石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

132東京の芭蕉句碑巡り-6(江東区ー3)

2017-11-25 08:59:21 | 句碑

江東区三好の寺町は、寺が密集して壮観だ。

その寺町にも芭蕉句碑があるというので、勢至院を訪ねる。

◇浄土宗・勢至院(江東区三好1-4)

草の戸も 住かわる代ぞ 雛の家

この句碑があることになっているが、どこにも見当たらない。

狭い境内で、あれば見逃すことはなさそう。

仕方なく呼び鈴を押す。

出てきた住職は「寺を改築した時撤去しました。先代の個人的趣味で造立したもので、文化財的な価値はありません」と云う。

 

次に富岡八幡宮へ。

境内が広いので、自分で探すのは大変だと思い、社務所に直行。

巫女さんがいろいろ調べてくれるが、分からない。

「なんていう句ですか」と聞かれたので、持参資料を見せたら「あ、これはここではありません」と云う。

よく見たら「富賀岡八幡宮」とある。

目の錯覚というか思い込みというか、「富岡八幡宮」だとばかり決め込んでいた。

「富賀岡八幡宮」という似通った神社があることを知らなかったからだが、文字をひと固まりでとらえるから、「富賀岡八幡宮」を「富岡八幡宮」とつい思い込んでしまう。

その「富賀岡八幡宮」へ。

◇富賀岡八幡宮(江東区南砂7)

富賀岡八幡宮界隈を「元八幡」と呼ぶのは、富岡八幡宮の祭神「八幡像」は当宮から運ばれたことによる。

創建時、社前は海が広がっていた。

江戸期も海を臨む絶景地として有名だった。

 

芭蕉句碑は、本殿前左、狛犬横の茂みの中にある。

目にかかる 雲やしばしの 渡り鳥

元禄7年(1694)と云えば、芭蕉没年ですが、この年、関西で詠んだ句とされている。

渡り鳥が群れをなして雲がなびくように流れ飛ぶ光景は、海に面するこの神社に相応しいと選句されたのだろうか。

碑裏には「文化二乙丑年(1805)初秋建立」の横に9人の名が連記されている。

本殿の裏地には、富士塚がある。

数多い富士講の石碑に往時の富士信仰の熱狂が感じ取れる。

熱狂といえば、並んで横たわる力石からも、男たちの歓声が聞こえてきそうだ。

渡り鳥の雲、富士塚、力石、すべては過去の遺物となって、わびしい空気が漂う。

 

 亀戸行きのバスに乗り、バス停大島5丁目で下車。

バス停から来た方向を振り返ると小名木川にかかる橋が小山のように盛り上がっている。

橋の下は電車が通っているかのようだが、下は川。

この辺りは海抜0m地帯で、川が地面より高い。

その小名木川に面してあるのが、大島稲荷神社。

◇大島稲荷神社(東京都江東区大島5)

 

大島稲荷神社には、芭蕉句碑が2基ある。

右手に矢立と筆、左手には巻紙を持つ芭蕉座像を挟んで、左右に一句ずつ。

まず向かって左の句碑は、

自然石の上部に「女木塚(おなぎづか)」と大書、その下に

秋に添うて 行(ゆか)ばや末は 小松川

と刻されているが、ほとんど句は読み取れない。

此の句にまつわる経緯が、後方の「たてかん」に書いてある。

女木塚の裏に其日庵社中造立とありますが年代(不)詳。この句は大坂へ旅立つ二年前の元禄5年(1692)芭蕉50歳の時奥の細道に旅立ちする前の句でありまして芭蕉は深川から舟で川下りをして神社の前を流れる小名木川に舟を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中舟を留て当神社に立寄り参拝を致しまして境内のこの森の中で川の流れを眺めながらその際詠んだのがこの句であります。
秋に添うて 行はや末は 小松川」

かなりの悪文だが、誰もそのことを指摘しなかったと見える。

地位の高い人だから言いにくかったのだろうか。

そして、芭蕉像の右には、新しい句碑。

「 松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑

 五月雨を あつめて早いし 最上川

       大島稲荷神社 平成元年九月十九日
          第六代宮司 佐竹良子建之」

この句碑は、芭蕉座像と同時に建立されたが、なぜ、この地に最上川の句なのか、選定理由は明らかではない。

境内にイノシシがいる。

十二支の亥だろうが、珍しいのでパチリ。

 

バスの終点亀戸駅から今度は歩いて「亀戸天神」へ。

◇亀戸天神社(東京都江東区亀戸3)

亀戸天神には、石碑が100基ほどもあるという。

芭蕉句碑を探すのに手こずるかと案じたが、藤棚の下に難なく見つかった。

しばらくは 花の上なる 月夜哉

「満開の桜の上に月が顔を見せている。月と花。やがて月は西に落ちて、この組み合わせは見れなくなってしまう」。

句碑は、亀戸天神の祭神菅原道真9百年祭御忌に、神社近辺に住む芭蕉門下の雪中庵関係者が芭蕉150回忌を合わせて建立したもの。

だから芭蕉の句の下には、芭蕉の高弟で雪中庵一世服部嵐雪、二世桜井利登、三世大島蓼太の句が、裏面には、四世雪中庵完来、夜雪庵晋成、葎雪午心の句が刻まれている。

この句碑は、第二次大戦中行方不明となったが、昭和50年代、藤棚の下の土中から掘り起こされた。

持参資料には、亀戸天神には、もう1基、

春もやや 景色ととのふ 月と梅

があることになっている。

二度境内を回ったが見当たらないので、社務所へ。

応対してくれた禰宜は、『亀戸天神社境内石碑案内』を開いて調べてくれるが、分からない。

神社が知らない句碑があるなんて、そんなことがあるのだろうか。


 

 

 地図では長寿禅寺の右側が、亀戸天神(なぜか神社名がない)。

亀戸天神を出て、長寿禅寺の壁沿いに西へ向かうと横十間川にぶつかる。

右折して数百メートルで、次の目的地「龍眼寺(萩寺)」に着く。

 北西にスカイツリーが見える。

◇天台宗・龍眼寺(東京都江東区亀戸3)

 左右の門柱には「慈雲山」、「龍眼寺」とあり、その両袖兵には黒石板がはめ込まれている。

右側には、

濡れて行(ゆく) 人もおかしや 雨の萩

 と芭蕉の句が刻まれ、左の板には、当寺の由来が記されている。

龍眼寺が「萩寺」と呼ばれるようになったのは、元禄6年(1693)、その時の住職元珍和尚が各地から萩数十種を選んで、庭園に植えたことによる。

その後、訪れる文人雅客引きも切らず、東都名所となって久しい。

私が訪れたのは9月下旬だったが、折しも満開の萩が咲き乱れていた。

しかし、そこは萩、満開といっても楚々として控えめ。

その萩に埋もれて芭蕉の句碑が1基ある。

濡れて行 人もをかしや 雨の萩

門柱脇の句と同じだが、こちらは「おかしや」ではなく「をかしや」。

この句は、萩寺で詠んだ句ではない。

「おくのほそ道」の途中、加賀国(石川県))小松に滞在中、雨中の句会で詠んだものと云われ、「萩の名所」ということで、この地に建てられたものとみられる。

建立は明和5年(1768)だから、都内の芭蕉句碑のなかでは最古。

風雅な庭園には歌人、俳人の石碑が散在する。

 

「月や秋 あきや夜にして 十五日  螺舎一堂 」

 

「萩寺の萩おもしろし 
    つゆの身の
      おくつきどころ
    こことさだめむ  落合直文」

 

「槇の空 秋押し移り ゐたりけり  石田波郷

 たかむなの 疾迅わが背 こす日かな  石塚友二」

「聞きしより来て見や
 □野の染付はいふもさらなり
   萩のにしき手よ川めの 千載庵仲成」

境内には、ほかに万治2年(1659)、江東区最古で指定有形文化財の三猿庚申塔もある。 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-5(江東区ー2)

2017-11-15 18:34:29 | 句碑

前回の「芭蕉庵史跡展望庭園」は、芭蕉記念館の分館だった。

本館は、ここから北へ3,4分の所にある。

◇芭蕉記念館(江東区常盤1-6)

銅板葺きの屋根は、俳人笠に見立てたものと聞いたので、それが分かる写真を撮りたいが、引きの距離が短すぎてちゃんと撮れない。

館内の撮影は禁止。

抗議するつもりはないが、石の蛙まで撮影禁止なのは、解せない。

撮ったら悪影響がある、とでも言うのだろうか。

仕方ないから、カメラは専ら狭い庭園の句碑に向けられる。

 庭に入るとすぐ左に自然石の句碑。

草の戸に 住み替わる代ぞ ひなの家

「住める方は人に譲り」、「おくのほそ道」へと旅立つ前に、芭蕉が詠んだ句。

芭蕉の命日の昭和59年10月12日に建てられた。

揮ごうは、その当時の江東区長。

狭い庭に道しるべがあり、「左 芭蕉庵」とある。

左の石段を上ると昔の芭蕉庵を模した小さな庵があって

中に芭蕉の石の座像。

なぜか栗がイガに包まれたまま置かれていた。

その小庵の前に立つのが、

ふる池や 蛙飛びこむ 水の音

要津寺に残る江戸中期の書家三井親和の書を模写し、昭和30年6月、芭蕉稲荷神社に建立したものを、昭和56年、この地に移したのだとか。

持参資料によれば、庭内にもう1基「川上とこの川しもや月の友」があるはずだが、見当たらない。

館内に戻り、受付の人に訊いて分かった。

模造芭蕉庵の右奥、塀に寄りかかるようにある小碑がそれだった。

これまでの2基がそれ相応の大きさだったので、てっきり同じ大きさのものと思い込んでいたので、見逃していた。

昭和31年、芭蕉庵復旧の際に建てられ、昭和56年4月、ここに移された。

芭蕉祈念館別館史跡展望庭園入口の句碑と同じだが、芭蕉句碑の重複は避けられないようだ。

「古池や・・・」は、都内23区で8基もある。

 

芭蕉は「蕉風俳諧」で多くの人たちに多大な影響を与えた。

逆に、芭蕉自身が影響を受けた人といえば、仏頂禅師があげられる。

師は常陸・鹿島の根本寺の住職だった。

               根本寺(茨城県鹿嶋市)

根本寺の寺領をめぐり鹿島神宮といさかいが起り、幕府の裁定を仰ぐべく、折しも江戸に滞在していた。

その滞在先の臨川寺が、芭蕉庵から近く、仏頂禅師に心酔した芭蕉は、毎日のように参禅し、教えを請うたと云われている。

禅の教えが、芭蕉の精神と作句にどのような影響を与えたのか、それは私の能力を超えることで知りえないが、「遁世」とか「漂泊」とか、芭蕉について回る言葉は、禅的なものと無縁ではなかろうと思う。

 ◇臨済宗・臨川寺(江東区清澄3)

 

清澄通りに面してある臨川寺は、芭蕉寺と呼ばれたが、震災と空襲の2度の災害で、芭蕉に関わる寺宝を焼失、今は狭い庭地に模刻の「芭蕉由緒の碑」と「墨直しの碑」を残すのみ。

句碑はない。

「芭蕉由緒の碑文」の原文は

仰此臨川寺は昔仏頂禅師東都に錫をとどめ給ひし旧跡也、その頃はせを翁ここの深川に世を遁れて朝暮に往来ありし参禅の道場也とぞ。しかるに翁先立ちて卒し賜ひければ、禅師みずから筆を染てその位牌を立置れたる因縁を以て、わが玄武先師延享のはじめ洛東双林寺の墨なわしを移して年々三月その会式を営み、且梅花仏の鑑塔を造立して東国に伝燈をかかげ賜ひしその発願の趣意を石に勤して、永く成巧の朽ざらん事を更に誌すものならんや

 芭蕉は、深川で14年間暮らしていた。

だから、都内23区の中で、芭蕉句碑の数は、江東区が断然多い。

以下、ランダムに句碑を見てゆこう。

◇曹洞宗・長慶寺(江東区森下2-22)

 

資料によれば

「世にふるも さらに宗祇の やどり哉」

の句碑があるはずだが、「芭蕉翁桃青居士」の墓らしきものがあるだけで、句碑はない。

何処にあるのか住職に訊こうと庫裡の戸を開けたら、秋の彼岸の墓参の檀徒でごったがえしている。

あわただしく小走りに通り過ぎる法衣の男に声をかけたら住職だった。

「確かに昔はあったのですが、震災や戦災で失くなってしまったんです」とのこと。

昔の写真が、柵に掛けられている。

「芭蕉翁桃青居士」の墓石が所々欠け落ちているのが分かる。

どうやら句碑は、当初からなかったらしい。

芭蕉の歯と真筆の「世にふるも さらに宗祇の やどり哉」の短冊をこの墓に埋めたのだそうだ。

隣に其角や嵐雪の碑もあったらしいが、いずれも被災して消失してしまったという。

 地下鉄「森下駅」から「清澄白河駅」へ。

駅を出るとすぐそばに清澄庭園がある。

◇清澄庭園(清澄3-3)

 

今は都立庭園だが、前身は岩崎家、その前は紀伊国屋文左衛門の邸地だった。

全国の庭石があることでも有名で、佐渡出身の私としては、佐渡の赤玉石があるか気にかかる。

ちゃんとあった。

芭蕉の句碑は、庭園の奥の芝生広場にある。

高さ1メートル、幅2メートルの巨大な、ゆったりした自然石に

古池や 蛙飛びこむ水の音 はせを

と刻されている。

解説パネルがある。

当庭園より北北西400メートル程の所に深川芭蕉庵跡があります。松尾芭蕉は、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで、門人杉山杉風の生簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享3年(1685)の春、詠まれています。
この碑は、昭和9年に其角堂九代目晋水湖という神田生まれの俳人が建てたものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願いをしてこの地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあるというわけではありません。」

 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の石碑は、深川江戸資料館にもある。

◇深川江戸資料館(東京都江東区白河1)

 

 

深川の長屋の再現コーナーの一角にポツンと句碑がある。

解説パネルによれば、割烹「はせ甚」が寄託したもので、刻銘がないので、制作年代や製作理由は不明だが、彫りの形からかなり古いものと見受けられるとのこと。

 再び、仙台堀川沿いの採茶庵に戻る。

ここから南岸の川沿いの道は、清澄橋まて俳句散歩道になっている。

句は、もちろん、芭蕉の句。

10mおきに18句が並んでいる。

さくらの咲く頃は、素敵だろう。


132東京の芭蕉句碑巡り-4(江東区の1)

2017-11-05 09:32:36 | 句碑

「東京の芭蕉句碑巡り」の第1回は、芭蕉が「おくのほそ道」に旅立った千住大橋を中心としたものだった。

元禄2年(1689)3月27日(新暦では5月16日)朝、新しい草鞋を履いて芭蕉が出たのは、深川の仙台掘川に架かる海辺橋南詰の採茶庵でした。

◇採茶庵(江東区深川1-9)

採茶庵は、スポンサーでもあり門人でもある杉風(さんぷう)の別荘。

今、採茶庵の前には、草鞋を履き終えて、「よしっ」と立ち上がる前の、そんな芭蕉の姿があります。

住み慣れた芭蕉庵でないのは、長旅を覚悟して芭蕉庵を手放したからです。

「月日は百代の過客にして・・・」の「おくのほそ道」の書き出しの後半は

「(前略))もも引きの破れをつづり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まず)心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに

 草の戸も 住替る代ぞ ひなの家」

と、芭蕉本人が、そのあたりの事情に触れている。

家を譲り受けた家族には、女の子がいたことが、この句から察せられる。

 

では、その「ひなの家」になった芭蕉庵へ。

地下鉄の「清澄白川駅」を出て、清住橋通りを西へ。

交差する通りを右へ曲がると万年橋。

広重の亀の下に富士山が見える絵は、この橋からの景色です。

橋を渡って左折すると、すぐに「芭蕉稲荷大明神」の幟が見える。

◇芭蕉庵跡(江東区常盤1-3)

そこが芭蕉庵跡と云われている。

(*「芭蕉稲荷神社」は、芭蕉庵跡地に祀る稲荷神社の意。芭蕉はご神体ではない。しかし、江戸後期、芭蕉の神格化は進み、芭蕉を神と祀る社が出現する。神号は「花本大明神。富岡八幡宮にある祖霊社では、10月12日に例祭が執り行われている)

芭蕉に関する情報はあふれるほどあって、取捨選択に困るほど。

現地に立つ江東区教委の説明板が簡にして要を得ているので、転載しておく。

俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、まだここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。
しかし、当初が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。(芭蕉遺蹟保存会掲示より)

この説明板で触れていないポイントの一つは、日本橋からなぜこの地に移って来たかという理由。

それは今なお不明のままです。

日本橋のように、経済的にゆとりのある町人がいるから、俳諧の宗匠は成り立っているのに、場末も場末、人通りもないこの地に移り住んで、芭蕉は勝算があったのだろうか。

言葉遊びの俳諧を人生の機微をうたう芸術にまで高めた「蕉風」は、この芭蕉庵での14年間に確立された。

だから作句上の環境を求めての移転だったことも考えられるが、それは経済的な裏付けがあって成り立つことである。

芭蕉には、だが、勝算があったように見える。

日本橋時代より門人の数は減ったが、深川まで通ってくるのは、心酔者ばかりだった。

米が少なくなれば、誰かが補充しておいてくれた。

米ばかりではない、2度にわたり、芭蕉庵を再築したのも門人たちだった。

 

三次にわたる芭蕉庵の変化をその時代の句とともに紹介したパネルが、芭蕉庵跡から100mも離れていない、「芭蕉記念館 分館史跡展望庭園」入口にある。

◇芭蕉記念館分館史跡展望庭園(江東区常盤1-1)

少し長いが転載しておきます。

深川芭蕉庵
 ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝8年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の送った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄7年(1694)にいたる15年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。
 第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝8年(1680)冬から、天和2年(1682)暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ3年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
   櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙
   芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
   氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
 天和3年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、53名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが2つ、茶碗が10個と菜刀1枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。『野ざらし紀行』『鹿島詣』『』笈の小文』の旅はここから旅立った。
   古池や蛙とびこむ水の音
   華の雲鐘は上野か浅草か
   蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
 元禄2年(1689)『おくのほそ道』の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄5年(1692)5月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の赴きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。
   名月や門に指し来る潮頭
   川上とこの川下や月の友
   秋に添うて行かばや末は小松川
 芭蕉庵の所在地は、元禄10年(1697)松平遠江守の屋敷となり、翌元禄11年(1698)には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。
 平成7年(1995)4月 江東区

このパネルの横に句碑が1基。

 

深川の末 五本松といふ所に船を
 さして

 川上と この川下や 月の友  」  

小名木川の五本松で、川面に浮かぶ月を見ているが、川上の友人も同じ月を見ているだろうか

 

この句碑を左に見ながら、石段を上る。

墨田川の対岸からの光景を描いた絵図がパネルで重なりながら展示され、その奥に芭蕉が座している。

芭蕉の目線の先には、墨田川が流れ、左手の小名木川と合流している。

左を見れば清洲橋が、右を向けば新大橋が見える。

          清州橋

景色として、これ以上はない絶景地。

          新大橋方向

芭蕉がいた頃は見えた富士山が見えないのが残念だが。

芭蕉座像の背後には、芭蕉庵を描いた絵と文章のパネルが整然と展示されている。

いささか専門的過ぎて、重箱の隅をつつく感無きにしも非ずだが、ここでしか読めないものもあり、全部、掲載しておく。

ただし、野ざらしのパネルの再撮なので、絵は甚だ品質が悪い。

 

蕉庵再興集

明和8年(1771)に、大島蓼太が、芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興した。その記念集『芭蕉庵再興集』所載の図である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀った。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄松斎長喜。
(学習院大学蔵)
芭蕉文集
安永2年(1773)に、小林風徳が編集出版した『芭蕉文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には、筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く『句餞別』の編者でもある。
 芭蕉翁絵詞伝
蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環として芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に仕立て義仲寺に奉納した。その絵を吉田偃武に縮写させ、寛政5年(1793)に刊行した。図はその一齣で葭垣・枝折戸をめぐらした草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。笠は竹の骨に紙を貼り重ね、渋を塗り漆をかけて仕上げる。

 深川八貧図

蝶夢編の『芭蕉翁絵詞伝』の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄元年(1688)12月17日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠・依水・泥芹・夕菊・友五・曽良・路通の七人が芭蕉庵に集まり、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で「米買に雪の袋や投頭巾」と詠んだ。絵はその場面を描いている。(義仲寺蔵)
埋木(うもれぎ)の花
明和8年に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから55年後の文政9年(1826)に、平一貞がその著『埋木の花』に実見記録したもの。「古池や」の句碑は安永2年(1773)に深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和の筆。現在芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑はその模刻である。
 俳諧悟影法師
天保8年(1837)に鶏鳴舎一貫が著した『俳諧悟影法師』の巻頭に載せる図である。画者渓斎は浮世絵師池田英泉である。構図は小林風徳編『芭蕉文集』所載の図とそっくりだが、描線ははるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである
芭蕉翁略伝
天保14年(1843)は芭蕉百五十回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻窓湖中は編年体の芭蕉伝記『芭蕉翁略伝』を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化2年(1845)に刊行した。本図はその挿絵で、茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である。

  俳人百家撰

江戸の緑亭川柳が安政2年(1855)に刊行した『俳人百家撰』に掲載する図である。絵は天保5~7年に刊行された『江戸名所図会』所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が「古池や」の句を詠んだ古池が、松平遠江守の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。
深川芭蕉庵
雑誌『ホトトギス』明治42年1月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応2年(1866)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は19世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。
 

 芭蕉庵は、3度建て替えられた。

だが、共通しているのは、あばら家と芭蕉の木。

どのくらいのあばら家だったか、二世市川団十郎の『老の楽』によれば、

「桃青深川のはせお庵、へっつい二つ、茶わん十を、菜切包丁一枚ありて、台所の柱にふくべを懸けてあり、」

ふくべはコメ入れで、無くなりそうになると弟子たちが補充した。

雪の朝 独り干鮭を 噛得たり