をして像容の全体は見られない。

カメラを突っ込んで、部分撮影をしてみた。

 
 阿弥陀如来三尊庚申塔

どうやら、阿弥陀如来を中央に日天子、月天子を両脇に配する三尊像で、下部の刻文には、二十三夜講供養とあるようだ。

後日、別用で大護八郎『庚申塔』(昭和47年)をめくっていたら、偶然、この三尊像に出くわした。

見ると三尊像の下には台座があり、その台座には、三猿が浮彫りされているのです。

つまりこの石仏は、阿弥陀三尊を本尊とする庚申塔ということになる。

『庚申塔』の初版発行は、昭和33年。

55年の間に、境内のあちこちを移転させられ、いつの間にか、台座を失って、自らが庚申塔であることを証明できなくなってしまった阿弥陀三尊像、一抹の侘しさを感じざるをえません。

奥の院を出れば、裏門は目の前。

裏門の手前に境内唯一の宝筐印塔がある。

  
    宝筐印塔と本堂の奥に奥の院               八角堂と四国八十八ケ所本尊石仏群

この辺り、以前は五輪塔、宝筐印塔、多宝塔など6基の石造物が立ち、傍らに四国八十八ケ所の本尊摸刻石仏が所せましと並んでいたが、現在は光明殿前の第一ぼたん園と八角堂の周りに移転されて、残っているのはこの宝筐印塔ただ1基のみ。

北門の傍らには、お稲荷さん。


       出世稲荷

別名、出世稲荷というのだが、それは西新井大師が出世寺だからだという。

この出世稲荷を右折して境内に向かってゆくと、本堂正面に出る。


  北門から境内へ。右手に本堂

不動堂から歩き始めて、これで本堂をぐるっと一周して来たことになります。

今度は、本堂を背にして山門方向へ。

左の建物は、書院。

その前に梵鐘が置かれている。


     書院前の鐘楼と力石

現在の梵鐘がアメリカから返還される前に作ったのが、この鐘だったのだろうか。

鐘の周りを囲んでいるのは、力石。

その昔、力石を持ち上げる男たちの力比べは、娯楽の一大イベントだった。

これが往時の力石だと気づく参詣者は、果たして何人いるだろうか。

その隣に聳え立つのは、道標。

「奥之院道」と刻されている。

境内の、どこに立っていたものか、さほど広くない境内で道標があるのは大げさな感じがする。

道標の上に丸で囲った「海」の文字。

奥之院講の名前です。

道標といえば、「弘法大師道」だろう。

  
     光明殿前の道標「弘法大師道」

西新井大師への道標が「弘法大師道」として4基残されている。

2基は、光明殿前に、残りの2基は、足立郷土博物館前庭にある。

道標「奥之院道」の前に池。

 池のほとりに立っているのが「弘法大師巳呂波歌之碑」。


   弘法大師巳呂波歌之碑

いろは歌の作者は空海であることを、この碑で初めて知った。

恥ずかしい。

でも、調べてみると、どうやら否定的見解の方が多いようだ。

天才ゆえの、名誉ある誤解というべきか。


 36は道標、23、いろは歌碑、11、蕉雨句碑

これで西新井大師の主な石造物を一巡したことになる。

芸能色の強い浅草寺の石造物に比べると、講中碑ばかりで面白みに欠ける気がする。

句碑もわずかに2基。


    芭蕉句碑(光明殿前)

「父母のしきりにこいし雉子の声 芭蕉」

句碑があるからと云って、芭蕉が西新井大師を訪れたわけではない。

高野山で詠んだもの。

当山が東の高野と呼ばれるので、選句されたまでのことです。

西新井大師といえば、牡丹。

当然、牡丹の句もある。


   蕉雨の句碑(第2ぼたん園)

「一輪の牡丹終日(ひねもす)散にけり 八巣蕉雨」

資料によれば、蕉雨は、一茶と肩を並べる化政期の代表俳人とあります。

本年も「石仏散歩」、御贔屓の程、よろしくお願いいたします。