石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

板橋宿を歩く-10

2011-04-30 09:00:39 | 板橋宿を歩く

縁切り榎

上宿の名所といえば「縁切り榎」。当時この縁切り榎がどのように使われたのか『遊歴雑記』という書物にはこう書かれています。 

「何者かはじめけん、此処へ来り茶店嬢、又ハ児共等をたのミ、此榎の皮をそぎとりもらひて家に持帰り、水より煎じその者にしらさず飲しむれバ、男女の縁を切、夫婦の中自然に飽て離別に及ぶこと神の如しといひはやし・・」 

「板橋の木皮の能は医書に洩れ」 

「榎で取れぬ去り状を松で取り」 

「板橋で別れ鎌倉まで行かず」

*「松」と「鎌倉」は、縁切り寺として有名な鎌倉松ケ岡東慶寺を指す。

 

 

 

「縁切り榎」の由来としては次のような話もあります。

本郷の油屋の主人伊藤身禄さんは、子供の頃から富士の浅間神社の信仰厚く、富士さんに北側から登山口を切り開き、富士山で死にたいという願を立てていました。享保18年(1733)、彼は決意して、商売をたたみ富士に向かいます。泣いて追いかける妻と3人の娘が身禄さんに追いついたのが榎の大木の下でした。袂をつかんで離さない4人に「夫婦、親子の別れの辛さは身を切られるより悲しい。しかし、私の心願は変えられない。どうかこれまでの縁とあきらめて、行かせてくれ」と心を鬼にして旅立つのでした。そして、終に念願果たして富士山で死にました。これが、「縁切り榎」と言われる由縁の物語です。

 

皇女和宮降嫁行列

 

「縁切り榎」が一躍有名になったのは、皇女和宮降嫁の大行列が縁切り榎を避けてう回路を通ったからでした。

和宮行列の再現パレード(大垣市)

日米通商条約をめぐって悪化してゆく朝廷と幕府の関係の打開策として浮上してきたのが、皇女和宮の14代将軍家重との婚儀。この和宮の江戸への下向行列は空前絶後の大行列で、列の長さは10キロにも及んだと伝えられています。沿道の宿場はどこも大混乱に陥りました。

和宮大行列再現パレード(大垣市HPより)

 

 

木曽の馬籠の本陣を舞台とした島崎藤村の『夜明け前』でも大きく取り扱っています。

「九つ半時に、姫君を乗せた御輿は軍旅の如きいでたちの面々に前後を護られながら、雨中の街道を通った。厳めしい鉄砲、纏、馬簾の陣立は、殆ど戦時に異ならなかった。(中略)京都の町奉行関出雲守が御輿の先を警護し、お迎へとして江戸から上京した若年寄り加納遠江守、それに老女等も御供をした。これらの行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きの絶えることもなかった。」

板橋宿の通常の公用人馬は50人、50頭であることは既に書いた通りです。それを上回る需要がある時は近隣の村々から臨時に人馬を徴発する助郷という制度がありました。交通が盛んになるにつれこの助郷が頻繁に行われるようになり、村人を苦しめます。記録では板橋宿近辺の助郷村では農家一家で人足2.5人、馬1頭が割り当てられています。馬は金で借りてきたのですから、その出費は農家の家計を圧迫しました。和宮下向が今でも語り継がれるのは、通常の助郷では到底まかない切れず、かなり遠距離の村々にも助郷を頼んだからでした。宿の受け入れ準備は半年前に始まっていたともいわれています。

このように大行列になったのは、警備が厳重だったからです。尊王攘夷派による姫奪回の噂が立ち、輿の警備に12藩、沿道には29もの諸藩が動員されました。

 

岩の坂

 

「縁切り榎」から宿場はずれの清水町までの坂道一帯が、上宿岩の坂。宿場人足、駕籠かき、馬子、遊芸人など底辺労働者のたまり場で、今の山谷のドヤ街のような自炊長期宿泊者の町でした。当然、昼間から博打は当たり前。これを取り締まれば宿場人足が不足することになり、お上も大目に見ていたという見方もあります。

こうした岩の坂の町の色彩は昭和の時代まで続いていました。都内最大のスラムという形容している記録もあります。岩の坂生まれの詩人で作家の伊藤比呂美は、萩原朔太郎賞を受賞した著書『新巣鴨地蔵縁起』で岩の坂をこう描写しています。

 

「板橋本町の停留所からくねくねと路地を入っていきますと岩の坂です。ここでもらい子殺しが行われたのは、わたしの生まれるだいぶ前のことです。うらさびれた板橋の宿場はずれには木賃宿や貧乏長屋がししめいておりまして、乞食や食いつめ者やお地蔵様の線香売りやたちんぼうがごちゃごちゃと住みついておりました。あるときよそで生まれたいらない子がここにもらわれてきてはよく死ぬ事実が知れまして、一人二人の不心得者が独自に為した罪ではなし、土地全体がかかわった仕組みであるということが知れました。もらわれた子には親からの銭や着物がついてきたから、人々はもらい子が来るたび祝祭の飲み食いをして、育てて働かすなり殺すなり。分かっただけでも何十人かが殺されました」

 

 

 

 

「岩の坂を下ると石神井川、ばんば橋と板橋の間に出ます。(中略)ばんば橋から川沿いに道が続きます。土地が低くなります。道から家々の中がのぞけます。人の生活がのぞけます。のぞかれて気にしない生活です。ときには人の生き死にものぞき見ます。のぞき見られて気にしない生き死にです。地を這い、川に落ち。這い上がり。這い上がれずに流れていく」(『新巣鴨地蔵縁起』)

伊藤比呂美が書いた「もらい子殺し」は、昭和5年に実際にあった事件です。殺された子供は73人。もらい子周旋人が養育費として実親から100円を受け取り、90円をピンハネ、残りの10円をつけて岩の坂住民に渡していました。住民たちは金が入ればドンちゃん騒ぎ、挙句の果て、子供たちは殺されていったのです。生き残った子供たちは、乞食にさせられて、成長すると男の子は炭鉱の監獄部屋に、女の子は娼妓に売られていきました。

当時、岩の坂は70世帯で2000人もが住む無法地帯で、チンドン屋が最上級、よいとまけ、くず屋、こじきが重なるように暮らしていたといわれます。残飯屋が大繁盛で、帝劇などの弁当の残りが上、一般の折詰弁当が中、病院食の残飯が下で、上の売れ行きがよく、下は豚のエサにされていました。もらい子殺人事件で検挙された住民たちは、食事と寝る場所が無料の留置場暮らしが気に入って、釈放されたがらなかったという逸話が残っているほどです。

 

 

岩の坂という地名は、今は残っていません。界隈は「本町」表記となっています。坂はだらだら坂でひっそりと静まり返って、かつてのスラムの面影はどこにもありません。坂の両側の商店街は「坂町商店会」と言うのですが、「岩の坂商店会」ではないところが「意味深」です。

唯一目にした「岩の坂」は、坂の上にある「天理教岩之坂分教場」の看板だけでした。。

岩の坂があったせいか、板橋区のイメージは芳しくありません。ガラが悪い、貧乏人が多い、そんなイメージが今でもまつわりついています。でも、率直さをガラが悪いとするのなら、上品ぶってる土地柄より好ましいし、貧乏人が多いということは、物価が安くて暮らしいいということでもあって、意外に犯罪率も低く、板橋は住みいい町なのです。

 

 

 

 

 


板橋宿を歩く-9

2011-04-29 18:56:42 | 板橋宿を歩く

板橋

ここが「板橋区」や「板橋宿」の地名のもととなった「板橋」。今の橋は昭和47年にできたコンクリート橋ですが、昭和7年までは、正に木造の板橋でした。板橋が記録されたのは、平安時代の書物だ、いや鎌倉時代の軍記ものだといろいろ説はありますが、確定が難しいのは、当時、どの橋も板橋だったからです。橋は交通の要所ですから、地名にもなりやすい。世の中には物好きな人がいて、板橋という地名がどれだけあるか調べた人がいます。それによると日本全国で54もの板橋町や字板橋があるということです。漢字文化圏の韓国や台湾にも板橋という地名はあるようですから、地名の成りたちは世界共通だということになります。

一方、下の絵は江戸末期、天保年間に出版された「江戸名所図会」の板橋。白黒の絵に塗り絵したものです。

                「わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』」より 

 

 

この絵は中宿から上宿方向を描いたもので、川沿いの茶屋は「丸屋」。橋を挟んで両側とも「丸屋」です。川に面した部屋は懸崖造りで、川を眺めながら飲食できる構造です。京都の鴨川の納涼床を思い浮かべますが、石神井川の水量は今より多かったのでしょうか。その向うは旅籠。駕籠で到着した客がいれば、たらいで足を洗っている男もいます。橋の下では釣りをしている親子の姿も。今、石神井川には放流した鯉のほかは魚の姿はありません。居酒屋「下総屋」での地元の人たちの話では、昭和20年代前半まで、このあたりで泳いでいたということですから、江戸時代に魚がいるのは当たり前ですが。絵の一番左側の上、門をくぐる武士の姿がありますが、ここが上宿の脇本陣。この3人だけ、そっくりかえっているように見えます。

 

上は現在の写真。左の欄干の下に今の石神井川は流れているのですが、丁度今の川の流域に脇本陣がありました。

当時の石神井川は欄干と欄干の間を流れていて、その曲がり方が急なため、大雨が降るとよく氾濫しました。氾濫を防ぐために、左の欄干から直線的に新しい川を掘って流れを変えたので、昔の絵図と合致しない部分が生じたわけです。間の建物が建つ三角地帯も脇本陣の一部で、板橋市左衛門家の邸宅はここにありました。橋のすぐ傍の「橋本酒店」がその子孫です。

    明治時代の板橋                 大正時代の板橋

 

左は明治9年(1875)の板橋の写真。「江戸名所図会」から約40年後の橋の光景。ザンギリ頭とチョンマゲが混じり、人力車が走っていると解説にはありますが、古ぼけてよく分かりません。右は大正時代の写真。左の写真と逆方向、上宿から仲宿を撮影したものです。電信柱がやたら目立ちます。

 

そして、下の写真は昭和7年、コンクリート橋に改修された直後に撮影された「板橋」。上宿から中宿方向を撮ったもので、左に公設役場、右に薬局が見えます。バスは板橋乗合バス。巣鴨から志村まで走っていました。この翌年の昭和8年、新中山道が開通、バス路線も変更になります。

         昭和7年の板橋

 

大木戸

「板橋」を渡ると上宿に入ります。平尾宿が料理屋や妓楼の町で、仲宿が武士や町人相手の平旅籠や商店の町だったのに対して、上宿は遊芸人などが泊まる木賃宿と安価ないっぱい飲み屋の町でした。唯一の公共施設は、大木戸。現在の本町27番地付近です。

        品川宿高輪大木戸                                     

大木戸は簡易関所でしたから、通行できるのは明け六ツから暮六ツまで。江戸払いの刑はこの大木戸から外へ追い出すことでした。「入り鉄砲と出女」のチェックが目的で設けられましたが、江戸時代後半には無意味になって廃止されます。板橋宿大木戸の絵図がないので、品川宿高輪大木戸の絵を載せておきますが、木戸がないので廃止後の風景でしょう。

時代小説の中での板橋宿

ところで、時代小説には、板橋宿はどのように描かれているのでしょうか。図書館でいくつか調べてみました。まず、池上正太郎の『鬼平犯科帳』。

 「五郎蔵は巣鴨から板橋宿へ入り、平尾宿から仲宿をぬけ、石神井川に架かる小橋をわたって、橋のたもとの茶店に入り、熱い茶をたのんだ。五郎蔵は茶を一杯のんだが、あまりに冷え込むので熱い酒ものみたくなり、

『あの、酒を・・・』いいさして、何気もなく街道を見やったとたんに、

『あっと思いました。はい、中山道を宿へ入ってくる旅人の中に、牛久保の甚蔵を見かけましたので・・・』

『そやつ、盗賊か』と、長谷川平蔵。」(浮世の顔)

「板橋宿を二つに分ける石神井川の上流から小さな荷舟が二艘、闇に溶け込み、ゆっくりと板橋宿の方に近づきつつあった。石神井川は、上石神井の先の溜井を源とし、練馬の三宝池からの水を加えて東へ流れ、板橋を過ぎて音無川になる。

二艘の荷舟には、清州の甚五郎が馬返しの吉之助を筆頭に、十八名の配下の盗賊をつれて身を潜めていた。」(一本眉)

そして、平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳』では。

「滝野川弁天、不動滝へ行く近道で、この前、新八郎はここで大竹金吾と出会って、平泉恭次郎の死体の安置された音無川の岸辺へ案内された。(中略)

 翌朝、新八郎は御用人の高木良右衛門の許しを得て、板橋へ向かった。平泉恭次郎は、あの日、藤助に対して辰の刻に板橋でと約束をしている。ところが、実際に平泉恭次郎がやって来たのは正午に近く、それも町駕籠だったという。すでに、新八郎は平泉恭次郎の妻女から、彼が当日、何刻に八丁堀の組屋敷を出たかを訊いていた。

『主人は、前夜より格別のご用があると申しまして出かけました』

屋敷を出たのは、夜になってからだったという。

それにしても、平泉恭次郎が実際に板橋の宿場に姿を見せたのは、正午近くである。おまけに、雨が降り出していたのに、彼は雨支度をしていなかった。

ひょっとすると、平泉恭次郎は藤助が必ず自分を待っているのを承知で、故意に遅れて板橋の宿にやってきたのではないかと新八郎は考えた。『何故、そんなことをしたのだ』。心の中の思案がつい口に出た。」(音無川)

 

 


板橋宿を歩く-8

2011-04-27 18:45:37 | 板橋宿を歩く

中宿脇本陣飯田家跡

再び中山道に戻って坂を下ります。ウナギを焼く匂いがしてきたら足を止めて左をみてください。鰻屋の小路の向うにマンションが聳えています。ここが飯田家の本家、飯田宇太郎家といって、中宿の名主であり、脇本陣の亭主を務めた家の跡地です。

 

飯田家総本家跡地のマンション     飯田総本家跡地を示す石碑

 

板橋宿を調べていて混乱するのが、中宿の本陣と脇本陣の関係。脇本陣を本家で名主の飯田家が運営し、本陣は分家であることが、素直な理解を妨げています。本家が本陣を務めるのが普通だと誰もが思うからです。

宝永元年(1704)、飯田家5代目の折、分家する弟に名主の兄が本陣株を譲渡したことが、ことの始まりでした。江戸幕藩体制の一環としての宿場本陣の主は名字帯刀を許され、格式高い存在ではありましたが、地元のことには一切無関係でした。地方の仕事、まつりごとは名主が執り行っていました。本家は、この名主職を本陣の亭主役より上位の役職と考えたから、本陣を手放したのではないでしょうか。

実際、文久8年(1861)和宮下向や明治初期の明治天皇行幸などの重大時には、脇本陣で名主の「宇兵衛家」が本陣を務めています。

参勤交代時、諸大名は必ず本陣に宿泊しました。それがどのくらいの頻度かというと、文政4年(1821)、板橋宿を通った大名は41、月別には6月に集中していました。こうして混みあう時節には、本陣、脇本陣だけでは対処できず、乗連寺、観明寺、文殊院など近隣10カ寺も宿泊所として使用されていました。

 

 問屋(といや)場・貫目改所

現在の仲宿49の4,5,6あたりが宿場の役場である「問屋場」でした。「問屋場」の業務は公用人馬の継立てです。継立てに従事する人馬は50人、50頭。隣宿より送られてきた荷を重量、駄賃を計算したうえで、新たな人馬に継ぎ変えて次宿へと送りだすのが仕事で、この任に当たったのが名主・本陣と脇本陣の3家。交代で「問屋場」につめては職務に励んでいました。公用で伝馬を利用するのに重量をごまかす者が後を絶たず、荷物の重量チェックをする「貫目改所」も併設されていたので、本来なら顔役としてアゴで指図をしておかしくない人たちが汗水流して働いていたことになります。

      問屋場跡            東海道庄野宿 「人馬宿継之図」          

 上右の絵図は東海道五拾三次の庄野「人馬宿継之図」。武士の供が問屋場の役人に書類を提出し、宿役人が証文を確認しています。外では人足たちが前の宿場から運ばれてきた荷物を新しい馬に積み替えています。

自身番跡

「問屋場」の前が「自身番」でした。今の居酒屋「下総屋」がその跡地です。

 居酒屋「下総屋」          自身番再現図(3D model/project)より

 「自身番」は町の自警団で、その運営と費用は町が負担しました。初期には地主が番屋で警備していたので「自身番」と呼ばれましたが、のちには町人たちで運営されます。自警団ですが、町奉行の監督下にあり、不審者がいれば捕えて奉行所に差し出すことが出来ました。

 火の番も重要な役割で、屋根に梯子と半鐘が備えられていました。寄合場所でもありました。この図は江戸の町の再現図。板橋宿の「自身番」そのものではありません。

高札場

板橋宿の高札場は、「板橋」の中宿側のたもとにありました板橋宿の高札場は建物は勿論、写真もないので、甲州街道府中宿に残る高札場の写真を載せておきます。

                甲州街道府中宿の高札場

高札は新しい法令を民衆に周知徹底させるために、人通りの激しい場所、橋のたもと、村や町の入り口や中心部など目立つ場所に設置されました。庶民でも読めるように法令にもかかわらず、仮名交じり文で書かれていて、寺小屋の読み書きの教材としてもよく利用されていたということです。


板橋宿を歩くー7

2011-04-26 22:03:00 | 板橋宿を歩く

 

文殊院

 

板橋宿本陣のあったスーパー「LIFE」の横の道は、「御成道」。江戸時代、将軍が狩りに行くときに通行した道でした。その「お成道」を挟んで反対側にあるのが「文殊院」。真言宗寺院で、本陣、脇本陣の飯田家の菩提寺でした。檀那の墓所としては狭いかなという感じがしますが、江戸時代からの五輪塔や石碑が並んで、由緒ある家の墓地の雰囲気があります。墓地の最奥右に石碑があります。

  

 

 

           文殊院                 飯田家墓所

 飯田家墓地最奥の石碑には「亡姉 阿静 之碣」と右から2文字ずつ刻されています。

 

阿静とは板橋本陣の娘の名前。この碑文は彼女の弟が姉を偲んで建立したものですが、静が加賀下屋敷に蟄居していた六代藩主吉徳の七女祐仙院に仕え、愛遇されていたことがこまごまと書かれています。静は健康を害して暇をもらい、自宅の本陣で療養に努めますが、祐仙院は毎日見舞品を届けさせた上、暇を取ってから亡くなるまでの給金も支払ったと書かれています。前田家下屋敷と周辺住民との交流の記録ですが、それが本陣の娘ですから、なにをか況や。板橋宿本陣の飯田家らしく、当時一流の学者に文章を依頼し、著名な書家に文字を書かせて、それを当代きっての石工廣瀬群鶴が彫り込んでいる、極めて質の高い石碑です。

 

遊女の墓と投げ込み寺

「文殊院」には、もうひとつ有名な墓があります。「遊女の墓」。板橋遊廓「盛元」の女郎4人の戒名、俗名、没年月日が刻まれている極めて珍しい墓標です。

 

珍しいというのは、江戸時代、娼妓が死んで、遺体の引き取り手がない場合、抱え主は遺体をむしろでしばり、銭200文を添えて、宿場内の決まった寺に投げ捨てる習わしで、墓を建てることなどありえなかったからです。遺体を投げ込むから「投げ込寺」。品川宿の「海蔵寺」、内藤新宿の「成覚寺」、千住の「浄閑寺」とともにここ板橋の「文殊院」も「投げ込み寺」として有名でした。品川宿の「海蔵寺」には「無縁首塚」があります。ここには元禄4年(1691)から明和2年(1765)までの75年間に獄死した7000余人のほか、鈴か森刑場での処刑者、宿場飯盛女の遺体などが一緒に葬られています。

内藤新宿の「成覚寺」には、「子供合埋碑」があり、施主として「旅籠屋中」の文が刻まれています。子供とは娼妓を指し、抱え主の子供という扱いなのです。投げ込まれた子供の数、約3000人。

 

    新宿「成覚寺」子供合埋碑

 

千住「浄閑寺」には「新吉原総霊塔」なる笠石塔の供養塔があります。日本堤に新吉原遊廓が出来てから昭和33年の売春防止法施行に至る間の300年間にこの寺に投げ込まれた娼妓の数、なんと約25000人。供養塔の前の石碑には「生まれては苦界 死しては浄閑寺」という川柳が刻されています。こうして三宿の投げ込み寺の実態を見てくると、「文殊院」の遊女の墓がいかに例外的であるかが分かります。

 

 


2 中教正金崎彦兵衛

2011-04-23 20:43:15 | 石碑

「看板に偽りあり」と指弾されるだろうか。

「石仏散歩」と題して、初っ端の話題が石碑だからである。

巡拝塔は、普通、観音霊場や弘法大師霊場参拝を記念して造立される。

観音霊場だと西国33カ所、坂東33カ所、秩父34カ所を回って「奉順禮西国坂東秩父百番供養塔」を建てる。

銘文はいろいろだが、百という数字が入っていることが多い。

                    満願寺(世田谷区)

これに四国八十八カ所を加えると188になる。

百八十八カ所と誇らしげに刻まれることになる。

                   宝幢院(北区)

「誇らしげに」と主観的表現をしたのは、江戸時代、188カ所霊場を回ることは大変なことだったからである。

移動はすべて徒歩。

気の遠くなるような行程なのである。

坂東霊場の寺の納経所で「現在、歩いて回る人はいますか」と訊いたことがある。

「1年に一人いるかいないか」という返事だった。

一人でもいるということに、驚いてしまう。

坂東三十三カ所は、西は小田原、東は銚子、北は日光と1都6県に点在している。

1か月で歩いて回れるものかどうか。

インターネットで検索してみたら、歩いて回った人の記録があった。

関西在住の定年退職者が平成16年、坂東三十三観音1149キロを45日で踏破したという。

彼は定年退職した平成14年に、まず、四国八十八ケ所巡りをした。

その克明な記録によれば、四国霊場巡りの距離は1126キロ、44日で結願したというから一日平均26キロ歩いたことになる。

そして、なんと翌平成15年には、西国三十三観音巡りに挑戦、1034キロを39日かけて回ってしまう。

この日にちには、自宅から札所1番まで、そして、結願寺からの帰りの行程は含まれていない。

当然、新幹線や電車を乗り継いで往復したのだが、江戸時代の巡礼者は霊場へも歩いて行ったから、更に日数が増えることになる。

なんでこんなまだろっこい書き方をするかというと、霊場巡礼は生易しいことではないことを強調したかったからである。

 

と、いうことで、やっと本題に入る。

とんでもない「巡拝塔」があるのだ。

場所は、東京高輪の「高野山東京別院」。

本堂に向かって右手の石造物群の中にそれはあった。

 

石碑正面には「四国八拾八箇所四度高野山四度、御府内八拾八箇所八拾八度、西国三度秩父坂東参拝」と刻してある。

御府内とは、江戸城を中心に品川、四谷、板橋、千住、本所、深川の内側の地域。

そこに四国八十八ケ所を模して作られた遍路コースが御府内八拾八箇所です。

碑の右側側面の刻文は「御嶽山三拾三度大日本国中大社富士山拾七度」とあり、

 

更に左側には「湯殿山月山羽黒山、南部恐山越中立山参拝」とある。

ものすごい人がいるもんだと思いながら、碑の背後に回る。

刻まれていたのはこの石碑の主人公の名前。

「明治三十二年六月 品川 三笠山講元 中教正 金嵜彦兵衛 七拾三翁」。

文政年間の生まれで、人生の半分以上は江戸時代に過ごしてきた男ということになる。

金崎彦兵衛とは、いかなる人物か。

急に知りたくなった。

石碑がある高野山東京別院にまず訊いてみた。

「全く見当もつかない」ということだった。

品川区役所の文化財保護課へも足を運んだ。

品川区では、有名な人かも知れないと思ったからである。

担当職員は金崎彦兵衛を知らなかった。

有名人ではないことになる。

「調べてみます。時間をください」と親切な対応。

1週間後、電話があった。

「調べたけれど、分からなかった」との返事だった。

頼りにしていた一筋の糸がプツンと切れて、ほぼあきらめかけていた時、インターネットで「金崎彦兵衛」を検索してみた。

これが、なんとヒットしたのである。

品川の二つの神社、荏原神社と品川神社の狛犬に金崎彦兵衛の名前が刻まれているという情報だった。

写真もある。

荏原神社の狛犬の刻文                    品川神社の狛犬の刻文

似通った刻文だが、一点異なっている所がある。

荏原神社には、「中教正」の肩書がついている。

そういえば、高野山東京別院の石碑にも「中教正」はあった。

この聞き慣れない「中教正」とは何だろうか。 

調べてみた。

どうやら宗教教育に関わる宗教官吏の位階らしいのである。

明治3年、政府は天皇に神格を与え、神道を国教と定める方針を決めた。

その宣布にあたったのが教導職。

教導職は無給の官吏で、神官や神道家、僧侶などが任命された。

その位階は、大、中、小に分かれ、中教正はそのひとつの位だった。

教導職が何を教えていたかは不明だが、もしかしたら、巡拝の先達の役割もその任にあったのかも知れない。

そう考えれば、常軌を逸する金崎翁の巡拝履歴も理解できるような気がする。

もっと「中教正金崎彦兵衛」のことを知りたくて、今度は品川の神社に行った。

まず荏原神社へ。

ここの狛犬には、中教正の文字がある。

事務所のベルを押したら、年配のご婦人が現れた。

「金崎彦兵衛については、何も知らないが、品川のお米屋さんだと聞いている」とのこと。

その米屋がどこにあるのかなど、詳しいことは一切分からないという返事だった。

結果的には、神社の選択を間違えたいた。

品川神社へ先に行けば、良かったのだった

金崎彦兵衛は、品川神社の氏子だったからである。

そうとは知らず、荏原神社で得た不確かな情報、品川のお米屋の線をたどることにした。

荏原神社を出るとそこが旧品川宿の街並み。

街並みからちょっと離れた目黒川沿いにある米屋に飛び込んだ。

「金崎さんというお米屋はありますか」。

「あるよ」という答えにびっくりした。

期待していなかっただけに、驚きは大きい。

もう商売はしていないが、おかみさんが家にいるはずだという。

50メートルも離れていない場所に「金崎」という表札を見つけた。

アパート風のモルタル二階家の一階中央部分が通路になっていて、その通路の先に金崎家はあった。

呼び鈴を押す。

返事をしながら出てきたご婦人は、しかし、戸を開けてくれない。

ガラス戸だから、表情は分かるのだが、その表情は硬い。

見知らぬ他人の突然の訪問に警戒しているようで、聞いたことにしか答えない。

イエス、ノーの返事を総合すると、彼女は彦兵衛さんの子孫の嫁さんらしい。

嫁いできたときには、彦兵衛さんは既に亡くなっていて、面識はないという。

彦兵衛さんに関する記事や写真など記録の類も一切ないと取り付く島もない。

わずか数分で退去せざるをえなかった。

最後に彦兵衛さんの墓をお参りしたいのだがというと、すんなり麻布の寺を教えてくれたのが、意外だった。

 

不十分ながら、初期の目的を達成し、帰途についた。

「新馬場駅」へ入ろうとして、道の向こうの品川神社に気付いた。

次の予定もないので、寄り道することに。

傾斜の厳しい石段を登ると境内が広がる。

その右側の小高い地点に御嶽神社がある。

その前と横に2基の石碑。

昭和4年と昭和51年の設立で、設立者は品川三笠山元講。

よく見ると両方の世話人に金崎姓があるのが分かる。

昭和4年のには、金崎彦太郎、昭和51年の石碑には金崎之彦とある。

   昭和4年の世話人名簿             昭和51年の世話人名簿

これは、彦兵衛さんの子孫ではないか、と直感した。

彦兵衛さんは明治32年に73歳だった(高野山東京別院の石碑)のだから、彦太郎さんは孫、之彦さんはひ孫にあたるのではないかと推測できる。

金崎家で名前に彦がつくから彦兵衛さんの子孫ではないかという推理は、後刻墓参りに行って確かであることが確認された。

金崎家之墓の側面に、昭和三十八月年建之 施主金崎彦太郎と彫られてあるからである。

「中教正金崎彦兵衛」の話は、これでジエンド。

神官でもなく、僧侶でもない米屋の主人の金崎彦兵衛さんがなぜ教導職を任ぜられたのか、肝心の話がうやむやのまま終わりにするのは気が引ける。

品川神社や三笠山講、それに品川のお米屋さんなどに具に聞いて回れば、もっと詳しい人となりや当時の記録、写真などが出てきそうではあるが、それはまたの機会に回すことにしたい。

関連事項を検索していたら、四国八十八ケ所を慶應2年から大正11年までの間に、歩いて280回も回ったひとがいることを知った。世の中は広い。常識では測れない人がいるものだと感嘆せざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


板橋宿を歩く-6

2011-04-21 19:07:05 | 板橋宿を歩く

大旅籠・伊勢屋孫兵衛

平尾宿の方から来て、「遍照寺」の先の小路を入るとレンガ塀の家があります。塀には鉄鋼板の帯が横に入っていて、いかにも頑丈そう。ここが江戸時代、板橋宿一といわれた旅籠「伊勢屋孫兵衛」、略して「伊勢孫」の跡地。200人は泊まれる大きな旅館でした

 

上右の絵は『諸国定宿旅人止宿之図』(安政2年・1855)。商人が安心して宿泊できる定宿を紹介するガイドブックで、板橋宿では「伊勢孫」が取り上げられています。図の中の「東講」というのは、旅籠の組合で、ほかに浪速講、江戸日出講などもありました。「伊勢孫」は宿泊のほか、江戸の名産品や大根、ニンジンなどのタネを地方へ発送する今日の宅配便業務も営んでいました。

平旅籠は間口の広さで大、中、小に分けられていて、「伊勢孫」は大。間口6間の建物でした。中は4間、小は3間以下と決められていました。旅芸人や雲助などが泊まる自炊の木賃宿は、上宿に集中していました。その木賃宿にすら泊まることができず、野宿していた貧乏人も少くなかったのです。

この「伊勢孫」の反対側にあったのが「伊勢屋平六」。『江戸名所図会』に詳しく描かれています。「伊勢屋平六」は「乗蓮寺」の門前町の一店で、絵図では参道の左の茶屋、板橋駅と書かれた下が「平六」の店先です。広い間口で繁盛している様子が手にとるように分かります。

 

 

 

 

絵図の上半分は「乗蓮寺」。広大な境内を有する寺でした。今は、赤塚に移転、東京大仏のお寺として名を馳せています。

 

板橋宿本陣跡

旧中山道を歩いて、がっかりするのが「本陣跡」。黒いスチールの標識が、民家の入り口にポツンと立っているだけ。この標識に気付かないで通り過ぎるひとが少なくありません。「板橋宿」ほどの歴史と規模の史跡の中心地がこれほどさびしいのは、他では見られないことです。

本陣跡地は、今は「LIFE」というスーパーマーケットになっているのですが、そのどこにも本陣跡地の表示はありません。標識は隣の「飯田不動産」の敷地に立っています。「板橋宿本陣」は飯田家が取り仕切っていました。場所柄と飯田の姓の取り合わせから本陣「飯田新左衛門家」か、脇本陣で名主の「飯田宇平衛家」の子孫の不動産会社でしょうが、もっと広いスペースを提供してここが本陣跡地であることをPRしたらいいのにと思います。それは御先祖の供養にもなる筈ですから。

 

「板橋宿」には、本陣が中宿に、脇本陣が平尾、中宿、上宿に1軒ずつ3カ所ありました。本陣は大旅籠とも呼ばれていて、参勤交代時の大名の宿泊所でした。板橋本陣の建坪は97坪、門、玄関、上段の間を備える大邸宅でした。ときたまの需要に応えるために常時大勢の従業員を抱えているわけにもゆかず、その都度アルバイターで対応していたそうで、本陣の経営は苦しかったようです。

 アルバイターの話でいえば、参勤交代の大名たちは、ここ板橋宿本陣で正装し、所定の行列を組んで帰国の途についたのですが、この行列にも規則があり、馬、足軽、中間・人足の下限が決められていました。ちなみに加賀藩の場合、総勢2000人の大編成で13日かけて金沢まで練り歩きました。しかし、そうした藩主ばかりではありません。貧乏藩にも規則は課せられます。体裁は整えたい。しかし、金はない。どうしたか。板橋宿を通過する間だけ、中間・人足は日雇いのアルバイトをそれらしく仕立ててしのいだと言われています。

そもそも、参勤交代が確立したのは、寛永12年(1635)。三代将軍家光の治世下で、目的は将軍への服従を参勤交代という形で示させることにありました。1年は江戸にいて、その翌年は国元で過ごすのが原則。当初は外様大名が対象でしたが、すぐ親藩や譜代大名にも義務づけられました。

ここで、参勤交代雑学あれこれ。加賀百万石の前田家の行列は2000人の大編成でしたから、1日ではとても終わりません。通過するのに2日から3日かかったと言われています。一度に2000人も宿泊できる施設がなかったからです。

 

      加賀藩大名行列図屏風(石川県立歴史博物館所蔵)

では、なぜ、2000人もの行列になるのか。それは日常の生活を維持するために必要なものを全部運んだからでした。殿さまは本陣に泊りますが、食事は賄い奉行の責任ですべて家来が作ります。食材はもちろん、調味料、鍋釜を持参、漬物は漬物石を乗せたまま運びました。出来上がった食事は毒味役が毒味をしたものでなければ箸をつけません。「不味い」といったり、食べ残したりすると賄い担当者の首が飛ぶので、殿さまはどんな不味くても、また、お腹の調子が悪くても無理して全部食べたと言われます。殿さまであることも大変なことです。風呂桶ももちろん持参です。

参勤交代の費用も莫大でした。加賀藩前田家の場合、国元から江戸までは、通常、12泊13日。途中、川幅5メートル以上の川が84か所あり、そのうち40%の38か所には橋が架かっていませんでした。橋がなければ舟で渡るしかありませんが、例えば信濃の犀川の場合、人の渡し賃は47文、馬は120文。2000人と200頭の川越費用は、約120貫。1両40貫とすれば、30両。橋のない川は40もあったわけですから、川越え賃だけで1200両。1両十万円とすれば1億2000万の計算になります。宿泊費が膨大ですから、トータルは気が遠くなるような経費となって、国元の財政を常に圧迫する要因となっていました。

参勤交代の行列がすれ違うことがあります。徳川幕府は格つけ社会ですから、格下の大名は駕籠から降りるか、片足だけ駕籠から足をだして先方に目礼をしなければなりません。それはプライドに関わるので、格上行列とぶつかることが分かれば、裏道に回避して接触を避ける者もいました。

圧倒的パワーは将軍。将軍への献上品である茶壷を運ぶ行列でも諸大名は道を譲って駕籠から降りなければならなかったのです。「茶壷に追われてトッピンシャン」とは正にこのことです。

 

 


板橋宿を歩く-5

2011-04-19 14:54:17 | 板橋宿を歩く

妓楼・新藤楼

今は「板橋観光センター」がある通りの突き当たりに妓楼「新藤楼」はありました。下の写真、寺院の入り口と見間違う唐破風建物は、板橋郷土資料館に保存されている「新藤楼」の玄関。宿場では、一般商店と並んで妓楼がありました。大正年間に作成された「板橋宿跡絵図」を見ると魚屋とオモチャ屋に挟まれて、「新藤楼」はあります。格子をめぐらした店先に遊女が座って客を待つ光景が、町の日常風景として存在していたわけです。「教育上よろしくない」などというしたり顔の意見は皆無でした。

        新藤楼の玄関(板橋郷土資料館に保存)

江戸幕府は公認した吉原遊郭以外の岡場所を厳しく取り締まっていましたが、享保3年(1718)、宿駅助成の一助として、旅籠屋一軒につき二人の飯盛女を置くことを許可しました。安永元年(1772)には、飯盛女の総数も定められ、品川宿は500人、千住、板橋、内藤新宿は150人となります。

明治維新では、いろいろと大胆な改革が行われました。明治5年の「芸娼妓解放令」は諸外国の人身売買批判を回避するための法令でしたが、自由を得たものの実家にも帰れず、私娼になるものが続出、風紀の乱れを防ぐため、政府は方針を転換します。新たに「貸座敷渡世規則」なるものを公布するのですが、妓楼が貸座敷と名前を変えただけで、売春の実態は変わりませんでした。

板橋遊郭の最盛期は、日清、日露の両戦役ころから明治末まで。加賀下屋敷に陸軍の火薬製造所が設けられ、陸軍関係者が上得意でした。貸座敷14軒、娼妓222人という記録が残っています。

大正2年には娼妓の性病検査が義務化されます。しかし、この頃からポツポツ廃業する妓楼が出始めて日中戦争が始まる昭和12年に一斉に廃業することになります。様々な統制令の施行が原因でした。ただ一軒残った「新藤楼」も昭和19年に閉鎖、軍需工場に動員された学徒の寮として転身しました。

戦後は遊郭として再出発することなく、建物の老朽化が進み、次々と取り壊されて行きました。その跡地には、マンションやスーパーマーケットが建ち、昔の面影は、今やどこにも残っていません。

≪追加≫

2014年3月25日、コメント欄に田口重久さんという方から投稿がありました。「亡父が撮影した取り壊し前の新藤楼の写真がある」ということで、1970-1980年代の板橋区の各地の写真と共に新藤楼の写真を数葉送っていただきました。謝辞を述べるとともに写真を掲載させていただきます。

 旧板橋遊郭新藤楼近景 1974.02.03

王子新道

「明治20年板橋町の中央より王子神社の森まで20余丁の新道を開築して通行便宜を得るを図る。此地火薬製造所と同じく加州候の別荘にて風光にとめり。石神井川に架たるは金沢橋と号す。近年新道の左右に桜樹数株を植へて春時の風光を添たり」(『東京名所監』)

 

 

ここに言う新道が「王子新道」です。明治21年2月11日に開通しました。 

中山道の宿駅として栄えた板橋宿も、鉄道が宿場をはずれて開通するとみるみるうちに荒廃してゆきます。悪いことは重なるもので、明治17年には火事が発生し300軒が消失、まさに「泣き面にハチ」のあり様でした。 

 働く場を求めて、当時、急速に発展しつつあった王子へ行きたくても道がない。篤い地元の要望を受けて、東京府が府の事業として道路開築に乗りだします。6年の歳月と事業費5000円(5000万円ではない!)をかけて出来たのが、王子新道。旧中山道と交差するこの地点が王子新道の起点で、昭和30年ころまでは交差点の真ん中にロータリーが設けられていたので、通称ロータリーと呼ばれていました。

 

遍照寺

 

 旧中山道を歩いていて、「遍照寺」の存在に気付く人は少ないでしょう。参道がそれらしくないので、寺だと分かりにくいのです。

                 遍照寺参道

 

江戸時代、宿場の第一の役割は旅をする大名や役人の休泊施設であること、加えて旅人の荷物を次の宿場まで送る為の人馬を提供することでした。板橋駅が常備していなければならない人馬は、人足50人、馬50頭。「遍照寺」境内はその50頭の馬のつなぎ場でもありました。参道脇にいくつか立っている馬頭観音碑は、その名残りです。

 

 

いずれも馬の安全を祈願したものですが、一基珍しい墓標があります。「鹿毛馬 瀬川」。大正年間に建てられたものですが、こうして愛馬の名前を記した墓はほとんどありません。ダービーやクラシックレースの常勝馬でさえも墓がたっている馬は10頭に満たないでしょう。みんな馬肉として食べられてしまいます。「瀬川」は家族同様に扱われ、その死は子供の死と同じように慈しまれたのでしょう。素敵な、馬のお墓です。

 

 

 

 

 

                           

 

 

 今の寂れた寺からは想像できませんが、江戸期、「遍照寺」は賑わっていたようです。それは明治になっても変わりませんでした。下の絵馬は、明治19年、妓楼千代本楼の旦那と遊女が遍照寺に参詣している絵図。描き手は柴佐一。上宿在住の絵師です。

 


板橋宿を歩く-4

2011-04-15 20:07:02 | 板橋宿を歩く

観明寺

観明寺には、加賀前田家下屋敷の名残りの施設が二つ移転されています。ひとつは加賀下屋敷への道で提示した赤門。本郷東大に残る赤門に比べれば貧弱ですが、下屋敷だから当然でしょうか。

 

もう一つは出世稲荷。加賀様が金にあかして建立した社で、龍の彫刻は左甚五郎作と茂伝えられているそうですが、マユツバでしょう。

 

 

         観明寺境内の出世稲荷

 観明寺にも庚申塔があります。寛文元年、都内最古という触れ込みですが、小屋囲いになっていて、格子の間から覗かなくてはならないので、像容がはっきりしないのは残念です。格子の間にレンズを突っ込んで撮影したのが、下の写真ですが、顔は崩れて表情が読み取れません。東光寺の庚申塔と同一石工ではないかと見られています。

 庚申とは「かのえさる」のこと。十干と十二支の組み合わせで、10と12の最小公倍数は60ですから、60日ごとに回ってきます。この夜、眠ると三尸(さんし)という虫が口から出て天へ昇り、天の神にその人の悪事をバラスという中国の民間伝説からきた考えで、ならば寝ないでいようと夜通し酒を飲み、騒ぐ習わしが江戸時代にはありました。娯楽に乏しい貧しい人々の生活の知恵でもあったわけです。こうした集まりを庚申待ちといい、普通は年に6回ですが、年によっては7回回ってくることがありました。そうした珍しい7回目を記念して庚申塔は建てられたと言われています。 

        都内最古の青面金剛庚申塔(寛文元年

 

平尾脇本陣豊田家

銭湯「花の湯」の脇を入った左手に平尾宿の脇本陣・豊田家がありました。今はマンションになって、脇本陣跡地の標識があるだけです。

 

 

  

          平尾宿脇本陣跡地のマンション 

板橋刑場で処刑された近藤勇は処刑の日までこの脇本陣で監禁されていました。土佐藩出身の官軍兵士らが、きつい拷問をしたに違いありません。

 

 

 

豊田家の古文書はほとんど残されていませんが、加藤玄亀という板橋宿在住の文人が書いた「我衣」によれば、文政8年(1824)、長崎から運ばれてきたラクダ一対が江戸に入る前日、ここ脇本陣豊田家で観覧に供され、「宿」始まって以来の大騒ぎになったということです。

 

 

       江戸初お目見得のラクダ


板橋宿を歩く-3

2011-04-13 19:52:49 | 板橋宿を歩く

平尾追分

 旧中山道と新中山道(国道17号)が交差する地点が、かつての平尾宿。ビルとビルの間の右の道が旧中山道。左の高速道路とビルの間の道が川越街道。ここが分岐点の追分です。

 

下の絵は上の写真を撮った場所から中宿方向を見た昔の想像図。板橋区立郷土資料館が開いた企画展「平尾宿―脇本陣豊田家」の展示資料集の表紙として描かれました。左が川越街道です。

松を背に座しているのが、平尾追分地蔵。道中安全を祈願して享保4年(1719)、板橋宿や加賀下屋敷の関係者200人の寄進により建立されました。座高3メートル。区内最大の石仏です。

このお地蔵さんは、今、「東光寺」に安置されています。小路を入って「東光寺」に寄ってみましょう。

 

丹舟山東光寺

東光寺は、昔はもっと奥の方の船山という場所にありました。その場所が前田家下屋敷に当てられたため、この地に移ってきました。山号の「丹舟山」に寺の歴史が込められています。

寺は戦災に遭いましたが、石造文化財は原形のまま残っています。

 

                                       丹舟山東光寺

 

宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いの大阪側の総大将。秀吉の側近で朝鮮の役の総大将でもありました。徳川の世となり、幕府に捕えられ、八丈島に流罪、彼の地で亡くなります。

明治3年、子孫71人が内地帰還を許されます。彼らは、遠い親戚の前田家を頼ってここ下屋敷に住み込みました。東光寺より東側には、浮田、八丈などの地名が今も残っています。

 

                       宇喜田秀家の墓

 

 

平尾追分に座していたゆったりと福々しい顔のお地蔵さん。区内最大の丸彫り地蔵です。

 

                          平尾追分地蔵 

 

 

 

 

 

青面金剛を中心に二童子、四夜叉、一猿一鶏が描かれる優れた作品で、当時の宿場の繁栄と豊かな財力が感じ取れます。観明寺の庚申塔に次いで都内2番目の古さ。

                 寛文2年の庚申塔


板橋宿を歩く-2

2011-04-12 19:42:13 | 板橋宿を歩く

 

 加賀藩下屋敷

 

左の写真の見える範囲は全部加賀藩下屋敷。埼京線を東端として写真には写らない藩域が左に大きく広がっています。その広さ約22万坪。 

どの大名家も上、中、下屋敷を江戸に有していました。加賀藩の上屋敷は本郷、中屋敷は駒込、そして下屋敷がここ板橋にありました。 

加賀藩下屋敷は、諸大名の屋敷中最大だったことはよく知られていますが、実は上屋敷も最大でした。そのため普通なら中屋敷にいるはずの隠居や藩士も上屋敷に居住していました。中屋敷には直属奉公人がつめていましたが、下屋敷にはたった一人の士分と50人の足軽がいるだけでした。

加賀藩5代藩主前田綱紀は、80年の治世の間、参勤交代を往復60回もしています。そのなかで彼が下屋敷で休憩した記録は2,3回しかありません。下屋敷によらず、中屋敷へ寄るほうが多かったのです。では広大な下屋敷は何のために使用されたのでしょうか。藩主とその家族の狩猟、保養、遊山の場としてでした。屋敷内には石神井川を利用した回遊式庭園があり、そこで舟を浮かべて園遊会をしたという記録がありますが、それもたった1回。ほとんど藩主が訪れることはありませんでした。もっと下屋敷について書くつもりでいたのですが、内実のあまりのばかばかしさにあきれてこれ以上書く気がしません。

 

 

                         下屋敷御林大綱之絵図 文政7年(1824)

      

 

      

 

 今、この下屋敷跡地には、加賀公園、金沢小学校、加賀中学校、加賀1,2丁目など加賀藩にちなんだ名前の施設や地名が多く見られます。加賀1丁目の東板橋図書館の入り口付近には、加賀藩や金沢市関係の本を集めたコーナーがあり、石神井川を散歩すれば、兼六園に固有の灯篭、ことじ灯篭にぶつかります。

 

 

 

                       ことじ灯篭

 

 石神井川を散歩しているといくつかの「緑地公園」があることに気付きます。この「緑地」は加賀藩下屋敷跡地が明治時代、陸軍の火薬製造所であったことを物語っています。火薬製造所で事故が起これば、大災害となる。その災害被害を食い止める緩衝地として緑地帯が設けられたのでした。板橋に軍の火薬製造所が設置された最大の要因は、下屋敷内の水車が火薬製造の動力源として有効だったからですが、22万坪という広大な土地が事故の際、防波堤となることも重要だったのです。

 板橋区には下屋敷跡地以外にも陸軍用地が広がり、板橋区は軍産都市として発展するわけですが、その萌芽は加賀下屋敷にあったと言って過言ではありません。

 

川越佐次兵衛とサカムカエ

ちょっと寄り道しすぎました。中山道に戻りましょう。江戸時代の地図を見ると加賀藩下屋敷への道から家が立ち並んでいます。一番端が「盛川」。その隣が「伊勢屋佐次兵衛」となっています。現在、荘病院の向かいのレンガ色のビルがその跡地です。戦前、城北の紅灯の巷として栄えた板橋遊廓のここが入り口で、入り口に面していた「新伊勢元楼」の前身が「伊勢屋佐次兵衛」でした。大正から昭和初期の絵図の右上隅に「新伊勢元楼」が見えます。

 

 

天保14年(1843)、「板橋宿」の人口は、2448人。男1053人、女1395人でした。女の方が多いのは、54軒の旅籠のうち18軒は飯盛旅籠で遊女とその予備群がいたからです。もちろん「宿」ですから、宿泊者のための地域だったことは確かですが、賑わいは宿泊者だけがもたらしたわけではありません。

 

              『商家高名録』の伊勢屋佐次兵衛 文政8年(1834)

 『商家高名録』(文政8年、1825)に描かれた「川越伊勢屋佐次兵衛」の看板には、旅籠の文字はありません。代わって「御休泊所」と料理の文字が読み取れます。これは料理屋として利用する客が多かったことを物語っています。

この絵が描かれたより少し前の文政5年、小石川の両替商伊勢屋長兵衛は、念願のお伊勢参りを終えて、無事江戸に戻ってきます。彼が草鞋を脱いだのは「川越伊勢屋佐次兵衛」でした。しかし、宿泊のためではありません。出迎えに来た60-70人の人たちとサカムカエの宴をするためでした。

サカムカエは「境迎え」と書き、長旅をしてきた人の無事を祝う儀式でした。当然、旅立ちの時も盛大な宴を開きます。水盃はその席で交わされました。これをサカオクリ、又はデタチといいます。要するに長い旅に出る場合は、別れの宴をはり、村境まで見送るのが江戸時代の風習で、江戸ではその境が四宿だったということです。

江戸のブームのひとつは旅。伊勢参りや善光寺参り。四国八十八所巡礼、西国三十三所めぐりと長旅も珍しくありませんでした。当然、サカオクリ、サカムカエの宴も頻繁に行われ、「宿」は潤うことになるのでした。

四宿が江戸の境であることは、品川にも千住にも「泪橋」という地名があることからも分かります。送る人たちと送られる旅人が涙ながらに別れたから「泪橋」。板橋宿の上宿にも戦前まで「泪橋」がありました。

川越伊勢屋佐次兵衛店の絵でも木戸をくぐろうとしている何人かの人たちがいて、店の中で立って手を挙げている男がいます。「みなさん、お久しぶりです。達者で戻ってきました。ま、おあがりください」とでも言っている様です。隣に立つのは一足早く会いに来た妻女でしょうか。このあと座敷でサカムカエの宴会が始まるのです。

 

 


1帝釈天三猴

2011-04-10 22:20:23 | 庚申塔

4月10日は、僕の誕生日。

73歳になった。

老化は、肉体的機能の衰えに顕著にあらわれる。

出来て当たり前のことが出来なくなる。

壁に手をつけてないとズボンが穿けない。

尿意が我慢できない。

つい、漏らしてしまう。

心の分野でも変化が生じている。

集中力が持続しない。

すぐ飽きてしまう。

それでも、肉体の変化ほど、精神は変わっていないように思える。

 自分がそう思ってるだけで、他人にどう映っているかは分からないが。

でも、ひとつだけ明らかに変わったことがある。

石仏めぐりだ。

石仏に興味を抱くなんて、60代まで、考えられなかった。

だから、大きな変化である。

もともと宗教に無関心だった。

親鸞が浄土真宗の始祖であることは、受験の知識として知ってはいた。

しかし、それが我が家の宗派であるとは、母の葬儀の時まで知らなかった。

石仏は、どれも、「お地蔵さん」だとばかり思い込んでいた。

それが、ガンを患ったことで、少し変わった。

古稀を目前にしてのことである。

変化の具体例は、「八十八ケ所巡り」をしたことか。

僕の故郷は佐渡が島だが、島には、四国霊場を模した「佐渡八十八ケ所」がある。

春先に無事退院し、6月と10月、2回、島を隈なく回った。

信仰心が急に芽生えたわけではない。

子供のころ佐渡にはいたが、行ったことのない場所ばかりで、佐渡を知るよすがとしての霊場巡りだった。

結果として、知らなかった佐渡を多く知りえた。

副産物もあった。

石仏に気がついたことである。

佐渡は、地蔵の島といってもいい。

それほど石仏地蔵に満ちている。

数多い石仏の中で、一点、惚れ込んだ地蔵があった。

モナリザの微笑みが「謎の微笑み」なら、このお地蔵さんの微笑みは「癒しの微笑み」と言えようか。

人々の苦悩を一切引き受けて、なおかつ、微笑を絶やさない。

無限の包容力で暖かく包み込んでくれる安心感がそこにはある。

雪に埋もれ、雨に打たれ、陽に焼かれる。

劣悪な環境に身を置きながら、微笑みを絶やさず合掌して立ちつくすその姿には、本堂の奥に鎮座するご本尊には感じ取れない、「ありがたさ」がにじみ出ている。

この出会いがあって、僕は一挙に石仏フアンになった。

あることに興味を持てば、本を読んで知識を得ようとする。

誰もがそうするように、僕も石仏の本を買ってきた。

その中に、若杉慧氏の本があった。

若杉氏の住居は練馬区にあったから、とり上げる石仏は必然的に練馬区の石仏が多くなる。

隣の板橋区の石仏もしばしば登場した。

僕は板橋の住民だから、彼を魅了してやまない石仏に会いに行くのは、簡単なことだった。

こうして、まず、板橋の石仏めぐりが始まった。

この頃、読んだ本には、佐久間阿佐緒氏の著作も何冊かあった。

佐久間氏の関心事は、江戸の石仏墓標。

石仏墓標だから、地蔵と聖観音、如意輪観音がメインのターゲットとなる。

これは、石仏初心者には分かりいい素材だった。

仏像の造形が見慣れたものだったからである。

墓地に入り込んでは、手当たりしだい写真を撮りまくった。

無縁塔があれば、大喜び。

数が稼げるからである。

撮った写真は、場所(主として寺、時に神社や路傍)、像容、制作年代別に分類した。

去年(2010年)、回った寺社966、撮った枚数は2万5000枚となった。

撮っているうちに気付いたことがある。

墓地と境内の石仏には、違いがあるのだ。

庚申塔は、境内にはあるが、墓地にはない。

境内にある如意輪観音は、十九夜塔の主尊であって、墓標ではない。

そうしたことは、撮影の現場を多摩地区、埼玉、千葉、神奈川など23区外に求めることで、より鮮明になった。

都内には少なくなった庚申塔や夜待塔が、近郷にはまだまだ多く残っているからである。

石仏フアンと言いながら、僕は、青面金剛の庚申塔を敬遠してきたきらいがある。

まず、その像容が見慣れないものだった。

庚申待ちという人々の営みも、なかなか想像できない。

だから、ついつい青面金剛にレンズを向けなくなる。

ましてや、文字塔などは論外だった。

しかし、23区外に足を延ばすとそんなことは言っていられなくなる。

圧倒的数量の前に、個人的趣向など吹き飛んでしまうのだ。

最初は、庚申塔1種類の分類が、青面金剛と猿田彦に分かれ、そこに夫々の文字碑も加わるのは時間の問題だった。

すぐに、青面金剛は、2手、4手、6手、8手に分類され、青面金剛以外の主尊、阿弥陀如来や地蔵菩薩から石祠や宝筐印塔に至る種々雑多の主尊別分類も必要になる。

下部の猿も1猿から3猿まで区分される。

夜待塔の分類にも同じ試行錯誤があった。

地蔵の微笑が素敵だからと始まった石仏めぐりは、こうしてなにやら、複雑な事態に陥ることになった。

ここで、今日のタイトル「帝釈天三猴」に話を持っていこう。

今年(2011年)は桜の開花が遅れて、東京では、おととい満開となった。

石神井川の桜並木を王子方向に向かうと谷津大観音が座している。

東京大仏に匹敵する巨大観音だが、地元の人しか知らない無名の観音さまである。

桜と観音様を撮りたかったのだが、真横の桜が枯れていて、さえない写真になった。

この大観音を所有する寺は「寿徳寺」。

100メートルも離れていない場所にある。

確認したいこともあって、寺に寄ってみる。

確認したいことというのは、地蔵を主尊とする庚申塔があると聞いたからである。

2年前に「寿徳寺」の石仏写真は撮ってある。

分類仕訳を確認してみたが、地蔵は何体かあるが、庚申塔に分類されているものはない。

しかし、当時は、庚申塔への関心は薄く、また知識もなかったので、見逃した可能性が高い。

境内に入り、左手の無縁仏コーナーへ向かう。

墓標にしては大きな地蔵立像が目に入ってきた。

目線をパンダウン。

三猿がいる。

庚申塔に間違いなかった。

 

この地蔵庚申塔から最も離れた所に「帝釈天三猴」の石碑があった。

「猴」が猿の異字であることは知っていたから、もしかしたら、これも庚申塔かと思った。

家に帰り『日本石仏事典』を開く。

推測は正しかった。

帝釈天は、庚申塔の主尊であり、「帝釈天王」、「帝釈尊天」などの文字碑は広く分布するとある。

何が言いたいかというと、「石仏散歩」と題してはみても、僕の石仏知識はこの程度のことだということである。

撮影に出かけるたびに不明な像容、読めない文字にぶつかって、それを調べるのが一苦労。

調べても分からないことの方が多い。

無知の間違いをいくつも重ねたブログになりそうだ。

それを気にしていたら、一行も書けないことになる。

間違いを指摘し、訂正してくれる奇特な御仁の出現を待つばかりなのである。